神田川 「まる歩き」 しちゃいます!!

ー神田川水系、支流はもちろん、旧水路、廃水路、全部 「まる歩き」ー

江古田の森公園

2016-05-31 06:18:13 | 妙正寺川4

 江古田の森公園に上るところに架かるのが江古田憩い橋です。そこから舌状台地の先端に架かる北江古田橋まで、台地と江古田川に挟まれた三日月状の低湿地が広がり、かっては寺山下と呼ばれる水田地帯でした。そこを台地先端の洲崎堰で分岐し、寺山沿いを南下する田用水が灌漑していましたが、昭和46年(1971年)に北江古田公園として開園しました。平成19年に台上まで含めた江古田の森公園が完成して以降は、北江古田公園の名称はなくなり、江古田の森公園内の多目的広場兼調節池という扱いです。

 

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    ・ 江古田憩い橋  台上の江古田の森公園を見通しています。なお、→ 「江古田村絵図」にも、同じようなところに橋が描かれていますが、昭和10年代の川の改修によって廃止されたため、現在の橋とはつながりません。

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    ・ 江古田川  江古田憩い橋から上流方向です。ここから先、右岸段丘は後退し江古田川との間に三日月状の低地が広がり、縄文時代の低湿地遺跡(北江古田遺跡)も発掘されています。
 <東京市療養所>  大正9年(1920年)、江古田川をUターンさせる舌状台地上に、東京市療養所が創設され、昭和22年(1947年)に厚生省に移管され国立中野療養所となります。同42年の改築に伴い国立療養所中野病院と改称されますが、江古田憩い橋(当時は国立療養所橋)の架かる道路が開設されたのはこの時です。平成5年、国立国際医療センターへの統合により、跡地は中野区が取得、同19年に総面積6万平方メートルに及ぶ区立公園となりました。

 

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    ・ 江古田の森公園  江古田憩い橋から百数十メートルの台上です。東京市療養所(のち国立療養所)のあった名残で、公園と医療、福祉関係機関が併存しています。

西原橋

2016-05-30 06:42:02 | 妙正寺川4

 本多橋の次に架かるのが西原橋です。昭和13年(1938年)創架の橋ですが、→ 「昭和4年第三回修正」にも、本多橋の上流に橋が描かれています。あるいは、「江古田のつれづれ」(昭和48年 堀野良之助)のいう、「(本多橋の)上流に当る小字西原に懸けてあった土橋」かもしれません。ただ、西原から片山に上る橋はもう一本、現江古田憩い橋付近にもあったため、どちらを指すのかは不明です。いずれにしても、江古田川の改修に伴い、本流の位置が大幅に変わったため廃止され、新しく西原橋が架けられました。

 

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    ・ 江古田川  本多橋から上流方向です。左手が→ 本多山公園のある本多山、正面奥に西原橋、その奥が江古田の森公園のある寺山です。

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    ・ 西原橋  西原(西の原)は下の原や上の原、北原と並ぶ左岸の字で、かってはひとくくりに(江古田)原と称され、現在の江原町の元となった地名です。

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    ・ 江古田川  西原橋の先で右カーブ、北上するところで、右岸から迫ってくるのが寺山、現在は江古田の森公園内の保存樹林です。次の江古田憩い橋はチラッと見えるかどうかです。

 <寺斎橋>  西原橋から先、江古田川はほぼ90度右カーブ、寺山のある右岸段丘沿いに北上します。このコース取りは本来、寺山下を灌漑していた田用水の流路でしたが、昭和10年代初めの土地区画整理事業により、現行のようになりました。「江古田のつれづれ」によると、改修以前に段丘際を流れていた田用水には、寺斎(じさい)橋と呼ばれる小橋が架かっていました。「東福寺の北裏、八百堰に沿う台地の端のあげ堀の小川に小さな橋が懸けてあった。」 東福寺に米麦(斎米 ときまい)を納める際渡った橋の意で、区画整理で江古田川の本流が流れることになり廃止されますが、その石材には元禄16年(1703年)の日付が刻まれていた旨続きます。

