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神田川 「まる歩き」 しちゃいます!!

ー神田川水系、支流はもちろん、旧水路、廃水路、全部 「まる歩き」ー

目白坂2

2018-08-28 06:19:10 | 落合・目白崖線

 目白不動旧地の脇を抜け、目白坂(不動坂)をなおも上ります。坂から台上にかけての左右は、江戸時代ほとんどが武家地でしたが、関口台町と呼ばれる町屋もありました。「町名之儀関口村之内高場に付台町と相唱来候哉に奉存候」(「御府内備考」) 明治に入り、上総久留里藩黒田家、肥前熊本藩細川家などの藩邸や武家地を併せ、小石川区関口台町を形成しました。現在の関口2、3丁目のあたりで、関口台の名前は小学校や公園に残されています。一方、台上には目白台の通称もありました。「御府内備考」の関口台町の項に「町内一円目白台と相唱候」とあります。こちらの方は現行の住居表示に採用され、より一般的になりました。

 

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    ・ 目白坂  昨日UPの→ 「江戸名所図会」で、新長谷寺の表門の横の右カーブにあたり、今でも坂の中で一番幅が狭くなっています。  

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    ・ 目白坂  台上で右手からの新目白坂と合流するところです。新目白坂は目白坂のバイパスとして、明治の中ごろに開削されました。正面は東京カテドラル聖マリア大聖堂の鐘楼、左手は椿山荘です。

 <目白通り>  目白台の尾根筋を縦断するのが目白通りです。練馬経由で清戸(清瀬市)に至ることから、清戸道と呼ばれ、あるいは練馬道と書いた村絵図もあります。主として農作物を江戸市中に運ぶ生活道路として重要でした。ちなみに、大正7年(1918年)発行の「北豊島郡誌」のなかに、郡内の主要道路の一時間当たりの交通量が載っています。うち清戸道を通る人数は九位ですが、荷車に関しては中山道に次いで二位になっていて、運送中心の道路であることが数字的にも反映されています。

 

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    ・ 目白通り  右手から不忍通りが合流します。 → 「下高田村絵図」で、「護国寺江之道」とあるところで、ここから先は旧下高田村に属し、現在は文京、豊島の区境です。

目白坂

2018-08-27 06:33:00 | 落合・目白崖線

 「坂 登凡弐丁程幅三間余 右は門前より東之方桜木町石橋際より西之方新長谷寺前迄登り候坂に而右長谷寺目白不動御座候故里俗目白坂と相唱申候」 「御府内備考」の関口大泉寺門前の項の記述で、目白不動の脇を抜けるところは不動坂と呼ばれました。「不動坂 目白不動の脇なれは名とす」 現在は通して目白坂と呼ぶのが一般です。音羽通りで目白崖線の東端まで達した後、Uターンしてこの目白坂を上り、目白台上をしばらく西に向かいます。なお、引用文中の石橋は弦巻川(鼠ヶ谷大下水)にかかわるもので、次のクールの「弦巻川・水窪川」で扱う予定です。

 

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    ・ 「江戸名所図会 / 目白不動堂」  本文には「此地麓には堰口の流を帯び、水流淙々として日夜に絶ず、早稲田の村落、高田の森林を望み風光の地なり、境内貸食亭多く何れも涯に臨めり」とあります。  

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    ・ 目白坂  高架は首都高5号池袋線で、その下辺りに大下水の石橋が架かっていました。なお、冒頭で触れた大泉寺は上り口の右手に現存しています。  

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    ・ 目白坂  右手の正八幡神社は関口八幡宮、あるいは上の宮と呼ばれていました。下の宮は椿山八幡とも呼ばれ、水神社の社地にありました。先日UP→ 「図会」では並んで描かれています。

 <目白不動>  上掲写真の正面奥で、目白坂は右カーブしますが、そのまま直進して目白不動の表門に至る参道がありました。「図会」の左下隅の階段状のところです。脇を抜ける目白坂(不動坂)と崖線の際に囲まれた三角形が、目白不動堂のある新長谷寺境内で、「時の鐘」のお寺としても有名でしたが、戦災で焼失し廃寺となったため、目白不動は→ 金乗院に移り、跡地にはマンションが立ち並んでいます。なお、目白不動は、目黒、目赤、目青、目黄とともに、江戸五色不動の一つとして語られたりします。ただ、目青、目黄は「江戸名所図会」の時代にはなく、陰陽やら風水やらの伝説が先行し、明治時代になってから五色がそろった、というのが実際のようです。

