京都大原紫葉工房便り

京都洛北・大原の里のしば漬屋から、毎日!情報発信。

奈良・大和郡山城 その2。

2012-02-09 17:40:58 | 石垣のある風景(大原以外の!)

先日の投稿 「奈良・大和郡山城 その1」の続き。

本丸の天守台跡にのぼってから・・・

5の字を描くように、二の丸に向かいました。

 

               ↓ 本丸・天守台跡

 本当に5の字方向なのです。

              ↑ 本丸のトイレマークの所 ↓ から、右となりの毘沙門郭に移動します。

                 

                ↑ 竹林橋 奥に天守台  ↑ 橋?に見える二重多門櫓跡    ↑ 毘沙門郭跡・現在は柳沢文庫     ↑ 内堀 

 

 

ここは、二の丸(郡山高校校舎)から本丸に向かう竹林橋を渡った先にある石垣で

台所橋櫓の跡

で、この石垣の奥に、毘沙門郭に向かう道(といっても、橋みたい)があります。

 ↓ こちら

 

本丸と毘沙門郭の間の内堀をまたぐ格好になってます。

 

                     ↑ 往時は、二重多門櫓があったそうで、道の延長部分には、多門櫓がずらっと建てられていました。

「大和郡山城ばーずあい」というHPには、当時の詳しい絵図やお話が載っていて、一見の価値あり!

ぜひ訪問してみてください

 

 こちらは、二重多門櫓跡からの眺め

↑ 本丸      ↑ 内堀           ↑ 毘沙門郭

  

本丸の立派な石垣が楽しめます

 

ちなみに、こちらの毘沙門郭は、

築城時・豊臣秀長時代は、本丸の一部であったそうです。

であるからして、このような堅固な造り

いつのころからか、二の丸の一部となったそうで・・・

柳澤時代の絵図には、すでに二の丸として書かれていたそうです。

管理が難しくなったからでしょうか。

 

で、毘沙門郭を北向きに歩いていくと・・・

わりあい素朴な風景(あずまや&庭)が続いた後、石垣造りの門構えが見えてまいります。

↓ 追手向櫓                                    ↓ 追手門      

       

                               ↑ つながってます ↑  

築城時は、ここ(陣甫郭と毘沙門郭の境目)からが本丸であった名残なのでしょうか。

起伏に富んでいて、楽しい散策が出来ました

帰りは、こちらの追手門 ↓ (この奥)と、横の東隅櫓 ↓ の前を通って、陣甫郭跡を歩き・・・

    ←(この辺)スタート地点の鉄御門前に戻ってきました。

   ↑ 毘沙門郭跡                       ↑ 陣甫郭跡

 毘沙門郭の東南角

↑ 内堀にはイケチョウ貝の養殖がしてありました。水の浄化作用があるそうです。

 

 

自然豊か、起伏に富み、いろいろな変化を楽しめるお城でした。

とてもとても、少しの散策では観察しきれませんでした。

満喫するには、一日でも足りないかと思います。

 

春にはお城まつりが催され、美しい桜の風景が楽しめるそうです

 

何度でも行ってみたいです

 

 


奈良・大和郡山城 その1。

2012-02-04 13:27:28 | 石垣のある風景(大原以外の!)

昨年9月の奈良旅行の続き。

(まだ完結していないのであった

 

二日目・法隆寺界隈の散策のあと、帰り道に大和郡山城に寄りました。

大和郡山は、法隆寺から奈良市街に抜ける道沿いにあり、

行くのにとても都合が良いのでした

通りかがるのなら、行ってしまわないとね。

 

大和郡山は、近鉄沿線なので、京都からの便も良いし、とても住みやすそうな場所です。

ただ、お城専用の観光駐車場は見当たりませんでしたので、

三の丸敷地・近鉄郡山駅向かいの・・・

西友(スーパー)の駐車場に停めて、散策を始めました。

(買い物すると、駐車場サービスが付くので便利です

 

車でぐるっと一周しましたが、とても大きなお城でした。(まあ迷ったから一周したんですけど

で、

駐車場を出て、最初の信号が、上の図の一番下の交差点だったと思います。

ここ ↓

 柳御門の跡 

この門が城の表玄関だったそうで、大手掘の名残の水路があり、現在は大和郡山市役所が隣接しています。

いかにもいかにも、三の丸という雰囲気の場所です。

 

他にも、図書館やホールなどがありますが・・・

この三の丸と隔てて、

二の丸~本丸、お城らしい部分は、近鉄電車の線路の向こうにありました。

 ←左(大手道から)右 →

↑近鉄電車     ↑ 蓮池跡  石垣の向こうが二の丸                  ↑ 鉄御門跡・陣甫郭跡    ↑五軒屋敷池    

 

 大手道の近鉄踏切を渡ると、右手には大きな石垣がありました。

鉄(くろがね)御門

 

なかなか存在感があります

 

反対側、左には、道に沿って、白壁が・・・

 現在は、郡山高校の敷地。 

もとは藩庁があったそうです。

払い下げの土地=学校になったのでしょうか。

こんな良い環境で勉強できるなんて羨ましいですね

憧れます

 

そこから、坂を少し上がると、すぐに、お城の構えが見えてきました

上の案内図で分かるように、お堀を張り巡らせた、複雑な構造になっています

  

 ↑ ①天守のある郭  ↑ 土橋(奥にも内堀)  ↑ ②柳沢文庫のある毘沙門郭跡 ↑   ←↑ 内堀    → ③陣甫郭

 図がないと、なかなか説明できないくらい複雑なのですが、

上の写真の①天守のある郭(石垣でできた島のような感じ)を中心にして、

両側に、いくつかの郭が取り巻く構造になってます。

 

西から

麒麟(きりん)郭 ― 新宅郭・厩(うまや)郭 ― 天守部分 - 毘沙門郭 - 陣甫郭 という具合です。

ちなみに、すべてが堀で囲まれているわけじゃなく、両端は他と地続きになっていたり、片側だけ地続きだったり。

まあ、もう一度上の地図をご覧ください

ちなみに、天守台の部分からは、ちょうど5の字状に中枢部分が広がっているようです。

 

複雑な構造・・・きっと防衛上意味があってのことなのでしょうね

 

で、一番大事な天守部分は、全方向お堀で囲まれた島状になってまして・・・

竹林橋(地続きになってると思います)を渡って行きました。 

  

 

  ↑ 新宅郭跡           ↑ 本丸

 

竹林橋を渡った先、本丸入口には、竹林橋櫓がありました

(東側) 

この石垣の奥から、柳沢文庫・追手門に向かう橋?があります。(それについては、投稿その2で詳しく

 

そして、

竹林橋渡った正面、本丸敷地は現在柳澤神社となっていました。

 

御祭神は、柳沢藩の開祖・柳澤吉保公。

明治13年旧藩士によって創建されました。

 

天守台は、この拝殿の裏にあります。

お参りをしてから、横道に抜けていく格好になります。

 本丸の東側の内堀

となりの毘沙門郭

明治に建てられた城址会館が見えます。

 お堀からのびる石垣は、大迫力です

そして、天守台・・・

 天守台 南東角 

大きな台形と小さな台形がくっついたような形になってます。

      (→ 北)

                 ↑ 小さい台形 ↑       (↓ 東)           ↑ 大きい台形

 

そして・・・

竹林橋から行くと、一番奥の部分。

     

 (← 東)                             (↓ 北) 有名な転用石のさかさ地蔵があります。 

 

天守台の上に上がると、良い景色

 北側をのぞむ

 (旅行疲れしているふたり

 東側 城址会館

天守台には、柵がしてないので、気持ちが良いですが、少し怖いです。

 天守台の上から下を覗く

くれぐれもふざけないよう。

 天守台の降り口 東向き 

大和郡山城・・・1585年に豊臣秀吉の弟、秀長が入城したおりに、

城の大拡張工事を行い、

近隣の寺院の礎石、庭石、五輪塔、石地蔵等を多く用いました。

転用石の宝庫です

 

単なる石不足?

