浜町堀には途中西に200mほど入る支流がありました。「蛎殻町二町目ニ傍ヘル入堀ナリ北岸ヲ里俗竃河岸ト云 延袤一町四十八間幅五間 舟筏通セス」(「東京府志料」) 元和3年(1617年)から明暦の大火(1657年)まで、当地に吉原遊郭があり、→ 「武州豊島郡江戸庄図」にも描かれているように、曲輪(くるわ)堀が周囲を囲んでいました。今回の入堀はその南側に沿ったものといわれています。寛政12年(1800年)、京橋にあった銀座が堀留前に移転して以降は、その材料の輸送水路ともなりましたが、明治38年(1905年)には埋立てられました。
- ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)
- ・ 「参謀本部陸軍部測量局の1/5000実測図(明治17年測量)」 「紙久図や京極堂 古地図CD-ROM」収録の東部の一部で、同社の基準(72dpi)で掲載、上掲地図のグレー枠の部分です。
- 1. 浜町緑道から離れます。ここに入江橋が架かっていました。
- 2. 右手が通称竃河岸です。竃(へっつい、かまどのこと)を扱う店が多かったことがその由来だとか。
- 3. 北岸にある末広神社は、葭原(吉原)の総鎮守だったと解説があります。
- 4. 「実測図」に描かれた堀はあとワンブロック、人形町通りまで続いています。