神田川 「まる歩き」 しちゃいます!!

ー神田川水系、支流はもちろん、旧水路、廃水路、全部 「まる歩き」ー

竃河岸

2019-10-31 06:53:07 | 平川・外堀3

 浜町堀には途中西に200mほど入る支流がありました。「蛎殻町二町目ニ傍ヘル入堀ナリ北岸ヲ里俗竃河岸ト云 延袤一町四十八間幅五間 舟筏通セス」(「東京府志料」) 元和3年(1617年)から明暦の大火(1657年)まで、当地に吉原遊郭があり、→ 「武州豊島郡江戸庄図」にも描かれているように、曲輪(くるわ)堀が周囲を囲んでいました。今回の入堀はその南側に沿ったものといわれています。寛政12年(1800年)、京橋にあった銀座が堀留前に移転して以降は、その材料の輸送水路ともなりましたが、明治38年(1905年)には埋立てられました。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    ・ 「参謀本部陸軍部測量局の1/5000実測図(明治17年測量)」  「紙久図や京極堂 古地図CD-ROM」収録の東部の一部で、同社の基準(72dpi)で掲載、上掲地図のグレー枠の部分です。

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    1. 浜町緑道から離れます。ここに入江橋が架かっていました。

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    2. 右手が通称竃河岸です。竃(へっつい、かまどのこと)を扱う店が多かったことがその由来だとか。

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    3. 北岸にある末広神社は、葭原(吉原)の総鎮守だったと解説があります。

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    4. 「実測図」に描かれた堀はあとワンブロック、人形町通りまで続いています。

浜町堀2

2019-10-30 06:12:39 | 平川・外堀3

 浜町堀の開削は元和年間(1615~23年)の早い段階で、元和3年(1617年)に開設された吉原遊郭には、浜町堀からの入堀が周囲を囲んでいました。→ 「武州豊島郡江戸庄図」にも描かれているところです。もっとも、画面からは切れますが、当時は本町通りの手前で堀留になっていました。元禄4年(1691年)に小伝馬町まで延長され、龍閑川とL字状に連結されました。明和2年(1765年)にはL字の前後が狭められ、通船が出来なくなりましたが、明治16年(1883年)に再度拡幅され、さらに神田川まで延長され、連絡することになります。

 

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    ・ 安政6年(1859年)の切絵図  稲荷堀のと同様、蛎殻町公園に掲示されていたものの一部で、水路はブルーで強調しました。(途中左手に折れる入堀が元吉原の四方を囲んでいたものの名残です。)

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    ・ 浜町緑道  組合橋(中之橋)の架かる新大橋通りの先、前回最後の→ アーチをくぐったところから始まる浜町緑道です。このような細長い公園が、久松警察署前まで300mほど続きます。

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    ・ 浜町緑道  蛎浜橋のあった明治座通り手前です。勧進帳の弁慶像があるのは、右手にある明治座だけでなく、茸屋町や堺町(現人形町界隈)の→ 芝居小屋にちなんだものなのでしょう。

 <浜町堀の橋>  上掲切絵図の元図、尾張屋の「日本橋北内神田両国浜町明細絵図」(嘉永3年新刻、安政6年再板)によると、河口から川口橋、組合橋、小川橋、高砂橋、栄橋、千鳥橋、汐見橋、緑橋が架かっていました。このうち小川橋は、「御府内備考」では難波橋となっています。また、「東京府志料」では組合橋を中ノ橋とし、その上流に明治6年(1873年)創架で、蛎殻町と浜町の合成の蛎浜橋が付け加えられ、さらに明治末の「郵便地図」では、蛎浜橋の上流に久松橋が架けられています。また震災復興橋として川口橋上流に浜洲橋、栄橋上流に問屋橋が創架され、久松橋に代わって明治橋ができ、やや下流にあった蛎浜橋が明治座通りへシフトするなど、場所の移動も見られます。

 


