神田川 「まる歩き」 しちゃいます!!

ー神田川水系、支流はもちろん、旧水路、廃水路、全部 「まる歩き」ー

虎ノ門2

2014-10-31 08:11:53 | 城西の堀川3

 左折後再び外堀通りを越える外堀ですが、その先には霞が関コモンゲートと呼ばれる、文部科学省と民間が同居する再開発地域があります。再開発に際して平成16年に実施された調査により、当地にあった日向延岡藩内藤家上屋敷の遺構と共に、外堀に面して設けられた高さ9mほどの石垣が、のべ70mほど点在して発掘されました。現在は敷地内3カ所にわたって、その一部が公開されています。なお、この区画の石垣構築は寛永13年(1636年)、備前岡山藩池田光政を組頭に、摂津三田藩九鬼、備中庭瀬藩戸川など13大名が担当し、石垣表面には担当した大名の刻印が残されています。→ 写真は豊後佐伯藩毛利家(毛利輝元から毛利姓を許されたが、一族ではない)の家紋の矢筈で、地下鉄虎ノ門駅入口に展示された石垣のものです。

 

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    ・ 外堀通り  昨日紹介した櫓台の展示されている三井ビル前から、左折後の外堀方向を見通しています。正面が霞が関コモンゲート、うちレンガ色の建物が旧文部省庁舎です。

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    ・ 外堀石垣  上掲写真の外堀通りの先には、同一直線上に三ヶ所、外堀の石垣が保存、展示されています。そのうち最も南側にある石垣で、外堀通りに面しています。

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    ・ 工部大学校跡碑  石垣の右手にあるのが、昨日UPの→ 「実測図」にも載っている、明治6年(1873年)創立の工部大学校(東京大学工学部の前身)の記念碑です。

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    ・ 外堀石垣  科学技術省などの入る旧文部省庁舎前に展示されているものです。→ 写真のように、地下鉄虎ノ門駅の出入口から、地下部分や水面レベルを見ることができます。

虎ノ門

2014-10-30 07:02:16 | 城西の堀川3

 溜池を出た外堀はクランクで虎之門(虎御門)に向かいます。外堀通りに面した三井ビル前の一角には、クランクの曲り角に設けられた隅櫓の石垣が保存され、外堀の櫓台はあとは筋違門と浅草門のみで、現存するのはここだけだと解説があります。江戸初期の当地は、外桜田門を起点とする小田原道筋にあたり、かつ上水利用の溜池があり、軍事上、都市生活上の要地でした。しかも、自然の起伏を利用することのできない低地ということで、あえてクランクにしてその角に櫓を設ける構造にしたのでしょう。因幡鳥取藩池田光仲が担当し、寛永13年(1636年)に構築されました。

 

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    ・ 「参謀本部陸軍部測量局の1/5000実測図(明治17年測量)」  「紙久図や京極堂 古地図CD-ROM」収録の南部の一部で、同社の基準(72dpi)で掲載しています。

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    ・ 外堀通り  堰のあった特許庁前から、外堀方向を見通しています。外堀は左カーブする外堀通りから若干離れた後、左折していました。

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    ・ 櫓台石垣  上掲写真の正面に見える三井ビル手前の、外堀通りに面したスペースに、隅櫓の石垣が保存されています。

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    ・ 金毘羅宮  左折する外堀の外側にあった讃岐丸亀藩京極家の上屋敷の屋敷神です。毎月10日には江戸庶民にも公開されていました。

ひょうたん堀

2014-10-29 06:55:45 | 城西の堀川3

 「大下水 紀伊殿御屋敷より流て来り、元赤坂町表伝馬町一丁目を通し、田町一丁目より明地上水堀の西を流れ、葵坂辺に至て溜池に合す、溜池落口の処を少しく幅広まりて、その形瓢に似たり、よりてひょうたん堀といへり、『江戸砂子』に赤坂川は鮫河橋の方より来りて、流末桜川に落ると書しは、此大下水の事なり、榎坂の辺より分派して、地中を堀通し、霊南坂の脇より桜川の方へ達せり。」 大下水(赤坂川)の開始にあたって、引用したことのある「御府内備考」の記述です。赤坂見附交差点から1.2kmほど南下して、そのひょうたん堀跡まで来ました。ただ、前回の最後でも触れたように、一帯はビルの敷地となって重なる道路もなく、痕跡をたどることはできません。

