京都大原紫葉工房便り

京都洛北・大原の里のしば漬屋から、毎日!情報発信。

⑤ やっと最終章です。

2008-04-06 14:30:04 | 風雲児たち!
4月1日。
午前中のうちに、関が原の石田三成戦陣跡を後にした・・・
私達でしたが。
本来の目的である・・・
「公園・アスレチック・サッカー・自転車」をするために
天候の良い太平洋側を目指すことにしました。

旧中山道を大垣方面に進みました。
大垣市街に入り、車が薄々渋滞気味になってきた頃から
すっかり天候は小春日和に・・・
大垣では、桜満開!
(伊吹山では、「ツボミ膨らむ・梅が満開期」でしたから、不思議です・・・)
(10~20キロほどの移動で、この変化です)

目指す公園は、適当な場所が見つかりましたので。
そこを目指して・・・
大垣市街、国道258号線との分岐で、伊勢湾・長島方面に右折しました。
(このへんから、今回の・・・妻!の罠中に入ります

大垣では、大垣城の横を通り過ぎ
ちょっと後ろ髪引かれながら。
(ついでに言うと、国道21号線、そのまま直進すると・・・
 有名な墨俣一夜城の記念館があります

国道258号線、名神道の高架下をくぐってから、しばらくしたところから、右折。
揖斐川を渡って、長良川沿いに、下流方面に向かって移動しました。

着いたところは・・・
海津市にある、国営木曽三川公園センターでした。


(木曽三川公園と、シンボルのタワー)

着いてみると、何の変哲も無い、ふつ~の大きな公園でしたが。
なぜ、私がここに来てみたかったかと言うと・・・
ここここ
漫画「風雲児たち」(みなもと太郎)第3,4巻で・・・
江戸幕府・薩摩藩による木曽川河川改修事業について知り。
そのあまりの残酷さと
過酷な状況でもやり通した・・・事業の意義の深さ
もう、胸の詰まる内容でして。
一度、この地を訪れてみたいと思っていたからでした。

しかし。
着いてみたけど・・・
ほんと、ふつ~の公園で拍子抜け
特に歴史的経過については、触れられていないようでした。
(後から気付きましたが、公園内に輪中農家のモデルハウス?ありました。)

それでは、と思って・・・
(一番何かがありそうな)
長女と一緒に、タワーに登ってみることにしました。
(大人600円)





タワーに上がって、伊勢湾(下流)を望むと・・・


(見えにくいですが、右から、揖斐川・長良川・木曽川です)
(写真・右下角の松林が治水神社、油島提が長細く続いています)

たしかに、木曽三川・・・
揖斐川・長良川・木曽川、三つ並んでいるのだと、分かりました。
(地上に居たら、まっ平らで、全然実感ありません)


(上流方面:奥が木曽川、手前が長良川です)
(間に、なが~い背割提が続いています)

このタワー、すごく眺めが良いけど・・・
本当に木曽三川の眺めを見るためだけのもので、平日閑散期は採算取れているのか、ちょっと心配。
でも、ここに登ると、河川改修の意義を確認できますので
有効利用していってもらいたいものです。

タワーの一階には、パネル展示。
なぜだか、子供向けのテレビゲームみたいなもの・・・
(なまずがでてくるとか、そんなゲーム)
河川改修に関するものは、お堅いイメージで敬遠されているのか。
あまりありませんでした。

が。
パネルシアター?室があって、定時放映がありました。
江戸時代と明治時代の・・・河川改修、1部と2部がありましたが。
あいにく、放映を見るには、若干時間が余っていて・・・
長女の退屈は避けられないので、泣く泣くあきらめました。


家に帰ってから。
ネット検索で、にわか勉強しましたよ。


(見えにくいですが・・・
 濃い青色の線が、木曽三川
 ちょうど3つが交わるところに、三川公園があります)


(その1)

まず、中央に位置するのが、木曽川(一番右側の青線)
木曽山脈から流れ込む、暴れ川です。
何度となく、下流域の人は水害に悩まされてきました。

そこで、水害から尾張を守ろうと奮起したのが、豊臣秀吉です。
見てのとおり、木曽川に沿って、ぐるっと尾張(愛知県)を囲った・・・
御囲提(おかこいつつみ:ピンク線)が作られました。

飛騨川と木曽川が合流して、河口に向けて大きく蛇行する愛知県犬山市から
河口部の弥富まで、御囲堤が作られています。
江戸幕府では、他藩から尾張藩を警護するための意味合いもあったため
手厚く保護されてきました。


