近頃・・・
すっかり幕末にハマリ混んでいる私
いま読んでいる「世に棲む日々 3巻」(司馬遼太郎)には ・・・睡魔に襲われて、なかなか先に進まないのですが
1863年ごろの京都が出てきます。
河原町御池・北西角の京都市役所
長州藩は、当時、尊王攘夷論や公武合体論をもって、
京都の政局をリードしていました。
その藩邸が、現在の京都ホテル付近にあり、藩士の個人宅やゆかりの場所も、
ここら一体に集中しています。
京都ホテル・市役所の東隣り。
八月十八日の政変による会津藩と薩摩藩のたくらみで、京都から追放される長州藩・・・
その後、池田屋事件、蛤御門の変、長州征伐など、激動の道をたどることになります。
(話はそれますが、池田屋事件の犠牲者・吉田稔麿らは三縁寺という寺に葬られたのだが、
この寺は、現在、岩倉花園町に移転しています。岩倉せいか幼稚園の北側。
)
急進的尊王攘夷派であった長州藩が、
関門海峡での外国船砲撃ののちの米英の報復で、徹底的にやられ、
開国・討幕へとすすむくだり、すさまじいです。
(抽象的表現
・・・まだ不勉強なため
)
さて、
京都ホテルには・・・
長州藩邸の遺構は完全になくなっているのですが、平成に入ってから、桂小五郎の像がつくられました。
河原町通り沿い。

なかなかのイケメン
写真を見ても、なかなかの男前の桂さんです。
高杉晋作から見ると、どうも頼りない存在だった(冷静すぎる?)風に描かれていますが、
それだけ政治的洞察に優れていたのでしょうか・・・
短気ものの多い?長州藩の中では、比較的長生きされて、業績を残しておられます。
ちなみに、桂小五郎こと木戸孝允の邸宅跡は、
うちの取引先のホテル(石長松菊園さん)です。(何となく知ってましたが、関心が全くなかった
)
ビックリしました
(無知とは恐ろしいものです
)
京都ホテルの桂小五郎像の見学の後は、
木屋町御池交差点から北上し、木屋町を散策しました。
木屋町と言えば、学生でも行ける繁華街、というイメージ・・・
飲み会と言えば、木屋町
高瀬川と言えば、酔っ払いが飛び込んだり、酩酊してるイメージしかないのですが
(にわか)幕末ファンとしては聖地のような場所なのでした
京都ホテルの北側の通り。(手前は、高瀬川の橋)
置き忘れられたように、ここだけ時代が違う
空間。
オフィス街にポツンです。
このお屋敷は何の屋敷か分かりませんが、
今は、飲食店のテナントのようになっていて(言い方が雑ですが)
ミシュラン何個
かの「一之舟入」というお店が入ってます。
(この奥・東側に高瀬川・木屋町通りがあります)
あとから教えてもらって分かったことですが、
このお屋敷の裏が、角倉玄以が建造した旧跡「一之舟入」となっていて、
保存がなされているようでした。

「高瀬川と一之舟入」 (ウイキペディア参照)
高瀬川は、江戸時代初期(1611)に角倉了以により開削された運河
京都の中心部と伏見・宇治川を結んでおり、
琵琶湖疏水が出来るまでの約300年間、京都・伏見間の水運に用いられた。
森鴎外の小説「高瀬舟」は、あまりにも有名・・・(でも、読んでると、もうちょっと大きいかと思ってましたが
)
水深は数十センチ程度と浅く、川幅も現在と変わらず狭い。
けっして、都市化によって狭小化されたわけではないらしい。
(二台の離合がやっと出来るくらい)
川幅が狭いため、そのままでは船の方向転換を出来ず、
川から直角に突き出す形の「舟入」が作られた。
舟入は、二条から四条にかけて九つ作られたが、現在残っているのは、「一之舟入」のみ。
なんでも、舟入は、他の文化財と違い、高瀬川・・・河川法?の管轄になるので、保護の規制がなされず、
どんどこ埋められて、住宅地などになってしまったそうです。
(豊臣秀吉の御土居も、似たような理由で
どんどん減って行ったんでした
)
いままで全然知りませんでしたが、街中にこんな貴重な空間が残されていたのでした。
(保護に尽力された方々がいらっしゃるのでしょう。)
(川の、向かって右側には、曳舟道がついてます)
高瀬川は、見ての通り、高低差が少なく、水流がないに等しいです
(これも、開削当初から、あまり変わっていないらしい)
水流を起こすため、ある程度の工夫はしていたようですが、
船から縄をかけて、人力で曳いて動かしていたそうです。
川沿いには、曳子(舟曳き人夫)高瀬舟を曳いて歩くための曳舟道が残っていました。
一之舟入の右側(北方面)は日本銀行

この当時の船便と言えば・・・
大阪~伏見~京都の最速ルートですから、
長州藩が、なかなか良いポジション占めていたのが、よく分かります。
ちなみに、長州藩は、徳川幕府の中では、外様大名で煙たがられていた存在でしたが、
朝廷とのつながりは古く、江戸以降も、朝廷と直接接触する権利が認められていました。
毛利元就公が、必死で献上金工作した甲斐がありました。
一之舟入の見学中、龍馬姿のお侍氏がいらっしゃるなあと思ったら
この方が、一之舟入の保存を進めている方らしいです
良い感じで着崩してらっしゃる
ちゃんとブログ掲載の許可もらいましたよ
京都扮装案内人 「龍馬組」代表 吉田信夫さん
「時代劇扮装をした案内人との約一時間30分の京町歩きのご案内」をされているそうです
俳優さんで、チャンバラ教室も開いてらっしゃるそうで、私も誘われました
(中高年のご婦人も参加されてるとか
)
毎年9月23日(だったかな)に一之舟入周辺でお祭りをされているそうです。
チャンバラ教室もあるので、次男連れて行ってみたいな~
一之舟入の、↑のようなお話をいろいろ教えていただきました
ごめんなさい

