(越前大野城に行く・その1からの続きです
)
~あらすじ~
若!・子達と、福井へ家族旅行
京都市から越前大野城目指すこと3時間
大野市内で、昼食のお蕎麦を食べて
亀山公園の南登り口から、登城開始しました。
なだらかな坂道を行くこと、10数分
市内から移築された古門から本丸へ入り
武器櫓から天守台裏側に上がりました。
(天守閣)
1775年に焼失してから立て直されず
その他の建物も、明治の廃藩置県後に破却・・・
昭和43年に再建された復興天守です。
復元された外観は
美濃の岐阜城や、越前丸岡城を参考にしたそうです。
(往時の建築に関する文献が少ないのでしょうか)
てことで
天守台表側にまわり
ようやく
天守閣とご対面![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/nezumi.gif)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/35/a1/9e35ba9b1c42cda23af0201d25432721.jpg)
(天守台で、正面から撮った天狗書院)
(大天守横に付属する小天守的役割の建物です)
大天守の写真・・・
大きすぎて撮るのに迷ってしまった~
撮る前に、子達のお呼びがかかって
結局撮れずじまい。
で
「こっち来て~」と促されるまま
先ほどとは反対側の登り口から降りました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1c/3f/e593bbf26fc49535e2d3e771830a5488.jpg)
こちらは、櫓などなく
直接、天守台から階段が通じています。
なぜだろう?
(前投稿参照
反対側の側面は、櫓経由でないと天守台に上がれません)
素朴な疑問・・・
きっと、当時のままの姿が見れたなら
疑問も一目瞭然なんでしょうね。
(二の丸・三の丸・その他の櫓の配置によるのでしょうか)
城跡
本丸以外は復元されていません。
さて
階段を下りていき
改めて
天守台のほうに振り向きますと・・・
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/15/50/0c6b610b42c496cfca8ae352a11228a3.jpg)
(写真・左から登って、左の階段から降りた)
ジャーン!!!
(こういう演出は不要か・・・)
大天守と天狗書院
威風堂々とした佇まい
建物は復興建築で新し感も否めませんが
石垣は往時の姿をとどめており
すごい風格を醸し出しています。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/book.gif)
(越前大野城)
1575年、越前一向一揆を平定した金森長近
主君の織田信長から
恩賞として、越前国大野郡内の3万石を与えられました。
当初は、古来朝倉氏のものであった戌山城を居城としていましたが
翌76年に、近隣の亀山に城郭を築いて、移り住みました。
築城には、数年を要しました
・・・
1586年、長近は飛騨高山へ転封
その後
長谷川秀一
青木一矩
織田秀雄(信長の孫=信雄の長男)
と度々城主が変わりました。
関が原の後
織田秀雄が西軍に属していたため改易され
幕藩体制成立後は、福井藩の直轄領となり
福井藩主・結城秀康の重臣の
土屋正明・忠次親子、小栗正勝が城代として入りました。
1624年、松平直政(結城秀康の3男)が5万石で入り
大野藩として立藩しました。
1635年、直政が信濃松本に移ったため
松平直基(結城秀康の4男)が越前勝山より5万石で入封
1644年、直基が羽前山形(山形県山形市)へ移った後
弟の松平直良(結城秀康の5男)が同じく越前勝山より3万5千石で入り
子の直明が家督を継ぎました。
(松平4代)
1682年、松平直明が播磨明石へ移封
幕府老中を辞任した土井利房(土井利勝の3男{4男とも})が4万石で入り
その後に受け継がれた藩主によって、藩政の基礎は固められました。
第7代藩主・土井利忠は藩政改革に取り組み、名君と呼ばれています。
天保期の飢饉で藩財政は非常に逼迫しましたが
財政再建に取り組み、借財も8年で完済
その後、藩営病院の設立、西洋軍制の導入なども行いました。
結局
土井家が8代続いて明治を迎えました。
(ウィキペディア「大野藩」参照)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5a/5e/c1008ec35c286e44afa0794f9c952066.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/62/e8/a1276c7dec79610cb5b45d624b323ede.jpg)
この見事なアーチ!
