京都大原紫葉工房便り

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岩村城の続き!(大手門~菱櫓まで)

2011-02-08 13:28:20 | 石垣のある風景(大原以外の!)
超!久しぶりの岩村城の石垣レポートの続きです
  その1 その2 

この9月の岩村登城ののち
安土や姫路に行きました。
そのレポートもありますので、急がなければ!

すっかり、半年前になってしまいそうですが・・・
その間に、小説や新書・マンガなどで
岩村藩や戦国・東日本の動きを勉強しました。



一見、片田舎の岩村ですが(失礼!)
どうして、その山の中に、こんな壮大な山城が築かれたのか・・・
(岩村は、岐阜県の恵那峡から愛知県方面に入ったところ)
織田信長が叔母を嫁がせたり、息子を養子に入れたりする必要があったのか?

地図だけ見ると、不思議でなりませんが

戦国時代の覇権争い
織田信長VS武田信玄 
その境界にあり、二つの勢力に翻弄されたのが
ここ、岩村

それ以前の古き時代にも
伊豆に本拠を置いていた、加藤景廉
…源頼朝の寵臣
平氏滅亡後に、遠山荘(岩村周辺)を与えられ
嫡男の景朝から遠山の姓を名乗ることになりました。
(桜吹雪で有名な遠山の金さんも、その子孫です)

何の変哲もない山村に移動させられたら、左遷と思ってしまいそうですが
実は、この遠山荘
大変な利権をはらんでいたのです。

キーワードは、木 曽 川

木曽川上流の豊富な山林
それを下流に運び、遠く京阪神などにさばかれます。

上流域の木材 → 木曽川で運ぶ → 下流域から各地へ → 寺社仏閣・城などの建築資材へ・・・

木曽川は、天然かつ巨大な流通システムであったのです。

加藤景廉は、本拠としていた伊豆地方で
山林経営のノウハウを培っていたようですし

織田氏においては、信長の父の代に、木曽川下流域で勢力を伸ばしてきた経緯もあって
木曽川上流域は、どうしても手に入れたい土地であったようです。

(秀吉の墨俣一夜城なんて、まさに、木曽川が味方したようなもんですよね)



そんなわけで(あまり説明になってませんが)
岩村には、難攻不落といわれるような、頑丈な山城が築かれたようです。

ほんと、ここに来てみると
一見、戦国の勢力分布図からはぐれたような、こののどかな場所に
どうして、こんな立派なお城があったんだろうと、不思議な気持ちになるのですがねえ。

前投稿の、立派な構造の大手門を過ぎると、
先ほどまでの「山道」から、一気に、お城の大手道らしくなります。



道の両側に、立派な石垣が並んでいます。



地図を見ると、ここは屋敷跡となっています。
手前の大手門の所にある、三重櫓が
外部の使者と接触する場所になっていたようですから

ここら辺は、岩村城のプライベート空間になっていたのでしょうか。





岩村城には、井戸が沢山あったようで
こちらは、竜神の井





向かって左側の敷地が、
八幡曲輪





写真の真ん中の坂道が
八幡さんへの参道で
階段の先に、八幡宮と二重櫓がありました。

八幡宮には、八幡神と
遠山氏の始祖の加藤景廉が祀られていたそうです。



大手道はさんで、八幡曲輪の反対側には
霧が井という井戸があります。



城主専用の霊泉で
敵が攻めてきたときに、城内秘蔵の蛇骨をこの井戸に投じると
たちまち霧に覆われて城を守ったと言われています。

この井戸の裏手が、二の丸になっていて
(つまり、大手道から見て、八幡曲輪の反対側の奥)
さらに、その向こうに、包み込むような形で本丸があります。



二の丸は、現在は私有地になっており
鬱蒼とした山林と化していました。



唯一、二の丸のランドマーク的存在
菱櫓



見ての通り、ひし形
鈍角になっていて、優しい印象だけど個性の光る石垣です

そして
菱櫓越えたら、いよいよ
お待ちかねの、本丸

石垣ファン待望の壮大な風景が待っています




~~~ つ づ く ~~~

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