京都大原紫葉工房便り

京都洛北・大原の里のしば漬屋から、毎日!情報発信。

越前大野城に行く。(その2)

2008-10-11 09:55:15 | 北陸の石垣。
(越前大野城に行く・その1からの続きです


~あらすじ~

若!・子達と、福井へ家族旅行
京都市から越前大野城目指すこと3時間

大野市内で、昼食のお蕎麦を食べて
亀山公園の南登り口から、登城開始しました。

なだらかな坂道を行くこと、10数分
市内から移築された古門から本丸へ入り
武器櫓から天守台裏側に上がりました。



(天守閣)

1775年に焼失してから立て直されず
その他の建物も、明治の廃藩置県後に破却・・・
昭和43年に再建された復興天守です。
復元された外観は
美濃の岐阜城や、越前丸岡城を参考にしたそうです。
(往時の建築に関する文献が少ないのでしょうか)

てことで
天守台表側にまわり
ようやく
天守閣とご対面


(天守台で、正面から撮った天狗書院)
(大天守横に付属する小天守的役割の建物です)

大天守の写真・・・
大きすぎて撮るのに迷ってしまった~
撮る前に、子達のお呼びがかかって
結局撮れずじまい。


「こっち来て~」と促されるまま
先ほどとは反対側の登り口から降りました。



こちらは、櫓などなく
直接、天守台から階段が通じています。

なぜだろう?
(前投稿参照
 反対側の側面は、櫓経由でないと天守台に上がれません)

素朴な疑問・・・
きっと、当時のままの姿が見れたなら
疑問も一目瞭然なんでしょうね。
(二の丸・三の丸・その他の櫓の配置によるのでしょうか)

城跡
本丸以外は復元されていません。

さて

階段を下りていき
改めて
天守台のほうに振り向きますと・・・


(写真・左から登って、左の階段から降りた)

ジャーン!!!
(こういう演出は不要か・・・)

大天守と天狗書院
威風堂々とした佇まい

建物は復興建築で新し感も否めませんが
石垣は往時の姿をとどめており
すごい風格を醸し出しています。



(越前大野城)

1575年、越前一向一揆を平定した金森長近
主君の織田信長から
恩賞として、越前国大野郡内の3万石を与えられました。

当初は、古来朝倉氏のものであった戌山城を居城としていましたが
翌76年に、近隣の亀山に城郭を築いて、移り住みました。

築城には、数年を要しました
・・・
1586年、長近は飛騨高山へ転封

その後
長谷川秀一
青木一矩
織田秀雄(信長の孫=信雄の長男)
と度々城主が変わりました。

関が原の後
織田秀雄が西軍に属していたため改易され

幕藩体制成立後は、福井藩の直轄領となり
福井藩主・結城秀康の重臣の
土屋正明・忠次親子、小栗正勝が城代として入りました。

1624年、松平直政(結城秀康の3男)が5万石で入り
大野藩として立藩しました。

1635年、直政が信濃松本に移ったため
松平直基(結城秀康の4男)が越前勝山より5万石で入封

1644年、直基が羽前山形(山形県山形市)へ移った後
弟の松平直良(結城秀康の5男)が同じく越前勝山より3万5千石で入り
子の直明が家督を継ぎました。
(松平4代)

1682年、松平直明が播磨明石へ移封

幕府老中を辞任した土井利房(土井利勝の3男{4男とも})が4万石で入り
その後に受け継がれた藩主によって、藩政の基礎は固められました。

第7代藩主・土井利忠は藩政改革に取り組み、名君と呼ばれています。
天保期の飢饉で藩財政は非常に逼迫しましたが
財政再建に取り組み、借財も8年で完済
その後、藩営病院の設立、西洋軍制の導入なども行いました。

結局
土井家が8代続いて明治を迎えました。

(ウィキペディア「大野藩」参照)




 
この見事なアーチ!
素晴らしい建築技術です。

安土城のような、洗練された穴太衆積みも良いですが
こちらの野面積みも、朴訥な感じが素敵です。


(初代城主の金森長近の銅像)

話は少し飛びますが

昨日、本屋さんで立ち読みしていたら
最近良くある、ディアゴスティーニ発行のみたいな
週刊ブックスの「歴史が動いた」とかいうシリーズの本で・・・
「蓮如と越前一向一揆」を扱ったブックが売ってありました。

