京都大原紫葉工房便り

京都洛北・大原の里のしば漬屋から、毎日!情報発信。

安土城散策。

2012-10-19 10:50:19 | 近江の石垣。

10月17日の水曜日。

日曜の彦根城に続いて、安土城に行きました。

小雨です

 

気楽な山登りという感じ。

新しいデジカメになってからは初めての登城なので、楽しみです

思い立ったら、すぐ行ける・・・滋賀県良いですね

 

大手道の左手は前田利家邸跡です。

 

反対側の羽柴秀吉邸に比べると、復元された敷地が少なくて、薄暗い・・・

そのせいで若干存在感が薄いかも

 

こちらは前田邸の玄関、といったところかな・・・

屋敷は、この階段の右手の奥になります。

 現在は藪になってます

大手道お向かいの羽柴邸は開放的な造りです

両屋敷を眺めつつ、大手道をしばらく登ると・・・

楽しみなのが、この眺め・・・

 

振り返りますと・・・

 絶景です

石段も石垣も町の景色も美しい

 

運が良ければ、新幹線も見えますよ。

東海道線沿いなので、しょっちゅう貨物列車の音がします。

寂しくない

それが、安土山登山のうれしい所

 

また、ちょっと上がって、振り返ると・・・

 見寺

安土城と同じく、織田信長建立のお寺です。

休日には特別拝観をされているそうなので、行ってみたいですね

 

この坂を上がりきったら、平らな尾根道になり、

天主跡へ上がる道と、旧見寺の敷地への道と分かれます。

 

先に天主方面へ・・・

二の丸への入り口。黒金門前。

木で隠れてるけど、二の丸や天主の正面に当たります。

 黒金門。

ひときわ大きな石が使われていて、迫力がありますよ

お城らしくて、一番好きな場所です

比較的直線部分の多い大手道ですが、

ここはお城らしく曲がりくねっているので、方向感覚が分からなくなります

 石の並びがとてもきれいです

 黒金門~二の丸・本丸へ向かう道。

建物が残っていたら、どんなに素晴らしかろう、とも思いますが、

それを想像する余地を残してくれている~

それもまた一興かな、と思います

階段上がって、左が二の丸、右が本丸へと分かれます。

 左・二の丸と信長廟への階段

 こじんまりした二の丸

先ほどの分岐点から、天主の石垣横を通って、本丸に向かいます。

 

この奥に本丸御殿があって・・・広い場所でした

 

本丸から、階段を上がって、天主跡・・・

 

往時はさぞかし絢爛豪華だったことでしょうが、今はこんな感じ

寂しい場所だけど・・・

でも、この天守台の大きさはタダものじゃないと思う

やっぱりデカいです

現存してたら、管理が大変だったでしょうね・・・

 

ここまで来たご褒美は、琵琶湖の眺めです

新デジカメでは、この田園風景も撮りこめていて、うれしいです

天守台より、本丸取付に下りる階段 

複雑な石垣の感じがいいなあ~

 二の丸~黒金門の道を戻ります。

黒金門を出てから、旧見寺跡に向かいます。

天主から尾根づたい、西向きに道が続いています。

階段登りきると、広い場所に出ます。

ざっくばらんな場所に、こんな立派な三重塔があって、びっくりします

ちょっと広めの段々畑状の敷地と言ったらよいのか・・・

西の湖一望で眺めの良い場所

湖畔の集落が、なんとも近江らしく感じます

モミジが色づいたら、さぞかし華やかでしょうね

下り坂と山門。

たしか応仁の乱ごろ作の仁王像。

ほんまざっくばらんに、すごいものが見れる場所です

6年くらい前から、安土山は有料になりましたが、それまでは、受付もなく、

自由拝観でした

今は、管理されてる分、ワイルド感は薄くなりましたが、

でも、説明板とかがあって、分かりやすくて良いですね

 

勉強にもなって、運動にもなって、大好きな場所です

秋の散策にオススメですよ~


昨秋・安土城散策。

2011-03-08 14:27:49 | 近江の石垣。
先日投稿の岩村城記事に引き続き
すっかり遅くなってしまった・・・

昨秋、秋の観光シーズンが始まる前の10月に
「最後の遠出」と、銘打って出かけた
安土城について投稿します。



安土城のある山。

こちら、地図で見ますと、琵琶湖に近いような、でも山に近いわけでもなく
結構分かりにくい場所にあるんですが

琵琶湖大橋からは
湖岸道路・彦根方面に向かい
日野川を過ぎたあたりの交差点から右折
しばらく直進したところから県道2号線・彦根方面に入ると
その道路沿いに、城跡があり
迷わずに行けます。(大原からは一時間)
(どうして、わざわざ道案内をしたかというと、このルート発見して、うれしかったから)

この辺は、道が京都のように碁盤の目になっていないので、
方向感覚がおかしくなって、すぐに迷ってしまいます。
(安土城も、近江八幡城も迷うんですよ)

今回は、若!がいなかったので
私の運転・子達三人連れて行きました。

他の城跡なんかは、うら寂しい所が多いので
女子供だけで行くのは不安ですが
天下の安土城は、山!と言っても、いまや超メジャーな観光地になっていて
(ちょっと皮肉は入ってますが)
子供連れにも優しい場所です



来るたびに、ゴージャス化している安土城

最初に来たときは、まだ無料で、入り口の芝生養生中でした。
(トイレは古くて和式)
二回目に来たときは、有料になっていて
三回目に来たときは、受付横に自動販売機が設置されて、
立派な観光トイレと休憩所が出来ていました。

