神田川 「まる歩き」 しちゃいます!!

ー神田川水系、支流はもちろん、旧水路、廃水路、全部 「まる歩き」ー

字荒井

2019-03-30 06:01:50 | 谷端川・小石川1

 椎名橋をくぐって山手通りを越えたところから、真和中跡地にかけてがUの字の底にあたります。そこに右手から合流する水路がありました。→ 「段彩陰影図」にもあるような、目白通りから合流する谷筋にかかわるもので、明治末の「郵便地図」には、目白通りを先端とする水路が描かれており、現在でもそれらしい路地が、600mほどにわたって、断続的に残されています。ただ、他の地図類や文献でこの水路に触れたものは見ておらず、これ以上の詳細は分かっていません。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)  

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    1. 椎名橋を越えた先のUターンの底にあたる、100mほどの直線区間です。 

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    2. 真和中跡地の北西角です。本流は左カーブですが、そこに右手から合流があります。

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    3. 合流地点の流路には不明な点もあるので、いつもの青点線は書き込んでいません。

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    4. 突き当りに水路単独と思われる路地があります。すぐに福祉センターの敷地に突き当たって中断です。 

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    5. 福祉センターの先、目白第一保育園の横で再開します。

Uターン

2019-03-29 06:39:17 | 谷端川・小石川1

 谷端川は西武池袋線を越えたところから、左カーブでUターンを開始します。そして、椎名町駅裏の路地を抜け、すぐに椎名橋と呼ばれる山手通りの陸橋の下をくぐります。山手通り(環状6号線)は昭和初期に計画され、昭和10年代に着工、ほとんど完成しますが、西武池袋線と谷端川を一挙に越える椎名橋の完成は、戦後になってからのようで、下掲「空中写真」には、その途中経過が写っています。なお、平成22年に開通した中央環状新宿線に合わせ、山手通りも拡張されましたが、それに伴い椎名橋も長さ156メートル、幅員40メートルと一回り大きくなりました。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)  

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    ・ 「昭和22年米軍撮影の空中写真」  上掲地図のグレー枠の部分です。同一個所に同一番号を振っています。

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    1. 西武池袋線を踏切で越えてすぐ左折、右カーブで路地を抜けます。  

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    2. 左カーブでUの字の底に差し掛かります。右手から合流する道路下には、下水道谷端川上幹線が敷設されています。 

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    3. 椎名橋が見えてきました。右写真は橋の手前を右手から写しています。  

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    4. 椎名橋の先です。Uの字の底の直線がしばらく続きます。

西武池袋線

2019-03-28 06:53:58 | 谷端川・小石川1

 谷端川は椎名町駅の西側で、西武池袋線を越えます。同線の開業は大正4年(1915年)で、武蔵野鉄道武蔵野線と呼ばれ、まず池袋・飯能間が開通しました。開業当時は池袋駅の次は東長崎駅でしたが、市街地化に伴い大正13年に椎名町駅が開業しています。なお、椎名町は「新編武蔵風土記稿」にも収録された小名ですが、椎名町駅からはやや離れた清戸道(目白通り)沿いにありました。それが駅名に採用され、さらに昭和14年(1939年)には町名ともなりましたが、現行の住居表示からは失われました。

 

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    ・ 西武池袋線  椎名町駅西側の踏切で、西武池袋線を越えます。ここに踏切ができたのは、区画整理に伴い谷端川を直線的に改修し、道路を並行して敷設した時です。

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    ・ 西武池袋線  椎名町駅から東長崎駅方向です。旧長崎村の西に位置するにも関わらず、東長崎駅となったのは、九州の長崎に対して、東京の長崎の意だといわれています。 

 → 「段彩陰影図」を見ると分かりますが、上掲写真に写る椎名町・東長崎駅の直線区間は、西から谷端川に合流する谷筋に沿って敷設されました。この谷筋にかかわる水路については、「郵便地図」が詳細に描いていて、武蔵野線開通後の第二版(大正14年)は、線路の南側から発し、長崎小学校前で北側にシフト、そのまま上掲写真の右手を数百メートルにわたって並行しています。ただ、その後の水路を描いた地図類は未見で、線路周辺にそれらしい痕跡も発見できません。あるいは耕地整理以降は、線路脇の側溝がその機能を代替したのかもしれません。

