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神田川 「まる歩き」 しちゃいます!!

ー神田川水系、支流はもちろん、旧水路、廃水路、全部 「まる歩き」ー

小石川大沼

2019-07-06 06:25:27 | 谷端川・小石川3

 今日見る小石川の流末は、水道橋の上流で神田川に合流していますが、これは江戸初期の神田川(平川)、小石川の付替えの結果で、それ以前の両河川の合流地点は、小石川大沼と呼ばれる低湿地だったと考えられています。「段彩陰影図」で見るように、西側の牛込、麹町台と北側の小石川台、それに東側の本郷台に挟まれた区画で、江戸時代には広く小川町と呼ばれていました。現行の小川町よりは西側にズレた、三崎町や西神田、神田神保町のあたりまでです。なお、大沼からは平川が流れ出し、日比谷入江に注いでいました。このあたりのイメージは、→ 「長禄年間江戸図」の描いているところです。

 

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    ・ 「段彩陰影図 / 小石川1」(1/18000)  小石川の下流部分と神田上水を、参謀本部陸軍部測量局の「1/5000実測図」(明治16年測量)を元に重ねました。オレンジ線は区境で、神田川が文京区と千代田区の境になっています。

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    ・ 神保町交差点  白山通りと靖国通りの交差するこのあたりが小川町の中心で、小身旗本の屋敷地が軒を連ねていました。現在は都内屈指の書店街です。 

 「ゆしまのたかだいのした、小いしかわのすえ池になりたる所、水はかせ、大かた干かたとなる。此分やしきにわり可申候、小身衆いろいろ申こまれ候、地せばく人多くわり立候事むずかしく、藤左衛門に申付、地ゑづかかせ、けんちうちて、それよりと申定む」「小石川水はきよろしくなり申、藤五郎の引水もよほどかかる」に先行する「天正日記」の一節で、家康の江戸入国当時、小石川大沼を干拓、のち小川町と呼ばれる武家地を造成した当時の記述です。なお、小川町の地名由来については、清らかな小川が流れていたとも、「小川の清水」と呼ばれる池があったとも伝えられ、太田道灌が「むさし野の小川の清水たえずして岸の根岸をあらいこそすれ」と詠んだのは、このあたりの風景だといわれています。

 


仙台橋・合流

2019-07-05 06:05:59 | 谷端川・小石川3

 水戸藩上屋敷を抜け、現外堀通りを越えると神田川です。そこに小石川最後の橋、仙台橋が架かっていました。万治年間(1658~60年)、仙台藩が担当した神田川拡張に際し架け替えられ、その名が付けられました。「仙台橋は水戸殿御館の御成門と通用門の間を、南の方に流るる溝にかゝるわづかの橋なり、万治元年仙台候に命せられ小石川の堀をほられしに、人歩等土木をはこふに此溝の橋あまりに小橋にて、馬車のかよひあいければとてあらたに板橋をかく、その度々破損せしにより石橋となせり、今に仙台候より懸らるゝゆへおのずから橋の名とすと」(「御府内備考」)

 

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    ・ 外堀通り  東京ドームシティの南端から、外堀通り越しに神田川との合流地点を見ています。この間に仙台橋が架かっていました。「東京府志料」の数字で長二間半程の石橋です。

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    ・ 合流地点  現在は防災用の船着場に転用されています。近くの解説プレートによると、一帯は市兵衛河岸と呼ばれ、神田川を利用した物資の(明治以降は砲兵工廠の)荷揚場として賑わいました。

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    ・ 合流地点  水道橋の上流80mほどのところです。小石川大下水の流路そのままに、東京ドームシティの地下を通る千川雨水幹線の合流地点でもあります。

 <万治年間の神田川拡張>  以下は万治年間に行われた神田川拡張工事に関する、「御府内備考」の記述の引用です。「今神田川といふは、船河原橋辺より御茶水、及び柳原堤外を過て浅草川に落合へるまでの呼称なり。此川昔は水も深からずして舟運送の不便なりしを、万治年中松平陸奥守綱宗に命じて、船入の川に掘割せ給ひし事は諸記に見えたり。『万治年録』云、三年庚子二月十日、牛込より和泉橋迄船入堀普請、松平陸奥守被仰付之、依在国以奉書被伝之。・・・・然るを世の人、駿河台と本郷とは元山丘一連の地なりしを、綱宗新に掘割て今の地形に変ぜしといひ伝ふるは誤なり。本郷と駿河台との間の谷にもとより細流在しを、堀広げしめ給へるに過べからず」

