神田川 「まる歩き」 しちゃいます!!

ー神田川水系、支流はもちろん、旧水路、廃水路、全部 「まる歩き」ー

西ノ久保

2016-09-30 07:17:39 | 桃園川2

 馬橋稲荷神社の北西を回り込み、宮下橋の右岸から合流する小支流があります。→ 「東京近傍図」に水路は書かれていませんが、等高線の様子から谷筋が食い込んでいるのは明らかです。この谷筋周辺が馬橋村の小名、西ノ久保で、「新編武蔵風土記稿」にも、「西ノ久保 文字のごとく西の方なり」と書かれています。元は右岸流に合流していましたが、区画整理に際し右岸流が廃止されたのに伴い、宮下橋で本流に合流するように付替えられました。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1. 宮下橋の右岸です。幅広の通りがワンブロック先で狭くなり、右手に水路を含んでいたのは明らかです。

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    2. 突き当りの右手に路地が顔をのぞかせています。かっては右岸流に合流していたところです。

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    3. 路地の中をのぞいてみると、コンクリート蓋の水路跡です。

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    4. 正面で右折します。左手は馬橋稲荷神社境内で、前々回UPの→ 写真の水神社と厳島神社が祀られている一角です。

 <「嘉陵紀行2」>  「嘉陵紀行」のつづきで、阿佐ヶ谷神明道を西に向う途中、稲荷神社前に出たところからです。「道の東木立ちの奥に小社あり、行きて拝す、鳥居はあれど、それにも、社頭にも神の御名かかげたる額抔もなければ、何の神ともしられず、されば社の中に書きたる額有を見れば、稲荷のやしろにや」 境内には松の大木が三本あり、楢の葉や実が落ちていたので拾って土産にしました。「ゆきゆく程に又田あり、向ひに見ゆる木立の蔭にかやふける長屋門、軒端高く作りなしたる家あり」 この田は杉並口からの助水を得ている阿佐ヶ谷田圃でしょう。そして長屋門の屋敷は、阿佐ヶ谷駅と河北総合病院との間に現存する、けやきの木立ちに囲まれている通称、けやき屋敷です。「神明宮はいづかたぞと問へば、此屋の垣にそひて、うしろのかたに行ば、鳥居たてるぞ神明宮にてましますとおしゆ、其こと葉の如くゆけば、杉の丸木のとりゐ立てり、向ひに社有」

 


区画整理

2016-09-29 06:43:28 | 桃園川2

 桃園川緑道の起点と阿佐ヶ谷、馬橋の境は一致しますが、これは桃園川の単線化、直線化にかかわる区画整理事業が、阿佐ヶ谷では行われず、馬橋、高円寺で行われた結果を反映しています。馬橋、高円寺で改修された部分が緑道となったわけです。なお、馬橋区画整理組合の発足は昭和6年(1931年)、およそ8.8ヘクタールを整理して同16年に完了しています。馬橋地区の桃園川は三、ないし四流ありましたが、うち右岸流と中央のものをベースに一本にまとめられ、阿佐谷からの左岸流は高円寺に入る手前で、本流に合流するようになりました。なお、下の地図に書き込んだのは昭和初めの右岸流で、「杉並町全図」(昭和4年 小林編纂部)などを参考にしています。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    ・ 「陸地測量部発行の1/10000地形図(昭和4年測図) / 荻窪」と「同 / 下高井戸」を合成したもので、 上掲地図と同一場所、同一縮尺です。

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    1. 起点から50m強で、杉並学園キャンパスに差し掛かります。その先には「桃園川緑道の沿革」などが展示されています。

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    2. 緑道は左カーブですが、ここまでベースとなった右岸流は、右手の道なりに直進していました。

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    3. 馬橋稲荷下にある宮下橋です。右写真は右岸方向で、突き当りを右岸流が横切り、そこに次回テーマの小水路が合流していました。 

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    4. 馬橋通りに架かる馬橋です。右写真は左岸方向で、「昭和4年測図」に描かれたものは次の信号のあたりを流れていました。 

