神田川 「まる歩き」 しちゃいます!!

ー神田川水系、支流はもちろん、旧水路、廃水路、全部 「まる歩き」ー

元吉祥寺

2019-02-28 06:02:15 | 神田上水

 東京ドーム前の白山通りに、壱岐坂下という交差点があります。これは新壱岐坂下と呼ぶべきもので、本来の壱岐坂下は一つ水道橋寄りですが、小石川邸を抜けた神田上水は、その本来の壱岐坂下で白山通りに出、そこで右折して南下していました。そして、水道橋手前で左折、外堀通りを東に向かい、右折して懸樋で神田川を越えるというコース取りでした。ただ、この間の数百メートルは、通りの下に石樋(石垣樋とも)を敷設したもので、→ 「寛永図」などを見ても、水戸藩邸以降の上水は描かれておらず、上水完成同時から暗渠だったものと思われます。なお、表題の元吉祥寺は水道橋の北東付近の旧名で、当地にあった吉祥寺が明暦の大火で駒込の現在地に移転して以降、そう呼ばれるようになりました。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)  

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    1. 東京ドーム21番ゲート前から壱岐坂下方向を写しています。途中、クリスタルアベニュー前で、小石川大下水と交差していました。 

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    2. 元の壱岐坂下で右折、水道橋を目指して南下します。

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    3. 水道橋に向かう白山通りです。江戸時代に比べ、右手に拡張されているので、元の通りはこの左手にあったはずです。 

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    4. 外堀通りとの水道橋交差点で左折します。なお、右写真左手の都立工芸高校のあたりが吉祥寺の旧地です。

 <元吉祥寺石樋>  「元吉祥寺前上水道御普請、入札ニ被仰付候間」「元吉祥寺下上水道大吐樋並桝、今度石樋ニ被仰付候間」「今度元吉祥寺下上水道大渡樋御普請、入札被仰付候間」 これは延宝5年(1677年)の町触ですが、この当時のものか不明ながら、元吉祥寺の神田上水幹線の石樋(石垣樋)が本郷1丁目先の外堀通りで発掘され、復元されたものが水道歴史館と隣接する本郷給水所公苑に→ 展示されています。この石樋の構築方法ですが、まず幅300~350cm、深さ140~170cmの溝を堀ります。その底面に砂と粘土を敷きつめ、側面には間知石4段を積み上げるやり方で、結果石樋の内部寸法は、上幅150cm、下幅120cm、石垣の高さ120~150cmとなりました。そして、これには長さ180cm、幅30~60cm、厚さ20~30cm前後の石蓋がのせられていました。

 


小石川大下水

2019-02-27 05:48:59 | 神田上水

 水戸藩上屋敷での神田上水の流路に戻ります。後楽園から表御殿に向かった上水は、表御殿のほぼ中央を斜めに横切り、谷端川・小石川を排水路化した大下水と交差します。「小石川 ・・・・流末は水戸殿屋敷内を通し仙台橋下を流れて神田川に落入れり 、『江戸志』に、小石をほき小川幾流もあるを以小石川と名付と書し」(「御府内備考」) 屋敷内の大下水の幅は9尺程で、その上を上水は懸樋で越えていました。「小石川水戸様御屋敷之内・・・・上水懸戸樋御普請」 これは寛文6年(1666年)の町触の一節です。なお。「水戸紀年」などを見ると、大下水は度々氾濫していたようで、寛延2年(1749年)には5、6尺の浸水を記録しています。

 

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    ・ 「参謀本部陸軍部測量局の1/5000実測図(明治17年測量)」  「紙久図や京極堂 古地図CD-ROM」収録の北部の一部で、同社の基準(72dpi)で掲載しています。東京ドームを薄グリーンで、外堀通りなどをグレイで重ねています。  

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    ・ 東京ドームシティ  大下水とクロスしていたところから振り返っての撮影で、東京ドームの中央を横断した神田上水は、正面の21番ゲートあたりから流れ出していました。

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    ・ 東京ドームシティ  こちらは大下水の流路方向のショットで、右手からの神田上水とクロスしたあと、正面のクリスタルアベニュー沿いに南下していました。 

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    ・ 神田川  水道橋から上流方向の撮影で、右手の防災用の船着場のところで、小石川大下水は神田川に合流していました。上掲写真から300mほど南下したところです。

