神田川 「まる歩き」 しちゃいます!!

ー神田川水系、支流はもちろん、旧水路、廃水路、全部 「まる歩き」ー

長崎村分水2

2015-08-31 06:31:17 | 千川用水5

 以下は武蔵高校生徒が千川上水を調査した昭和15年(1640年)当時の長崎村分水の様子です。「この庚申橋の稍々下流には千川を利用した釣堀がある。釣堀の裏の所から、千川の分水の中最大のものである谷端川(所謂長崎村分水)が岐れる。・・・・近年まで分水口には立派な鐡の水門があり、扉によって開閉したが、今日は水量が僅かとなり、水門の必要がなくなったので、僅かに四寸四方の穴を穿ち、千川から水を引いているに過ぎない。」(武蔵高等学校報国団民族文化部門編「千川上水」) 別の個所には、「千川文書によれば水口は七寸四方であるが、現在は三寸四方程に縮小し、僅かの水が流れているに過ぎず、殆ど下水に等しい」との一節と共に、石積に穴を開けた分水口の略図も添付されています。

 

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    ・ 「昭和22年米軍撮影の空中写真」 引用文にある釣堀も写っています。なお、千川上水と並行する都道420号線は開通したばかりで、当時未着工の要町通りはグレーで重ねました。  

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    ・ 要町3交差点  分水口付近から、長崎村分水の流路方向のショットです。正面奥の→ 通りの右手を分水は並行していました。

 <谷端川>  「小石川并谷端川  長崎村より出る細流落合て、池袋村、滝野川村、巣鴨村等を歴て、小石川村に至て此名起り、橋戸町、柳町より伝通院東の方を流れ、夫より水戸殿屋舗内にかゝり、流末同屋敷外、南の方往還に架せる仙台橋の辺にて、神田川の上流に合す、昔はよほどの川なりしにや、広き地名にも唱へて聞えたる川なり、後年追々道敷等に埋立られ、今は川幅広き所にて三四間に過ず、此川巣鴨村にては谷端川と称す」(「新編武蔵風土記稿」) 

 

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    ・ 粟島神社弁天池  谷端川の水源の一つです。大正末から昭和の初めまでは、雑木林に囲まれた弁天池から流れ出た小川が、写真奥から左手を流れる長崎村分水に合流していました。現在の池の水はポンプで循環しています。

 長崎村分水は谷端川の形成する自然の谷筋を利用、長崎、池袋、中丸、金井窪四ヶ村の水田を灌漑しており、言い換えれば、長崎村分水が谷端川の最大の水源でした。→ 「段彩陰影図」に重ねたのは「明治42年測図」に描かれた谷端川です。なお、谷端(やばた)は中流域にある旧滝野川村の字で、現在は板橋駅近くの小学校や、付近の公園に残るだけです。谷端を流れていたから谷端川なのか、谷端川が流れていたから谷端なのか、その辺はよくわかりませんが、意味としては「谷の端」か「谷の畑」かどちらかでしょう。

 


長崎村分水

2015-08-29 06:30:53 | 千川用水5

 長崎村分水は四ヶ村分水ともいい、当初から一貫して長崎、池袋、中丸、金井窪、四ヶ村の田用水となっていました。樋口の大きさは、「千川上水給水区域」で「内法七寸四方」、寛政6年の「星野家文書」で「九寸四方」、「千川分水口取調絵図」で「古来八寸四方当時壱尺四方」、明治10年の「星野家文書」で「幅六寸五分高六寸三分壱厘」と、七ヶ村分水に次ぐ規模を有していました。 

   用水使用  水田全体
長崎村 13.8町歩  17.7町歩
池袋村  3.4町歩  15.3町歩
中丸村  1.1町歩   5.4町歩 
金井窪村  1.9町歩   6.4町歩
合計 19.2町歩  44.8町歩

 

    ・ 千川用水使用の水田面積  明治10年頃のもので、数字は「星野家文書」、全体は「東京府志料」を用い、少数2位(「畝」)以下切り捨てです。ちなみに、同じ史料を元にした六ヶ村組合の場合、六ヶ村全体で81.8町歩中64.2町歩が千川用水に依存していました。