素晴らしい建築技術です。
安土城のような、洗練された穴太衆積みも良いですが
こちらの野面積みも、朴訥な感じが素敵です。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7e/a6/a30ad7b9188f9c451ba428070baf91f8.jpg)
(初代城主の金森長近の銅像)
話は少し飛びますが
昨日、本屋さんで立ち読みしていたら
最近良くある、ディアゴスティーニ発行のみたいな
週刊ブックスの「歴史が動いた」とかいうシリーズの本で・・・
「蓮如と越前一向一揆」を扱ったブックが売ってありました。
あくまで
蓮如(仏教・浄土真宗の中興の祖)ら、一向一揆を起こした
民衆側からの歴史考察のようで
そ~考えると
織田信長も
信長に命じられて、一揆を平定した金森長近も
民衆側からすると
敵、だったんですよね。
戦国の世のことですから
あまりナイーブに考える必要はないかもしれませんが
そう考えると
すこし複雑な気分になりました。
・・・
結局
その本は立ち読みしただけで
買いませんでしたが
やっぱり買ってみたくなりました。
(10年位前、西本願寺の
蓮如上人500?回忌の記念イベントで
漬物販売してました)
金森長近像の前を通り抜けて
公園の西登り口方面~
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/04/10/f142af579e1410c410a1795da509824e.jpg)
こちらが、どうやら本丸の正面にあたるみたいです。
写真の左奥に天守閣が見えます。
来る時とは反対側の道を通って下山。
こちら側にも大型遊具があって
しばらく子達のお守りをした後、下山して
もとの市街地に戻りました。
反対側の登り口に下りてしまったので
駐車場までは結構距離があったのですが
おかげで
昔ながらの大野の街並みにも触れることが出来ました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1d/b7/181ee28f54ba98dbba4cd0d622a3fc16.jpg)
すごくトラディショナルな銭湯です。
普通に生活に溶け込んでるところが好ましいです。
京都の銭湯も
ともすると観光地化?してきましたしね。
他にも
すごく写真を撮りたくなるような
伝統的風景があふれていましたが
あくまで
民家
皆さん、普通に生活しておられましたから
写真を撮るのは遠慮しました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7a/1f/d205e9bd3c7c7dc3bd8201a483420caa.jpg)
(武家屋敷「旧内山家」)
(幕末期の老中を輩出した名家です)
こちらの向かいに
整備された水路があるなあ~
と思っていたら
そちらが、大野城のお堀の名残だったみたいです。
お城のある亀山のふもと
城から短冊状に広がる市街地のはじまり
位置しています。
だから
こちらからも
お城がよく見えます。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2e/4d/7e8c6b8f39a1fe230bf7dffd774bccb4.jpg)
で
もとの南登り口
駐車場に戻る手前に
柳廼社(土井利忠を祀る神社)があって
その境内入り口に・・・
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6c/b8/68f975d92a0a6d53fd651522bfdd9def.jpg)
(お馬屋池)
越前大野城の堀の一部が残ったものだそうで
それなりな遺構が見とめられました。
子達が先を急ぐので
ゆっくり見てられないのが
残念でした。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/11/15/3961c2191addec245657907cfc384161.jpg)
すこし狭いけど
とても楽しい生活路を通って
駐車場に戻りました。
(投稿・越前大野城に行く、おわり)
この先は
子達お楽しみの
六呂師高原のキャンプ場の
お話です。
9月末の旅行話を引きずるのも
恐縮ですが
是非是非お付き合いくださいませ!