戦国マニアとしては複雑な心境でしょうが
子どもを野放しにしていても安全なので
有難いことです。



今回、三回目の登城。
人より違った場所を見たくてしょうがない・・・・

大手道・向かって右側の
前田利家公の屋敷跡を観察しました。

反対側の羽柴秀吉屋敷に比べて、何となく目立たないし、
それに、みんな、天守閣目指して上向いてるので、あまり気づかれないポイントです。



この石垣の右側に水路のようなものがあって・・・

「前田邸の木樋(きとい)」
貴重な遺構であるとか、書いてありました。
(けど、数か月前のことで、すっかり忘れてしまいました



中央の大手道。
とにかく立派です。

受付のところから、百メートルほどの真っ直ぐな道が続いたのち
階段が左に急カーブしています。

(階段がカーブしている所から見下ろした風景)


遠く、JRや新幹線が走っているのも見えて、良い景色です。
向こうに見えている山には、有名な観音寺城があり
麓には、安土考古博物館があって
安土・観音寺、二城のことも詳しく展示してあります。

手前、大手道の向こうに見えているのが
總見寺の仮本堂。
織田信長の菩提寺で、安土城の管理をされています。





石段は、曲がった先からは、グネグネしています。

ひたすら長い石段・・・



この最後の石段を上りきった所に總見寺の本堂跡がありますが

そこに行く前に…
この階段までの、屋敷跡がある平坦な道


(左・来た道→右・總見寺の本堂跡
 手前・琵琶湖方面に向かって、本丸に向かう道が続いています)

大手道は、この屋敷跡の平地で右折していくことになります。



その道の入口のある黒金門跡。
(逆行がきついのと、画面に入り切らない大きさで、良い写真がないのが残念)



突き当たって、すぐ左折の虎口



左折したら、すぐ右折




(ちょっといびつな合成写真?)

右折の後は、二の丸の高石垣に突き当たって、また右折



↑右折の後の左折

二の丸の石垣と比べても、
黒金門の虎口の石垣は、大きくて立派です。



黒金門より内は、二の丸~本丸

家臣の屋敷群とは区別して、
信長のプライベートルームだったそうです。

石垣の立派さは、それを象徴しているかのようです。



武骨な感じの石垣で、安土城一のお気に入りになりました。(私のね)


(二の丸・信長公本廟のある敷地)



信長公のお墓は、京都市内にもいくつかありますが
やっぱり、ここが元祖!といった感じですね。


(本廟の横はすぐ天主閣の石垣がそびえていました。)


(天主閣の石垣)
 


さぞかし立派だったろう天主閣の姿は、想像するしかありませんが
この苔むした天主台の大きさを見るだけで、どれだけ権力が大きかったか
当時をしのぶことができます。



奥の広い敷地には、天皇を招き入れる設備も備えた本丸御殿があったそうです。


(天主閣から見下ろした図)

この本丸御殿の横をぐるっと歩いた所に、天主閣に上がる階段がありました。



この天主閣、どんなでっかかったんだ?と思わず突っ込みたくなる
なんて長い階段

お気に入りナンバー2

天主台でこんな長い階段は初めてです。
(後は、大阪城くらいかな)



天主閣の礎石

子どもの遊び場にはもってこい?



ここからの琵琶湖の眺めはサイコ~でした
逆行がきつくて、まっしろにしか写らなかったのが残念

次回はきれいな写真をお見せしたいですね



人気が少ない場所の、二の丸石垣
ひなびて崩落した石垣も・・・

やっぱり、こういうのが一番好きです


(さっきの、長い石段の最終部分)

先ほどの場所まで戻って、總見寺の本堂跡へ・・・



石段横のこの目立たない石垣が
敷地内最高の石垣とお見受けしましたが
さて、いかがなものでしょう。



本堂の敷地には、こんなりっぱな三重塔も



数年前までは拝観自由・無料だったのは、信じられん話です



石段下にも、立派な山門



こんな変化にとんだハイキングコースはなかなか無いですよ
愛宕山同様、大好きな場所です。
(歴史散策・体調管理の一石二鳥です

きっと今頃は、大河ドラマの影響でごった返してることでしょうが
ブームの落ち着いた頃、ぜひ出かけてみてください

織田信長はどうも好きになれんけど、一大テーマパークを作ったところは好感持てるかも

坂本・旧竹林院。

2009-02-02 21:06:14 | 近江の石垣。
おとといの・・・土曜日
おじいちゃん達と一緒に
近江坂本の
旧竹林院に行ってきました。



旧竹林院は
坂本の里坊のひとつ

里坊とは
延暦寺の僧侶の隠居所だそうです。



その旧竹林院で
盆梅展が開かれています。



提灯が飾ってあって
わりと親しみやすい雰囲気です。

入ってすぐの場所には
坂本城の絵がありました。



有名な大津絵もいくつかあり
近江らしさを醸し出しています。



それほど大きくはない敷地ですが
背景の庭園が盆梅を引き立てていて
素晴らしい!



見ごろは、もう一週間ほど先かな。
いやいや
花は咲いてなくとも
素晴らしい老木・古木のオンパレードです。

その中の
見ごろの梅



咲き分けの梅も
淡い色でなんとも可愛らしい





それにしても
鉢植えのカメラ撮影は難しいですね。

花だけでなく
幹・枝つきの素晴らしい盆栽は
アップよりも全体像を撮りたいのですが
そうすると花自体の美しさが分かりにくい・・・
どうやったら綺麗に撮れるのか悩んでしまいました。



う~ん微妙です。
本物の美しさは
是非!現地で実感してくださいね。



盆梅展だけでなく
外のお庭も拝観できますが
雨が降っていたし
この日は省略しました。

天気のいいときに
また訪れたいと思います。



雨にぬれる 石垣の うつくしさかな



梅雨時期
雨で艶めく石垣の見学ツアーも
なかなか良いかもしれません。


長浜城跡。

2009-01-28 13:57:49 | 近江の石垣。
この間の日曜日(25日)
近江の長浜城に行ってきました。



(長浜城)

