神田川 「まる歩き」 しちゃいます!!

ー神田川水系、支流はもちろん、旧水路、廃水路、全部 「まる歩き」ー

上高井戸村境

2017-10-16 06:58:43 | 神田川1

 → 「久我山村絵図」を見ると、二番目に架かる現久我山橋の先で右岸流が本流に戻りますが、そこから三番目の現高砂橋まで、神田川本流が久我山、上高井戸村の境となっていました。下掲「段彩陰影図」に見るように、この区間の本流は右岸段丘に沿っているので、神田川流域の田圃は久我山、段丘上の雑木林は上高井戸に属していたことになります。現在は各々京王線の検車区、企業のグランド等となっているところです。この事情は明治に入り、同じ高井戸村の二つの大字の境にも引き継がれましたが、現在は富士見ヶ丘駅前に架かる月見橋までが久我山(1~5丁目)、それ以降が高井戸西(1~3丁目)と、分かりやすく二分されました。

 

Kamitaka1

    ・ 「段彩陰影図 / 神田川2」(1/18000)  オレンジ線は杉並区と世田谷区の区境です。なお、これまで右岸の尾根筋を並行してきた玉川上水は、暗渠となって中央自動車道の下にもぐります。

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    ・ 神田川  久我山橋の次に架かる清水橋から下流方向です。右岸の崖面が接近しスペースがないため、遊歩道も途切れます。

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    ・ 富士見ヶ丘検車区  左岸には昭和30年代まで田圃が広がっていましたが、昭和41年(1966年)、京王線富士見ヶ丘検車区が設けられました。 

 <タウン誌「くがやま」>  昭和40年代と50年代に各々数号発行された久我山のタウン誌があります。その「くがやま」の復刊第4号(昭和56年)の中に、「戦前の久我山」(秦暢三)という、この付近の情景を活写した文章が掲載されています。「只今の駅前通りは新道と申しまして、神田川の清流を利用して農家が共同野菜洗場を作り、大八車や牛車等で遠く神田、京橋等の青物市場へ出荷する大根を洗い、村人達は仕事の合間に世間話をする憩いの場所でした。今の寿湯の所は葦の自生地で、南側は高い雑木林、崖下には清水が湧き、たくさんの沢蟹が棲息して居り、悪童達の良い遊び場でした。ここより少し東寄りの所に清水堰があり、その附近一帯の水田は泥沼で田植えが不能の為、肥料の中へ稲種を混合して摘田作業を行ひました。其のため秋の取り入れの際は、自製の大きな板下駄をはき、刈り取った稲束を牛にのせて運びました。」

 


久我山左岸8

2017-10-14 06:54:41 | 神田川1

 久我山村の田用水のうち、左岸を流れていたものを追っての最後で、富士見ヶ丘駅前で二流に分かれたうち、さらに下流に向かうほうです。→ 「久我山村絵図」の左岸流は、上高井戸村境を越えており、こちらが本線だと思われます。ただ、富士見ヶ丘駅から上高井戸との境にかけて、宅地造成がいち早く行われたためでしょう、最後のところは痕跡が失われていますが、高砂橋付近で新たに分岐した用水と合流していたものと思われます。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    ・ 「昭和22年米軍撮影の空中写真」  上掲地図のグレー枠の部分です。同一個所に同一番号を振っています。

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    1. しばらくプラットホームと並行しますが、現在は駐輪場になっています。

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    2. 駐輪場の先で駅の南側にシフト、富士見ヶ丘駅前で月見橋の通りを越えます。

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    3. 2.の右写真の延長上にある黒いシートに覆われた細長い空間です。

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    4. 数十メートル先で行き止まります。なお、周囲は私有地なので、立ち入るのには許可が不可欠です。

久我山左岸7

2017-10-13 06:09:19 | 神田川1

 久我山村を灌漑している田用水のうち、左岸流を追っての続きです。前回の最後は一般の道路に紛れていましたが、すぐに車止め、段差のある水路単独に戻り、コンクリート蓋も登場します。井の頭線としばらく並行したあと、富士見ヶ丘駅手前で二流に分かれます。今回はそのうち井の頭線の線路を越え、月見橋手前で本流に戻るほうを追います。→ 「久我山村絵図」の左岸流は、上高井戸村境を越えており、その途中で本流と連絡する水路の一つが、駅周辺の整備の過程で排水路として残ったのでしょう。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1. 150mほど道路プラス水路が続きますが、正面に周囲より一段低い路地が見えてきました。 

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    2. このようなコンクリート蓋が100mほど残されています。

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    3. 井の頭線に接近しますが、その先雑草に覆われて進むことができません。 

