神田川 「まる歩き」 しちゃいます!!

ー神田川水系、支流はもちろん、旧水路、廃水路、全部 「まる歩き」ー

四村橋

2016-06-24 06:09:22 | 妙正寺川4

 哲学堂公園を流れ出る妙正寺川に架かるのが四村(しむら)橋です。ここまで左岸江古田、右岸片山の村境だった妙正寺川ですが、この先、左岸葛ヶ谷、右岸上高田の村境となり、四村の接するところに架かる橋の意で名づけられました。文化3年(1806年)の「上高田村片山村絵図」(「堀江家文書」 首都大学東京蔵) には、両村の境に架かる橋に「四村橋」と書き込まれています。また、「豊多摩郡誌」にも規模は不明ながら石橋として記載されています。

 

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    ・ 「陸地測量部発行の1/10000地形図(明治42年測図) / 新井」  中野、新宿の区境をオレンジで重ねました。破線で書き込まれた当時の野方、落合の村境とほぼ同じです。

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    ・ 四村橋  奥は左岸にある西落合公園野球場です。新宿区西落合(1~4丁目)はかっての葛ヶ谷村が上下落合村と合併し、落合村の西三分の一となった名残の地名です。

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    ・ 妙正寺川  四村橋から上流方向を振り返っています。右手は左岸段丘(和田山)にある哲学堂公園、左手はかっての片山田圃に設けられた妙正寺川公園です。

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    ・ 四村橋  右岸方向のショットです。上落合村の飛地が右岸にあったために、現在でも奥行き200mほどが新宿区に属しています。

哲学堂

2016-06-23 06:05:17 | 妙正寺川4

 下田橋から四村橋にかけての妙正寺川は、哲学堂公園(一部妙正寺川公園)の間を流れます。この付近の左岸段丘は江古田村に属し、和田山とも呼ばれていました。源氏の武将、和田義盛の館があったとの伝承もありますが、地形のくねっている意の「わだ(曲)」が元で、伝承はのちに付会されたものと思われます。それはともかく、和田山の南側斜面の起伏を利用した哲学堂は、哲学館(東洋大学の前身)の設立者、井上円了(1858-1919)がその独自の哲学宗教観に基づき、社会教育を目指して私財を投じて完成したものです。彼の死後東京都に寄贈され、昭和21年(1946年)公園として公開されました。現在は中野区立の哲学堂公園となっています。

 

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    ・  哲学堂公園  奥にある富士橋のあたりは、左岸段丘が最も迫っているところです。大堰で分岐し下田田圃を灌漑する左岸流は、その手前で余水を本流に戻していました。

 和田山の南側段丘斜面の起伏を利用した庭園や建物には、井上哲学を具現すべく様々なネーミングが施されています。左右に仁王ならぬ天狗と幽霊が控える→ 「哲理門(妖怪門)」をくぐると、「時空岡」(じくうこう)と呼ばれる台上に出ます。 そこには「四聖堂」及び「六賢臺」が建ち、前者は孔子と釈迦、ソクラテスとカントを東西の四哲人として祀り、後者は東洋の六賢人として、日本の聖徳太子、菅原道真、中国の荘子、朱子、印度の龍樹、迦毘羅を祀っています。うち「四聖堂」は哲学堂の中心的な建物で、明治37年(1904年)いち早く完成しました。当初はこの建物が哲学堂で、同42年に「哲理門」や「六賢臺」などが完成し、全体が哲学堂と呼ばれるようになったものです。

 

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    ・ 「時空岡」  上掲写真の富士橋の左手の台上です。手前の赤い建物が「六賢臺」、奥が「四聖堂」です。「四聖堂」の前には創設者、井上円了の解説も展示されています。

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    ・  哲学堂公園  哲学堂公園の中では、最も下流の左岸にある菖蒲池です。創立時は構想のみで実現しなかった「須弥苑」をモチーフに、平成になって築造したものです。

