神田川 「まる歩き」 しちゃいます!!

ー神田川水系、支流はもちろん、旧水路、廃水路、全部 「まる歩き」ー

水窪川

2018-09-29 06:10:11 | 弦巻川・水窪川

 江戸川橋まで戻り、水窪川をさかのぼります。双子川の一方にもかかわらず、弦巻川に比べこちらのほうは、それほどポピュラーではありません。「江戸名所図会」もこの川を描くことはなく、「若葉の梢」も取り上げていません。上流部は雑司ヶ谷、巣鴨村などの農業用水、下流は音羽通り沿いの町屋の大下水で、近くに名所と呼ぶべきところもなかったからなのでしょう。そこで、弦巻川の地誌や古地図を当てにした記載から、一転、フィールドワーク中心のものになります。ただ幸いなことに、段差やクネリのある路地が、ほぼ途切れることなく続いていて、容易に流路をたどることが出来ます。

 

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    ・ 「東京近傍図 / 板橋駅」(参謀本部測量局 明治14年測量)及び「同 / 下谷区」(明治13年測量)を合成、その一部を加工したもので、本来の縮尺は1/20000、パソコン上では1/12000ほどです。オレンジ線は区境で、同細線は高田村当時の大字境です。 

 以下は「御府内備考」の東青柳町の記述の引用です。「川 幅九尺 右は町内東寄に而北より南え相流申候古来より何川と唱候哉相知不申細流に而水上は巣鴨村雑司ヶ谷村之内田場際より流出夫より当町え入音羽町裏通り江戸川え流出申候・・・・流末に而は鼠ヶ谷下水と唱候よしに御座候」 この鼠ヶ谷下水というのは、音羽通りの西側を流れる弦巻川をも含む呼称で、対岸の西青柳町のところには、「里俗弦巻川と申来る細流にて、・・・・流末にては鼠ヶ谷下水と相唱候由に御座候」とあり、また別の個所には「東西鼠谷下水」との表現もあります。

 

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    ・ 江戸川橋  やや下流から音羽通り方向です。大きな合流口は弦巻川代替の雑司ヶ谷幹線のもので、逆に水窪川代替の坂下幹線の→ 合流口は橋の上流にあります。

 いずれにしても、鼠ヶ谷下水は最下流の人工的な水路を指していて、上流の自然河川を含む全体の呼称ではありません。そこで、ここでは一定程度普及していて、豊島区立郷土資料館の「企画展図録」(2006年度第一回)でも採用している水窪川で統一しておきます。水窪(水久保)は水源にあたる「巣鴨村雑司ヶ谷村之内田場」を指し、巣鴨、雑司ヶ谷両村にまたがる小名として、「新編武蔵風土記稿」にも収録されています。明治に入り高田村大字雑司ヶ谷の小字に引き継がれましたが、巣鴨村の小字からは失われました。(流路途中の小公園に設けられた水窪川の碑は→ こちらでどうぞ。「昔ここに小さな川が流れていた。後世にこれを伝える。1986年」とあります。)

 


池袋村

2018-09-28 05:12:14 | 弦巻川・水窪川

 丸池までたどれば、弦巻川は終了のはずですが、→ 「東京近傍図」などを見ると、丸池のあった村境を越え、北西寄りの池袋村内に先端が描かれていて、どうやら、池袋村から丸池に流れ込む小川もあったようです。豊島区立郷土資料館発行の地図集に収録された、成立年代不詳の「池袋村絵図」には、そのうち、池袋村内の水路が書き込まれていて、板橋道(地図中では雑司谷道)と四面塔で分かれ、長崎村へと向かう道に架けられた橋が、その先端となっています。

 

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    ・ 「池袋村絵図」  東京都公文書館所蔵の村絵図をもとに、イラスト化したものです。例によって田用水や水田を強調、他は主要なものをピックアップしました。

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    ・ 西池袋公園  右手が低く谷筋になっています。正面奥を横断する通りが、「村絵図」にある四面塔から長崎村への道と重なり、そのあたりに先端の橋が架かっていたのでしょう。