浜町堀

2019-10-29 06:17:16 | 平川・外堀3

 龍閑川(神田堀)とL字で連絡する浜町堀を、河口に架かる川口橋からさかのぼります。「浜町堀 大川ノ水川口橋ヨリ北シテ馬喰町一町目ニ至リテ神田堀ノ下流ト接ス 延袤十町五十五間幅十二間 小舟ヲ通ス」(「東京府志料」) 「大川ノ水」とありますが、明治19年(1886年)に中洲が造成され箱崎川が延長されてからは、河口は大川(隅田川)ではなく箱崎川に面することになりました。また、それに先立つ明治16年には、神田柳原まで水路が延長され、神田川とも連絡しています。なお、浜町堀(浜町川)の浜町に関し、「御府内備考」は「昔海浜なりし地なれば、たゞちに呼名となれり。町名にはあらず」と書いています。正式な町名となったのは明治に入ってからです。

 

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    ・  昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    ・ 「陸地測量部発行の1/10000地形図(明治42年測図) / 日本橋」  上掲地図と同一場所、同一縮尺です。

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    1. 川口橋の架かっていたところです。右写真はその右手の箱崎川跡で、女橋が架かっていました。

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    2. 高架は首都高の浜町出口で、その下は細長い公園になっています。左手は明治6年(1873年)開校の有馬小学校です。

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    2. 震災復興の浜洲橋の架かっていたところです。その先出口に向かい高架は低くなっていきます。

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    3. 新大橋通りを越えます。ここに組合橋(中之橋)が架かっていました。その先は浜町緑道です。

新大橋

2019-10-28 06:34:08 | 平川・外堀3

 新大橋の架橋は元禄6年(1693年)、隅田川3番目の橋で、上流の千住大橋や大橋(両国橋)に対して新が付けられました。「新大橋 元矢の倉より深川籾蔵脇へ渡せり。長京間百間(≒200m)。千住大橋に対して新大橋と名付られしと。『湯原氏の日記』に元禄六年十二月五日、今度かゝりし矢の倉の新橋を、明六日より往還をゆるし、新大橋と唱ふべきよし、町奉行に命ぜらるといふ」(「御府内備考」) 当時は中洲の先端付近に架けられていましたが、明治45年(1912年)に、ピントラス式の鉄橋となった際、百数十メートル上流の現在位置に架け替えられました。下に掲載した「図会」の描き手の視点は、ちょうど現行の新大橋あたりにあります。

 

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    ・ 「江戸名所図会 / 新大橋 三派」  「山もあり また船もあり 川もあり 数はひとふたみつまたの景 半井卜養」  (円内を拡大したのが → こちらです。奥が箱崎川に架かる永久橋、手前が浜町堀に架かる川口橋で、次回のテーマです。)

 隅田川は中洲、箱崎に遮られて分流しますが、中洲のあたりは三俣と呼ばれる月の名所でした。「三派(みつまた) 新大橋の下、分流の所を云。浅草川と箱崎の間の流れとの、分れ流るゝ所なればなり。此所を別れの淵と云は、汐と水とのわかれ流るゝ所故にいふ。此所は月の名所なり」(「江戸名所図会」) なお、→ 「武州豊島郡江戸庄図」にも「三つまた」の書き込みがありますが、それは箱崎川が隅田川から分かれる当所ではなく、箱崎川が日本橋川とクロスし亀島川へと連続するところになっています。

 

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    ・ 新大橋  中洲の先端から隅田川越しの新大橋で、江戸時代の新大橋は撮影地点付近に架かっていました。右手奥にはスカイツリーもチラッと見えています。

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    ・ 新大橋  東詰の小公園からのショットです。昭和52年(1977年)、現在の橋に架け替えられますが、明治45年に鉄橋となった際の橋柱が東詰のスペースに保存されています。

