神田川 「まる歩き」 しちゃいます!!

ー神田川水系、支流はもちろん、旧水路、廃水路、全部 「まる歩き」ー

下高井戸村分水3

2017-11-30 06:24:57 | 神田川2

 下高井戸村分水の三回目です。八幡神社を過ぎ、相変わらずの車止め、段差付きの路地でしばらく西に向かった後、左カーブで南に向きを転じます。そこから先は水路単独なのでしょう、狭い路地が分水口まで続きます。→ 「段彩陰影図」で、八幡神社のある台地の南側の谷筋を追うと、やはり左カーブで玉川上水へと向かっており、自然の小支流ないしはけ水路を利用して分水を開削したのだと分かります。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1. 左右に蛇行していますが、全体としては西に向っています。

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    2. 多くの車止めで行き止まりのようですが、右手に新たな車止めの路地が顔をのぞかせています。 

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    3. 路地に入った後は左カーブが続き、南寄りのコース取りになります。

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    4. 引き続き南に向かいますが、路地は徐々に狭くなってきました。

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    5. 右手からの合流があります。奥に車止めが見えますが、水路はこのワンブロックだけです。

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下高井戸村分水2

2017-11-29 06:03:18 | 神田川2

 「上流編(神田川)」を最新の写真を元にリメイクします。その二回目のクールの範囲は、久我山駅前に架かる久我山橋、清水橋から永福通りに架かる永福橋までで、江戸時代の村名でいうと、上下高井戸村に当たります。前クールと同じく神田川の左右には、昭和30年代まで田用水が並行しており、その間を行き来しながら下流へと向かいます。

*  *  *  *  *  *

 下高井戸村分水の二回目で、向陽中学前の合流地点からさかのぼり、間もなく八幡神社の南側に出ます。相変わらずの車止め、段差付きの路地が続き、単調ですが迷うことはありません。ところで、この分水は昭和30年代中ごろまで田用水として機能したあと、宅地化の進行に伴い、そのまま排水路に転用されました。昨日UPの→ 「昭和38年空中写真」にはスリット状の蓋が写り、排水路への転用が進行している様子が分かります。この機能は現在も維持されており、「下水道台帳」を見ると、合流先の右岸流も含め「公共溝渠・暗渠」となっています。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1. 前回から引き続き西に向う路地で、交差する道路ごとに車止めでガードされています。

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    2. 八幡神社の南側です。→ 「段彩陰影図」を見ると、八幡神社は三方を低地に囲まれた台上にあります。

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    3. 藤和橋に出る通りを越えます。近くに幼稚園や保育園があるからでしょうか、1.と同様車止めが重なるように設けられています。 

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    4. かってはこの水路の左右に、幅50m弱の細長い田圃が続いていました。

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    5. 時々姿を現す送電線は北堀線で、しばらく並行したあと神田川沿に和田堀変電所に至ります。 

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下高井戸村分水

2017-11-28 06:55:49 | 神田川2

 安永4年(1775年)に開削された下高井戸村分水ですが、「上水記」(寛政3年 1791年)の分水リストによれば、「水口三寸四方 下高井土村壱ヶ村ニ限り 樋口より水末迄五町程」という規模でした。これはリストアップされた33ヶ所の中で最小で、大正10年の調査でも竪2.10寸横2.60寸となっていて、23ヶ所中最小規模となっています。それでも「豊多摩郡誌」に「頗る灌漑に便し」とあるように、下高井戸村にとっては貴重な水源でした。量だけでなく質も問題だったようで、高井戸第三小学校の「創立80周年記念誌」(昭和56年 1981年)の中に、神田川流域の本田に対し新田と呼ばれたこと、新田のほうが「水がいいのでおいしい米がとれた」ことが書かれています。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)  

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    ・ 「昭和38年国土地理院撮影の空中写真」  上掲地図のグレー枠の部分です。同一個所に同一番号を振っています。

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    1. 下高井戸村分水跡の路地をさかのぼります。すぐに車止めが付きます。