 


本多橋

2016-05-28 06:00:54 | 妙正寺川4

 大正11年(1922年)、江古田地区を縦断する新道が開通します。これにより、同年開業の武蔵野鉄道(現西武池袋線)江古田駅から中野通りを経由、中野駅に至る経路が整備され、通勤通学の便が格段に向上しました。その二年前に、住民の反対運動を押し切って開設された、現江古田の森公園にあった市立療養所の代替ともいわれていますが、それはともかく、新道の開通に伴い妙正寺川には江古田橋が、江古田川には本多橋が架橋されます。その後昭和10年代初めには区画整理事業により、江古田川は現行のようにS字を描く流路となりましたが、本多橋と大橋の位置は変わっていません。

 

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    ・ 「陸地測量部発行の1/10000地形図(昭和4年第三回修正) / 新井」  現行の流路及び同時代の「野方町全図」(1/6000)に描かれた用水をブルーで重ねています。中央を斜行する直線道路が新道(本多橋通り)です。

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    ・ 江古田川  江古田村分水の合流していた東橋から上流方向です。大きく左カーブする先に次の下の原橋がありますが見えません。

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    ・ 江古田川  下の原橋からのショットで、奥に見えるのが本多橋です。下の原は右手(左岸)にある 現江原町地区の、野方村(のち野方町)当時の字、本多(本田)は反対側の字でした。

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    ・ 本多橋  通っているのが新道(本多橋通り)です。須賀稲荷神社の境内の→ 新道記念碑には、「新路幅三間長六百間有餘間鑿丘埋田架橋」とあります。

江古田村分水

2016-05-27 06:34:23 | 妙正寺川4

 江古田川にかかわる他の分水と比べ、江古田村分水の特徴として、→ 「段彩陰影図」に見られるように、自然の小谷筋を利用した痕跡が顕著なことが挙げられます。もちろん、他の分水も大なり小なり自然の谷筋にあるわけですが、江古田分水の場合特に目立ち、分水口から現目白通りまでの人工的な開削部分と、合流口付近の区画整理による直線的な改修を除くと、周囲との段差やクネクネなど、自然の小河川の痕跡が色濃く残っています。ただ、そのあたりは→ 「千川用水4 / 江古田村分水」以下で詳細したので、今回は合流地点に限定し、昭和10年代半ばまでに完了した区画整理による改修を扱います。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    ・ 「陸地測量部発行の1/10000地形図(昭和4年第三回修正) / 新井」  上掲地図と同一場所、同一縮尺です。また、同時代の「野方町全図」(1/6000)に描かれた江古田村分水及び大堰からの用水をブルーで重ねました。

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    1. 合流地点の東橋からさかのぼります。左手の歩道が水路を含んで広くなっています。

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    2. 右写真は右岸(北側)からのショットで、改修以前はこの谷筋を二本の水路が流れていたことになります。

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    3. 200m強の直線コースの先、次の交差点で左折です。左手は都住宅供給公社の江古田住宅です。 

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    4. 左折後すぐに右折です。この後は自然の谷筋に沿い、区画整理前後で流路に変更はありません。

東福寺、氷川神社

2016-05-26 06:24:00 | 妙正寺川4

 小石川道は大橋の西で二手に分かれますが、北側のものは寺山と呼ばれる舌状台地の付け根に差し掛かります。→ 「江古田村絵図」に見るように、その右手に江古田村の信仰と文化の中心である東福寺、氷川神社が並んでいます。氷川神社は江古田村の最初に扱いましたが、その別当だった東福寺は氷川神社の東隣にあり、金峯山世尊院と号しています。天正頃(17世紀末)、本村の御嶽神社近くに創建と伝えられていますが、詳細は不明です。

 

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    ・ 小石川道  正確には小石川道から北側に分岐したほうです。東福寺は道を一本挟んで右手にあり、氷川神社は坂を上った右手に鳥居が立っています。