 ところで、昨日UPの→ 元池袋史跡公園の一角には、「池袋地名ゆかりの池」の石碑が建っています。池袋の地名由来には諸説ありますが、丸池を由来とする根拠としては、やはり昨日引用した「遊歴雑記」の記述があります。ただ、丸池やその周辺の池ヶ谷(池谷戸)は、池袋村の鎮守、氷川神社のある本村とは反対側にあり、しかも、江戸時代の村にとっては死活問題の田用水でも、池袋村とは何のかかわりもありません。こうしたことから、その地名由来としては疑問符が付きます。一方、「新編武蔵風土記稿」は「池袋村は東北の方のみ水田あり、其辺地窪にして地形袋の如くなれば村名起りしならん」と書いていて、こちらのほうが本村に近く、田用水とのかかわりもあり正解のように思えます。

 

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    ・ 「地名ゆかりの池」石碑  傍らには「むかしこのあたりに多くの池があり、池袋の地名は、その池からおこったとも伝えられている」との解説プレートも展示されています。
 

 


字池谷戸

2018-09-27 06:02:04 | 弦巻川・水窪川

 西武池袋線、JR山手線を連続して越えると、丸池のある谷頭までもうすぐです。谷頭付近は池谷(いけやと)と呼ばれていました。「新編武蔵風土記稿」にも収録された雑司ヶ谷村の小名で、明治に入り同じく「風土記稿」に収録されている浅井原と共に、高田村大字雑司ヶ谷の小字、池谷戸浅井原に引き継がれました。「若葉の梢」(金子直徳 寛政10年 1797年)が「池ヶ谷と云、月の名所と云。雑司ヶ谷八景の其一。往古は水湧出で、雑司ヶ谷の田は皆此水にて仕付。清土の先迄、御嶽の下通田なりしが、水少く成て皆畑と成ぬ」と書いているのも、同じところと思われます。

 

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    ・ 「陸地測量部発行の1/10000地形図(明治42年測図) / 早稲田」  中央を横断している「-・-・」線が池袋村(地図当時は巣鴨村)との境で、丸池は村境に隣接していました。

 以下は丸池の様子を描いた江戸後半から明治初めの地誌類の抜粋です。「五十年斗むかし、ワたり半丁斗なる池にて水清らかに湧出セし泉なりしか、段々かけ入りいまワつかに成てそふしかやの田ハ此水にて作りし、今ハかれて池の形のミ」(「雑司谷里の諺」 金子直徳 成立年不詳) 「当村を池袋と号けし事は、往古夥しき池ありしによって也、中古より段々埋まりしかど、今もなお三百余坪もあらんや。此の池の西の果ては、池袋と雑司谷の境ひにありて、常に迸水湧出し流る、此池今は雑司谷村に属す」(「遊歴雑記」 十方庵敬順 文化11年 1814年) 「丸池と云、方五間余、村の西北にあり」(「新編武蔵風土記稿」 文政9年 1826年) 「本村の西に在り、東西六間南北五間周囲三十間」(「東京府村誌」 明治11年 1878年)

 

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    ・ 元池袋史跡公園  丸池周辺は昭和32年(1957年)、元池袋公園として整備されましたが、その後埋め立てられ、平成10年には、下水道工事の関係で東隣に移転、元池袋史跡公園として再スタートしました。  

 大正から昭和の初めにかけて、丸池の農業用水としての機能は失われ、周囲の宅地化によってその規模は縮小します。「丸池と称す、古は大池なりしよし、・・・・今は埋れて僅に十数坪許なるべし、此池より細流を出す、弦巻川これなり」(「北豊島郡誌」 大正7年 1918年) この時代、成蹊実務学校(現成蹊学園)のキャンパス内にあり、成蹊池と呼ばれていました。その成蹊実務学校も大正末には吉祥寺に移転し、「今は鉄道教習所の構内となり、石囲ひの水溜となって居るが、大正時代の初期までは付近の子供たちが水泳して居た」(高田町史」 昭和8年 1933年) この「石囲ひの水溜」は昭和2、30年代の写真でも確認できます。