それとも、意識改革?

時代の大きな流れ・大変動を思わずにはいられません。

 

(その2に続く)

それと、上記の内容も、時間があれば、追加修正していきます。


丹波三大山城のひとつ。

2011-11-14 13:52:02 | 石垣のある風景(大原以外の!)

なかなかアップできませんでした。

丹波編。

 

10月23日、息子のサッカーのお供で、兵庫県丹波市に行ってきました。

…アスコザパーク

サッカー総合施設で、総人工芝生・宿泊まで出来るという、素晴らしい場所!

ちょっと遠いけど、そんなとこに連れてってもらえるなんて、贅沢ですね。

 

で、せっかく丹波に行くのなら、どこかお城へ・・・

と、下心出しまして、向かった先がこちら 

 

丹波市春日にある

春日局・出生の地 黒井城

 

(でも、ここまでが紆余曲折でして・・・

 京都は快晴やったのに、京丹波から兵庫エリアに入ったとたんに

 雨が降ってきました

 

 「そ~よね、別にお城が目的で来たんやないんだもん」と強がってはみたものの

 やっぱり、傍目からは落胆して見えたのか、若!が「行こ~や!せっかく来たんやし」と言ってくれました

 いや、言ってくれはりました

 ので、昼食を済ませてから、ホームセンターで傘を買い、登山口に向かいました。)

 

そう「登山口」

私が行動に慎重になってしまったのも、

どうも、散策ではなく登山になってしまいそうなコースだったため・・・

長女5歳を連れていたので、あまり無理をして風邪とか怪我とかあってはいけないと思いました。

とか言いながら、やっぱり来てしまいましたがね

丹波三大山城にあげられる黒井城

戦国時代、丹波一帯に勢力を広げていた赤井氏の次男、赤井直正のお城でした。

この黒井城の主であった荻野氏に養子に入りましたが、養父を殺害して、成り上がります。

(そのため、悪右衛門の名がついたとか、どうとか…)

 

*どなたかの城ブログにあったけど・・・

 「なぜに、赤井氏なのに、黒井城」 

持ちネタに加えよう・・・

 

当初は、織田氏の勢力下にありましたが、まもなく背き、

丹波攻めにおいては、織田主従の明智光秀に激しく抵抗しました。

 

粘り強く明智勢の攻撃から城を守った赤井氏でしたが、

城主直正の病死で、統率を失った黒井勢は、ついに破れてしまいました。

(中国・毛利勢、吉川元春に援軍を申し出ていたらしいですが)

 

その後、城主として派遣されたのが、明智光秀の重臣・斎藤利三です。

そこで、娘の春日局(福)が誕生しました。

お福の育った下館は、ちょうど登山口下の敷地で

現在は興禅寺となっており、当時の姿を偲び見ることができます。

 

城主の娘としての穏やかな日々もはかなく、

本能寺の変の後、明智勢は一切追い払われ、お福も、素性を隠す生活が始まりました

 

その黒井城の全貌

この地形図を見ても分かるように、完全なる山です。

住まいとしての城ではなく、戦闘態勢100パーセントの山城でした。

 

これまでにいろんなお城に行ってきましたが、

こんな険しい登城は初めてでした。

私たちは、駐車場の右手にある登山口から登りました。

(左手・上の一番最初の写真の道が、メジャーな登山道だったのかな?)

いきなりの石段やし、

昨日までの雨で、砂利が石段にたまってるし、ちょっと不安になりました・・・

看板が設置されていたことで、かなり不安軽減

そうでなかったら、この道引き返したかもね。

少なくとも、母子二人では絶対に行けません

こんな道がずっと続く・・・

獣除けの柵

ほんと~に大丈夫か、この登山道

大手道? そういう概念自体、山城にはなかったかな?

忍びの下々が駆け上がり、飛び降り去った、とでも、想像するべきか・・・

お~い、幼児が登るような道じゃないぜ~

ハイヒールでは絶対無理です。

出来れば登山靴で!

上りは良い良い

帰りは・・・

そうとう膝が笑いました

中腹に来ると、少し平坦な道

ちょっとした広場が見えてきたら、長女がぜん元気になりました

「太鼓の段」

ちょっとした広場で、JR春日駅方面が一望できます。

古い(たぶん江戸時代の)顕彰碑がありました。

 

そして、ふたたび登城

朴葉がいっぱいです。

崖沿いの進みます。

山の東側になるのかな、舞鶴縦貫道が見える側です。

ちょっと落ちたら大変な場所

やっぱり幼児には厳しい道・・・

二つ目の獣柵を過ぎると・・・

もう石垣ないのかな?と思った頃に、石垣登場

山登りに精いっぱいで、もはや石垣目当てなのを忘れてしまいそうな頃でした。

この石垣の上の敷地が出丸(三の丸) ↓

こちらの出丸から見えてる石垣の・・・上の敷地が北の丸(二の丸)

 

(北の丸から見ろした出丸やったかな?)

素晴らしく景色が良いです

こちらの北の丸から見える石垣の・・・上が本丸です。

特大ポップコーンのような菌類?

誰かが落としたメレンゲ?と思いましたが、においをかぐと、やっぱりキノコの匂いでした

(手前が北の丸、奥が本丸)

 

北の丸→本丸の部分

すぐれた造形美です

たぶん、地元小学校のハイキングコースかな?

風光明媚・歴史満載の優れたコースですね

若!も来てよかったと言ってくれました

↑ 本丸の先の西の丸

 

西の丸から、来たほうの道・出丸方面に向かっては、石垣が良く残っていました。

(石段の上が、本丸・北の丸です)

きれいに整備されており、余計な設備もないおかげで、

山城の構造が分かりやすい、とてもよいお城でした

良い運動にもあるし、おすすめですよ。

行きはよいよい、帰りは恐い登山道

私はKeenのトレッキングシューズ履いてたんですが、それでも、

関節痛が出ましたよ

それなりの対策はしてからお出かけ下さいね。

長女転倒もなく、無事に帰れました。

 

すぐ近くの道の駅・丹波おばあちゃんの家での買い出しも満足

最中(もなか)収集と・・・

野菜は、セロリ・ラッカセイ・干しソラマメ 購入

もちろん、青菜・枝豆・クリ・黒豆などもありましたよ~

 

 

 


明日香村その1。

2011-10-13 11:41:47 | 石垣のある風景(大原以外の!)