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    ・ 東福寺  享保13年(1728年)、八代将軍吉宗が鷹狩のおり休息、御膳所となりました。本堂奥には将軍御成間が保存されていましたが、老朽化のため取り壊され、現在は写真左手の跡地に記念碑があるだけです。

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    ・ 氷川神社  小石川道からやや奥まった→ 石段を上った台上にある社殿です。社殿は昭和になってからの建物ですが、現在神楽殿となっている→ 旧社殿は、弘化4年(1847年)の建立です。

 <江古田獅子舞>  10月第一土・日の氷川神社の例大祭には、江古田獅子舞が奉納されます。江戸時代には本村にあった御嶽神社に奉納し、その別当の東福寺に舞台を設けていましたが、大正2年(1913年)に御嶽神社が氷川神社に合祀されて以降は、氷川神社に奉納するようになったものです。 三代将軍家光に上覧したとの伝承もあり、遅くとも18世紀初頭には行われていた江古田の獅子舞ですが、その起源については鎌倉時代までさかのぼるなど、諸説があってよくわかりません。
 いずれにして山岳信仰や修験者とのかかわりが指摘されており、巡行絵巻でも法螺を吹く山伏らしき二人が三頭の獅子を先導、また朱雀など四神も行列に加わっています。現在でも四神は行列に加わっていて、全国的にも珍しい例のようです。獅子は大(たい)獅子、中(なか)獅子、女(め)獅子の三頭。「一人立ち三頭獅子舞」と呼ばれる、関東地方を中心に東日本に普及しているパターンで、隣村の長崎村にも同じような獅子舞が伝えられています。(中野区の公式ホームページ内に江古田獅子舞の動画があり、絵巻もアップで見ることが出来ます。)

 


江古田村用水

2016-05-25 06:15:51 | 妙正寺川4

 江古田村には前回の大堰を含め、4つの堰が設けられていました。上流から洲崎堰、八百堰、本多堰、そして大堰です。寺山(江古田の森公園)を迂回するUターンの頂点付近が洲崎で、洲崎堰で分岐した田用水は、寺山の東麓に沿って字西ノ原の寺山下(旧北江古田公園)の田んぼを灌漑しました。八百堰の田用水は同じ字西ノ原でも対岸の天神下(江原二丁目)の田んぼを灌漑し、本多(本田)堰は昨日UPの→ 「明治42年測図」にもある田んぼを、大堰は下田橋にかけての田んぼ各々灌漑していました。なお、本多(本田)は「新編武蔵風土記稿」の小名に「本田屋敷」として収録されていますが、本村に居を構えた村民の田圃の意で、向田、下田といった通称も本田を基準にした言い方と思われます。

 

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    ・ 「江古田村絵図」  天保8年(1837年)の「江古田村絵図」( 首都大学東京蔵「堀江家文書」)を元にブルーの用水、薄いブルーの水田を中心にイラスト化したものです。括弧付は「堀江家文書」中の別の村絵図にあるものです。

 堰も用水も描かれていませんが、水田が扇状に広がる端緒、要のところに堰があり、水田の縁に沿って用水が流れていたことが推測できます。水田は大きく四ブロックあり、冒頭の四つの堰、四つの水田に対応しています。なお、本村のところに突き出したのは、千川用水江古田村分水にかかわるものです。いずれにしても、このように幾条にも分れた田用水からの給水によって、江古田川の左右に広がった水田ですが、梅雨時などには水没し、一面湖水のようになったといいます。「大雨が降ると、いつも付近の田圃一面に水が溜って、田や畦道、小道などが一様に水没して一時は湖水のようになったことが幾度かあった。」(「江古田のつれづれ」) こうした原風景を「江のように広がる古田」と、江古田の地名由来と結びつける説もあります。

 