織田信長の小谷城攻めで
功績の認められた
木下藤吉郎
(→以後、羽柴秀吉と名乗る)
滅亡した浅井家の大部分の領地を与えられ
この地に城を築きました。

それまで今浜と呼ばれていたこの土地を
長浜と改め
交通の要衝とすべく
城下町の建設を進めていきました。

当時の秀吉がどこまで考えていたかは
定かではありませんが
・日本海と太平洋とを結ぶ中継地点
・琵琶湖水路
・関東と関西の境目(入り口・出口)
・北陸の入り口
・・・
(自分の小さな頭でちょっと考えてみた)

まあ、全国に先立って鉄道開通されたという
長浜ですから
(明治政府も長浜にかけていたのです!)
(長浜・『長浜スクエア』編に続く)
いかに利点の多い土地か分かります。

(注:最初の投稿時点で、日本最初に開通と書いてましたが、それは誤り
 本当は、東京~横浜?開通から遅れること10年でした
 でも、本州では、大阪~大津に次いで3番目の開通)

少なくとも
そのような土地を
信長自身が治めるのではなく
秀吉に差し出したわけですから
いかに信長に信用されていたか分かります。

しかし
すごく残念なことに
(秀吉の後も数人の城主に受け継がれたのですが)
豊臣家が滅亡すると
長浜城は徹底的に解体されてしまいました。
石垣など多くの資材が
彦根城建設のために使われました。
今では
遺構がほんの少し残っているだけです。

城の絵図面もまったく残っておらず
いったい長浜城がどんな姿をしていたのか・・・
明智光秀の坂本城並みの謎の多さ?
みたいです。

徳川幕府
豊臣家の再興を恐れての所業でしょうか



長浜城、唯一の直接的(城跡で見れる)遺構は
『太閤井戸』です。
もうちょっと、柵があったり
仰々しく飾ってあるものかと思いましたが
むき出し
これだけで、寂しいものでした。

豊公園の琵琶湖畔にあるのですが
何しろ波がキツイ!


(井戸は右端です)

近くで遺構の詳細を確かめたかったのですが
波にさらわれそうで、怖くて近づけませんでした。

井戸跡から、数十メートル上がったところに
天守閣跡の碑と
豊臣秀吉の像



もうちょっと調べたら
まだまだ遺構はあるかもしれませんが
基本的に
残っているものは少ないみたいです。
(がっかり、というか
 そんだけ豊臣家の再興が怖かったんやね~という感じ)

それでも
現代の学術調査はすごいもので
こ~んな復元図があり
なんとなく城下町の姿は想像できます。



現在
内堀や湾のような部分は
すべて埋め立てられていますが
その昔は水城だったのですね。


これだけでは
すごく寂しい投稿で終わってしまいそうですが・・・



復興天守に入城してきました。



昭和58年、市民の寄付金などをもとに建設され
中は歴史博物館となっています。



お城の第一印象は
「小さいな」でしたが
歴史の経緯を知ると
愛おしさをも感じます。



そうそう
長浜城は
山内一豊公が初めてもらったお城でもあります。
(3代目の城主)
(辻しば若!は和豊です)

ブログ開設1年目の大河ドラマ
「功名が辻」の時にずっと行きたいなあと思っていましたが
行けずじまいでした。
やっと来れました。

城主となってから程なく
初めての子供(よね姫?)が生まれたのですが
大地震で亡くしてしまった

ど~しても我が子とダブってしまって
あの回はまともに観れませんでした。

(その後、一豊が高知に入城してからの残虐シーン?
 一豊公の施政も結構残忍なのがありますから・・・
 ドラマのあらすじを読んだだけで、観れませんでした
 どうしても、我が家の和豊公と重ねて観てしまうんですよね)
 


お城の中は
歴史博物館
ロビーには、滋賀県関連の歴史資料がたくさん売ってあって
宝の山?に見えました。
もちろん、ひこにゃんグッズみたいな可愛いお土産も
たくさんありましたし
狭いわりには
なかなかミュージアムグッズが充実していました。

展示品は
お城の資料もあったと思いますが
それより
地元のお祭り「おこない」についての展示が面白かったです。

つい先だって
我が町内上野町でも「おこない」行事があり
たぶん、それと同じような趣きの風習だと思いますが
ところ変われば品変わる?
興味深い展示でした。

お城の最上階は
お決まり?の展望コーナー
いい眺めだけど
雪がちらついてて
とにかく寒い!



お城の北側かな

中央の大きなマンションの左となり
富士山みたいな山の右側が
賤ヶ岳(しずがたけ)・・・柴田勝家との戦い
マンションの右側が
小谷城跡・・・浅井長政の城
だそうです。



お城の東側は
関が原方面
伊吹山があるのですが



すごい雪雲で
姿が見えませんでした。



こちらがお城の正面かな
綺麗です

長浜では
この時期、盆梅展が開かれていて
温泉・黒壁スクエアなどとセットで観光されることが多いみたいです。
長浜市観光協会

石垣の街。

2008-06-02 20:27:34 | 近江の石垣。
昨日投稿の石垣

中世の石工集団・穴太衆の本拠地
比叡山のお膝元
近江の坂本です。


(比叡山高校の横・坂本ケーブルの入り口の石垣)

前々から行ってみたかったのですが
大原からは中途半端な距離で行き損ねていたのと
(あまり近いとねえ・・・)
いまいち、駐車場などの情報もなく
子達を連れて行くにはどうかと
いろいろ躊躇していたのです。