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    4. 除草されていた数年前の写真で、富士見ヶ駅の駐輪スペース手前で中断します。 

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    5. 井の頭線を越えた先にある、車止めの路地です。すぐに本流に突き当たって終了です。 

久我山左岸6

2017-10-12 06:48:18 | 神田川1

 久我山村を灌漑している田用水のうち、左岸流を追っての続きです。途中、久我山橋下流の清水堰(紺屋堰)からの合流を得て、井の頭線の北側を並行、富士見ヶ駅方向に向かうところです。なお、今回の水路の北側を並行する通りがありますが、「たぶち通り」と通称されています。→ 「久我山村絵図」で江戸道(府中道)と分かれ、上高井戸村の境まで左岸流と並行する道がそれで、解説プレートには「昭和30年代までこの道を境に南側が田圃だった」とあり、田圃の縁を通るというそのままの意と思われます。現在は左岸流の代替機能を果たしている下水道井の頭上幹線の通り道です。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1. 左手からの合流を得た先、30mもいかないところで、再び車止め付の水路単独となります。 

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    2. 左手が崖面になっていて、左岸段丘の際にあることが分かります。

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    3. 車止めはここまでで、この先しばらくは一般の道路の一部となります。 

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    4. 水路は幅広な通りの左手を並行していました。 

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    5. このあたりの左岸段丘は、たぶち通りの際近くまで後退しています。 

久我山左岸5

2017-10-11 06:16:23 | 神田川1

 久我山橋下流には堰が設けられ、左岸に田用水を分岐していました。「くがやま」(復刊第4号 昭和56年)に添付された「大正初期之久我山略図」では「清水堰」、「杉並の通称地名」(平成4年 杉並区教育委員会)では「紺屋(こうや)堰」としています。この用水は前回の用水と合流、富士見ヶ丘駅を越え高砂橋に向かっていました。なお、「杉並の通称地名」によると、分岐から前回の用水との合流に至る部分は、「逆さ堀」と通称されていました。「昭和20年ころまで用いた。由来は不明だが、神田川と流れの方向が異なる水路らしい」としていますが、「逆さ」というほど流れの向きが異なるとも見えず、よくわからないところです。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)  

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    1. 久我山橋の次が堰名と同じ清水橋で、その手前から分かれるカラーブロックがあります。

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    2. 井の頭線手前で中断しますが、正面やや左手の空間に連続します。 

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    3. 車止め、カラーブロック、植え込みのある遊歩道がしばらく続きます。 

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    4. 右カーブで井の頭線や本流と同じ向きに転じます。ここからしばらくは一般の道路の一部となります。 

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    5. 前回の水路の合流地点で、右写真は合流する水路を振り返っての撮影です。

久我山左岸4

2017-10-10 06:26:10 | 神田川1

 久我山村の左岸を灌漑していた用水の四回目です。前回の最後は段丘を上る古道と分かれるところまででしたが、その先しばらくは密集する住宅の間に紛れ、痕跡は失われます。再開するのは人見街道が古道と合流する手前で、街道に面して車止め付の路地が顔をのぞかせています。水路単独の路地が100m強続き、久我山橋下流で本流から新たに分岐した用水と合流、共に上高井戸村境へと向かいます。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    ・ 「昭和22年米軍撮影の空中写真」  上掲地図のグレー枠の部分です。同一個所に同一番号を振っています。

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    1. 人見街道に面したこの車止めから再開します。 

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    2. すぐに左折します。左折後のラインが前回の古道沿いの水路の延長上にあります。

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    3. 左手が崖面の路地が、緩やかな右カーブのまま100mほど続きます。

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    4. 右折したところで、右手からの用水と合流します。この用水は次回清水橋の分岐点から扱います。

久我山左岸3

2017-10-07 06:03:02 | 神田川1

 左岸の水田を灌漑する用水を追っての三回目です。前回最後のマンション敷地際の水路跡は、久我山駅のプラットホーム手前で中断しますが、本来の流路はそのまま駅の北側にシフト、例の古道にいったん沿っていました。→ 「久我山村絵図」で古道と接するのは、二番目の橋を通る道との交点前後ですが、この道は久我山駅前を南北に走る通りにあたります。その後、用水は段丘を上る古道と離れますが、この間の確定的な痕跡はなく、いつもの青点線は書き込んでいません。なお、こうした流れとは別に、駅前で右カーブし本流に戻る水路があった可能性もあります。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    2. マンション敷地を抜けたところで、久我山駅のプラットホームに突き当たって中断します。 

