神田川 「まる歩き」 しちゃいます!!

ー神田川水系、支流はもちろん、旧水路、廃水路、全部 「まる歩き」ー

成子町境

2018-12-06 05:56:25 | 蟹川

 → 「東大久保村絵図」の描く蟹川のもう一つの谷頭、成子境は、現在の歌舞伎町1丁目から2丁目にかけての低湿地でした。「豊多摩郡誌」が「淀橋町大字柏木字成子北側、同町大字角筈字矢場及び東大久保字角筈裏の三字界の辺にも溜井ありて、清水噴出し」と書いているのがそれです。下掲「明治42年測図」の谷頭にある丸い池や、その下にある楕円のものも、周辺に田圃が残っており、農業用の溜井かもしれません。

 

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    ・ 「陸地測量部発行の1/10000地形図(明治42年測図) / 中野」と「同 / 四谷」を合成したもので、JR線、西武線の線路、区役所通りなどをグレーで重ねています。

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    ・ 西武新宿駅  前回最後の→ 写真の通りは、西武新宿駅に突き当たって終了ですが、→ 「東京近傍図」を見ると、谷頭ははさらに奥のJR線の下にあったようです。 

 「明治42年測図」には、谷頭の丸いのを始め大小幾つもの池が描かれています。うち最大のものは大村伯爵(旧肥前大村藩主)の屋敷にあり、浮島を持つ大きな沼とその周辺は、「大村の森」と呼ばれるカモ猟のスポットでした。「大村の森」はその後宅地造成され、第二次大戦末の戦災を経て現在の繁華街へと変貌します。戦後の復興計画では、メインとされた歌舞伎劇場誘致はとん挫しますが、その時名付けた歌舞伎町という名前だけは残りました。

 

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    ・ 歌舞伎町弁財天  台座に記された由来によると、淀橋浄水場建設の残土で大村邸の池は埋たてられました。不忍池弁財天を勧請したのはその後の、大正2年(1913年)のことです。

文化センター通り3

2018-12-05 06:45:11 | 蟹川

 文化センター通りを西に向い、明治通りを越えたところから区役所通りの先までです。→ 「東大久保村絵図」で、西大久保村と成子町に挟まれ細長い流域のところですが、明治に入り大字東大久保字新田裏となりました。「新修新宿区町名誌」(平成22年 新宿歴史博物館)は、新田は前田圃のことを指、西向天神から見てその裏(西側)の意だろうと推測しています。なお、途中左カーブして靖国通りに向かう線路敷と分かれますが、都電が昭和45年(1970年)に廃止されたあと、文化センター通り・靖国通り間の250mほどが、「四季の路」と称される遊歩道となりました。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1. 明治通りを越えた先です。これまでと変わらず、水路は都電の線路敷の右手を並行しています。 

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    2. 左手に向かう線路敷(「四季の路」)と分かれます。

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    3. 新宿の繁華街に入ってきました。かって田圃だったとは想像もできません。 

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    4. 区役所通りを越えます。右写真は右手からのショットで、谷筋がはっきり出ています。

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    5. 歌舞伎町1丁目と2丁目の境の、それらしい蛇行の跡を留める通りが続きます。

文化センター通り2

2018-12-04 06:24:25 | 蟹川

 文化センター通りに戻り、→ 「東大久保村絵図」で「自成子境」と書かれている、もう一つの流れをさかのぼります。こちらの流路は先端まで道路となっていて、迷うことはありません。なお、今回は明治通りまでですが、その手前から右手(左岸)は西大久保村になります。ただ、流域自体は引き続き東大久保村に属する田圃で、字は前田圃から新田裏にかわります。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。) 

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    ・ 「陸地測量部発行の1/10000地形図(明治42測図) / 四谷」  上掲地図と同一場所、同一縮尺です。

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    1. 文化センター前から再開します。「明治42年測図」にも断片が描かれていますが、左手から太宗寺の支流の一部が合流していました。 

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    2. このあたりの右手には、田圃の縁に沿って弧を描く左岸流もありました。

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    3. 左岸は西大久保村、流域は東大久保村字新田裏になります。  

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    4. 明治通りを越えます。右写真は→ 花園神社のある右岸からのショットです。