馬橋村用水

2016-09-28 06:23:22 | 桃園川2

 「用水 西の方阿佐ヶ谷村より来たり、村内をふること凡百八十町許、東の方高円寺村へ達す、末流は中野村にて神田上水にをちあへり」(「新編武蔵風土記稿」) 同書は本文で、「村内平地にして水田は中間にあり、天水場なれば水損の患あり」としています。天沼、阿佐ヶ谷両村にあった「多摩川上水の分水」「玉川上水を引分」の文言がなく、千川上水の恩恵がここまで及ばなかったことがわかります。そのため、降雨に依存する天水場として、常に旱魃のリスクを負っていました。この事情は下流の高円寺にも当てはまり、同村も「天水場なれば旱損の患あり」となっています。

 

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    ・ 「馬橋村絵図」  文久2年(1862年)成立の「馬橋村絵図」(杉並区立郷土博物館蔵「大谷家文書」)を元に、ブルーの用水、薄いブルーの水田を中心にイラスト化したものです。

 中央を横切るのが桃園川で、左右に側流(田用水)が並行しています。高円寺村境手前で右岸から合流しているのが、善福寺川からの助水を得て天保新堀用水と呼ばれるようになった支流です。青梅街道の南から発し、街道に架かる石橋下を流れる湧水や、左カーブのところに描かれている馬橋弁天池の湧水が水源で、新堀開削以前の村絵図でも、左右に二流を有するた用水として描かれています。それが天保10年(1839年)の旱魃で枯渇し、翌年の新堀開削のきっかけとなりました。一方、左岸から合流している小支流も、水神や弁天の祀られる湧水が水源となっていました。こちらは谷筋が二筋あり、今も二本の水路跡を確認できます。

 

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    ・ 稲荷神社境内社  水神社、弁天社は稲荷神社に合祀され、その境内社になっています。左手にある弁財天の石碑は馬橋弁天池畔にあったもので、池が埋められた際移されました。

 <「嘉陵紀行」>  徳川御三卿の一つ、清水家用人の村尾嘉陵は、江戸近郊の名所、旧跡などの見聞を紀行文風にまとめていて、上高田村氷川神社の桜ヶ池の項でも一度お世話になったことがありますが、その「嘉陵紀行(江戸近郊道しるべ)」の中に馬橋、阿佐ヶ谷まで足をのばした際の一文があります。青梅街道を西に向かう途中、堀の内妙正寺への道や、石神井村弁天道、谷原村東高野山道を過ぎ、阿佐ヶ谷神明道との道しるべを右に曲がり、しばらくすると「打ひらけたる田有処に出、又そこを過て、楢の木の中道をゆきゆけば又田あり」、そして稲荷神社を経て阿佐ヶ谷神明宮へと至ります。上掲「村絵図」で青梅街道の北側にあって、稲荷前を通るのが「阿佐ヶ谷神明道」なので、途中新堀用水沿いの田圃を横切ったことになります。もっとも、この一文には天保5年の日付があり、まだ新堀は開削されていませんが。

 

 


馬橋村

2016-09-27 07:12:10 | 桃園川2

 桃園川緑道の起点はまた、阿佐ヶ谷から馬橋への境でもありました。「馬橋(マハシ)村は、郡の東の方にあり、郷庄の唱なし、江戸日本橋より行程三里半余、民家五十六軒、村の広さ東西六町南北十八町、東は高円寺村にとなり、西は阿佐ヶ谷村に及び、南は和田、田端の二村につゞき、北は上沼袋村に接す、・・・・青梅街道村の南の方を高円寺村より阿佐ヶ谷、田端の二村へつらぬく、村内にかゝること凡六町」(「新編武蔵風土記稿」) 早稲田通りと五日市街道の間にあって、阿佐ヶ谷村と高円寺村に挟まれた細長い短冊型の区画で、中央を「風土記稿」では単に「用水」とある桃園川が流れていました。

 

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    ・ 「東京近傍図 / 板橋駅」(参謀本部測量局 明治14年測量)及び「同 / 内藤新宿」(明治13年測量)を合成、その一部を加工したもので、本来の縮尺は1/20000、パソコン上では1/12000ほどです。オレンジ細線は杉並村当時の村や大字の境です。