 

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    ・ 「江戸名所図会 / 溜池」  正面の通りが葵坂から続く葵坂通り、その奥がひょうたん堀(大溜とも)ですが、間に馬場があり、また玉川上水が流れていました。

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    ・ 特許庁前交差点  切絵図を重ねた→ 「1/5000実測図」から判断すると、ひょうたん堀はこのあたりで溜池に合流していたことになります。

 <榎坂>  「榎坂 溜池端明地に添ひ、霊南坂の方へ上る坂なり、此辺赤坂の地なりや今井の地なるや定かならされと、溜池にそえるをもて、姑(しばら)くこゝに出せり。」(「御府内備考」) 「江戸名所図会」は以前引用した「池の堤に榎の古木二三株あり、是を印の榎と名(なづ)く。昔浅野左京太夫幸長、欽命を奉して此所の水を築止めらる、其臣矢島長雲是を司り、堤成就の後、其功を後世に伝んため印にとて栽けるとなり」に続けて、「此堤より麻布谷町の方へ下る坂を、榎坂といへるも、前に述所の榎ある故とぞ」と書いています。

 

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    ・ 榎坂上  葵坂通り越しに榎坂上を見ています。正面奥がアメリカ大使館で、右手に下るのが榎坂、逆に左手に下るのが汐見坂です。

 冒頭で引用した「御府内備考」にもあり、また「実測図」にも描かれているように、大下水はひょうたん堀手前で分流していました。分かれた一流は榎坂に向かい、左折して坂のピークを伏樋で越え、汐見坂に抜けて桜川の水源の一つとなるのですが、その詳細は次回以降とします。

 


桐畑

2014-10-28 06:39:52 | 城西の堀川3

 明治に入り田町五、六丁目境となった地点に戻り、大下水(赤坂川)のウォーク&ウォッチを再開します。田町六丁目は江戸時代、溜池端芝御霊屋御掃除町、同永井町、同青龍寺門前町の代地でした。いずれも芝増上寺近くにありましたが、文化八年(1811年)に類焼後、増上寺などの火除地として召上げられ、当地に移転してきたものです。「当町(御霊屋掃除町代地)里俗桐畑と唱申候右者文化八未年五月中代地ニ不被下以前迄桐之木御畑ニ御座候ニ付一円ニ右之通唱申候」(「御府内備考」) 広重の「名所江戸百景」に「赤坂桐畑」のあることは、桐畑橋のところで一度触れました。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)  

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    ・ 「参謀本部陸軍部測量局の1/5000実測図(明治16年測量及び同17年測量)」  「紙久図や京極堂 古地図CD-ROM」に収録されている南西部及び南部の一部で、同社の基準(72dpi)で掲載、上掲地図のグレー枠の部分です。

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    1. このあたりの右手は永井町代地でした。元は増上寺裏門通りにあり、名主の名前からそう呼ばれました。 

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    2. 横切っている直線的な通りは、上掲「実測図」にはなく、明治中ごろの市区改正事業によって開通しました。 

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    3. 六本木通りを越えます。右写真は溜池交差点からのショットで、正面のコマツビルの裏が大下水跡の道路です。 

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    4. 再開発中なため数年前の写真です。この先で溜池に合流するもの、桜川となるものの二派に分かれますが、ビルの敷地の下に埋もれてしまいました。

檜屋敷

2014-10-27 07:30:07 | 城西の堀川3

 今回の谷頭一帯を占めていたのは、長門萩藩毛利家の下屋敷でした。檜が多く茂っていたことから、檜屋敷と通称されたところです。「檜屋敷 六本木通りの西松平大膳太夫下屋舗に、檜の並木あるよりの呼名なり、よりてその近辺をも檜屋敷と唱ふ。」(「御府内備考」 ただし、麻布の項にあります。) 明治に入り陸軍の駐屯地となり、戦後は進駐軍が接収、昭和37年(1962年)から平成12年まで、防衛庁がおかれていました。防衛庁跡地は「東京ミッドタウン」として再開発され、その中心のミッドタウン・タワーは地上248mで、東京では一番の超高層ビルだそうです。なお、毛利家の屋敷地が谷頭まで拡張されたのは、明暦3年(1657年)10月のことで、その様子は→ 「明暦江戸大絵図」の「大膳新屋敷」の書き込みに反映されています。