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    ・ 千川上水跡  要町通りの手前です。フェンスに囲まれた一角には、「千川管理地」と書かれた都第四建設事務所の看板があり、周囲には石橋の遺構と思われる石材が置かれています。

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    ・ 要町3交差点  上水は正面の茂みのところに向かいます。長崎村分水口はその手前にありましたが、拡幅された要町通りに呑みこまれ、その場所を特定することはできません。

 <分水口の位置>  前回も引用した「千川素堀筋普請所積見分」によると、長崎村分水口から合計83.5間(≒151m)のところに土橋が架かり、「是迄長崎村分上板橋村境」と付記されています。これは→ 「東京近傍図」で、千川上水と区境が交差した後、並行するところにあたり、現在の板橋高校前の六ないし七差路です。そこから150m手前は要町3交差点内となり、長崎村分水口は安永9年(1780年)当時から、現在確認できるのと同じ場所にあったことになります。なお、同「見分」は分水口から11間(≒20.0m)目に石橋とも書いています。「近傍図」にある、直後に横切る通りに架かっていたものなのでしょう。

 


千川親水公園

2015-08-28 06:54:08 | 千川用水5

 以下は庚申橋と目される石橋から長崎村分水までの、「千川素堀筋普請所積見分」(安永9年 1780年)の記述です。

 

        橋ノ上み寅卯
一 百拾弐間メ 石橋  巾石三枚渡九尺 橋台石垣
        橋ノ上ヘニ而 子 四十間下り子 五間下り曲丑寅

一 百七十弐間半メ 長崎悪水吐潜樋 長六間
        往来道ニ石橋有 石壱本

一 九拾五間メ 長崎村分水口九寸 尺

 

 一部意味不明なところもありますが、これを概略解釈すると、庚申橋のところで寅卯(東北東)から子(北)に方向転換、合計40間(≒72.8m)ないし45間(≒81.9m)下ったところで丑寅(北東)に向きを変えると読め、→ 「東京近傍図」の描き方とも一致します。

 

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    ・ 千川親水公園  庚申橋での左折後の上水跡は、豊島区立親水公園となっています。その途中に立てられた解説プレートによると、区内の暗渠化は昭和28~34年、公園となったのは平成元年です。

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    ・ 千川親水公園  親水公園らしく水の流れが設けられています。庚申橋跡から80m前後のところにあり、右カーブで北から北東に向きを転じていて、距離も方向も「所積見分」の記述と一致します。
 <三本目の悪水吐>  「所積見分 」の記述によると、子から丑寅への転換点から(あるいは箇条書きからして、庚申橋からかもしれませんが)、172.5間(≒313m)のところに、三本目の長崎悪水吐が設けられ、そこから95間(≒172m)で長崎村分水口です。この172.5間という数字が問題で、これでは悪水吐が現在確認できる長崎村分水口の位置を越え、その後の長崎・上板橋村境、上下板橋の境など、実際より下流にずれてしまいます。そこで、172.5間は保留しておいて、分水口から95間手前の方を採用すると、次の写真のあたりとなり、「往来道ニ石橋有」の記述とも合致します。

 

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    ・ 悪水吐跡(?)  この推測の当否はともかく、この前後の千川上水は築堤上にあり、潜樋が設けられていたとしても何の不思議もありません。やや下流の築堤を横から見た写真は→ こちらです。

庚申橋

2015-08-27 06:10:50 | 千川用水5

 久しぶりに千川上水の本流に戻ります。明豊中学の東隣にある千早高校前で、千川上水はいったん、並行していた通り(V字ターン以降は千川通りではなく都道420号線)から離れます。要町通りとの要町3交差点までの500mほどの上水跡は、隣接する道路には呑みこまれず、フェンスで囲まれた遊び場や親水公園となっていて、全体として千川上水緑道といっていい区間になっています。

 