 この阿佐ヶ谷村と高円寺村に挟まれた細長い区域だったことが、旧馬橋村の現在を決してしまったの感があります。大正時代も中ごろ、4kmと距離の開いた中野と荻窪の間にもう一駅作る話が浮上します。当所のプラン通りなら中間に馬橋駅が誕生したのでしょうが、用地買収に手間取っている間に、阿佐ヶ谷が名乗りを上げ、阿佐ヶ谷だけでは距離のバランスが悪いことから高円寺も巻き込み、結果、大正11年(1922年)に阿佐ヶ谷、高円寺両駅が開業、馬橋駅は幻のまま立ち消えとなってしまいました。駅名を失った馬橋地区は新しい住居表示で、阿佐ヶ谷、高円寺に二分され、現在は両者の中間にある公園や、小学校などにかろうじてその名前を留めるだけになってしまいました。

 

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    ・ 馬橋稲荷神社  「稲荷社 小名西ノ久保にあり、村の鎮守なり・・・・村内福泉寺の持なり」(「新編武蔵風土記稿」) 新住居表示の実施に伴い馬橋の地名が失われたため、あえて馬橋の名前を冠するようにしたそうです。

 <地名由来>  馬橋の地名由来には大きく二説あります。青梅街道の南側、現梅里2丁目にあった湧水池から流れ出した小川が、街道を横断して桃園川(新堀用水)へ流れ込んでいました。そこに架けてあった橋が馬で一またぎするくらいだったので、やがて馬橋と呼ばれるようになり村名となった、これが第一の説です。もう一つは、桃園川本流の湿地帯を軍勢が通った際、馬を橋代わりにして押し渡ったので馬橋というもので、馬橋稲荷のホームページは太田道灌と豊島氏の合戦をイメージし、後者を有力としています。ことの真偽はともかく、どちらも桃園川由来の地名であり、上流から天沼、阿佐ヶ谷、そして馬橋と村名を並べてみると、流域の各村が桃園川にいかに依存していたかがわかります。  

 


桃園川緑道

2016-09-26 06:40:10 | 桃園川2

 けやき公園の先でJR中央線を越えると、すぐに桃園川緑道が始まります。開始地点から100mほど下流に、石組にタイル地の解説パネルが展示され、そこには桃園川の流路図などに添えて、「桃園川緑道の沿革」と題された一文があります。「『桃園川緑道』は元来、天沼の弁天池(天沼三丁目地内)を水源として東流し、末広橋(中野区内)で神田川に合流する『桃園川』と呼ばれる小河川でした」で始まり、「桃園」の由来や千川用水や善福寺川の助水を得たことなどに触れた後、話は区画整理に及びます。「大正末期には、この付近も関東大震災を契機とした都市化の波を受け、川沿いの地区は耕地整理が行われ、数条に分岐していた『桃園川』も流路が整えられ、それに伴い水田風景も姿を消しました。」

 

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    ・ 「段彩陰影図 / 桃園川2」(1/18000)  「迅速測図」及び「東京近傍図」を参考に、明治初期の桃園川の流路を重ねました。オレンジ線は杉並、中野の区境、白線は区画整理によって単線化、直線化された桃園川で、暗渠化後の桃園川緑道でもあります。

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    ・ 桃園川緑道  JR線を越えてすぐの起点です。ここから末広橋で神田川と合流するまでの、神田川水系の中では最長の、かつ最も整備された緑道です。

 「桃園川緑道の沿革」の続きで、戦後復興から高度成長時代です。「その後、『桃園川』は宅地化の進む中で大雨の度に氾濫を繰返し、川沿いの地区に被害をもたらしましたが、昭和42年、東京都下水道局により桃園川幹線として暗渠化され、以降、水害も治まり河川としての使命を終えました。」 そして、昭和44年に地上部分を公園化したが、施設が老朽化したため、「平成元年より五ヵ年をかけて再整備を行い、緑と花のプロムナード『桃園川緑道』として新しく生まれ変わりました」とまとめています。暗渠化のきっかけとなったのは、なんといっても昭和33年(1958年)の狩野川台風で、その規模の降雨にも耐えられることを目標に、同36年には「東京都市計画河川下水道調査特別委員会」の答申が出され、目黒川、呑川、桃園川など源頭水源を有しない14河川(のち6河川を追加)を暗渠化して下水道幹線に変え、上部は遊歩道など公共的利用を図ることが決定されました。今日〇〇川緑道となっているものの多くは、この通称「下水道36答申」に基づいています。なお、桃園川はその緊急性が高かったためでしょう、(オリンピック開催との関連が推測される)渋谷川と並んで同年にはいち早く着工されています。