太宗寺の支流3

2018-12-03 06:37:09 | 蟹川

 太宗寺は慶長元年(1596年)頃、草庵「太宗庵」として草創され、一帯を屋敷地としていた内藤家の信仰を得ました。寛文8年(1668年)、同家より寺領の寄進を受けて起立、信州高遠藩に移封となったあとも、内藤家の菩提寺となっていました。以下は太宗寺門前に関する「御府内備考」の記述の一節です。「橋 長六尺程巾弐間 右は町内裏通り町屋松平志摩守様御下屋舗との往還下水ニ懸有之板橋ニて尾州様御屋舗より御懸替被成候」 松平志摩守は出雲母里藩主で、橋は靖国通りに架かっていました。近吾堂の「切絵図」(嘉永4年 1851年)には「朝日橋」とあります。(下掲地図にはいつもの青点線にかえて、明治20年「東京実測図」の水路を重ねました。)

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1. 出雲母里藩松平家下屋敷、明治に入り相場師で新宿将軍と呼ばれた浜野茂邸のあったところです。 

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    2. 靖国通りを越えます。左手奥の茂みは成覚寺のものです。右写真はかめわり坂と呼ばれる右岸からのショットです。 

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    3. 靖国通りに面した成覚寺山門です。境内は一段低いところにあり、水路はその裏を回り込んでいました。

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    4. 新宿公園前を横切ります。同公園は太宗寺の裏にあたり、その池は水源の一つとなっていました。

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    5. 太宗寺の東側の通りが水路の起点です。奥は甲州街道(新宿通り)との交差点、そのさらに奥は内藤家下屋敷のあった新宿御苑です。

太宗寺の支流2

2018-12-01 06:22:56 | 蟹川

 「蟹川」を最新の写真を元にリメイクします。蟹川(金川)は神田川の中流域の一支流で、旧大久保村から発し、尾張藩下屋敷(現戸山公園)をへて、早稲田で合流していました。江戸時代は農業用水や尾張屋敷の大泉水に利用され、流末は大下水となりました。昭和に入り農地の宅地化に伴い暗渠となり、自然河川としては消滅しました。当時の流路は文化センター通りなどに残されています。

*  *  *  *  *  *

 内藤新宿、太宗寺方面からの流れを追っての二回目です。前田圃から南に向かって150mほどで、東京医科大前を通る医大通りです。ここで旧東大久保村を離れ、江戸時代に武家地となっていた一角(番衆町)に差し掛かります。医大通りの先に池があり、水源の一つとなっていましたが、出雲母里藩松平家下屋敷のあったところで、明治に入り相場師で新宿将軍と呼ばれた浜野茂邸、のち箱根土地の遊園地「新宿園」を経て、昭和6年(1931年)に宅地造成されました。なお、3.から4.にかけての流路は、日本地形社の「1/3000測図」に描かれたもので、本来は直進していたのが浜野邸が宅地造成された際、付替えられたのでしょう。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。) 

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    ・ 「陸地測量部発行の1/10000地形図(明治42年測図) / 四谷」  上掲地図と同一場所、同一縮尺です。

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    1. 文化センター裏で前田圃を離れ南に向かいます。

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    2. ここはまだ旧東大久保村の範囲ですが、やはり武家地でした。

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    3. 医大通りに突き当たり右折します。右写真は右岸からのショットで、かなりの谷筋なのが分かります。 

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    4. 奥の突き当りを左折、直進して靖国通りまでです。なお、右折前後の道幅の変化に注目です。

太宗寺の支流

2018-11-30 06:55:43 | 蟹川

 → 「江戸名所図会」にも描かれた、西向天神下を流れる蟹川を追って、谷頭のある内藤新宿、太宗寺方面までのウォーク&ウォッチです。天神下から新宿中学前にかけては、道路となって残っていますが、途中、天神小学校の校庭で水路跡は途切れます。同校の創立は大正11年(1922年)で、前田圃と呼ばれる水田の一角を造成したため、前々回UPの→ 「大正5年第一回修正」で、その南縁から東縁を廻っていた水路も敷地に含まれてしまいました。なお、前田圃は天神前の田圃の意で、明治に入り大字東大久保の字となりました。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1. 西向天神下から始めます。右写真は天神から見下ろしています。 

