神田川 「まる歩き」 しちゃいます!!

ー神田川水系、支流はもちろん、旧水路、廃水路、全部 「まる歩き」ー

左岸の用水2

2017-07-31 06:47:42 | 善福寺川6

 堀之内村の左岸を灌漑していた田用水の二回目です。→ 「堀之内村絵図」で本村橋下流から分岐し、前回の水路に合流しているものを追います。→ 「大正5年修正」の、宅地を現わす斜線区画の東縁に沿うものですが、本村橋近くの痕跡は失われています。その後は「地形図」にある通り、妙法寺道を越えたところで右カーブし、本流に戻るまでを追います。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1. 本村橋の東にあるもう一つの用水跡です。右カーブの先で左手から前回の水路が合流します。

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    2. 熊野神社のある段丘前を東に向かいます。「堀之内村絵図」では字岡田と書き込みのあるところです。

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    3.  妙法寺道を越えます。ここで二方向に分岐しますが、「村絵図」では左手のみ、地形図では右手のみ、→ 「迅速測図」は両方描いています。

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    4. 右手の水路です。右カーブの先にはコンクリート蓋が残されています。

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    5. コンクリート蓋はここまでですが、左奥に見える階段の先は堀之内橋下流の善福寺川です。

左岸の用水

2017-07-29 07:19:53 | 善福寺川6

 「新編武蔵風土記稿」は堀之内村の堰三ヶ所のうち、村の南を流れ和田村に達するもの以外の二ヶ所について、「又一ヶ所は中道にあり、又一ヶ所は小名本村にあり、この二流は村内にて本流に落合」と書いています。これは→ 「堀之内村絵図」で、二ヶ所で分岐したのち合流、村内で本流に戻っている左岸流の様子と一致しており、本村橋から環七通りまでの左岸には、「絵図」と同様の流路の痕跡が現在でも残されています。ただ、最初の分岐からしばらくは、済美教育センターの敷地にあって失われていますが、昭和62年(1987年)の発掘で、古墳時代後期の住居跡や江戸時代後期のゴミ捨て場などとともに、灌漑用水路の存在も確認されています。

 

Sagan1

    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    ・ 「陸地測量部発行の1/10000地形図(大正5年修正) / 中野」  上掲地図と同一場所、同一縮尺です。

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    1. 本村橋手前で左カーブに差し掛かります。左岸への最初の分岐があったのはこのあたりと思われます。

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    2. 本村橋から左岸方向です。熊野神社前への道が右カーブするあたりを、左岸流は横切っていました。 

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    3. 右カーブの先でもう一つの左岸流と合流していましたが、次回に続きます。 

 <渋谷の水車>  昨日引用した「嘉陵紀行」の中に、「水車聞ゆる所を、右に見て田間を行」の一文がありました。やはり昨日UPした→ 「迅速測図」には、熊野神社前から本村橋に差し掛かる右手に水車を確認できます。これは、その後の地形図でも、「大正10年第二回修正」まで見ることができ、「杉並の通称地名」(平成4年 杉並区教育委員会)によると、渋谷家所有の水車があったため、昭和10年ころまで「水車」と通称されていたようです。同書には「今井さん堰」の項もあり、「済美学校創設者今井恒郎の所有地内にあって水車の水を引くためであった」と書いています。

 


堀之内村の橋

2017-07-28 06:24:22 | 善福寺川6

 「東京府志料」は「善福寺池流」にかかわる橋梁リストを載せていますが、うち堀之内村関係は次のようになっています。「板橋三 堀ノ内村ニアリ一ハ天正寺橋長二間半幅一間一ハ前田橋長二間半幅一間一ハ子ノ神橋長三間幅五尺」 これを→ 「堀之内村絵図」→ 「東京近傍図」と照らし合わせてみると、熊野神社前を通る下総往還などと呼ばれる古道や、方南方面から妙法寺に至る妙法寺道にかかわるものです。