 


杉並口

2016-09-24 07:55:03 | 桃園川1

 阿佐ヶ谷支流をさかのぼる最後です。水路跡は杉並七小キャンパスの北東角で中断、その南側にある正門前で復活します。起点である青梅街道沿いにある千川用水七ヶ村(六ヶ村)分水杉並口まで、車止めコンクリート蓋が100mほど続きます。なお、千川用水の流末としての杉並口については、→ 「千川用水2 / 杉並口」でどうぞ。あわせて、杉並の地名由来も掲載されています。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1. キャンパス南側にある正門前の道路から再開します。最初道路の右手、途中で左手にシフトします。

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    2. 突き当りに車止め、コンクリート蓋の水路跡が顔をのぞかせています。すぐ左カーブです。

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    3. 数十メートル南下したところで突き当りを右折、西に向きを転じます。

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    4. 西に向うコンクリート蓋の水路跡です。建物一軒分を挟んだ左手に青梅街道が並行しています。

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    5. 徐々に狭くなり先行き不安になりますが、フェンスの先の開渠で終了です。

阿佐ヶ谷支流5

2016-09-23 06:10:36 | 桃園川1

 杉並口からの助水の流れる水路を追っての続きで、前回最後に入った水路単独の路地が、杉並七小キャンパスに突き当たって終了するまでです。100mほどしかありませんが、その中程で左岸(右手)から小水路の合流があります。→ 「段彩陰影図」の阿佐ヶ谷駅と青梅街道の間で、谷筋が北側に膨れているところがあり、その吐け水路の機能を担っていたのでしょう。全体で100mに満たないごく短いものですが、車止め、コンクリート蓋を備えた完璧な水路跡です。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1. 路地に入って数十メートルのところです。右手にあるコンクリート蓋から、水路が合流していたのが分かります。

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    2. 途中住宅の敷地に紛れますが、ワンブロック先からは車止め、コンクリート蓋の路地が健在です。

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    3. 左カーブの先でコンクリート蓋は終了します。

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    4. 本流の路地に戻ります。最初に訪れたときは、この先どうなるのか不安だったものです。

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    5. 杉並七小キャンパスに突き当たって中断します。同小学校は昭和4年(1929年)設立で、当時は校庭の東縁を川が流れていました。

阿佐ヶ谷支流4

2016-09-21 06:41:43 | 桃園川1

 釣堀の南縁沿いに西に向かう通りは、杉並七小キャンパスに突き当たって中断するまで、カラーブロックや、コンクリート蓋、車止めなどの水路の痕跡をとどめて、およそ300m続きます。「杉並の通称地名」(平成4年 杉並区教育委員会)によると、釣堀周辺の田圃は阿佐ヶ谷田圃と呼ばれ、昭和初期まで存続したようです。とすると、→ 「阿佐ヶ谷村絵図」にあるように、このあたりまで二流の並行が予想されますが、描いた地図類は未見で、痕跡も残されていません。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1. 川端通りから入った右手が釣堀です。この日は定休日(毎週金曜日)でした。

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    2. 釣堀の先で、左右に細かく蛇行しながら西に向います。水路は通りの右手を並行していました。

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    3. 車止めの先に道路に沿ってコンクリート蓋が出現、もっとも水路の痕跡を残すところに差し掛かります。

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    4. 鉄板やコンクリート蓋に覆われた水路跡が、道路の右手を100m弱並行します。

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    5. 水路単独と思われる車止め付きの狭い路地の入口が見えます。「この先、行き止り」と書かれていて、先行き不安ではありますが。

阿佐ヶ谷支流3

2016-09-20 07:32:19 | 桃園川1

 阿佐ヶ谷駅の南口から西に向かうと、川端通りと名付けられた商店街の入口があります。杉並口からの水路を挟んで商店街が出来、昭和10年頃には、どぶ川と化したその水路がいち早く暗渠化されたところです。現在は南口のロータリーが拡張されたため、東側の半分ほどはその一部となってしまいました。なお、川端通りといえば、その突き当たりにある釣堀とセットのような関係ですが、釣堀の開業は大正時代で、脇を流れる用水はまだ清流だった頃といいます。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1. しばらく駐輪スペースと並行したのち、車止め付きの路地となります。