 


水戸藩上屋敷

2019-07-04 06:59:01 | 谷端川・小石川3

 東大下水との合流後、水戸藩上屋敷に入った小石川大下水を追って、東京ドームシティまできました。小石川邸の造営は寛永6年(1629年)ですが、それから十数年後と目される→ 「寛永江戸全図」を見ると、小石川の流末は直線的に描かれており、当時から大下水化していたようです。また、邸内に入る神田上水も描かれており、上水と大下水の交差も、当初からのものだったと思われます。その際、上水が懸樋で越えていたことは、寛文6年(1666年)の町触の一節、「小石川水戸様御屋敷之内・・・・上水懸戸樋御普請」の引用とともに、これまでもたびたび触れてきました。 

 

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    ・ 「参謀本部陸軍部測量局の1/5000実測図(明治17年測量)」  「紙久図や京極堂 古地図CD-ROM」収録の北部の一部で、同社の基準(72dpi)で掲載しています。東京ドームを薄グリーンで、丸ノ内線を黒で、外堀通り、白山通りなどをグレイで重ねています。 

 大下水化したとはいえ元は自然河川の小石川です、たびたびの氾濫が小石川邸を襲いました。中でも寛延2年(1749年)8月には、月初から降り続く雨に台風が重なり、大洪水となります。「八月十三日 江戸洪水、小石川邸中水深五六尺、大下水表河岸溺死ノ屍其数ヲシラズ、舟河原橋流没ス。邸内ヨリ船ヲ出シテ其溺ヲ救フ数十人ニ及ベリ」(「水戸紀年」) 小石川邸の上流の下冨坂町で水深6尺、柳町の水深7尺、戸崎町水深4尺と、一帯はほとんど水没状態で、伝通院裏門前大下水橋などが流失しています。

 

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    ・ 東京ドームシティ、ラクーア  ジェットコースターの下を抜け、奥の東京ドームホテルとタワーの間に向かっていたはずです。

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    ・ 東京ドームシティ、クリスタルアヴェニュー  右手にある東京ドームを抜けてきた神田上水と交差していたのはこのあたりです。 

富坂2

2019-07-03 06:36:14 | 谷端川・小石川3

 現在の富坂下から100mほどで、東京メトロ丸ノ内線の高架下ですが、そこが水戸藩上屋敷の北端にあたり、元々の富坂の上り口があったところです。大下水化した後の小石川は、水戸邸に突き当たって左折、その北縁に沿って100mほど東に向かいます。そこで、現白山通り沿いに南下してきた東大下水と落合い、右折して水戸邸に入りました。なお、東大下水についてはクールを改めて詳細します。

 

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    ・ 「参謀本部陸軍部測量局の1/5000実測図(明治17年測量)」  「紙久図や京極堂 古地図CD-ROM」収録の北部の一部で、同社の基準(72dpi)で掲載しています。

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    ・ 丸ノ内線高架手前  正面が東京ドーム、右手が丸ノ内線後楽園駅です。大下水はここで左折、そこには石橋が架かっていました。「小石川西富坂町ニアリ無名石橋ナリ」(「東京府志料」)

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    ・ 丸ノ内線高架手前  左折後東に向かい、途中右折して水戸邸上屋敷(現東京ドームシティ)を縦断します。上掲「実測図」に重ねた現在の道路や丸ノ内線から、位置関係の大略が分かります。  

 <「こころ」>  以下は夏目漱石の「こころ」にある、伝通院近くに下宿していた「先生」の手記の一節です。「砲兵工廠の裏手の土塀について東へ坂を下りました。その時分はまだ道路の改正ができない頃なので、坂の勾配が今よりもずっと急でした。道幅も狭くて、ああ真直ではなかったのです。その上あの谷へ下りると、南が高い建物で塞がっているのと、放水がよくないのとで、往来はどろどろでした。ことに細い石橋を渡って柳町の通りへ出る間が非道かったのです」 砲兵工廠は旧水戸藩上屋敷にあった陸軍兵器工場なので、その裏手の坂は元の富坂ということになり、その明治41年の市電開通のための「改正」以前の様子です。

