神田川 「まる歩き」 しちゃいます!!

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赤坂新町

2014-10-07 06:37:36 | 城西の堀川3

 みすじ通りと一ツ木通りの間の町屋が赤坂新町でした。五丁目までありましたが、通りの間に挟まれていたのは一丁目から三丁目までで、寛永17、8年(1640、41年)頃、武家方に給付され、一丁目は延宝元年(1673年)、二、三丁目は元禄9年(1696年)に町奉行支配となりました。赤坂田町などより後の成立であることが、その名の由来と思われます。以下はそのうちの新町二丁目の下水に関する、「御府内備考」の記述です。「下水 幅三尺五寸 右町内西之方一ツ木町浄土寺境より東之方田町御堀端明地内大下水え流レ落申候」

 

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    ・ 一ツ木通り   赤坂見附方向のショットで、右手が江戸時代の赤坂新町二丁目、左手前が浄土寺門前、奥が一ツ木町です。浅いながら谷筋が横切っているのが分かります。

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    ・ 浄土寺門前  「平河山(へいかさん)浄土寺 昔は御城内平河口の辺にありしを、元亀3年(1572年)今の地に移されしと云。」(「江戸名所図会」)

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    ・ 浄土寺境内  本堂前には享保4年(1719年)作成の地蔵菩薩坐像が祀られています。例の「江戸六地蔵」と同じく、地蔵坊正元の勧進、鋳物師は太田正義ですが、六地蔵には数えられていません。

 <大刀洗川>  冒頭で引用した新町二丁目の書上の続です。「尤(もっとも)横切ニ而水源之儀者妻木彦右衛門様屋舗内より流出申候右者年代不知梶原源太景季鎌倉より奥州え通り候節景季右川ヲ渡り水中え帯候太刀ヲ落シ候ニ付居候者之内ニ而取上ヨゴレヲ洗ひ候由ニ御座候右ニ付其頃より大刀洗川と申伝候由然ル処追々町屋出来仕而当時者下水ニ相成候得共今以右下水ヲ梶原源太大刀洗川と里俗ニ申伝候」
 梶原景季は鎌倉幕府の有力御家人ですが、木曽義仲の四天王、今井四郎兼平を物語の主人公とする説も、「新選東京名所図会」に収録されています。こちらは赤坂と麻布の間にあった広域地名、今井や、現赤坂サカス付近にあったといわれる、今井城跡とのかかわりが考えられますが、その詳細は該当個所で稿を改めます。