 

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    ・ 「参謀本部陸軍部測量局の1/5000実測図(明治16年測量)」  「紙久図や京極堂 古地図CD-ROM」収録の南西部の一部で、同社の基準(72dpi)で掲載しています。

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    ・ 檜町公園  昨日UPの最後の写真の正面です。上掲「実測図」では、大名庭園名残の池からの余水が、このあたりから流れ出しています。

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    ・ 檜坂  檜坂中腹から上掲写真の谷筋を見下ろしています。坂上は松平三河守(家康の孫忠直)の屋敷があったことから、三河台と呼ばれていました。

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    ・ 檜町公園  毛利家下屋敷には池を中心とした庭園があり、「清水亭」と呼ばれていました。「清水」は谷名とも共通しており、関連があるのかもしれません。

築地三軒家

2014-10-25 07:11:11 | 城西の堀川3

 氷川神社下まで戻ります。→ 「段彩陰影図」の描く三つの谷頭のうち、南側の六本木通りに近いものがテーマです。中ノ町から離れ南西に向かいますが、周囲は相変わらずの武家地で、築地三軒家と呼ばれていました。「築地三軒家 中ノ町より西に当れり、こゝに一ツ木町の飛地里俗三軒屋という町あるよりおこりし名なるべし。」(「御府内備考」) 尾張屋の切絵図、「今井谷六本木赤坂絵図」には、「三軒家」と書かれた通りの南側に、武家地に囲まれて「赤坂一ツ木丁」が描かれています。なお、同絵図では三軒家のさらに先に「清水谷」の書き込みもあります。今回の谷頭周辺の呼び名と思われますが、他の文献には見当たらず詳細は不明です。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)  

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    ・ 「参謀本部陸軍部測量局の1/5000実測図(明治16年測量)」  「紙久図や京極堂 古地図CD-ROM」収録の南西部の一部で、同社の基準(72dpi)で掲載、上掲地図のグレー枠の部分です。

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    1. 本氷川坂下先の三叉路まで戻ります。以前は右折したところですが、今回は左折です。 

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    2. この左手が一ツ木町の飛地で、三軒家のほか西大沢の通称もありました。「元禄八亥年比迄者沼地沢地ニ而之有候」(「御府内備考」)

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    3. 突き当りを左折します。尾張屋の切絵図に「清水谷」とあるのはこのT字路です。

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    4. すぐに右折です。正面に檜町公園と、その背後の東京ミッドタウンの高層ビルが見えてきました。

麻布今井町

2014-10-24 07:11:42 | 城西の堀川3

 → 「段彩陰影図」の描く外苑東通り近くの三つの谷頭のうち、前回は北側の青山通り手前のものでしたが、今回は中央にあって外苑東通りに接しているものです。この谷頭には→ 「明暦江戸大絵図」当時、すでに町屋が成立していました。「当町(麻布今井町)起立之儀者承応三午年中(1654年)虎御門並御堀等新規御普請ニ付御用地ニ被召上・・・・百姓共所持之田畑居屋敷迄被召上・・・・同年中今井村之内当町並三谷町寺町市兵衛谷町え百姓共移住居仕候当町者其砌(みぎり)今井本村と唱・・・・」 「町内里俗之唱当町赤坂続ニ有之候ニ付一円赤坂今井谷と唱申候」(「御府内備考」) なお、明治に入り成立した麻布今井町は、現在の六本木2丁目にあたる別地域の町です。

 

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    ・ 「江戸名所図会 / 今井谷」  尾張屋の切絵図に「今井谷六本木赤坂絵図」があるように、今井谷には広域地名としての用法もあり、「図会」が今回の谷頭を描いているかは、必ずしも判然とはしません。