(その2)

しかしながら、御囲堤が出来たことによって。
木曽川の増水時には、美濃(岐阜県)側に水があふれ、前にも増して、水害に苦しめられるようになりました。
これは、木曽川よりも、長良川・揖斐川の方が海抜が低いことにも起因します。

ですから、長良川・揖斐川流域にも、より強固な堤を作る必要性が出てきました。
しかし、「木曽川よりも高い堤を作ってはいけない」という不文律も存在していたようで。
住民は、輪中集落を形成することで、水害に備えるしかありませんでした。

その間にも、何度となく幕府への陳情が続けられ・・・
それがようやく認められて行われたのが
薩摩藩による河川改修:宝暦治水でした。
(なぜに地縁のない薩摩が美濃へ?と疑問を持たれた方、是非リンクをお読みください!)

その第4期目で最大の難工事だった・・・
油島千本松締切提。
写真の赤線、木曽三川公園の麓の治水神社から河口に向けて、長細く続いています。


(その3)

私達が車で大垣市から公園まで移動してくる途中・・・
長良川の東側にずっと続いていたのが、背割提(せわりてい)。
(羽島市から長島町まで:黄色線)
いったい、いつ作られたのだろう?と思い、気になっていました。
宝暦治水には出てこないし、御囲堤とも違うし・・・
なかなか、背割提の地名を思い出せずに苦労しました

やっとこさ、地名を思い出して、検索にかけ、判明しました。

宝暦年間の治水工事が完了したものの。
根本的な水害の歯止めにはならず、その後も、度々水害がおこった濃尾地方。
明治時代になって、ようやく、近代的土木技術を生かした治水事業が行われました。

政府は、オランダ人のヨハネス・デレーケを招き、明治20年から25年かけて、工事を完了しました。
デレーケは・・・
・水害多発の原因は、木曽三川をはじめとする諸川の流出する土砂の堆積にある
・それは、河川流域における樹木の伐採によって引き起こされている
と述べ、「川を治めるにはまず山を治めるべし」という言葉を残しています。






さて。
私と長女は、タワーを出てから。
油島千本松締切提の始まりに位置する・・・
治水神社に行ってみました。


(治水神社全景)

すると、思ったとおり
まる印に十字マークの、薩摩藩の家紋と思しきマークが!
あちこちに見受けられました。
(瓦も、このマーク入り)

宝暦治水事業の経緯を説明する看板や、銅像などありました。
治水事業下の過酷な状況で病死された藩士
幕府のひどい仕打ちに抗議して亡くなった者
幕府側でも、薩摩藩に同情して、幕府に抗議・自害した者
治水に貢献された方々に感謝し、手厚く祀り、防水を祈願するための神社とお見受けしました。
(そろそろ、長女の機嫌が悪くなり、ゆっくり出来ませんでした)


(中には鶏、外には野良猫、動物の多い神社でした)




超!不機嫌の長女。(魔の二歳児)
「じゃあ、帰る?」
「いや~」
「じゃあ、まだ居る?」
「いや~」
「じゃあ、どうするの?」
「いやいや~」

魔の二歳児、炸裂していました。

その後、ご希望通り、公園に行ってひと遊び。
長男と一緒に遊んでました。

入れ違いにタワーに行った、次男と若!
いつまでも帰ってこないと思ったら・・・
タワー頂上から階段で降りてきて。
一階でずーっとお絵かき(なまずの絵)をしていたんだそうです。

それはそれで、良い思い出が出来て良かったね。



今回は、なんだか、私の行きたいところばかり行ってもらい・・・
感謝!感謝!でした。

ますます、家族奉仕に精を出さなきゃーね!

④ ふたたび関が原!