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    3. 駅前通りと交差する古道です。この付近では段丘下を通るので下道、あるいは、井の頭行きの馬車が通るので馬車道とも呼ばれていました。 

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    4. 駅前通りを越えます。右写真は久我山駅方向で、70mほどで久我山橋です。 

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    5. 段丘を上る古道から離れ直進します。延長上にある車止め付路地から次回再開します。

久我山左岸2

2017-10-06 06:59:36 | 神田川1

 久我山村の水田を灌漑していたうち、左岸を流れる田用水を追っての二回目で、今回は稲荷神社下で江戸道(久我山街道)を越えた先までのウォーク&ウォッチです。カラーブロックの遊歩道ではありませんが、全行程にわたって車止め、段差など水路を示す表象が連続し、迷うことはありません。昭和30年代の空中写真には、スリット蓋の開渠が写っており、比較的最近まで現役だったのでしょう。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1. 幅広の道路の先に、車止めの路地が顔をのぞかせています。

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    2. 水路単独の路地は最初右カーブ、次いで左カーブですが、全体としては東に向かっています。 

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    3. ここはほぼ直線のところです。といっても、よく見ると左右に微妙な蛇行の跡を残しています。 

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    4. 村尾嘉陵も通った古道を越えます。右写真は宮下橋方向のショットです。 

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    5. マンション敷地の北縁に沿います。この区間は段差が水路跡を物語っています。

久我山左岸

2017-10-05 06:01:25 | 神田川1

 久我山村の水田を灌漑していたうち、左岸を流れていた用水がテーマで、今回から数回に分けてのウォーク&ウォッチです。→ 「久我山村絵図」を見ると、左岸の用水は牟礼、久我山両村の境を形成後、久我山村に入っています。「村絵図」には描かれていませんが、久我山村に入った左岸流は二流に分かれていました。村境沿いに本流に戻るものと、引き続き左岸流になるもので、そこに設けられた堰を「杉並の通称地名」(平成4年 杉並区教育委員会)は、「お琴堰 神田川みすぎ橋上流 昭和10年ころまで呼んだ。由来は不明」としています。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。) 

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    ・ 「昭和22年米軍撮影の空中写真」  上掲地図のグレー枠の部分です。同一個所に同一番号を振っています。

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    1. 神田橋から下流方向です。左岸の遊歩道の先が幅広になっています。 

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    2. 川沿いの遊歩道の左手に、植え込みに隔てられてもう一本遊歩道があります。

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    3. 直線で150mほど続くこの遊歩道が、杉並区と三鷹市の境となっています。

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    4. 遊歩道は終了し幅広の道路になりますが、このあたりにお琴堰がありました。 

久我山右岸2

2017-10-04 06:56:57 | 神田川1

 久我山村の水田を灌漑していた用水のうち、右岸を流れていたものの二回目です。大熊堰で本流から助水を得た後ですが、→ 「久我山村絵図」を見ると、宮下橋、久我山橋を越え、上高井戸村境で本流に戻っていたはずです。ただ、現在確認できる痕跡は宮下橋までしかありません。久我山駅前の宅地造成による影響ももちろん、昭和の初めに久我山駅前を通る人見街道のショートカット区間が、右岸流の流路と重なる形で開削されたことが大きかったものと思われます。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1. 迂回した先にある開渠の側溝ですが、すぐに雑草の生えた細長い空地になります。 

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    2. 経緯を知らなければ意味不明な空地が、最初は右カーブ、次いで左カーブで100mほど続きます。 

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    3. 宮下橋を通る通りに突き当たって中断です。右写真は宮下橋方向で、奥の茂みは稲荷神社です。 

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    4. 人見街道に向かうこの路地も水路跡風ですが、確証はないので青点線は省きました。 

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    5. 人見街道に突き当たります。右写真方向に300mほど行くと久我山橋です。 

久我山右岸

2017-10-03 09:56:10 | 神田川1

 数回前に村境付近で合流する小支流をさかのぼる途中、左手に車止め付きの水路跡がありましたが、今回はこの右岸の田用水がテーマです。→ 「久我山村絵図」では、無礼村から流れ込んだ右岸流が描かれていますが、これには宮下橋手前の堰で分岐した用水も合流していました。4.のところに設けられていた大熊堰からのもので、「杉並の通称地名」(平成4年 杉並区教育委員会)も「大熊堰 久我山3丁目宮下橋上流、昭和20年ころまで使用。(架設者の姓と思われるが由来は伝わらない)」としています。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    ・ 「昭和22年米軍撮影の空中写真」  上掲地図のグレー枠の部分です。同一個所に同一番号を振っています。