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    2. 「杉並の通称地名」(平成4年 杉並区教育委員会)によると、この左手は石山と通称されていました。

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    3. 左カーブでほぼ真西に向います。交差する道路ごとに車止めが付いています。 

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    4. 車止め、段差付きの路地が細かな蛇行を繰り返しながら続きます。

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下高井戸右岸2

2017-11-27 06:10:12 | 神田川2

 八幡下堰で右岸に分岐した下高井戸村の用水の二回目です。→ 「段彩陰影図」の中央に見られるように、右岸から突き出す台地の裾をめぐり、その東側に出て南下します。途中水路単独から抜け、幅広の道路の一部となったりもしますが、すぐに車止め付きの路地が顔をのぞかせていて、迷うことなくたどることができます。今回は向陽中学前に出て、右手から玉川上水下高井戸村分水の合流があるところまでです。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1. 前回から引き続き右手に崖面を見ながら右カーブ、東から南寄りに向きを変えているところです。 

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    2. ここはやや左カーブで、段丘の際によくある蛇行が続きます。

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    3. 次の右カーブで舌状台地の東側に回り終え、ほぼ真南に向きを変えます。

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    4. 幅広の道路に出ますが、3、40m先の左手に車止めが顔をのぞかせています。 

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    5. その車止めの路地を入ると、向陽中学前です。右手から合流する路地が下高井戸村分水跡です。 

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下高井戸右岸

2017-11-25 06:54:05 | 神田川2

 改修以前の神田川は、八幡橋のすぐ下流で左折、右折のクランクで北にシフト、そこに堰が設けられ、右岸に田用水を分岐していました。その流路は下高井戸村の用水の中では最長で、途中玉川上水下高井戸村分水の余水も合流、隣村の永福寺村、和泉村にまで達していました。なお、高井戸第三小学校の「創立80周年記念誌」(昭和56年 1981年)の中に、八幡神社裏にあった自然のプールについての記述がありますが、この八幡下堰と関わるものだと思われます。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)  

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    ・ 「昭和22年米軍撮影の空中写真」  上掲地図のグレー枠の部分です。同一個所に同一番号を振っています。

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    1. 八幡橋の右岸にある道路から始めます。すぐに、右手に入る車止め付きの路地があります。 

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    2. 地図でもそれとわかるように、左カーブで右手崖面をえぐるような孤を描いているところです。

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    3. いったん一般の道路と並行、その幅広の歩道のようになります。

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    4. すぐに車止めの路地が復活、右カーブで南に向きを転じます。

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永福寺村境

2017-11-24 06:26:41 | 神田川2

 むつみ橋の次が弥生橋ですが、その前後で神田川は左岸段丘と接します。それに伴い、左岸段丘の際にあって南下してきた永福寺村との境は、ここからしばらく神田川に沿います。→ 「下高井戸村絵図」の中央上部で、神田川が北側に弧を描き、左岸の水田が失われているところがそれです。その後は、下掲「段彩陰影図」の中央に見るように、左岸段丘と神田川の間は広がり、それに応じて新たに分岐された左岸流が村境になっていました。ただ、現行の住居表示では簡略化され、全体として神田川が下高井戸と永福の境になっています。

 

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    ・ 「段彩陰影図 / 神田川3」(1/18000)  オレンジ線は杉並区と世田谷区の区境です。なお、暗渠となった玉川上水は、この区画では玉川公園など遊歩道化しています。

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    ・ 神田川  むつみ橋下流で右カーブする神田川、奥が弥生橋です。その左手の茂みのところを振り返ったのが→ こちらで、左岸段丘とほとんど接しているのが分かります。

 ところで、「村絵図の」の左岸流(村境)は永福駅前を通る通り、現永福通りまで描かれていますが、実際の村境は途中右折、左折のクランクで神田川にシフト、しばらく本流に沿ったあと、再び右折、左折のクランクで今度は右岸段丘沿いに永福通りに向かっていました。結局、前半は左岸の田圃までが下高井戸村、後半は右岸の田圃までが永福寺村に属していたことになります。これは明治に入り高井戸村(大字下高井戸)と和田堀内村(大字永福寺)の境に引き継がれましたが、現行の住居表示は上述のように、改修された神田川が境となっています。