 


字西谷戸

2018-09-26 05:45:03 | 弦巻川・水窪川

 → 「段彩陰影図」で見るように、西武池袋線沿いに合流する谷筋があります。高田村大字雑司ヶ谷当時、字西谷戸大門原だったところで、西谷戸は丸池のある池谷戸や昨日の中谷戸に対し、西にあるこの谷筋を指すのでしょう。豊島区立郷土資料館の「企画展図録」(2006年度第一回)に、今回の谷筋に湧水を集めた細流があり、洗い場が家ごとに決められていた等の記述が見られ、添付の地図に水路が書き込まれています。ただ、一次の地図類では未確認なため、いつもの青点線は書き込んでいません。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1. 合流地点は西武池袋線のガード下ですが、通りと重なるのはJR線を越えたここからです。 

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    2. 左カーブで右手に弧を描きます。通りの左手が低くなっていて、水路はそちらにあったのでしょう。 

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    3. 逆に右カーブで、このあたりが孤の頂点です。

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    4. 「企画展図録」には左手のワンブロックにも水路が描かれています。

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    5. 西武池袋線の踏切前の起点で、ここでも谷筋は確認できます。

中谷戸左岸

2018-09-25 06:36:44 | 弦巻川・水窪川

 → 「雑司ヶ谷村絵図」を見ると、板橋道前後は弦巻川流域中、最も田圃が広がっていたところです。この事情は「明治42年測図」でも変わりませんが、昭和に入るといち早く宅地化が進み、その後の弦巻川の暗渠化、下水道化を促しました。今回は田圃だった当時の名残を求め、その北縁に沿っていた通りをさかのぼってみます。なお、通り沿いに水路を描いた地図類は未見ですが、灌漑用水が設けられていた時期があったかもしれません。 

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。) 

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    ・ 「陸地測量部発行の1/10000地形図(明治42年測図) / 早稲田」  上掲地図と同一場所、同一縮尺です。暗渠直前の「昭和4年第四回修正」は→ こちらでどうぞ。

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    1. 左手は大正5年(1916年)にいち早く宅地造成され、高田第二小学校が開校したところです。

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    2. 明治通りを越えその先の路地に連続します。  

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    3. 左隣の弦巻通りと同様、左カーブの連続で北寄りに向きを変えます。

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    4. 西武池袋線の手前で、弦巻通りに合流するところまでです。

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2018-09-22 06:24:35 | 弦巻川・水窪川

 明治通りから左折で離れ、西武池袋線を越えるまでの区間です。その先はJR線に阻まれ痕跡は失われるので、弦巻通りをたどってきた最後になります。(もっとも、明治通りを越えてもなお弦巻通りなのかは不明です。) なお、この区間は明治に入り高田町大字雑司ヶ谷当時、字中谷戸見行島と呼ばれました。JR線を越えた谷頭付近の字は池谷戸浅井原、その西側は西谷戸大門原なので、弦巻川の形成する谷筋由来の一連の字名だと分かります。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1. → 「村絵図」を見ると、このあたりにも橋が架かっていたようですが、今は横切る通りもありません。 

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    2. 右カーブの連続で北に向きを転じます。 

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    3. 一つ北側の通りから、こちらにクランクでシフトする水路を描いている地図もあり、暗渠化の際、直線化したのでしょう。

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    4. 西武池袋線のガードを越えます。ここが弦巻川を代替する下水道第一雑司ヶ谷幹線の起点です 

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    5. JR線の手前で中断です。ここから水源の丸池まで、痕跡は残されていません。

弦巻通り6

2018-09-21 06:44:00 | 弦巻川・水窪川

 弦巻通りに戻り、→ 威光山法明寺の門前から再開します。西に百数十メートルで明治通りを越えます。池袋駅にかけての明治通りは、かっての板橋道と重なっており、→ 「雑司ヶ谷村絵図」にもある橋(卒塔婆橋)が架かっていました。以下は前回引用した「若葉の梢」の板橋道に関する記述の続です。「此先そとハ橋と云有。(堺)橋より本道を行ば三ッ辻。左の方に付て細道は長崎道、揚り屋敷、鼠山へ行。右のへ出、田の用水に付西北に行ば、四面塔とて高松ありしが野火にて枯ぬ。此東、鷹部や、中西の森見ゆ」 

