神田川 「まる歩き」 しちゃいます!!

ー神田川水系、支流はもちろん、旧水路、廃水路、全部 「まる歩き」ー

成宗左岸4

2017-04-28 06:30:19 | 善福寺川3

 成宗村の用水を追って、矢倉台の東側を北上、杉並高校キャンパスを右手に見ています。同校は昭和28年(1953年)の開校ですが、東隣の阿佐谷住宅にかけては成宗田圃と通称される水田地帯で、その一角を造成したものでした。キャンパスの北西角に、「遊び場24番」と名付けられた車止め付の空間がありますが、造成当時キャンパス周辺に整備された排水路の名残と思われます。

 

Narimunes4

    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1. 引き続き矢倉台に沿って北上します。右手は建物一つ隔てて杉並高校キャンパスです。

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    2. 正面を右折します。矢倉台をトンネルで越えた新堀用水も、左手から流れてきていました。

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    3. 杉並高校のキャンパスの手前です。右手に車止め付きの細長い空間があります。 

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    4. ワンブロックで終了です。「遊び場24番」と名付けられ、「下水道台帳」では「水路敷」となっています。

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    5. 杉並高校の正門前へと差し掛かります。今回の水路は通りの右手を、新堀用水は左手を流れていました。

成宗左岸3

2017-04-27 06:25:04 | 善福寺川3

 広場堰で分岐した成宗村の用水を追い、矢倉台を回り込んで北上しています。途中、屋倉橋に向かう通りを越えますが、→ 「1/20000地形図」の右上隅を見ると、屋倉橋に向かう水路の分岐点に水車が描かれています。「杉並の通称地名」(平成4年 杉並区教育委員会)が、「成宗の水車 成田西四ー六(水神の小祠のところ) 昭和3年まで 善福寺川を冬季堰止め田端台地をトンネルで抜けて用水とし、ここで水車を回転させて穀物の精白を行った」と書いているもので、とする新堀用水ではなく、水車の用水にかかわるトンネルだったことになります。あるいは転用したのかもしれません。

 

Narimunes3

    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1. 屋倉橋に向かう通りの手前です。「杉並の通称地名」のいう「成宗の水車」は、この付近にあったことになります。

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    2. 屋倉橋に向かう通りです。右折した水路は通りの左手を並行していました。

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    3. 屋倉橋です。右写真は下流方向で、次に架かる児童橋も見えています。 

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    4. 1.に戻り、矢倉台沿いの左岸流を追います。左写真の車止めを最後に、しばらく一般の道路に紛れます。 

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    5. 右手奥のフェンスは杉並高校のもので、昭和20年代までは水田だったところです。

成宗左岸2

2017-04-26 06:40:08 | 善福寺川3

 広場堰で左岸に分岐し、成宗田圃の灌漑へと向かう用水の続きです。矢倉と通称される舌状台地の裾をめぐり、その東側に回り込んだところで、これまでその北縁に沿っていた善福寺川緑地を離れます。その間三百数十メートルにわたって、コンクリート蓋や車止めが連続し、下水道台帳にも「公共溝渠・暗渠」とか「水路敷」といった書き込みがなされています。

 

Narimunes2

    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1. 引き続き善福寺川緑地の北縁に沿って、コンクリート蓋の水路跡を追っています。

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    2. 左手の崖面が最も高いところに差し掛かります。水路は崖面をえぐるような孤を描いています。

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    3. 左折して矢倉台の東に出、善福寺川緑地と離れ北上します。 

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    4. 左手の崖面が徐々に低くなっていますが、 → 「1/20000地形図」の描くトンネルの出口は、このあたりと思われます。 

 <矢倉>  矢倉は白幡、尾崎と並んで「新編武蔵風土記稿」の収録する成宗村の小名で、同書は以下のような解説を続けています。「矢倉 西の方にあり、四方田圃にして高き場所なり、伝云鎌倉時代より陣屋櫓のありしを、其後太田道灌の持となり、家臣某をして守らしめしが、道灌滅亡にいたりて廃したりと、或は云成宗が柵迹なりと」 成宗は村名の由来とも伝えられる武将の名前ですが、その真偽を含め詳細は不明です。なお、明治に入り杉並村大字成宗となった際、その小字としては屋倉の表記が採用されました。そのため、善福寺川本流に架かる橋は屋倉橋となっています。