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    ・ 赤坂通り  外苑東通りへ上る乃木坂に差し掛かる手前です。この通りに面した左右に、麻布今井町がありました。

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    ・ 乃木坂  外苑東通りから振り返ってのショットで、左手の茂みが坂名の元となった乃木大将の旧邸があった乃木神社です。

 <乃木坂>  乃木坂の命名は大正元年(1912年)ですが、それ以前は幽霊坂と呼ばれ「1/5000実測図」でもそうなっています。周辺を出雲松江藩松平家などの屋敷に囲まれ、鬱蒼として昼なお暗かったのでしょう。ただ、「御府内備考」にその名はなく、かわって行合坂となっています。「坂 登凡四拾間程幅四間より三間位 右者町内南之方ニ而同所龍土町え之道筋有之行合坂と相唱申候右坂上青山辺より龍土え通行之道筋え当町より登行合候故唱来候由申伝候」

 


青山御掃除町2

2014-10-23 07:33:45 | 城西の堀川3

 「御掃除町 町内起立之儀・・・・青山大膳亮様上地之内御掃除之者三十人え大縄地二而被下置・・・・右組屋敷続ヲ以青山御掃除町と唱来候哉と奉存候」 「御掃除之者」は江戸城内御殿の掃除を主に担当、他に使い走り的な雑務も行いました。10俵1人扶持の最下層の御家人で、定員は百数十人から二百人ほどあり、これを三組に分けていました。江戸城内の雑事を担当する五役(他は御中間、御小人、御駕籠之者、黒鍬者)の一つです。なお、他にも御掃除町があり、小石川御掃除町は伝通院付の、渋谷御掃除町は芝御霊屋付の掃除役の給付地でした。

 

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    ・ 稲荷坂下先  稲荷坂下からこのあたりまでの右手が御掃除町で、左手には周防徳山藩毛利家の上屋敷がありました。

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    ・ 新坂下  上掲写真の突き当りを左折したところです。右手が新坂上り口、正面は明治に入りできた無名坂で、外苑東通りに上ります。

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    ・ 新坂  → 「明暦江戸大絵図」の左上隅の通りは行き止まりになっていますが、その先から青山通りに抜ける坂として、元禄12年(1699年)に開削されました。

 <青山>  「青山は、天正十九年(1591年)青山常陸介忠成が宅地に賜りし地なり。或云、青山忠成十万石の時は、今の青山の地一円に屋舗なり、その後忠俊幸成兄弟街道を隔て住す」 厚木街道(青山通り)以南に屋敷を構えた幸成の子、幸利が、冒頭の引用文や「明暦図」にある青山大膳(亮)で、この系統がのちに美濃郡上藩を領しました。「御府内備考」は続いて、家康の命により馬で乗り回した範囲を賜ったとの、内藤清成と同様のエピソードを紹介した後、最後にこうまとめています。「後年次第に上り地となりて、青山氏の上ヶ地といふべきを下略して、青山と呼しより、おのづから一ツの地名となり、・・・・今は広き地名と成り、その大略をいはヾ、南の方麻布今井龍土に続き、北は千駄ヶ谷恩田鮫ヶ橋に及び、東は赤坂にて、西は原宿上渋谷なり。」 現在は外苑東通りをもって青山と赤坂を分けており、当地は赤坂7、8丁目となっています。

 


青山御掃除町

2014-10-22 07:05:08 | 城西の堀川3

  昨日UPの→ 「江戸名所図会」ですが、種徳寺門前の通りには石橋が架かり、クランクで左下隅に向かう水路を描いています。その先はほんの数十メートルで、駒止橋の架かる新町五丁目なので、「御府内備考」に収録された同町の書上が、駒止橋の記述に続けているのが、この水路と思われます。「下水 巾七尺程 右町内北之方武家之方より南之方え流落申候尤横切下水ニ而堀割年代相知不申候尤水源者青山掃除町より流出末者赤坂田町五丁目大下水え落合申候」 種徳寺門前の通りの左右には武家屋敷が並び、その北西にあったのが青山御掃除町です。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)  