しかし
先週、道の駅米プラザで
坂本ケーブルのパンフレットをもらって帰って、情報収集!
駐車場の心配はなくなったので
行くことにしました。

「蕎麦」食べて「ケーブル」に乗るよ!
と子達を誘導し
それでも、騙されなかった長男は
「留守番する」と言い
次男・長女をお供に行って来ました。

「蕎麦」
坂本名物の鶴喜そばか日吉そばに行こうと思っていたのですが
次男たっての希望で
いつもの、堅田の美登路に行きました。
彼曰く
「涙が出るほど美味い」んだそうです。
行くまでに、何度も「涙が・・・」を連発していました。
これについては、のちほど投稿するので割愛。

「ケーブル」
駅は文化財になっているほど古い建物で
写真を撮りまくりました。
これも、のちほど投稿。

皆さん
お待ちかね?の石垣について速報することにします。


(日吉大社参道の一本西の路地・ちょっと沖縄っぽい)
(ハイビスカスでなくて、ツツジ)

米プラザでもらった坂本パンフレットによると
町のいたるところ
穴太積の石垣が美しく
見所満載のようでした。

長男だけがお供ならともかく
根性のない次男とわがまま長女を連れてますから
コース設定には、そこのところの考慮が必要です。

車は、ケーブル駅(山麓)近く・滋賀院門跡の裏に停めていましたので
ケーブルから降りたあと、すぐに連絡バスに乗って
琵琶湖よりの京阪坂本駅前で下車

そこから山手に向かってお散歩しました。
(約500メートルほどの道のりです。)
駅前の日吉そば横から、西方向の路地に反れ
上の写真の路地に進入

参道はそこそこ賑やかですが
ここまで来ると、日曜とはいえ静まり返っていました。

石畳風に舗装してあり
道沿いは民家かお寺さんですが
いずれも、こじんまりながら美しい石垣が施されていました。
(すでにギブアップの長女をおんぶしながらの散歩でしたので
 なかなか写真が撮れず残念!)

路地は、比叡山に向かって、緩やかな勾配があり
ちょっと歩いてから振り返ると
琵琶湖が見えて、良い景色~


(路地のどんつきが比叡山中学、左方面に行くと滋賀院門跡)



ケーブル駅で見た資料では
坂本の中でも、最も立派な石垣があるのが
滋賀院門跡!と書いてあったので
ピンポイント
そちらに行くことにしました。



ジャーン!!!
威風堂々としています。
白壁に石垣が生えて、重厚感たっぷりです。

とゆ~か
どこかに似ているなあ・・・

って


(滋賀院門跡の正門)

我が地元
大原・三千院門跡とよく似ています


(こちらは、昨年秋の三千院門跡)

そういえば
三千院も、穴太積の石垣なのでした。

大原から仰木峠越えて横川
そこから尾根づたい~根本中堂~
反対方向に下山すると
坂本

当然のこと
大原との縁も深かったことでしょう。



立派な石垣でした!!!

坂本には、まだまだ行かなきゃ~いけないところが
たくさんある!!!

出来たら、子達が居ない時に大人だけで行きたいなあ~

まあ、近いので
お蕎麦をエサに
ちょくちょく来ることにします。


大津市歴史博物館。

2007-12-09 19:23:07 | 近江の石垣。
今日は、子達とお出かけする予定にしていましたが。
どこへ行こうか、迷ってしまって、なかなか決まりませんでした。

どうせ赤子は車の中で寝てしまうから、近いところだと、すぐに起こしてしまうことになって機嫌が悪いし。
あまり遠くだと、運転しなれていないので、心細い・・・

あれこれ思案していましたが。
まあ。
かねてから自分の行きたかったところにするのが一番だろうと・・・
大津市歴史博物館に行くことにしました。
大津城・膳所城・坂本城の企画展示があるから・・・
終了までに絶対行きたいと思ってました。
(結論から言うと、期間を覚え間違いしていて、もう終了していたんですが。)

しか~しね。
博物館までの道程が・・・私、初めて運転するところだったので、かなり緊張しました。
国道でしたし。
(田舎もんくさいですが。)
渋滞の名所ですので、それも嫌でした。

案の定、地図を見ながら、抜け道をちょろちょろと通り、なんとか到着しました。
(本当はね、湖西道路という車両専用道路があるのですが、やっぱり怖いので、やめておきました。)



歴史博物館は、三井寺の横にあります。
言わずと知れた、延暦寺のふもとに位置しますから、なにかと歴史的名所の多いところです。



石垣を基調としたらしい建物。
私には、嬉しい場所です。
場所柄、穴太積みを意識した石垣なのではないでしょうか。



この時期、企画展示もないので、入場者は少なく、ひっそりとしていました。
暖を求めにきたようなオッサン一人と、一家族だけでした。

かろうじてミュージアムショップはありましたが、喫茶店や自動販売機もなかったし、仕方がないことかもしれません。



でも、少なからず大津の歴史に興味のあるものには、とても面白い展示がしてありましたよ。

私の面白かった・・・
一つは、堅田集落(米プラザ周辺)独特の自治組織の歴史について。

も一つは、大津絵の展示。
大津絵は、もともとお土産品として作られたものだから、芸術品というよりは、民芸品という趣があります。
だけど、実際目にした大津絵は、色鮮やかで、筆で一塗りで書かれたような潔さのある、美しい絵でした。



手前が比叡山の山並みに大津市庁舎。
奥に小さく見えるのが、比良山系です。
雪かぶってますね。
どうりで寒いはずです。



帰りは、お約束のマクドへ。
せっかく、母に付き合ってくれたんだから、ご褒美です。

博物館、はっきり言って、未就園児の来るところではありませんが。
子達は、身近な地域の歴史に触れることが出来て、それなりに楽しそうでした。
(歴史の迷路の本や城攻めの本のおかげです。)

帰り道は・・・
また、国道の渋滞に巻き込まれるのはかなわん!と思ったので、気張って山中越えを通って帰りました。
(う~ん、一人前のドライバーの仲間入り?)
つまりは、比叡山系をぐるっと一周して帰ってきたわけなのですが・・・