下田橋

2016-06-22 06:15:48 | 妙正寺川4

 江古田川(中新井川)を水源までたどり終えたところで、妙正寺川本流に戻ってのウォーク&ウォッチを再開します。合流地点から二百数十メートル下流で中野通りを越えますが、そこに架かっているのが下田橋です。「豊多摩郡誌」には「下田橋 江古田地内里道 木橋 長七尺幅九尺」とありますが、中野通りの開通は昭和に入ってからなので、この下田橋はやや上流にあった旧道に架かっていたものです。なお、→ 「昭和12年第四回修正」では新旧下田橋が併存していますが、同時期の地図で新橋の方を境橋としているものもあります。

 

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    ・ 下田橋  やや上流の元の下田橋があったあたりからの撮影です。なお、下田は左岸一帯の通称地名で、江古田村の本村から見て下流にある田の意でしょう。

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    ・ 中野通り  下田橋の右岸側からのショットで、撮影地点あたりを右岸流が、下田橋と奥の新青梅街道の中程を左岸流が横切っていました。

 <野方配水塔>  哲学堂公園の北、蓮華寺の東隣に野方配水塔があります。昭和5年(1930年)に荒玉水道野方給水場の配水タンクとして完成したもので、直径18~16.4m、高さ33.6m、総貯水量3500トン、60万人に2時間の給水が出来るように設計され、昭和41年まで使用されていました。その後災害用給水槽となっていた時期もありますが、現在は国の有形文化財として登録、保全されています。なお、上掲写真の中野通りの正面奥に配水塔が写っていますが、元々この区間は、荒玉水道道路から野方給水塔に向う水道管埋設に伴い、片山の台地を開削して新設されたものです。

 

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    ・ 野方配水塔  野方給水所跡地は公園、幼稚園の用地となっています。写真は東にある幼稚園側からの撮影で、空襲時に受けた弾丸跡があるそうです。公園側からの写真は→ こちらです。

学田公園2

2016-06-21 07:11:31 | 妙正寺川4

 中新井川(江古田川)は水源である中新井池で、千川上水の助水を得ていましたが、かかわる分水は→ 「東京近傍図」に描かれているように、中村分水と中新井分水の二本です。うち中村分水は明治11年(1878年)の「星野家文書」の数字で、9町4反歩の水田を灌漑したあとの余水なので、メインは中新井村分水のうちの上新街分ということになります。こちらは途中の水田の灌漑が主目的でないため、最短距離となる真北に分水口を設け、ほぼ直線で中新井池まで南下していました。なお、同じ「星野家文書」によると、中新井村は11町六畝歩の水田を千川分水に依存しています。

 

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    ・ 「昭和22年米軍撮影の空中写真」  学田公園を緑の枠で囲んでいます。

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    ・ 学田公園前  公園の西縁に沿う水路跡の道路です。上掲「空中写真」のほぼ中央で、左手から中村分水の余水が合流しているところです。

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    ・ 中村分水   詳細は→ 「千川用水4 / 中村分水」以下でどうぞ。なお、練馬区のホームページ内「写真で見る練馬の今昔」に、昭和38年ころの写真が掲載されています。

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学田公園

2016-06-20 06:51:01 | 妙正寺川4

 中新井川の水源は現学田公園にあった池や周囲の湧水でした。享保10年(1725年)の「江古田村鑑帳」に「当村川 水上西ハ中荒井村池より、東ハ落合川江流申候」とあるのがそれで、大きさは文政6年(1823年)の「地誌調置写」では、「溜池 東西三十間 南北百五十間」となっています。享保ころにはすでに、千川上水の助水を得ていましたが、「竹戸樋」による助水の占める役割はそれほどではなかったのでしょう。それが、明和8年(1771年)の「江古田村鑑帳」では、「此村用水ハ豊嶋郡中荒井村溜池より落水引申候得共旱損仕候」と書かれ、湧水の減少と千川用水への依存の増大を示唆する書き方になっています。

 

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    ・ 学田公園前  前回最後の学田公園南交差点から100m強のところで、学田公園の西縁に沿って北上する水路跡の道路です。左手は練馬区立中村南スポーツ交流センターです。

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    ・ 左岸流跡  前々回UPの→ 「昭和4年第三修正」では、学田公園の東南角から流れ出す左岸流が描かれていますが、ほぼこの道路と重なります。左手奥の茂みが学田公園です。

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    ・ 学田公園  その東南角からの撮影です。昭和10年代の土地区画整理事業に伴い開園されたもので、現在は野球場一面を中心に10000㎡強の面積を有しています。