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    ・ 「参謀本部陸軍部測量局の1/5000実測図(明治16年測量)」  「紙久図や京極堂 古地図CD-ROM」収録の南西部の一部で、同社の基準(72dpi)で掲載、上掲地図のグレー枠の部分です。

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    1. 三分坂下から西に向う通りです。石橋が架かっていたのはこの付近と思われます。

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    2. 江戸末の切絵図を見ると、通りの左右には旗本クラスの屋敷が立ち並んでいます。上掲「実測図」に点在する池は、その名残なのでしょう。

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    3. 赤坂小前で右折します。ここから先の水路は未確認なので、青点線は書き込んでいません。

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    4. 坂下左手にあった稲荷社が由来の稲荷坂で、坂の左右に起立した町屋が青山掃除町です。

三分坂下

2014-10-21 08:09:56 | 城西の堀川3

 駒止橋の北にあるのが三分(さんぷん)は坂です。上り口にある三分坂の解説標識には、「急坂のため通る車賃を銀三分(さんぷん:百円あまり)増したためという。坂下の渡し賃一分に対していったとの説もある。さんぶでは四分の三両になるので誤り」 貨幣単位の「分」ですが、読み方に二通りあり、「ぶ」は金貨の単位で四分の一両、「ふん」は銀貨のほうで十分の一匁となります。車賃に金三分(さんぶ)では高すぎです。それと「坂下の渡し賃」という表現ですが、三分坂下に渡し船があったとの伝承があり、それとの関係のようです。渡し船が必要なほどの大河だったのでしょうか。あるいは溜池の入江が、今回の谷筋に沿って、ここまで入り込んでいたのでしょうか。

 

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    ・ 「江戸名所図会 / 種徳寺」  (画面から切れますが)左下隅が駒止橋。奥が種徳寺、右折する三分坂に面したお寺が報土寺です。

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    ・ 三分坂下  駒止橋から三分坂下に向かいます。正面の報土寺は慶長19年(1614年)一ツ木に創建され、安永9年(1780年)当地に移転してきました。

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    ・ 三分坂  左手に見える築地塀はその報土寺のものです。坂上は広島藩浅野家中屋敷跡、現在はTBS放送センター(ビッグハット)。

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    ・ 三分坂下  坂の中腹から報土寺、その奥の種徳寺方向です。奥の茂みは「図会」にも描かれた階段で上る高台にあたり、その裏側が今回目指す谷頭です。

駒止橋

2014-10-20 08:00:31 | 城西の堀川3

 以下は「御府内備考」に収録された、現赤坂通り沿いに起立された町屋、新町五丁目の書上の一節です。「板橋 幅一丈一尺渡り九尺程 右当町下水え掛渡有之起立相知不申名目之儀者駒止橋と相唱候」 続いて「中古当橋ニ何人之馬ニ候哉乗来候節一向ニ進み不申頻(しき)りニ噺候由右ニ付只今以唱来候儀ニ御座候」と、その名前の由来も付け加えています。新町五丁目は元馬場とも呼ばれ、馬場(今井の馬場)跡だったので、馬つながりのネーミングかもしれません。なお、駒止橋は明治16年(1883年)には、幅18尺長11尺と一回り大きく架け替えられています。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    ・ 「参謀本部陸軍部測量局の1/5000実測図(明治16年測量)」  「紙久図や京極堂 古地図CD-ROM」収録の南西部の一部で、同社の基準(72dpi)で掲載、 上掲地図のグレー枠の部分です。 

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    1. 本氷川坂下です。左手のマンションの一角に、勝海舟旧居跡の解説プレートがあります。 

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    2. 右カーブで駒止橋に向かいますが、左手からの合流もありました。

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    3. 赤坂通りの手前です。右手の通りが日大三高通り、かっての中之町の通りです。

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    4. 赤坂通りとの交番前交差点で、ここに駒止橋が架かっていました。右写真は赤坂通りを見通しています。