 


江戸川公園

2018-08-25 06:28:40 | 落合・目白崖線

 大滝橋から江戸川橋までの神田川左岸は、延長500mほどの細長い公園になっています。公園として整備するきっかけとなったのは、明治43年(1910年)の大洪水のあと、大正に入ってから着工された神田川の護岸改修工事でした。完成は大正8年(1919年)ですが、同じ年に公園も開園し、当時の神田川の名前から江戸川公園と名付けられました。なお、明治43年の大洪水は明治期最大の水害で、被害総額は1億2千万円余、当時の国民総所得のおよそ4.2%にあたる数字だそうです。この水害を教訓に荒川放水路が開削され、荒川、隅田川の流路は現行のように整備されました。

 

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    ・ 江戸川公園  大滝橋からのショットで、江戸川橋からものは→ こちらです。江戸川公園はお花見スポットとして有名ですが、神田川の拡幅工事に伴い、昭和58年(1983年)に植えられました。 

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    ・ 江戸川公園  江戸川橋に近づくにつれ、公園はますます狭くなり、ほとんど遊歩道と崖面だけになります。その崖面も徐々に低くなり、目白崖線の東端はもうすぐです。

 <関口大洗堰>  大滝橋のやや下流には堰が設けられ、神田上水を分水していました。関口村の名前の由来となったものです。「堰 神田上水と江戸川の分水口にあり、大洗堰と号し、御普請所なり、石にて築畳み、大さ長十間幅七間の内水口八尺余、側に水番人の住せる小屋あり」(「新編武蔵風土記稿」) 江戸川公園が開園した当時も現存しており、水門を鉄製にするなど若干の改修も行われました。その後、昭和8年(1933年)には大洗堰からの取水は停止され、同12年に堰自体も撤去されました。

 

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    ・ 取水口の石柱  大洗堰の取水口に、水量調整のための角落(かくおとし)と呼ばれる板をはめ込むための石柱で、大洗堰の廃止に伴い撤去されたものが保存されています。

椿山

2018-08-24 06:21:06 | 落合・目白崖線

 → 「段彩陰影図」の右半分で、目白崖線は神田川とほとんど接しますが、一個所、短い谷筋が切れ込み、池が点在しているところがあります。江戸時代、ツバキの自生する景勝の地として知られた椿山です。「若葉の梢」に「鎌倉合戦の頃、此辺に伏兵を入置きし事あり。其頃より椿多くありて名もきこへけると云とぞ、・・・・鶯此谷に多」とあり、また、広重の「江戸名所百景」にも、「関口上水芭蕉庵椿山」として描かれています。江戸末には上総久留里藩三万石、黒田家の屋敷地でしたが、明治11年(1878年)に元勲、山県有朋が入手し、別邸、「椿山荘」が設けられました。のち、同じ長州出身の藤田平太郎男爵が譲り受け、現在は藤田観光の経営するホテル&結婚式場となっています。

 

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    ・ 「陸地測量部発行の1/10000地形図(明治42年測図) / 早稲田」  西側に田中邸とありますが、土佐出身の元勲で宮内大臣を永く務めた田中光顕伯爵邸です。  

 椿山の谷頭は二つあり、各々から発する小流れがあります。うち東側のものは、ほたる沢と呼ばれる狭く深い谷を刻んでおり、一方、西側のものは幽翆池(ゆうすいち)を形成しています。その幽翠池の解説プレートによると、「西側に隣接する野間邸の湧水を水源とする人工の池」だとあります。「明治42年測図」で田中伯爵邸の池からの流れが、山県邸へと注いでいますが、旧田中邸(蕉雨園)はその後、講談社社長の野間清治が入手、現在は講談社が管理しています。ただ、一般公開されていないので、水源がどうなっているかは未確認です。

 

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    ・ ほたる沢  弁慶橋から覗いています。ほたるの生育もみられるようで、毎年6月から7月にかけて、「ほたるの夕べ」が企画され、椿山荘の夏の風物詩になっています。 

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    ・ 幽翆池  茂みの中に三重塔の先端が見えます。建築年代は室町時代末(推定)、広島県の山中に長く放置されていたものを大正時代に移築しました。池の北端には→ 人工の滝が設けられています。 