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    ・ 「東京近傍図 / 板橋駅」(参謀本部測量局 明治14年測量)の一部を加工したもので、本来の縮尺は1/20000、パソコン上では1/12000ほどです。オレンジ線は区境で、主に板橋区と豊島区ですが、江戸時代は上板橋村、下板橋宿及び長崎村です。

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    ・ 都道420号線  二本目の悪水吐から50mほどのところです。「千川素堀筋普請所積見分」によると、26間(≒47.3m)のところに「巾石二枚渡七尺」の石橋が架かっていました。

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    ・ 千川上水跡  千早高校前で右カーブ、並行していた都道420号線と離れます。ここからキャンパス沿いに150mほど進んだあと、上掲「近傍図」にもあるように、ほぼ90度の角度で左折します。

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    ・ 庚申橋跡  その左折するところに、かっては庚申塔が立ち、石橋が架かっていました。庚申塔は武蔵高校生徒の調査当時もこの場所にありましたが、現在はその一部が50mほど手前の→ お堂に祀られています。

幻の感応寺分水2

2015-08-26 07:03:59 | 千川用水5

 「新編若葉の梢」(昭和33年 海老澤了之介)の付録として、雑司ケ谷村の名主、戸張苗竪の残した「櫨楓(ろふう)」が掲載されています。以下はその記述をベースにした、千川上水から感応寺境内へのの引水計画の概要です。発端は天保12年閏正月、放生会のため大御台(家斉正室)より下された鰻が、折からの干ばつで弱ってしまったことでした。「それに付境内外二三町を隔、玉川分水・仙川上水の流あり、是を引還流水とならば満全なるべしとの事にて、大御台様御用人小野佐渡守殿へ内談の事可然に相極りける。」 このときは千川上水といっても、近場の長崎村分水(谷端川)からの引水を考えていたふしがあり、「境内外二三町」というのは、同分水からの最短距離200m強を指してのことと思われます。それが、関係する村々や千川家の意向を踏まえ、「保谷新田、樋ノ口三四分増寸」を前提に、上水本流からの分水という見積りとなりました。

 

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    ・ 「感応寺分水図」  「新編若葉の梢」中の「櫨楓」に載っているものをイラスト化しました。うち黒実線は町奉行所の支配する江戸御府内を画する、いわゆる「墨引き」で、元図にはありません。

総長延凡千九百六十間余 但差渡し廿丁程の処、堀筋屈曲長延に積り候付相延申候
 内千四百六十間程 長崎村地内
 弐百五十間程 感応寺山内 但山内の内 四十三間程は西の方垣根より池迄。
                    廿七間程は池の中。
                    百八十間程は池より東垣根際迄。
 弐百五十間程 雑司ケ谷村内

 

 千川上水から感応寺境内にかけて、絵図には「三丁程」と書き込みがありますが、これは上述した長崎村分水(谷端川)からの距離と思われ、本文では千川上水・感応寺間を1460間(≒2657m)、幅平均3尺、深さは2尺ないし7、8尺、人足一人当たり4間として、延べ365人必要と見積っています。千川上水からの最短距離は2000m程ですが、それでは谷端川の谷筋に落ち込んでしまうので、迂回が必要ということでしょう。鼠山の北麓を回り込んで、境内西からの引水を考えたようです。ただ、分水口をどのあたりに予定したのかは、V字ターンから長崎村分水口の間という、大雑把なことぐらいしかわかりません。
 これに対して、雑司ケ谷村内の250間(455m)ははっきりしていて、「落とし水の儀は境内東方・・・・雑司谷村疇地ヘ相流、同村鶴巻川と申用水へ落合申候」とあります。西谷戸と呼ばれる直近の谷筋を経由すると、弦巻川まで450mほどでピッタリです。「深さ二間程より三間迄、巾四尺程平均長壱間に付人足三人掛りの積り」と、こちらの方が難工事ですが、池からの合計500間中430間は、「雑司ケ谷村百姓共為冥加自分堀に仕候間、御入用等一切相掛り不申」とあります。雑司ケ谷といえば日蓮宗徒の信仰厚い鬼子母神が有名ですが、村民は日蓮宗の名刹の名を引き継ぐ感応寺には、ことのほか思い入れが深く、名主だった戸張苗竪自身、家督を譲って感応寺境内に住み込んでいるほどです。それとともに、余水を弦巻川に受け入れることは、「村方弁利にも相成候」という事情もあったのでしょう。こうした感応寺分水計画ですが、計画が持ち上がったまさに同時期、天保12年閏正月に大御所家斉が亡くなり、同年10月5日には感応寺廃寺が申し渡されます。翌年3月7日には戸張苗竪が境内から立ち退くに至り、感応寺分水は幻のまま終りました。