 

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    ・ 神田川  荒玉水道道路に架かる神田橋から下流方向です。この見通せる範囲内で、村境は上述のような移動をしていたことになりますが、今は単純に左岸永福、右岸下高井戸です。 

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左岸の用水2

2017-11-22 06:10:54 | 神田川2

 上下高井戸村をつらぬく左岸の用水の流末を追っています。西永福駅方面からの谷筋の合流地点に戻り、改めて東に向かいます。すぐに右カーブで南に向きを転じたところで、車止め付きの路地は終りますが、その先左折、ついで右折してむつみ橋下流で本流に戻るまでです。なお、「杉並の通称地名」(平成4年 杉並区教育委員会)によると、合流地点付近は「ぼっけ」と呼ばれていました。「ぼっけ 浜田山1-1付近、昭和初期まで使用、崖の方言であろう。」 崖状の段丘を現わす普通名詞のハケ、バッケについては、これまでも度々紹介しました。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)  

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    ・ 「昭和22年米軍撮影の空中写真」  上掲地図のグレー枠の部分です。同一個所に同一番号を振っています。

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    1. 合流地点に戻ります。すぐに右カーブ、東から南寄りに向きを転じます。  

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    2. 車止めはここまでですが、左折して正面の幅広の道路の右手を並行します。   

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    3. その先にも狭い路地があって、奥の突き当りを右折です。

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    4. やや右カーブのあと、むつみ橋下流で神田川本流に戻って終了です。

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左岸の用水

2017-11-21 06:26:43 | 神田川2

 弥左衛門堰(池袋堰)から分岐し、柏の宮公園下を流れてきた左岸の用水は、鎌倉街道を越え下高井戸村に入ったところで痕跡を失いましたが、今回はその流末についてです。北側に後退していた左岸段丘は、永福寺村との境で神田川本流と接するまでに近づきます。段丘沿いを流れる用水もそれに呼応、村境手前で南に向きを転じて本流に戻っていましたが、この区画だけ車止め付きの痕跡が残っています。なお、途中北側からの水路の合流が見られます。西永福駅付近からの谷筋にかかわるもので、→ 「段彩陰影図」からも読み取れます。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1. この路地から始めます。すぐに車止めが付いていて水路跡だと知れます。 

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    2. 左手からそれらしい路地が合流しており、左折して北上します。 

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    3. 浜田山南公園前です。公園からは一段下がっており、谷筋にあるのでしょう。

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    4. 突き当りの右手に車止めの付いた細長いスペースがあります。 

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    5. この先西永福駅前まで谷筋に沿った道路を歩いてみましたが、はっきりした水路の痕跡は確認できませんでした。 

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右岸の用水2

2017-11-20 07:07:34 | 神田川2

 堂の下橋で分岐した右岸の用水を追っての二回目で、塚山公園のある台地を回り込んだあと、鎌倉街道を越えて以降です。前々回UPした→ 「空中写真」の左下で、南側に大きく孤を描いているのが今回の水路で、右岸段丘をえぐるように流れた後、八幡神社下で本流(現在は藤和緑地)に戻ります。なお、「杉並の通称地名」(平成4年 杉並区教育委員会)によると、この区画の右岸台上は天神山と呼ばれていました。天神社があったと推測できますが、詳細は不明です。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1. 前回から引き続き、車止め付の路地が段丘の際を東に向かっています。  

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    2. 右側に弧を描いているところです。天神山と呼ばれていたのはこのあたりの右手です。  

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    3. 北に向きを転じ本流に向かいます。正面の送電線は和田堀変電所に向かう和田堀線のものです。  

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    4. 八幡神社下で元の本流(藤和緑地)に合流します。