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    ・  小石川道  「村絵図」には「高田四ッ谷町通り」とあるもので、大橋から東に100m強、正面突き当りまで古道と重なります。この右手を江古田村分水の余水と合流した、大堰からの用水が流れていました。

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    ・  妙正寺川  本多橋から下流方向です。ここまで迫っていた本多山と呼ばれる→ 右岸段丘(本多橋から上流方向で、奥は西原橋、その奥は寺山です)は後退し、本多堰が右手に用水を分岐していました。

水車と大堰

2016-05-24 06:00:54 | 妙正寺川4

 江古田村の水車は明治30年ごろ大橋付近に設けられ、大正時代まで稼働していました。「江古田のつれづれ」(昭和48年 堀野良之助)によると、「中新井川の水を下水(したみづ)とし、千川用水の水を上水(うわみづ)として利用し、遠くから土管を埋めて導水して水車を廻した」そうです。上水は上から落とし、下水は下から流して水車を回したのでしょう。下掲「明治42年測図」で大橋の上流に記された水車マークが今回の江古田水車です。千川用水(江古田村分水)は描かれていませんが、左岸から江古田川に合流する谷筋を利用して、大橋の上流で江古田川に用水を落とし、あるいは右岸流となっていました。→「東京近傍図」には谷筋だけでなく、流路も描かれています。

 

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    ・ 「陸地測量部発行の1/10000地形図(明治42年測図) / 新井」  現在の流路をブルーで、新青梅街道をグレーで重ねています。

 大橋上流の現本村橋、東橋の間には大堰と呼ばれる堰も設けられ、小石川道沿いに南下して、哲学堂下で本流に戻る田用水によって、本村から下田橋に至る田(下田)を灌漑していました。この田用水が水車を回していたとの記述もあり、とすれば下水に使っていたのでしょう。なお、「明治42年測図」にも書き込まれた本村は、時代によっては東本村のこともありますが、江古田村の元村です。「新編武蔵風土記稿」の記載に「天正十九年九月・・・・伊賀の者に賜ふと云、此頃は民家も漸く十軒許ありしとぞ」とあり、この本村のことと思われます。

 

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    ・ 大橋  親柱にはめ込まれた→ 絵(部分)には、大橋の左岸上流に水車小屋が描かれ、解説プレートには「江古田分水の流れで水車を回していました」とあります。

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    ・ 江古田川  大橋から上流方向で、奥に写っているのが本村(ほんむら)橋です。区画整理後の架橋ですが、江古田の元村であった字本村(東本村)由来の橋名です。

大橋

2016-05-23 06:39:16 | 妙正寺川4

 江古田大橋から江古田川をさかのぼります。ほぼ直線で北上し100mほどで不動橋、さらに50mほどで大橋です。不動橋は区画整理時の架橋ですが、大橋は新青梅街道の原型となった古道に架かる橋で、江戸時代の村絵図にも描かれた江古田村の本来の大橋でした。「昔この橋は土台が石積みの橋でした。ここを通る道は幅4mほどの江戸道又は石神井街道と呼ばれ、石神井、鷺宮方面から葛ヶ谷村、雑司ヶ谷を通り江戸に向かっていました」と、大橋の欄干にはめ込まれた中野区の解説プレートは書いています。

 

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    ・ 不動橋  左岸に垢離取(こりとり)不動尊が祀られています。かっては大橋付近にあったものが区画整理、戦争の混乱を経て失われ、昭和34年(1959年)に再建されました。

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    ・ 江古田川  不動橋から上流方向で、奥に見えるのが大橋です。現在の不動橋、大橋とも昭和30年代後半の架橋、規模、見かけもほとんど同じで、「大橋」といわれてもピンときません。

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    ・ 大橋  右岸方向のショットです。新青梅街道の元となった古道はこの先で二手に分かれ、北側のものは江古田の森公園のある舌状台地の根元を横断、東福寺や氷川神社の前に出ます。 