中洲

2019-10-26 06:29:24 | 平川・外堀3

 中洲(現日本橋中洲)は文字通り隅田川の中洲でしたが、明和8年(1771年)、浜町と地続きになるように埋立られ、一大歓楽街として繁盛します。一時は両国の客を奪うほどの賑わいだったとか。ただ、隅田川の流路を狭めたため上流で洪水が頻発し、寛政元年(1789年)には取り壊され、元の芦原に戻ります。「明和八年辛卯、中流を堙埋して人居とし、中洲と称せり。されど洪水の時便あしきとて、寛政元酉年に至り復元の如くの川に堀立ちる」(「江戸名所図会」) 取り壊されたのは田沼時代を否定する寛政の改革の一環でもありました。その際採取された土砂は隅田川土手に再利用されたそうです。

 

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    ・ 「陸地測量部発行の1/10000地形図(明治42年測図) / 日本橋」  前回UPの中洲造成直前の→ 「実測図」と同一場所、同一縮尺です。

 その後明治19年(1886年)に再び埋立が始まり、中洲河岸、のちの中洲町が成立、同26年新派系の芝居小屋である真砂座が建てられ、周囲には茶屋、割烹が出来て再び賑わいますが、大正に入り閉鎖されました。昭和22年(1947年)に現在と同じ中央区日本橋中洲となり、同46年には浜町との間が、翌年には箱崎との間が埋立てられ、完全に地続きになりました。埋め立てられた箱崎川上には引き続き首都高6号向島線が走り、その下には細長い公園が断続的に設けられています。

 

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    ・ 菖蒲橋跡  震災復興の清洲橋通りに架けられた菖蒲(あやめ)橋のあったところです。橋名は左手、浜町側にあった菖蒲河岸から付けられました。

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    ・ 分岐地点  箱崎川が隅田川から分岐していたところです。右手には浜町第二ポンプ所の水門があり、その先に新大橋が見えています。

箱崎川3

2019-10-25 06:35:36 | 平川・外堀3

 昨日引用の永久橋に関する「御府内備考」に、「大川の出口にあり」とあるように、江戸時代は永久橋の先は三俣と通称される大川(隅田川)でした。それが、明治19年(1886年)の中洲の造成に伴い、箱崎川は中洲先からに延長され、中洲・箱崎間に川幅50m、延長120mほどの支流が埋め残されました。下掲「実測図」には造成直前の、→ 「東京近傍図」(明治23年再版)には、造成直後の様子が描かれています。この支流も本流からやや遅れて、昭和45年(1970年)に埋立てが開始され、同47年に完了しました。元の河口には東京都下水道局の箱崎ポンプ所が建っています。

 

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    ・ 「参謀本部陸軍部測量局の1/5000実測図(明治17年測量)」  「紙久図や京極堂 古地図CD-ROM」収録の東部の一部で、同社の基準(72dpi)で掲載しています。

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    ・ 分岐地点  浜町堀の河口に架かる川口橋の前で、箱崎支流は本流から分かれていました。正面の高架は6号向島線、左手に分岐しているのは浜町堀跡を利用した浜町出口です。

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    ・ 箱崎ポンプ所  隅田川上流に架かる清洲橋からの撮影です。正面の低い建物が箱崎支流の河口にある→ 箱崎ポンプ所で、昭和46年創業、汚水は芝浦水再生センターへ、雨水は隅田川に排出しています。

 <清州橋>  → 清洲橋は震災復興事業の一つとして、中洲の渡しという渡し場のあった近くに架橋されました。大正14年(1925年)着工、昭和3年(1928年)竣工、橋長186.2m、幅員22.0m、形式は三径間自碇鋼製吊橋というのだそうです。名前は公募により採用されたもので、当時の両岸にあった深川区清住町と日本橋区中洲町(現在江東区清澄と中央区日本橋中洲)の合成です。 ドイツのライン川に架かるケルンの大吊橋をモデルにしました。男性的な永代橋と対比される女性的なシルエットの美しい橋で、平成19年には永代橋、勝鬨橋と共に、国の重要文化財に指定されました。