2008-04-05 09:00:40 | 風雲児たち!
4月1日午前中。
天候の思わしくない伊吹山麓から移動することにしました。

国道365号線を通って、関が原方面。
岐阜方面は「晴れ」の予報でしたから。
そちら方面の大きな公園に行くことにしたのです。
(子達の期待は裏切れないから・・・)

残り飯で作ったおにぎり8つを持って、出発。
(関東では「おにぎり」、関西では「おむすび」だったかな。
 東西分け目の関が原です

そのうち半分は、三島池で雨宿りしているうちに食べてしまった・・・
残りは、車の中で。
これだけ人気があると、作り手としては嬉しかったです

道中、関が原に入っても、まだ雨がパラパラ・・・
あ~、仕方が無いね。
諦めムードでしたが。
国道沿いに、「関が原古戦場」の標識を見つけたら、やはりムズムズ。
とりあえず、車の中からだけでも見ていこうかということになりました。


(笹尾山・石田三成戦陣跡の入り口)

戦後400年記念祭もあったようで、旗がヒラヒラ。
駐車場完備で、お客もチラホラの石田三成陣跡でした。

「お母さん、写真だけ撮ってくるし」
そう言って、外に出たのですが。
次男・長女もついてきて、外に出てウロウロし始めました。
着いてしばらくは、雨がパラパラしていましたが。
次第に晴れ間が見えてきて、雨も上がった・・・
まんざらではない。


(馬よけ?の柵)

次男は行く気マンマンで
「早く行こうよ。」と言うている・・・
それに続く長女は、遊歩道の段差が高くて苦戦
う~う~、うっとうしい声を上げている・・・
「あ~、じゃあ、やめとこうよ」
そう言うと、長女「いや~」と怒ったので、行きたいらしい・・・

調子の悪い?長男は、若!にまかせて。
下の子ふたりと登ってみることにしました。
(結局、長女は抱っこで・・・)

次男、えらい調子が良くて・・・
(こいつ、かなりムラがあります
長女も抱っこでしたので、5~10分ほどで戦陣跡に着きました。


(笹尾山・山頂付近)

テーブルセットがあり、ゆっくりくつろげるようになってました。
狭くて地味な大谷吉継戦陣跡を思い出し、胸が熱くなる・・・


(みなもと太郎「風雲児たち」:本当にこのような会談があったのか?)

まさに、マンガと同じ景色!です。


(盆地奥・一番手前の小山が、敵の家康陣があった桃配山)

とても見晴らしの良い場所でした。
こんなに見晴らしが良かったら、具合が悪いのでは・・・と思ったりするのですが。
(相手にも丸見えでしょう。)
でも、見えてても良いのか・・・
ん~、もっと本を読んで勉強しよう。


(大谷陣まで、馬でどのくらいかかったのだろうか?)
(石田・笹尾山~大谷・陣、その隣の小早川・陣あたりまでが西軍です。)

帰ってから、あらためて、漫画「風雲児たち」(みなもと太郎)を読んでみました。
自分が行った、まさにその場所で起こった出来事、と思うと、これ以上ない読み応えがありました。

「風雲児たち」は、何度読み返しても面白いです。
各家庭に一冊ずつ揃えておくべきだと思う・・・
(あくまで私の主観ですが)

さて。
大谷吉継公墓所のまわりの、かたくりの花も美しかったですが
こちらでも、たくさん花が咲いていました。



なんという花でしょうか?
初めて見ました。
この時期に山に入れてラッキー
思わぬお土産を頂きました。




 ~ まだまだ、つづく ~

② 関が原・大谷吉継公の墓所と戦陣跡。

2008-04-03 17:01:14 | 風雲児たち!
大谷吉継公の墓所に行くには、二つのルートがあるようでした。
一つは、中山道(国道21号線)沿いにある神社から登る道。
もう一つは、関が原鍾乳洞や胡麻の郷がある県道229号線から中山道に抜ける道・・・から登っていく道でした。

ネットでいろいろ調べてみたら。
どうも、中山道沿いの神社から行く方が楽なようでしたから。
半分その気になっていたのですが。
よく読んでみると・・・
神社の参道の途中、JR東海道線の線路が横切っているそうで。
そこは、踏み切りが無くて、見通しの悪い・・・
魔の踏み切り?のようでした。
(貨物列車も多いし)
大人だけならともかく、足元おぼつかない子供を連れてますので。
やっぱり止めておきました。

それで。
今回、二つ目に紹介したルートから墓所を目指すことにしました。
このルート、地図だけ見たら、林道のような表示で、墓所に向かう遊歩道に近い部分は点線になっていて、車では行けない様な感じでした。
でも、ぶっつけ本番で行ってみたら、遊歩道の入り口まで入れました。
(最近補修したのか、結局中山道まで抜けれるようでした。)
(オヤジ様も、このルートを通られたのですね。)


(遊歩道で城山?方面に向かいました)

この遊歩道の反対方面には、天満山があり、そちらには、宇喜多秀家の陣跡があります。
ハイキングルートとして整備されているのか、周りには梅の花が咲いていたり、なかなか綺麗でしたよ。

大原を出る時は小雨がぱらつき。
滋賀県も、くもり時々小雨のような天気でしたが。
こちら関が原は晴天。

勝手な思い上がりですが。
「大谷公に呼ばれてる~」と思いました。
こういうのも運と縁だから・・・
縁がなかったら、きっと行けなかったよね。
縁があって、良かった!