駒塚橋

2018-08-23 06:14:26 | 落合・目白崖線

 「神田上水堀に架せり、長九間駒塚橋と号す、相伝ふ古へ橋北に老松一株あり、行客常に駒を繋しゆへ駒繋橋と称せしか、後松も枯しより駒塚橋と呼誤れりと云、又駒塚の名義に付て異説あれと、虚誕の伝にして取かたし」(「新編武蔵風土記稿」) これに対し「江戸名所図会」は橋名を駒留橋とし、「駒とめて猶水かはん山吹の花の露そふ井出の玉川」という古歌によっているとか、あるいは、源頼朝がここで駒を引き返した、といった伝承を収録しています。なお、「若葉の梢」によると、古来丸木橋が架かっているだけだったが、御成り道となったため板橋に架け替えたとあります。いずれにしても、江戸時代には面影橋の次の橋はこの橋でした。

 

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    ・ 「江戸名所図会 / 芭蕉庵 五月雨塚 駒留橋 八幡宮 水神宮」(文字は活字に置き換えています。)  

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    ・ 駒塚橋  神田川の改修に伴い100mほど上流に架け替えられたため、正面左手に→ 水神社、正面の→ 胸突坂の右手に芭蕉庵(「図会」中では竜隠庵)という位置関係になりました。 

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    ・ 神田川  駒塚橋から下流方向で、正面はホテル椿山荘です。元の駒塚橋はホテルの手前の右カーブ付近にありました。前回UPの→ 「明治42年測図」で白く抜いたのが移動後の駒塚橋です。 

 <芭蕉庵> 「龍隠庵(りゅうげあん)と称す、俗に芭蕉庵とも云、俳人芭蕉の塚あり、此地は丘の中腹にて古松なと多く、前は上水の流を帯田間を越て早稲田赤城の辺まで打開け、少しく景勝をなせり」(「新編武蔵風土記稿」) 松尾芭蕉は延宝5年(1677年)から数年間、神田上水の改修工事にかかわり、その際、当地に仮の住居を構えました。竜隠庵に住んだのか、近くの水番屋に住んだとの説もあり、その辺は定かではありませんが、ともあれ旧跡は彼を慕う俳人たちの聖地となりました。33回忌には→ 芭蕉堂も建てられ、敷地内には芭蕉直筆の「古池や・・・・」の→ 句碑などが保存されています。また、崖下から石鉢に滴る→ 湧水は都の選定した「東京の名水57選」の一つです。

 


三村境

2018-08-22 06:05:35 | 落合・目白崖線

 豊橋の下流で目白崖線と神田川はほとんど接します。→ 「段彩陰影図」で、豊島、文京、新宿三区の境のところで、江戸時代は下高田、関口、下戸塚三村の境でした。その前後の左岸は肥後熊本藩54万石、細川家の屋敷で、大名屋敷のお約束の回遊式泉水庭園がありました。一帯は他にも大名屋敷がありましたが、明治に入りほとんどが四散する中、細川家は永く本宅として維持していたため、現在に至るも大名庭園の面影を残しています。昭和30年代に東京都が取得、その後文京区に移管され、現在は肥後細川庭園として、無料で一般に公開されています。

 

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    ・ 「陸地測量部発行の1/10000地形図(明治42年測図) / 早稲田」  現行の神田川をブルーで、新目白通りをグレーで重ねています。オレンジ線は区境で、右上隅から時計回りに豊島、文京、新宿です。

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    ・ 左岸の区境  神田川と並行するこの道路が左手文京区、右手豊島区の境です。さらに神田川の右手は新宿区ですが、すぐ先の駒塚橋の手前で全体が文京区(旧関口村)になります。 

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    ・ 肥後細川庭園  上掲写真左手の塀の中です。大泉水の奥にある建物は松声閣と呼ばれ、細川家の学問所でした。さらに、その奥は目白台上にあたり、日本女子大の高層ビルも見えます。

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    ・ 永青文庫  細川庭園から左岸台上に上ったところにある永青文庫は、細川家に伝わる歴史資料や美術品等のコレクションを管理、研究し、一般に公開しています。