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。) 

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    ・ 「陸地測量部発行の1/10000地形図(明治42年測図) / 早稲田」  上掲地図と同一場所、同一縮尺です。

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    1. 右写真は鬼子母神から門前に向かってのショットで、→ 「江戸名所図会」に描かれた直線道路そのままです。

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    2. 「いろはかるた」の→ 「で、法明寺門前に三つの橋が架かっていますが、うち最も上流の橋の架かっていたところです。  

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    3. 明治通り手前の卒塔婆橋の架かっていたところです。この先しばらく通りと紛れます。

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    4. 50mほどで明治通りから分かれ、あらためて西に向います。

鬼子母神

2018-09-20 05:59:37 | 弦巻川・水窪川

 雑司ヶ谷といえば、なんといっても鬼子母神(きしもじん)で、法明寺の飛び地境内に祀られています。縁起によると、本尊は永禄4年(1561年)、清土(せいど)の鬼子母神境内で掘り出され、法明寺内の一坊だった東陽坊(のちの大行院、現在は法明寺に合併)に納めらます。その後の変転を経て、当地に鬼子母神堂が建てられたのは天正6年(1578年)です。なお、現存の鬼子母神堂は、寛文4年(1664年)、前田利家の孫で安芸藩浅野家に嫁いだ自昌院が造立したもので、「雑司ヶ谷いろはかるた」の「」は、「利家の孫娘が建てた鬼子母神堂」となっています。

 

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    ・ 「江戸名所図会 / 法明寺 雑司谷鬼子母神堂」  「門前両側に酒肉店多し。飴をもて此地の産とし、川口屋と称するものを本元とす。其屋号を称ふるものいと多し」(図中の文字は活字に置き換えています。)

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    ・ 鬼子母神境内  毎月第三日曜日を中心にフリーマーケット「手作り市」が開催され、10月16~18日には御会式(おえしき)でにぎわいます。 

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    ・ 鬼子母神堂  寛文4年(1664年)建造の都指定有形文化財です。仏法に帰依し角を失くしたという意味で、点のない「鬼」の字が使われています。

 鬼子母神参道と分かれ境内の南縁に沿う道は板橋道と称される古道で、雑司ヶ谷、下高田村の境を画していました。→ 「下高田村絵図」の上部に描かれているものですが、その板橋道が鬼子母神境内から離れるところに(→ 写真)、境橋と呼ばれる橋が架かっていました。→ 「段彩陰影図」で、目白通りの北側から発し、明治通りを越えたところで、本流に合流している谷筋と関わるものです。「板橋道は、鬼子母神宮町と云、槻大門の入口の道西側に付入横町也。宮の脇より堺橋にかゝる手前、畑合の左に入、堀の内に通ため坂の畦道有。右は鬼子母神御垣より社地に入」(「若葉の梢」)

 


弦巻通り5

2018-09-19 06:34:29 | 弦巻川・水窪川

 弦巻通りに戻り、大鳥神社から鬼子母神前までのウォーク&ウォッチです。この区間の弦巻通りは、それらしい細かな蛇行も含め、元の流路とほとんど一致しています。暗渠化当時、周囲はすでに住宅が密集していたため、下流のような直線的な改修は不可能だったのでしょう。早くから宅地化したところのほうが、かえって元の流路を保っている、川探しではよくお目に掛るパターンです。なお、大鳥神社を過ぎて数十メートルで、「雑司ヶ谷いろはかるた」の→ 「にもある、鎌倉橋に差し掛かります。横切る道が鎌倉街道と目されることから、そう呼ばれている石橋ですが、鎌倉街道についての詳細は下記で改めて扱います。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1. 大鳥神社からは離れるこのあたりから、元の流路と通りはおおむね重なります。 