あくまで
蓮如(仏教・浄土真宗の中興の祖)ら、一向一揆を起こした
民衆側からの歴史考察のようで

そ~考えると
織田信長も
信長に命じられて、一揆を平定した金森長近も
民衆側からすると
敵、だったんですよね。

戦国の世のことですから
あまりナイーブに考える必要はないかもしれませんが
そう考えると
すこし複雑な気分になりました。

・・・

結局
その本は立ち読みしただけで
買いませんでしたが
やっぱり買ってみたくなりました。

(10年位前、西本願寺の
 蓮如上人500?回忌の記念イベントで
 漬物販売してました)
 

金森長近像の前を通り抜けて
公園の西登り口方面~



こちらが、どうやら本丸の正面にあたるみたいです。
写真の左奥に天守閣が見えます。


来る時とは反対側の道を通って下山。
こちら側にも大型遊具があって
しばらく子達のお守りをした後、下山して
もとの市街地に戻りました。

反対側の登り口に下りてしまったので
駐車場までは結構距離があったのですが
おかげで
昔ながらの大野の街並みにも触れることが出来ました。



すごくトラディショナルな銭湯です。
普通に生活に溶け込んでるところが好ましいです。
京都の銭湯も
ともすると観光地化?してきましたしね。

他にも
すごく写真を撮りたくなるような
伝統的風景があふれていましたが

あくまで
民家
皆さん、普通に生活しておられましたから
写真を撮るのは遠慮しました。


(武家屋敷「旧内山家」)
(幕末期の老中を輩出した名家です)

こちらの向かいに
整備された水路があるなあ~
と思っていたら
そちらが、大野城のお堀の名残だったみたいです。

お城のある亀山のふもと
城から短冊状に広がる市街地のはじまり
位置しています。

だから
こちらからも
お城がよく見えます。




もとの南登り口
駐車場に戻る手前に
柳廼社(土井利忠を祀る神社)があって

その境内入り口に・・・


(お馬屋池)

越前大野城の堀の一部が残ったものだそうで
それなりな遺構が見とめられました。

子達が先を急ぐので
ゆっくり見てられないのが
残念でした。



すこし狭いけど
とても楽しい生活路を通って
駐車場に戻りました。

(投稿・越前大野城に行く、おわり)


この先は
子達お楽しみの
六呂師高原のキャンプ場の
お話です。

9月末の旅行話を引きずるのも
恐縮ですが
是非是非お付き合いくださいませ!
(とても個性的なキャンプ場でしたし・・・)


ところで
この投稿をするのも非常に遅れてしまいました。

というのも
我が家でちょっとした出来事が
立て続けに起こってしまったからなんです。

幸い大事にならなかったので
これは
ブログのネタにするしかないか
ということで
次回
報告させていただきます。





越前大野城に行く。(その1)

2008-10-07 22:43:35 | 北陸の石垣。
だんだん話が古くなってきましたが・・・
9月27日土曜日
福井に行ったときの話です。

当日の宿泊予定地が
福井市から奥に入った山間部
九頭竜ダム手前の
勝山市・六呂師高原

最初に決まっていたのは
そのことだけでしたから

その目的地に向かって~
美味い昼食を食べて
どこか城跡など行けないだろうか

かなり自己中心的な計画を立てる為
リサーチを開始しました。
(というわけで、いつも計画を立ててるのは私です、ワニさん。)

我が家を出発してから
城跡と言えば
有名なところだけでも
敦賀(大谷吉継の居城)・金ヶ崎・福井・北ノ庄・・・
それに朝倉氏関係・神社仏閣含めると
犬も歩けば棒にあたる状態

これは、立派な石垣に出会える予感で
ワクワクしてきました。

歴史的には
やはり
お市の方・柴田勝家が最期を遂げた
北ノ庄城が良いかな~
(ほとんど残ってませんが)

それとも
すぐ近所の福井城が良いか・・・
(ともに、福井市中心部にあります)
徳川家康次男で、二代将軍の兄
結城秀康が初代福井藩主となっており
当然お城も立派なものだったろうと推測できます。
今は、石垣・お堀しか残ってないそうですが
規模が大きいだろうことは間違いありません。

他にも
地元ゆかりの朝倉氏関係の史跡や
永平寺・白山神社平泉寺など
見所満載です。

ひじょ~に迷いましたが
結局決まったのは
越前大野城でした。

ずばり
福井北インターから
宿泊地の六呂師高原までの
最短コース沿いにあるお城だったからです。

子達の目的は
あくまでキャンプでしたから
逆走・遠回りなどしたら
どんなにゴネ倒すことか分かりません。
(というか、出発して小一時間ほどで
 「まだ着かないのか?」と騒ぎ出した奴ら・・・)