 

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    ・ 南長崎公園前  南長崎公園の南西角にある交差点のあたりが、「郵便地図」の描く水路の先端で、今でも浅い谷筋が見て取れます。

暗渠化(上流域)

2019-03-27 06:49:08 | 谷端川・小石川1

 字西向の小支流から本流に戻り、再度椎名町駅を目指して南下します。すぐにサンロードと呼ばれる駅前商店街に入り、その先で西武池袋線を踏切で越え、舌状台地を回り込むUターンへと差し掛かります。ところで、谷端川の上流域の暗渠化は、地蔵堂分水路(仮)との分岐点から椎名町駅前までの、区画整理で直線的に改修された部分から開始されました。下掲「昭和31年第5回修正」を見ると、それ以前の水路プラス道路にかわって、幅広の道路が出現しているのが分かります。

 

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    ・ 「地理調査所発行の1/10000地形図(昭和31年第五回修正) / 新井」  

 その後、昭和33年に相次いだ台風による水害や、生活排水による汚染の深刻化に伴い、昭和37年には河川として廃止され、同39年までには上流域全線の暗渠化、下水道幹線への転用が図られました。大正末まで湧水を伴う自然河川の面影を残し、農業用水、生活用水として利用されていたものが、昭和初期の耕地整理による市街地化に伴い、コンクリート護岸の直線的な人工河川(排水路)に変貌、第二次大戦の中断を経て、昭和30~40年代のオリンピックを挟んだ経済成長期に、暗渠となって下水道に転用されたわけで、これは東京近郊の中小河川のたどった昭和史そのものです。

 

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    ・ 椎名町サンロード  椎名町駅前までの二百数十メートは、左右に商店の立ち並ぶ通称サンロードです。雑踏を避け、日曜の早朝に撮影しました。  

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    ・ 椎名町駅前  右カーブで西武池袋線の踏切を越えます。椎名町駅や長崎神社(旧十羅刹女社)、その別当だった金剛院はこの左手にあります。

字西向3

2019-03-26 06:11:56 | 谷端川・小石川1

 字西向にある谷筋を追って、水路跡と思われる狭い路地にたどり着きました。その脇には西向不動尊が祀られています。「本来はこの場所よりやや北の小川に架かる橋の袂にあり、その周辺には水が湧き出していて洗い場がありました。当地区の耕地整理によって現在地に移され」などと、傍らの解説板に書かれています。なお、ネットで検索していて「長崎二丁目と三丁目の中央部を東西に流れる下水道」に関する、昭和35年(1960年)の新聞記事を見つけました。悪臭がひどく、子どもが落ちるなどの弊害から、今回暗渠化されたとの趣旨ですが、昭和前半の30年余で、水の湧き出す小川から悪臭漂う排水溝へと変貌したことになります。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1. 左手20mほどのところに→ 西向不動が祀られているので、このあたりに洗い場があったのでしょう。

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    2. 途中で左折します。その先に道幅のかわるところがあります。 

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    3. 道幅の変わるところで右折、水路単独の狭い路地で再度西に向います。

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    4. 今回の路地も直線で、ツーブロック、150mほど続きます。

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    5. 長崎三遊園に突き当たって終了、その先は長崎公園です。

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2019-03-25 06:11:56 | 谷端川・小石川1

 → 「段彩陰影図」を見ると分かりますが、二本の水路の再合流地点に、西側から谷筋が合流しています。明治末の「郵便地図」などには、水路も描かれていて、現在でもその痕跡をたどることができます。ただ、耕地整理時と思われる付替えを経ていますが、その後の地図を未見なので、一部たどることのできない個所があります。特に合流地点ははっきりせず、いつもの青点線がないのはそのためです。なお、「長崎村物語」(豊島区立郷土資料館 1996年)の中に、「長崎三・四丁目にわたり、観音堂の南側に小川の跡が残っており」と、この谷筋について触れた一節があり、長崎神社文書などで谷戸の名称が使われていたとも述べています。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1. フラワー公園からワンブロック先の交差点を左折します。 

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    2. この道路が水路跡かの確証がないなので、青点線は書き込んでいません。

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    3. ここで右折します。道幅の違いから、この前後は道路プラス水路だったのでしょう。 