成宗左岸

2017-04-25 06:06:02 | 善福寺川3

 広場堰から左岸に分岐した用水路を追って、神通橋の架かる古道を越え、旧成宗村に入りました。善福寺川緑地の北縁に沿い、舌状台地の東側に回り込みますが、途中からコンクリート蓋が出現し、全区間の中で最も保存状態が良いところです。崖面と緑地に挟まれて、宅地開発を免れたおかげと思われます。なお、下掲地形図に点線で描かれたトンネルについては、→ 「桃園川2 / 新堀用水7」でも扱っています。

 

Narimunes1

    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    ・ 「陸地測量部発行の1/20000地形図(明治42年測図) / 東京西近郊図」  上掲地図と同一場所、同一縮尺です。

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    1. 善福寺川緑地の北縁に沿って東に向かいます。右手のフェンス内では調節池の建設工事中です。

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    2. 突き出した崖面を迂回します。「1/20000地形図」の点線で描かれたトンネルは、この付近から掘られていました。

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    3. 舌状台地を迂回し、その東側に出たところに車止めが見えます。ここからコンクリート蓋の水路が始ります。 

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    4. 昭和49年(1974年)に、トンネルの一部(高さ1.3m幅1.6m)が発掘されたのは、左手台上の地下4.5mのところでした。 

善福寺川緑地

2017-04-24 06:14:41 | 善福寺川3

 善福寺川緑地は神通橋から白山前橋まで、善福寺川中流域のおよそ2.3kmの間に帯状に広がる都立公園です。総面積18.4万㎡をようし、武蔵野の面影を残す数千本の木立の間に、野球場、テニスコートや各種の広場が点在しています。とはいっても、元から武蔵野の自然林だったわけではありません。昭和30年代に善福寺川を改修したのに合わせ、流域の水田を埋め立てて整地し、桜などを植樹して昭和39年(1964年)に開園しました。2年前に地下鉄丸ノ内線は青梅街道下を荻窪まで延長されましたが、その工事によって生じた大量の残土を埋め立てに利用したといわれています。(なお、白山前橋以降連続する同じ都立の和田堀公園を合わせると、延長は4.2km、面積は40万㎡近くになる一大緑地公園です。)

 

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    ・ 「昭和38年国土地理院撮影の空中写真」  同一場所、同一縮尺の「昭和22年米軍撮影の空中写真」は→ こちらでどうぞ。

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    ・ 善福寺川緑地  五日市街道に架かる尾崎橋近くに据えられた石には「善福寺川緑地」とあり、一方、神通橋横の公園入口には「善福寺川公園」と書かれています。 

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    ・ 善福寺川  神通橋から下流方向です。1時間50mm程度の集中豪雨に対応するため、左手のなかよし広場地下に調整池を建設中で、あわせて護岸工事も行っています。  

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    ・ 善福寺川  尾崎橋から上流方向を振り返っての撮影です。善福寺川緑地には400本ほどの桜が植えられ、特に屋倉橋から尾崎橋にかけては桜の名所となっています。  

神通橋

2017-04-22 06:30:55 | 善福寺川3

 善福寺川緑地の上流端に架かるのが神通橋です。五日市街道と青梅街道を結び、田端村の中央を縦断する古道に架かり、→ 「田端村絵図」には、田端村で唯一描かれています。「杉並の川と橋」(平成21年 杉並区立郷土博物館)によると、鎌倉道ともいわれる古道が左岸段丘を上る途中に田端神社があり、腰痛、足痛が治るとの評判があったことから、その霊験にあやかって神通橋と付けたといいます。もっとも、そうなったのは比較的新しいようで、日本地形社の1/3000地形図(昭和11年測図同22年補修)では、付近の字をとって大ヶ谷戸橋となっています。

 

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    ・ 善福寺川  奥に見えるのが神通橋です。左カーブ付近の右岸が広くなっていますが、右岸流がいったん合流し、再度分岐していたところです。 