大人だけの旅行なら
加えて、上記紹介した全ての城、回れそうでしたが
(城に興味ない人には相当苦痛でしょうけどね)
泣く泣く諦めました。

てわけで

朝、大原を出発してから
大野市に直行
約三時間で到着
開店直後の蕎麦屋で昼食を済ましてから
越前大野城に登城、とあいなったのでございます。

蕎麦屋のある七間通りを含め
大野市街は
越前大野城のある亀山を中心にして
碁盤の目状に発展してきた街です。



街からは、こんな風にお城が見えます。
ちょうど、彦根城に似ていますね。


(こちらは、去年9月に行った彦根城
 やっぱり似てます)

平山城・・・
山の地形を生かした構造

てことで
登るのに、結構時間がかかります。

山麓の無料駐車場に駐車してから
南登り口から入城しました。


(入り口に復元されている搦手門)


(亀山公園の案内図)

南登り口は、地図・中央下
そこから天守閣まで歩き
反対側の出口に下山して
ぐるーっと回って
元来た駐車場
(以上・赤線で示したコースです)

結構良いハイキングになります。



登り口から天守閣までは
ずっとなだらかな坂道が続いています。

公園内には
二箇所?
子供の大型遊具も設置してあって
思わぬご褒美に
子達、大喜びでした。



大人の足で5~10分ほどで
本丸に到着です。


(本丸虎口跡)

この門は、城下より移築されてきたそうで
たしかに
登り口の門に比べると
だいぶん古めかしい感があります。



勇壮な城が姿を現したぞ~



あとから調べて分かったことですが
こちら
天守台南側には「お福池」という池があるそうです。

たぶん、写真手前の垣・立て看板がしてある所がそうみたいです。
気付かなかった~
子供連れてると、そこまで気が回らないんですよね・・・

この「お福池」
初代城主の正室の名前が付けられたそうで
今でも一年中水が湧き出しているそうです。
(ちゃんと見てくれば良かった~)

この場所
(門から本丸に入った場所)
天守閣の向きから言うと
正面ではなくて
(もう一つの登り口からだと、正面から入れる)
天守閣の向かって右方向の側面になります。



天守閣の建っている天守台に登るには
直接ではなく
手前の武器櫓に登ってから向かうような構造になっていました。
(戦国時代の知恵でしょうか)


(手前が武器櫓~
 奥の石垣を通って天守台に向かいます)


(武器櫓跡から天守台を眺めた写真)

武器櫓は、L字型になってますね。


(武器櫓から、市街地を眺めた・・・)

田んぼの白くなった部分は蕎麦畑!
今の季節の北陸風物詩ですね~

ちなみに
この写真の左側中央に見えている山には
戌山(いぬ)城跡があります。

大野城の歴史と併せ持って説明しますと

古来、戌山城が地元朝倉氏の居城として機能していたのですが
朝倉氏滅亡後
越前の一向一揆平定の功績として
金森長近がこの戌山城に入封してきました。

しかし、交通の便などを考えて
長近は、隣の亀山に大野城を新たに築いたため
こちらの戌山城は廃城となりました。

180mの高さの山城跡だそうで
亀山が亀ならば
戌山が犬ほどの
大きさの違いがあります。
(そういう名前の由来なんでしょうか・笑)



武器櫓から天守台にかかる石橋
天守閣の後ろ側に通じています。



戦争勃発の際は
石橋を取り壊して、外部の侵入を防ぐ、というわけですね。



それにしても良い景色。
石垣から落っこちたら・・・なんて考えると
ちょっと恐いですが

この綺麗な石垣の上に
公衆トイレが建っており
その向かいに天守閣の博物館の入り口
(天守閣の裏側ですが)

子達がどんどん先に進むので
結局中の見学はせずに
通り抜け
天守閣の正面に出ました。


旅行その2。

2008-09-29 22:24:44 | 北陸の石垣。
本当は、旅の行程について投稿するつもりでしたが
写真の整理だけで終わってしまいました。

立派な石垣の写真の投稿だけして寝ます。



昨日の石垣とは
また違う場所。
ちなみに城でない。



今日の大原
すっかり寒いです。
夜、国道の温度計を見たら、13度だった・・・
(午後七時過ぎ)

徹夜してたら風邪引きそうなので
寝ます。

小浜城。

2008-06-22 10:37:32 | 北陸の石垣。
先週の日曜日。
福井県小浜市
小浜市街から三方五湖方面への国道沿いにある
小浜城跡に行きました。


(小浜神社入り口・小浜城本丸跡が敷地)
(奥の左手が天守跡になっています)

江戸時代は酒井氏14代による統治
安泰のまま明治を迎えましたが
明治新体制への移行の際
不慮の失火にて城の大部分を消失

現在は
本丸の石垣だけが残っています。


(黄色で囲った部分が現存している城跡)
(矢印の部分が小浜神社入り口です)
(赤色が天守跡、緑色が小天守跡、ピンクが西櫓跡です)



一見
何てことない神社の敷地ですが
よく見ると
奥に立派な石垣が!