 


箱崎川2

2019-10-24 06:57:55 | 平川・外堀3

 箱崎川に戻ります。河岸には蛎殻町、小網町側に蛎殻河岸、行徳河岸が、箱崎側に山谷河岸があり、明治に入ると、中洲の造成に伴い、菖蒲河岸も出来ました。中でも箱崎橋西詰にあった行徳河岸は、行徳との運輸の拠点として重要でしたが、他の堀川と同様、運送手段の陸送への転換に伴いその重要性を失ない、昭和40年代には首都高用地への転換がなされました。昭和43年(1968年)に埋立てを開始し、同46年には完了しています。現在は跡地の上を首都高6号向島線が走り、またほぼ中央で、成田国際空港へのバスターミナルとして、東京シティエアターミナルが営業しています。

 

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    ・ 首都高6号向島線  右カーブで離れるのが9号深川線です。この先に永久橋が架かっていました。「箱崎橋の北の方大川の出口にあり」(「御府内備考」) 

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    ・ 箱崎ジャンクション下  正面が東京シティエアターミナルです。ここには明治に入り土州橋が架けられました。箱崎川中最大の橋で、関東大震災にも耐えたといいます。

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    ・ 人形町通り  箱崎ジャンクション下から→ 水天宮方向です。前々回UPの→ 「切絵図」にも描かれていますが、この通りにも入堀があり、現水天宮角で右折していました。

 <行徳河岸>  箱崎橋(崩橋)の西詰、小網町の東端に位置するのが行徳(ぎょうとく)河岸です。寛永9年(1632年)、行徳村(千葉県市川市)の村民が幕府より借り受けて開設、小名木川経由の直通の船便があり、塩などの物資や成田山参詣客の輸送でにぎわいました。「大江戸小網町三丁目行徳河岸といへるより此地まで船路三里八丁あり。・・・・殊更正五九月は成田不動尊へ参詣の人夥しく賑ひ大方ならず」 (「江戸名所図会 / 行徳船場」) 行徳まで三里八丁(≒12.8km)の道のりを半日かけて行く、15人から24人乗りの行徳船が、一日60隻往復していたそうですが、蒸気船が就航するようになり、明治12年(1879年)には廃止されました。

 


稲荷堀2

2019-10-23 06:24:42 | 平川・外堀3

 開削当時の稲荷堀は→ 「武州豊島郡江戸庄図」にもあるように、ほぼ直線で東堀留川と連絡していました。それが安永8年(1779年)、現蛎殻町交差点以北が埋立てられ、一部狭められ下水化しました。昨日UPの→ 「切絵図」の描く通りで、「東京府志料」が、「此堀ニ続ケル下水小網町二町目ノ稲荷社前ニ通セル」としているのは、この辺の事情を物語っています。おそらく、大名屋敷への物資輸送路としての役割が縮小したのでしょう。さらに、明治10年代には汐留橋から百数十メートルの区画を残して狭められ、この区画も明治末ころには埋立てられてしまいました。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1. 右写真はとうかん堀通りを左手から見ています。若干低くなっているのがわかります。  

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    2. 新大橋通りとの蛎殻町交差点です。「切絵図」に描かれた直進する狭い下水、右折して酒井家屋敷を抜ける堀とも、今は重なる道路はありません。  

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    3. 3ブロック右手にシフトします。酒井家屋敷の東縁にあたる通りで、この通りの左手を堀が平行していました。

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    4. 当初土井家の屋敷があったのはこの右手ですが、寛永12年(1800年)には銀座が京橋から移転してきました。 

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    5. こちらの堀は最初からこのあたりで掘留になっていました。左手にあるのは日本橋小学校です。 

