神田川 「まる歩き」 しちゃいます!!

ー神田川水系、支流はもちろん、旧水路、廃水路、全部 「まる歩き」ー

保久屋口2

2015-12-31 07:39:56 | 妙正寺川1

 保久屋口からの水路をさかのぼって、青梅街道近くまで来ました。「杉並の川と橋」によると、この水路沿いにも湧水池がありました。「この流れ沿いに桃井4-2榎本邸の池がある。元々はこの池からの流であったものが、時代の変化で千川用水からの助けを借りたのではなかろうか。」 いずれにしても、→ 「段彩陰影図」で見るように、他の分水口のように付近の谷頭に水を落としていたわけではなく、田用水というよりは、悪水吐(排水溝)の性格が強かったように思えます。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1. 前回のつづきで水路は道路の左手にシフトしています。なお、湧水池のあった桃井4-2はこの左手です。

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    2. 勤労福祉会館前を過ぎると、その先で道幅が急に狭くなっています。

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    3. 道幅が狭くなったところで左折、そのすぐ先で右折です。

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    4. 100mほどでワンブロックだけの水路跡に突き当たります。

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    5. 左折するとすぐに青梅街道に突き当たって終了です。右写真は青梅街道側からのショットです。

保久屋口

2015-12-30 07:38:35 | 妙正寺川1

 前回最後の先端部分から100mちょっと戻り、左手(右岸)から合流していた水路を追います。こちらの先端は青梅街道に達していて、六ヶ村分水の助水を得ていたものと思われます。ホームページ上で閲覧できる「すぎなみ学倶楽部」<青梅街道に沿って流れていた「半兵衛・相澤堀」>の中で、「保久屋口」としている支分水ですが、明治10年の「星野家文書」のリストに記載はなく、開削時期や分水口の大きさなど、詳細は知られていません。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1. 南下してワンブロックで三谷南公園脇に出ます。三谷は「青梅道の北の方にあり」(「新編武蔵風土記稿」)とされる一帯の小名でした。

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    2. 現行の住居表示で今川(1~4丁目)、桃井(1~4丁目)の境となっている通りを越え、その先で左折します。

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    3. 左折、右折のクランクで東側に50mほどにシフトするところです。

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    4. 右折して南下します。200mにわたって見通すことのできる直線コースです。

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    5. 一般の道路に突き当たって右折です。道幅の状況から最初右手にあった水路が、その先で左手にシフトしているのが分かります。

神戸用水5

2015-12-29 06:49:26 | 妙正寺川1

 観泉寺先の神戸用水の跡は、車止め付の路地が途切れることなく続き、迷うことはありません。ただ、先端が一般の道路に突き当たって途切れ、→ 「段彩陰影図」に見るように、特に谷頭を思わせる地形的な特徴もないことから、不思議な終り方(始り方)だとかねがね思っていました。それが、「小川邸の池 今川3-9」との「杉並の川と橋」の記述から、先端部分の左手(右岸)に湧水池があったと分かり、ようやく納得することができました。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1. 観泉寺前で復活した水路跡の続です。車止め、カラーブロックで整備されています。

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    2. 整備があだになったのでしょうか、「バイク乗り入れ禁止」の看板も目立つ区画です。

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    3. 合流する路地ごとに車止めが付くなど、厳重なガードぶりです。

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    4. 左手からの合流があります。いわゆる保久屋口からのものですが、次回ここまで戻ってさかのぼります。

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    5. 一般の道路に突き当たって終了します。この道路は右手に行くと道灌坂、道灌橋へと至るものです。

観泉寺

2015-12-28 06:57:37 | 妙正寺川1

 宝珠山観泉寺は上下井草村の領主今川家の菩提寺で、上下の境近くの上井草側に位置しています。今川家は駿河の領主今川義元の末裔で、朝廷、寺社関係の儀礼を司る高家の役職にあり、一千石の旗本でした。忠臣蔵の敵役、吉良家で有名な高家は、禄高は旗本、格式は大名以上の扱いとされ、足利将軍家と縁続きで、家康幼少時代の主筋とも言える血統あってのことでしょう。その高家今川家がこの地を知行したのは正保2年(1645年)、中野の成願寺の末寺だった観音寺を改名、菩提寺としましたが、「新編武蔵風土記稿」では「観音寺」のままになっています。年貢の取立てや裁判など、知行地支配の役所も兼ねていたようです。

 