(入り口から100メートルほど、階段を上がりました。)

急峻な坂道を登りきると、あとは比較的平坦な山道が続きました。
数百メートル程で到着。
遊歩道入り口から、大人で5~10分ほどと書いてありましたが。
子供連れてると、丁度良いハイキングになりました。

一番身軽な長男は、どんどん先に行くのが嬉しいようで。
それに負けじと追いかける次男。
(追いつけないので、カンシャク起こしていましたが。)
やっぱり男の子、元気です。
(長女は、まだ山道が怖い年頃です。)

山道を進んでいくと、大谷公戦陣跡との分岐点があり。
もう、そこからは、見慣れた旗がヒラヒラと・・・



念願の大谷公のお墓の前に到着しました。


(大谷吉継と家臣の湯浅五助のお墓)

やっとお会いできましたね。
と、心の中でつぶやく・・・

子達は、お決まりのあんあんさんをする。

数々のブログで、お墓にはいつもお花が供えられている、と見ましたが。
確かに、今日もシキミかサカキが飾ってあり。
しかも、きれいに水掃除した後のようでした。

そういえば・・・
遊歩道から山道に上がる途中。
40代くらいの、葉っぱ(シキミかサカキ)を持った男性とすれ違いました。
その人は、自転車かバイクで帰って行きましたが。
ああ、あの人だったのね。
家の墓守だけでも大変なのに、わざわざ山の中に入ってのお世話・・・
ご苦労様です。
(観光協会から委託されてるのか、それとも個人でされていることなのか?)


(背後から: 主君から退いた位置にある湯浅五助の墓)

さて。
主君・大谷吉継公の隣で眠っている・・・
家臣の湯浅五助。
逸話の多い主君に負けず劣らずの伝承が残っているようです。
(これは、帰ってきてから調べて分かりました。)

主君から厚く慕われて、信頼を得ていたらしい湯浅五助・・・
諸説ありますが。
「この首を敵に渡すな!」との命を受け。
切腹後の大谷吉継公の介錯(首を取る事)をして、その首を持って逃走を計りました。


(みなもと太郎「風雲児たち」より)

ところが!です。
五助が、追っ手から逃れ、主君の首を葬っているところを・・・
あと一歩というところで、敵の藤堂高虎方に見つかってしまいました。

藤堂方も、姿を見て、ピーンと来た!
「さては、主君の首を埋めておるのじゃろう」
湯浅五助、ひるむも。
「首を渡すなとの主君の仰せ。
 私の首を差し出すかわりに、主君の首は探さないでほしい。」と懇願。
その姿に打たれた藤堂方も追及はせず、五助の首を持ち帰った・・・

首実検。(誰が誰の首を取ったか明らかにすること)
徳川家康の前に、湯浅五助の首が出された。
「五助ほどの家臣ならば、主君の首のありかも知っていたはず。
 なぜ、生かして追求しなかったのか?」
と家康に詰め寄られた藤堂方の家臣。
「それを申すくらいなら、褒美・命も惜しくない」
と、頑として譲らなかった。

その姿に、家康も心を打たれ。
「いや、あっぱれじゃ」と言ったかどうかはわからないが。
働き以上の功賞を取らせ、褒め称えたと言います。

よくでけた話といえば、話ですが。
きっと、それほどの魅力ある人物だったからこそ、これらの逸話が伝えられてきたんでしょうね。

この、大谷公・湯浅五助の墓所も・・・
後になって、藤堂家が建立したと言います。

話には、諸説異話もあり・・・
いや、そうではない、大谷公の首は五助が埋めたんじゃなくて。
戦陣の混乱の中、五助が大谷公の介錯をして、落ちた首を誰それが受け取り・・・
それを甥っ子の誰それが布にくるんで、逃走し、米原の山中に埋めたとの・・・
説もあって、米原には大谷公の首塚があるそうです。
あ~マニアック。