幻の感応寺分水

2015-08-25 06:24:12 | 千川用水5

 千川上水がV字ターンする南長崎6丁目交差点から東に2kmほどのところに、「大江戸のしっぽのあたり鼠山」と川柳に読まれ、→ 「江戸名所図会 / 落合惣図」にも描かれた鼠山があります。町奉行所の支配する江戸御府内(墨引き)の北西端に位置し、武蔵野の原野の広がるこの地には、三河以来の譜代大名、磐城平藩安藤家の下屋敷があり、三代将軍家光も狩りで度々訪れたといいます。なお、名前の由来としては、源頼朝、あるいは太田道灌が陣を敷き、寝ずの見張り番をたてたので「不寝見(ねずみ)山」、あるいは、ネズミが多いのでという、そのままのものもあります。

 

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    ・ 「段彩陰影図 / 長崎」(1/18000)  グレーの三角が磐城平藩安藤家の下屋敷、二万八千六百余坪、その西の丸い台地が鼠山です。オレンジ線は区境で大半は豊島区、そのほとんどが旧長崎村です。なお、「明治42年測図」に描かれた谷端川を重ねました。
 この安藤家下屋敷のあった地に、天保7年(1836年)、突如、上野寛永寺や芝増上寺に匹敵する一大伽藍が出現します。長耀山感応寺です。このお寺にまつわる虚実ないまぜのエピソードは、11代将軍家斉、その側室お美代の方、お美代の方の実父、智泉院住職日啓、長持ちに入った大奥女中やら、イケメンの破戒僧やら、役者も小道具もそろって、時代劇の格好の材料を提供します。大御所家斉がなくなり、最後に老中水野忠邦が登場、感応寺は跡かたもなく取り壊されてジエンド、天保12年(1841年)のことでした。

 

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    ・ 徳川黎明会  安藤家下屋敷のあった一角は、のち徳川侯爵家が所有、昭和6年(1931年)に徳川黎明会を創設しました。尾張徳川家所有のコレクションなどを管理、公開する財団法人です。

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    ・ 目白の森  鼠山の一角のマンション予定地1000坪弱を区が購入、平成9年に区立公園となりました。 → 園内には邸宅当時の緑が保存され、池も設けられています。

エンガ堀支流5

2015-08-24 06:25:51 | 千川用水5

 向原団地内で合流するエンガ堀支流を追っての二回目で、その先端にあたる環七通りと要町通りの武蔵野病院前交差点付近です。この区画は昭和30~50年代に出来た二つの大きな通りによって、痕跡が断片的になっていますが、それでも谷頭のある環七通り羽沢2丁目交差点付近までたどることができます。ところで、この小支流の流域は、概ね練馬区(小竹町)と板橋区(小茂根)の境と重なりますが、これは同じ上板橋村に属していた字小竹と字上ノ根の境を引き継いでいます。羽沢2丁目交差点を南北に縦断する古道が、上板橋村と下練馬村の境でしたが、字小竹などが練馬区に編入された結果、今日のような区境になったものです。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1. 前回から引き続き、中央分離帯が水路跡ですが、最後のワンブロックだけは普通の道路になっています。

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    2. 環七通りの一つ手前の道路に突き当たって左折です。通りの左手が水路と重なります。

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    3. 要町通りに突き当たって中断しますが、元の水路は越えた先で右折、左折のクランクでした。

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    4. 武蔵野病院前交差点の南角です。ここからの水路跡は環七通りの南側歩道と重なります。