 


富坂

2019-07-02 06:34:52 | 谷端川・小石川3

 富坂下で春日通りを越えます。この界隈では最も有名な富坂ですが、もともとは100mほど先の水戸屋敷裏、現地下鉄後楽園駅あたりが上り口でした。現在の位置にシフトし、拡張、整備されたのは、明治41年(1908年)の路面電車開通に伴うもので、伝通院前の安藤坂の拡張、整備と同じ時期、同じ理由によります。表記も鳶坂、飛び坂があり、鳶坂なら物語由来で、鳶が多く群れ、手に持った肴を奪った、あるいは鳶を捕らえ、小屋をかけて飼う役人がいたからなど、飛び坂なら地形由来で、谷をはさんで東富坂と西富坂、あるいは向富坂と前富坂の二つの坂が向き合っているから、といった説明がなされます。

 

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    ・ 富坂下交差点  ここが千川通りの起点です。なお、正面に見える東京ドーム手前の地下鉄丸ノ内線の高架あたりが本来の富坂下です。

 市谷、四谷のところで触れた「四つの谷」説では、この富坂下を二ヶ谷(あるいは二の谷)としています。「二ヶ谷は富坂下の谷なりと、さして谷といふへくもあらざれと、向ふとび坂の間にありて谷のさまなる故かゝる名をおひしなるべし」(「改選江戸志」)「一ヶ谷、二ヶ谷とつゞきの谷なり、三ヶ谷は駒込にあり」(「紫一本」) いずれも「御府内備考」の孫引きです。その二ヶ谷右岸は慶長年間(1596~1615年)、鷹狩りの鷹の餌を捕える役目である餌差衆の拝領地となり、坂上から順に上、中、下餌差町と呼ばれ、元禄6年(1693年)には町奉行支配となり、上、中、下富坂町と改称しました。

 

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    ・ 富坂  交差点右手のショットで、春日通りはすぐに小石川台、伝通院方面への上りに差し掛かります。坂上に見えるのは中央大学理工学部の建物です。

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    ・ 東富坂  上掲写真とは逆の左手方向で、春日通りは150mほどで白山通りと交差、その先が本郷台への上り坂で、東富坂あるいは真砂坂と呼ばれています。

千川通り5

2019-07-01 06:37:25 | 谷端川・小石川3

 千川通りは柳町小学校の先で右カーブ、そのままほぼ直線で南下します。これまでは田地の混在していた流域ですが、ここから先は町屋、武家地が占め、江戸時代の早い時期に、直線的な改修、大下水化が完了していた区画です。「大下水 幅九尺程 右者当町東裏を相流、水源は戸崎町裏の方より流来末は水戸様御屋敷内に入、神田川に落入申候」「丸太橋 長壱丈弐尺余、巾六尺」 これはこんにゃく閻魔で有名な源覚寺の前後にあった町屋、下富坂町にかかわる「御府内備考」の記述です。

 

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    ・ 千川通り  柳町小の先で右カーブ、ほぼ直線で南下します。小石川は通りの右手を並行していて、江戸時代から大下水化していたところです。

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    ・ 善光寺坂  右手台上に上る善光寺坂の中腹から、千川通りを見下ろしています。坂下から小石川に合流する水路を描いている地図もあります。 

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    ・ 千川通り  ここに嫁入橋が架かっていました。「板橋 長壱丈弐尺、巾六尺余」(「御府内備考」) なお、右手はこんにゃく閻魔で有名な→ 源覚寺です。

 <新開>  一帯は明治20年頃開発され、新開と呼ばれました。砲兵工廠の工員が住み、銘酒屋や射的屋が軒を並べる、雑然としたところでした。隣町の丸山福山町に住んだこともある樋口一葉は、「にごりえ」(明治28年)の舞台を新開の銘酒屋菊の井に設定、その看板遊女お力を主人公としています。なお、作中に「丸木橋を渡る」との比喩が登場します。「我恋は細谷川の丸木橋、渡るに怖し渡らねば」なる端唄を踏まえたもので、丸木橋を渡るかどうかの葛藤を胸に、お力は閻魔様のお盆の縁日の雑踏を彷徨しますが、源覚寺のこんにゃく閻魔、小石川に架かる丸木橋(丸太橋)という、この界隈の実際を踏まえた道具立てになっています。