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    2. ワンブロックで商店街に突き当たって終了、左折して南に向かいます。

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    3. 阿佐ヶ谷駅南口のロータリーに面した川端通りの入口です。 

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    4. 用水路はこの通りの右手を流れていました。

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    5. 突き当立って右手は2.の商店街、突き当りの奥では今でも釣り堀が営業しています。

阿佐ヶ谷支流2

2016-09-17 07:10:05 | 桃園川1

 六ヶ村分水杉並口からの助水を追っての二回目で、阿佐ヶ谷駅まできました。駅周辺で現在確認できる水路跡は、駅の東ガード付近でJR線と交差する一流ですが、その南を並行するもう一流があり、前回横切った馬橋村からの古道付近で合流していました。並行する二流の存在は→ 「阿佐ヶ谷絵図」でも確認できますが、下掲地図に書き込んだのは「杉並町全図」(昭和4年 小林編纂部)などにある南側の水路です。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1. 駐輪スペースの脇を抜け、引き続き西に向います。高架下は目下工事中ですが、以前の写真は→ こちらで、より水路跡らしく見えます。

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    2. 阿佐ヶ谷駅の東側にあるガード手前で、JR中央線の北側から南側にシフトします。

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    3. 南口パール商店街(旧権現道)からのショットで、水路は駅南口を横切り正面の路地に連続します。 

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    4. JR線の高架南側を西に向かう路地を入ると、前回と同様の駐輪スペースが設けられています。

 <阿佐ヶ谷駅>  JR中央線(当時は甲武鉄道)の開通は明治22年(1889年)、同時に中野駅が、二年後に荻窪駅が開業していす。阿佐ヶ谷(阿佐ケ谷)駅の開業は大正11年(1922年)で、お隣の高円寺駅と同時でした。水田を埋めて盛り土をしたところだったため、翌年の大震災でホームが崩れ、一方高円寺駅は台地を削ったところなので無事だったと、「杉並区史探訪」(昭和49年 森泰樹)は古老からの聞き取りを収録しています。また、同じく収録された聞き取りの中には、中央線を複線化した際盛り土用に掘った穴が、駅南口前で100坪ほどの池となったとのエピソードもあります。

 


阿佐ヶ谷支流

2016-09-16 07:38:42 | 桃園川1

 桃園川に合流する最初の本格的な支流は、阿佐ヶ谷駅方面から東に向い、けやき公園付近で本流に合流するもので、ここでは仮に阿佐ヶ谷支流としておきます。 → 「段彩陰影図」では、「迅速測図」及び「東京近傍図」を参考に、明治初期の桃園川の流路を重ねていますが、阿佐ヶ谷支流の先端は青梅街道に達しています。竹下新田で千川分水から分れ、青梅街道沿いに東に流れて来た七ヶ村分水、明治以降は六ヶ村分水の流末がここまで達し、この支流に助水をしているもので、その堀割は相沢堀、分水口は杉並口と通称されていました。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    ・ 「陸地測量部発行の1/10000地形図(昭和4年測図) / 荻窪」  上掲地図と同一場所、同一縮尺です。

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    1. けやき公園北西角の合流地点から西に向います。

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    3. 車止めの様子からすると、駐輪場を迂回する道路が水路跡のようです。 

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    4. 桃園川の水源の一つ、阿佐ヶ谷弁天池は100m弱北にありました。上掲地形図の中央に描かれたもので、昭和50年代に埋立てられました。

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2016-09-15 07:21:52 | 桃園川1

 中央の二流を合わせた右岸流は、南下してけやき公園の脇を抜け、JR線を越えて桃園川緑道に連続します。けやき公園の開園は昭和56年(1981年)、中央大学所有地の買収と水路敷を利用して整備、公開されました。前回UPの→ 「昭和33年第二回修正」の右下隅にプールが描かれていますが、昭和10年代に出来た中央大学の合宿所のプールだったようです。(現在も規模は縮小されましたが、夏季公開の市民プールがあります。)

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1. 前回から引き続き、河北病院脇を抜け南下する水路跡を含む道路です。

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    2. 微妙な蛇行はありますが、それ以外水路跡を思わせる痕跡はありません。

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    3. けやき公園に差し掛かり、車止め、カラーブロックとなります。ここで右手からの合流がありますが、次回以降のテーマです。