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    5. 南側歩道と重なるのはこの付近までで、この先は環七通りに紛れてよく分かりません。

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    6. 羽沢2丁目交差点手前です。左手にワンブロックだけ車止め付きの路地がありますが、全体とのつながりは不明です。

エンガ堀支流4

2015-08-22 08:27:00 | 千川用水5

 → 「東京近傍図」に見るように、エンガ堀にはもう一本の小支流が合流していました。環七通りと要町通りの交差する、武蔵野病院前交差点付近から発していたものです。「近傍図」にも水田が描かれていますが、この支流も灌漑用水として機能していました。そのため、複数の側流のあったことが予想されますが、現在確認できるのは一流のみです。これは昭和10年代に改修があり、単線化、直線化がなされたためで、この点で上流域や前回の支流の水路跡とは決定的に異なっています。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    ・ 「陸地測量部発行の1/10000地形図(昭和4年第三回修正測図) / 練馬」  上掲地図と同一場所、同一縮尺です。改修後の「昭和32年第五回修正」は→ こちらでどうぞ。

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    1. 向原団地内のエンガ堀跡の遊歩道です。左手から合流する路地をさかのぼります。

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    2. 右折、左折のクランクです。この付近でエンガ堀の左岸流と交差していた名残のようです。

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    3. 狭い路地を抜けます。その先の幅広道路の中央分離帯が水路跡です。 

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    4. 中央分離帯の水路跡は環七通りの手前まで、5ブロック、400mほど続きます。

エンガ堀支流3

2015-08-21 06:46:44 | 千川用水5

 「村内に溜池三箇所あり、一は字大谷口にありて面積千三百九十六坪、二は字向原にありて面積三百九十坪、共に字山崎向原の用水となる、三は字小竹に在り、面積七十坪許、浅間神社の後に當り昔より同社の御手洗と稱へらる。」 大正7年(1918年)発行の「北豊島郡誌」にある、上板橋村の水利に関する一節です。最後の浅間神社の御手洗池が今回の小支流の水源と思われ、下掲「地形図」にも描かれています。なお、小竹は「新編武蔵風土記稿」にも収録された上板橋村の字ですが、戦後の練馬区成立時に、南隣の江古田町(旧江古田新田、現旭丘)と共に同区に移管されました。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    ・ 「陸地測量部発行の1/10000地形図(昭和4年第三回修正測図) / 練馬」  上掲地図と同一場所、同一縮尺です。

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    1. 江古田駅近くの通りを越える右岸流で、その先は水路単独の狭い路地です。昨日UPの駅前からのショットは→ こちらです。

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    2. 路地は50mほどで行き止まりですが、「下水道台帳」によると、「公共溝渠(暗渠)」はさらに100mほど続いています。

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    3. 左岸流の先端の区画です。幅広道路の右手の歩道が車止めでガードされています。 

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    4. 正面奥で右手の歩道が途切れますが、そのあたりに、御手洗池はあったものと思われます。

 <江古田富士>  → 「東京近傍図」で、現江古田駅の北側に描かれた丸印が江古田の富士塚、通称江古田富士です。→ 浅間神社の境内にあって、社殿奥の茂みが江古田富士ですが、柵に囲まれていて立ち入ることはできません。正月三が日には一般公開されています。傍らの解説プレートによると、富士講の一つ、小竹丸祓講によって、天保10年(1839年)に築造されました。文化年間(1804~18年)との説もあるようです。高さ8m、直径30m、関東大震災で倒壊したのち復旧されました。国の重要有形民俗文化財に指定され、練馬区登録有形民俗文化財でもあります。

 


エンガ堀支流2

2015-08-20 06:29:50 | 千川用水5

 江古田駅北から発する小支流を追っての二回目です。品川電線の敷地を過ぎると、途絶えていた南側の水路(右岸流)も復活します。どちらも車止めや段差、それらしい蛇行の跡を残しており、20mほどの狭い間隔を保って、先端までの数百メートルを並行しています。なお、東京都の「下水道台帳」を見ると、左岸流は今回扱う区間全体が「水路敷」となっており、一方、右岸流のほうは次回扱う先端部分に「公共溝渠(暗渠)」の書き込みがあります。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1. 左写真はここで復活する右岸流跡、右写真は前回の続きの左岸流跡の路地です。