 <八幡神社>  「八幡社 除地、三段三畝十九歩、村の北の方にあり、僅なる祠を南向に立、村の鎮守にして宗源寺持」(「新編武蔵風土記稿」) 社伝によると創建は長禄元年(1457年)、太田道灌が江戸城築城の際、家臣柏木左衛門尉に命じて鎌倉の鶴岡八幡を勧請したとされています。柏木の宮とも呼ばれ、「新編武蔵風土記稿」に収録された小名の中に、「柏之宮 東寄りなり」とあります。なお、鎌倉橋の名前の由来について、鎌倉街道に架かるから鎌倉橋という以外に、鶴岡八幡を勧請、創建したこととのかかわりを指摘する説もあります。どちらが先行したかはともかく、鎌倉街道、鎌倉橋、そして八幡神社の創建伝承が絡み合っているのは間違いありません。(八幡神社の社殿の写真は→ こちらでどうぞ)

 


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右岸の用水

2017-11-18 07:05:49 | 神田川2

 鎌倉橋の南側に車止め付きの路地が顔をのぞかせています。「昭和4年測図」にも描かれた、堂の下橋で分岐した右岸の用水で、塚山公園のある台地を回り込んできたものです。公園に差し掛かる前半部分の痕跡は失われましたが、鎌倉橋の南から始まる後半は、八幡神社下で本流に戻るまで、車止め付きの路地となっていて、迷うことなくたどることができます。今回は右岸段丘を回り込むところから始めますが、水路跡として残っているわけではないので、いつもの青点線は書き込んでいません。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によって前後をつないでいるところもあります。) 

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    ・ 「陸地測量部発行の1/10000地形図(昭和4年測図) / 上高井戸」  上掲地図と同一場所、同一縮尺です。

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    1. 右岸段丘を回り込むところから始めます。改修以前は本流も左手に回り込んでいたので、これほどの狭い間隔ではありませんでした。

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    2. 右カーブで段丘の東側に回り込み、塚山公園の広場を横切ります。 

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    3. 鎌倉街道を越えます。右写真は鎌倉橋方向です。 

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    4. 車止めの先です。このような路地がしばらく続きます。 

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藤和緑地

2017-11-17 07:12:03 | 神田川2

 鎌倉橋から二番目が藤和橋ですが、その前後の右岸には半月状の遊歩道が設けられ、さらに、八幡橋にかけては本流に接して、渓流を模した親水公園となっています。いずれも神田川を直線化した際、切り取られた蛇行部分を活用したもので、藤和緑地と命名されて平成4年に開園しました。面積はおよそ2400平方メートルです。なお、この区域の神田川は、昭和30年代中ごろの宅地造成によって、ある程度の拡幅改修がなされましたが、現行のように直線化されたのは昭和40年代後半です。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)  

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    ・ 「昭和22年米軍撮影の空中写真」  上掲地図のグレー枠の部分です。同一個所に同一番号を振っています。

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    1. 梢橋下流の右手の茂みの中に、竹林で囲まれた遊歩道があります。 

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    2. → 藤和橋を通る道路を越え、左カーブで本流に接します。右手からの合流は次回からのテーマです。 

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    3. 本流に接したところから親水公園が始まります。右手台上は下高井戸村鎮守だった八幡神社です。 

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    4. 親水公園はここまでで、奥に八幡橋が見えています。 

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下高井戸村用水

2017-11-16 06:52:03 | 神田川2

 下高井戸村の水利に関して「新編武蔵風土記稿」は、「井ノ頭上水 西の方上高井戸宿より入、東の方永福寺村に達す、水路村内にかゝること五町ばかり、多摩川上水 西の方上高井戸宿より入、東の方和泉村に達す、村内を過ること五町許」としています。ここまで見てきた上流の久我山村、上高井戸村の場合と同様、堰で左右に振り分けられた用水が、流域の細長い田圃を灌漑していました。水田の面積は「東京府志料」の数字で19町9反3畝23歩、上高井戸村の21町7反3畝2歩と大差ありません。

 

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    ・ 「下高井戸村絵図」  「杉並近世絵図」(平成5年 杉並区教育委員会)に収録された「下高井戸村絵図」を元にしています。