9月参観日代休の旅行。

 

奈良は近くて遠い・・・

それは国道が混むから・・・

日帰りの時は覚悟しないといけません。

 

今回は一泊するから、余裕をもって・・・

の、つもりでしたが、行きたいところがいろいろあって、

迷った挙句に明日香村行きに決定しました。

 

日本三大山城の高取城や桜井の石上神宮や三輪神社などなど

行きたい所はいろいろあったけど、迷いに迷った挙句、明日香村へ。

 

改めて、見どころの多い奈良。

実は、私、奈良居住にあこがれて?受験もしたんでした。

奈良だめで、なぜか京都へ・・・

運命とは不思議なものです。

 

で、たぶん三回目の明日香村訪問です。

 

のどかな農村のイメージの明日香村。

石舞台古墳、しかパッと思いつかないけど、

謎の遺跡がたくさんあるようです。

 

全部は見て回れないので、行き当たりばったりで・・・

 酒船石遺跡(伝・飛鳥板蓋宮跡の東方に位置する小高い丘陵一帯に広がる遺跡群)の・・・

亀型や小判型の石造物

      

発見されたのは平成4年

私たちが駐車した万葉文化館の駐車場建設の際に見つかったそうで・・・

まだまだ奥の深そうな明日香村です。

何がうれしいって、こちらの階段状石垣の遺跡。

今回、石垣めぐりはあきらめていたから、

こんな 初っ端から出会えてうれしかったです

右端のレンガみたいなのも、遺跡の一部

砂岩の切石を積んで造られた湧水施設

小判型石造物と亀型石造物

 

こちらの一連の遺跡

7世紀中頃の斉明天皇の時代に造られたものと推定されています。

「これらの遺跡群は閉鎖性が高く、人工的な空間を構成しており祭祀を行う空間であったことが窺えます。」とのこと

(パンフレットより)

 

この遺跡の隣りの丘陵に上がる道・・・

砂岩切石の遺跡だったかな

少し残ってます。

(正直、遺跡なのか、近所のおっさんが積んだものなのか、判別不能)

もっと大胆に置かれている遺跡

有名な酒船石

持って逃げられそうだ・・・

けど、持って逃げられないか

希少な遺跡が、こんな山の中にデ~ンと置いてある

おおらかさが好きですね。

 

 


若!のつかの間の盆休暇、久多~美山~丹波

2011-09-02 10:24:40 | 石垣のある風景(大原以外の!)

妻!と子達は、盆前に広島に里帰りしていたのですが、

大原に残って、仕事と地域のお世話をしていた、若!

お盆16日に、久しぶりに休みを取って、お出かけしました。

 

貴重な一日ですので、どこに行くのか迷うところですが、

結構いさぎよく美山行きを決めた若!

(そんな山奥に何があんの、といぶかしがる妻!だったのですが)

大原より北

左京区最北端の久多を抜けて、美山に行くのは、こんな道ばかり。

JAFが来れないようなとこへ行くのは嫌なんだけど・・・

(携帯すら通じるか怪しい)

若!の楽しそうな顔・・・

やっぱり、山道ドライブが好きなようです。

 

さて、しいて期待せずに若!の休暇に付き合った感の私でしたが・・・

石垣の匂いを感じる場所を見つけたので停車

とても古そうな神社です。

場所は、久多の郵便局の横でした。

そこそこ民家があって、中心地?のようです。

石も良いのですが、建物も風格があり、とても惹きつけられました。

説明書きには、由緒がはっきりしないとありましたが、

神社の造りは、どうしてこんな場所に?と思うくらい、とても立派!

かなりの有力者が関係しているのではないかと、想像してしまいます。

1233~34年にはすでに建てられていたそうです。

ここらの川を見てみますと、白っぽい石が多いです。

積み石が角ではなく丸っぽいのは、石質によるものでしょうか?

実は、子供の自由研究は、いろんな石の観察をさせたのですが、

結構奥深くて、思ったより大変でした。

 

白っぽい・・・石英?石灰岩?

難しいです。

とても立派でしょう。

神社にはそれほど興味ないのですが、

こちらの神社は、写真で見るたび、とても素晴らしいと思います。

お盆の後、久多では、花笠踊りが行われるのですが、

この神社が会場になるのだそうです。

(新聞記事で知りました。)

なんでも、祭りの後、笠にさした花を、好きな女性にプレゼントして、

告白していたのだそう。

ロマンチックですね。

 

さて、

久多から、さらに山中を行くこと、30~60分くらい?

美山のかやぶき集落に到着しました。

集落ぐるみで保存されています。

半観光地ですが、普通に生活してはったりで、大原とよく似ています。

粟かヒエのようなのを育ててはった

集落の向かって左側の奥に鎮座された稲荷神社

樹齢の古いトチノキ

栃の実を使った和菓子も多い美山です。

自然と一体化した石たち

 

お昼ごはんは、ちょっと久多方面に戻ったところにある

山の家みたいな施設で食べました。

河鹿荘

宿泊施設なので、ちゃんとした料理人さんがいはるようで、

予想に反して、とても丁寧な料理が頂けて、びっくり!

街のレストランでも、出来合いの詰め合わせみたいなとこがあるのに、

松花堂弁当の一つ一つ丁寧に作られているようで、驚きました。

これで、私は、すご~く機嫌よくなりましたよ。

 

ご飯の後は、みんな、付設の温泉に入りに行きました。

私は、ゆったりしたロビーでまったりしてました。

 

その後は、丹波ワイン工場に行って、亀岡通って帰京

 

直売限定ワインで、無濾過・酸化防止剤不使用のを買いましたが、

炭酸水のように発酵が進んでいて、

赤・フルボディなんですが、飲み口軽くて、甘くないブドウサイダーのよう

これは、これだけ目的で丹波までドライブする価値あり!ですよ。


天下の名城 白鷺城。

2011-05-30 13:28:34 | 石垣のある風景(大原以外の!)

長らくご無沙汰していた石垣ブログ

気持ちがやっと平常に戻って、書きたい気持ちが湧いてきましたよ

 昨年末の登城・・・

投稿がすっかり遅くなってしまいましたが

ざざっと、ご報告申し上げます

いつものごとく、里帰りついで

新幹線、途中下車して、姫路にやってきました。

姫路駅~お城までは、数百メートル

のんびりお散歩気分で行きました。

(うちの子、こういう↑のが好きなので

姫路城は、かつては三重の堀で囲まれていたそうでして

一番外側の外堀が、姫路駅あたりにあって・・・

 

外堀(姫路駅)と内堀の間にあったのが

中堀

 

その中堀は、現在埋め立てられて、国道2号線になってます。

その横(お城側)にある土塁が、中堀の名残

東西にずらーっと土塁があって、なかなか壮観です

(さすがは天下の名城、そういうとこでも差をつけますね)

内堀を渡って、お城に入ります。

内堀渡った先の大手門(桜門)から先が・・・

①三の丸

門をくぐったら、ど~んと天守閣が~

と言いたいんですけどね

工事中ですわ

(左手が、後ほど最初に見学する西の丸・右側が本丸です)

 

ま~、私はあくまで石垣見物目当てですから

良いんですけどね

 

負け惜しみじゃないけど

 

内堀と三の丸を隔てる石垣が面白くて

結構しつこく観察してました

たぶん往時のものと思うけど

緻密な石組みの水路が作られていて

面白かったです

一体どなたの普請でしょうね。

で、

いちいち観察していては、日が暮れてしまうので、

どんどん先に進み・・・

案内・赤文字の・・・

正面登城口から菱の門を通って、西の丸に行きました。

  

↑ 菱の門                                ↑ 菱の門手前からは、本丸の眺めが素晴らしいです!