神社敷地全体をぐるりと囲っています。

奥・左手の角に
天守閣跡がありました。



江戸初期
酒井忠勝が藩主入りしてから
三層の天守閣が建てられたそうです。



こちらの階段を登って
画像の右方向奥に
天守閣敷地があったようです。
(若!は上まで登っていたけど
 私は登らなかったので、上まで確認しませんでした。)


(天守上り口の石垣)

そして
天守閣に付属するようにあるのが
小天守



天守とあわせて
本丸の南西角にL字状になっています。



天守よりも小天守のほうが
人の出入りが多かったのでしょうか?
昇降しやすい、大きな階段です。
(お勝手口かな)



小天守跡から見る、天守閣です。
こうやって見ると、りっぱな天守ですね。
天守閣からは小浜湾が一望できたのでしょう。
往時がしのばれます。

お江戸の大老職まで務めた
酒井忠勝
小浜に滞在した期間は少なかったようですが
彼にふさわしい名城が建てられたことでしょう。
りっぱな石垣でした。



ところで
こちらの小浜城が建てられたのは
江戸初期の
慶長年間。
その時期特有の工法なのか
小浜城の石垣は、「慶長積み」と呼ばれているようです。


慶長積みとは、いったいどういう積み方なのでしょうか?
ちょっと検索してみましたが出てきません。
郷土資料館のようなところに行けば、分かるでしょうか?
気になります。

野面積み、穴太衆積み、牛蒡積みなど
いろいろありますが
それらと確かに違うような気がしますが
よくわからん・・・

ちょっと調べてみたいと思います。



さて
こちらは、西櫓跡。



小天守の隣にあります。


(手前が小天守、奥が西櫓)

二つの石垣の間を通って
内堀を渡る橋が架けられていたのでしょう。
その先は、西の丸がありました。



現在は
すっかり住宅地
石垣の間を
近所のお子達が自転車で通り抜けして行きました。


(小天守跡全景)

小浜城跡
観光めいたものは一切ありませんが
国道沿い
車を停めてすぐ

城跡ファンにとっては
これ以上無い、と言って良いほど
恵まれた環境です。
本丸のみですが
ほぼ完全に石垣が保存されています。

皆さんも
小浜にいらした際は
是非お越しください!
(お初さん菩提の常高寺とセットで)



(おまけ)
小浜の伝統建造物も必見です。

小浜城について。

2008-06-21 01:36:50 | 北陸の石垣。
(画像なし・投稿です)

「慶長6年(1601年)京極高次が着工し
その子、忠高にいたる33年間に城の大半を造り

寛永11年(1634年)酒井忠勝が藩主となり
寛永15年、三層の天守閣を築いた

明治4年(1871年)まで
酒井氏15代、260年間の居城であった

明治4年12月
この城に大阪鎮台第一分営を設置すべく、改造工事中
二の丸櫓の工事場から失火し
城の大部分を焼失した」

(設置看板より)

調べてみると、なかなか興味深いです。

京極氏以前
小浜を治めていたのは
丹羽長重・浅野長政・木下勝俊

木下勝俊は・・・
北政所(豊臣秀吉の正室)の兄・木下家定の嫡男です。
弟に小早川秀秋
妻は森可成の娘・うめ(大津出身かな?)です。

その木下勝俊は、秀吉から見て
数少ない縁故者でしたから
非常に重用されていたようです。
小田原征伐や朝鮮出兵などで功を上げ
小浜に所領を与えられました。

その彼・・・
関が原の戦いにおいては東軍に所属し
徳川方の命により
鳥居元忠とともに伏見城に配置されたのですが

何を思ったのか
戦う前に城を出てしまったそうで
その結果
伏見城敗北
大原・宝泉院で供養されている・・・
血天井が物語っている惨状が繰り広げられました。

当然
戦後処理にてお怒りを受け
改易
(その後、回りの配慮で、岡山の足守藩に配封されました)

同じく
関が原の戦いで・・・
最初は西軍に居たけど
途中から東軍に加担した
京極高次
(後から述べますが、複雑な縁故の板ばさみに悩んでました)
所領の大津城にろう城して、西軍と戦いました。
戦いでは京極氏の敗走になってしまいましたが
このろう城のおかげで
西軍が、関が原の本戦に遅参してしまう結果になりました。