 <学田の由来>  明治に入ると池は涸れ、茅や葦の茂る沼地となっていたことは、鎮守の屋根葺きに使用するので茅や葦をみだりに刈ってはならない旨の、「江古田村御用留」に収録された通達や、→ 「東京近傍図」の描き方からも推測できます。明治18年(1885年)には、この低湿地を学田とするプロジェクトが企画されます。官有沼地3町5反余を借り受けて水田を拓き、設立間もない豊玉小学校の維持費を捻出しようというものです。水源を確保するための溜池建設などを条件に認可され、明治20年から開墾に着手、同24年には開墾された水田2町3反余が学校財産として払下げられました。(引用が当事者の中新井村ではなく隣村江古田村に偏在していることは、かねてから疑問でしたが、中新井村の近世資料が散逸するといった事情があったようです。)

 


中新井川児童遊園

2016-06-18 06:32:04 | 妙正寺川4

 中新井川緑道は、学田橋の架かっていた学田橋交差点で終了、そこから先はやや幅広の中新井川児童遊園です。中新井川が大きく左カーブ、南から東に向きを変えていたいたところで、→ 「東京近傍図」では沼地から流れ出す二流が描かれ、前回の→ 「昭和4年第三回修正」には、カーブのところに溜池と思われる池があります。明治に入り中新井村大字中新井当時、このあたりの小字は池下ですが、この沼地ないし溜池の下流の意と思われます。

 

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    ・ 中新井川児童遊園  半ばで右カーブするところです。 → カーブの右手には都営住宅やマンションが建っていますが、昭和30年代から最近まで、自動車教習所がありました。

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    ・ 中新井川児童遊園  カーブを抜け北上します。同遊園は昭和46年(1971年)の中新井川の暗渠化に伴い、翌年に開園しました。延長200mほどの細長い公園で、面積は2000㎡強です。

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    ・ 学田公園南交差点  中新井川児童遊園の北で、氷川神社から下徳田橋へと向かうバス通りと交差します。学田公園まで100m強のところです。

 <「古老聞書」>  練馬区教育委員会の「古老聞書」(昭和61年改訂)の中に、区画整理以前のこのあたりの様子の記述があります。「今の豊玉南小学校の前の道路から中野寄りの方は水田であった。自動車教習所のところは沼地で、そこへ北の方から千川上水を分水して流し、氷川神社の前から徳田の方に用水路を配していた。これらの用水が南側の水田に流れ、そして排水されたものが中新井川(現在暗渠になり、グリーンベルトのある道路)に流れ込んでいた。」 千川上水の助水を溜池から左岸流に流し、南にあるる田圃を灌漑、その余水が右岸流(中新井川)となっていたということで、徳殿公園のところでUPした→ 「昭和4年第三回修正」には、右岸流が途中から描かれていますが、こうした事情を反映しているのでしょう。

 


西本村橋、学田橋

2016-06-17 06:04:17 | 妙正寺川4

 中新井川緑道に戻ります。環七通りの先に架かっていたのが西本村橋、その次の橋が学田橋です。どちらも、北側を通る路線バスのバス停にその名を残しています。なお、武蔵学園記念室「千川上水 歴史・写真・探訪」は昭和38年頃の西本村橋の写真と共に、「環状七号線の橋上より西本村橋を望む。明治の頃、不動滝の橋と呼ばれた石橋であった」と「練馬区の昭和史」(写真集 1990年)を引用しています。区画整理の前後で流路も道筋を大きく異なっていますが、おそらく不動滝の橋は下掲「昭和4年第三回修正」で、環七通りの西を通る道に架かっていたのでしょう。

 

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    ・ 「陸地測量部発行の1/10000地形図(昭和4年第三回修正) / 新井」と「同 / 荻窪」を合成したものです。中新井川児童遊園や学田公園などを緑で、練馬、中野の区境をオレンジで重ねています。

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    ・ 中新井川緑道  環七通りを越えても中新井川緑道は続きます。通りからワンブロック、数十メートルのところに西本村橋が架かっていました。