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    2. 同じく左右の水路跡ですが、両者の間隔は正面に写る家一軒分しかありません。左手から見通したショットは→ こちらです。

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    3. この区画の右岸流は道路の一部となり、右手の歩道がその跡です。

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    4. 左岸流のほうは相変わらずの路地ですが、右手が崖面になっています。

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    5. 右岸流の続きです。先ほど右手の歩道が水路跡だと書きましたが、ここは車止までついています。

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    6. 左岸流跡の路地はここまでで、この先は広い通りに出ます。右写真は右岸段丘上にある江古田駅前からのショットです。

エンガ堀支流

2015-08-19 06:28:30 | 千川用水5

 二つの悪水吐が合流していた郵政宿舎付近まで戻ります。→ 「東京近傍図」にもあるように、要町通りまでの間の左手から、もう一つの支流が合流していました。江古田駅の北から発する700mほどの小支流で、「近傍図」では単線になっていますが、20m前後の狭い間隔で並行する二流が確認できます。例によってその間隔が灌漑している水田の幅と重なり、昭和20年代まで田用水として機能していたようです。合流地点付近で開業した品川電線を皮切りに、同30年代までには宅地化が進み、生活排水路となりました。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    ・ 「昭和22年米軍撮影の空中写真」  上掲地図のグレー枠の部分です。同一個所に同一番号を振っています。

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    1. 二本の悪水吐の合流地点から50mほどのところです。右岸流と重なる左手の道路は、→ ワンブロックで品川電線に突き当たって終了します。 

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    2. 向原ゴルフセンター前です。右写真は左手の道路を見通したもので、60mほどのところに、もう一つ車止めが顔をのぞかせています。

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    3. 左岸流跡に設けられた車止めです。ここから江古田駅北までの700mほど、「下水道台帳」の「水路敷」は連続しています。 

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    4. 正面に品川電線の工場が見えてきました。右手奥の車止めは、この区画でしか見られないものです。

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    5. 同社の創建は昭和10年代なので、「空中写真」に写るのもその建物なのでしょう。

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2015-08-18 06:40:27 | 千川用水5

 「エンガ」の由来は不明ですが、「いたばしの地名」(平成7年 板橋区教育委員会)によると、埼玉県には「排水堀で川へ落ちる部分」との方言があるそうです。当地のエンガ堀も、石神井川との合流地点に広がる田んぼの用水堀として機能してきました。それが、田んぼが宅地に転換されるとともにその機能を失い、昭和40年代後半には暗渠化され、現在は地下は下水道向原幹線、合流地点付近の地上はエンガ堀緑道となっています。暗渠化が遅かったこともあり、合流地点の直線的な区画を除くと、水路跡のほとんどはクネッた路地として残され、現在の地図上でもたどることができるほどです。

 

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    ・ 向原団地  かっての向原田んぼは宅地化され、昭和30年代には向原団地が建設されました。当時相次いで建設された新興団地の例にもれず、築50年を経て建替えが進行中です。

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    ・ 向原団地  この区画は左手が崖面になっています。→ 「段彩陰影図」に見るように、左岸は舌状台地になっていて、根の上(ねのかみ)と呼ばれ、お約束通りの遺跡が発掘されています。

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    ・ 地蔵橋跡  向原団地の敷地を抜けると、やや右手に緑道が顔をのぞかせています。ここに地蔵橋が架かっていました。右手に上る坂の中腹に地蔵堂があり、それが坂や橋の由来となりました。

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    ・ 合流地点(耕整橋)  橋名は耕地整理の際出来たの意でしょう。「地形図」を追ってみると、昭和12年の「第四回修正測図」までに、石神井川は現行のように改修され、それと合わせてエンガ堀の合流部分も直線化、周囲は碁盤状に整備されています。