まあ、どっちでもいい。
どっちにしろ、この地で関が原の戦いが行われたのだ・・・
あ~、本当にあったんだ。
大谷公という、逸話あふれる魅力的な人物も、確かにこの世に存在したのだ。


(かたくりの花?がアチコチに咲いていました。)

かたくり、という花が、こんなにも普通に自生しているものかどうかは知らないが。
たくさんのかたくりが咲いていました。
まるで、数々の御霊を弔うかのように・・・
不思議な光景でした。





さて。
さきほどの分岐点から、今度は戦陣跡の方に向かいました。
行かなくても良いと思ったが(お墓だけで満足だし)
ここは、それほど遠くないので、ついでに行くことにしました。

子供たちも文句言いません。
ただ、長女の抱っこをしている若!が可哀想でした。
(平坦なところは、私もしましたがね。)

すぐに到着しましたが。
道中は、ぐちゃぐちゃのぬかるみ道もあり、靴が


(関が原の盆地に面する、大谷吉継の戦陣あと)

急峻な場所で、それほどの陣が作れそうもありません。
大谷公は、死ぬ覚悟で来た事、小部隊であったこともあり・・・
かなり簡素なものだったのかもしれません。
(まあ、そういうところにまた惹かれるんですよね。)


(JR東海道線・中山道沿いにある若宮八幡神社の裏山でした。)

もうすぐそこが東海道線の線路のようで、電車の音が聞こえました。



彼が、この戦陣で、何を見、何を思ったか・・・
思いをはせるほど、それは、歴史ロマンですね・・・

まあ、戦場は凄惨極まりないものだったでしょうが。
それを礎に、今の私達があるんですね。
そう思うと、何とも不思議。



ちなみに。
駆け引き上手の家康。
毛利方内部の裏切りと、小早川秀秋の寝返りが決定打となって、戦の勝敗が決定したと言われています。
それが無かったら、もしかしたら、石田光成・西軍方が勝ち、家康・東軍方が負けたのか・・・
とかモンモンと考えたりもしますが。
やはり、あれだけの家康だったからこそ、江戸幕府を築くことが出来・・・
今「篤姫」やら「大奥」でやってるような~
スレスレの内部事情の中でも存続することができるような、強固な政治機構を構築することが出来たのだろうと思います。
やっぱり、たいした器です、家康は。

ま~。
やっぱり、私は、大谷公が好きですけどね。

① 関が原に到着!

2008-04-02 19:40:39 | 風雲児たち!
3月31日(月曜日)、天候の思わしくない中、お出かけしました。

興奮して?3時半に目が覚めてしまった私。
再三の用意を完了して、9時ごろの出発。

滋賀県伊吹山方面、高速は使わずに、湖岸道路を通って出かけました。
(いつものことですが)30分も車を走らせると、退屈してくる子供たち。
何回か休憩を取りながら・・・

本日の最初の目的である、関が原鍾乳洞には、お昼には着きそうでした。
遊びが先か?ごはんが先か?
迷いましたが、子達は朝ごはん少なかったので(吐いたら困るし)
先に済ますことにしました。

「お昼ごはんは、うどん?ラーメン?お蕎麦?何にする?」
と聞くと・・・
「お蕎麦~」という次男の元気いい返事。
うどん、ラーメンなら関が原だったのですが。
お蕎麦なので、伊吹方面に決定!

一度は言ってみたかった、伊吹山の麓・・・
「伊吹野そば」に決定!
開店直後に行ったので、20食限定・特選ざる蕎麦を食べれて満足しました。
(う~ん、正直、特選と普通の違いが分からなかったけど。)

お店を出ても、まだ12時前。
早起きは三文の得、とは、こういうことですね。

国道365号線を関が原方面に走らせていくと。
伊吹山ドライブウエイの手前に、目的の関が原鍾乳洞の看板があり。
指示通り、右折して行きました。

しばらくすると、県道229号線と交わる交差点に出るのですが。
この交差点で右折(滋賀県方面)すると、鍾乳洞。
直進すると、なんと!
大谷吉継の墓所、の表示が出ているではありませんか!

もちろん、リサーチしていましたし。
吉継公のお墓にも行きたいと思ってはいましたが。
この道、きっと車は通れないのだろうと、諦めていましたから・・・
なんと、うれしいこと!
(最近改修したところなのか、立派な道でした。)

天候も、滋賀県方面は曇っているのですが。
関が原は晴れてましたから。
絶好のハイキング日和!
「鍾乳洞のあと、行ってほしいな~」
と、若!にお願いしたら、良い返事。

なんと、うれしいこと!

