先月のお盆前
広島への里帰りの途中に
岡山城に寄りました。
子達に
「岡山城・福山城・三原城、どれが良い?」
と聞いた結果です。
この三城は、新幹線駅から近く
(または、隣り・お城の敷地内に駅があったりして
)
子供連れには、とても便利で安全なお城です
(山城は女子供だけでは心細いし、サル・熊・スズメバチなども怖いです)
で
その中で、なぜ岡山城が選ばれたかは、よく分からないんですが
駅から、市内電車に乗り継いで行く、というのが、魅力的だったようです
というわけで
8月11日
京都駅を9時半に出発
岡山に11時前に着
わが姉と駅で合流して
一緒に岡山城に向かいました
確か珍しい台風、日本海側に来ていて
天候が心配でしたが
霧雨があるくらいで、基本的には晴れ
ラッキーでした。
岡山駅前からは
徒歩一分・・・
市内電車に乗って、お城に向かいました。
いまどき、大人100円の運賃でビックリでした
電車を降りたら、「しろちか」という地下道入口があって
なんて岡山は良いところなんだろう、と感激
(わたくし、基本的に岡山びいきです
)
地上に出て、少し歩くと・・・
(左に後楽園・旭川・月見橋・右に岡山城)
とても雰囲気が良い道
清々しい気分になります
本当は、ここの駅じゃなくて
もう一つ後の駅のほうが、お城の正式な入口になるようですが
この際、気にしなくても良いでしょう
ところで
この岡山城
正直言って、後楽園のほうが有名で
なんとなく影が薄いような気がしますが・・・
後から
よくよく調べてみますと
「なんでもっとジックリ見学しなかったんだろう」と後悔するくらい
石垣の宝庫
なんです
秀吉公の時代
「備前宰相」とまで呼ばれた宇喜多秀家が
この地に大々的に建造し
(秀吉の猶子になっている)・・・養子とは違うが、親子関係に近い関係を持つこと
(その後、秀吉の養子だった前田利家の娘を、正室にした
前田利家の死去直後に起こった石田三成襲撃事件では、三成を救出する
関ヶ原の戦いでは西軍の副大将となり、大谷吉継とともに戦うが、敗戦
さすらいの果て、八丈島に流刑・島の公式流刑者第一号となり、余生を過ごす)
関ヶ原の戦い後
秀吉のおい(ねねの兄の子)で、小早川隆景の養子となった小早川秀秋が
徳川の幕命で赴任
(徳川方に寝返り、味方の大谷陣を襲撃
そのことが徳川勝因になり、裏切りの人として、すっかり有名になってしまった)
(なので、宇喜多秀家&大谷吉継はむっちゃ激怒・怒・怒
したらしい)
(秀頼公の誕生以降、秀吉公の態度が一変したことを恨んでたのでしょうか?)
その後、後継ぎのなかった小早川に代わって、やってきた池田氏
(姫路城主の池田輝政の子、利隆)
(輝政公は、昔、石田三成襲撃事件を起こした一人、奥さんは家康の娘)
中国の要として、堅実な藩政を行ったようです。
そんな背景から見ても
岡山が重要な位置関係にあったのは確かで
お城も、とてつもなく規模がデカく
彼らが彼らなりの普請を行った
三者三様の石垣がたくさん残されています
(明治の廃城令や空襲などのため、現存の建物は少ないですが
石垣は、ほぼ残されているので、ありがたい話です。
そういう意味でも、もっと石垣の社会的地位を高めてほしいです)
で
私たちの進路の
旭川・月見橋のほうから、城に進むと
最初に見えてきたのが、こちらです。
(本丸の中で唯一現存する建物・月見櫓)
もちろん、石垣も当時のまま
著名な城にふさわしい
立派な石垣でしたので
しばし、撮影タイム・・・
(小納戸櫓跡→月見櫓)
角の月見櫓を挟んで
(月見櫓→数寄万櫓跡)
戦国時代の野面積みとは異なり
綺麗に整形した石を使っています。(算木積み)
1620年代に、池田忠雄が築きました。
石は、瀬戸内海の犬島から運んできたものですし、
普請の際も、戦乱に急くことなく、
ゆったりと時間をかける余裕があったことが分かります。
成熟期の石垣と言えるでしょう。
整形した石を用いることで
扇の勾配と言われる、急勾配を実現しています。
(比較してみてください!)