 


千川通り4

2019-06-29 06:51:23 | 谷端川・小石川3

 江戸時代、戸崎町の隣の町屋は御掃除町でした。「当町の儀は小石川村の内にて伝通院知行五百石の内に御座候処、前々より伝通院並外御方々様御廟所御掃除歩役相勤候に付、寛文三卯年十二月伝通院より公儀え被相願、右御掃除に罷出候拾六人え永代役屋敷に被相渡、町並家作仕右の者住居候に付御掃除町と相唱・・・・御廟所御掃除今以右拾六人にて相勤候」(「御府内備考」) 明治に入り近隣の武家地、御先手組屋敷などと共に掃除町となりました。現在の小石川一丁目の北側にあたる区画です。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)  

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    ・ 「参謀本部陸軍部測量局の1/5000実測図(明治17年測量)」  「紙久図や京極堂 古地図CD-ROM」収録の北部の一部で、同社の基準(72dpi)で掲載、上掲地図のグレー枠の部分です。

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    2. 無量院の先で右手に蛇行します。その個所が千川通りから半月状にはみ出して残っています。 

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    3. ワンブロックで左カーブ、奥の建物の先の千川通りに戻ります。この先、上掲「実測図」で回し堀とともに水車が描かれています。

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    4. 柳町小入口交差点です。ここに「板橋 長三間半余、幅二間」が架かっていました。「実測図」には「千川橋」とあります。 

極楽水

2019-06-28 06:55:39 | 谷端川・小石川3

 「吉水山宗慶寺  同所三丁ばかり西北にあり。朝覚院と号す、浄土宗にして伝通院に属せり。・・・・相伝ふ、伝通院の了誉上人、応永22年(1415年)乙未此地に至り、隠栖の地を卜し草庵を葺きてこゝに居せらる、側に清泉あり、洛陽の祖跡を追慕し是を吉水と号く、則当寺是なり。・・・・極楽水、境内本堂の前にある井を云、上に屋根を覆ふ、吉水と号くるもの是なり。此辺をすべて極楽水と唱ふるは、此井に依て名とすといへり」(「江戸名所図会」)  

 

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    ・ 「江戸名所図会 / 宗慶寺極楽水」  門を入って右手を→ 拡大すると、屋根で覆われた井戸に「極楽水」とあります。なお、吹上坂は門前でクランクになっていて、これは→ 「東京近傍図」でも同様です。  

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    ・ 吉水山宗慶寺  当時と違って直線で上る吹上坂の中腹にあって、直接坂に面して建っています。背景の高層マンション辺が松平播磨守上屋敷旧地です。

 一方、「御府内備考」は「町内(橋戸町)里俗極楽水と唱来申候儀は、松平播磨守様御上屋敷内に了誉上人古跡、極楽の井有之候に付唱来候儀と奉存候」と書いていて、極楽水の所在場所は宗慶寺境内なのか、松平播磨守上屋敷なのかは問題です。「御府内備考」は別のところで、「宗慶寺地所の儀は寛文ニ年(1662年)壬寅四月廿九日御用地に被召上、松平播磨守様え同様御拝領地に被下置、宗慶寺は同所吹上下の方え引移、当時字極楽水と相唱候処に罷在候」と書いています。どうやら、元は極楽水=宗慶寺だったものが、湧水の地に松平播磨守の上屋敷ができ、近くに移転した宗慶寺の井戸もまた、極楽水と呼ばれるようになったようです。

 

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    ・ 極楽水跡  高層マンションの敷地内にありますが、通り抜けのできる道が設けられていて、見学可能です。残念ながら湧水を見たことはありません。  

千川通り3

2019-06-27 06:45:39 | 谷端川・小石川3

 小石川沿いに出来た町屋のうち、もっとも北にあるのが橋戸町、石橋を挟んで隣接していたのが戸崎町です。石橋は「長九尺余巾八尺余」の規模で、橋戸町の地頭伝通院の一手持でした。「東京府志料」の橋梁リストでは、「小石川久堅町ニアリ無名板橋ナリ」となっていますが、明治に入り成立した町名から久堅橋と呼ばれるようになります。なお、橋戸町の町名はこの橋に由来します。「町内中程に古来より橋有之候に付橋戸町と相唱候」(「御府内備考」)