若!が神様に見えました。
(そうそう、私、大谷吉継のファンですから!)
(オヤジ様、山内一豊戦陣跡に行きませんでした。
 すっかり忘れてました





と、その前に、鍾乳洞。


(関が原鍾乳洞の入り口)

次男、あまり行きたくなさそうだったのですが。
洞窟の中には、ニジマスやアカハラが居る、と行った途端、大喜びして、早く行きたい!と。


(このような感じで、地下トンネルが続いていました。)

鍾乳洞的には、お子様向け?でしたが。
まったく高低差も無いし、楽ちんで良かったです。
ベビーカーでも行けるそうですよ。
(ただ、入場料700円が高いか安いかは、その人次第・・・)

暗くて、探検気分が味わえるのが良かったみたいで、子達は大喜び。
妻!が長女と売店でウダウダしている間に、3人で洞窟内をもう一周していました。
(良かったのだろうか?)

売店は、昭和の雰囲気たっぷりのところでしたが。
御影石の敷石(直径30センチくらい)が100円で売ってあって、買おうかどうしようか迷いました。
(結局、重たいので止めておきました。)

子達は、元気いっぱい。
まだまだエネルギー有り余ってるようでしたので。
大谷吉継公の墓所までハイキングすることにしました。
(雨だったら、絶対行かなかっただろうし、本とラッキーでした。)


       ~ つづく ~

先日の、木曽三川治水事業の話の続き。

2007-01-14 14:44:10 | 風雲児たち!
 こないだ、わたくし、途中で沈没してしまいましたので。
 その続きから。

 いやね。
 私が思うに、「忠臣蔵」より大きく扱うべき史実だと思うんですよ。
 (言葉足らずで稚拙な表現をしますと)
 忠臣蔵より、もっと泣けます。
 (薩摩の皆さん、ごめんなさい。こんな表現で。)
 史実の悲惨さはもとより、藩士の忠義の厚さに胸を打たれます。
 比べてもしょうがないんですけどね。
 こんなに地味な扱いでいいんだろうかと思うわけです。

 さて。
 話は戻り。
 (資料は、全て前回と同じく漫画「風雲児たち」から用いております。)
 (ブログを初めて御覧の方、1月11日分も併せ持って御覧下さいませ。)

 薩摩藩。
 七十七万石の大国ではありましたが、それも名前だけ。
 裏返してみると、度重なる桜島の大噴火で米の取れ高も保障されず。
 いったん被害が出れば、イモ食って飢えをしのぐ。 
 そんな半農半士の侍の集まりでありました。
 借金、七十万両あるのみ。

 ですから、幕府が、おんしらの金使って、他所さの川の治水工事を行なえというのは、どだい無理な話なのでした。
 幕府による見積もりは、十四、五万両・・・
 「工事ば受くればわが薩摩は潰れもす。」

 かといって、断れば、即反抗とみなされ、藩の御取り潰しもされかねない。
 「進むも地獄、退くもまた地獄・・・」
 まさに、非常事態でありました。

 おのれ、幕府よ。
 今こそ、さつまっぽの御意地かけて、公儀と一戦交え、海の藻屑と散ってしまおうではないか。
 一同、決起の時。

 まて。
 ここで早まれば、先の戦いで散った1500余命の命を、犬死とすることとなるぞ。
 「すまぬ。耐えてくれ。」
 かくして、薩摩藩士、遠く見知らぬ地、濃尾の地まで旅立ったのであった。

 一か月あまりの陸路、海路を経て、続々と「戦場」に到着した。

 当初の幕府による工費見積もりは、15万両(現在のお金で、100億円前後)。
 だが、さらに同額程度の追加工費が必要であることが通達されました。
 莫大な費用。

 それを上方から資金調達してきたのが、勝手方家老の平田靱負(ゆきえ)でありました。
 三十万両の金策。
 それは、密貿易品の売りつけと、奄美・与論・沖永良部から採れる砂糖を担保にした借金でした。
 悲しきかな。
 封建社会の宿命か。
 上は下を責め、下は、またその下を責め立てる。
 薩摩もまた、植民地への圧力をもって、資金調達せからしめたのでした。
 (ごめんなさいね。あげたり、さげたりで。だけど、ここもまた外せない歴史の一部分であります。)