豊橋

2018-08-21 06:58:59 | 落合・目白崖線

 江戸時代からあった面影橋、駒塚橋間で最初に架けられたのが豊橋です。昭和8年(1933年)発行の「高田町誌」によると、「下田新道及び豊橋通り」の開通は明治41年(1908年)なので、豊橋もその時架けられたことになります。大正の中ごろには神田川の直線的改修があり、数十メートル南に移動して現在地に架け替えられました。なお、橋名の由来ですが、豊橋通りが左岸段丘に差し掛かるところに→ 豊川稲荷があるためで、目白通りに至る→ 豊坂も同じころの開削です。

 

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    ・ 「陸地測量部発行の1/10000地形図(大正10年第二回修正) / 早稲田」  同一場所、同一縮尺の「明治42年測図」は→ こちらです。  

 南蔵院境内を離れ、字下田の田圃を灌漑した用水は、その余水を今の豊橋付近に落としていました。→ 「北豊島郡図」当時は、そのまま東行し村境に最も近い蛇行の頂点が合流地点ですが、明治末の「郵便地図」では、豊橋通りに突き当たったところで右折、一つ手前の蛇行の頂点に合流しています。豊橋通りの開通に合せ、そう付替えられたものと思われます。その後の神田川の改修に際しどうなったかは、地図類になく不明ですが、一帯の宅地造成に伴い、暗渠化されて下水道に転用されたか、あるいは埋立てられたかのどちらかでしょう。

 

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    ・ 豊橋通り  豊橋方向のショットです。このT字路の近くまで神田川は蛇行し、そこに最初の豊橋は架けられました。右手からの水路は右折直後、本流に合流していたことになります。  

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    ・ 神田川  現在の豊橋から下流方向です。70mほどのところで再度左手に蛇行していて、その流路は上掲地図当時の高田、戸塚村境で、現行の豊島、新宿の区境に引き継がれています。

下高田左岸5

2018-08-20 06:50:36 | 落合・目白崖線

 南蔵院前に戻り、右橋より先の田用水を追います。「新編武蔵風土記稿」の南蔵院の項に、「昔寺内に池あり鏡が池と呼しとなり、当寺の山号も是より起れり、今寺内を流るゝ小溝を根川と云」とありますが、この「寺内を流るゝ小溝」は今回の用水かもしれません。→ 「江戸名所図会」を見ると、境内北側は垣根を隔てて樹木が茂っていますが、→ 「下高田村絵図」によると、当時はここも南蔵院の寺地でした。垣根の陰で死角になっているところを、今回の用水は流れていたことになります。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1. 南蔵院境内を右手に見ながら、宿坂への道と分かれ東に向かいます。  

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    2. 次の四差路を右折します。道幅からすると、ここまでの水路は左手を並行していたようです。

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    3. 今度は左折して再び東に向かいます。この角がかっての南蔵院境内の東端でした。 

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    4. 一帯は明治に入り高田村大字高田当時、字下田と呼ばれた田圃ですが、大正時代には宅地造成が進みました。

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    5. ここから先の道路は直線化されており、かっての水路と重なるかは疑問です。

面影橋と姿見橋

2018-08-18 06:45:30 | 落合・目白崖線

 「面影橋 上水堀に架す長十間の土橋なり、姿見橋 面影橋より北の方なる用水堀に架せる小橋なり」(「新編武蔵風土記稿」)「俤(おもかげ)の橋 同し北の方上水川に架す、長さ十二間余あり、昔は板橋なりしが近頃は土橋となれり。此橋を姿見の橋と思ふは誤りなり。次にしるす。・・・・姿見の橋 同じく北の方に架せる小橋を号く。昔は此橋の左右に池ありて其水よどんで流れず。故に行人覗みれば鏡の面に相対するが如く、水面湛然たる故に名とする」(「江戸名所図会」)

 

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    ・ 「江戸名所図会 / 俤のはし 姿見橋」 前回の→ 「高田 南蔵院」と連続するもので、同様に図中の文字は活字に置き換えています。   

 → 「下高田村絵図」で、鎌倉古道と目される道が神田上水を越えるところに「大橋」とありますが、この橋名に関し江戸時代、面影橋と姿見橋が混在してきました。例えば「江戸砂子」(享保17年 1732年 菊岡沾涼)の「姿見ノ橋 又推掛橋とも云。高田上水川にかかる。長十二間四尺」や「南向茶話」(寛延4年 1751年 酒井忠昌)の「高田の末より向へわたり候橋を姿見橋とも、又面影橋とも申し候」など。これに対し、冒頭で引用の「新編武蔵風土記稿」などは両者を区分し、大橋を面影(俤)橋、北を流れる用水の小橋を姿見橋とし、「図会」に至っては両者の混同を誤りと断じています。