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    1. この車止めから始めます。プレートには「水路内にバイクを乗り入れないでください」と書かれています。 

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    2. 左カーブで緩やかな孤を描きながら東に向かいます。

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    3. ここは右カーブです。このような路地が途中、通りと交差することなく百数十メートル続きます。

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    4. 車止め付きの路地はここで中断します。右写真は緑橋下流で、左カーブ付近に大熊堰がありました。

久我山駅前

2017-10-02 06:21:34 | 神田川1

 宮下橋から久我山駅前に架かる久我山橋まで、右岸の遊歩道に接して宮下橋公園、久我山中央緑地と、二つの公園が連続して設けられています。昭和50年代に神田川が直線的に改修された際、切り取られた区画を埋め立て公園として整備したもので、蛇行の跡を留めてその形状が三日月、ないし半月形になっているのが特徴です。もっとも、久我山駅にいちばん近い蛇行部分は、公園にするスペースが足りなかったのでしょう、幅の広い遊歩道の一部となっています。

 

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    ・ 「昭和38年国土地理院撮影の空中写真」  ブルーで重ねたのは現行の流路で、右岸にはみ出した部分が久我山中央緑地などとして整備されています。 

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    ・ 久我山中央緑地  右岸段丘に食い込む半月状の公園です。左手奥にチラッと見えるのは都橋ですが、「豊多摩郡誌」(大正5年)では久我山橋がそうなっています。

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    ・ 神田川  久我山橋手前で右カーブするところです。右岸の通常の遊歩道の奥に、植え込みを隔てて半月状のスペースがありますが、かっての蛇行の痕跡です。  

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    ・ 久我山橋  「東京府志料」に「板橋 新道橋長三間幅五尺」、「豊多摩郡誌」に「都橋 木造延長一間三尺幅員一間」とありますが、現在は人見街道もクロスしてかなり幅広になっています。  

宮下橋

2017-09-30 06:59:48 | 神田川1

 「新編武蔵風土記稿」の中で「江戸道」と呼ばれていた古道が、神田川を越えるところに架かるのが宮下橋です。久我山村鎮守の稲荷神社の下にあり、高井戸村当時の小字が宮下だったことからの橋名で、「豊多摩郡誌」(大正5年)は「宮の下橋 石造 延長一間五尺幅員一間二尺」としています。一方、「東京府志料」は「石橋 久我山村ニアリ上ノ橋長一間二尺幅五尺」としています。いずれにしても、→ 「久我山村絵図」当時から昭和にかけて、旧久我山村に架かっていたのは、この橋と久我山駅前に架かる久我山橋、そして上高井戸村との境にある高砂橋でした。

 

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    ・ 宮下橋  古道が玉川上水のある右岸段丘を下り、宮下橋に差し掛かるところです。橋を渡り左岸段丘を上ると、右手に→ 稲荷神社があります。

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    ・ 宮下橋  すぐ下流に架かるのが宮下人道橋、右手の茂みは半円形をした宮下橋公園です。昭和50年代の改修で、取り残された本流跡を公園にしたところです。

 <嘉陵紀行>  「嘉陵紀行(江戸近郊道しるべ)」中、文化13年(1816年)に井の頭弁財天に詣でた折の一文によると、作者は堀之内妙法寺、大宮八幡に参拝したあと、上高井戸村から久我山村に入り、神田川を越えて玉川上水へと向かっています。「上高井戸村、こゝも下高井戸に同じく、民家又杉林の際を行て久我山村、村の入口に岐路あり、庚申塚あり、こゝより左に行ば、少し民家の間を行て、小坂を下れば、右手は山にて、山のこしをめぐりめぐりて田畝へ出る、田中の細道を南に向て行ば、細き流れあり、此流即井ノ頭上水なり、小橋を渡りてゆけば、少し高みにのぼる、登りて行ば上に玉川上水の堀割あり、石橋を渡す」

 

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    ・ 牟礼橋  最後の「石橋」は牟礼、久我山村境にあり、現在は牟礼橋と呼ばれていますが、「上水記」では久我山橋です。右手が拡幅後の新橋、左手前が旧橋で、大正期の→ アーチ橋が保存されています。

久我山村用水

2017-09-29 06:36:40 | 神田川1

 「玉川上水 村の南を流る、西の方無礼村より来り、東の方上高井戸村に至る、村にかゝること凡八町許、神田上水 村の中央を流る、西の方吉祥寺村より来り、東の方上高井戸村にいたる、村にかゝること是も八町許、此水を以て所々の水田に沃く」(「新編武蔵風土記稿」) 久我山村の水田は神田上水にのみ依存していました。「杉並区近世絵図」(平成5年 杉並区教育委員会)に収録された成立年代不詳の村絵図には、神田上水と並行して左右二本の田用水が描かれ、その間の細長い区画が田圃となっています。現在の地図に当てはめると、幅70~120m、長さは1km弱というところでしょうか。「東京府志料」の数字ではその面積は十町十六歩です。