小石川後楽園3

2019-02-26 08:10:47 | 神田上水

 昨日UPした大泉水や大堰川の余水はそのまま南下、園内南際を流れる龍田川、木曽川を経て、小石川御門の上流で神田川に注いでいました。この余水落ちの部分は、築園当初は深く幅もあり、三代将軍家光が小舟で乗り入れたこともあったと、「後楽記事」(元文元年 1736年)は書いています。「御舟入 このなかれ大泉水の末ならひに大井川の末なり。古老の曰、この水むかしは水かさも深く広して舟のかよひもなりたる処なり。昔将軍家大猷公御狩野還御の節はかならす小石川御門前より小舟にめしかへられて御園のうちゑ乗いらせ給ふ処なり。この流百間長屋東辺を出て小石川御門前へ出るなり。近年は水もほそくなり流も狭くなりたるとそ」

 

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    ・ 「参謀本部陸軍部測量局の1/5000実測図(明治17年測量)」  「紙久図や京極堂 古地図CD-ROM」収録の北部の一部で、同社の基準(72dpi)で掲載しています。

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    ・ 龍田川  大堰川の流末は左折し、大泉水と南側の築地塀の間を東に向かいます。その前半が龍田川、後半が木曽川と名付けられています。なお、引用文の百間長屋は築地塀の外にありました。  

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    ・ 内庭  南東の一角はかって書院のあったところで、唐門によって大泉水のあるブロックとは分けられていました。内庭の大半を占める蓮池の水は、→ 寝覚の滝によって木曽川に落ちています。  

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    ・ 神田川  小石川橋から上流方向で、一帯は市兵衛河岸と呼ばれる荷揚場でした。余水の合流地点には現在、水道橋分水路の吐口が設けられています。

小石川後楽園2

2019-02-25 06:58:59 | 神田上水

 神田上水は大泉水をはじめとする大小の池や流れに、水を供給する役割も果たしていました。そのためのルートは大きく三つで、白糸の滝から大泉水に至るものをメインに、西側の通天橋から大堰川、西湖堤への流れ、そして、東南隅の内庭にも池がありますが、これは唐門で仕切られていました。これらの余水は、園の南側を流れる龍田川、木曽川を形成し、その流末は小石川御門近くで神田川に落ちていました。

 

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    ・  大泉水  回遊式泉水庭園の中心をなすもので、中央に蓬莱島と徳大寺石を配し、琵琶湖をイメージしているそうです。

 後楽園内の配水のうち、その工夫において特筆すべきは、通天橋から大堰川への流れで、元は上水の水を水車でくみ上げ、音羽の滝で落としたものでした。「清水の堂立たる山は高さ六七丈、谷に飜車をしかけ高田上水道の水を巻上て、山上の御手洗に絶すなかるゝけしき、殊には滝の流細くつたひて段々に落下るせゝらき、すゑは泉水清涼たる汀に蛇籠をも置つゝけたる風景、さなから大井川、嵐山の古き跡みる心ちなれや」(「東都紀行」 享保4年 1719年) 

 

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    ・  通天橋  大堰川に架かる通天橋を振り返って撮影しています。左手台上にはかっては清水観音堂が建っていました。(通天橋から流れ出る大堰川は→こちらでどうぞ。奥は渡月橋です。)

 引用したのは元禄5年(1692年)当時の様子ですが、元禄年間には後楽園の景観を一変させる事態が相次ぎます。一つは五代将軍綱吉の生母、桂昌院の来園にあわせ、危険が及ばないようにと、大石奇石を取り除いてしまったこと、もう一つは、元禄16年(1703年)の大地震及びその六日後の火災で、地震によって上記水車の工夫も崩壊してしまいました。「大地震以来はこのたきの水筋破損してけれは水もかれたり。・・・・このからくりも絶てなし。只石の水盤のみ残れり」(「後楽記事」 元文元年 1736年)

 