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    4. 途中で左折しますが、その先は水路単独の路地となります。ここも道幅が違っているのに注目です。

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    5. 狭い路地を西に向います。この先通り抜けできるかどうか不安ではありますが。

字西向

2019-03-23 06:14:44 | 谷端川・小石川1

 地蔵堂分水路(仮)から、椎名町駅に向かって南下する本流(及び左岸流)に戻ります。(地蔵堂分水路に関しては、Uターン後の合流地点から、改めて扱う予定です。) 耕地整理後の水路は一本道で迷うことはありませんが、それ以前の複数本あった水路に関しては、当時の地図から大雑把に推測するしかありません。ただ、左岸流は台地の裾に沿っていたため、ある程度たどることは可能です。なお、タイトルの西向は旧長崎村の字で、谷端川流域を含む舌状台地の西側を指していました。「新編武蔵風土記稿」にも収録されており、明治に入っても引き継がれたものです。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)  

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    ・ 「陸地測量部発行の1/10000地形図(明治42年測図) / 新井」  上掲地図と同一場所、同一縮尺です。

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    1. 要小学校前から続くこの道路が、左岸流の流路とおおむね重なります。

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    2. 城西大付属中・高前です。右手に広がるフラワー公園の幅が、本流との間隔と一致します。 

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    3. こちらはフラワー公園の西側を通る道路で、耕地整理後の水路を暗渠化したものです。

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    4. 二流が一本になるのはこのあたりです。右手からの合流もありましたが、次回のテーマです。

地蔵堂分水路(仮)

2019-03-22 06:43:34 | 谷端川・小石川1

 要小学校前で左手に分岐する水路があります。江戸時代からのもので、→ 「沿革図書附図」→ 「東京近傍図」にも描かれています。舌状台地をU字に迂回する本流に対し、その根元を切り通してショートカットしており、台地の東側の田圃を効率よく灌漑するため、人工的に開削されたものでした。本来は昨日UPの→ 「明治42年測図」のように、左岸流から分岐していましたが、耕地整理で左岸流が廃止されたのに伴い、→ 「昭和4年第三回修正」のように付替えられました。

 

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    ・ 「段彩陰影図 / 谷端川1」  「明治42年測図」に描かれた千川上水と谷端川を重ねています。オレンジ線は区境で、左隅の練馬区、上部の板橋区、下部の新宿区を除くと、大半は豊島区です。 

 この分水路の名称に触れた文献は未見なので、ここでは仮称として地蔵堂分水路としておきます。東南に300mほどのところに地蔵堂があり、一帯の字が地蔵堂だったこと、途中架かる橋を地蔵橋とする地図もあること、などが理由です。なお、地蔵堂自体は江戸時代からありましたが、字(小名)としては「新編武蔵風土記稿」に記載はなく、明治22年(1889年)の町村制施行に際し、長崎村大字長崎の字として採用されたものです。(地蔵堂の写真は→ こちらでどうぞ。)

 

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    ・ 分岐地点(改修後)  前回最後の右カーブから50m弱南下したところです。左手に分岐する通りが改修後伸長された地蔵堂分水路跡です。 

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    ・ 分岐地点(改修前)  60mほど東を並行する通りが左岸流とおおむね重なります。左手は要小キャンパスですが、その南西角が本来の分岐地点でした。

耕地整理

2019-03-20 06:13:12 | 谷端川・小石川1

 粟島神社弁天池からの流れを合わせた長崎村分水の続きです。250mほど進んだところで右カーブ、800m先の椎名町駅に向かって南下します。栗島神社から椎名駅までの水路は、カーブを挟んで定規で測ったような直線ですが、→ 「東京近傍図」で見るように、最初からそうだったわけではありません。大正末から昭和の初めにかけて行われた、長崎村(のち長崎町)耕地整理事業によるもので、これは近隣の高田村(雑司ヶ谷)、落合村(葛ヶ谷)などと同じ事情です。なお、長崎村の耕地整理は二次にわたって行われ、長崎村第一耕地整理組合の発足は大正11年(1922年)、第二次の事業の完了は昭和10年(1935年)と、十数年に及ぶ一大事業でした。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)  