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    ・ 神通橋  左岸方向のショットで、奥の茂みの手前を前回の左岸流が横切っていました。その先で 矢倉台と呼ばれる左岸段丘に差し掛かります。 

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    ・ 田端神社  神通橋から300m強の左手に、100mを越える長い参道があります。写真は参道途中の木の鳥居で、江戸時代のものといわれています。  

 <田端村の橋>  明治初年の「東京府志料」には、田端村の善福寺池流に架かる橋に関し、以下の記述があります。「板橋三 田端村ニアリ一ハ長二間半幅一間二尺一ハ長一間四尺幅一間一尺一ハ同上」 「田端村絵図」に唯一描かれた神通橋が入るのは間違いないとして、後の二つは問題です。「東京府志料」と同時代の→ 「東京近傍図」には、神通橋と山神社の間で、点線で描かれた道筋が善福寺川と交差しており、現在の西田端橋がこれにあたるのでしょう。荻窪駅と荻窪団地(シャレール荻窪)を結ぶバス通りに架かっています。もう一つは「近傍図」からも読み取れず、よく分からないところです。


広場堰2

2017-04-21 06:34:47 | 善福寺川3

 広場堰から分岐した田用水を追っての二回目です。田端堰で分岐し田端田圃を灌漑してきた左岸流と合流、矢倉(屋倉)台と呼ばれる舌状台地を迂回し、その東側に回り込みます。途中、→ 「田端村絵図」→ 「東京近傍図」にあるように、舌状台地の先端で神通橋の架かる古道を越えると、流域は田端村から成宗村へと移っていました。現在は善福寺川緑地となっているところです。

 

Hiroba2

    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    ・ 「昭和22年米軍撮影の空中写真」  上掲地図のグレー枠の部分です。同一個所に同一番号を振っています。

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    1. 右手はかって水田だったところで、今はかりん広場と名付けられた緑地です。

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    2. 善福寺川緑地を前にして、右手に車止め付きの路地が顔をのぞかせています。

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    3. ツーブロックで本流に突き当たって終了です。本流との連絡水路だったのでしょう。 

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    4. 神通橋の架かる古道を越え、左カーブで善福寺川緑地に入ります。右写真は神通橋方向です。 

広場堰

2017-04-20 06:59:10 | 善福寺川3

 左岸に戻り、→ 「田端村絵図」のほぼ中央で、左岸に分岐している用水を追います。「新編武蔵風土記稿」が「一は天神下にあり」としていた堰にかかわるもので、天保新堀用水の際は広場堰として登場しました。なお、広場堰から分岐した直後の用水跡は、200m弱の細長い公園になっています。旧環八・荻窪団地間のバス通りに、本流の西田端橋と並んで架かっていた橋名から、天神橋公園と呼ばれています。

 

Hiroba1

    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1. 大谷戸橋から下流方向で、左手に植込みのある細長いスペースが残されています。

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    2. 右折すると西田端橋に出るバス通りを越えます。ここに天神橋が架かっていました。

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    3. 天神橋公園は水路跡をメインに、開発提供地も加えて昭和56年(1981年)に開園しました。

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    4. 上掲写真にも写っていますが、途中児童遊園によくある砂場や遊具も設けられています。 

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    5. 矢倉(屋倉)と呼ばれる舌状台地手前です。ここで左手からの田端村の用水と合流、台地の裾を回り込んでいました。 

田端右岸5

2017-04-19 07:17:55 | 善福寺川3

 善福寺川緑地の南縁に沿う右岸流の続きです。五日市街道から離れ北上、旧田端、成宗村境手前で本流に近づき、新たに分岐した用水と合流します。この様子は→ 「田端村絵図」にも描かれていて、この堰は「新編武蔵風土記稿」では「一は西の方字権現下にあり」と書かれ、また、天保新堀用水のところでは「権現山堰」と呼ばれていたものです。堰からの合流を得た右岸流は、舌状台地を迂回、尾崎田圃(現緑地運動場一帯)の灌漑に向かいますが、成宗村に属する次のクールのテーマです。

 

Tabatau5

    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1. 右岸段丘を離れ左右とも雑木林となりますが、右手は善福寺川緑地には属さず、成田西いこい緑地という別区画です。