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    ・ 観泉寺参道  上井草駅へ向かうバス通りから分かれ、観泉寺山門に至る参道です。手前を横切る水路跡の→ 写真は前回UPしました。

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    ・ 観泉寺山門  上掲写真の正面にある山門の左手には、「都旧跡 今川氏累代墓」の石碑が建っています。境内には義元の子氏真などの墓があります。

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    ・ 観泉寺本堂  本堂は宝暦13年(1763年)焼失し、翌明和元年に再建されたものです。春の枝垂桜や牡丹、秋の紅葉と、四季折々の見どころのある境内で、本堂前の牡丹の写真は、→ こちらです。

 <今川>  環八、早稲田通りを越えた神戸用水は、現行の住居表示で今川を流れます。今川は1~4丁目があり、環八通り以西、早稲田通り以南に位置していますが、元は昭和7年(1932年)、杉並区今川町として成立したもので、今川家菩提寺の観泉寺にちなんだ創作地名です。もっとも、当時の範囲は八丁通り以西、今回の水路以北に限られ、そのかわり縦長で、早稲田通りを越え井草川に達していました。この時、東隣りの四宮町との境は、上下井草村のそれを大枠引き継ぐものでしたが、今では環八通りまで同じ今川となり、かっての村境は意味を失いました。

 


神戸用水4

2015-12-26 07:50:37 | 妙正寺川1

 八丁通りを井荻中学校前まで戻り、仮に神戸用水と名付けた水路を追って西に向います。同校キャンパスの南縁をめぐり、ツーブロック、150mほどで今度は中大杉並高校のグランドにぶつかり中断しますが、回り込んだ先に車止めの路地が連続しています。なお、井荻村(のち井荻町)当時の地図を見ると、二つの大字(上井草と下井草)の境は基本的には南北に引かれていますが、この前後100mほどは鍵状になっていて、今回の流路が南の上井草と北の下井草を分けています。おそらく、かっての上下井草村の境なのでしょうが、現行の住居表示にはまったく反映されていません。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1. 井荻中学前に戻り左折します。すぐ右手に車止めが見えています。

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    2. 井荻中キャンパスの南縁を西に向います。次の車止めの先の左手は低くなっています。

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    3. 中大杉並高校グランドで中断します。「杉並の通称地名」によると、グランドの南側一帯は「よしだ」(「葭田」?)と通称されていました。

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    4. 3.の延長上にあるこの路地で再開します。左手は中大杉並高校、右手は観泉寺境内です。

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    5. 観泉寺参道、次いで上井草駅に向かうバス通りを越えます。

四宮用水2

2015-12-25 06:18:38 | 妙正寺川1

 仮に四宮用水と名付けた水路を追っての続きで、四宮小学校のキャンパスを横切り、先端のある上井草1交差点までです。四宮小を抜けてからの水路は八丁通りに戻りますが、この区間の八丁通りは→ 「下井草村絵図」→ 「東京近傍図」に描かれた、上井草村との境に近い古道を直線化したもので、井草川を越えるところには矢頭橋が架かっていました。明治22年(1889年)成立の井荻村当時は大字下井草の小字、四宮と柿ノ木の境であり、昭和7年(1932年)の杉並区四宮町と柿木町の境に引き継がれ、現在は上井草1丁目、2丁目を分けています。

 

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    ・ 「昭和22年米軍撮影空中写真」  四宮小学校のキャンパスの範囲をグレー枠で重ねました。同校の開校は昭和26年(1951年)です。

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    ・ 四宮用水跡  早稲田通りから150mほどで、水路単独の車止め付き路地は終了します。「空中写真」に見るように、元はこのまま50mほど直進したあと右折していました。

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    ・ 八丁通り  四宮小前です。右折、左折でキャンパスを離れ、字境となっていた通りの左手に沿います。ただ、これまでのように通りの幅に変化はなく、どこからと特定はできません。

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    ・ 八丁通り  次の信号の上井草1交差点が「区画整理後路線図」の描く水路の先端部分です。ここからやや左カーブで二百数十メートル行くと、井草川に架かる矢頭(谷頭)橋に出ます。