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    ・ 「陸地測量部発行の1/10000地形図(昭和4年第三回修正) / 練馬」と「同 / 新井」の合成で、上掲地図と同一場所、同一縮尺です。→ 「明治42年測図」と比べると、耕地整理の前後が一目瞭然です。

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    1. 粟島神社境内を回り込んだ先です。再び直線道路になります。

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    2. 耕地整理以前の水路は、この付近で左右に分岐していました。 

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    3. 右岸流をベースに直線化、のち暗渠としたのがこの道路で、一方、左岸流は廃止されました。 

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    4. 右カーブで向きを南に転じ、やはり直線で椎名町駅に向かいます。

粟島神社

2019-03-19 06:12:34 | 谷端川・小石川1

 分水口から500mほどのところに、谷端川の源流の一つである粟島神社の弁天池があります。以下は境内に立てられた石碑、「粟島神社(弁天様)御由緒」の引用です。「往昔 ここは清水の湧出する静謐の地であった。泉は溢れ川となってこの地を潤し、のちに谷端川の源泉ともなった。清泉をめぐって樹木が鬱蒼と茂り、神韻の地として畏敬された。口承によれば、鎌倉の末期頃から罔象女が祀られ、いつか弁天様として地元民に親しまれるようになった。江戸の頃から大正末期まで旱天の折、雨乞祈祷の聖地となり・・・・」

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。) 

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    ・ 「昭和22年米軍撮影の空中写真」  上掲地図のグレー枠の部分です。同一個所に同一番号を振っています。

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    1. 再び要町通りから離れた先です。水路は通りの左手を並行していました。

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    2. 要町通りを再度離れてから粟島神社まで、ほぼ直線で200mほどあります。

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    3. 左手先に粟島神社の茂みが見えてきました。 

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    4 粟島神社の境内に沿い、左カーブでその正面に回り込みます。

長崎村分水口2

2019-03-18 06:05:01 | 谷端川・小石川1

 現要町三丁目交差点にあった分水口から、長崎村分水のウォーク&ウォッチの開始です。交差点から要町通りを東に向かうと、50mほどで右手に分かれる直線道路があります。分水路はその右手を側溝のように並行、200mほどで左折、右折のクランクをへて、別の直線道路にシフトしていました。これは→ 「東京近傍図」に見られるように、当初からそうだったわけではありません。大正末から昭和の初めにかけて、二次にわたって行われた区画整理の結果で、碁盤の目状に道路を開設したのに合わせ、分水路を付替えたものでした。この辺の事情は、区画整理前後の「地形図」を見比べると一目瞭然です。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)  

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    ・ 「陸地測量部発行の1/10000地形図(昭和4年第三回修正) / 練馬」  上掲地図と同一場所、同一縮尺です。(区画整理以前の「明治42年測図」は、 → こちらでどうぞ。)

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    1. 要町通りから右手に分岐する直線道路から始めます。

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    2. この右手を200mほど並行していました。  

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    3. ここで左折です。水路のあるなしに応じて、道幅が変わっているのが分かります。いわゆる「カクカク」です。

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    4. 要町通りに接したところで右折、一つ東側の直線道路にシフトします。ここから先は一本道となり迷うことはありません。

長崎村分水口

2019-03-16 06:29:55 | 谷端川・小石川1

 長崎村分水は四ヶ村分水ともいい、当初から一貫して長崎、池袋、中丸、金井窪の四ヶ村の田用水となっていました。開設後まもなくの事情を反映していると思われる「千川上水給水区域(千川家文書)」には、長崎村分水に関し「此水口より池袋村中丸村金井窪村に相懸り申候」と付記されています。分水口は現要町三丁目交差点内にあり、樋口の大きさは文献によって異同がありますが、上記「千川家文書」では「内法七寸四方」、明治10年の「星野家文書」で「幅六寸五分高六寸三分壱厘」と、1尺四方以上の規模を有した七ヶ村分水に次ぐものでした。

 

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    ・ 「昭和22年米軍撮影の空中写真」  千川上水と並行する都道420号線は開通したばかりでした。グレーで重ねたのは、当時未着工の要町通りです。  