(とても個性的なキャンプ場でしたし・・・)
ところで
この投稿をするのも非常に遅れてしまいました。
というのも
我が家でちょっとした出来事が
立て続けに起こってしまったからなんです。
幸い大事にならなかったので
これは
ブログのネタにするしかないか
ということで
次回
報告させていただきます。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/hiyo_en2.gif)
~あらすじ~
若!・子達と、福井へ家族旅行
京都市から越前大野城目指すこと3時間
大野市内で、昼食のお蕎麦を食べて
亀山公園の南登り口から、登城開始しました。
なだらかな坂道を行くこと、10数分
市内から移築された古門から本丸へ入り
武器櫓から天守台裏側に上がりました。
(天守閣)
1775年に焼失してから立て直されず
その他の建物も、明治の廃藩置県後に破却・・・
昭和43年に再建された復興天守です。
復元された外観は
美濃の岐阜城や、越前丸岡城を参考にしたそうです。
(往時の建築に関する文献が少ないのでしょうか)
てことで
天守台表側にまわり
ようやく
天守閣とご対面
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/nezumi.gif)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/35/a1/9e35ba9b1c42cda23af0201d25432721.jpg)
(天守台で、正面から撮った天狗書院)
(大天守横に付属する小天守的役割の建物です)
大天守の写真・・・
大きすぎて撮るのに迷ってしまった~
撮る前に、子達のお呼びがかかって
結局撮れずじまい。
で
「こっち来て~」と促されるまま
先ほどとは反対側の登り口から降りました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1c/3f/e593bbf26fc49535e2d3e771830a5488.jpg)
こちらは、櫓などなく
直接、天守台から階段が通じています。
なぜだろう?
(前投稿参照
反対側の側面は、櫓経由でないと天守台に上がれません)
素朴な疑問・・・
きっと、当時のままの姿が見れたなら
疑問も一目瞭然なんでしょうね。
(二の丸・三の丸・その他の櫓の配置によるのでしょうか)
城跡
本丸以外は復元されていません。
さて
階段を下りていき
改めて
天守台のほうに振り向きますと・・・
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/15/50/0c6b610b42c496cfca8ae352a11228a3.jpg)
(写真・左から登って、左の階段から降りた)
ジャーン!!!
(こういう演出は不要か・・・)
大天守と天狗書院
威風堂々とした佇まい
建物は復興建築で新し感も否めませんが
石垣は往時の姿をとどめており
すごい風格を醸し出しています。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/book.gif)
(越前大野城)
1575年、越前一向一揆を平定した金森長近
主君の織田信長から
恩賞として、越前国大野郡内の3万石を与えられました。
当初は、古来朝倉氏のものであった戌山城を居城としていましたが
翌76年に、近隣の亀山に城郭を築いて、移り住みました。
築城には、数年を要しました
・・・
1586年、長近は飛騨高山へ転封
その後
長谷川秀一
青木一矩
織田秀雄(信長の孫=信雄の長男)
と度々城主が変わりました。
関が原の後
織田秀雄が西軍に属していたため改易され
幕藩体制成立後は、福井藩の直轄領となり
福井藩主・結城秀康の重臣の
土屋正明・忠次親子、小栗正勝が城代として入りました。
1624年、松平直政(結城秀康の3男)が5万石で入り
大野藩として立藩しました。
1635年、直政が信濃松本に移ったため
松平直基(結城秀康の4男)が越前勝山より5万石で入封
1644年、直基が羽前山形(山形県山形市)へ移った後
弟の松平直良(結城秀康の5男)が同じく越前勝山より3万5千石で入り
子の直明が家督を継ぎました。
(松平4代)
1682年、松平直明が播磨明石へ移封
幕府老中を辞任した土井利房(土井利勝の3男{4男とも})が4万石で入り
その後に受け継がれた藩主によって、藩政の基礎は固められました。
第7代藩主・土井利忠は藩政改革に取り組み、名君と呼ばれています。
天保期の飢饉で藩財政は非常に逼迫しましたが
財政再建に取り組み、借財も8年で完済
その後、藩営病院の設立、西洋軍制の導入なども行いました。
結局
土井家が8代続いて明治を迎えました。
(ウィキペディア「大野藩」参照)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5a/5e/c1008ec35c286e44afa0794f9c952066.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/62/e8/a1276c7dec79610cb5b45d624b323ede.jpg)
この見事なアーチ!