今までは、高瀬川はただの川、一之舟入は、ただの観光名所と思っていました
(木屋町は、危険な若者の街?) ← これは、ある意味、昔もそうだったかもしれませんが
じかにお話を聞く、というのは、これ以上の勉強はないわけで、
実際に、少々のネット検索では見つからんような、貴重なお話を聞かせていただきました。
ありがとうございます
学生よ、酩酊しているだけでなく、この生きた歴史、生の博物館で学びなさ~い!と言いたくなりました。
(偉そうには言えませんがね…親のすねカジッテた身としては
)

皆様、通りがかりの際には、ぜひぜひ見学して行ってくださいね。
一之舟入の説明版の所には、資料集が備え付けてあります。
高瀬川の見方が変わりますので、ぜひ見てみてください
運が良ければ、生のお侍さんにも会えるでしょう
現在、「がんこ高瀬川二条苑」となっている場所に、高瀬川の源流がありました。

鴨川河川敷沿いに流れている、みそそぎ川から取水をして、
高瀬川の源流とします。
そこには、当初、角倉了以によって庭園が造られました。

基本的には、がんこで食事をしないと、中には入れないんですけどね、
龍馬組・吉田さんに、秘密の場所を教えていただきました
がんこ二条苑は一度行ったことがあります。
舞妓さんと遊べるプランもありましたよ、確か
幕末は、山県有朋の別邸「第二無鄰菴」となり、
その後も、政財界の重鎮の別邸を経て、現在の飲食店になりました。
飲食店として利用するのが、一番保存状況が良いのかもしれませんね。
足を延ばして、鴨川・二条通の北側・・・
すぐ北側に、木戸孝允邸跡の石長松菊園があります。
みそそぎ川
二条通りの南側から、川が二手に分かれて、
右側(西側)から高瀬川へと取水されます。
右手の緑が、がんこ二条苑です。
↑ 珍しく、若!が見に行きたいと言って、ここまで来ました。珍しい
そして
元の場所、高瀬川の一之舟入に戻って・・・
一之舟入のすぐ北側が、日本銀行 ↑
島津創業記念館 (二階建ての建物)
ノーベル賞の田中耕一さんのいる会社・島津製作所の創業地。
創業者の島津氏は、鹿児島でなく京都出身で、仏具屋をこの地で開業したころに、
明治維新、文明開化が起こって、その影響を多大に受けたそうです。
やはり、高瀬川水運で文明開化も運ばれてきたのでしょうか。
そう思うと、いろいろ繋がりがありそうで、面白いですね~
二条通りは薬品関係の会社が多いそうですが、それも、この流れ
(全然関係ないかもしれんが
)
さてさて、
たいがい昼飯時になったので、あらかじめ目をつけていたインド料理屋に行くことにしました。
インド料理の隣りは、「幾松」ビル。
右側の門の奥に、料亭幾松があるみたいです
桂小五郎と芸妓幾松(のちの松子夫人)の木屋町寓居跡です。
写真左側(北側)がインド料理屋があるテナントビル。
その北側も和風の店で・・・
大村益次郎の家があったみたいです。
お隣さんか…
なんか濃いなあ・・・
ひるごはん
ここは、出てくるの早くて、安かった(オフィス・ランチ圏だからか?)
食べた後は、一之舟入の南側・川沿いにある・・・
佐久間象山・大村益次郎遭難之碑
二人とも、開国派
攘夷派による抵抗、急激な変化への不満分子の強い反感が原因だったそうです。
ふたりとも、頭の良い、理科に明るい人。
江戸後期、沢山の才ある人が殺されてしまったが、この二人の暗殺も、悔やまれる事件です。
佐久間象山、長野・松代藩の人。
黒船ペリーは、格式を重んじる人(業務において自分より地位の低い人とは話さない)だったが、
象山の姿を見て、思わず頭を下げてしまった、そうです。
*小説「世に棲む日々」での描写、英国使節から見て、高杉晋作は「魔王」に見えたそうだが、
佐久間象山もまた、魔王のようだったのかもしれない
大村益次郎
子達には、村田蔵六と言った方が通じやすい(漫画の影響
)
山口の農村の医者であったが、大阪適塾の塾頭になるほどの才覚で、
各藩に乞われて武士となった人。
ふたりとも、外国人を圧倒するパフォーマンス力を持っていました。
幕末で、好きな人物のうちの二人です。
大村益次郎は、襲撃の後、一命を取り留めたが、深い傷を負い、長州藩邸での治療・・・
高瀬川から大阪まで運ばれ、手術を受けましたが、手術の許可を取るのに手間取り、手遅れ
愛弟子であった、シーボルトの娘・イネに看取られながら、敗血症が悪化して亡くなりました。

こちらは、河原町御池から、南西に入ったところの・・・
本能寺
奇しくも、この日は6月2日。
本能寺の変の前日でした。(まあ、旧暦じゃないから、厳密にいうと違うんだけど)
歴史の教科書が、そのまま京都、みたいな感じです
犬も歩けば、歴史に当たる、かな。
範囲としたら、半径数百メートルの散策でしたが、
歴史のぎゅーっと詰まった、感慨深い散策となりました。
そっと耳をすませば、幕末の志士の息遣いが聞こえてきますよ