次男。
いつもの(北向きの)琵琶湖の道に行ったのに・・・
帰りは、幼稚園の道になったから、「なんでなの?」と不思議そうにしてました。

あ~、子供って面白い!と思う瞬間。
おうちに帰って、(寝室にはってある、京都市街の)地図見て、一緒に勉強しようね~、と言っておきました。



ミュージアムで買った、大津絵の絵葉書と、見損なった前回企画展示の解説書を購入しました。

展示についての詳細が書かれているので、結構難しい・・・
睡眠導入書としては最適かも。


還来神社 2 

2007-12-02 21:44:13 | 近江の石垣。


基本的には、観光名所ではなく、ひっそりとした地元の社、という印象の神社です。
実際、印象を裏切らず、私たち以外は参拝者も居なくて、静まり返っていました。

ひやかしではないよ。
ちゃんと、お参りに来たんだから・・・
と自分に言い訳してみます。
それくらい、静寂に包まれていて、その空間に踏み入るのを申し訳なく思ってしまう・・・



還来神社。
その字の通り、旅立つ人が、無事に帰ってくるようにお祈りをするところです。

毎日きちんと掃き清められているようで、落ち葉が寄せられている・・・
子達が、喜んで落ち葉をかき集めているぞ・・・
申し訳ないです・・・

もうすぐ催事が始まるし、若!の無事でも祈るか・・・





還来神社の由縁をたどってみると・・・
相当古く、ナクヨ(794年)ウグイス平安京を作った桓武天皇の妻・藤原旅子を神として祭ったのが始まりだそうです。

・・・・市が発行した「大津の伝説」によると、還来神社は、桓武天皇の皇妃で淳和天皇の生母、藤原旅子が三十三歳の若さで病気で亡くなった際、「故郷、比良山の南麓のなぎの木の根元に葬ってほしい」と遺言を残し、死後再び生誕の地に戻ったことから神として祭られたのが由来だ。・・・・
(京都新聞・ふるさと昔語りより)


(神木椰が祭られています。)

・・・・彼女の死後、その遺言によって生まれ故郷の梛(なぎ)の木の下に埋葬された。同社には神木椰の古木が残る。・・・・
(大津市歴史博物館のホームページより)



さて。
ここで、ややこしい内容となりますが。
恒例?の、妻!の歴史話。

ナクヨウグイス平安京に桓武天皇が遷都したのは、あまりにも有名な話ですが。
(794年、ちなみに遷都1200年目が1994年、その前の1100年目の記念・1894年に作られたのが岡崎の平安神宮、のはずです。)

それ以前・・・
都は、長岡京に造営されていました。
(つまり、平安京を作る予定ではなくて、もともとは長岡京に永住するつもりだったわけです。)
しかし、長岡京において、あまりに不吉な出来事が続いたから、桓武天皇が都を移すことにした・・・んですね。
「これは、早良親王のたたりだ!」と。



話を掘り進めますと・・・

長岡京において。
桓武天皇の後継者・次期天皇を選ぶにあたって、争いが生じていました。

桓武天皇の息子  桓武天皇の弟の早良親王
(早良親王を後継者に推したのは、桓武天皇の父でした。)

皇位継承をめぐって、びみょ~な空気が流れる中・・・
785年、桓武天皇の留守中に、長岡京造営の最高責任者の藤原種継が暗殺されました!

怒れる桓武天皇は、疑わしきものを捕らえ、次々処刑していき・・・
弟・早良親王も、その一人として挙げられ、乙訓寺に幽閉されました。

早良親王は、無実を訴えますが。
同年、不遇のうち、絶食という形で桓武天皇に抗議しながら、亡くなりました。

それからのち、桓武天皇のまわりでは、不幸が立て続けに起こりました。
近親者の病気や病死。
786年には、桓武天皇の妻であった藤原旅子の母が没し、788年には、ついに旅子自身も病没してしまいました。
その他、桓武天皇の実母や近親者が次々病に倒れました。

都にも疫病が流行し、天災も起こる・・・
これらを陰陽師に占わせると、亡くなった弟・早良親王のたたりであるとのこと。

桓武天皇は、あわてて早良親王の墓所に使者を送り・・・
何とか、霊を鎮めようとしました。



早良親王の祟りと、どれだけ関係があるかは計りかねますが。
ともかく、不吉な長岡京を離れ、794年、平安京に都が移されました。

その後も、不吉な出来事は続き・・・
800年、早良親王には、祟道(すどう)天皇の尊号が贈られ、後、神として祭られることとなりました。

洛中の上御霊・下御霊神社は、早良親王らを神として祭った、御霊信仰の神社です。
また、洛中から大原に入る手前の、上高野には(国道367号線沿い)には、早良親王を祭った祟道神社があります。


(それとはしらずや、綺麗な紅葉。)

歴史話。
オチがあるような、ないような・・・

つまりは・・・
図らずも?早良親王を祭った祟道神社と、若くして病死した桓武天皇の妻・藤原旅子の還来神社は、車でせいぜい20分ほどのところにあります。
都なんて、狭いものだから、そんなものか・・・
いやいや、それが縁というものか。

不思議だなあと、ため息。



(ここは城址デアル、と言われたら、すっかり真に受けてしまいそうです。)


(一番右の円柱上の縄紐に、おみくじを括り付けるようになってました。)

今ではひっそりとしている還来神社ですが。

・・・・約四百年後の一一五九年、平治の乱に敗れた源頼朝が敗走中に同神社に立ち寄り、源氏再興を祈願した。後に平氏との戦いに勝利し、無事京都に戻ったことから、戦乱の度に多く参拝者が訪れるようになった。・・・・
(京都新聞・ふるさと昔語りより)

先の戦争中には、出征して行く人たちの無事を祈るため、多くの人が参詣してたそうです。
歩くにはちょっと遠い、JR和邇駅から長い列が出来ていたとか!