四宮用水

2015-12-24 07:24:08 | 妙正寺川1

 井荻中学前の通りは、青梅街道の八丁交差点から分かれるため八丁通りと呼ばれていますが、その通りに沿って南下し、井荻中学前で神戸用水に合流する水路があります。「杉並の川と橋」に掲載された地図には、「仮称」との付記ながら「四宮用水」とあるものです。ただ、用水というよりは、→ 「段彩陰影図」で見るように、台上のやや低まったところにあり、雨水の自然の流れを元にした吐け水路かと思われます。なお、四宮(しのみや)は現上井草2丁目、今川2丁目付近の字で、区制施行後杉並区四宮町に引き継がれ、現在は小学校の名前などに名をとどめています。「新編武蔵風土記稿」や「東京府志料」に記載はなく、明治22年(1889年)成立の井荻村大字下井草の小字に採用されたことは、四宮森公園のところで触れました。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1. 井荻中学前で八丁通りに突き当たります。本線は左折ですが、右手からの水路をさかのぼるため右折します。

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    2. 井荻中交差点先までの百数十メートル、右手の幅広歩道が水路跡です。

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    3. 井荻中交差点です。右手の歩道が突然途切れるのに注目で、水路は左手にシフトします。

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    4. 四宮交差点で早稲田通りを越えます。越えた先のコンビニ前が広くなっていて、その先の右手に車止めが見えます。

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    5. 水路単独の車止め付き路地が、ツーブロック、150mほど続きます。

「カクカク」

2015-12-22 07:30:41 | 妙正寺川1

 土地区画整理の結果碁盤の目状になった道路沿いに、それまで蛇行していた自然河川を改修する場合、ワンブロックごとに右折、左折を繰り返す「カクカク」状態が出現します。その後水路を暗渠化し道路に含むと、水路を含んだワンブロックのみ道幅は広くなり、幅広の部分が右折、左折で連続することになります。地図でも読み取れる場合があり、暗渠化された水路探しの重要な手掛かりとして、個人的に「カクカク」と呼んでいるものです。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1. 清水3交差点の北西角で左カーブした続きです。すぐに早稲田通りを越えますが、その先に車止めが見えています。

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    2. 車止め、カラーブロックの遊歩道が続きます。80mほどで右カーブ、西に向きを転じます。

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    3. その縁をめぐっていた今川一丁目公園を離れます。住居表示で採用された今川の地名由来は、該当個所で扱います。

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    4. 遊歩道が終了したところで左折、すぐに右折です。その間の→ 道路の左手が広くなっています。

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    5. 左折後の道路も左手が広くなっていますが、突然狭くなったところに車止め付きの路地です。

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    6. 車止めの路地はワンブロックで終了、右折した先の道路も、左手が水路を含んで広くなっています。

清水3交差点

2015-12-21 07:25:54 | 妙正寺川1

 環八通りと早稲田通りがクロスするのが清水3丁目交差点です。水路跡はその交差点の北側で環八を越え、すぐ左カーブして早稲田通りを越えます。なお、この区間の環八通りは、昭和の初めに元となる直線道路が四面道・千川通り間で開通、同50年代後半に四面道・新青梅街道間が拡幅されました。一方、早稲田通りも昭和初期に井草道と呼ばれる古道が直線的に整備され、同30年代に今日見られるように拡幅されています。

 

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    ・ 「昭和22年米軍撮影空中写真」  現在の環八通りと早稲田通りをグレーで重ねました。

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    ・ 神戸用水跡  前回最後の右カーブの先です。環八通りまで直線で120mほど、カラーブロック、車止めの遊歩道が続きます。

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    ・ 環八通り  環八通りを越え、写真正面のスペースへと連続します。左手奥が早稲田通りとの清水三丁目交差点です。

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    ・ 神戸用水跡  清水3交差点の北西角です。左カーブする水路跡が切り取られ、遊歩道のようになっています。

神戸用水3

2015-12-19 07:38:54 | 妙正寺川1

 井草区民事務所先で右岸から合流する、(仮称)神戸用水をさかのぼる三回目です。左右のカーブを繰り返しながら南西に向かい、環八通りと早稲田通りの交差する清水3交差点に近付きます。前半は「科学と自然の散歩みち」の一部として、整備された遊歩道が続き、遊歩道が途切れた後も幅広の道路や車止めなど、水路跡をたどるのに迷うことはありません。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1. 二回目の左折で、西から南に向きを転じます。

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    2. 100m強南下したあと、正面奥で再び左カーブし、若干東に戻ります。

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    3. 遊歩道の終了地点です。右折した先の道路は右手歩道が広くなっています。

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    4. 右写真は左岸台上にある区民センター前から見たところで、奥は環八通り井荻トンネルの換気塔です。

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    5. 150mほどで右手の幅広が途切れ、代わって遊歩道が復活します。