②西の丸

奥に見えているのが、西の丸渡櫓

長局・百間廊下と言われているほど、とにかく長い櫓です。

向かって左端(南)から入場しました。

いたって簡素な造り

すごい奥行きの深さです

何回か曲がったり、階段登ったりしながら・・・

北端の化粧櫓に向かって進みます

建物の石垣は、急勾配にすることで、敵の侵入を防ぐ役割を果たすわけですが

角の部分は、建物の重みが増すために、勾配をきつくすることが出来ないんだそうです。

そのため、敵に狙われやすく・・・

そのぶん、守りが厳重になっていました。

~石落とし、鉄砲の穴~

三の丸渡櫓は、南北・くの字状に曲がっているのですが

 

  

↑ 南                         ↑ 北        ↑ さらに北                     →北端に化粧櫓

 

  ← 渡櫓・北端にある化粧櫓

 千姫が嫁入りの時に持参した化粧料で作られたという櫓です。

で、西の丸を出たら、次は二の丸・・・

二の丸から本丸に向かう道は、九十九折のようになってました。

天守は見えてるのに、遠いです

はの門

③二の丸

(はの門~にの門までの空間)

 写真中央、むき出しの丸太が見えてます

(↑ にの門のところの櫓)

丸太のとこ、アップ

向かって右側に進んで行って・・・

↑ 本丸の壁  ↓

本丸の石垣で行き止まって、つづら折り

 

本丸はすぐそこだけど、

大手道はグネグネ曲がってて、なかなかたどり着きません

九十九折り経て、にの門に向かう・・・

にの門くぐって・・・

(くぐってる人の頭上にある丸太、前の櫓写真に写ってます。)

 

やっと、本丸入口の正面に来ました。

(天守閣が見えたら最高なんですけどね)

小天守群

小天守といっても、地方のお城の天守閣並みの大きさです

立派な破風

 

④本丸

小天守、石垣も立派

本丸の中の備前丸という広い敷地

天守閣の南側にあたります。

守りが頑丈ですね~

天守閣には入れないので

来た道を戻り

(さっきの丸太の下をくぐって、本丸方向の壁~)

二の丸はの門から・・・

正面に見える西の丸化粧櫓がきれい

長男の撮影ですけど、さまになってます

ろの門くぐって、

お菊井戸方面(天守閣・備前丸の南側)に向かいます。

 

備前丸の石垣

見事な扇の勾配です

ぬの門

門の上部が渡り櫓になってます。

 

この先にお菊井戸

 

も一度ぬの門くぐって・・・

埋門くぐって、出口方面に向かいます。

なるほど、埋門

 

右端の階段が、

埋門(手前の石垣の右角部分の下部・左から右へと抜けます)の出口

 

階段の奥に、先ほどのぬの門・渡櫓が見えてます。

写真上・左側の石垣は、先ほどの扇の勾配の立派な石垣です。

そして

埋門・階段下りた先には、三国濠があります。

 唯一のみずみずしい空間です。

 水面に浮かんだ櫓がきれいでした

 

(まとめ)

現存天守閣・姫路城

何もかもが残っていて素晴らしかったです

天守閣は工事シートに隠れて見えなかったけど、見えなくてちょうど良かったかも

(広すぎて、見学が荒削りになってしまいますしね)

天守閣、いったいどんなにでっかいんでしょうね~

いきなり見たら、びっくりして引っくり返ってしまうかもね)

ええ、見れなくてちょうど良かったですわ~

前回登城の岩村城は、石垣のみで、往時の姿を想像するのに、かなり苦戦しました。

 岩村城の様子

勉強不足の身では、石垣の配置から、構造が想像できないんですよ・・・悲しいことに

そういう意味で、姫路城は

良い勉強になりました。

(逆に、建物・壁を取りさらった岩村城状態を想像してみたり・・・)

特に、最後の埋門の構造を知ることが出来たのはでした。

 


岩村城・本丸

2011-02-15 15:29:49 | 石垣のある風景(大原以外の!)
今まで、数回にわたって投稿してきた
岐阜県・恵那の岩村城の石垣・・・

前回までの投稿   ①復元太鼓櫓~登城口
(努力の結晶です) ②登城口~一の門~土岐門
              ③土岐門~畳橋・大手門
              ④大手門~二の丸

なぜ、こんなに、しつこくしつこく?投稿するかと言いますと
それは、一言では言い尽くせないほどの石垣の量だからです。

↓というわけで
段々ややこしくなってきましたので
イラストマップを見ながら、説明していきます



本日の投稿は、
マップの右上部分の道から始めます。

マップとは、若干方向が違うので、見にくいのですが
二の丸の菱櫓(右側)



その奥に、本丸の雄姿が見えてまいります。

岩村城を象徴する風景のひとつ
本丸・六段の石垣


(本丸北東面)

段々畑のようになっているので
ひな壇状であるとも、犬走りとも表現されています。

ご覧のとおり、成形された石が整然と積まれている姿からして
それほど、歴史は深くない・・・

「実は、先行して築かれた最上段の石垣が一気に立ち上げられ
 その後前面に低い石垣を五段にわたって積み上げていた」
のだそうです。
 (↑ 恵那市発行のパンフレット参照 ↓)

つまり、最初に作られた高石垣に崩落の恐れが出てきたため
それを補強するために、ひな壇状の石垣が築かれた、わけなのだそうです。

「ひな壇状に築かれた石垣は長方形の石材を交互に組み合わせた落し積み技法で、
 江戸時代後半に築かれたもの」と考えられています。




本丸には、六段の石垣の横の階段を上がって行きますが
ジグザグのつづら折、さらには、直角に曲がる虎口を越えたり・・・
だんだん、方向感覚がおかしくなってきて
本丸内の配置の把握に苦労しました。
(後から写真を見ても、あれと思う点が多く
 だから余計に投稿に時間がかかったんですよ



階段の反対側には、東曲輪という広い敷地もありました。


(東曲輪から見た、本丸への登城道)



ちょっと分かりにくいけど
↑ 写真の中央に、埋め門の土台の石垣2本が見えています。

本丸東側の長局(一段下の帯曲輪)に入るための埋め門でした。

そして
その埋め門を過ぎたら
長局から本丸に入る虎口になっていました。



しつこいほどのジグザグ
安土桃山時代の城郭建築の特徴であったようです。

さて
この虎口を過ぎたら
本丸の敷地が広がっているのですが
だだ広い広場になっているだけでしたので
これといった写真がありません
(一応載せといたら良かったんですがね・・・)

もともと
本丸には、周りの石垣部分に櫓が構えてあるだけで
内部には、これといった施設は置かれていなかったようです。

(山麓の、大手門3重櫓が天守的な役割を果たしていたようです。)

↓ 本丸南西部に突き出す形の出丸



本丸を守るための重要な曲輪だったそうです。



マップを眺めても
出丸が重要な役割を果たしたことが
なんとなくわかります。

さて
先ほどの ↑ 出丸の写真は、本丸の西端から撮ったもの

写真の足元部分・・・
この右側延長部分(本丸の西側)には、圧巻の高石垣があったのですが
知識不足で見逃してしまって・・・(たぶん見たけど、覚えてない)
不覚でした

*いつもそうなのですが
 お城の石垣って、登城道表口よりも、反対側の石垣の方が立派です。
 (直に狙われる部分だから、当たり前と言えば当たり前ですが)
 ただ、人もあまり行かないから、寂しい感じのする場所だし
 つい見逃してしまいます

本丸の大きな見どころの一つですから
見逃したのは、かな~りショックでしたが

もう一つの大きな見どころ
石垣ファンにはたまらない所がこちらでした


本丸裏口の埋門



搦手門と言うそうですが
なるほど手が絡まりそうなほど?(そういう意味違う?
複雑な構造の門になっていました。



手前右側の石垣には二重の納戸櫓が建っていて
そこから、左側の石垣にまたがって、埋め門が建てられていたようです。

さらには、奥にまたがる長い多門があって、2重3重の監視になっていました。


(右側・納戸櫓が建っていました)



岩村城で一、二を争う、美しい扇の勾配

切り込みハギという石積み法
享保3年(1718年)の地震の後に補修されたものと言われています。



そして
埋め門、左側の石垣・・・



こちらは、粗野な印象ですが

野面積みという、比較的初期の石積み法・・・
土岐坂の石垣に次いで古い遺構だそうです。


(埋め門左側の延長部分・二の丸に接していました)



なんとなく気が付いたんですが
この左側の石垣、手前の角に比べて
右側奥の角は、整った積み方がされていて
補修の後がうかがえます。


(中央・埋め門奥の多門の土台?)