 <万垢離>  不動尊前では富士、大山参りの際、川に入って身を清め、また毎年田植えも終わった旧暦5月下旬、万垢離(まんごり)と呼ばれる行事が行われました。村内各組の代表が氷川神社から二間余り(≒4m)の木太刀を運び、水ごりをして身を清め、五穀豊穣、家内安全を祈願するもので、不動尊前には五色の幣束を飾り付けた梵天が立ち、行事の後幣束は各家の門口に飾って魔除けとしました。万垢離はいつしか行われなくなりましたが、その時期に関しては明治末から昭和初めまで、文献によってまちまちで、不動橋の欄干にはめ込まれた解説では、「大正時代の初期ごろまで」としています。同じ欄干に描かれた万垢離の絵(部分)は→ こちらです。

 


土地区画整理2

2016-05-21 06:20:49 | 妙正寺川4

 江古田川を合流地点からさかのぼると、間を置かず新青梅街道を越えます。この新青梅街道の開設やそこに架かる江古田大橋も、やはり江古田第一地区区画整理事業と連動していました。新青梅街道は元々、江古田村の中央を東西に走り江戸、石神井を結ぶ古道でした。それが、→ 「東京近傍図」で見るように妙正寺、江古田両川の合流点付近では、北側に大きく弧を描いて迂回していたため、昭和12年(1937年)からの工事で、直線的に改修、拡張し、それに伴い江古田大橋を創架したわけです。

 

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    ・ 江古田大橋  → 親柱には「えこたおおはし」とありますが、中野区中央図書館「中野の橋あれこれ」はこの橋も含め、江古田のつくすべての橋に「えごた」とルビを振ってます。

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    ・ 新青梅街道  正面の関東バス丸山営業所のあたりは、区画整理以前は向田と呼ばれ、薬師橋袂の下の堰から分流した用水が灌漑していました。なお、ここから400mほどのところに、→ 中野区立歴史民俗資料館があります。

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    ・ 江古田川  江古田大橋から上流方向です。奥に見えるのは次回テーマの不動橋ですが、その次の大橋まで200m弱がほぼ直線で、区画整理時の改修の成果を見ることができます。

 <新青梅街道>  青梅街道のバイパスとして、昭和10年代に着工、東京オリンピック、高度経済成長の時代の昭和30年代後半に開通しました。西落合1丁目交差点で目白通りと分岐、西東京市の北原交差点を経て西多摩郡瑞穂町に至ります。この街道の原型は「新編武蔵風土記稿」にも記された古道です。「村(江古田村)の中ほどに一條の道あり、西の方上鷺ノ宮村より東の方葛ヶ谷村へ達す、是往古の街道の名残なりといふ、其幅は二間餘あり、今石神井村より江戸へ通ふ道是なり、村にかゝること二十二町許」
 「東京府志料」で「青梅裏道」、「豊多摩郡誌」で「小石川道」としているのも同じで、「豊多摩郡誌」は「清戸道(目白通りのこと)より分岐し、西北進して本村大字江古田を通過し、上鷺宮村より北豊島郡石神井村に通ず」と書いています。太田道灌と豊島氏が江古田原沼袋を戦場としたのも、両者の居城のある江戸と石神井を結ぶこの古道があったからこそと思われます。

 


土地区画整理

2016-05-20 06:17:21 | 妙正寺川4

 江古田川の合流地点の改修は、江古田第一土地区画整理事業と連動して行われました。昭和8年(1933年)に組合結成、翌年から着工された区画整理事業は、「七年九ヶ月ノ日時ト弐拾余万円ノ経費ヲ要シ」、「総面積拾八万参千七百余坪」の区画整理を完成させます。数字は合流地点の一角に建てられた記念碑からの引用です。なお、江古田地区の区画整理事業は、現江原町一帯の江古田第二土地区画整理事業、隣村中新井と合同の中新井第二土地区画整理事業へと引き継がれ、昭和10年代中頃までに完了しました。中野区の耕地整理のおよそ15分の1の面積が対象となったそうです。各事業は同じような規模の公園と記念碑を残しており、その詳細は該当個所で改めて触れるつもりです。