 

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    ・  「迅速測図 / 東京府下武蔵國東多摩郡高圓寺村(部分)」  「東京近傍図」と重なりますが、色彩がある分読み取り安く、また本村橋手前の水車など、若干異なるところもあるため、あえてUPしました。 

 「村絵図」に書き込まれた字名から推測すると、天正寺橋は大正寺橋の誤記で、下総往還の右岸流側に架かる橋、前田橋は本流側に架かり、現在は本村(ほんむら)橋と呼ばれているものです。ただ、ここでの本流、右岸流の区別は現在を基準にしたもので、二つの橋の大きさが全く同じことや、「迅速測図」の描き方などからは、その区別は意識されていなかったのでしょう。次の子ノ神橋は妙法寺道にかかわるものですが、「東京府志料」の当時、本流と右岸流のどちらに架かっていたのか不明です。ちなみに、「杉並の川と橋」(平成21年 杉並区立郷土博物館)に掲載された、環七通り開通以前と注記入りの概念図では、北側のものが堀ノ内橋、南側のが子ノ神橋となっています。

 

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    ・ 本村橋  平成18年から継続していた善福寺川改修工事(済美橋・和田堀橋間)は完成し、本村橋や 奥に見える→ 堀ノ内橋は新しくなりました。

 <嘉陵紀行> 文政9年(1826年)4月28日の「嘉陵紀行」の一節です。「堀の内村妙法寺にまふで、それより大宮村八幡宮に参拝す、其道すがら妙法寺の門の前を南に行、人家二戸許在処のかどより右に横折て、少し高き処に上る心地にて、又少し下りゆけば、水車聞ゆる所を、右に見て田間を行、又山徑に入て一條の馬道に出、此馬道は即ち八幡宮の大門の通り也」 この道順を追ってみると、妙法寺前から妙法寺道を南に下り、途中右折して下総往還に入り、下って田圃の中を抜け、又山道に入って大宮八幡の通りに出る、ということになります。とすると、途中「水車聞ゆる所を、右に見て田間を行」のところで、水車前に架かる前田橋(本村橋)を通り、次いで大正寺橋を渡ったのでしょう。

 


右岸の用水9

2017-07-27 06:37:25 | 善福寺川6

 子ノ神橋から環七通り手前までの右岸流です。子ノ神橋を過ぎると二流に分かれますが、うち、段丘に沿って孤を描きながら和田村に向かう水路は、宅地造成によってその痕跡の前半が失われ、泉南中学のある段丘下の路地となって復活します。その後は再び二流に分かれ、左カーブで本流に戻るもの、東行して和田村へと入るものがありました。ただ、後者は環七通りに阻まれてその先をたどることはできません。なお、→ 「和田村絵図2」の右端で、右岸流と堀之内、和田村境が重なっていますが、今回の区画に該当し、明治に入り和田堀内村の大字境に引き継がれました。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    ・ 「陸地測量部発行の1/10000地形図(明治42年測図) / 中野」」  上掲地図と同一場所、同一縮尺です。

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    1. ここから右岸段丘下の路地となって復活します。段丘上は泉南中キャンパスです。

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    2. かっての村境と共に、左折して北に向きを変えます。 

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    3. 「地形図」には描かれていませんが、北上する本流に戻る一流もありました。 

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    4. 「地形図」に描かれているのは右カーブで和田村へと向かうほうですが、環七通りに阻まれて痕跡は失われます。 

右岸の用水8

2017-07-26 06:06:59 | 善福寺川6

 ガーデン堀ノ内住宅の南縁に沿っていた右岸の用水は、その敷地から離れたところで方南方面から妙法寺に至る妙法寺道を越え、すぐに二流に分かれます。今回は左手の流れを追い、定塚橋で本流に戻るまでです。なお、妙法寺道には子ノ神(ねのかみ)橋が架かっていました。→ 「堀之内村絵図」→ 「東京近傍図」にも描かれています。「村絵図」に書き込まれた字名からして、子の神(ねずみを使とする大国主命、大黒様)を祀る社の存在が推測されますが、目下のところ未確認です。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1. ガーデン堀ノ内住宅の南縁に沿って、左カーブで徐々に北寄りに向きを変えます。