こちらが、打ち込みハギ(自然石を石垣の外側だけ平らにする)の石積み法なのかな?
(切り込みハギとの区別がよく分からないのですが)

この埋め門は、一度に三つの石積み法を見ることのできる
貴重な建築物で
時代の変遷を如実に見ることができます。


(埋め門・後ろから見たところ)



緩やかな階段が続いています。

階段を上がったところは、まだ本丸の一段低い部分で
そこから、さらに階段を上って、本丸に上がります。


(写真を撮ってる場所が、埋め門を上がった部分:本丸の一段下)

この石垣の上が本丸です。



岩村城本丸の石垣は、複雑・巧妙・多量極まっており
たくさん写真を撮ったつもりでしたが
撮りきれない部分も多く
後から、内部構造の把握をしようと思っても
確認作業に難攻極まり
大変でした~~~
(だから、投稿に半年もかかってしまったのです

岩村城の堅固さは、天下に名だたるもので
武田軍・織田軍が攻め込んできた際も、
完璧な防御機能を果たしていたと言います。

では、何故、信長の叔母である女城主が戦いに敗れてしまったかと言えば・・・

籠城戦における基本的戦力の弱さ
同盟国からの援助が受けられなかったこと

結局は、遠山氏が
巨大勢力の狭間のなかで翻弄されてしまった・・・

中国地方で同じような状況におかれていた毛利氏が
毛利元就の台頭で大大名にのし上がったように、
遠山氏のなかで、有力な武将が出現するチャンスに恵まれなかったことが
何よりの敗因であったのかもしれません。



戦国時代、周囲の新旧勢力のめまぐるしい動きに
対応を迫られた遠山氏
武田氏とも旧来からの関係を保ちつつも、
遠山景任のもとに、
経済的つながりのあった織田信長の叔母である女性(おつやの方)が嫁ぎました。
景任は病弱であり、当主としては微力、
織田との姻戚関係を保つことが、対外的に重要なことでした。

そんな中、武田信玄と織田氏との同盟が破られ、
(武田と結んだ比叡山・足利義昭・浅井など、織田に攻め込まれましたね)
岩村城も、秋山虎繁を総大将とする武田勢に攻め込まれました。
当主景任が早世したのちは、おつやの方が女城主として、籠城戦にもつれ込みました。

兵糧・矢玉がじわじわ減っていく中で、頼みにしていた織田軍は
西日本での反乱をかかえていた為、援助が得られませんでした。

頑丈な岩村城も、武田勢の粘り強いゲリラ戦?に手を焼き、徐々に兵力を失っていきます。

どういった経緯であったかはわかりませんが
結局は、おつやの方を敵陣総大将の秋山氏の室とすることを条件に
無血開城したと伝えられています。

その後、ことの経緯を聞いた信長は激怒
(景任の養子に送り込んだ、信長の五男御坊丸を武田の人質に取られたため)
長篠の合戦で武田が大敗した後
ただちに、嫡男信忠を総大将とした大軍を送って、岩村城を包囲しました。

半年の籠城戦ののち、圧倒的戦力の差に岩村城は倒れてしまいました。
城主の秋山虎繁と夫人(おつやの方)は処刑
信長の憎しみは深く、最も過酷な刑である逆さ磔で処されたと言います。



何とも言えない叙情感ただよう岩村城ですが
江戸以降は、知藩としての存在感をアピールしていきました。

昌平坂学問所の佐藤一斎や、大学頭の林述斎(父は岩村藩主)
悪名名高いところでいえば
蛮社の獄の遠因を作った鳥居耀蔵(述斎の息子)
鳥居と敵対した、遠山の金さん(景元)は明知遠山氏の出身です。

日本の近代化に、少なからず関わってきた岩村藩
大人しめだけど、なんかやってそうな感じが
結構好きです。

岩村藩には、知新館という勉学所があり、学問が奨励されていましたが
これまでの歴史と関わりが少なからずあったのか否か・・・

御禁制の世の中では語られることはなかっただろうけど
謎めいていて、もっと知りたいような
奥深さがあります。

岩村には、何回も通いたいなと思っています。

岩村城の続き!(大手門~菱櫓まで)

2011-02-08 13:28:20 | 石垣のある風景(大原以外の!)
超!久しぶりの岩村城の石垣レポートの続きです
  その1 その2 

この9月の岩村登城ののち
安土や姫路に行きました。
そのレポートもありますので、急がなければ!

すっかり、半年前になってしまいそうですが・・・
その間に、小説や新書・マンガなどで
岩村藩や戦国・東日本の動きを勉強しました。



一見、片田舎の岩村ですが(失礼!)
どうして、その山の中に、こんな壮大な山城が築かれたのか・・・
(岩村は、岐阜県の恵那峡から愛知県方面に入ったところ)
織田信長が叔母を嫁がせたり、息子を養子に入れたりする必要があったのか?

地図だけ見ると、不思議でなりませんが

戦国時代の覇権争い
織田信長VS武田信玄 
その境界にあり、二つの勢力に翻弄されたのが
ここ、岩村

それ以前の古き時代にも
伊豆に本拠を置いていた、加藤景廉
…源頼朝の寵臣
平氏滅亡後に、遠山荘(岩村周辺)を与えられ
嫡男の景朝から遠山の姓を名乗ることになりました。
(桜吹雪で有名な遠山の金さんも、その子孫です)

何の変哲もない山村に移動させられたら、左遷と思ってしまいそうですが
実は、この遠山荘
大変な利権をはらんでいたのです。

キーワードは、木 曽 川

木曽川上流の豊富な山林
それを下流に運び、遠く京阪神などにさばかれます。

上流域の木材 → 木曽川で運ぶ → 下流域から各地へ → 寺社仏閣・城などの建築資材へ・・・

木曽川は、天然かつ巨大な流通システムであったのです。

加藤景廉は、本拠としていた伊豆地方で
山林経営のノウハウを培っていたようですし

織田氏においては、信長の父の代に、木曽川下流域で勢力を伸ばしてきた経緯もあって
木曽川上流域は、どうしても手に入れたい土地であったようです。

(秀吉の墨俣一夜城なんて、まさに、木曽川が味方したようなもんですよね)



そんなわけで(あまり説明になってませんが)
岩村には、難攻不落といわれるような、頑丈な山城が築かれたようです。

ほんと、ここに来てみると
一見、戦国の勢力分布図からはぐれたような、こののどかな場所に
どうして、こんな立派なお城があったんだろうと、不思議な気持ちになるのですがねえ。