 話、半ばですが。
 うん百年続いた江戸幕府も、封建制度により支えられたものでした。
 近代的な国家成立は、まだまだ明治を待たねばなりません。

 武家社会の厳しいご法度に着目。

 よく、「法治主義」とか「法の支配」とか新聞で耳にしますが。
 時々、意味を混同して、用いられております。
 簡単に説明しますと。
 「法治主義」とは、おもに、主君による絶対主義的国家の中での、主君が国民を縛り付けるための、法律使用の考え方です。
 それに対し、「法の支配」は、現代のような民主主義国家の中で、国民が(あるとすれば)主君の絶対的支配を防止すべく作られた法律使用に基づく考え方です。

 さすれば、江戸幕府のそれは、法治主義。
 まさしく、幕府が各藩や民衆を絶対支配するための、がんじがらめの法体制でありました。
 守らなかったら、お取り潰しだよーん、それとも斬っちゃおうか?なーんてね。

 当然、閉塞感でいっぱいです。
 常に恐怖や不安に怯えていなければいけません。
 種まきゃ、必ず作物がとれるというものでなし・・・
 厳しい幕藩体制。
 たまるは、お金か、恨み辛みか。
 内側から、膨張。
 爆発してしまったといっても、言い過ぎでは無いかもしれません。



 ああ、また、わたくし、沈没しそう。



 さてさて、家老平田公の資金調達に勇気付けられた藩士たち、見知らぬ土地での、慣れない作業を次々こなしていきました。
 第一期は3ヶ月、逆川洗堰締切工事。
 第二期は6ヶ月、大ぐれ川洗堰工事と、油島突端から川を二筋に分ける大堤防工事が行なわれました。
 重機の無いこの時代、しかも素人によるもの、いかに大変な難工事であったか想像に難くありません。

 そんななか。

 「度重なる屈辱に耐えきれず 工事の難航に絶望し 
  病死していく友のあとを追い
  望郷の念止みがたく
  幕府への恨みとやり場のない怒りを己にむけて」 
 憤死するものが相次ぎました。

 「しかし、このことが公となれば、幕府への批判、抗議と受け取られる。
  あくまでも、反抗の意思がないことを示さなければならなかった。」
 
 彼らの死は、「腰のものにて怪我」として処理されました。

 「工事終了までに、薩摩藩士の殉難は、切腹52名、病死32名にのぼったのである。
 この中には、事故死者は一人もいないから、あるいは犠牲者はもっと多かったのかもしれない。
 そして、切腹したのは薩摩藩士ばかりではなかった。
 何と、幕臣のなかからも二名、薩摩藩士に同情したか、幕府に抗議して切腹した役人がいるのである。」

 かくして、宝暦5年、3月28日。
 木曽三川改修工事は終わりました。



 疲れ果てた薩摩藩士のほとんどが立ち去ったあと。
 工事総奉行 平田靱負
 「川普請一切の責任を果たし終えて自刃」

 藩主 島津重年
「彼自身 病弱な体質であり いままた平田を失い 
 二年に及ぶ極度の心労のため 
 わずか一ヵ月後 27歳の若さで彼の後を追った。」

「この薩摩藩の悲劇は、幕府を刺激せぬよう、および領民の動揺を恐れて、関係者にも一切の他言を禁じ。
 工事の詳細は、すべて闇に葬られていったのである。
 
 百十年の後、明治維新が起こり、薩摩藩は徳川幕府を倒し、関が原の怨念も消滅したが。
 その頃はすでに宝暦年間の治水工事を知る薩摩人も消え去っていたのである。
 
 子孫にこの物語を語り伝えたのは、濃尾の民、百姓たちであった。
 岐阜の人々が「薩摩様」と感謝をこめて語り継いだ治水工事の物語は、しだいに人々の知るところとなり、資料の発掘、収集により、やがて全容が明らかになっていった。」

 

 治水事業。
 水を制するものは、権力を制する。
 太古の昔から、文明あるところでは、治水権を行使する権力者がおり・・・

 あんまり、現在の治水行政なんかに触れますと、権力がらみになってしまいそうで、何も語ろうとは思いませんけど。
 現在、治水事業は、主として、水害を防ぐための河川改修と、環境問題との間で揺れ動いております。

 もちろん、大きな目で見れば、地球の環境問題は大切なことなんだけど。
 流行的世論に流されやすいという側面もあるような・・・

 水あるところ、歴史アリ。
 隠れた歴史に目を向け、現在の問題についても考えていきたいかなと、考えた妻!なのでした。

 