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    2. 左カーブでほとんど北向きのコース取りとなります。

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    3. 左カーブ、その先で右カーブと蛇行しています。上掲地図で左手に弧を描いているところです。

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    4. 左カーブの先で途切れていた右岸の崖面が復活します。 

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    5. いったん高くなっていた崖面が、徐々に低くなっていきます。堰が設けられているのはこのようなところです。 

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    6. 水路跡の路地は終了、あとは緑地の木立ちの中に紛れます。権現下堰この左手にありました。 

田端右岸4

2017-04-18 06:51:46 | 善福寺川3

 善福寺川緑地の南縁に沿う右岸流を追っています。最初は南下し、段丘上にある五日市街道に近づくと、左カーブで東に向きを転じ、しばらく並行します。その後、さらに左カーブで北に寄り、そのまま東行する街道と離れるところまでです。その間右手に崖面を見ながら細かく蛇行しており、途中コンクリート蓋も残されているなど、水路跡の様相を色濃くとどめている区間です。昭和30年代末に田圃は造成され善福寺川緑地となったのに伴い、田用水はお役御免になりましたが、排水路としてなお機能していたのでしょう。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1. 細かい蛇行はありますが、全体としては南に向かっているところです。

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    2. 左カーブで東に向きを転じ、建物一つを挟んで五日市街道と並行します。

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    3. 五日市街道に接近し、ほとんど接します。右手の階段を上るとすぐに街道です。

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    4. ここだけコンクリート蓋が残されています。段丘上にはバス会社の車庫があります。 

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    5. 徐々に北寄りに向きを変え、五日市街道と離れます。 

田端右岸3

2017-04-17 06:32:00 | 善福寺川3

 神通橋手前の堰で分岐した右岸流は善福寺川緑地に入り、その南縁に沿います。「杉並の通称地名」(平成4年 杉並区教育委員会)では谷戸下田圃、→ 「田端村絵図」では省略しましたが、字日生寺耕地を灌漑しているところです。日生寺(日性寺)は「新編武蔵風土記稿」に「南の方にあり、此地に古き寺にて、日性寺と云寺ありしとは伝へけれども旧地もしれず」と書かれた旧田端村の小名でした。杉並村大字田端の小字にも引き継がれましたが、昭和7年(1932年)の杉並区成立以降、住居表示のみならず公園名、学校名などからも失われてしまいました。

 

Tabatau3

    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

Tabataus38

    ・ 「陸地測量部発行の1/10000地形図(昭和4年測図) / 上高井戸」  上掲地図と同一場所、同一縮尺です。

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    1. 前回の最後に、神通橋手前の右手に階段がありましたが、階段を上った先を南に向かいます。

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    2. 神通橋に向かう通りを越えます。青梅街道と五日市街道を結ぶ、村絵図当時からの古道です。

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    3. 善福寺川緑地の入り口の脇から、車止め付の路地が始まります。 

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    4. 段丘の崖面と緑地を囲う柵に挟まれた路地は、蛇行しながら900mほど続きます。

田端右岸2

2017-04-15 06:48:29 | 善福寺川3

 田端村字大ヶ谷戸の水田を灌漑していた右岸の田用水を追っています。山神社下の堰からの合流を得たあと、右カーブで南下、前回は西田端橋に向かう通りを越えたところまででした。その先でいったん本流に戻りますが、そこにもう一つの堰があり、改めて右岸流を分岐していました。→ 「田端村絵図」で、村を縦断する通りの手前に描かれた堰にあたり、 → 「東京近傍図」にも、同じような右岸への分岐が描かれています。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

Tabataus22

    ・ 「昭和22年米軍撮影の空中写真」  上掲地図のグレー枠の部分です。同一個所に同一番号を振っています。

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    1. → 「段彩陰影図」で右岸段丘が後退していますが、流路もそれに応じて右カーブで西側に膨らんでいます。

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    2. 今度は左カーブで、その先に車止めが顔をのぞかせています。久しぶりの金太郎車止めです。

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    3. コンクリート蓋の路地が70mほど続き、最後に左カーブで本流に突き当たって終了です。 