素晴らしい建築技術です。
安土城のような、洗練された穴太衆積みも良いですが
こちらの野面積みも、朴訥な感じが素敵です。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7e/a6/a30ad7b9188f9c451ba428070baf91f8.jpg)
(初代城主の金森長近の銅像)
話は少し飛びますが
昨日、本屋さんで立ち読みしていたら
最近良くある、ディアゴスティーニ発行のみたいな
週刊ブックスの「歴史が動いた」とかいうシリーズの本で・・・
「蓮如と越前一向一揆」を扱ったブックが売ってありました。
あくまで
蓮如(仏教・浄土真宗の中興の祖)ら、一向一揆を起こした
民衆側からの歴史考察のようで
そ~考えると
織田信長も
信長に命じられて、一揆を平定した金森長近も
民衆側からすると
敵、だったんですよね。
戦国の世のことですから
あまりナイーブに考える必要はないかもしれませんが
そう考えると
すこし複雑な気分になりました。
・・・
結局
その本は立ち読みしただけで
買いませんでしたが
やっぱり買ってみたくなりました。
(10年位前、西本願寺の
蓮如上人500?回忌の記念イベントで
漬物販売してました)
金森長近像の前を通り抜けて
公園の西登り口方面~
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/04/10/f142af579e1410c410a1795da509824e.jpg)
こちらが、どうやら本丸の正面にあたるみたいです。
写真の左奥に天守閣が見えます。
来る時とは反対側の道を通って下山。
こちら側にも大型遊具があって
しばらく子達のお守りをした後、下山して
もとの市街地に戻りました。
反対側の登り口に下りてしまったので
駐車場までは結構距離があったのですが
おかげで
昔ながらの大野の街並みにも触れることが出来ました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1d/b7/181ee28f54ba98dbba4cd0d622a3fc16.jpg)
すごくトラディショナルな銭湯です。
普通に生活に溶け込んでるところが好ましいです。
京都の銭湯も
ともすると観光地化?してきましたしね。
他にも
すごく写真を撮りたくなるような
伝統的風景があふれていましたが
あくまで
民家
皆さん、普通に生活しておられましたから
写真を撮るのは遠慮しました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7a/1f/d205e9bd3c7c7dc3bd8201a483420caa.jpg)
(武家屋敷「旧内山家」)
(幕末期の老中を輩出した名家です)
こちらの向かいに
整備された水路があるなあ~
と思っていたら
そちらが、大野城のお堀の名残だったみたいです。
お城のある亀山のふもと
城から短冊状に広がる市街地のはじまり
位置しています。
だから
こちらからも
お城がよく見えます。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2e/4d/7e8c6b8f39a1fe230bf7dffd774bccb4.jpg)
で
もとの南登り口
駐車場に戻る手前に
柳廼社(土井利忠を祀る神社)があって
その境内入り口に・・・
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6c/b8/68f975d92a0a6d53fd651522bfdd9def.jpg)
(お馬屋池)
越前大野城の堀の一部が残ったものだそうで
それなりな遺構が見とめられました。
子達が先を急ぐので
ゆっくり見てられないのが
残念でした。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/11/15/3961c2191addec245657907cfc384161.jpg)
すこし狭いけど
とても楽しい生活路を通って
駐車場に戻りました。
(投稿・越前大野城に行く、おわり)
この先は
子達お楽しみの
六呂師高原のキャンプ場の
お話です。
9月末の旅行話を引きずるのも
恐縮ですが
是非是非お付き合いくださいませ!
(とても個性的なキャンプ場でしたし・・・)
ところで
この投稿をするのも非常に遅れてしまいました。
というのも
我が家でちょっとした出来事が
立て続けに起こってしまったからなんです。
幸い大事にならなかったので
これは
ブログのネタにするしかないか
ということで
次回
報告させていただきます。