 

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    ・ 千川通り  植物園前交差点です。右手に見えるのが吹上坂の上り口で、橋戸町の由来となった石橋が架かっていました。なお、正面右手は共同印刷ですが、→ 「東京近傍図」には池が描かれています。  

 一方、戸崎町の由来に関する興味深い伝承が、やはり「御府内備考」に収録されています。「往古此辺一円沼川に有之、小石川の流此辺の沼水落込、小川町辺え相流候由申伝、白山御殿御取立以後も通船有之、此辺迄は遠浅にて着船不申故・・・・」 以下長くなるので要約すると、数隻の船が白山御殿に向かって舳先を並べ、荷物の積み下ろしをしていた様から、舳先(へさき)町、その後戸崎(とさき)町となったというものです。

 

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    ・ 吹上坂  「坂 長三拾間、幅弐間半、右当町(善仁寺門前)北の方松平播磨守様御屋敷脇、宗慶寺前に有之候、右御屋敷内に有之候極楽水、高き所より湧吹上水とも申候」(「御府内備考」) 

 一方、右手は新たに開削された播磨坂です。台上の春日通りに至る、意味不明なほどの幅広道路ですが、戦災復興により外苑東通りと結ばれるはずだった、幻の環状3号線の一部として開削されました。坂名は常陸府中藩二万石、松平播磨守によっており、一万六千坪余の上屋敷及び抱え屋敷を有していました。なお、中央分離帯や坂周辺に植えられた150本近い桜並木は、今では区内有数のお花見スポットに成長、→ 「文京さくらまつり」の舞台となっています。

 


小石川植物園

2019-06-26 06:55:28 | 谷端川・小石川3

 網干坂に隣接する左岸段丘には、起伏にとんだ地形を利用した小石川植物園(敷地面積16万㎡余)があります。その歴史は古く、氷川神社や白山神社の鎮座する景勝の地に、五代将軍綱吉がまだ館林藩主だった当時、小石川御殿(白山御殿)を営んだのが承応元年(1652年)、その後幕府直営の大塚にあった薬草園(御薬園)が、護国寺造営に伴い転々としたあと、貞享元年(1684年)には当地に落ち着き、さらに享保7年(1722年)には養生所が併設されました。明治に入り東京大学が設立された際、付属植物園となり今日に至っています。

 

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    ・ 小石川植物園  白山御殿の名残の大泉水です。奥の白山台上には、御薬園当時からの薬用植物が栽培され、また養生所の→ 井戸も残されています。

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    ・ 小石川植物園  網干坂側にある赤い建物は、明治9年(1876年)建築の旧東京医学校本館で、本郷にあったのを移築した国の重要文化財です。

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    ・ 小石川植物園  園内には上掲写真の大泉水をはじめ、大小の沼池が連なっています。その最深部に祀られた次郎稲荷付近からは、湧水が流れ出しているようです。

 御薬園内の大泉水の余水も小石川の水源の一つでした。以下は小石川御薬園と小石川の間にあった町屋、戸崎町に関する「御府内備考」の記述です。「石橋 長三尺、幅弐間程、右当町より北の方御薬園下通武家屋敷角に有之、橋名無御座、御薬園より清水出候下水橋にて、右清水町内前え流大下水え落申候」 ちなみに同じ戸崎町のところで、小石川に関しては次のように述べています。「下水 巾弐間より三間迄 右当町南の方橋戸町境を流、水上は巣鴨村の方より小石川氷川明神下田間を流来、流末は水戸様御屋敷え入、水道橋え落申候、当時此辺にて川名唱不申候得共字の儀は小石川と唱申候」

 


祗園橋(氷川橋)

2019-06-25 06:04:02 | 谷端川・小石川3

 簸川神社のところでUPの→ 「江戸名所図会」の左下隅に、小石川に架かる祗園橋が描かれています。「続江戸砂子」(享保20年 1735年)によると、「七八間の土橋」でした。ただ、「新編武蔵風土記稿」にその名はなく、小石川村のところで「橋二を架す各長二間、一は板橋にて氷川橋と唱へ、一は石橋にて猫股橋と称す」とあるうち、氷川橋のことと思われます。それが、「東京府志料」の橋梁リストでは再び祗園橋となっていて、「板橋長二間半幅四尺 名義詳ナラス」と書かれています。