稲荷堀

2019-10-21 07:02:54 | 平川・外堀3

 箱崎橋から箱崎川をさかのぼります。すぐに左手への入堀がありました。「土井堀 甚左衛門町の南なる入堀なり。昔堀の東辺に土井氏の屋敷三家並び在しゆえ呼名とす。又こゝに稲荷社立るを以て、稲荷(とうかん)堀とも称せり。此堀は南北とも通ずる処なく、中ほどより西の方酒井雅楽頭屋敷内に入り、同屋敷四境に添て小網町の入川に達せり」(「御府内備考」) 最後の「小網町の入川」は東掘留川のことです。なお、引用文中の土井氏三家とは、家光時代の大老土井利勝の子供三人が興した大名家、酒井雅楽頭も同じく家光時代の大老の家系なので、幕府創設期の重臣たちの屋敷地(中屋敷)だったことになります。 

 

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    ・  安政6年(1859年)の切絵図  蛎殻町公園に掲示されていたものの一部で、堀川をブルーで強調しています。

 明治に入り「東京府志料」では土井堀の名はなく、稲荷堀のみとなっています。「此堀ニ続ケル下水小網町二町目ノ稲荷社前ニ通セルヨリ此名ヲ得タリ 延袤五町幅凡八間狭キ所三間小舟ヲ通ス」 上掲「切絵図」の元図である尾張屋の「日本橋北内神田両国浜町明細絵図」(嘉永3年新刻、安政6年再板)を見ると、赤く囲んだところに「イナリ」とあり、名前の由来となった「小網町二町目ノ稲荷社」のことと思われます。

 

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    ・ とうかん堀通り  稲荷堀を埋め立てたあとにできた→ とうかん堀通りの起点です。箱崎川から分岐したところに、汐留橋が架かっていました。

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    ・ 小網神社  とうかん堀通りの延長上にあり、この奥が東堀留川です。この神社も元は稲荷社ですが、「切絵図」の稲荷は明星稲荷といい、別の所に現存しています。

箱崎川

2019-10-19 06:58:36 | 平川・外堀3

 「三派(みつまた) 新大橋の下、分流の所を云。浅草川と箱崎の間の流れとの、分れ流るゝ所なればなり。此所は月の名所なり」 「江戸名所図会」の一節ですが、この「箱崎の間の流れ」が今回からのテーマの箱崎川です。三派(三又)で隅田川(大川、浅草川とも)と分れ、浜町と中洲の間から蛎殻町と箱崎の間を南下、箱崎橋(崩橋)先で日本橋川と合流していました。延長1km強とごく短い流れですが、中ほどで箱崎川と分れ、中洲と箱崎の間を隅田川に向う100mちょっとの分流もありました。

 

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    ・ 「東京近傍図 / 麹町区」(参謀本部測量局 明治13年測量)の一部を加工したもので、本来の縮尺は1/20000、パソコン上では1/12000ほどです。オレンジ線は区境で、隅田川が中央区と江東区を分けています。  

 もっとも冒頭の箱崎川の記述は、箱崎や中洲が造成され陸地となってからのことで、元々は隅田川河口に点在する中洲に隔てられた、隅田川の一流に過ぎなかったと思われます。それが、箱崎が造成されたとき、蛎殻町との間に埋め残された600mほどの水路となり、さらに箱崎の北側の中洲が造成され、今日確認できるような箱崎川の流路となったものです。(地名としての中洲とその造成については、該当個所で詳細します。)

 

 

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    ・ 箱崎橋跡  日本橋川との合流地点の手前には、箱崎橋、別名崩(くずれ)橋が架かっていました。→ 「江戸名所図会」にも、霊岸橋の向かいに描かれています。

 箱崎が造成されたのは比較的早く、→ 「武州豊島郡江戸庄図」(寛永9年 1632年)には、水滴のような形で描かれています。(同図を実際の地形に合わせるために周辺部は変形、拡大しており、描かれている箱崎はより小さいものです。) なお、「御府内備考」は名前の由来について、「江戸紀聞」を引用し、筑紫箱崎からとった、箱崎池(箱池)と呼ばれる池があった、の二説を紹介しています。もっとも、地図で見る細長い等脚台形(脚立形)の姿からは、箱型をした崎そのままのような気もしますが・・・・。