 それが、昭和に入り農業用水としての需要が激減したのに伴い、長崎村分水の必要性も低下します。以下は昭和15年(1940年)ころ、武蔵高校生徒による千川上水の現況調査報告の引用です。「この庚申橋の稱々下流には釣堀がある。釣堀の裏の所から、千川の分水の中最大のものである谷端川(所謂長崎村分水)が岐れる。この分水は、池袋、板橋、巣鴨を経て小石川で江戸川に注ぐもので、近年まで分水口には立派な鉄の水門があり、扉によって開閉したが、今日は水量が僅かとなり、水門の必要がなくなったので、僅かに四寸四方の穴を穿ち、千川から水を引いているに過ぎない」(武蔵高等学校報国団民族文化部門編「千川上水」千川の会による復刻版) 

 

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    ・ 要町三丁目交差点  手前の横断歩道付近を千川上水が流れ、長崎村分水は正面奥の通り方向に分岐していたはずですが、要町通りの開通によってその痕跡は失われました。

 同報告にはもう一ヶ所長崎村分水に触れた所があります。「長崎村分水 谷端川と呼んでゐるが、千川と武蔵野線との交叉点より約一粁下流、板橋区要町四丁目から出て・・・・、後楽園の横を通り、神田川に入る全長十一粁に及ぶ長大なもので、分水中最大のものであり、現在もよく分水口の様子が残ってゐる。千川文書によれば水口は七寸四方であるが、現在は三寸四方程に縮小し、僅かの水が流れてゐるに過ぎず、殆ど下水に等しい。現在は板橋駅前から暗渠に入ってをり、開渠されてゐる部分の水路も二三年前改修され、急速に住宅が立ち始めた」 この個所には石垣に穴を穿っただけの分水口の略図も添付されています。

 

 

 

長崎村

2019-03-15 06:51:08 | 谷端川・小石川1

 「長崎村は日本橋より二里半、民戸五十九、東は池袋村、西は葛ヶ谷村、南は下落合村北は上板橋村なり、東西南北共に十町許、雑司ヶ谷村より練馬村に通する往来あり、幅五間、用水は玉川の分水を引沃く、『北条役帳』に、太田新六郎知行十七貫三十文江戸長崎と見ゆ」「雑司ヶ谷村より練馬村に通する往来」は、清戸道(目白通り)のことで、その沿道は村内唯一の町場である椎名町でした。「椎名町 練馬村辺への往来にて民戸連住す」

 

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    ・ 「東京近傍図 / 板橋駅」(参謀本部測量局 明治14年測量)の一部を加工したもので、本来の縮尺は1/20000、パソコン上では1/12000ほどです。オレンジ線は区境で大部分が豊島区、同細線は長崎村当時の村境です。

 なお、村の東南の下落合、雑司ヶ谷村との境には、たびたび話題となった鼠山がありました。「村の東南にて下落合村に隣れり、山とはいへと芝野なり濶さ東西二町南北一町余、・・・・元は太田氏采地の内なりしに、享保十二年収公せられて、春秋騎馬勢子調馬の地と定めらると云」 以上、引用はすべて「新編武蔵風土記稿」ですが、うち「民戸五十九」に関しては、他の数字との比較から少な過ぎとの指摘があります。

 

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    ・ 長崎神社  谷端川をUターンさせている長い舌状台地の先端にあります。かっては十羅刹女社と呼ばれていましたが、明治の神仏分離後、素戔嗚命を合祀して長崎神社と改称しました。

 長崎村の地名由来に関しては、鎌倉時代、北条得宗家の重臣長崎氏が当地を支配した、との伝承もありますが、文献的に裏付けられているわけではありません。一般に、人名が地名由来となるのは圧倒的な少数派で、やはり、長い舌状台地を長崎とする地形由来のほうがピンときます。なお、くだんの長崎氏は桓武平氏の末流で、伊豆の長崎郷を所領として長崎氏を名乗り、一時は幕府をも牛耳るほどの実力者でした。各地に点在する領地が長崎と呼ばれ、肥前の長崎もその一つとされますが、肥前長崎氏は別系統で、やはり居住地の地形から長崎氏を名乗ったとの説も有力です。

 