氷川神社

2014-10-18 06:33:16 | 城西の堀川3

 「氷川明神社 赤坂今井にあり。・・・・祭神当国一宮に相同じ。赤坂の総鎮守にして、祭礼は隔年六月十五日、永田馬場山王権現と隔年に修行す。江戸名勝志、惣鹿子等の草紙に、当社元一木村にありしを、享保十五己酉(1730年)、今の地に遷座、社を御造営ありしと云々。按に、当社を古呂故宮とし、又享保中一木より今の地にうつし奉るよし、諸書に見ゆれども、詳(つまびらか)ならず。寛文江戸図に、古呂故宮と称するものは、今の一木に記(しる)して、氷川明神は同絵図に今の地に記しあり、しかるときは各々別の社なるべし。」(「江戸名所図会」) 神社西側にある本氷川坂(元氷川坂)の標識に、「坂途中の東側に本氷川明神があって坂の名になった。社は明治十六年四月、氷川神社に合祀された。」とあります。「寛文図」の「ヒカワ明神」は、この本氷川明神のことと思われます。

 

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    ・ 「江戸名所図会 / 赤坂氷川社」  社殿裏手が今回の谷筋で、正面も低地になっていますが、こちらは現六本木通りを底とする南側の谷筋にかかわるものです。

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    ・ 氷川神社  氷川坂を上ると右手に参道があり、その先に「図会」の右下に描かれた階段が見えます。

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    ・ 氷川神社  社殿は「図会」にもある享保15年造営のもので、都の有形文化財に指定されています。 

 <一木と今井>  共に中世から江戸初期にかけての村名で、「小田原衆所領役帳」にその名が見えます。うち、一木(ひとつぎ)は「東は赤坂門御堀溜池、南西は今井青山、北は四谷に接し」(「新編武蔵風土記稿」)、紀州屋敷を隔てて上は鮫河橋、下は赤坂に二分されました。奥州街道の中継地で人継(ひとつぎ)、それが(氷川明神ほか諸説の)大木によって一木に転訛、との言い伝えがあります。「風土記稿」は「鎮守氷川神木一株の銀杏大樹」としていますが、これは冒頭の古呂故宮(「寛文図」では「コロクノ宮」)のことでしょう。赤坂見附の一ツ木通り入口にあり、のち氷川明神旅所が置かれました。
 一方、今井の範囲は「東は虎門外、南は西久保、飯倉、龍土、西は青山、北は赤坂溜池」で、現在の赤坂の南西部から六本木の北部にかけての地名でした。地名由来としては、今井古城跡の伝承があります。「氷川明神の西北の方、松平芸州候の中屋しきの地をいへり。今井四郎兼平が城址なりといふ。紫の一本といへる草紙には、斎藤別当実盛の城とし、或は田子先生義賢の出城なりともいひ伝ふれども、共に詳ならず。」(「江戸名所図会」) 今井の地名と古城伝承が結びつき、今井兼平の名前が出てきたのでしょう。

 


赤坂築地2

2014-10-17 06:53:11 | 城西の堀川3

 赤坂築地の中心は中ノ町と呼ばれる通りでした。「中ノ町 新町四丁目五丁目往来(現赤坂通り)より南の方にて同じ東西の小路なり。」(「御府内備考」) 明治に入り字を変えて赤坂仲之町と一帯の町名になり、現在は赤坂6丁目の一部です。下の地図では日大三高通りとなっているこの通りが、今回の谷筋の底にあたりますが、→ 「明暦江戸大絵図」の描く水路は右岸段丘に沿っており、また「1/5000実測図」もこちらをメインに扱っています。一方、明治末の「郵便地図」は左岸段丘沿いの現赤坂通りに水路を描き、これは前回UPの→ 「明治42年測図」の扱いと同様で、この間付替えがあったのかもしれません。もっとも、大正初めの「地籍地図」を見ると、右岸段丘沿いと中央の通り(中ノ町)に側溝があり、元の水路を埋立てたというわけではないようです。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1. 右岸段丘沿いの水路跡の路地です。左手の台上は氷川公園ですが、江戸時代は旗本屋敷でした。

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    2. 鹿島建設の二つのビルの間を通り抜け、西に向います。

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    3. 氷川神社に至る氷川坂下に出ます。右写真は坂の途中から中ノ町の通りを見通しています。