 

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    ・ 「陸地測量部発行の1/10000地形図(昭和12年第四回修正) / 新井」  現行の流路をブルーで、新青梅街道と中野通りをグレーで重ねています。区画整理前の「昭和4年第三回修正」は→ こちらでどうぞ。

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    ・ 江古田公園  公園の東端にかかる天神橋から振り返ってのショットで、奥にチラッと合流地点も見えます。元の合流地点の一帯、およそ2500坪が公園として整備されたのは、昭和14年のことです。 

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    ・ 古戦場碑  昨日UPの合流地点の→ 写真の右手茂みの中、「江古田原沼袋古戦場」の碑があり、「このあたり一帯は文明九年(1477年)太田道灌と豊島泰経らが激戦をしたところです」と解説されています。

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    ・ 整地碑  こちらは合流地点左手の茂みの中にあり、昭和17年10月に建てられものです。「道路橋梁公園悉ク完備シ殊ニ妙正寺川改修ノ結果昔日ノ氾濫夢ノ如ク除カレ」などと読めます。

江古田川

2016-05-19 06:15:37 | 妙正寺川4

 片山村のある舌状台地の先端を過ぎ、そのやや東側に回り込んだところに、左岸から江古田川が合流しています。江古田川は中新井川とも呼ばれ、中新井村の湧水池(のち千川上水の助水を得て溜池)から発し、江古田村を経て妙正寺川に合流していました。水源からの延長は3km強ですが、「川の地図辞典」などに1.64kmとあるのは、上流の緑道を除いた開渠部分のことと思われます。

 

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    ・ 「段彩陰影図 / 江古田川」(1/18000)  千川上水及その分水を白線で書き込みました。オレンジ線は主に練馬と中野の区境で、右下に豊島区、右下隅に新宿区がチラッと見えます。

 以下は「新編武蔵風土記稿」の江古田村の水利に関する記述です。「多摩川上水の分水なり、・・・・此ほとりに至りては仙川用水と云、豊島郡中荒井村より引入、石神井村三宝寺の池水落合上鷺ノ宮村の北の方より流れ来り村内に入、処々の水田にそゝぎ、流末は豊島郡葛ヶ谷村へいたる、村にかゝること八町許」 「石神井村三宝寺の池水」は「井草村妙正寺の池水」の誤りで、流末の葛ヶ谷村のところでは、これを井草川と明記しています。それはともかく、重要なのは前半の江古田川を千川用水と認識しているくだりです。「段彩陰影図」に白線で重ねたように、江古田川は千川上水の助水を得ており、それこそが最大の水源となっていたのでした。 

 

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    ・ 江古田川  合流地点から上流方向を見通しており、200m弱先の大橋まで直線で北上します。周囲の茂みは江古田公園、正面が江古田大橋の架かる新青梅街道です。

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    ・ 学田公園  水源の中新井池がありました。明治に入り田圃となり、昭和の土地区画整理事業に伴い、公園となりました。「段彩陰影図」の左端でグレーを重ねているところです。

江古田村

2016-05-18 06:47:39 | 妙正寺川4

 「江古田村は、東の方豊島郡の界にあり、郷庄の唱を失ふ、江戸日本橋より行程三里、村名の起りを詳にせす、『鎌倉大草紙』に・・・・、村の広さは東西十五町、南北はわづかに其半に至れり、南は沼袋村にとなり、東より北へは豊島郡葛ヶ谷、長崎、中荒井の三村に接し、西は上鷺ノ宮及び豊島郡中につゞけり、村内平にして水田は村の中央にあり、民家百五十軒、東北の方に住す、土性は野土にして真土も交はれり」(「新編武蔵風土記稿」) 「鎌倉大草紙」以下は沼袋村のところにもあった、太田道潅と豊島氏による江古田沼袋の戦いの記述です。

 