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    2. 天神下を離れます。左手に上る階段の脇に見えるのが東大久保富士です。 

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    3. 左手新宿中と右手天神小の間を南に向かいます。 

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    4. 上りに差し掛かる手前で右折、天神小のキャンパスを横切ります。 

 <東大久保富士>  東大久保富士は天保13年(1842年)、西向天神の境内に築造されました。明治34年(1901年)に一時撤去ののち、大正14年(1925年)、現在の姿に再築されたものです。前回UPの「江戸名所図会」には、この東大久保富士が扱われていません。「図会」の刊行は遅くとも天保7年(1836年)なので、刊行当時は築造されていなかったことになります。また、「豊多摩郡誌」(大正5年)に、「昔は境内に浅間社あり、大久保の富士と称して隆盛なりしも、明治三十四年中撤去して今は無し」とあるのも、ちょうど撤去後再建前だったからです。

 


西向天神

2018-11-29 06:10:26 | 蟹川

 「大窪天満宮 大窪にあり、此地の鎮守とす、祭礼は六月廿五日なり。別当は梅松山大聖院と号して、聖護院宮の直末本山派の江戸役所にして、大先達たり。当社を世に棗(なつめ)の天神、或は西向の天神とも称せり。社壇西に向ふ故に云ふなるべし、棗と称する来由しるべからず」(「江戸名所図会」) 「豊多摩郡誌」には、「寛永の頃将軍(三代家光)当所へ御鷹野ありし時、社殿の破壊に及びたるを上覧ありて、金の棗(茶器)をたまはり、是を以て再興すべしと台命ありしに因る」とあります。なお、創建は古く、安貞3年(1229年)と伝えられています。

 

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    ・ 「江戸名所図会 / 大窪天満宮」  「社壇西に向ふ故に西向といひ又は棗の天神と称すれとも棗の来由しるへからす、境内すこぶる幽邃あり」 

 左下隅の鳥居は久左衛門坂下からの参道にあり、参道を進んだ右手には弁天池も描かれています。明治初めの地図では、100坪ほどのレモン型でしたが、その後埋め立てられたようで、昨日UPの→ 「大正5年第一回修正」では、宅地になっています。なお、池の西縁に沿って川が流れ、橋も架かっていますが、これは→ 「東大久保村絵図」にもあるように、当時本流と目されていた太宗寺方面からの流れのほうで、画面からは切れますが、田圃を挟んでさらに西側にはもう一本の川があったことになります。 

 

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    ・ 山吹坂下  「図会」左下の参道を進むと、青いフェンスで囲まれた(太田道潅伝説由来の)山吹坂下に出ます。右手は弁天池のあったブロックです。

 山吹坂の名前の由来ですが、太田道灌に山吹を差し出した伝説の娘、紅皿の墓と伝承される中世の→ 板碑が、大聖院境内にあることにちなんでいます。傍らにある新宿区教育委員会の解説プレートによると、中世の十三仏板碑と推定されているものです。それが紅皿の墓とされたのは、江戸時代も中期以降のことで、「新編武蔵風土記稿」にも「紅皿塚 塚は崩れて断碑のみあり、文字湮滅して読得ず、世俗に語伝ふる紅皿欠皿の旧蹟なりと云」と書かれています。紅皿欠皿というのは、器量、気立ての良い継子と、そうでない実子、継子いじめと高貴な求婚者の出現といった、シンデレラとも通ずる類型的な物語があり、これに山吹伝承が絡んで歌舞伎の演目ともなったようです。

 


文化センター通り

2018-11-28 06:26:56 | 蟹川

 西向天神前の蟹川の流路は、→ 「蟹川全図」に見るように、二つの谷頭からの合流が錯綜していました。それが、今日たどることのできるルートに単純化されたのは、蟹川の河川敷を利用して、大正の初めに都電(当時は市電)13系統の専用軌道が開通、それと並行するように付替えられたためでした。また、宅地化に伴い田用水は順次廃止され、道路と重なる一部を除いて痕跡は失われ、昭和に入ると本線も暗渠化されました。なお、13系統は昭和45年(1970年)に廃止されました。その軌道プラス暗渠は一般道路に転用され、今は文化センター通りと呼ばれています。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。) 