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    4. 中ノ町の通りです。左手が日大三高の創立の地ですが、昭和51年(1976年)に町田に移転しました。

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    5. 赤坂通りです。通りの右手には新町四丁目があり、左手には「巾五尺」(「御府内備考」)の下水が流れていました。

赤坂築地

2014-10-16 07:13:12 | 城西の堀川3

 旧田町五、六丁目境で合流していた下水を追っての二回目で、桐畑橋の架かっていたところから、右岸段丘の裾を回り込むようにして西に向います。この台上には江戸時代、備前福岡藩黒田家と肥後人吉藩相良家の屋敷があり、明治に入りその合成から赤坂福吉町を名乗ります。一方、左岸には安芸広島藩浅野家の屋敷がありました。その間の今回の谷筋には、旗本、御家人クラスの屋敷が短冊状に並んでおり、鬼平こと長谷川平蔵も当地で幼少期を過ごしました。こうした造成、分譲地の例にもれず、赤坂築地と通称されたところです。前々回UPの→ 「明暦江戸大絵図」では「明地」となっていて分譲前ですが、「寛文図」(寛文13年 1673年)では、個人名が細かく書き込まれています。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)  

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    ・ 「陸地測量部発行の1/10000地形図(明治42年測図) / 四谷」  大下水(赤坂川)は道路化し、今回の下水も外堀通りを越えた先で合流するよう付替えられています。

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    1. 右岸段丘の裾を回り込むところです。「明暦図」当時から幕末に至るまで、段丘上には肥後人吉藩相良家下屋敷がありました。

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    2. ここで正面と右手、二本の合流がありました。上掲「地形図」に描かれているのは右手からの水路です。

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    3. 赤坂築地の中央にあり、中ノ町と通称された通りです。ここに水路を描く地図もあります。

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    4. 赤坂通りに出て左折します。「明治42年測図」では途切れますが、「郵便地図」はこの先からの水路を描いています。

桐畑橋

2014-10-15 05:55:49 | 城西の堀川3

 大下水(赤坂川)を離れ、田町五、六丁目境を西に向います。すぐに桐畑橋が架かっていました。「御府内備考」に橋名はありませんが、「石橋 長弐間壱尺五寸巾弐間半 右者町内(田端五町目)より松平備前守御中屋敷之方え渡ル橋」がそれで、五丁目の対岸は当時、備前福岡藩黒田家の中屋敷でした。明治に入り「東京府橋梁明細書」では、「桐畑橋 石造 長十二尺五寸幅十六尺 田町五丁目ヨリ六丁目ニ至ル大下水ニ架ス」となっています。なお、桐畑は尾張屋の切絵図にも載る一帯の通称で、広重の「名所江戸百景」の一枚に、桐の木越しに溜池を描いた「赤坂桐畑」があります。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)  

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    ・ 「参謀本部陸軍部測量局の1/5000実測図(明治16年測量及び同17年測量)」  「紙久図や京極堂 古地図CD-ROM」に収録されている南西部及び西部の一部で、同社の基準(72dpi)で掲載しています。

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    1. 大下水を離れ元の田町五、六丁目境を西に向います。

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    2. 明治30年代と思われるの付替え後の、溜池に向かう水路跡です。外堀通りには下柳堤橋が架かっていました。

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    3. 桐畑橋の架かっていたところです。左手台上には黒田藩中屋敷がありました。

 <上、中、下柳堤橋>  明治40年(1907年)発行の「郵便地図」を見ると、溜池の埋立て造成は完了し、代わって市電の通る現外堀通りと、その東側を並行する水路が出来ています。また、大下水(赤坂川)も道路化し、そこに西側から流れ込んでいた下水は、外堀通りを越えた先の水路に直接注いでいます。全部で三本あり、上流から鮫川の流末、大刀洗川、そして今回の下水です。これらが外堀通りを越えるところには、各々橋が架かっていました。上、中、下の柳堤橋です。うち、赤坂離宮から流れ出した鮫川の流末は、赤坂見附交差点の南で外堀通りを越えますが、そこに上柳堤橋が架かっていました。ただ、他よりも早く暗渠化したのでしょう、「明治42年測図」にはありません。