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    2. 細かな蛇行が始まります。鎌倉橋が架かっていたのは右写真の付近です。 

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    3. 引き続き蛇行をしたまま、東京音大前に差し掛かります。 

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    4. 音大前を過ぎたところで、左手奥に池を描いている地図もあります。なお、左折すると50mほどで鬼子母神です。

 <鎌倉街道>  「いろはかるた」の→ 「(南北に村を貫く鎌倉街道)には、鬼子母神のけやき並木からサンシャイン60前をかすめ、右折して明治通りへと入る鎌倉街道が描かれています。一方、この付近の鎌倉街道に関しては、「若葉の梢」に詳細な記述があります。「鎌倉街道は大門東裏通りにあり。・・・・是より北は蓮成寺の西脇に今以て谷道あり、氷柱(つらら)ヶ谷と云由。中程右の土手に井あり、名水の由。・・・・義経茶たての井とも云なるよし、此地の居人が談なりとぞ」  蓮成寺は今はありませんが、地図中、東京音大の右上が境内でした。

 


大鳥神社前

2018-09-18 06:33:06 | 弦巻川・水窪川

 都電荒川線の踏切を越えると大鳥神社前に出ます。大鳥神社は正徳2年(1712年)、鬼子母神境内に鷲明神として創建、疱瘡よけの神様として信仰されてきました。それが、明治初期の神仏分離時に雑司ヶ谷村鎮守として独立、明治20年(1887年)、現在地に遷座し今日に至っています。弦巻通りが開設されたのに伴い、通りに面して表門が新設されましたが、数年前に鎮座三百年祭の記念事業の一環として、荒川線に面して→ 大鳥居が建てられ表参道が整備されました。

 

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    ・ 大鳥神社  「高田町史」(昭和8年 1933年)に掲載されたもので、開設なった弦巻通り、築堤上の王子電車、左岸に広がる造成中の田圃、その奥の御嶽坂付近の段丘が写っています。

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    ・ 弦巻通り  荒川線の踏切を越え大鳥神社前に差し掛かったところです。上掲写真の中央から右手に向かってのショットということになります。

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    ・ 下水道施設記念碑  昭和6年(1931年)、当時の高田町によって着手された下水道施設の記念碑で、最後に「昭和七年九月、高田町長海老澤了之介」とあります。

 以下は「下水道施設記念碑」の本文です。「我高田町ハ近年非常ニ発展シ人口既ニ五萬ニ達セリ是ニ於テ公衆衛生ノ根本的解決トシテ下水道築造ノ業ヲ遂行スルハ當然ノ要務ニして又實ニ本町百年ノ大計ナルヲ認メ昭和四年六月之カ施設計畫ヲ立テ同五年一月以降實地調査ヲナシ十月ニ至リ總工費一百九十餘萬圓六箇年継続事業トシテ築造完成ス可キ成案ヲ得其十四日高田町会ニ於テ満物一致之ヲ可決セリ乃チ状ヲ具シテ官ニ申請セシニ同十二月二十九日高田町長ヲシテ本事業ヲ執行セシムル旨ノ内務省告示アリ且失業救済事業トシテ行フ可キ旨ヲ命セラレ翌年五月二十三日一切ノ認可許可ヲ完了セリ依テ同六月十七日起工ノ式ヲ挙げ爾来孜孜トシテ著著其工事ヲ進メツツアリ本事業ハ又實ニ本町道路網計晝ト相待チテ其一部ノ達成ヲ期シタリ即チ鶴巻道路日出道路根津道路等其主ナルモノトス以上ノ工事一切完成スルニ至ラハ本町民衆ノ福利ヲ増進スルコト寔ニ多大ナル可シ茲ニ市郡併合ニ方リ其梗概ヲ記シテ以テ永永ニ傳フト云フ」

 