 下高井戸村の田用水のうち、堂ノ下橋の堰からの右岸流、弥左衛門堰(池袋堰)からの左岸流は、上高井戸村から追って来たものの続きになりますが、下高井戸村独自のものは八幡下堰からの用水です。上掲「村絵図」からも読み取れますが、神田川は八幡神社のある舌状台地を右カーブで迂回しており、そこに堰を設けて右岸流を分岐していました。その流末は後述する玉川上水の分水を合わせ、永福通りを越えて和泉村にまで達するものでした。

 

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    ・ 神田川  八幡橋から下流方向です。元の神田川はこの下で左折、右折のクランクがあり、そこに八幡下堰が設けられていました。

 下高井戸村の用水の特殊事情として、玉川上水からの助水(下高井戸村分水)の存在が挙げられます。「下高井戸地内に於て玉川上水より分派せる一支流は、其の流十町餘に過ぎざれども、頗る灌漑に便し、後神田上水の支流と合して、和田堀内村に入る。」(「豊多摩郡誌」) 「村絵図」左下の「樋口」とあるところで玉川上水から分岐、八幡神社の南側に達している細長いブルーがそれで、安永4年(1775年)に開削されました。「上水記」(寛政3年 1791年)の分水リストによれば、「水口三寸四方 下高井土村壱ヶ村ニ限り 樋口より水末迄五町程」という規模でした。これはリストアップされた33ヶ所の中で最小規模のものです。(玉川上水からの分岐点は→ こちらでどうぞ。左手の路地が分水跡です。)

 


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下高井戸村

2017-11-15 06:46:41 | 神田川2

 「下高井戸宿は、郡の東寄りにあり、江戸日本橋へは行程四里、村の広狭は東西へ十八丁余、南北十四町にすぎず、四隣、東は当郡和泉村荏原郡松原村に接し、南より西に至りては荏原郡上北沢村及び当郡上高井戸宿にも交れり、北は永福寺、成宗の二村につゞけり、民家は百三十二軒、すべて土性は黒野土、陸田多して水田少し」(「新編武蔵風土記稿」) 下掲「東京近傍図」に描かれた神田川の橋のうち、上流から二番目の鎌倉橋から左下隅の永福橋までが、おおむね下高井戸村の範囲でした。ただ、その半ば以降は神田川流域が境となって左岸の永福寺村との間を分け、これは現行の住居表示にも反映されています。

 

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    ・ 「東京近傍図 / 内藤新宿」(参謀本部測量局 明治13年測量)の一部を加工したもので、本来の縮尺は1/20000、パソコン上では1/12000ほどです。オレンジ線は区境、同細線は高井戸村当時の村、大字境です。 

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    ・ 下高井戸八幡神社  下高井戸村の鎮守で、神田川を右岸から望む台上にあり、「近傍図」の中央やや左側に描かれています。 

 <高井戸の地名由来2>  「不動堂 除地、六段三畝二十四歩、同じ辺にあり、この堂を守るものを本覚院と云」(「新編武蔵風土記稿」) 現在は宗源寺境内に移転していますが、いずれにしても甲州街道に面した小高いところにあり、これが高い所にあるお堂の意で「高井堂」と呼ばれ、高井戸の地名由来になったとの伝承もあります。高井戸の地名が最初に登場する「小田原衆所領役帳」には「高井堂」と表記されており、この説を補強する有力な材料となっています。なお、杉並区の公式サイト「すぎなみ学倶楽部」に収録された「高井戸の地名の起源を探る」は、本来の表記は「高井土」で、高井山本覚寺を創建した高井氏の開いた土地の意との異説を紹介しています。 

 

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    ・ 高井戸不動堂  本覚院が廃寺となったため、明治末に宗源寺に移されました。現在のものは昭和42年(1967年)の改築です。