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    ・ 「陸地測量部発行の1/10000地形図(大正5年第一回修正) / 四谷」  上掲地図と同一場所、同一縮尺です。

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    1. 長く途絶えていた本流ですが、抜け弁天通りの先のビルの谷間の路地から再開します。 

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    2. すぐ右折して専用軌道跡と並行します。左手から天神下の水路も合流していましたが、重なる道路はありません。

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    3. 左折すると西向天神下に出ます。天神下の流れとの連絡水路がありました。  

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    4. 天神小学校前に差し掛かります。右写真の右手は前回の戸山幹線の通りです。

抜弁天通り

2018-11-27 06:27:17 | 蟹川

 抜弁天通り(職安通り)を越えます。抜弁天通りは→ 「東京近傍図」にあるように、久左衛門坂を下り、北側に迂回していたのをショートカットしたもので、大正末には開通していました。ただ、現在のように幅広になったのは、昭和も終わり頃のことです。ショートカットの際築堤されたために、前後の蟹川本流(右岸流)の痕跡は失われ、今日たどることのできるのは戸山幹線と重なる左岸流の方です。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1. 抜け弁天通りの元となった古道(久左衛門坂の通り)を越えます。本流に架かっていた橋から7、80m西側です。 

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    2. 次いで抜弁天通りを越えます。右写真は左手方向で、低くなっているところが本流の跡です。

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    3. 「郵便地図」はこのあたりから先、通りの左手にズレた流路を描いています。 

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    4. 一方、戸山幹線はこの道路下を直進しており、暗渠化の際そのように付け替えたのでしょう。

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    5. 天神小学校前で文化センター前通りに連続します。

砂利場2

2018-11-26 06:38:00 | 蟹川

 前回UPの→ 「第三回修正」では省略されていますが、砂利取場跡新田を灌漑するため、左岸にもう一本用水路がありました。→ 「東大久保村絵図」の描く左岸流を、そのまま椎木坂下まで北上させたものです。内務省地理局の「東京実測図」や、明治末の「郵便地図」には、段丘の際から合流する短い水路共々描かれていて、後者は「新編武蔵風土記稿」のいう「鏡の井」とかかわるものかもしれません。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1. 椎木坂下に戻ります。本流から70m弱西側、上り坂の手前を入る路地があります。 

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    2. 「下水道台帳」で水路敷となっていますが、ワンブロック、70mほどで終了です。

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    3. 別項の「弁慶の井」があるとされる旧字砂利場155番地は、左手の銭湯の裏あたりです。 

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    4. 前回の通りの先です。戸山幹線はこの下にあり、暗渠化の際左岸流のほうに付替えられたのでしょう。

 「豊多摩郡誌」のなかに、「弁慶井 東大久保字砂利場百五十五番地の田の側、小流れの中に在りて清水噴出す、如何なる旱魃にも涸れしことなし、附近に義経井といへるもありたるよし」との記述があります。「新編武蔵風土記稿」のいう「鏡の井」と同じものかどうか不確かですが、場所的には同じ砂利場に属し、→ 「段彩陰影図」で大久保通りの下の左岸に食い込んでいる谷筋や、「村絵図」の同じ位置の田圃のでっぱりなど、こうした湧水にかかわるものと思われます。

 


砂利場

2018-11-24 06:16:27 | 蟹川

 大久保通りの先、→ 「東大久保村絵図」で、蟹川が大きくカーブしているところまでが、今回テーマの砂利場で、江戸時代、砂利取場御用地だったところです。「又村の東北若干の処砂利取場御用地となり、後墾闢して砂利取場跡新田と号し、享保十七年筧播磨守検地して御料に属す」(「新編武蔵風土記稿」) 同書の字には収録されていませんが、明治に入ると、東大久保村(のち大久保村大字東大久保)字砂利場となり、昭和7年(1932年)に淀橋区東大久保二丁目となるまで存続しました。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。) 

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    ・ 「陸地測量部発行の1/10000地形図(昭和3年第三修正) / 四谷」  上掲地図と同一場所、同一縮尺です。

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    1. 椎木坂下のこの道路から再開です。やや右カーブのあとほぼ直線で南下します。 