 

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    ・ 「久我山村絵図」  「杉並近世絵図」(平成5年 杉並区教育委員会)に収録された「久ヶ山村絵図」を元に、久我山村の水田や田用水を強調したイラストになっています。

 大正5年(1916年)に発行された「豊多摩郡誌」は、この田用水を小川と呼んでいます。「神田上水の分流二派あり、本流を挟みて来り久我山の中央に至り共に本流に合す、・・・・高井戸村の水田過半この水利に依れり、里俗小川或は上げ堀と稱す。川幅及び水深共に三尺に過ぎず。」 一方、「杉並の通称地名」(平成4年 杉並区教育委員会)には、「大川 神田川のこと 昭和20年ころまでの子供たちの呼称、玉川上水その他の用水にくらべ広かったからであろう」とあります。本流の大川(おおかわ)に対し田用水が小川(こがわ)というのは、当時は一般的な使い分けでした。

 

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    ・ 神田川  久我山駅前に架かる久我山橋から下流方向です。「村絵図」の中央にある橋ですが、「東京府志料」では新道橋、「豊多摩郡誌」では都橋となっています。

  久我山橋から次の清水橋にかけて、右岸段丘が徐々に接近しているのが分かります。このため、上掲「村絵図」でもそうなっていますが、右岸の田用水は流路を失い本流に戻っていました。これに対し、左岸の流域には余裕があり、その田用水は「村絵図」通り本流と並行、上高井戸村に向かっていました。ただ、昭和40年代初めに、京王電鉄富士見ヶ丘検車区が設けられたため、その北縁をめぐる左岸流を除き、この区間の大半の痕跡が失われてしまいました。

 


久我山村

2017-09-28 06:22:21 | 神田川1

 「久ヶ山村は、郡の東にあり、江戸日本橋より行程凡五里余、民家六十四烟、・・・・東西凡十二町余、南北十町許、畑多く、田少なし、村の中通り東西へ低、南北の方高く、この中通りの低き所は神田上水路にて、土性は黒土なり、水旱の患あり、村内一條の往還あり、西の方無礼村より東の方上高井戸村に通ず、村にかゝること凡十二町、道幅三間許、是を江戸道と云」 「新編武蔵風土記稿」の記述です。最後の「村内一條の往還あり」は、牟礼村のところでも言及されていた古道ですが、神田川を越えるところは「東京近傍図」に書き込んだようにショートカットされ、現在は人見街道と呼ばれています。

 

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    ・ 「東京近傍図 / 布田驛」(参謀本部測量局 明治13年測量)の一部を加工したもので、本来の縮尺は1/20000、パソコン上では1/12000ほどです。オレンジ線は市区境で、同細線は高井戸村当時の村、大字境です。

 久我山の地名由来については不明ですが、陸地や空閑地を意味する「くが」との関係が指摘され、また、「やま」は高低とは無関係に樹木の繁っているところなので、このことから、雑木林の中の空地、武蔵野の森林を切り開いたところ、とする説が主張されています。ただ、「杉並風土記(下)」(平成元年 森泰樹)によると、かっては「こがやま」と発音されていたのが、昭和8年(1933年)に帝都電鉄(現井の頭線)が開通、その駅名に「くがやま」と振り仮名がつけられ、それが普及したとする古老の証言もあります。

 

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    ・ 稲荷神社  「除地、二段五畝十五歩 堂屋鋪にあり、・・・・前に鳥居をたつ、石段鳥居の外に三級内に二十級あり、村内の鎮守」(「新編武蔵風土記稿」) 鳥居前の石段は→ こちらです。

 <人見街道>  現在人見街道と呼ばれているのは、浜田山駅前で井の頭通りから分岐、府中市で新小金井街道に接する、延長12kmの都道の名称です。終点付近が人見村と呼ばれたことにちなみ、昭和59年(1984年)に採用されたものです。ただ、杉並、世田谷の区境から現人見街道に連続する通りが、元々人見街道と呼ばれていた関係で、「杉並風土記(下)」(平成元年 森泰樹)によると、採用当時は若干の疑義と混乱があったようです。そのためでしょう、人見街道を紹介する解説プレートには、「久我山街道と呼ばれていたが、昭和59年に東京都が決めた府中市人見に至る道」といった書き方がされています。