 

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    ・ 湯立坂  中腹からのショットで、坂下に祇園橋(氷川橋)が架かっていました。左手の茂みは→ 窪町東公園で、坂沿いの細長い公園です。 

 なお、湯立坂の由来に関して、「御府内備考」は「江戸志」を引用しています。「里人の説に、往古はこの坂の下は大河の入江にて、氷川の明神へは河を隔てゝ渡ることを得ず、故に此所の氏子とも此坂にて湯花を奉りしより坂の名となれり」  小石川の入江がこのあたりまで食い込んでいたことは、対岸の網干坂や隣町の戸崎町の地名由来ともかかわり、広く伝承されていたようです。(戸崎町の由来については、該当個所で詳細します。)

 

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    ・ 占春園  湯立坂の北側の段丘斜面にある大名庭園で、園の中央を占める池は落英池、架かる橋は折柳橋と呼ばれていました。現在は自然観察園の一部になっています。

 占春園を含む北側一帯一万数千坪は、陸奥守山藩(福島)二万石、松平家(藩祖は水戸光圀の弟)の上屋敷及び抱屋敷でした。明治36年(1903年)、東京高等師範学校の敷地となりましたが、その後身の東京教育大学が筑波に移転してからは、筑波大付属小学校など関連施設を除くと、段丘上の敷地の大半が教育の森公園となっています。一方、千川通りに近い段丘斜面には、その起伏を利用して大名庭園が造られ、占春園と呼ばれました。青山の池田邸、溜池の黒田邸とともに、江戸の三名園の一つとされたとか。現在は附属小学校の自然観察園ですが、一般にも公開されています。


千川通り2

2019-06-24 06:41:40 | 谷端川・小石川3

 猫又坂下を越え、旧小石川村に入った谷端川、これ以降は小石川と呼ぶことにしますが、その流路を追っての二回目で、千川通りの右手にシフトしてからです。右手に移ってから後は、これまでと違い、現行の道路との重なりは断続的なものになります。暗渠化直後は、流路そのままの道路が残されていましたが、戦後一部宅地となって失われたためです。なお、右手にあるのは300mほどの間で、湯立坂下を越え再度千川通りに戻るまでです。そこから先は千川通りとほとんど重なり、通りの左右に水路跡を求めても徒労に終わります。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)  

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    ・ 「陸地測量部発行の1/10000地形図(昭和4年第三回修正) / 早稲田」  上掲地図と同一場所、同一縮尺です。暗渠化直後の → 「昭和12年第四回修正」を見ると、流路がそのまま道路になっています。

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    1. 千川通りの右側にある道路の途中から再開します。

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    2. 網干坂対岸の湯立坂下に出ます。ここに架かっていた祇園橋(氷川橋)は次回のテーマです。 

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    3. 2.の奥の道路で、すぐに左折して千川通りに出ます。

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    4. 千川通りです。ここから先の流路は、ほとんどこの通りと重なります。

千川通り

2019-06-22 06:21:23 | 谷端川・小石川3

 都道436号線のうち、猫又坂下にあたる千石3丁目交差点から先は、千川通りと通称されています。これは谷端川(小石川)を暗渠化して開通した当時、千川の呼び名が一般化していたため、通りの名前もそう呼ばれるようになったものです。昨日UPした簸川神社に建てられた「千川改修記念碑」もそうですが、例えば一度引用した昭和5年(1930年)の谷端川改修計画においても、「其ノ下流ハ市内ニ入リ千川トナリ、小石川区を経・・・・」というように、小石川区以降を千川と呼んでいます。なお、本物の千川上水を暗渠化したうち、練馬区関町1丁目・豊島区南長崎6丁目間の都道439号線も、千川通りと通称されています。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1. 猫又橋の遺構の下の路地から再開します。

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    2. 千川通りとの間に、気になる車止め付きの路地がありますが、水路跡かどうかは不明です。

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    3. → 「東京近傍図」はこの右手に水車マークを描いています。現在も本社のある太田胃散が製薬に使っていたようです。 

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    4. このまま進むと簸川神社下に出ますが、右折して千川通りに出ます。 

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    5. 左折して千川通りに合流、次の信号の先まで右手を並行した後、右折して南側に離れます。