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    2. 子ノ神橋の架かっていたところです。右手に向かう水路もありましたが、ここでは直進します。

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    3. 右折、次いで左折のクランクです。

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    4. たくさんの車止めでガードされていますが、ここで左折です。

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    5. 定塚橋で本流に戻ります。一帯の字、定塚窪(久保)が由来ですが、橋自体は善福寺川改修後の架橋です。

右岸の用水7

2017-07-25 07:02:51 | 善福寺川6

 だいしょうじ公園まで戻り、右岸段丘に沿って流れる用水跡を追います。それらしい蛇行を繰り返しながら、全体として左カーブで向きを北寄りへと変えます。途中、マンション(ガーデン堀ノ内住宅)の敷地の南縁に沿いますが、昭和40年代初めに造成地に建設されたものです。なお、「杉並の通称地名」(平成4年 杉並区教育委員会)によると、だいしょうじ公園付近は砂利の採掘場所だったところで、大正ころまで砂利根と呼ばれていました。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1. だいしょうじ公園に戻り、右手に右岸段丘を見ながら進みます。公園先の左手は堀ノ内子供園です。

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    2. 左カーブ、右カーブのクランクで若干北側にシフトし、段丘の際から離れます。

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    3. ガーデン堀ノ内住宅の敷地に沿い始め、狭い路地風になってきました。

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    4. いったん中断しますが、その先連続しています。ただ、フェンスに阻まれるため、方南通り経由で迂回しなければなりません。

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    5. 引き続きマンション敷地の南縁に沿い、北寄りに向きを転じます。

右岸の用水6

2017-07-24 06:36:20 | 善福寺川6

 だいしょうじ公園の手前で右岸流は二流に分かれ、公園の両側を流れます。右手のものは段丘沿いを流れ、和田村方面に向かいますが、左手のものは公園の北側に回り込み、本村橋下流で本流に戻っていました。ただ、後半部分は物流関係企業の敷地となって、水路の痕跡は失われてしまいました。なお、→ 「堀之内村絵図」にあるように、この付近の田圃は前田と呼ばれ、本村橋を前田橋としている文献もあります。熊野神社周辺の本村から見て、前(南)にある田圃の意と思われます。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1. 堀ノ内子供園(堀ノ内南児童館)前の水路跡の道路です。正面のやや狭くなったところで左折します。

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    2. 左折後、物流会社の倉庫のある一角に向かいます。

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    3. 水路跡の道路はここまでですが、奥で左折して100mほどで本流に戻っていました。

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    4. 右隣りにある「下水道台帳」に水路敷と書かれた路地です。段丘沿いの水路とつながっていたようですが、今は孤立していて意味不明な路地になっています。

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    5. こちらは堀ノ内橋手前で本流に戻っています。

右岸の用水5

2017-07-22 07:00:38 | 善福寺川6

 清明が池の南で合流した右岸流は、すぐ大宮八幡から熊野神社前を通る古道を越えます。そこには大正寺(だいしょうじ)橋が架かっていました。→ 「堀之内村絵図」→ 「東京近傍図」にも描かれている橋で、現大宮小学校付近にあったといわれる、真言宗のお寺の名前、大正寺(大聖寺)にちなんだネーミングです。「杉並の川と橋」(平成21年 杉並区立郷土博物館)によると、安政4年(1856年)の妙法寺関係の文書に「大正寺坂下橋」とあるそうで、また、明治初年の「東京府志料」には「大正寺橋長二間半幅一間」と書かれています。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    ・ 「陸地測量部発行の1/10000地形図(昭和4年測図) / 上高井戸」と「同 / 中野」を合成したもので、上掲地図と同一場所、同一縮尺です。