神戸用水2

2015-12-18 07:52:02 | 妙正寺川1

 井草区民事務所の先で右岸から合流する、仮に神戸用水と名付けた水路をさかのぼる二回目です。ほぼ直線で百数十メートル西に向かったあと、左カーブ、右カーブを繰り返し、全体として南西に向います。今回は最初の左カーブ、右カーブまでですが、明治9年の→ 「下井草村絵図」の描く、右岸に膨らんだ田圃の範囲にあたります。

 

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    ・ 神戸用水跡  最初の直線コースの途中です。次のワンブロック、100mほどは車道と兼用ですが、前後は引き続き遊歩道です。

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    ・ 神戸用水跡  上掲写真の正面奥にあたり、最初の左カーブで南に向きを転じます。→ 「東京近傍図」の描く合流地点はこの付近と思われます。

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    ・ 神戸用水跡  70mほどですぐに右カーブです。左手には畑や屋敷林という、昭和30年代以前を思わせる田園風景が広がっています。

 <合流地点の変遷>  「東京近傍図」では、神戸用水の元となった小支流は、井草川の本流に合流しているように見えます。ただ、実際にはその右岸流と共に右岸段丘の際を流れ、あかっちゃりの手前で本流に合流していました。「下井草村絵図」には、支流こそ描かれていませんが、右岸流が南側に膨らんでいて、こちらのほうが実際に即しています。
 ところで、「井荻町全図」(昭和5年 小林編纂部実測)に、今日見るのとはだいぶ異なる合流の様子が描かれています。上掲写真の最後のカーブのところで、そのまま左手の畑の方に向かい、現桃5小キャンパスを横切り、南下する井草川に合流するものです。桃5小に開校は昭和9年なので、その開校に合せて再度付替えたのではと推測しましたが、ただ、→ 「段彩陰影図」でも分かりますが、このコース取りでは舌状台地の先端にかかってしまい、切通しなどの工夫が必要になります。あえてそうする意味があったのか、疑問の残るところではあります。


神戸用水

2015-12-17 07:19:09 | 妙正寺川1

 井草区民事務所近くまで戻ります。「科学と自然の散歩みち」がY字に分岐(実際は合流)していたところで、左手は妙正寺公園に至る井草川遊歩道でした。今回からしばらく、右手から合流する遊歩道をたどります。なお、表題の「神戸用水」は、杉並区郷土博物館「杉並の川と橋」に掲載された地図中に、「仮称」として採用されているものです。神戸(ごうど)は「新編武蔵風土記稿」にも載る江戸時代からの小名で、昭和7年(1932年)の区制施行時、合流地点の一帯が杉並区神戸町だったためのネーミングと思われます。もっとも、それ以前の井荻村(井荻町)当時は柿ノ木と中瀬の境で合流、区制施行後も合流地点自体は中瀬町に属していました。

 

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    ・ 「段彩陰影図 / 井草川2」(1/18000)  井草川遊歩道及神戸用水を書き込みました。後者の流路は、「区画整理後路線図」に基づいています。オレンジ線は区境で大半が杉並区です。

 自然の谷筋を利用しているのは明らかですが、今日見られる水路跡は、直線的なカクカク感からも分る通り、大正末から昭和の初めにかけて行われた、井荻町の土地区画整理事業による改修の結果に他なりません。それ以前の流路はどのようなものだったのか、→ 「東京近傍図」で、合流地点に描かれたごく短い水路以外、その様子を描いた地図類を未だ見ていません。特に、→ 「千川上水2 / 保久屋口」 で扱ったことですが、最先端が青梅街道に達していることから、千川上水七ヶ村分水の助水を得ていたことが考えられ、区画整理以前の水路がどうだったのかは、この支分水がいつ頃成立したのかとも関連して、大いに興味のあるところです。(神戸「用水」という仮称も、千川上水の助水を得ていたのが前提で、そうでなければ神戸「悪水路」のほうがふさわしいことになります。)

 

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    ・ 合流地点  井草区民事務所の先で、→ 井草川遊歩道はY字を形成していますが、その右手をさかのぼります。なお、区画整理以前の合流地点については、次回扱います。

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    ・ 神戸用水跡  上掲写真の右カーブの先の直線部分です。こちらも「科学と自然の散歩みち」を構成しており、やはり透水性の舗装が施された道が500mほど続きます