え~、まじで!と思いますが。
なんだか、切ないお話です。

今でも、お礼参りに来る方も居はるとか。
隅々まで手入れされた社中を見ていると、うなづけました。
空気がピーンと張り詰めた、良い神社でした。








埼玉・浦和伊勢丹にて出張催事が始まります。
12月5日(水)から11日(火)まで、一週間です。
「師走の味 北から南から」に出店いたします。

今回、ブログ感謝企画としまして、
「ブログ見ました。」と合言葉に、先着5名さまにスペシャルプレゼントを差し上げます。
(松屋藤兵衛のふやきです。)

一月・関東催事におきましても、計画中です。
お楽しみに・・・

彦根城

2007-09-06 08:12:40 | 近江の石垣。
 日曜日に行った彦根城の続きです。

 お堀から城郭、庭園まで、保存状態の良い彦根城は、とにかく広い!



 我々は、天守閣の南側に位置する大手門前の駐車場から入りました。

 広いお城の散策・・・
 お堀をめぐる屋形船や、人力自転車のベロタクシー(でしたっけ?)があり、かなり魅力的でした。
 (自転車こぎの運転手さんは、若いお姉さん!
  かなり小柄な人なのに、足はムキムキ!でカッコよかったです。
  子達の憧れです、筋肉は・・・)

 我々は、大手橋から内堀を渡り、入城しました。



 現役?のお城は、とにかくお堀からして立派!
 城跡ばかり見慣れてしまった身には、かなりの感動でした。


(たぶん、長男の認識では、「お城=石垣」のイメージが染み付いてしまってるのでは・・・。
 間違ってはないけどね。
 城跡ばかり見せてる母親のせいです。)



 世界遺産に、もう登録されているのでしたっけ?
 とにかく、石垣の保存状態が良い・・・
 も~~~、感動のあまり、息がつまりそうでした。



 城づとめのお侍さんがこの道を往来していたのでしょうか?
 赤子が居なかったら、ダッシュしてあがるのですがね。

 先日投稿した天秤櫓など通りぬけ。



 ジャ~ン!!!
 天守閣です。



 本当は、価値ある天守閣の中をお見せするべきなのですけどね。

 誰も写真撮っていなかったし・・・
 ここは撮影禁止なの?
 特に張り紙などないのだけど・・・
 誰も写真を撮っていない!
 結構混んでいたから、これで撮影禁止だったら、すごいヒンシュクを買いそうだ・・・
 というわけで、撮るのは止めておきました。
 (実際のところ、どうなのでしょうか?)
 

 
 天守閣で唯一撮った写真。
 瓦です。
 
 やっぱり、八幡瓦なのでしょうか?
 勉強不足ですので、これから調べてみなければいけません。
 (いけません!というほどじゃないけどね。)
 ぜひとも、近江八幡のかわらミュージアムに行ってみようと思います。



 彦根城・天守閣の北側の石垣です。



 も~~~、この辺が、ザ・世界遺産!という感じだなと思います。
 この石垣を築くのに、どれだけの人出がかかっているのだろう・・・

 ここから、北側の玄宮園に向けては、かなり急な山道を降りました。
 足のひざ関節にそ~と~こたえます。


(よく時代劇の撮影とかに使われる玄宮園。
 岡山の後楽園みたいに、借景に天守閣が入ってます。)

この庭園で特筆すべきは・・・



 この橋の土台の石垣の美しいこと。
 お城らしいな!と思います。

 他の庭園でも、このような石垣の使われ方をしているのでしょうか?
 今度、意識して見てみようと思います。


(今回の目玉!)

 

 圧倒されました。
 さすがは、江戸幕府大老(かな?)井伊直弼のお城です。


彦根城で連想したものは?

2007-09-03 14:36:15 | 近江の石垣。
先程の投稿の、天秤櫓を抜けてから、本丸へと向かう道を撮りました。



私、この風景をみて、ゾクゾクっと鳥肌が立ちました。
(いや、これは武者震いなのか?)
ある風景とそっくりだったから、驚いたのです。

それが、こちら。



今年の4月8日に安土城跡に行ったときの写真です。
似ていませんか?

城だから、当たり前のことなんですけど。

つわものどもの夢の跡・・・
安土城の、賑やかだった往時の姿が浮かんできました。

ますますお城にはまってしまう妻!なのでした。

彦根城プロローグ(彦根の旅路・番外編)

2007-09-03 14:02:03 | 近江の石垣。
 彦根城に行きました。

 鐘の丸と天秤櫓を結ぶ廊下橋から、パチリ。
 


 この天秤櫓の、向かって右部分の石垣は、牛蒡積みとかいう・・・粗野ながら、強固なつくりになっています。
 (左半分は、改修時に作られたそうで、別の積み方になってるそうです。)

 なんとなく、石垣の雄大さを表すべく取った構図でしたが。
 もしや、バックに写った背景の山は、石田光成の佐和山城では?

 あ~~、う~~~
 昨夜、国土地理院の地図で調べてみたのだけれど、どうにも釈然としません。
 
 佐和山城の簡単な目印は、佐和山美術館とかいう施設の、城のバッタもんみたいな大きな張りぼて?だそうでして。
 そういえば・・・
 天守閣から、そんなのが見えてました・・・
 けど、だれも写真撮らないし。
 人が多くて、撮る気がしなかった・・・

 けど、やっぱり撮っておけば良かったです。
 うっすら、佐和山城?と思ったんですけどね。
 後悔先に立たず、です。

彦根の旅路。

2007-09-02 21:31:23 | 近江の石垣。
とても嬉しいことに・・・
今日は、午後からおじいちゃんに彦根城に連れて行ってもらいました。



京都は、朝から雨天気で、ドンヨリしていたのですが、こちらはなかなかの上天気でした。

キングオブ近江城ですので・・・
彦根城については、ゆっくり明日投稿することにして。

今日は、行き帰りに見た風景について、投稿したいと思います。
(かなり、マニアックに仕上がりましたので、みなさん覚悟を!)