 
 

木曽三川・治水事業 (漫画「風雲児たち」から)

2007-01-11 16:55:34 | 風雲児たち!
 話はさかのぼって。
 江戸時代。

 美濃の国の民をたびたび困らせていた、暴れ川。
 木曽川・長良川・揖斐川。(でしたっけ。)
 この三つ並びの川。
 隣り合わせでありながら、それぞれ海抜が違うため、ひとたび大水となれば、堤防が決壊し、一つの大海と化してしまうのでありました。

 そんな暴れ川の中に出来た中州集落。
 水害起こるたびに、家や人が押し流され・・・

 住民の知恵として、輪中が作られたり。
 江戸幕府が成立してからは、木曽川の東にある駿府城を水害から守るため、お上による大規模な治水事業が行なわれました。

 しかし、このお上による堤防が木曽川の東端に作られたため、かえって、西側の水害がひどくなる結果となりました。
 住民の必死の嘆願の末。
 幕府は動き。
 なぜだか、薩摩藩に治水工事の命が下りました。

 なぜなら、薩摩藩いぢめ。
 に、他ならない。

 関が原以来。
 薩摩は、敗戦国でありながら、唯一領土を搾取されなかった。
 西の大国。
 敗者の苦肉の策。
 (関が原では、直接戦を交えることのなかった薩摩藩だが、撤退時、藩のプライドかけて、家康陣地のまっ正面を突っ切って、退却したのであった。)
 そして、必死の外交のおかげである。(ハッタリとしかいいようがない。)
 (当時、戦に勝利したからとはいえ、まだまだ形勢不安定であった家康陣、そうそう簡単にはつぶせなかった。)

 逆に言えば、幕府からすると、鼻持ちならない存在に他ならない。
 ああ、チャンスさえあれば、よこっぱな、へし折ってやりたい。
 そう思っていたわけで。

 薩摩藩の金による、薩摩藩の人による、大工事が行なわれることとなった。
 しかも、宿賃、メシ代、水一杯まで、びっちり向こう側にお金を取られるシステム。
 必要人員として、地元の民も雇うが、とうてい役に立ちそうに無い子供、年寄りにいたるまで、雇わなければならないお達しで、しかもたかーい人件費を払わなければいけなかった。
 尋常でない、幕府の締め付け。
 (ここらへんは、参勤交代システムによる、各藩締め付けと同じ性質だろう。)
 要は、難癖、けちつけ放題、びた一文でも多く薩摩藩から搾取し、隙あらばつぶしてしまおう、という腹である。


 書くのに、ギブアップ。
 これ、まんが「風雲児たち」第3巻の受け売り。



 とにかく、ひどいんですわ。
 最後の最後まで、ひどい話で。
 何度読んでも、涙を禁じえません。

 そのなかで、薩摩藩必死の生き残りをかけて、何十万両という膨大な金策に走り回った重臣たち。
 そして、この過酷な状況の藩内にありながら、その命に従い、見知らぬ土地の治水工事の重労働に耐えた藩士たち。
 その求心力とは、何だったのか。
 
 薩摩藩士。
 関が原退却時。



 向こう数万人とも、数十万人ともいわれる家康陣を突っ切って。
 当主ただ一人を、生きて領地まで帰すため、自ら盾となり、身代わりとなった藩士たち。
 死してなお、その場を塞ぎ、動かなかったそうです。
 1600余の兵が、帰ったときには、数十人しか残っていなかったといわれています。

 そんな逸話が、藩内で語り継がれ。
 子から孫。孫からひ孫へ・・・



 でもさ。
 そんなに嫌なら、逃げたらいいのにさ。
 そんな借金まみれの藩なんて、勝手につぶれりゃいいじゃん。



 どうして、過酷な状況にありながら、彼らは逃げなかったのでしょう。



 考えれば考えるほど、涙を禁じえません。

 


 文章力が無いので。
 どこまで伝わったか・・・

 一人でも多くの方に、この漫画を読んで欲しいわ。
 この歴史知らずして、日本の歴史は語れない・・・と思うんですわ。

 私は、ネットのアマゾンで検索して、買いました。
 「風雲児たち」
 作者は、みなもと太郎という人です。
 すぐ出てきます。

 てゆーか、読みたい方は、貸しますので、いつでも辻しばにお越しください。
 ほんとにね。