小石川後楽園

2019-02-23 05:56:03 | 神田上水

 後楽園内に入った神田上水は、深山幽谷をくねりながら流れ、ほどなく円月橋に差し掛かります。二代光圀が寛文5年(1665年)に招いた明の遺臣、朱舜水の設計になるというこの橋、日本最古の石造りアーチ橋だとか。この円月橋をはじめ、西湖堤、廬山を模したところなど、庭園には中国趣味が散見されますが、これは光圀の代になって採り入れられたものです。「後楽園」という名前自体、朱舜水の発案で、出典は漢詩(「岳陽楼記」)の一節、「先天下之憂而憂、後天下之楽而楽歟」(「天下の憂いに先だって憂い、天下の楽しみに後れて楽しむ」)だそうです。

 

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    ・ 小石川後楽園案内図  園入口の掲示板にあるものですが、→ 「実測図」の描く池の形状、水路の配置とほぼ同じなので、江戸時代の様子を留めているのだと分かります。  

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    ・ 神田上水  円月橋を流れ出るところです。その後上水は二手に分かれ、本流は東に向かいます。もう一流は南に折れ、白糸の滝を経て大泉水へと至ります。 

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    ・ 神田上水  東京ドーム方向に向かう本流です。上水を取り巻く風景は一変し、藤棚、梅林、稲田、菖蒲田といった里山や田園の趣を持った空間が広がります。 

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    ・ 神田上水  雑木林の中に流れ込みフェイドアウトします。実際は舞台裏に水生植物を使った→ 水浄化装置(10年ほど前撮影)があり、その浄化水を循環させているようです。

水戸藩邸

2019-02-22 06:38:50 | 神田上水

 水戸徳川家の初代藩主頼房が当地に屋敷地を拝領したのは寛永6年(1629年)、同年九月には後楽園を含む小石川邸が完成しました。当時の御三家は江戸城内吹上に屋敷があり、明暦の大火(1657年)後、吹上が防火上の理由から空地とされて以降、小石川邸が水戸藩上屋敷となりました。→ 「段彩陰影図」からも見て取れますが、小石川邸は大きく三区画から構成されており、東側の東京ドームのところは、小石川流域を宅地造成したもので、表御殿が置かれました。北側の小石川台上には台御殿が設けられ、その南側の舌状台地の先端は、切り崩されて回遊式庭園(後楽園)が造られました。神田上水は切り崩された小石川台を、迂回することなく東に抜けており、給水範囲を本郷台の裾まで拡大するうえで、不可欠な流路設計だったものと思われます。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    ・ 「参謀本部陸軍部測量局の1/5000実測図(明治16年測量)」  「紙久図や京極堂 古地図CD-ROM」収録の北西部の一部で、同社の基準(72dpi)で掲載、上掲地図のグレー枠の部分です。

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    1. 巻石通りの終点の牛天神下交差点からのショットで、正面の建物のあるブロックから旧水戸藩邸になります。 

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    2. 神田上水が後楽園に流れ込む手前です。水戸藩邸当時は裏長屋のあったところです。 

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    3. 左折、右折のクランクで上水は後楽園内に流れ込んでいました。 

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    4. 上掲写真の塀の内側を振り返っての撮影です。10年ほど前の写真では、空堀の途中から給水されています。

牛天神下

2019-02-21 06:00:33 | 神田上水

 「江戸名所図会」で、牛天神下を流れているのが神田上水ですが、「御府内備考」の金杉水道町の記述によると、「町内持ち場所の分川巾凡三間程」ありました。これには橋が二本架かっていますが、元の安藤坂下に架かるのが前回最後の金杉橋です。「金杉橋 渡り凡四間、幅壱丈程、右坂通り町南地先に有之候、尤神田御上水え相懸り候同所諏訪町より同所龍門寺前え渡り候板橋を右の通相唱申候」 もう一つは牛天神表参道下にあるもので、巻石通りが牛天神下交差点に入るところに架かっていました。

 

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    ・ 「江戸名所図会 / 牛天神社 牛石 諏訪神社」  「小石川上水堀の端にあり。一に金杉天神とも称す。此地を金杉と唱ふるによりてしか号く。別当は天台宗にして泉松山龍門寺と号す」(本文)

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    ・ 牛天神下  正面台上が北野神社(牛天神)、その下左手が巻石通りの終点です。「図会」に描かれた表参道は今はなく、左手の→ 裏参道のみとなっています。

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    ・ 北野神社  社殿の左手前にある頼朝ゆかりの→ 牛石は、なでると願いがかなうといわれています。なお「図会」の牛石は、裏門近くの蠣殻坂(牛坂)下に描かれています。