我が大原から彦根まで・・・
琵琶湖の周辺は、太古の昔から、京への要衝として栄えた土地です。

であるからして、当然、お城が多くあったわけです。
とりわけ、戦国期に関しては、織田信長らの本拠地(岐阜・尾張など)から京への通り道として、数々のお城が建設されました。

有名どころを取るだけでも・・・
織田信長の安土城
豊臣秀次の八幡城
(彦根の先には)石田光成の佐和山城や浅井長政の小谷城
長浜には、豊臣秀吉や山内一豊の長浜城など、あります。

で。
私達の、今日のドライブコースの一部です。



大原から、車で約一時間の近江八幡周辺の地図です。
彦根方面に向かう際、右手に城跡の山々を望むことが出来ます。

一見ただの山ですが、意識してみますと、なかなか面白いですので、紹介いたします。

まずは・・・
八幡山の八幡城です。

ちょうど、先日ロープウエイで登った反対側が見えています。



なんとなく、台形の山の・・・上部・右手に、ちょこんと本丸跡が乗っかっている姿がお分かりいただけるでしょうか。



少なくとも、地形を利用して、出丸が築かれたであろうことは、容易に分かります。

ここまでクッキリと本丸の形が出来たのは、自然の賜物か、はたまた普請の働きによるものなのか・・・
まだまだ勉強不足ですが、大変興味深く・・・
いよいよ城跡の魅力に取り付かれるのでした。

で、近江八幡を通り抜けて、大中(大中の湖を干拓した土地)から、安土城跡方面を撮った写真です。



正直、どれが安土城の山なのか、分からない・・・

帰宅してから、地図とにらめっこして調べました。



どうやら、一番手前の小さな山が安土城の山らしいです。
その隣には、著名クラスの観音寺城も!
(日本五大山城の一つ、近江国守護・佐々木六角氏の居城だそうです。)


5,6年の歳月をかけて建設された安土城が・・・完成したのは1582年。
が、同年のうちに本能寺の変が起こり、混乱のうちに焼失されたとされています。

近年の発掘調査では、焼亡したのは天主を中心とした主郭部だけであり、城全体の98%はそのままの形で残っていたそうです。
本丸天主を除く城の建物の多くは、1585年の羽柴秀吉による八幡城築城に際して、城下町ごと移転させられたものと考えられているとのことです。
「近江の山城ベスト50を歩く」より



そうか・・・
八幡城主の秀次は、キンキラキンの安土城を望むことは出来なかったのですね。
(超イチオシ!安土城復元・鳥瞰図を御覧ください。)

むしろ、移築された建築材のあれこれと暮らしつつ・・・
廃虚となり、日々苔むし?自然の姿へと還りつつある安土山を眺めていたのですね。

そこで彼は何を感じていたのか・・・

その秀次も、1590年には、尾張清洲に移り、後には、京極高次が入りました。

1595年、秀次は自害。
その年に、聚楽第とともに八幡城も破却されることとなりました。



まだ、ワタクシ自体が知識仕入れたてで、うまく消化し切れていない状態。
だもんで、たんなる歴史の羅列になってしまいましたが・・・

ここらの歴史に思いをはせますと、なんともいえない気分にさせられます。


さて、番外編です。
湖岸道路の・・・
近江八幡から、大中を抜けて、彦根市に入ってすぐのところに、ぽつんと荒神山があります。
琵琶湖からすぐのところにある山で、標高も結構あるので目立ちます。
見るからに要衝であったような雰囲気。

とりあえず、写真に撮ってから、帰宅して、あれこれ調べました。



「ベスト50」の本や、国土地理院の地図を見てみたけど、特に反応なし。
荒神山の隣の小さな山が城跡であったことは見つけたのですが。
なかなか資料が見つかりませんでした。

けどね。
最後の頼みで、ネット検索かけてみたら、見つかりましたよ~。
コレ!
山頂付近に、荒神さんが祭られているそうなのですが。
その神仏習合の社が、城郭的役割を持っていたそうです。

なんと!
江戸幕府成立後、彦根の佐和山城に配置された井伊家が、新城建設の許可を得て・・・
その本拠地の候補になった場所なんだそうです。
(結局は、今の彦根城の場所に決まったんだけどね・・・)

やはり、それほど戦略的価値があった土地だったんですね。

山頂には、テレビ塔もあり、容易に車で上がれるみたいですので、今度行ってみたいと思います。

近江八幡・八幡城跡

2007-08-26 20:42:00 | 近江の石垣。
 今日は、琵琶湖に泳ぎに行きました。
 定番の・・・
 休暇村近江八幡・宮ヶ浜水泳場です。
 ここは、設備も整っていて、比較的水質もよく、遠浅なので、若!のオススメです。
 大原からは、もっと近い水泳場もあるのですが、若!たっての希望で、近江八幡まで出かけました。
 (ちなみに、近江八幡は彦根のお隣、県庁所在地の大津からは30分~一時間の場所にあります。)

 が。
 せっかくの遠出で・・・近くに旧跡も多いことですし。
 「早く行っても、水温が低いから、それまでの時間つぶし。」と称して・・・
 湖水浴の前に、八幡山に行くことにしました。



 なぜか辻家御用達?、前を通ることの多い・・・
 日牟礼(ひむれ)八幡宮です。
 
 なぜだか、この辺は本当によく通るので、すっかり抜け道にも精通してしまいました。
 湖岸方面から、すんなり到着!