前投稿の、立派な構造の大手門を過ぎると、
先ほどまでの「山道」から、一気に、お城の大手道らしくなります。



道の両側に、立派な石垣が並んでいます。



地図を見ると、ここは屋敷跡となっています。
手前の大手門の所にある、三重櫓が
外部の使者と接触する場所になっていたようですから

ここら辺は、岩村城のプライベート空間になっていたのでしょうか。





岩村城には、井戸が沢山あったようで
こちらは、竜神の井





向かって左側の敷地が、
八幡曲輪





写真の真ん中の坂道が
八幡さんへの参道で
階段の先に、八幡宮と二重櫓がありました。

八幡宮には、八幡神と
遠山氏の始祖の加藤景廉が祀られていたそうです。



大手道はさんで、八幡曲輪の反対側には
霧が井という井戸があります。



城主専用の霊泉で
敵が攻めてきたときに、城内秘蔵の蛇骨をこの井戸に投じると
たちまち霧に覆われて城を守ったと言われています。

この井戸の裏手が、二の丸になっていて
(つまり、大手道から見て、八幡曲輪の反対側の奥)
さらに、その向こうに、包み込むような形で本丸があります。



二の丸は、現在は私有地になっており
鬱蒼とした山林と化していました。



唯一、二の丸のランドマーク的存在
菱櫓



見ての通り、ひし形
鈍角になっていて、優しい印象だけど個性の光る石垣です

そして
菱櫓越えたら、いよいよ
お待ちかねの、本丸

石垣ファン待望の壮大な風景が待っています




~~~ つ づ く ~~~

岩村城 土岐門~大手門(追手門)。

2010-12-09 14:41:08 | 石垣のある風景(大原以外の!)
9月22日
岐阜県・恵那の岩村城
登城レポートの続きです



           太鼓櫓~土岐門までの記事


登城口の太鼓櫓から
大手道を登っていくこと
10分少々でしょうか。
(もっとかかってるかもしれません

土岐坂を登りきると
傾斜が緩やかになり
歩きやすくなりました。


(土岐門跡)

九十九折になってます。


(土岐坂~土岐門~畳橋に至る道)

土岐門から先
大手門を抜けるまでは
どうも
往時の登城口でなく
後から遊歩道として付け替えられた道のようです。

(だから、正確に往時を偲ぼうと思ったら
 前勉強と集中力、想像力が必要です
(実は私も勉強不足
 後から写真と資料をにらめっこさせて、ようやく全体像が掴めたのでした


(手前が畳橋跡~空堀の跡~奥に見える石垣が大手門跡)

写真右側手前の大きな木
そこから奥へと延びる土盛り
それが、畳橋の旧跡で
本来の登城道のようです。

畳橋の向こう側には、空堀が作ってあり
その奥にある大手門には
畳橋(木橋)を渡らないと進めない仕組みになっていました。


(空堀の方から見た、畳橋の遺構)


(手前が畳橋、奥が大手門の石垣群)
遊歩道になっている部分が、往時は空堀となっていた)


(上の写真とほぼ同じ位置になってます)

さあ~、想像力を働かせて
上の写真と見比べてください



手前左の石垣が畳橋跡
そして
中央の石垣が枡形跡

枡形の向かって右側の面に
畳橋がかけられ
そこに、平重門という門がありました。

奥・右側の大きな石垣の上に
三重櫓が建っていました。


(枡形跡
 写真・右側の側面に、平重門があった)


(三重櫓跡)

三重櫓は、大手門に付属する施設です。
天守閣と見紛えるほどの立派な作りでした。

畳橋は、戦時には切り崩して
即座に分断することができました。

岩村城を代表する要のひとつであり
なかなか複雑な作りとなっています。


(枡形の奥、平重門から入って、真正面にある高石垣)

早々突破のしようのない高さです

高さのある石垣を積めるというのは
築城者が、高度な築城能力を持っていた証です。


(さっきの高石垣の、上の段の石垣)


(左側・高石垣、奥の右側の石垣は、大手門の石垣です)


(大手門の石垣)

枡形から大手門をくぐり抜けると、
すぐに右折して
登城道が上に伸びていました。



~~~ つ づ く ~~~

岩村城登城口~一の門~土岐門まで。

2010-11-19 17:35:20 | 石垣のある風景(大原以外の!)
去る9月22日

岐阜県恵那市岩村町
岩村藩・藩主邸跡



岩村のシンボル・太鼓櫓と表御門

子どもの建っているところが大手筋になっていて
そこから真っ直ぐに岩村城に上がる道があります。

門の奥が、旧藩主邸の敷地・・・


(城下町を一望できます)

今は、岩村歴史資料館となっています。

関ヶ原合戦後の戦後処理
岩村城は廃城を免れたのですが

1601年に大給松平家の家乗が二万石で入封して
岩村藩が成立した後は

山上の生活は不便として
岩村城の北西山麓に藩主邸を構え
そこを居館としました。

(恵那市発行・資料館で購入したパンフレット参照)



歴史資料館の裏手には、民俗資料館とお稲荷さんがあります。

さて
歴史資料館・元藩主邸の敷地に車を置いて
そこから、岩村城への登城をしました。



今宵のお宿
岩村山荘

登城口にあります。



しばらく歩くと
すぐに、それらしくなってきました。



石畳と土壁・石垣



復元された下田歌子勉学所



下田歌子女史は、明治の人
実践女子大学の創始者です。

藩士の娘であったが、藩校の知新館は男子しか入門を許されなかったため
祖母から学問の手ほどきを受けたそうです。

宮中の女官となったが、ある時詠んだ歌が
「万葉時代の歌と遜色ない」と評価を受け
歌子の名を賜ったそうです。



さて
登城口・石畳の道を登っていきますと



ひたすら真っ直ぐ石畳
「藤坂の険」と呼ばれる個所です。

途中で、ぐっと左折する場所がありまして



戦になると、ここに初門が構えられ、
攻防の第一とされました。

初門の急カーブの後
再び、ひたすら真っ直ぐの石畳



よくもまあ、こんなに沢山石を運んだものだと思います。

真っ直ぐの石畳の先に
石垣が見えてきたと思ったら



ここが、一の門



ここから先が城内とされました。



ポイントごとにある看板は、イラスト入りでとても親切
往時の姿を想像しやすいです



一の門の先
次の土岐門まで、逆くの字に続く坂を
土岐坂と言います。

ここの石垣が
岩村城の中で一番古いらしく
中世末期のものと言われています。



この湾曲が時代を感じさせます



いったい
木が先に生えていたのものか?
後から生えてきたものか?




上から見たところ





この逆くの字の坂を上がると
土岐門跡に着きます。



門から、九十九折になって
追手門に続きます。


(一の門

(追手門方向)