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鎌倉橋

2017-11-14 06:32:00 | 神田川2

 上下高井戸村の村境に架かるのが鎌倉橋です。→ 「上高井戸村絵図」の村境にある板橋がそうですが、橋自体は下高井戸村に属していたようで、「新編武蔵風土記稿」は下高井戸村の小名として、「鎌倉橋 西寄りなり」を収録しています。「東京府志料」には「板橋 下高井戸村ニアリ鎌倉橋長四間幅一間」とあり、「豊多摩郡誌」では「鎌倉橋 神田上水鎌倉橋道下高井戸より大宮八幡に通ず、木造延長三間幅員一間」となっています。

 

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    ・ 鎌倉橋  その南詰から左岸方向のショットです。通過中なのは杉並区のコミュニティバス「すぎ丸」で、鎌倉街道が善福寺川を越える天王橋のところでも→ 写真をUPしました。

 なぜ鎌倉橋かというと、鎌倉街道と目される古道に架かっているからです。以下は「新編武蔵風土記稿」と同時代の「武蔵名勝図会」の引用です。「鎌倉橋 上下高井戸宿の界にあり。古えの鎌倉街道にて、南より来たり、橘樹郡へ出て、宿河原辺にて玉川を渡り、世田ヶ谷領へ掛り、ここへ来たりて、ここより北へは大宮八幡の大門通りをすぎて、中野村追分へ出る。それより中仙道の板橋へ行くなり。今は農夫、樵者の往来道なりて、野径の如し」

 

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    ・ 神田川  鎌倉橋から下流方向のショットです。直線化工事がこのあたりに及んだのは昭和40年代後半で、カーブ左手の→ 茂みもその際取り残された蛇行部分です。  

 <高井戸旧跡>  「村内小名堂の下というところにあり。古この辺に辻堂あり。鎌倉街道ゆえ、鎌倉橋という辺へ出る。ここは僅かなる丘地にして、辻堂の傍に清泉ありければ、盛暑のころ旅人必ずこの水を汲みて呑みしより、小高き地の冷泉なるを以て、衆人呼びて高井戸と称せし起こりなりと云」 高井戸の地名由来の一つとして引用したことのある「武蔵名勝図会」の一節ですが、「杉並の通称地名」(平成4年 杉並区教育委員会)は、この旧跡(伝堀兼の井戸)の所在地として浜田山1-5ないし6をあげています。前回UPした→ 「空中写真」で、左岸流や段丘沿いの道路が北上後、→ 右カーブしているあたりです。なお、「杉並風土記(下)」(平成元年 森泰樹)は、直径4メートルほどの池があったこと、昭和36年頃埋め立てられ宅地となったこと、などの聞き取りを収録しています。

 


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上高井戸左岸4

2017-11-13 06:13:40 | 神田川2

 上高井戸左岸の用水を追っての最後で、柏の宮公園を過ぎすぐに鎌倉橋を通る道(鎌倉街道)をこえます。塚山公園のところでUPした→ 「昭和4年測図」に書き込んだように、この通りがおおむね上下高井戸村の境なので、ここから先は下高井戸村の用水ですが、とりあえずたどれるところまでたどります。鎌倉街道の先で用水は大きく二流に分かれ、右折して本流のほうに向かうものと、左折するものがありました。後者は北に後退する段丘を追って北上、右カーブで永福寺村境で本流に戻っていました。ただ、この区域の水田は昭和30年代に宅地造成され、その際水路の大半は失われたため、二流に分かれてからの痕跡をたどることは、(下高井戸村で扱う予定の最後のとこ路を除き)ほとんどできません。

 

Kamitas4

    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)  

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    ・ 「昭和22年米軍撮影の空中写真」  上掲地図のグレー枠の部分です。同一個所に同一番号を振っています。

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    1. 柏の宮公園の先です。上掲「空中写真」からも読み取れますが、ここも水路は通りの右手を並行していました。 

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    2. 鎌倉街道を越えます。右写真の次の信号が鎌倉橋です。 

0923d0923e

    3. 昭和30年代まで、この右手から本流にかけての一角に釣り堀がありました。 

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    4. この付近で二流に分かれていたはずですが、どちらも重なる道路はなく、たどることはできません。 

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