千川上水と谷端川

2019-03-14 06:26:55 | 谷端川・小石川1

 自然河川としての谷端川の源流は、粟島神社境内の弁天池をはじめとする、旧長崎村周辺の湧水です。これらは井の頭池、善福寺池など、地下水脈が溢れ出すのと異なり、地表近くの溜り水を水源としていました。宙水と呼ばれるもので、降水量に左右されるため、農業用水としてはあまりあてになりません。そこで、宝永4年(1707年)には、流域の村々は千川上水からの分水を願い出、以降、谷端川の最大の源流はその分水となります。そのため、江戸時代の地図や文献では、上流域の谷端川は千川分水とか長崎村分水、四ヶ村分水などと呼ばれました。

 

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    ・ 千川上水と谷端川  「御府内沿革図書附図」(嘉永7年 1854年)に描かれた千川上水と、巣鴨村までの谷端川をイラスト化したものです。なお、同附図では谷端川は千川分水となっています。

 四ヶ村とは長崎、池袋、中丸、金井窪の各村で、より下流にある滝野川、巣鴨の両村は、中山道まで達した千川上水から、個別に助水を得たのち、その余水を谷端川に落としていました。これら各村の千川上水への依存度はまちまちですが、なんといっても最上流にある長崎村がダントツで、明治初めの数字ですが、全水田面積17.7町歩のうち13.8町歩を依存しています。以下、池袋村3.4(15.3)、中丸村1.1(5.4)、金井窪村1.9(6.4)、滝野川村0.5(6.1)、巣鴨村1(7.5)です。ちなみに、上下井草村など六ヶ村の場合、六ヶ村合計で81.8町歩中64.2町歩を千川上水に依存していました。

 

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    ・ 千川上水  要町3丁目交差点前の千川上水跡で、現在は遊歩道や駐輪場になっています。交差点に入ったところにあった分水口から、長崎村分水は右手に分岐していました。  

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    ・ 粟島神社  大正末から昭和の初めまでは、雑木林に囲まれた弁天池からの小川が、写真の左手から手前へと流れる長崎村分水に注いでいました。現在の→ 池の水はポンプで循環しています。 

谷端川

2019-03-13 05:50:08 | 谷端川・小石川1

 「新編武蔵風土記稿」の、豊島郡之一にある記述を引用します。「小石川并谷端川  長崎村より出る細流落合て、池袋村、滝野川村、巣鴨村等を歴て、小石川村に至て此名起り、橋戸町、柳町より伝通院東の方を流れ、夫より水戸殿屋舗内にかゝり、流末同屋敷外、南の方往還に架せる仙台橋の辺にて、神田川の上流に合す、昔はよほどの川なりしにや、広き地名にも唱へて聞えたる川なり、後年追々道敷等に埋立られ、今は川幅広き所にて三四間に過ず、此川巣鴨村にては谷端川と称す」

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成  地図中明るい緑が遊歩道化されているところで、暗い緑はそれ以外の水路跡です。断片的に残されているものを、地図を参考に繋いでいるところもあります。

 小石川は下流域の村名でもあります。川の名が先か、村のほうが先かは問題で、「江戸砂子」は両論を併記しています。「小石川と云は小石の多き小川、幾流もあるゆえ也と云。わけて伝通院のうしろの流、ねこまた橋の川筋、小石川の濫觴と云。又白山権現は加賀国石川郡より勧請あれば、それに対しての名とも云り」 一方、谷端川は文字通りの意味か、あるいは谷畑が転じたものなのでしょう。中流域にある滝野川村の字に谷端(やばた)がありますが、「新編武蔵風土記稿」は谷畑(やはたけ)と書いています。明治以降の「地形図」が採用したこともあって、谷端川の名が普及しました。

 

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    ・ 谷端川児童遊園  谷端川の名前が残るのは、西武池袋線から東部東上線間の、遊歩道化されている区画で、谷端川南緑道、谷端川児童遊園、谷端川北緑道などの名前が付けられています。

 谷端川や小石川以外にも、流域や歴史的な役割に応じて、さまざまな呼び名が残されています。特に上流域の長崎村などでは、千川上水の分水を得て、農業用水としての役割が大きかったために、千川分水、長崎村分水、四ヶ村分水などと呼ばれました。大正から昭和にかけて暗渠化が問題になったころ、千川との呼び名が一般化した地域があり、これは暗渠化後の千川通りに名をとどめています。また、下流域では小石川の漢語表現である礫川というのもあり、周囲が宅地造成され大下水化してからは、小石川大下水とか、(東の支流である)東大下水に対して、西大下水とか呼ばれもしました。