土岐門の由来
初期の城主の遠山氏が、土岐氏に侵攻した際
その居城の城門を奪い、ここに移した、という伝承があるそうです。

現在も、唯一残存する城郭建造物として
岩村町飯羽間の徳祥寺に移築されています。



さて
土岐門の先は
わりと平坦な道



進行方向のちょっと先に
空堀があって
岩村城の見どころの一つである
畳橋の遺構が見えてきます。


~~~~~ つ づ く ~~~~~


岐阜・恵那の城。

2010-11-12 10:27:51 | 石垣のある風景(大原以外の!)
9月連休、岐阜旅行の続き。

JRパンフレットの写真に一目ぼれしまして
岐阜旅行の目的は、恵那の岩村城に即決!!!

日本三大山城のひとつ
剛健な石垣が多く残っているとのこと・・・

これは行くしかありません!


旅行二日目午後からたっぷりの登城計画で、
照準合わせて行動していたのですが
やっぱり欲張りがたたって、岐阜市内で思わぬ時間超過

お昼ごはんを食べたのが、もう2時前だったと思います。

天気予報も、午後から曇りのち雨、みたいな感じで
やっぱり雲行きが怪しくなってきました

ホームセンターで、傘4本買っての登城になりました。
(車なんだから、持っていけばいいのに・・・・

で、中央道恵那インターから20分ほどの所にある
岩村町

岩村藩城下町を横目に見ながら、山手に行くと
まず目に入るのが
立派な太鼓櫓です!


(最近再建された建物)

剛健な山城の「岩村城」は、江戸幕府以後は使われてなくて
山麓のこちら周辺で、藩政が行われていたようです。




江戸幕府・岩村藩は、三万石の小藩であったが
勉学に秀でた文教藩として知られていたようで
今、私が読んでいる、漫画「風雲児たち」ワイド版13巻にも
幕府の昌平坂学問所の塾長など務めた秀才として、佐藤一斎など
岩村藩出身者が出てきます

風雲児たち


こちらの建物が
1702年に開設された藩校「知新館」の正門(移築)



佐藤一斎をはじめ、多くの門人を輩出しました。



岩村藩では、知がものを言ったようで
武学が多少出来なくても、勉学を積んでいれば
武学修了と同等の地位が与えられたといいます。





知新館を創設した大給(おぎゅう)松平家の家紋:蔦(つた)

江戸幕府・太平の世をほうふつさせる岩村文教藩ですが
戦国時代は
武田信玄ならびに織田信長の勢力圏のはざまに位置し
天下の権力争いに翻弄された悲劇の地でもあります。
  

 
太鼓櫓・藩主邸からほど近い登城口
「女城主」というのが、なにやら意味深です。

森蘭丸が一時期拝領賜ったとも言われています。

ちょっと艶めいた雰囲気を残しつつ
続きは、次回投稿のおたのしみ~
                

石垣を見に行ってきました。

2010-09-30 14:47:22 | 石垣のある風景(大原以外の!)
先週、子達の参観日の代休に
岐阜に行ってきました。

「岐阜」に行くことは、春あたりから決まっていたのですが
岐阜のどこに行くかは決まっていなくて・・・

どこにしようかな~
とブラブラ考えていたのですが

夏休みに、JRで帰省の際
京都駅で手に取ったパンフレットを見て
即決!!!!

やっぱり
第一目的は、石垣になりました。
(私の願いをかなえること=家内安全ですしね




JRパンフレットで見た風景




しか~し
誰の城?かは
あんまり勉強してなかったので
ちんぷんかんぷん

今回も
お宿や郷土資料館で
知識を大量仕入れして来て
後ほど、詳しく報告予定です



誰の城かはよく分からんが
積み石がきれいにカットされているところから見て
比較的新しい石積みであることは分かります

岐阜旅行・3日目。

2010-02-18 09:40:17 | 石垣のある風景(大原以外の!)
岐阜県土岐に二泊三日
最終日~

旅籠屋宿泊・・・
最先端?の宿泊施設

フロント横のコーヒーサービスを利用する際に
フロントの人に軽く挨拶するのが楽しくなってきた最終日

朝のパンは、軽くトーストすると
今までは何とも思わなかったヤマザキ?のパンが格別美味しく感じました。

コインランドリーを十数年ぶりに利用
便利で安いが、家族5人分の服を乾かすのは1時間くらいかかる?
生乾きで、部屋中に干す・・・失策
(一体何をやってるんだか・・・)

コーヒーは、サーバーみたいなのでその都度いれるのだが
薄いので、濃いお茶代わりになった(皮肉ではない、胃に優しいという意味)

二日目のリネン交換・清掃無しで、1050円割引だったが、微妙かな・・・
部屋は我慢できるが、お風呂がザラザラするのは嫌なので、自分で掃除した
結構疲れるので、してもらうほうが楽やったな~
でも、1050円ならジュース10本買えるし、洗濯機10回使えると思ったら、
やっぱり割引のほうが得かな・・・
(もはや、旅行でなくて、日常生活の範疇になってますが)

フロント横には
新聞・パンフレット類が充実
ひととおり観光情報が仕入れられるし
ガイド本もあって、部屋に持っていって閲覧することも出来るし良かったです

楽しかったので、飽きるまでしばらく利用させていただくと思います。
最西端・山口下関サービスエリア内の旅籠屋に行ってみたいな~

奈良と伊賀上野・彦根も軽く押さえておきたい。

でも、やっぱり、また土岐に行きたいなあ~

*昨日、NHKの再放送で、古田織部のこと、やってました。

 歴史何とか、という番組で・・・
 かなり大げさな人物解釈だったか、本当にそんな人物だったか分かりませんが
 面白い人だったみたいですね~

 戦国武将だったから、当然陣中張ってたらしいですが
 その陣中でも、茶さじにするのに良さそうな竹を見つけて、
 その採取に夢中に・・・なったところを、敵に見つけられて、死にかける~
 そんなエピソードをも、茶さじのネーミングに加える、不思議な人

 ずばり、私のタイプかも?
 (織部演じた俳優さんが格好よかったのもありますが
 実生活・伴侶にはしたくはないけど、人生の師になってもらいたいかも~
 
 もう一度美濃に行きたくなりました。



さて
話は、旅行三日目に戻り
旅籠屋を出て、道の駅で陶器の買い物を済ませた私達は
土岐インターから高速に乗り
小牧東インターから犬山城の横を通過



木曽川の横を下流方面にすすんで


(シルエットが素敵です

各務原市・国道21号線経由で
岐阜市内に入りました。



なんか物々しいと思ったら、駅伝の交通規制
走ってはる人たちを眺めながら、金華山方面に進みました。



長良川を通過・横目に金華山を眺めて・・・

岐阜市内・大学時代の先輩の妹さんがオーナーの
南欧料理のお店で昼食を済ましてから
金華山に行ってきました

*本当は行く予定じゃなかったんですけどね
料理のボリューム満点で
腹ごなししてから出ないと、遠距離移動は無理、と判断

で、金華山へ出発!となりました。



金華山麓
冬の緑もきれい!
長良川の濁流に削られて出来たのでしょうか・・・
市内にありながら、急峻で荘厳な雰囲気を持った山です。

ごめんっ
金華山ナメてました
今まで、大したことないだろうと、観光の範疇からも追い出していた・・・・

でも、なんか良いです



ロープウエイ入り口も(て、公園の一部かな)
こんな日本庭園風で、気合が入っています。

ロープウエイも、迫力があって良かったです。
大人だけなら、登山で歴史散策しながら行くのも良さそうです。



ロープウエイ駅からも結構歩かなければいけません。
食後の腹ごなしにはもってこい






天守閣が見えてきてからの参道が
子供連れには、結構怖い道でした。

幼児は、柵の間から落ちたら
数十メートルは滑落しますので気をつけましょう

天守閣付近は平地が少なく
急峻な尾根?になってますので
落ちたら大変です。

難攻不落と言われただけあります



【岐阜城】

言わずと知れた織田信長の居城
戦国時代、斉藤道三が稲葉山城として築き
難攻不落の城として知られたが、くしくも娘婿である信長に追い出される形で
以後、岐阜城と呼ばれるようになる。

古くは鎌倉時代に二階堂氏が砦を築いたのに始まり、歴史は古い。