 


豊島須崎2

2019-10-18 06:55:08 | 平川・外堀3

 新しいクール、「平川・外堀3」を始めます。今日一般的な理解としては、平川は駿河台、江戸前島の西岸を南下し、日比谷入江に入っていました。一方、その東岸を不忍池から南下していたのが元の谷田川・藍染川と考えられています。ただ、→ 「段彩陰影図」を見る限り、江戸前島の東岸は浅草橋に至る微高地になっていて、それを貫いて江戸湊に向かっていたとは想像できません。これは、江戸開府当時の豊島洲崎の造成の際、地形に改変が加えられたためと思われます。そこで、改変以前の地形を知る手掛かりとして、「東京地盤図」(東京地盤調査研究会)のデータを、「段彩陰影図」と同一個所、同一縮尺の現在の地図に重ねてみました。

 

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    ・ 「東京地盤図」  昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成した現在の地図に、「中央区沿革図集」(中央区教育委員会 平成7年)の掲載する「東京地盤図」(昭和34年 1959年)のデータ及び江戸末頃の主要な堀川を重ねたものです。

 地表のすぐ下に堆積する沖積層の分布から、そこが地表だった400年前の江戸初期の地形を推測することができます。茶系が標高0m以上、ブルー系が0m以下で、薄いブルー(-5m)、濃いブルー(-10m)の塗り分けで、本郷台地の東側を南下する谷筋が確認できます。これが不忍池から南下していた元の谷田川・藍染川で、現在の小網町付近で江戸湊に注いでいました。それが不忍池でせき止められ、上掲「地盤図」にも重ねた水路網を経由し、隅田川に直接放流されるよう付替えられます。こうして、谷田川・藍染川から解放された内神田・北日本橋地域は、「段彩陰影図」の描くような微高地に造成され、江戸前島上の南日本橋地域と一体となって、江戸の市街地の中心部を形成したと考えられます。

 

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    ・ 浅草橋  江戸通り方向のショットです。江戸通りの左手を平行する通りが、常磐橋門から浅草門に至る微高地の尾根筋にあたります。江戸開府当時の江戸町はその周辺に形成され、奈良屋、樽屋、喜多村の町役人が居を構えました。

 なお、谷田川・藍染川の付替えは二段階だとして、その前段階のより大きな付替えの問題として、古石神井川論が提起されています。すなわち、石神井川の原型が王子の手前で南下していた。それが(時代および自然現象か人工のものか諸説ありですが)、音無渓谷でショートカット、現在のように隅田川に直行するようになった結果、下流部は谷田川・藍染川として取り残された、との主張です。確かに、谷田川・藍染川水系の全体をカバーした→ 「段彩陰影図」からも、両者の谷筋の連続は明らかで、また、西隣の谷端川(小石川)と比較しても、より規模の大きな谷筋が、小規模河川によって形成されたとは考えにくく、古石神井川論の大枠はまず間違いないところです。

 


永代橋

2019-10-17 06:19:07 | 平川・外堀2

 「永代橋 きた新堀町より深川佐賀町へ架せり。長百十間、当初古は深川の大渡と称して船渡しなりしを、元禄九年(或は十一年ともいふ)此橋を造営せらる」(「御府内備考」) 「江戸名所図会」は元禄11年(1698年)の創架としています。関東郡代伊奈忠順が東叡山根本中堂の建設資材の余材を使い、完成したと伝えられています。名前の由来については、対岸にあった永代島が元との説と、五代将軍綱吉の50歳を祝し、末永く代々続くようにとの意で創作した、との二説がいわれています。

 

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    ・ 「江戸名所図会 / 永代橋」  「東望天辺海気高 三叉口上接滔々 布帆一片懸秋色 欲破長風万里濤 南郭」  