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    ・ 旧学田橋  練馬区のホームページ内に「写真で見る練馬の今昔」というコーナーがあり、そこには昭和38年ころの、未だ田園に囲まれた学田橋の写真が掲載されています。

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    ・ 中新井川児童遊園  学田橋の先は流路幅の中新井緑道より幅広の中新井川児童遊園です。すぐに右カーブで北に向きを転じ、終点である学田公園を目指します。

三の橋庚申

2016-06-16 06:19:45 | 妙正寺川4

 庚申通りと並行して流れ、中新井川に合流していた水路を追っています。「みどりと水の練馬」(平成元年 練馬区土木部公園緑地課)に、「練馬郵便局南側にあった池からの小流れが、三の橋をくぐり、豊玉中3丁目付近で当分水に合流していた」とあるように、湧水池を水源とする小支流があり、そこに前回の水車分水が合流していました。なお、引用文中の三の橋のたもとには庚申塔があり、三の橋庚申と通称されました。これが豊玉庚申通りの名前の由来となったのでしょう。現存するのは新しいものですが、正覚院境内にある「年癸卯(享保8年か)11月」の庚申塔が元の三の橋庚申と伝えられています。

 

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    ・ 豊玉庚申通り  前回の豊玉中2交差点の一つ北の三叉路です。左手に折れるとすぐ右カーブしますが、その左手に三の橋庚申を祀る小さなお堂があります。

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    ・ 三の橋庚申  右面に「父之碑 子之碑」、左面に「豊玉住人 より合う人々建之 昭和四十一年九月吉日」と刻まれています。正覚院に移転した旧三の橋庚申は→ こちらでどうぞ

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    ・ 谷筋の底の通り  三の橋庚申から北に向かう通りが谷筋の底に位置しています。ただ、こちらの水路を明記した地図類は未見で、この通りと並行していたかは断定できません。

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    ・ 練馬郵便局前  上掲写真の通りを二百数十メートル北に向かったところです。奥が練馬郵便局なので、このあたりに水源の池があったのでしょう。

矢島水車分水

2016-06-15 06:14:09 | 妙正寺川4

 前回引用した「みどりと水の練馬」(平成元年 練馬区土木部公園緑地課)に、「(千川上水の分水が)豊玉上2-27付近にあった水車にかかっていた。この分水途中から南に流れ、中新井川に通じる」とありますが、この水車名から仮に矢島水車分水と名付けた水路を、豊玉庚申通りの合流地点からさかのぼります。なお、→ 「千川用水4 / 矢島水車」では、今回の水路に関し、「昭和一ケタに着手された、環七や環七から練馬駅に向かう道路(都道442号)によって、中新井の他の分水に比べ痕跡はほとんど失われ、今日たどることは困難です」と書きましたが、その後入手した詳細図によって、区画整理後に排水路となったものをある程度たどることが可能になりました。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1. 環七通りから分かれて450mほどのところです。豊玉庚申通り商栄会という商店街の入口です。

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    2. 豊中通りとの豊玉中3交差点です。矢島水車分水を追って、ここで右折します。

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    3. ワンブロックで左折します。道路幅に変化はなく見た目にはわかりませんが、左折前後の道路左手を並行していました。

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    4. 130mほど北上したところで、右手に車止めの路地があります。水路中唯一の痕跡です。

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    5. 「水路敷き」と明記された路地ですが、ワンブロックで終了です。地図でもここまでしかなく、水車分水の全体像は不明です。

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2016-06-14 06:27:53 | 妙正寺川4

 → 「段彩陰影図」に見られる、環七通り付近で左岸から合流する谷筋に関し、「みどりと水の練馬」(平成元年 練馬区土木部公園緑地課)を引用します。「文献上は不明。千川上水は西方にあった筋違橋から道路北側に移るが、その分水がそのまま千川通り南側を東に流れ、豊玉上2-27付近にあった水車にかかっていた。この分水途中から南に流れ、中新井川に通じる。さらに練馬郵便局南側にあった池からの小流れが、三の橋をくぐり、豊玉中3丁目付近で当分水に合流していた。現在地中埋没。」 

 

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    ・ 「陸地測量部発行の1/10000地形図(明治42年測図) / 新井」  中新井川緑道を緑で環七通り及び都道442号(この付近の通称豊玉庚申通り)をグレーで重ねています。