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    2. この下には蟹川の機能を代行する下水道戸山幹線が通っています。

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    3. 右にカーブします。この道路までが字砂利場、ここから南は字天神前で、東大久保村の中心でした。

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    4. この付近で左折、久左衛門坂下の橋へと向かいますが、抜け弁天通り(職安通り)の先まで、重なる道路はありません。(戸山幹線は道なりです。) 

東大久保村用水

2018-11-22 06:03:36 | 蟹川

 以下は「新編武蔵風土記稿」の東大久保村の水利に関する記述です。「内藤新宿より流来る細流あり、又此地にも所々に清水ありて用水に沃く」「内藤新宿より流来る細流」は蟹川の二つある谷頭のうち、太宗寺方面からのものを指しており、当時はこちらの方を本流扱いしていたふしがあります。「地図で見る新宿区の移り変わり-淀橋・大久保編-」(昭和59年 新宿区教育委員会)に収録された「東大久保村絵図」もそのような描き方です。これに対し、「豊多摩郡誌」(大正5年)の大久保町の水利の項では、「本町内に水流の記すべきものなし、唯内藤新宿町及淀橋町地内より流下する細流あり」と、二つの谷頭を併記しています。

 

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    ・ 「東大久保村絵図」  「東大久保村絵図」(堀江家文書 首都大学東京図書情報センター蔵)をもとに、イラスト化したもので、例によって田用水を強調しています。

 

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    ・ 久左衛門坂下  前回UPの→ 永福寺前から下る坂の下には、「村絵図」で大きく描かれた橋が架かっていました。万年橋と書いた地図もあります。

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    ・ 西向天神下  右手から合流している道が、天神下に向かう参道なので、このあたりが「村絵図」で天神下に描かれた橋の架かっていたところです。 

 ところで、「新編武蔵風土記稿」のいう「所々の清水」の一つに、「鏡の井」がありました。「乾の方奥州古街道の傍田間の小流を云、旱魃にも水涸るゝことなし」 この「奥州古街道」については、別のところで「村北に奥州の古街道あり、田畑の間を戸山の方に達す」と書いており、戸山屋敷と接する村の北部、砂利場と呼ばれるあたりと思われます。いずれにしても、こうした細流や湧水など天水頼みの水利のため「水損旱魃ノ患アリ」(「東京府志料」)、「古来水田多く開けず」(「豊多摩郡誌」)という状態でした。「東京府志料」の数字では、東大久保村の水田面積は5町7反4畝23歩となっています。

 


東大久保村

2018-11-21 05:57:58 | 蟹川

 「東大久保村は日本橋より二里余、古老の説に、古は当村及び西大久保、諏訪の三村皆戸塚に通して一村なり、当時文字も富塚と記せしと云、然とも正保の改には、大久保の一村のみ取て余の地名は収めず、元禄の図に大久保村の傍に同村枝郷東大久保村及枝郷諏訪村と記し、又戸塚村をも載す、推考するに、元来は富塚のみなりしを、一旦大久保と改め、元禄の前又各村に分れしならん、又大久保を東西に分ちしは天正十九年の繩よりなりと西大久保に伝へたり、・・・・家数八十七、北は尾張殿別業戸山屋敷に接し、其余は武家屋敷及大縄組屋敷にて、唯西のみ西大久保及諏訪村の飛地に隣れり、東西十町余、南北六町余」(「新編武蔵風土記稿」)

 

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    ・ 「東京近傍図 / 内藤新宿」(参謀本部測量局 明治13年測量)」の一部を加工したもので、本来の縮尺は1/20000、パソコン上では1/12000ほどです。オレンジ細線は大久保村当時の牛込区、内藤新宿町などとの境です。 

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    ・ 西向天神  「天神社 村の鎮守なり、棗(なつめ)の天神とも西向天神とも号す」(「新編武蔵風土記稿」) 社殿が大宰府のある西に面していることから、西向天神と呼ばれています。 

