神田川 「まる歩き」 しちゃいます!!

ー神田川水系、支流はもちろん、旧水路、廃水路、全部 「まる歩き」ー

お茶の水

2019-11-19 05:36:12 | 平川・外堀4

 「御茶の水は聖堂の西にあり、按に今火消屋敷の南の方川が斜に折て里俗大曲と称せる辺なり、今は流の中に入しといふ」 「御府内備考」はさらに「江戸砂子」を引用して続けます。「この井名水にして御茶の水にめし上られしと、神田川ほり割の時淵になりて水際の形のみのこれり、享保十四年、江戸川洪水ののち川の幅を広められしかば、おのづから川のうちへ入て今は名のみのこれり」 なお「淵になりて水際の形のみのこれり」のところは分かりにくいですが、元の「江戸砂子」では「川のふちになりて水際にかたちのこる」となっています。

 

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    ・ 神田川  お茶の水橋から振り返っての撮影です。右手の順天堂病院のところに定火消の組屋敷があったので、その前の(逆)S字カーブが大曲ということになります。

 「御府内備考」の続きです。「按に駒込高林寺の記に、彼寺慶長九年元神田より御茶の水に移さる、・・・・その後屋敷内御堀と成り清水湧出しかば、台徳院殿(二代秀忠)大猷院殿(三代家光)の御茶の水に仰付られ、井の鎰(かぎ)をも寺に預け置せられ、御茶水桶に丸の内龍の字鉄印を附たり、故に御茶水の高林寺と称せり、その後明暦三年焼失し、同き四月廿日今の所へ転地ありて、旧地は藤堂大学に賜ひしとなり」 明暦の大火前後の作成とされる「明暦江戸大絵図」では、高林寺跡地と思われる個所に「藤堂大学屋敷」と貼り紙の訂正があり、その前の川辺には二ヶ所の井戸とともに「御茶の水」の書き込みがあります。 

 

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    ・ 「お茶の水」の石碑  お茶の水橋の南にある交番の裏にあり、手前の石板には冒頭で引用した「江戸砂子」の一節が記載されています。

 ところで、神田川の開削によって神田山から切り離された先端が駿河台です。前々回引用した「台徳院殿御実記」の中に、「駿府より参り仕る輩」というのがありましたが、彼ら家康付の旗本(駿河衆)は主君の死後駿河から戻り、富士山を望むこの高台に居を構えました。これが駿河台の名前の由来といわれています。→ 「神田・玉川上水給水範囲」に見るように、神田上水の給水範囲から外れますが、当地に屋敷を構えた旗本たちは自前の井戸を持っていたと思われます。お茶の水自体は神田川拡張によってなくなりますが、「お茶の水物語」(1960年 五味碧水)によれば、神田川の岸辺からは先の大戦後も湧水が見られたそうで、こうした地下水脈が水源となっていたのでしょう。