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    1. 大正寺橋の架かっていたところです。右手は大宮八幡へと向かう上り坂(大正寺坂)、左手は本村橋を経て熊野神社に至ります。

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    2. 大正寺橋の先にだいしょうじ公園があります。右岸流は二流に分かれますが、ここでは先ず左折します。 

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    3. だいしょうじ公園を回り込み、最後に左折で公園を離れます。 

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    4. 右折して堀ノ内南児童館の北東側に回り込みます。 

右岸の用水4

2017-07-21 07:13:22 | 善福寺川6

 堀之内村字広町の田圃を灌漑する用水の四回目です。山下の堰で分岐し田用水は、日本済美学校内にあった清明が池の西縁をめぐり、現済美小学校の正門前で池を離れます。一方、熊野橋付近で分岐したもう一流は、清明が池の東縁に沿い南下し、結局両者は→ 「昭和4年測図」にあるように、池の南100m弱のところで合流していました。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1. 済美小学校の正門前に戻り、西側の水路が右カーブで南下するところから再開します。

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    2. 左折、次いで右カーブのクランクでやや東にシフトします。

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    3. 左手から前回の水路の合流を受けて、右カーブで共に南下します。

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    4. 前回の水路の中断した先です。断片的な痕跡が残されています。

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    5. 前回の水路の側から見た合流地点です。右手からの水路と合流後、左手奥に向かっていました。

左岸の用水3

2017-07-20 05:52:25 | 善福寺川6

 堀之内村字広町の田圃を灌漑していた用水のなかには、熊野橋付近から右岸に分岐していたものもありました。前回UPの→ 「昭和4年測図」で、清明が池の東縁に沿っている水路にかかわり、南下して前回までの用水に合流していました。その大半が済美小学校の東側の道路となり、ワンブロックだけ車止め付きの路地が残っています。なお、分岐点に架かる熊野橋は左岸にある熊野神社にちなんでいますが、当時はこの場所に橋はありませんでした。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1. 熊野橋から右岸方向です。熊野橋がこの場所に架けられたのは、善福寺川の直線的な改修のあった昭和30年代です。

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    2. 熊野橋から右岸に向かう道路が、かっての水路跡と重なります。

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    3. 済美小学校の北東角で左折、その東縁に沿って南に向かいます。

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    4. 途中、通りから離れて右手に入る車止め付きの路地があります。

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    5. ワンブロックで中断します。この先西側の用水との合流地点まで、痕跡は断片的です。

右岸の用水2

2017-07-19 06:44:46 | 善福寺川6

 山下の堰で右岸に分岐していた、堀之内村字広町の田圃を灌漑する用水の続きです。水路跡は済美小学校のキャンパスで途切れますが、その南西角にある正門前で復活します。もっとも、「昭和38年空中写真」には、済美小学校のキャンパスの西縁に沿う水路が写っており、その痕跡はキャンパス内に現存しているかもしれません。なお、同校は昭和28年(1953年)に、田圃を宅地造成して開校しましたが、それ以前の一時期、清明が池と呼ばれる池だったところです。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    ・ 「昭和38年国土地理院撮影の空中写真」  上掲地図のグレー枠の部分です。同一個所に同一番号を振っています。

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    1. 済美小学校の西縁に向かいます。右写真は左岸方向のショットで、内側を流れる用水との間に連絡水路がありました。

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    2. 熊野橋付近で分岐していた用水跡の道路です。こちらは済美小学校の東縁に沿っていました。

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    3. 南西角にある正門前です。復活した車止め付きの水路跡はすぐに右カーブで南に向きを転じています。