このことが功を奏して
京極高次、小浜に所領を与えられました。

京極氏
戦国時代では名を馳せた
エリート大名ですね。
(て、あんまりよく知らないんですけど)

京極高次の正室はお初
お市の方(信長の妹)の三人娘のまんなかの娘です。
つまり
姉は、豊臣秀吉の側室・淀殿であり
妹は、徳川秀忠の正室・於江与の方なんです。

一見
三姉妹の中では、一番ぱっとしない感じの?嫁入りですが
実は
一番格が高かったりするみたいです。
実際、お初(夫の没後、常高院)は
江戸幕府成立後、険悪になった・・・
大阪方(姉・淀殿)と徳川方(妹の嫁ぎ先)の仲介に奔走していたらしいです。
歴史の影の立役者?

慶長19年(1614年)
大坂冬の陣では、息子・京極忠高の陣内で
和議の仲介を務め
両家の和議に尽力しました。

その後
彼女が亡くなったのは
遠いお江戸でのことでしたが
遺言によって
彼女が建立した小浜の常高寺にて葬られました。
(確か、小浜市街から高浜方面・・・トンネル出たところです)


さて
話は戻りますが
京極高次は近江の高島にも所領を持っており
大溝城に居住していた時期もありました。

(お侍さんもサラリーマン的ですな)


さて
京極氏二代
無事安泰
特に幕府に睨まれるようなこともなかったようですが
(逆に幕府の信頼が厚かったからかな?)
寛永11年(1634年)には
長州の毛利家にたいする押さえとして
京極氏が室町時代に守護をつとめた・・・
出雲国、隠岐国二カ国へ加増転封されることとなりました。
(出雲にゆかりの深い人だったんですね!

以後
幕府の信頼厚い酒井忠勝が配属されて
明治維新まで
酒井家が代々統治しました。


石垣にビビッときました。

2008-06-20 10:53:59 | 北陸の石垣。
先の日曜日。
小浜(福井県)方面にドライブ。

そう。
あの、オバマ氏応援している小浜市です。
(ほんとに、応援グッズ?なるものも作ってはります)

子達に雄大な日本海を見せるべく
若は、小浜市中心地から東方面・・・
名勝・蘇洞門(そとも)めぐりで有名な半島
久須夜ガ岳エンゼルラインに向かいました。

妻!
胃腸不良の為
シートを倒して、外を眺めていましたが。

行きしな
しっかりチェックしていたのが
こちらの石垣。



国道から
民家をはさんで数十メートルの所にありましたが
存在感ある石垣

城跡みたいやな~
と思いながら通り過ごし。

(エンゼルラインの記事はまた次回)

帰り際
子達と若!は
小浜の総合公園に行って
ひと遊び
(妻!は寝てました)
立派なアスレチックがあって
高学年でも遊びがいのある公園だったみたいです。

公園から帰ってきたら
4人ともご機嫌さんだったので
「小浜城跡」の看板に従って
(この看板も行きしなにチェックしていた)
例の石垣の所まで行ってもらいました。
(着いたら、ココだったというわけです。合点!)

小浜城は
明治の廃藩置県の際も取り壊しを免れたようですが
失火にて消失
その後
小浜神社が建立されました。



あちこち
ご近所さんの立ち話
手入れしているおじさん
自転車で通り抜ける子達・・・
地元で愛されている神社、という感じです。



こちらが、元の縄張り図。

現在は
二つの川の
橋に従って、国道があり
河川改修で川幅が広げられ
本丸が姿を残すのみです。

本丸が神社の敷地になっており
外側は住宅地になっていました。
(城内・雲浜という名前が地名に残ってます)

小浜城に代々居住していたのは
酒井氏

江戸初期に大老として活躍した
酒井忠勝を始祖としています。

知らなかった~
酒井忠勝の名は
何となく、いろんな本で目にしていますが
小浜藩の人だったなんて!

まあ
この人、常に江戸幕府に出仕し
小浜に帰ったのは十数回
延べ9ヶ月ほどといいますから
立派な企業戦士
エリートサラリーマン?というべきでしょうか?

基本的に日本海側の小さな町ですが
着実に地位を保ってきた感があります。
(でないと、こんなに綺麗に石垣も残されていないでしょう)

明治維新後の失火で
お城が消失してしまったことは残念ですが

残っていたら
越前・丸岡城ほどの名城として
君臨していたはずでしょうね~。
いやはや惜しいことです。

次回
じっくり石垣について投稿します。
(新しいSDカード買ったので、どんどん撮りまくってます。)