 水路こそ記されていませんが、氷川神社の西側を北上する谷筋に沿って水田が描かれており、千川上水の助水があったればこそと思われます。それが、「昭和4年第三回修正」では、水田は荒地と化しており、この頃までに助水は停止になっていたのでしょう。なお、次の「昭和12年第四回修正」は江古田川の改修と共に、用地確保中の環七通りや開通した豊玉庚申通りも描いていて、現況とほとんど変わりません。

 

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    ・ 環七通り  中新井川緑道は環七通りを越えます。交差点はなく右手の豊玉南歩道橋が越えるための唯一の手段です。歩道橋を下りたところが、豊玉庚申通りの起点になっており、今回の水路の合流地点でもあります。

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    ・ 豊玉庚申通り  この通りが開通した際、水路はその右手(東側)を600m弱並行するよう付替えられました。なお近くのバス停西本村橋は、中新井川に架かっていた橋名の名残です。

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2016-06-13 06:57:29 | 妙正寺川4

 中新井川緑道に戻り、すぐに豊玉南小学校前に差し掛かります。→ 「東京近傍図」で、左岸流が氷川神社前を流れていますが、現在の地図に当てはめると、豊玉南小のキャンパスを横切っていたことになります。昭和10年代初めの区画整理以前は、この付近が中新井村の水田の中心だったところです。ちなみに、正保年間(1645~48年)の記録によると、村高135石のうち田79石余、畑55石余と、周辺の各村に比して珍しく田中心で、中新井川流域の水田開発から出発した村だったことがうかがえます。

 

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    ・ 中新井川緑道  前回の水路の合流点から60mほどのところです。右手が昭和36年(1961年)開校の→ 豊玉南小学校、その裏が氷川神社や正覚院のある左岸段丘です。

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    ・ 氷川神社  旧中新井村の鎮守で、社伝によると当初は北野神社(天満宮)、ついで須佐之男命を祀る須賀神社(牛頭天王)だったそうで、牛頭天王から改称した江古田氷川神社ともども、興味のある経過です。 

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    ・ 天満山正覚院  氷川神社の別当だったお寺で、東隣に並んでいます。太田道灌が天満宮別当として創建との伝承があり、氷川神社が北野神社だったとの伝承と符合します。

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    ・ 中新井川緑道  環七通りの手前です。→ 「段彩陰影図」では、環七通り付近でもう一つの谷筋が合流していますが、その谷筋にかかわる水路が次回のテーマです。  

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2016-06-11 06:55:35 | 妙正寺川4

 環七通り手前の左岸段丘斜面上には、中新井村鎮守の氷川神社やその別当だった正覚院が並んでいます。その周辺が中新井村で最初に開拓された本村(ほんむら)です。→ 「段彩陰影図」で、先端を環七通りに切り取られた舌状台地の周辺で、その舌状台地の左右に食い込む浅い谷筋には、どちらにも小支流が流れていました。そのうち東側のものの合流地点が徳殿公園の先にあり、途中豊玉中キャンパスの中断を挟んで、環七通りまでたどることができます。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1. 徳殿公園の次のブロックの中新井川緑道で、右手から合流する路地をさかのぼります。

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    2. 40mほどで最初に交差する道路が、おおむね改修前の左岸流と重なります。

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    3. 豊玉中学のキャンパスに突き当たって中断します。同校の開校は戦後間もなくです。

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    4. 豊玉中学の北側にある正門前で再開します。右写真は東側からのショットで、浅い谷筋が分かります。

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    5. 右カーブのあと突き当りを左折します。なお、水路はこの道路の右手を並行していました。

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    6. 環七通りに突き当たりますが、右写真のように谷筋は通りを越えています。ただ、水路の先端は特定できません。

徳殿公園

2016-06-10 06:59:41 | 妙正寺川4

 中新井川緑道を西に向います。中新井橋からツーブロック、二百数十メートルの左手に徳殿公園があります。徳田は「新編武蔵風土記稿」では中荒井村の小名となっていますが、江古田村にも同様の字があり、江古田川を挟んで両村にまたがっていたようです。徳田(徳殿)は「得田」で、検地帳に記載されなかったため、年貢を免れ得をした田んぼの意です。ただ得田では余りに露骨なので徳田、あるいは徳殿と表記され、いつしか字名にまでなったと解されています。