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    ・ 「東京近傍図 / 板橋駅」(参謀本部測量局 明治14年測量)の一部を加工したもので、本来の縮尺は1/20000、パソコン上では1/12000ほどです。オレンジ線は区境で、左上より豊島、中野、新宿区、細線は北豊島郡当時の村境などです。なお「東京近傍図」のこの部分は、縮尺、方角とも正確さを欠いているため、変形して現行の地図に重ねています。

 江古田の地名由来としてはえごの木、ないし、えごまの生い茂るところ、あるいは、水の流れ込む土地の意の方言「えご」が元との説もあり、読みは「えこた」「えごだ」「えこだ」「えごた」が併存しています。「新編武蔵風土記稿」では「エコタ」とルビをふっていますが、現在では「えごた」と読むのが一般で、目白通りにある都営地下鉄の新江古田駅は「えごた」です。ただ、江古田村の新田から発し、のちに豊島郡上板橋村の小字となった江古田がありますが、大正11年(1922年)開設された武蔵野鉄道(現西武池袋線)のもよりの駅名が、理由は不明ですが「えこだ」となったため、話をがややこしくしてしまいました。

 

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    ・ 氷川神社  「除地三段七畝、西の方にあり、村の鎮守なり、社は五尺四方、上屋三間に二間南向にて、前に石の鳥居を立つ、松杉の森あり、鎮座の年代詳ならず、例祭は九月二十九日」(「新編武蔵風土記稿」)

 「鎮座の年代詳ならず」とありますが、境内に立つ区教育委員会の解説プレートによると、寛正(かんしょう)元年(1460年)の創建と伝えられています。当時は牛頭天王社と呼ばれていて、太田道灌が豊島氏との戦に備えて必勝祈願したとの伝承もありますが、元禄9年(1696年)、同じ素戔嗚尊(すさのおのみこと)を祭神とする氷川神社に改称しました。なお、社殿は昭和になってからの建物ですが、現在神楽殿となっている→ 旧社殿は、弘化4年(1847年)の建立です。

 


片山村用水3

2016-05-17 06:45:35 | 妙正寺川4

 柏堰や車堰で分流し片山村の田用水となっていた右岸流は、下掲「大正10年第二回修正」では(元の)下田橋で本流に戻っていますが、さらに下流に向かい哲学堂の対岸の田圃を灌漑する一流もありました。それが次の「昭和4年第三回修正」では、哲学堂の対岸は「遊楽園」となっていて、プールや池のようなものも描かれています。大正12年(1923年)に開園、50mプールなどプール三面を有し、舟遊びや釣りもできる施設でした。オリンピック選手も練習したようですが、ただ、泳げば底の土が舞い、時々休憩が必要だったといいます。水の汚染に伴い昭和4年(1929年)に閉鎖、跡地は永く写真関係の工業用地となっていましたが、平成に入り調節池を兼ねた妙正寺川公園に変貌しました。

 

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    ・  「陸地測量部発行の1/10000地形図(大正10年第二回修正) / 新井」 現行の流路をブルーで、中野通りをグレーで重ねています。同一場所、同一縮尺の「昭和4年第三回修正」は、 → こちらでどうぞ。

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    ・ 妙正寺川  下田橋から下流方向です。哲学堂公園は主に左手の段丘斜面を利用していますが、このあたりは右岸も公園の一部になっていて、哲学の庭と名付けられたコーナーです。

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    ・ 妙正寺川公園  かっての田圃の中心です。現在は調節池を兼ねていて、その規模は掘り下げ方式の第一調節池が3万立方メートル、地下方式の第二調節池が10万立方メートルです。

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    ・ 四村橋  田圃の南縁に沿った右岸流はここで妙正寺川に戻っていました。四村(しむら)の名は地図中破線で描かれた片山、江古田、葛ヶ谷、上高田四村の境とかかわります。