エンガ堀

2015-08-17 06:35:39 | 千川用水5

 西武池袋線の踏切付近、及び明豊中学前から発した二本の水路は、→ 「東京近傍図」にもあるように、練馬区、板橋区、豊島区の区境付近で合流し、さらに江古田富士のあった浅間神社裏からの流れや、環七と要町通りの交差する付近からのものを合わせていました。 板橋区教育委員会発行の「いたばしの地名」によると、この小河川はエンガ堀と通称されていました。エガ堀とも呼ばれ、「江川」と表示することもあったようです。

 

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    ・ 「段彩陰影図 / エンガ堀」(1/18000)  「東京近傍図」や「迅速測図」に描かれた水路を重ねています。オレンジ線は区境で、左上から時計回りに練馬、板橋、豊島、中野の各区です。

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    ・ エンガ堀  合流後300mほどで、要町通りに突き当たって中断するところです。途中左手から合流していた浅間神社裏からの流れは、次々回扱う予定です。

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    ・ エンガ堀  要町通りの先で、右手が崖面になっています。「段彩陰影図」からも読み取れるように、この区画は右岸の際を流れていました。 

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    ・ エンガ堀  右手上に一部見えていますが、向原団地に差し掛かります。ここから先はカラーブロックなどで緑道化されており、石神井川との合流地点まで、迷うことはありません。

悪水吐の合流

2015-08-15 06:41:11 | 千川用水5

 今回は二本の悪水吐の合流している区域を扱います。→ 「東京近傍図」では、板橋区と豊島区の境(地図当時は上板橋村と長崎村の境)となっている道路の手前で合流していますが、実際には左右の側流が絡まった複雑な流路を形成しており、「近傍図」に描かれているもの以外に、境界上で合流するもの、200mほど先で合流するものもありました。いずれを本流とみなすかによって、合流の仕方も地図それぞれとなっています。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1. 前回の最後の→ 写真で、右手に向かう水路の続きです。左カーブで区境の道路を越えます。

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    2. 右手が高くなっていて、右岸の際にあるのが分かります。

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    3. 郵政宿舎の敷地に差し掛かります。ここで左手からの水路と合流していました。

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    4. 一本目の悪水吐にかかわる水路と、前回の最後の写真の左手の水路の合流地点で、どちらの写真も、横切っているのは区境の道路です。

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    5. 「昭和32年第五回修正」には4.で合流後、5.に向かう水路が描かれており、また、下水道向原幹線のルートとも重なっています。右岸流に比べ水路跡の特徴は明らかで、こちらが最後まで残ったのでしょう。

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    6. 郵政宿舎の敷地に差し掛かり右カーブします。その先で右岸流と合流後、左折して北に向かいます。

二本目の悪水吐2

2015-08-14 06:26:47 | 千川用水5

 長崎悪水吐のうち、現明豊中学前を潜樋で越えていたものの二回目で、閉鎖された第十中学校のキャンパスの西縁をめぐり、一本目の悪水吐にかかわる水路と合流するまでです。なお、→ 「東京近傍図」には一流しか描かれていませんが、こちらにも側流がありました。20m前後の間隔を置いて左手を並行しているもので、その間にある水田の灌漑用水となっていました。左岸流は200mほど途切れることなく続き、一本目の悪水吐の右岸流と合流しており、これは「郵便地図」などが描く流路と一致しています。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1. 左写真は前回最後の写真から50mほどのところ、右写真はその一つ左手にある路地で、まずこちらからたどります。

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    2. 左手の路地の先で、長崎6丁目児童遊園の脇を抜けるところです。周囲より一段低く、水路跡の特徴は明らかです。

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    3. 幅広の道路に出たところで、一本目の悪水吐の右岸流と合流します。前々回UPした→ 写真のところです。

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    4. 右手の幅広道路に戻り、10年ほど前に閉鎖された第十中学校跡地に差し掛かります。水路は通りの左側にありました。

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    5. 右写真の左手に車止めが見えますが、路地はすぐに行き止まりになり、水路跡かどうかは不明です。

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    6. 左手から前々回最後の→ 写真に写る水路が合流します。その先で道路と同様水路も分岐していました。