 

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    ・ 面影橋  左岸方向のショットです。鎌倉古道は正面奥でやや左カーブしますが「村絵図」や「図会」の描き方から見ると、面影橋と氷川神社の中間にあるその付近に、姿見橋と目される小橋が架かっていたはずです。 

 隣村である雑司ヶ谷の住人、金子直徳も「若葉の梢」(寛政4年 1792年)の中で同様の立場をとっています。「面影橋 又俤の橋 砂子には、推掛橋とも云、長拾二間四尺と有。姿見と心得たる人多。小橋をすがたみと云」「姿見の橋 渡り六七尺の板ばし也。東西に池のごとき所ありて水不流、故にのぞき見れば鏡に向がごとくなりしが今は田と成。右の方は埋りて、溜り水もなき程になりぬ」 なお、「新編若葉の梢」(昭和33年 海老沢了之介)によると、小橋は明治末まで現存していました。「この橋は氷川神社境内の池から南蔵院前の田圃に水を引き入れるために造った溝に架した、長さ僅に一、二間の何の風情もない小橋である。この橋は明治末年まで存していた」

 


南蔵院

2018-08-17 06:30:13 | 落合・目白崖線

 「大鏡山南蔵院 砂利場村にあり、真言宗にして大塚の護国寺に属す。当寺を大鏡山と号くるは、昔此寺前に大なる池ありて、鏡が池と唱へしによりて此名ありしといへり。此地に姿見、俤(おもかげ)など称する橋あるも、是によりて起る号なりといふ」(「江戸名所図会」) なお、砂利場村は下高田村の小名、砂利場のことで、→ 「下高田村絵図」にも記載があるように、一帯が砂利取場だったことによります。

 

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    ・ 「江戸名所図会 / 高田 南蔵院 鶯宿梅 氷川社 右橋」   鶯宿梅は三代将軍家光のお手植えでしたが、「図会」の当時は枯れていました。(図中の文字は活字に置き換えています。)  

 左端の流れが前回追ってきた田用水で、右橋を過ぎてすぐ二流に分かれ、一つは鎌倉古道と目される通り沿いに南下して姿見橋、面影橋に向かいます。もう一つは、宿坂からの流れを合わせ、南蔵院の北縁(北側の寺地との間)に沿って東行していました。これは「下高田村絵図」が描く水路の様子と一致します。なお、「新編武蔵風土記稿」は南蔵院のところで「寺内を流るゝ小溝を根川と云」と書いていて、この東行する用水のことかもしれません。

 

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    ・ 南蔵院  三遊亭円朝の怪談噺、「乳房榎」の(前半の)舞台としても有名で、ある絵師が南蔵院の天井画を描く最中、落合蛍の見物に誘い出され、田島橋あたりで殺害され、亡霊となって絵を完成させるという粗筋です。 

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    ・ 鎌倉古道  氷川神社前から面影橋方向です。なお、氷川神社の祭神は素盞嗚命(すさのおのみこと)、隣村の下落合氷川神社の祭神、奇稲田姫命(くしいなだひめのみこと)とあわせ、夫婦の宮と呼ばれていました。

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2018-08-16 06:16:41 | 落合・目白崖線

 大沢水車の用水となった後の田用水を追っています。明治時代の字堰下の北縁をたどり、新目白通りを越え、明治通りまできました。明治通り前後は断続的ですが、氷川神社や南蔵院の北側に出てからは、現存の道路とも重なり、「郵便地図」などにも水路が描かれていることから、いつもの青点線を書き込んでいます。なお、「遊歴雑記」(文化文政ころ 十方庵敬順)のなかに、「南蔵院といえる寺の門前、畦道を左りへ取て、西へ行こと溶りまがりて三四町」、あるいは、「南蔵院の前なる畦路を小流に添いて西に行くこと凡そ七八町」とあり、これは今回の流路沿いの畦道をたどっているものと思われます。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1. 明治通り前後の中断を挟んで、この道路から再開します。  

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    2. ワンブロック、100m弱で再び中断します。  