福知山城
〈戦乱のさ中、急いで作った感がありますよね~)
借り物の石で作ってあります。結局返せなかった、というのが不憫です
さてさて
月見櫓下を堪能した後は
天守閣方面へ進みました。
岡山城は
岡山と言う名の小高い丘状の地形の上に建っています。
(小納戸櫓跡下を通って、廊下門に入ります)
廊下門をくぐったら
なだらかな階段を上がって
ちょっと小高い丘のようなところに出ます。
本丸 中段 (ちなみに、さっき月見櫓を見上げていた位置は、下の段)
(表書院のあった場所、奥に見えるのが先ほどの月見櫓)
現在は何もなくて、ちょっとしたグランドのよう
また
ここには、宇喜多時代の石垣が保存展示してありました。
(宇喜多秀家時代の鋭角石垣)
どうして、こんなところに、突然にょきっと鋭角が現れたかというと・・・
それは
宇喜多建築の後
さまざまな増改築が行われた結果のことのようです。
この石垣の上を埋め立てて、あたらしく増築した・・・
んだったと思います。
(説明版には、ちゃんと書いてあったんですけどね
)
いずれにしろ
このような鋭角の石垣は珍しいとのことで
特記してありました。
そして
月見櫓とは対角にある、不明門をくぐると・・・
(不明門)
殿様のプライベート空間の
本段です。
(天守閣)
(昔の天守閣を支えていた礎石が並べてあります)
なぜか
次男は、礎石のことが気に入ったようで
このことを日記帳に書いていました。
(他にも、書くことはいっぱいあったろうに・・・)
天守閣の中は
最近リニューアルされたようで
エレベータ式で楽チンなのはもちろんのこと
売店・茶店
子供向け、懐かしのおもちゃ体験コーナーがあって
楽しかったです。
(お城ファンには要らないかもしれませんが)
少なくとも、子連れの私たちには、神様的存在でした。
悪い思い出を作ると
次から付き合ってくれなくなりますからね。
うちの姫様が記念撮影したり
(金のシャチホコ・旭川・後楽園)
築後400年記念とかで、金ぴかに補修してあって華やかです。
(韓国のスイーツ・パッピンス?)
この具だくさんかき氷が
私の昼ご飯になりました。
殿様商売?とは思えない
斬新なメニューでした
天守閣見終わって・・・
再び、廊下門をくぐって、下の段に降りました。
(天守閣下の石垣)
(天守閣← →廊下門)
(天守閣の真下)
石垣の全体像はこんな感じ
ここの、天守台の石垣は、
宇喜多秀家時代のもので
自然石を用いた野面積みとなっています。
とても力強い印象です。
そして
廊下門→天守台→といった先には
(六十一雁木上門に向かう石段・土塁)
本段の礎石があったとこら辺です。
言うたら
天守閣から旭川への近道
です。
今、この写真を撮っているコースも
川沿いに進んでいます。
そう書くと、
えらい警備が手薄な感じがしますが
往時は、土塁と、横の石垣の途中ら辺との間に
櫓門が建っていたらしくて
かつ
六十一雁木上門もあり
二重の警護となっていたようです。
(長屋続櫓跡 ← 六十一雁木上門 → 天守閣)
そして
一人(子達は先に後楽園に歩いていき・・・)
どんどん奥へと進んでいくと
私好みな物件を発見しました
(長屋続櫓跡 → 六十一雁木上門)
なんとも崩れかけの石垣
おお~
観光地と言えども、このような取り残された部分があったのですね!
(皮肉ではありません
)
安全上、少々危ないような気もしますが
それでも、より往時からの姿を残すという意味で
素晴らしい!
なんとも生々しいリアル感です
そして
乱雑な積み上げ方、小さな石を用いている特徴から
もしかして、小早川秀秋時代の普請じゃないかと思ったんですが
どうだったのでしょうか?
ちなみに、ホームページには
この、もひとつ向こうの面に、秀秋時代の石垣があると表記してあったのですが
これ以上先は
時間の関係から、あきらめざるをえませんでした
あとはダッシュで
月見橋・旭川を渡り
後楽園~
子達に追い付きましたが
絶対絶対、また来ようと思いました。
岡山は昔から行きやすくて大好きなところです