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    4. けやき公園の先でJR中央線を越えます。越えた先から始まる→ 桃園川緑道がチラッと見えています。 

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    5. けやき公園の手前に、ワンブロックだけの車止めがあります。→ 「昭和4年測図」に描かれたものの一部なのでしょう。

阿佐ヶ谷右岸6

2016-09-14 07:02:12 | 桃園川1

 前回の途中で小水路を分岐したところまで戻ります。本流は左カーブで右岸から中央寄りにシフト、中央の二流を合わせてけやき公園へと向かいます。途中河北総合病院の脇を抜けますが、同病院の開業は昭和3年(1928年)、「杉並風土記」(昭和62年 森泰樹)の記述では、同年は阿佐ヶ谷たんぼ最後の田植えがあったともいわれており、桃園川流域が宅地へと転換される画期となった年です。なお、同じ「杉並風土記」の引用する「河北病院五十年のあゆみ」によると、当時の病院周辺は芦の生い茂った低湿地で、夏の夕立ともなると二本の小川は溢れ、道路は早瀬に変わったといいます。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    ・ 「地理調査所発行の1/10000地形図(昭和33年第二回修正) / 荻窪」  上掲地図と同一場所、同一縮尺です。

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    1. コンクリート蓋の路地の入口まで戻り、本流を追って左にカーブします。

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    2. 右折の左手から前回の水路、右折後の左手から前々回の水路が合流します。 

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    3. 阿佐谷北5五差路下の通りを越えます。右折すると神明宮前に出ます。 

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    4. 河北病院の脇を抜け、やはり五差路下の通りを越えますが、今度は右折すると阿佐ヶ谷駅に出ます。 

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2016-09-13 06:22:47 | 桃園川1

 中杉通りに戻り、天沼から遊歩道となっている右岸流(本流)を追います。途中で右岸に一流を分岐、すぐに中央の二流を合わせ南下します。現けやき公園前で駅方面からの支流と合流、JR線を越えて桃園川緑道へと連続する、本流と目される流路です。車止め、コンクリート蓋といった顕著な痕跡はありませんが、水路を含んで幅広となった道路が蛇行していて、現在の地図からもそれとわかります。なお、→ 「昭和33年第二回修正」を見ると、この区間の水路は道路と並行しています。それが、「昭和38年空中写真」では現行のような幅広道路となっており、その間に暗渠化されたものと思われます。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1. 中杉通りを越えた先の右岸流跡の路地です。すぐに左折した後幅広の通りに出ます。

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    2. 右カーブが連続し、徐々に南に向きを変えていきます。

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    3. 水路はこの幅広道路の右手を並行していました。 

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    4. 本流は左カーブで前回、前々回の水路の合流地点に向かいますが、正面にコンクリート蓋の路地が見えます。

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    5. コンクリート豚の路地は細かい蛇行を見せながら、住宅街の裏手を南に向かいます。

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    6. 神明宮へ上る坂下に出たところです。この先は河北病院の敷地に紛れます。

阿佐ヶ谷右岸4

2016-09-12 06:05:24 | 桃園川1

 中杉通りを越えた先から開始される水路の二本目です。こちらは日本地形社の「昭和11年測図」(1/3000)にはもちろん、陸地測量部の「昭和12年修正測図」にも記載され、途中右岸流と合流してJR線を越えています。今回はその右岸流(本流)と合流するまでを追いますが、一貫して水路跡単独の路地に車止め、コンクリート蓋が付き、単調ですが迷うことはありません。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    ・ 「陸地測量部発行の1/10000地形図(昭和12年修正) / 荻窪」  上掲地図と同一場所、同一縮尺です。

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    1. こちらも幅広の道路が狭くなった右手にコンクリート蓋という、例のカクカクから始まります。 

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    2. すぐに左折して東に向かいます。なお、コンクリート蓋は合流地点まで250mほど連続します。

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    3. 右カーブの連続で、南に向きを転じるところです。 

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    4. 河北病院の施設の脇を抜けます。葦クリニックの名は、葦の生い茂っていた往時を意識したのでしょう。 

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    5. 右手からの右岸流(本流)と合流、そのまま直進します。ほんの数メートル先の左手には、前回最後の車止めが顔をのぞかせています