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    3. 氷川神社の北側に沿う道路で再開します。水路は左手を並行していました。  

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    4. 南蔵院前です。面影橋を通る古道に突き当たり左折、すぐに右折で古道を離れます。  

 <右橋>  今回の用水は南蔵院前で鎌倉古道を越えますが、そこに右橋が架かっていました。「右橋 南蔵院の前に架す石橋を号く。往にも還るにも右の方に見るより名とす。旧名を藁塚橋と呼べり」(「江戸名所図会」) 鎌倉古道がクランクのところに架かる橋で、面影橋から差し掛っても、逆に宿坂から下ってきても、どちらも右折の先にあるのでそう呼ばれました。なお、別名の藁塚橋に関しては、「若葉の梢」は、「用水の通路なれば、わらをおし入れて橋とし、渡りけるとも」と書いています。


下高田左岸3

2018-08-15 06:33:59 | 落合・目白崖線

 大沢水車の用水となった後の田用水を追います。といっても、その流路の特に前半は、明治以降の「地形図」や「郵便地図」にはなく、わずかに、→ 「下高田村絵図」→ 「北豊島郡全図」から、およそのことを知るだけです。ただ、後者には並行する道が描かれ、それが高田村大字高田当時の字堰下の北縁を画し、階子田や後田の境となっていることから、「郵便地図」などと照らし合わせて、ある程度の特定は可能となっています。なお、堰下は今回の用水にかかわる堰の下流という、そのままの意なのでしょう。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    ・ 「陸地測量部発行の1/10000地形図(明治42年測図) / 早稲田」  上掲地図と同一場所、同一縮尺です。

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    1. 源水橋手前の左岸にあるこの道路から始めます。右手に向かう水車用水と分かれていたあたりです。 

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    2. 「村絵図」にも描かれた水路の沿っている道路を越えます。右手に折れるとすぐに源水橋です。

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    3. 左カーブで新目白通りを越えます。なお、この道路の右手が堰下、左手が階子田と後田でした。  

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    4. 新目白通りから明治通りまでです。「村絵図」で水路と畦道の左右が入れ替わり、橋が架かっているあたりです。

水車用水

2018-08-14 06:12:04 | 落合・目白崖線

 神高橋付近で左岸に分岐していた用水は、途中、今の源水橋付近にあった水車にも利用されていました。水車の規模は明治20年(1887年)の数字で、水車杵数105本、臼4斗張99個に2斗張6個、営業者は大沢民五郎となっています。大沢水車は → 「東京近傍図」にも描かれていて、前回UPの→ 「北豊島郡全図」には水車こそありませんが、途中枝分かれした水路が水車の回し堀と思われます。なお、「大正10年第二回修正」では、水車はなくなり用水も痕跡だけになっています。かわって、神高橋と戸田平橋が架けられ、周囲の田圃も宅地に変貌しているのが分かります。

 

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    ・ 「陸地測量部発行の1/10000地形図(明治42年測図) / 早稲田」  同一場所、同一縮尺の「大正10年第二回修正」は→ こちらです。  

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    ・ 神田川  戸田平橋と源水橋の間から下流方向で、左カーブの途中に源水橋が架かっています。元の神田川は右手に蛇行していたため、その左岸にあった水車の場所は、はほぼ現在の源水橋に当たります。 

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    ・ 源水橋  水車小屋のデザインに注目です。橋は大正15年の竣功ですが、現在位置より南側に架かっていました。橋名は源兵衛村と水車の合成と思われます。 

 <改修と区境>  昭和に入りこの区間の神田川も直線化されましたが、→ 「昭和12年第四回修正」を見ると、新旧両流路が併存している個所があります。注目は旧水路の方に引かれた「-・-」線で、当時の淀橋区と豊島区の境ですが、そのまま現行の新宿、豊島の区境に引き継がれています。この区間に限らず、新宿、豊島の区境は左右に蛇行して改修以前の様子を留めており、上流の新宿、中野の場合のように、改修後の流路にシフトしているのと対照的です。なぜそうなったのか謎ではありますが、あるいはすでに住居が密集し、変更しづらい事情があったのかもしれません。

 


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2018-08-13 06:54:11 | 落合・目白崖線