弦巻通り4

2018-09-15 06:20:33 | 弦巻川・水窪川

 弦巻通りに戻り、元の流路と分かれた先から再開します。間もなく通りの周囲は商店街から住宅地へと移ります。かっては田圃だったところで、暗渠化、通りの開設に伴い宅地造成されました。その際、元の流路をショートカットしたため、直線と右左折が繰り返され、人工的な印象の残る区間になっています。なお、最後に大鳥神社前で都電荒川線を越えますが、同線は大正14年(1925年)に大塚・鬼子母神前間が開業、当時の営業母体は王子電気軌道で、都電になったのは第二次大戦中です。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1. 弦巻通りに戻ります。右写真は右手方向のショットで、元の流路は奥の通りとの間の低いところにありました。

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    2. 人工的に付け替えたことが一目瞭然な、直線的な区間が100m強続きます。   

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    3. 御嶽坂下です。通りはやや左手に折れますが、右折すると木村橋の架かっていたところです。

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    4. 再び直線的な区間が100m強続きます。このあたりから右手の元の流路にかけて、田圃が広がっていました。  

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    5. 都電荒川線を越えます。右写真は氷川神社前から左岸方向で、本来の谷筋は踏切より奥にあるのが分かります。

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2018-09-14 06:06:16 | 弦巻川・水窪川

 「弦巻川・水窪川」を最新の写真を元にリメイクします。神田川の左岸段丘は、江戸川橋を通る音羽通りによって、西側の目白台と東側の小日向台に二分されますが、その音羽通りの両側を南下、江戸川橋で神田川に合流するのが、弦巻川と水窪川です。この双子川のうち、まず西側の弦巻川を雑司ヶ谷、池袋村境までさかのぼり、次いで水窪川を巣鴨村までたどります。

*  *  *  *  *  *

 御嶽坂下で左岸段丘に沿った弦巻川ですが、すぐに左カーブで南下し、都電荒川線を越えるところでは、再び弦巻通りと一致します。もっとも、これは暗渠化工事直前の弦巻川の流路のことで、「明治42年測図」では、左岸段丘沿いの道と200m近く並行、弦巻通りと一致する個所も大鳥神社前になっています。次の「大正5年第一回修正」では、すでに暗渠化直前と同様の流路なので、大正14年(1925年)に大塚、鬼子母神間が開通した都電荒川線(当時は王子電車)とは、直接関係はなさそうです。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)  

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    ・ 「陸地測量部発行の1/10000地形図(明治42年測図) / 早稲田」  上掲地図と同一場所、同一縮尺です。「大正5年第一回修正」は→ こちらです。

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    1. 宝城寺を右手に見ながら御嶽坂下を西に向います。元の弦巻川は通りの左手を並行していました。

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    2. 「大正5年第一回修正」では、このあたりから左カーブで通りと離れています。

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    3. 都電荒川線に突き当たって中断します。 

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    4. 荒川線の先で再開しますが、「明治42年測図」ではこのあたりで左カーブです。

御嶽坂下

2018-09-13 06:08:05 | 弦巻川・水窪川

 弦巻川の流路と弦巻通りはおおむね一致しますが、左岸段丘に沿う御嶽坂下のところは、前後400mほどにわたって大きくずれています。他の個所と同様、蛇行部分をショートカットしたためです。なお、御嶽坂は→ 「雑司ヶ谷村絵図」で、護国寺方面から鬼子母神に向かう道が、弦巻川を越える手前の坂で、「新編武蔵風土記稿」にも、「御嶽坂 村の中程御嶽社前少しの坂なり」とあるように、御嶽社(「村絵図」では権現堂)の前にあることからのネーミングです。その坂下には→ 「にある木村橋が架かっていました。

 

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    ・ 「江戸名所図会 / 清立院 日観堂 請雨松 宝城寺」  「御嶽山清立院 護国寺の裏門より雑司ヶ谷鬼子母神へ行道の、右側小坂に傍てあり。御嶽をまつる故に此号あり」(「図中の文字は活字に置き換えています。) 

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    ・ 御嶽坂下  木村橋跡からのショットで、右手が御嶽坂、その奥が清立院、正面の坂の左手が「江戸名所図会」に「清立院の西の小坂を隔てゝあり」とある宝城寺です。  