 ところで、江戸時代の永代橋は今より100mほど上流の、箱崎・深川間に架けられていました。「図会」でも豊海橋より上流に描かれています。それが、現在のように豊海橋より下流に架け替えられたのは、明治30年(1887年)、永代通りの開通に合わせたものでした。道路橋では最初の鉄橋といわれています。現在の橋は震災復興事業の一環として、大正15年(1926年)に竣工、平成19年には清洲橋、勝鬨橋とともに国の重要文化財に指定されています。

 

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    ・ 永代橋  右手奥が日本橋川河口に架かる豊海橋、左手が永代橋で、その奥には霊岸島・佃島を結ぶ中央大橋もチラッと見えています。

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    ・ 隅田川  永代橋から上流方向です。正面は二層構造の隅田川大橋で、上段は箱崎ジャンクションで分岐した首都高9号深川線です。

湊橋、豊海橋

2019-10-16 06:47:56 | 平川・外堀2

 日本橋川に戻ります。亀島川の分岐点の次に架かるのが湊橋です。「湊橋 箱崎町と南新堀町の間に架す」(「御府内備考」) 「寛文図」(寛文10年 1670年)に、「みなとはし」の名と共に初めて登場、当時は日本橋川の最も河口寄りの橋でした。橋の名前もそのことにちなむものと思われます。なお、引用文中の「南新堀町」は、 → 「武州豊島郡江戸庄図」にもある新堀(日本橋川河口)開削後、その南岸(霊岸島側)に出来た町屋で、対岸には北新堀町がありました。ちなみに、北新堀町はその後、御船手組屋敷の設置に伴い、南新堀町の東隣に替地が与えられ、北新堀大川端町となって移転、南北の新堀町が東西に並ぶという、ややこしいことになりました。

 

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    ・ 湊橋  現在の橋は昭和3年(1928年)の架設のいわゆる震災復興橋の一つで、鉄筋コンクリート3連アーチ橋ですが、平成に入って化粧直しをしています。

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    ・ 日本橋川  湊橋から河口に架かる豊海橋を見通しています。この区間が新堀で、「東京府志料」は元和6年(1620年)頃の開通としていますが、一次史料は不明です。

 湊橋から三百数十メートル、日本橋川が隅田川に合流する手前に架かるのが豊海(とよみ)橋です。「豊海橋 新堀町の東端にありて女橋ともいふ」(「御府内備考」) 南詰に設けられた解説プレートによると、元禄11年(1698年)に初めて架けられました。隅田川に隣接して架かる永代橋も同年に竣功しており、おそらくワンセットということなのでしょう。明治36年(1903年)に初めて鉄橋に架け替えられ、関東大震災後の昭和2年(1927年)、現行の特異な形状のフィレンデール橋が誕生しました。なお、引用文中の「女橋」の別名については、乙女橋とするものもありますが、その由来は不明です。

 

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    ・ 豊海橋  四角形の骨組みのフィレンデールと呼ばれる形式の橋で、永代橋とのバランスを考慮して採用されたといわれています。

江戸湊

2019-10-15 06:53:11 | 平川・外堀2

 「慶長見聞集」中の「江戸河口野地ぼんき(棒木)の事」の一節です。「見しは今、江戸河口洲崎有て、塩みちぬれはふなみちを見うしなひ、舟を洲へのり上げ、波風に損する也。瀬戸物町に野地豊前といふ人有。他にほとこす心さし、身のためにあらすやとて、天正十九卯年(1591年)の事なりしに、洲崎にみをしるしを立る。是を俗にぼんきといふ。船人見て悦事限りなし。惣て水の深き処をみといふ。其記に立る木也。是をみをつくしと歌に多くよまれたり。・・・・今ははや野地も死、ぼん木も朽ちて跡なし。然共名はくちやらて残りとゝまり、此洲を野地ぼん木と名付て、出入舟おさ今に於て是を尋る。河瀬のあらんかぎり此名立て朽へからず」 