 門前に駐車して、八幡山ロープウェーに乗りました。
 (これから語る八幡城跡について写真で詳しく説明してあり、オススメのページですよ!)

 約四分で山頂に到着しました。
 写真は撮りませんでしたが、ロープウエーからの景色は最高です。
 八幡・旧城下町と、琵琶湖が一望でき、素晴らしいです。
 (上のリンクで見てくださいね~)



 八幡城は、豊臣秀吉が権力の実権を握った桃山時代の築城。
 秀吉のおい・秀次が、標高283メートルの八幡山頂に築いたお城です。
 
 作りは安土城とよく似ているから、平山城になるのか・・・
 山全体がお城になっています。

 山頂に本丸があり。
 そして、中腹のテラス状に開けた土地が、北の丸・西の丸などになっています。
 (さっきのページの、城跡の案内図



 ロープウエーから降り、駅を出て、散策コースを行きますと・・・
 次々、本丸を取り巻くであろう、石垣が現れます。

 石垣マニアには、たまらない場所です。
 天守閣や建物こそ現存していませんが、石垣は、かなり状態良く保存されているようでした。
(当時のままか、どうかは分かりませんが)

 おじ・豊臣秀吉の権力に、運命を翻弄され、若くして生涯を閉じた秀次に思いをはせながら・・・
 石垣に癒された妻!なのでした。

(ごめんなさいね~、うまくお城の説明できません。
 一時は秀吉の後継者となった秀次でしたが、秀吉に子供が誕生したことで、邪魔な存在になってしまいました。
 素晴らしい城下町を建設した秀次は、政治的手腕に長けていたと推測されますが・・・
 結局は難癖つけられて、自害して果てることとなったのでした。
 何というか・・・月並みな感想ですが、かわいそうです。)


 
 当然、権力サラブレッドコースから外れたお城は・・・御取り潰しです。
 今は、石垣を残すのみ。
 本丸跡には、秀次の菩提を弔うために、実母が建立したお寺が現存しています。


 (西の丸址からの景色は最高です!)

 北の丸址からは、大好きな安土城跡も一望できたのですが・・・



 この一枚を残し、デジカメ・バッテリー切れとなったのでした。
 残念!

 この城跡も、歴史的グレードの高い場所でした。
 もっと、詳しく写真で紹介したかったですが。

 次回リベンジを願って・・・
 下山しました。
 

うれしいな!石垣です。

2007-06-10 20:43:54 | 近江の石垣。
 久しぶりの石垣投稿です。
 今日(日曜日)は、若!の休暇日だったので、高島市に出かけました。

《一日の流れ》
 午前中出発、一時間程で、高島市に到着。
 雨が降っていたので、安曇川の平和堂にて、傘購入。
 再び、高島に引き返し、「びれっじ」にて、昼食、散策。
 乙女が池に移動。
 大溝城跡の散策。
 池で、ザリガニ釣り。
 帰りに、ホームセンターに寄り・・・
 米プラザで遊んで、帰宅。
 
 まず、高島市とは・・・
 JRだと、大津から湖西線に乗り換え、北陸方面に30分ほど行ったところ。
 つまり、大津市の隣にあり、琵琶湖の北西方向に位置し、北陸への入り口にあたる・・・ところです。

 戦国時代の情勢からすると、ちょうど安土城の対岸にあたり、また北陸への監視の意味からも、大変重要な地であったことは、想像に難くありません。


 (池の入り口にあった、絵地図です。)

 乙女が池は、琵琶湖の内湖。
 琵琶湖は、地図の下のほうに位置します。
 見えにくいですが、地図の右上角に、今回目指した大溝城跡があります。

 大溝城跡は、琵琶湖と内湖(乙女が池)の地形を巧みに生かした水城であったそうです。
 もともとの城主は、地の支配者であったそうですが、織田の圧力に耐え切れなかったのか、出奔。
 その跡地に、信長の弟の長男(おい)の織田信澄が城主として迎えられました。

 信澄は、明智光秀の娘と結婚していたようです。
 その縁からか、城の設計も、光秀によるものであると伝承されているそうです。
 どうりで・・・
 光秀の坂本城も、安土城に勝るとも劣らない立派な水城であったそうですし。
 なるほど、うなずけます。
 (坂本城跡も、見に行きたい城の一つ。もちろん、今はほとんど史跡は残っていませんが、数少ない石垣を眺めて、天下の名城を想像するだけでも、楽しげな作業です。)

 ここらで。
 皆さん、薄々お感じになってるでしょうが。
 御想像の通り?
 本能寺の変で、明智光秀が謀反を起こした後・・・
 同勢力とみなされてしまった信澄も、また、本能寺の変に加担した嫌疑を受け、大阪城内にて自害して果てることとなりました。

 よって。
 城も解体されてしまい、今はただ石垣を残すのみ。
 国家権力によって保護され、豪華絢爛を極める名城も良いですが。
 このような寂れた城跡を散策するのも、またいいものです。

 では、御覧ください。



 乙女が池方面からの全景。
 バックは、大きな公立病院。
 ほとんど忘れ去られた感のある城跡です。
 ええ感じです。

 
 (目の良い方は御覧ください。)



 あとから設置したのかな。
 上に上がる階段がありました。


 (石垣の上からの眺めです。アマチュア?プロ?、写真家の方が、着物の女性をモデルに撮影してはりました。???)


 
 やっぱり、石垣は大好きです。
 大きな石を使った石垣でした。

 家に帰ってから・・・寝る前。
 「今日は、お城に行ったよね。(父)」
 「え? どこ?(次男)」
 「ザリガニ釣りの前に行ったやんか? 石垣のとこ。」
 「ああ、行ったなあ。けど、お城は行ってへん。」
 ・・・・・

 気持ちはよ~く分かります。
 しばらくは、母!の趣味にお付き合いくださいませ。