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    ・ 御嶽坂下  中腹から見下ろしていて、木村橋の架かっていたのは坂下やや左手です。坂の左手の茂みには石橋供養塔が立ち、右手は清立院、その奥が宝城寺です。 

 以下は御嶽坂下の→ 石橋供養塔に関する「若葉の梢」の引用です。「御嶽の下、石橋あり。是を(木村)橋と云。その東に石碑あり。享保十八年、蓮光院日暢法界供養なれば石供養と見ゆ」(ただし、括弧内は「若葉の梢」の増補本である「若葉抄」によっています。) 上掲「図会」のほぼ中央、通行人の傍らに石碑らしいものが描かれており、この供養塔と思われます。なお、供養塔に刻まれた文字については→ こちらでどうぞ。向かって左側面には「當所石橋施主木村氏」と刻まれ、右側面の日付は享保18年(1733年)11月となっています。

 


弦巻通り3

2018-09-12 06:24:30 | 弦巻川・水窪川

 弦巻通りを西に向かっての続きで、途中から区境は左手に離れ、流路全体が豊島区に属するようになります。これまでのように、区境から元の流路を推測することはできませんが、そのかわり弦巻通り自体が、これまでの直線的なものから一変、微妙な蛇行の連続となり、元の流路とほとんど重なっているのだと推測できます。弦巻通りは蛇行しながら全体としては右カーブ、北寄りに向きを変えます。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1. 左手の体育館、右手の学生寮とも日本女子大関係の施設です。

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    2. 右カーブの先で左手に向かう区境と離れます。ここからは左右とも豊島区雑司ヶ谷です。   

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    3. 引き続き右カーブで北寄りに向きを変え、商店街(弦巻通り商友会)の間を抜けます。

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    4. 今度は左カーブと、水路跡らしい蛇行が残されている区間です。  

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    5. → 「にある南坂橋の架かっていたところです。ここから先、元の流路は通りから離れ、左岸段丘沿いに寄ります。

弦巻通り2

2018-09-11 06:55:51 | 弦巻川・水窪川

 弦巻通りを西に向かっての二回目です。弦巻川の暗渠化は、高田町下水事業の一貫として、昭和6年(1931年)に起工されました。途中、豊島区への編入によって、東京市に引き継がれ、昭和10年ころまでには完成しました。流路のほとんどは弦巻通りとなりましたが、蛇行個所の直線化によって、ズレが生じているところもあり、特に豊島、文京の区境に沿っているところは、流路がそのまま区境となって残っています。なお、弦巻川の流路は元々雑司ヶ谷村に属していましたが、右岸から清戸坂(清土坂)にかけて、延享3年(1746年)に町屋(雑司ヶ谷町)が起立、明治に入り小石川区に編入されたため、現在は左岸豊島区雑司が谷、右岸文京区目白台となっています。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1. 区境から弦巻通りに戻ります。坂上左手のマンションは菊池寛旧邸のあったところです。

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    2. これまで左手にあった区境(元の流路)が右手にシフト、その先で通りと重なります。  

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    3. → 「にある弦巻橋の架かっていたところです。不忍通りからワンブロックの水路の合流がありました。

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    4. 地名由来で僧都の主堂があったとされる神田久保は、左右から崖面の迫るこのあたりです。  

 <潭弦亭>  菊池寛旧邸付近には、旗本長田右兵衛督の抱え屋敷があり、潭弦亭(たんげんてい)と称して当時の文化人が集いました。「長田右兵衛督抱え屋敷は、音羽の滝より北四丁、清土町の北側にあり、則ち門を入て中に一室あり、・・・・潭弦亭と号く、是は此亭よりつるまき川の水源大滝を、居ながら眼下に見れば、斯名付しと見ゆ、此滝の幅壱間余、高さ凡弐間もあらん、・・・・」(「遊歴雑記」 十方庵敬順) 「流れ出るみなかみ清き土なれやつるまき川のたきのしらいと」(蜀山人太田南畝)