 大久保の地名由来については、「豊多摩郡誌」に以下の四説が併記されていますが、蟹川の谷筋にちなむ地形由来が有力です。「太田新六郎寄子衆に大久保の姓氏を唱ふる者あり。当所の辺を領してより村名となりしものならんか、一説に大久保の地形凹字型なるを以て、大窪村と唱へ後今の字に改むと。或は説を為す者あり、是永福寺の旧山号を大窪山と号せしに基けるものなるべしと。徳川幕府の初め諸組の同心に市ヶ谷大久保等の地を給与し、且つ此に居住せしめ、総取締として大久保某を選任し、邸を大久保に給ふ、是れより大久保村の称あり云々と」

 

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    ・ 大久保山永福寺  職安通りに面し、その旧道にあたる左手の坂(久左衛門坂)を下ると蟹川です。その立地からも、地形にちなんだ山号と思われます。

 


大久保通り

2018-11-20 06:46:26 | 蟹川

 戸山公園、東戸山小学校の南端は築堤されていて、その上を大久保通りが通っています。前回UPした→ 「昭和3年第三回修正」と同一場所、同一縮尺の→ 「昭和12年第四回修正」を見比べると、その間に開通、蟹川も暗渠化されているのが分かりま。なお、大久保通りの開通以前は、南に迂回して勾配を緩和する坂道になっていました。戸山屋敷内に椎の大木があって、坂道を覆っていたため、椎木坂と呼ばれ、また、東西に上る坂が向かい合っていることから、向坂とも称されました。東は150間、西は60間許と「豊多摩郡誌」にあります。

 

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    ・ 「段彩陰影図 / 蟹川2」(1/18000)  大久保通り前後の谷筋は、左手豊島台(武蔵野面)、右手淀橋台(下末吉面)の境です。なお、東京の地形は西高東低が原則ですが、ここでは東の淀橋台のほうが数メートル高くなっています。  

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    ・ 大久保通り  右岸から明治通り、新大久保駅方向を見通しています。築堤上にあるとはいえ谷筋は明らかで、その幅は200mほどです。

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    ・ 椎木坂  南に迂回して谷筋を越える旧道の下り口で、上掲写真の左手です。坂下には冒頭で触れた坂名の由来を書いた標柱が立っています。 

 <大久保通り>  新宿区飯田橋交差点を起点に、新宿区、中野区を経由して杉並区高円寺で環七通りに接続するまで、延長8600mほどの都道の通称です。うち神楽坂上交差点から終点までは都道433号線に当たります。中野区内は区画整理事業によって新規に成立した道路で、杉並区内もその後の延長ですが、新宿区内の大部分は江戸時代、牛込、大久保等の武家屋敷を横切っていた道を明治以降、順次拡張整備していったものです。古道部分にはそれらしい蛇行が残され、交通のネックとなってところもあります。このように、成立過程をまったく異にする二つの道路が、昭和10年代始めには連結され、現在の大久保通りの形ができあがりました。

 


戸山公園3

2018-11-19 06:19:03 | 蟹川

 戸山荘時代、大泉水の南側にあたる低地、現在戸山ハイツや東戸山小学校のあるところは、濯纓(たくえい)川、あるいは大井川が流れていました。蟹川をそう呼んだもので、濯纓川は屈原作と伝えられる「漁夫」の、「滄浪の水清まば 以て吾が纓を濯ふべし」から、纓(冠の紐)を洗うほどの清く澄んだ川の意と思われます。→ 「尾州邸園池全図」にも描かれていますが、川の周囲には水田を配し、田園風景を演出していました。明治に入り、陸軍の用地となってからは、熊笹の覆う沼地のまま放置されていましたが、のち幼年学校が市ヶ谷から移転、運動場として整備され、流路も迂回するように付替えられました。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)  

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    ・ 「陸地測量部発行の1/10000地形図(昭和3年第三回修正) / 早稲田」と「同 / 四谷」の合成で、上掲地図と同一場所、同一縮尺です。付替え以前の「明治42年測図」は→ こちらです。

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    1. 東戸山小学校西縁の道路です。「第三回修正」に描かれた付替え後の水路とほぼ重なります。

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    2. 下水道戸山幹線もほぼ同じコース取りですが、左手にシフトするのはやや早く、このあたりからです。 

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    3. 左折、右折のクランクで大久保通りを越えます。右写真は右手台上からのショットです。

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    4. 大久保通りの先です。右写真は振り返っています。