 

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    ・ 「陸地測量部発行の1/10000地形図(昭和4年第三回修正) / 新井」  徳殿公園や中新井川緑道などを緑で、練馬、中野の区境をオレンジで重ねています。

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    ・ 中新井川緑道  徳殿公園に差し掛かる中新井川緑道です。一見、幹線道路の中央分離帯のようですが、それにしては交通量はごく少なく、歴史的経緯を知らなければ意味不明な空間です。

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    ・ 徳殿公園  中新井や江古田地区の区画整理事業は、一定割合の土地を公園として提供しましたが、この公園もそうなのでしょう、長方形のブロックにピッタリ収まっています。

  <中新井第二土地区画整理事業>  徳殿公園内には昭和16年5月の日付のある→ 「區劃整理碑」があります。同事業は昭和9年(1934年)、中新井町4丁目(現豊玉南1~3丁目)を中心とする22万8千余坪を対象に開始され、のち対岸の江古田4丁目(現同)の4万5千坪も加わり、昭和16年に完了しました。同じころ中新井第一、第三区域も完了したのに合わせ、中新井町は豊玉と改名しました。豊玉(とよたま)は北豊島郡と東多摩郡の合成で、学区が両郡にまたがっていた豊玉(ほうぎょく)小学校の、読みを変えて地名としたものです。

 


下徳田橋

2016-06-09 07:04:44 | 妙正寺川4

 江古田川は下徳田橋から先は暗渠となり、地上は中新井川緑道や中新井川児童遊園となっています。暗渠化は昭和46年(1971年)ですが、昭和10年代の土地区画整理事業によって、直線かつ単線化の改修を経ている区間です。改修以前は→ 「東京近傍図」をはじめとする地形図が、二本の並行する水路が下徳田橋で合流する様子を描いています。普通はそのどちらかをベースに改修するものですが、中新井川の場合、右岸流をなぞった下徳田橋付近以外は、旧流路を無視して定規で測ったようになっています。

 

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    ・ 「陸地測量部発行の1/10000地形図(昭和12年第四回修正) / 新井」  前回UPした→ 「昭和4年第三回修正」と同一場所、同一縮尺で、両者を比較すると区画整理前後の様子が見て取れます。

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    ・ 下徳田橋  暗渠となっている上流方向です。徳田は徳殿との表記もあり、ここから先の中新井川(江古田川)の流域にあって、中新井、江古田両村にまたがる字でした。

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    ・ 下徳田橋  左岸方向です。左岸流はこの道の奥、80mほどのところを左手から右手に横切っていたことになります。そこには上徳田(徳殿)橋が架かっていました。

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    ・ 旧中新井橋  「ここから練馬区」の標識があり、練馬区所轄の中新井川緑道が始まります。中新井橋は暗渠化区間では最後まで残っていた橋で、昭和50年代後半に廃橋となりました。

左岸の用水3

2016-06-08 06:31:49 | 妙正寺川4

 豊中橋で合流していた左岸の用水をさかのぼり、南に向かっています。→ 「東京近傍図」でもそうなっていますが、中新井村の江古田川(中新井川)は大きく二流あり、小石川道から分岐した道に架かる下徳田橋のところで合流していました。目下追っているのは左岸流の合流後の余水で、そのまま北上していたものです。なお、合流地点に架かる下徳田橋に対し、左岸流には上徳田橋が架かっていましたが、区画整理で左岸流と共に失われました。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    ・ 「陸地測量部発行の1/10000地形図(昭和4年第三回修正) / 新井」  上掲地図と同一場所、同一縮尺です。

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    1. 小石川道から分岐した道に差し掛かります。ここに上徳田橋が架かっていました。右写真は下徳田橋方向です。

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    2. 下徳田橋交差点で、現在は六差路になっています。ここで左右の側流は合流していました。

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    3. 左岸流とおおむね重なる通りをさかのぼります。右カーブで西に向きを転じるところです。 

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    4. 通りはあとワンブロックありますが、左岸流と重なるのはこのあたりまでです。