妙正寺公園

2015-12-16 16:41:35 | 妙正寺川1

 井草川遊歩道は前回UPの→ 写真のように、妙正寺公園の手前で終了です。同公園の開園は昭和38年(1963年)、妙正寺池を中心におよそ12444㎡の広さを有し、遊具広場、運動広場などが設けられています。広場のあるのは主に池の東側の区画で、妙正寺池からの流れと井草川の合流地点にあたり、暗渠とした上を整備したものです。

 

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    ・ 「昭和38年国土地理院撮影の空中写真」  妙正寺公園の範囲を緑枠で囲いました。この時点で池からの流れは暗渠となっていますが、井草川は暗渠化されていません。

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    ・ 妙正寺公園  妙正寺池の東側の運動広場です。この地下を暗渠となった井草川は右手から左手へと流れ、奥の茂みの陰にある池からの流れと合流しています。

 <妙正寺池>  「妙正寺池 妙正寺より二町許北の方にあり、広さ二段(600坪≒1980㎡)許、中に三間四方(9坪≒29.7㎡)許の島あり、弁天の祠九尺四方なるを立つ南向、神体白幣、此池より流れ出る水あり、妙正寺流と云、川の幅二間余、村内を経事廿五町余にして東の方下鷺ノ宮村へ達せり」(「新編武蔵風土記稿」) 一方、明治初年の「東京府志料」は「妙正寺池 周廻百六間(≒192m) 清泉湧出 下流近村用水トナル 池中ニ小島嶼アリ 水面千二百坪(≒3960㎡) 小嶼平面十五坪(49.5㎡)」としていて、池の広さも中之島の大きさも、一回り上回っています。

 

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    ・ 妙正寺池  現在の妙正寺池の広さを昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で大雑把に計算してみると、周囲160m、面積1620㎡となりました。また、→ 中之島は125㎡のほぼ円形です。

神戸堰

2015-12-15 06:47:42 | 妙正寺川1

 明治9年の→ 「下井草村絵図」で見るように、区画整理事業以前の井草川は井草道(現早稲田通り)を越える手前で西寄りにシフト、それまで左岸段丘の際にあったものが、谷筋の中央に戻っています。この一旦逆行するようなコース取りから「井草の逆さ水」と呼ばれたと、「井草のかたりぐさ -大正のころの八成-」(昭和61年 井口龍蔵)は書いています。ここには神戸堰が設けられ、左岸段丘に沿う流れを分岐させていました。ただ、区画整理時の改修によって、左岸への分岐は右岸と同様、通りを30mほど越えたところに移動しました。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    ・ 「昭和22年米軍撮影の空中写真」  上掲地図のグレー枠の部分です。同一個所に同一番号を振っています。 

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    1. 前回の最初の写真の再掲です。 右岸流と同様、早稲田通りを越えたところで分岐、ただ、こちらは本流と並行したまま南下していました。

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    2. 妙正寺公園手前で左折、通りの右側を並行して東に向かいます。 

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    3. 通りの右手が狭くなったところに路地があり、ここで右折です。

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    4. 40mほどで妙正寺川に合流して終了です。かってはその左岸流となって下流へと向かっていたのが、区画整理時に付替えられたものです。

あかっちゃり

2015-12-14 07:15:53 | 妙正寺川1

 井草川の四ヶ所の堰のうち、桃5小北東角にあった「あかっちゃり」の続です。右岸に分岐した用水は、明治9年の→ 「村絵図」にあるように、段丘沿いに妙正寺池まで南下していました。それが、大正末から昭和初期の区画整理事業によって、この用水は全体としては廃止され、中瀬右岸で扱った桃5小南の区画と、妙正寺池に注ぐ部分だけが整備されました。今回は早稲田通りを越えた先で分岐し、妙正寺川に向かう後者を追います。なお、「あかっちゃり」の由来ですが、「赤砂利」と表記すれば赤砂利があった場所となりそうですが、大山参りの際身を清める「垢離(こり)取り場」だったことから、「垢(あか)去り」が転化したのではとの推測もあります。(杉並区教育委員会「杉並の通称地名」)

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    ・ 「昭和22年米軍撮影の空中写真」  上掲地図のグレー枠の部分です。同一個所に同一番号を振っています。 

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    1. 早稲田通りを越えて30mほどのところで、右手に分岐する道路があります。 

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    2. 建て替え中の妙正寺体育館に突き当たって中断します。右写真は数年前の写真で、右手の茂みは天祖神社です。 

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    3. 妙正寺体育館の南にある水路跡と思われるスペースで、奥は妙正寺公園です。

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    4. 妙正寺公園内の水路跡と思われるスペースです。50mほどで妙正寺池に至ります。