片山村用水2

2016-05-16 06:38:17 | 妙正寺川4

 前回UPの→ 「大正10年第二回修正」中、舌状台地東麓にあるのが北野神社、その前に描かれた水車に関し、「江古田今昔」(昭和59年 江古田地域センター)の中に、「江古田・片山の水車」という一文があります。「文化初年頃より北野神社の東側に妙正寺川の流れを引いて、柏堰という堰を築いたため、水量が多くなり、岩崎善左衛門氏が経営する水車ができた。」 「明治40年頃に出火して全焼した。・・・・大正初期には機械搗の精米所が方々に出来て、仕事が減少したので大正中期に取り壊された。」 柏堰は前回の用水を分岐した堰で、地図には描かれていませんが、北野神社の北側にもう一つ、車堰という堰がありました。その名の通り、こちらが水車の動力となりました。

 

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    ・ 妙正寺川  右岸段丘斜面にある北野神社が由来の天神橋から、下流の下田橋方向です。車堰が右手に用水を分岐し、天神前の水車の動力となっていました。

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    ・ 北野神社  「天満宮 北の方にあり、村の鎮守なり、本社は一間四方南向き、拝殿二間四方、前に鳥居をたつ」(「新編武蔵風土記稿」) この神社にも太田道灌の戦勝祈願の伝承が残されています。

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    ・ 下田橋  中野通りに架かる橋で、左手は哲学堂公園です。「大正10年第二回修正」当時の下田橋は、数十メートル上流にあり、そこで右岸流が本流に戻っていました。

 <江古田天然氷>  「江古田今昔」には、「江古田の天然氷について」の記事もあります。明治30年頃から大正の初めにかけて、片山の北側斜面と妙正寺川の水を利用、冬季に製造した天然氷を夏まで貯蔵、販売していました。添付の略地図によると、今より北側を流れる妙正寺川と舌状台地沿いの側流の間で製造していたようです。以下は同書の引用する「江古田のつれづれ」(昭和49年 堀野良之助)の抜粋です。「明治30年頃に、片山の北方に豊多摩製氷会社という天然氷の製造所が出来た。・・・・現在の江古田公園のある当りに、四方煉瓦積みの場所を作り、妙正寺川の清流を引入れて冬期に水を凍らせて天然氷を製造し、それを夏期に売出した。倉庫は片山天神裏に大谷石で約二十坪位の氷室を作り、中に氷を一尺五寸角位に切って積み重ね、おが屑を周囲に詰めて氷を保存してあった。」

 


片山村用水

2016-05-14 06:20:28 | 妙正寺川4

 「片山村は郡(多摩郡)の東界にあり、江戸日本橋より行程三里余、村の広さ東西五丁、南北四丁許、南は上高田村に接し、北は江古田村にとなり、西は下沼袋村に及び、東は豊島郡葛ケ谷村なり、民家は僅かに十六軒、北より東の方に居住す、土性は野土高低ある村なり」「川 村の北境を流るゝこと4町余、水元は井草村妙正寺より出、下沼袋村より村内に入、流末は上高田村に至る、用水には此水へ堰をかけて引分、所々の水田にそゝぎ、末は上高田村へ達す、村にかゝること三町許」(「新編武蔵風土記稿」) 

 

Katayat10

    ・  「陸地測量部発行の1/10000地形図(大正10年第二回修正) / 新井」 現行の流路をブルーで、新青梅街道と中野通りをグレーで重ねています。

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    ・ 妙正寺川  片山の舌状台地の最北端に当たります。本流は左手の青梅街道まで膨らみ、段丘沿いには前回最後の→ 写真付近にあった柏堰で分岐した用水が流れていました。

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    ・ 妙正寺川  江古田公園橋から振り返って、江古田川の合流地点を撮影しています。江古田川及びその合流地点の改修については、片山村用水の流末までたどった後、詳細します。

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    ・ 妙正寺川  江古田公園橋から下流方向で、奥は天神橋です。→ 右岸段丘は徐々に低くかつ後退し、本流と右岸流との間隔が広くなるところに、江古田公園が設けられています。