 

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    ・ 「江戸名所図会 / 湊稲荷社」  右手から連続する → 「佃島 住吉明神社」との二枚シリーズのその二です。左下隅の八丁堀に架かる稲荷橋の左隣は、書き込まれていませんが高橋です。  

 野地ぼんきと呼ばれる洲がどこなのかは不明ですが、亀島川河口から元の江戸湊と目される江戸橋付近に至る航路上にあったのでしょう。いずれにしても、ここに描かれた家康の江戸入国当時の江戸湊が、慶長8年(1603年)の豊島洲崎の造成、同17年の舟入堀の開削を経て、 → 「武州豊島郡江戸庄図」の、さらには「江戸名所図会」の江戸湊に変容したことになります。なお、「図会」の湊稲荷神社は、こうした海岸線の東進に応じて遷座を重ねたといわれ、稲荷橋の東南詰に遷座したのは寛永元年(1624年)頃です。明治に入り、120mほど南西の→ 現在地に遷りました。  

 

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    ・ 亀島川河口  鉄砲洲から「図会」の画面中央に描かれた霊岸島の先端を見ています。左手は亀島川水門、右手は霊岸島と佃島を結ぶ中央大橋です。同じ河口を霊岸島から見た→ 写真は今クールの冒頭でUPしました。 

 ところで、隅田川河口にあって鎧島、森島と呼ばれていた中洲は、寛永年間(1624~45年)、幕府船手頭石川八左衛門の所領となり、石川島、八左衛門島と称されるようになります。一方、石川島に南接する百間四方を石垣で囲んで造成したのが佃島で、家康の江戸入国の際、摂津国佃村から江戸に移住、幕府の魚御用を勤めた漁師三十余人の一族が、正保元年( 1645年)故郷を偲んでそう名付けました。このように両島は隣接した別個の島でしたが、明治になって造成された南の月島と共に、今では一続きの区画となって佃島と呼ばれています。

 


南高橋、亀島川水門

2019-10-12 06:18:37 | 平川・外堀2

 亀島川に戻ります。その河口に架かるのが南高橋です。元々橋のなかった場所ですが、震災復興事業の一環として、昭和7年(1932年)に初めて架けられました。その際、多数の橋梁の架け替えに伴う予算不足を補うため、震災による損傷で改架予定の両国橋の三連トラスの中央部分を補強、再利用することになりました。橋幅や高さを縮めて架設したといいます。こうして、期せずして明治37年(1904年)製の鉄鋼トラス橋が、現代まで保存されることになりました。傍らの解説によると、現存する鉄橋としては都内で二番目(一番は元の弾正橋を縮小、移転した→ 八幡橋)、うち車両の通行する道路橋としては最古で、全国でも六番目にあたるそうです。

 

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    ・ 南高橋  同じ解説プレートには「路式単純フラットトラス式、橋長63.1m、有効幅員11.0m、総工費76600円」などの数字も並んでいます。 

 一方、河口に設けられている亀島川水門は、日本橋川との分岐点にある日本橋水門とセットで、台風などによる高潮や大地震による津波が発生した時、両者を閉め切ることで亀島川を遮断し、水位はポンプで調節する仕組みです。傍らに掲示されたデータには、「鋼製単葉ローラーゲート、有効幅15m×2連、門塀高さ8.3m、開閉時間12分(自重降下4.3分)、開閉速度0.7m/分 非常用発電機200kVA1台、完成昭和44年3月」とあります。

 

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    ・ 亀島川河口  南高橋からのショットで、40mほど下流に亀島川水門が設けられています。水門の外側は隅田川、その対岸は佃島(江戸時代は石川島)です。

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    ・ 亀島川河口  隅田川から振り返っての撮影で、対岸は鉄砲洲です。鉄砲洲は鉄砲の試し打ちが行われたとも、形が鉄砲に似ているともいわれるところです。