 <清明が池>  大宮中学校、済美小学校、対岸の済美教育センターなどがある一角は、明治40年(1907年)に開校した全寮制の小中一貫校、日本済美学校の敷地でした。その中央にあたる現済美小学校のある区画は、元々水田だったところにボート池が作られ、清明が池と名づけられました。山下の堰で分岐した右岸流は、この池の西岸を迂回して流れ、また、池に流れ込むものや東岸に沿って流れるものもありました。上掲地図と同一場所、同一縮尺の→ 「昭和4年測図」の中央に描かれているものですが、前々回UPの→ 「昭和22年空中写真」の下端を見ると池はなく、戦後の食糧確保の要請からでしょう、埋め立てられ水田に戻されたようです。

 


右岸の用水

2017-07-18 06:13:48 | 善福寺川6

 済美公園沿いの用水のうち、道路となって残っている東側のものを追います。公園を離れるところで、段丘沿いの用水と合流、左折して東に向きを転じ済美小学校へと向かいます。ところで、公園や学校の名前となっている済美ですが、明治40年(1907年)に開校した全寮制の小中一貫校、日本済美学校に由来しています。同校は昭和25年(1950年)に閉校となり、二万ヘクタールを超える跡地や建物、備品、図書類は、済美の名称の使用や教育施設への転用を条件に杉並区に寄贈されました。この一帯に済美小、済美養護学校、済美教育センターと、済美の名前を冠した区立の教育施設が多くあるのはそのためです。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1. 済美公園の東縁に沿う道路から始めます。いかにもそれらしい蛇行が見られます。

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    2. 公園を離れます。右手からの段丘沿い用水とこのあたりで合流していました。

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    3. 左折、右折のクランクでやや東にシフトします。

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    4. 奥のフェンスで左折です。フェンスの中には、シートで覆われた細長い空間が残されています。

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    5. 済美小学校の側から振り返っての撮影で、左手の建物は済美職業実習所です。

山下の堰

2017-07-15 07:24:53 | 善福寺川6

 → 「堀之内村絵図」で、村境を越えてすぐ右岸に分岐する用水があります。「新編武蔵風土記稿」が「村の南の方を流る、長さ二十町許、流末は是も和田村に至」と記述するものです。「杉並の通称地名」(平成4年 杉並区教育委員会)にある山下の堰も、その場所からいってこの用水にかかわるものと思われます。「山下の堰 堀之内2-37 武蔵野橋付近。昭和10年ころまで使用。対岸が向山であり、その下にあったのでこの名があった」 ただ、「村絵図」は右岸への分岐を一ヶ所から、→ 「東京近傍図」では二ヶ所から描いていますが、現在確認できるのは三ケ所となっています。

 

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    ・ 「昭和22年米軍撮影の空中写真」  直線的に改修された現行の善福寺川の流路をブルーで、済美公園をグリーンで重ねています。

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    ・ 済美公園  武蔵野橋から右岸方向のショットです。最初に分岐した用水は、済美公園の段丘の際を流れ、次の用水は公園の東縁に沿う道路となっています。

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    ・ 善福寺川  武蔵野橋から下流方向です。平成17年の集中豪雨後の護岸工事に際し、済美公園と一体化した親水施設が設けられました。

 <広町>  山下の堰から右岸に分岐した用水が灌漑していた田圃は、昭和30年代まで広町と呼ばれ、「村絵図」にも「字広町」の書き込みがあります。「大水が出ると一面の水となり池のように真白く見えるからこの名ができた。一説にこのあたりの水田が付近でもっとも面積が大きいからともいう。」 「杉並の通称地名」はさらに続けて、前者は「ヒロ」を「シロ」と発音することからくる誤解としています。なお、広町の「マチ」は区画の意で、天保新堀用水の分岐点がある荻窪団地付近も、やはり広町と呼ばれていました。

 