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    4. 3.の合流地点から神通橋方向です。右手に分岐する道路が次回のテーマです。 

田端右岸

2017-04-14 06:00:39 | 善福寺川3

 下荻窪、田端の村境近くに戻り、田端村の右岸を灌漑した田用水を追います。この右岸流は元々、環八通りに架かる荻窪橋付近にあった薪屋の堰で分岐したもので、両村の境を流れる悪水堀(界堀)も合流していました。さらに、→ 「田端村絵図」で見るように、山神社下の堰からの合流も得て、田端村右岸の字大ヶ谷戸の水田を灌漑していました。なお、山神社は「新編武蔵風土記稿」に「小名大ヶ谷戸にあり、此所の鎮守なり」と書かれています。松渓中の東隣に当たる荻窪2-4にありましたが、明治末に田端神社に合祀されました。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1. 松渓橋の手前です。→ 「段彩陰影図」に見るように、右岸段丘が最も迫っているところで、台上に山神社が祀られ、その下に堰が設けられていました。

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    2. 分岐直後の水路跡は失われていて、松渓橋の一つ南にあるこの道路から再開です。

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    3. 右カーブの連続で東から南に向きを転じるところです。

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    4. 右カーブを抜け、ほぼ直線で西田端橋方向を目指します。なお西田は杉並区成立時の行政区分の名残で、旧田端村の西半分を占めていました。 

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    5. バス通りを越えます。右写真は西田端橋方向で、ここで本流に戻る水路を描いている地図もあり、道幅の様子からもそう推測できます。 

田端田圃2

2017-04-13 06:37:18 | 善福寺川3

 田端田圃を灌漑していた左岸の用水堀の続きです。間もなく荻窪団地(シャレール荻窪)の外周道路から離れ、→ 「段彩陰影図」の右下で、左岸から突き出す舌状台地の先端部分に沿います。田端神社の祀られているところで、矢倉(屋倉)と呼ばれていました。その途中で右手からの合流がありました。広場堰で分岐した成宗村用水で、ここから先は広場堰から改めて扱う予定です。

 

Tabatanbo2

    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1. 荻窪団地(シャレール荻窪)の南縁を画している道路を越えます。

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    2. 右手に車止めでガードされた歩道が出現します。水路は再び道路右手に戻っているところです。

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    3. ここも道路右手を並行していましたが、車止めもなく一般の道路と変わりません。

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    4. 車止め付の水路単独になります。左手の坂を上れば田端村鎮守、田端神社です。 

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    5. 広場堰からの用水堀が合流します。右写真は用水堀跡の天神公園で、合流地点から振り返っての撮影です。 

田端田圃

2017-04-12 06:36:24 | 善福寺川3

 荻窪団地(シャレール荻窪)の外周道路に戻り、田端田圃を灌漑していた左岸の用水堀の続きです。北側にある天水田圃からの水路の合流の後、用水堀は大きく右カーブ、田端田圃の東縁を南下します。なお、「杉並の通称地名」(平成4年 杉並区教育委員会)によると、田端田圃との呼び方は隣の荻窪地区から見てのもので、地元の田端地区では昭和25年(1950年)ころまで、本村(ほむら)田圃と呼んでいたそうです。一方、→ 「田端村絵図」には、煩雑さを避けるため省略しましたが、天水田圃の合流した前の田圃には「字高野ヶ谷戸耕地」、その右隣りの半円のところには「字田端耕地」と書き込まれています。

 

Tabatanbo1

    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

Tabatanm42

    ・ 「陸地測量部発行の1/20000地形図(明治42年測図) / 東京西近郊図」  上掲地図と同一場所、同一縮尺です。

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    1. 左手からの合流があった直後、外周道路の幅は狭くなります。「下水道台帳」では「水路敷」となっています。

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    2. 右カーブしながら水路単独のところを抜け、再び幅広の外周道路に出ます。

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    3. 次の右カーブの手前付近で、水路は外周道路の右手から左手にシフトしていましたが、道路の幅には反映されていません。 

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    4. この付近で新堀用水と交差していました。上掲「地形図」の点線は左岸段丘を貫くトンネルです。