簸川神社

2019-06-21 06:05:38 | 谷端川・小石川3

 「氷川明神社 同所西の方五町ばかりにあり。相伝ふ、孝昭天皇の御宇の鎮座なりと云々。祭神武州大宮の氷川明神に同じ、昔は白山御殿跡の地にありしが、白山権現と共に地を替させられしより、当社は此地に遷る。極楽水宗慶寺の持にして、祭祀は九月十日なり。・・・・当社は千有余年を経る所の宮社にして、八幡太郎義家公奥州下向の時、当社に参籠ありしと云伝ふ。中古荒廃して形ばかり残りしを、伝通院の開山了誉上人、此地の幽遂を愛し庵を結んで聖冏庵(しょうけいあん)と号け、此地に閑居ありし頃、宮居を重修ありしとなり。聖冏庵は本社より右にありて、今は氷川明神の御供所なり」(「江戸名所図会」)

 

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    ・ 「江戸名所図会 / 氷川明神社 聖冏庵旧跡 祇園橋」  神社下から左下隅の小石川まで氷川田圃が広がっています。小石川に架かる祗園橋(氷川橋とも)については、該当個所で改めて扱います。

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    ・ 網干坂  「図絵」にも描かれた白山台地に上る坂で、左手が簸川神社、右手は小石川植物園裏門ですが、一般の入口はここから700mほど先にあります。

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    ・ 簸川神社  鳥居脇に立っているのは、「千川改修記念碑」です。裏面に「昭和九年九月建立」と刻まれていて、暗渠化の年が特定できます。  

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    ・ 簸川神社  社殿は先の大戦で焼失後、昭和33年(1959年)再建されました。なお、社殿前の幟(のぼり)立ては、元禄5年(1692年)に奉納されたものです。

小石川村

2019-06-20 06:18:13 | 谷端川・小石川3

 「小石川は日本橋より一里八町許、古は広き地にて江戸古図にも載せ、又『回国雑記』に、小石川と云る所にまかりて、我かたを思ひ深めて小石川、いつこを瀬とか恋渡るらんとみへ、『北条役帳』に五貫四百八十文、島津孫四郎知行小石川内法林院分松月分・・・・と載たり、然るに後年次第に武家屋敷寺社の拝領地及び町屋等に、起立ありしより、今村地に属するものは僅に百四十四石余の地なり、其四界東は御薬園及び・・・・武家屋敷、南は小石川橋戸町宗慶寺、西は松平播磨守・・・・及武家屋敷小石川大塚上町等にて、北は巣鴨村小石川新田なり、・・・・民戸二十四」(「新編武蔵風土記稿」)

 

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    ・ 「東京近傍図 / 下谷区」(参謀本部測量局 明治13年測量)の一部を加工したもので、本来の縮尺は1/20000、パソコン上では1/12000ほどです。オレンジ線は区境で、左上隅の豊島区以外は文京区です。  

 以下は小石川の地名由来に関する「御府内備考」の引用です。「『江戸志』に、此地は小石の多き小川幾流もある故小石川と名付しといふ、こは最古世の話なるにや、詳なる事を聞かす、正保改の武蔵国図には、今の御薬園の西なる田間より伝通院後の方へ達する流と覚しき川を小石川と注したり、則『江戸砂子』に、伝通院の後の流れ猫また橋の川筋を小石川の濫觸(らんしょう 物事の始まり)と書くも是なり、・・・・一説に『神社略記』を引て、白山権現は加賀国石川郡より勧請せしゆへ小石川の名起りしと云、是最無稽の言なり、白山権現を此地に移せしは元和元年の事といへり」

 

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    ・ 簸川神社  小石川植物園内にありましたが、白山御殿造営のため転出、当地に遷座したのは元禄12年(1699年)です。なお、簸川(ひかわ)は当社独自の表記です。 

 途中省略したところには、冒頭の「新編武蔵風土記稿」にあった「回国雑記」(准后道興 長享元年 1487年)や「北条役帳」が引用されています。なお、「新編武蔵風土記稿」にある、川名としての小石川に関する記述は以下の通りです。「小石川 村の中程にあり、幅三四間巣鴨村より入て橋戸町へ達す、巣鴨村にては谷端川と呼へり、橋二を架す、各長二間、一は板橋にて氷川橋と唱へ、一は石橋にて猫股橋と称す」