堀之内村

2017-07-14 07:09:56 | 善福寺川6

 「堀之内村は、郡の東の方にあり、郷庄の唱を失ふ、江戸日本橋より行程三里ばかり、村内高低ありて田畑は西より東の方によりてあり、土性は黒土、民家五十五軒処々に散在す、東は和田村につゞき、南は和泉村に接し、北は高円寺村に及び、西も亦和田村なり、村内一條の道あり、中野村鍋屋横町より和田村八幡社の前へ達す、村内にかゝること十一町許、・・・・此辺阿佐ヶ谷、天沼、下荻窪及び当村すべて江戸麹町山王社領なり、何れの比附せられしや詳ならず」(「新編武蔵風土記稿」)

 

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    ・ 「堀之内村絵図」  「杉並近世絵図」(平成5年 杉並区教育委員会)に収録された成立年代不詳の村絵図を元に、田用水を強調したイラストになっています。

 この「村絵図」では、字は16に細分されていますが、「風土記稿」に収録されているのは、「原 東の方和田村の堺を云、小屋ノ台 西の方和田村の境にあり、・・・・、清水 北の方高円寺村の境を云、中道 中程にあり、本村 南の方にあり」の五つで、小屋ノ台の名前の由来については、源氏の武将、畠山重忠とかかわる伝承について、一度触れたことがあります。なお、堀之内の由来についても、隣村和田ともからんで、同じ源氏の武将、和田義盛の館跡との説もあります。たしかに、中世の土豪の館には濠をめぐらせていて、堀之内の名前の由来ともなっていますが、当地の場合、それを裏付ける資料や遺構は発見されていません。 

 

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    ・ 熊野神社前  堀之内村鎮守の→ 熊野神社の西から北へと抜ける通りは、「風土記稿」に「村内一條の道あり」と書かれた古道で、下総往還と呼ばれ、また鎌倉街道と目されています。 

 ところで、堀之内村の水利に関し「新編武蔵風土記稿」は以下のように記述しています。「水元は遅野井村善福寺池より出、隣村和田村の内松の木と云所より当村に入、村内を流るゝこと十町許、流末は又和田村に至る、此川に堰三ヶ所あり、一ヶ所は村の南の方を流る、長さ二十町許、流末は是も和田村に至、又一ヶ所は中道にあり、又一ヶ所は小名本村にあり、この二流は村内にて本流に落合、此三流を所々の水田に沃げり」 これは「村絵図」の描く田用水と、右岸に和田村にまで達する一流、左岸に本流に戻る二流と一致しており、また合計三ケ所は「星野家文書」(昭和58年 杉並区教育委員会)中、明治10年代に東京府知事に提出された「草堰願」にある、堀之内村に設けられた草堰の数と同じです。

 


堀之内の支流5

2017-07-13 07:07:19 | 善福寺川5

 今回の水路の先端付近は谷戸と呼ばれています。「谷戸 堀ノ内3-37付近 現在も用いている。由来はない。」(「杉並の通称地名」 平成4年 杉並区教育委員会) → 「堀之内村絵図」にも、妙法寺参道へと通じる通りの南側に「字谷戸」の書き込みがあり、やはり今回の谷筋にかかわるものと思われます。谷戸は関東地方に多い地名で、丘陵地の谷あい、小川の源流域を指す普通名詞が由来です。ちなみに、後に杉並区を構成することになる和田堀内など四ヶ村の小字中、谷戸を含むものが八か所あり、当地のように、通称地名としてカウントされているところもさらに数ヶ所あります。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1. 引き続き車止め付きの狭い路地を西に向います。

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    2. 「村絵図」では妙法寺と村境の中間に「字谷戸」とあり、とするとこのあたりということになります。

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    3. この前後の数ブロックは、同じような車止め付の路地の連続で、単調ですが迷うことはありません。

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    4. 車止めの路地は徐々に狭くなって、先端が近づいているのが予想できます。

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    5. 最後にワンブロックだけコンクリート蓋が現れて終了です。一軒先は和田村との境に当たります。