現在の復興天守は、コンクリート作り。
往時にどんな姿をしていたかは、資料がないのか、よく分かってないらしい。



この石垣も、コンクリートでくっつけてあるもの

往時の遺構は
登山道にいくつか残っているみたいです。
今度は見つけてみたいと思います。

ま~
今日は観光だけどね


素晴らしい晴天で、天守閣からの眺めはこの上なかったです。
降雪後で、空気も澄んでいて、霞もありませんでした

サイコ~でした

(北方面)

北陸・白山がよく見えます


(東方面)


左から
乗鞍・御岳・中央アルプス
くっきり見えましたよ


(東方面・ちょっと南より)


遠くは南アルプス
宿泊地・土岐も見えてるかな~


(西側)


長良川の蛇行が美しい
奥の大きな山が伊吹山です。



こうしてみると
岐阜って、大きな山に囲まれた
美しい街なんだなあと実感しました。

今まで知らなかったけど
先輩は、こんな美しい所で生まれ育ったんだなあ~
(そして今も住んではる)

羨ましい~です。

*後ほど、先輩と再会
 近いうち、また岐阜に来ることを約束しました

岐阜から愛知へ・・・

2010-02-16 09:59:00 | 石垣のある風景(大原以外の!)
2月6日
岐阜旅行・二日目
(一日目は、夕方発でしたので、移動だけ)

最初の観光は、国宝犬山城でした。
愛知県なんですけどね。

宿泊した土岐市も、愛知県に接したところ
ちょっと移動すれば愛知県です。

国道21号線で可児市・美濃加茂市に出て
日本ライン下りの乗船場があるところ・・・
そこから木曽川沿い~


(木曽川)

いい眺めです。
川好きの若!にはたまらない場所です。

そして
木曽川の下流方面に行くと
犬山城があります。


(木曽川と犬山城)

むっちゃ雪降ってます
まあ、雨男を連れてるわりには上天気だし
雪くらい我慢しなければ・・・

結構な大降りの中
天守閣へと向かいました。


(本丸門に続く石段)



あちこちに石垣があり
石垣ファンにはたまらない場所です
(ファン人口・・・何人?、でも結構潜在してそうですよね

久しぶりの、カテゴリー石垣です。
最近、休日はサッカーの練習ばかりで、登城できてません

うれしいです~




(復元された本丸門)



1537年 織田信長の叔父・織田信康によって建造されました。
小牧長久手の合戦の際には、豊臣秀吉が入城して、徳川家康と戦いました。

江戸時代になると、尾張藩の付家老の成瀬氏が城主となり
廃藩置県まで、代々受け継がれていきました。

明治以後、成瀬家の所有の城となり
昭和10年には国宝に指定されました。

国宝の犬山城・彦根城・姫路城・松本城の四城の中でも
最も古い城です。

現在は、財団法人「犬山城白帝文庫」の所有となっています。



自然石をそのまま積み上げた野面積みです。



なんか横で説明してはったけど
石自体
昔の海底のものだったかな?
変わった石みたいでした。

後ほど行った岐阜城も
こんな石でした。

明らかに、近畿地方とは違う石でした。
この辺の観察も面白いですね。



石垣の中
地下2階部分から入場します。



階段を上がると

【地下1階】

4畳半くらいのスペース
階段だけで、あとは何もない板の間でした。



もう一つ階段を上がると・・・




【1階】納戸の間


(地下からの階段と、二階に上がる階段)

横から見ると



写真奥が正面方向で
人が立っている部分が付櫓


(右側の出っ張った部分が付櫓)

付櫓の対角部分には
石落とし間があります。



ここには常時石ころが置いてあったんでしょうか?



もはや太平の世には必要ないものかもしれませんが
お城のインテリアとしては欠かせませんよね。



立派な鬼瓦

そして


【2階】武具の間

天守閣の大屋根の部分で
天井が高く
屋根のシルエットがそのまま生かされていて
美しい部屋です。



住むなら、ここが良いなあと思いますが
ここは武具置き場だったみたいで
実際の城主の居間は1階なのでした。

まあ天井高いと寒いですしね。
暖かいのは1階かな・・・



正面中央にある階段を上がると


【3階】破風の間



城郭建築を特徴付ける
口ヒゲみたいな屋根の・・・
唐破風(からはふ)の形がそのまま見れて面白いです。

ちなみに
この唐破風は、天主が築かれた時から77年後に
増築されたものだそうです。

モダンにリフォームってところでしょうか。


(最初は、真ん中の口ひげがなかった、わけです)


そして
やっと一番上


【4階】高欄の間

いわゆる城の展望台みたいなところで
外に出れます。

四方の展望が抜群と言いたいところですが
歩けるのは正面の一辺だけで
あとは通行止めになってました。

先の大きな写真でご覧頂くとよく分かりますが
回廊の手すりは、大人の腰元くらいまでで
防護柵もない、普通の木の手すり

風の強い日に歩くのは、立派な肝試しになりますね

子達は簡単に間から落ちてしまいそうで
自分も、覗くと吸い込まれそうで
へっぴり腰で恐る恐る覗いてみます。



暴れ川の木曽川も今日は穏やか~



本丸を見渡せます


それにしても
いまどき、こんな防護柵のないお城があるとは
驚きました。
(まあ警備?係員さんも沢山いはったけど)

さすがは
国宝犬山城です
素晴らしかったです!



下り階段
大変でした
行きは良い良いの長女でしたが
下りはやっぱり怖いみたい・・・
私が先導して、滑っても助けられるようにして
ゆ~っくり降りていったのでした

やっと来ました、大阪城。

2007-12-20 21:19:05 | 石垣のある風景(大原以外の!)
桜門前の軽食屋さんでお昼ご飯を済ませ、いよいよ天守閣です。



威風堂々!

でも、たしか平成大改修?とかで・・・雰囲気がずいぶん変わりましたね。
えらい金ぴかきんになりました。

まあ。
ひなびたお城もいいけれど、人間やはり金ぴかきんだと、陽気になります。



シャチのひれは、ねじで固定されてました。



いつも京阪(電鉄)から見えてる大川も見渡せます。
(青いアーチ型の橋がそうだと思うんですけど・・・)



さて。
天守閣に入ってから、1~5階まではエレベーターで上がりました。
(子連れには助かります。)
そこから屋上の8階までは、階段を上がるのですが。

8階に着くなり。
長男が、「喉が乾いた、ジュースが飲みたい」と言い出しよりました。
あまりに連発するので、次男までも真似する始末。

お好み焼き、たこ焼きのソース、ラーメンのスープが効いたか・・・

おそらく、自販機は下に戻らないと無さそうな雰囲気だし。
ここは、ひとまず、屋上で景色を堪能、お城の良さを味わって欲しかったのですが・・・

そんな融通が効くはずがない。

「ジュース・・・」
(長男の催促の声は、なんというかネチッコイ・・・)
「うるさいな~、後にしなさい。」
「のど乾いた・・・」
(かなり泣きそうで。うっとうしい)
「も~、見たら分かるでしょう!
 無い、言うたら無い!」
 
とかいう問答を繰り返し・・・
しょうがないので、急いで降りることに。

途中の階に、展示などしてあるようでしたが。
それらは見ることなく。
ひたすら、一階方面に向かって、階段を下りました。

怒りながら、二階のトイレに寄り。
一階でようやく自動販売機を発見。
事なきを得ました。



子達の気が変わらないうちに、帰途につき・・・
来た道を帰りました。

途中、こんな木があったり・・・



公園入り口の噴水前では、大道芸?の練習をしている人や・・・
サンタクロースの格好をして、ローラースケートをしている集団。
一輪車の練習をしているサークル。



阿波踊り?の練習をしている人たちや、チャンバラの練習をしている人たちがいました。



子達は、最初に来た公園に戻って、サッカーの練習をしていました。

この日は、思いがけず、大阪城まで来てしまいましたが。
親も子も、したいことが出来たので、満足な一日でした。
(私!のしたいことと言えば、もちろん石垣鑑賞です。)