 → 「下高田村絵図」の描く田用水には、すでに詳細した溜池や新井薬師道沿いのもののほか、村境近くの堰で神田川から左岸に分岐していたものもありました。氷川神社や南蔵院の北側で鎌倉古道を越えた後、関口村境まで流れ余水を本流に戻していたようですが、流末までを正確に描いた地図は未見で、「御府内沿革図書」附図(嘉永5年 1852年)や下掲「北豊島郡図」(明治20年 1887年)などから、推測することができるだけです。

 

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    ・ 「北豊島郡全図」  「豊島区史地図編」(区史編集委員会 昭和49年)に収録されている「東京府武蔵国北豊島郡全図」をもとに、田用水を強調してイラスト化したものです。

 一方、この用水が分岐していたところは、「明治42年測図」に明記されており、現神高橋下流と特定することができます。以下は「わがふるさと戸塚の町の昔がたり」(田所鎌次郎 ただし、コミニティ「おちあいあれこれ」が平成18年に発行した「神田上水一枚岩の謎」からの孫引きで、かっこ内はその著者の注です)に活写されています。著者は明治41年生まれとあるので、その子供時代の明治末から大正にかけてです。「大正10年第二回修正」には痕跡のみ描かれているので、埋立てられる直前の様子ということになります。

 

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    ・ 神田川  高田馬場駅近くの神高橋から下流方向です。本来の神田川は右手に大きく蛇行しており、左岸に分岐した用水もこの右手にありました。 

 「山手線の鉄橋の下、いまの神高橋の下流あたりから川は大きく南(東)に曲がって菊月堂ビル(高田馬場2-17-2)の裏の崖に沿って下坂さんの邸の下から砂利場の方へ流れていた。そして鉄橋の下流に堰があり大川(神田川)の水を堰とめ三・四米(尺ではないか)ほどの用水に水を流していた。堰の下に滔々と水が渦を巻いて流れ落ち、その堰の上には細い板を渡してあるだけで、その上を渡るのは子供にとって非常な冒険であり、身のすくむ思いであった。」

 


宿坂

2018-08-10 07:05:47 | 落合・目白崖線

 新井薬師道は明治通りを越えた先で、面影橋を通る鎌倉街道と目される古道に突き当たります。そこは目白台上への上り口にあたり、宿坂(しゅくさか)と呼ばれ、「江戸名所図会」にも収録されています。「宿坂関之旧跡 同北の方金乗院といへる密教の寺前を、四谷町の方へ上る坂口をいふ。同じ寺の裏門の辺に纔の平地あり、土人たつてうばと呼べり。たつてうばは立丁場なるべし。此地は昔の奥州街道にして、其頃関門のありし跡なりといへり。或人云、此地に関守の八兵衛といふ者ありて、家に突棒、指股及び道中日記等を持伝へたるといふ」(「江戸名所図会」)

 

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    ・ 「江戸名所図会 / 宿坂関旧跡 金乗院 観音堂」  金乗院境内にある池から流れ出て、宿坂の西側を下る水路が描かれています。→ 「下高田村絵図」では、坂の両側に水路がありますが、「図会」では東側のものは死角になっています。  

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    ・ 宿坂  左手は新井薬師道なので、「図会」の左下隅のT字路(現在は十字路)にあたります。なお、明治11年(1878年)の「東京府村誌」に記載された宿坂の規模は長さ1丁、広さ3間です。  

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    ・ 金乗院山門  右手奥の建物が目白不動堂です。江戸五色不動の随一、目白不動は、目白坂中腹の新長谷寺にありましたが、昭和20年(1945年)5月の戦災で焼失、当地に移転してきました。 

 <福山藩阿部家下屋敷>  宿坂を挟んで東側には→ 根性院があります。幕府祈祷所として、ながらく湯島の切通坂にあり、明治36年(1903年)、当地に移転してきました。幕末にはペリー来航時の老中、阿部正弘の下屋敷だったところで、その名残の大きな池が昭和初期まで存続していました。以下は大正7年(1918年)の「北豊島郡誌」の引用です。「赤色門を這入り右に折れて更に進めば、池畔に出づ、恰も別荘に遊べるの趣あり、池の濶さ数百坪、圯橋(いきょう 土橋)を架す、橋西には蓮を植え、橋東には孤船を繋ぐ、西は狭く東は大なり、白鵞一双遊泳す」 ただ、昭和8年(1933年)の「高田町誌」では、「池は埋めて今はなし」となっています。