 <牛天神>  「社記云、往古寿永元年壬辰の春、右大将頼朝卿東国追討の時、此所の入江の松に船を繋ぎて和波を待給ふ。此辺上古は入江にて、今の飯田町東入堀のあたりへ続きてありしといへり。牛天神の外の坂を網干坂と呼び、又同所に蠣殻坂抔いひてあるも、入江に依りたる旧称なりといへり。その間夢に菅神牛に乗じ、頼朝卿に二つの幸あらん事を示し給ひ、武運満足の後は必小社を営み報すべしと託し給ふ。頼朝卿夢覚て後傍を顧給へば、一の盤石ありて、夢中菅神乗じ給ひたりし牛に髣髴たり。依て是を奇異とせられしが、果して同年の秋頼家卿誕生あり。又翌年癸巳の夏は動かずして平家悉く敗しかば、其報賽として元暦元年甲辰此御神を此地に勧請ありて、神領等寄附ありしと、云々」(「江戸名所図会」)

 


巻石通り4

2019-02-20 06:54:19 | 神田上水

 金杉水道町の中央を南に下る坂が安藤坂です。「坂 高三丈弐尺程、幅四間」「往古入江にて罷在、猟師日毎に網を干候に付網干坂と唱、・・・・猶又里俗に安藤帯刀様御屋敷の坂に付安藤坂と唱候」(「御府内備考」) 安藤家は紀伊田辺藩主(紀州徳川家付家老)で、その上屋敷が坂の中腹にありました。坂上には伝通院、坂下は江戸川が右折する通称、大曲に架かる白鳥橋ですが、これは明治末に大曲、伝通院間に市電が開通してからで、それ以前には、東にシフトして牛込天神裏門前に通じていました。なお、網干坂の名前の由来として、御鷹掛の組屋敷があって、鳥網を干したからというのもあるようです。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1. 巻石通り交差点先の金剛寺坂を過ぎ、右に孤を描き始めます。 

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    2. 左手は旗本屋敷、右手は相変わらず大縄地だったところで、明治に入り金杉水道町などと共に、小石川水道町となりましたす。

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    3. 安藤坂交差点です。右写真は中腹から坂下の白鳥橋方向です。 

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    4. 安藤坂交差点の先で、牛天神と通称される北野神社下に出ます。

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    5. 金杉橋の架かっていたところです。なお、元の安藤坂はここで左折、牛天神裏門を経由していました。

巻石通り3

2019-02-19 06:09:46 | 神田上水

 巻石通りに戻ります。ここから先神田上水の維持管理の担当は、小日向水道町から小石川金杉水道町に移行します。「切支丹組屋敷より水戸様御屋敷迄小石川金杉水道町一手持に御座候」(「御府内備考」) 金杉水道町は元は金杉村に属する百姓地でしたが、神田上水の定浚いを命ぜられ、以来金杉水道町と称するようになりました。このあたりの事情は小日向水道町、関口水道町と同様です。ただ、明治に入り小石川水道町など、今は春日1、2丁目となって、金杉の名前は住居表示から失われました。なお、その名前の由来は不明ですが、「小田原衆所領役帳」に「金曾木内 法林院分 金剛寺分」とある、江戸開府以前からの地名だといわれています。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1. 小日向交差点で、左手は茗荷谷へ至る唯一の道路の入口です。ここに「里俗切支丹御組屋舗入口橋」が架かっていました。 

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    2. 新坂(今井坂)下に差し掛かります。坂の左手は15代将軍慶喜が明治末に居を構えたところです。 

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    3. 金富小学校前です。金富町は金杉水道町、富坂新町、金剛寺門前町などの合成地名です。 

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    4. 左手には金剛寺がありました。地下鉄丸の内線敷設に際し、→ 「江戸名所図会」にも描かれた古刹、金剛寺は中野区上高田に移転しました 

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    5. 巻石通り交差点です。ここから新白鳥橋にかけて、「郵便地図」は水路を描いています。

武島町

2019-02-18 06:06:31 | 神田上水

 巻石通りまで戻り、茗荷谷から発した大下水の流末を追います。第六天前町のところでUPした→ 「実測図」を見ると、神田上水を箱樋(懸樋)で越えた後、そのまま南下、次の通りにぶつかって左折、その左手を並行して東に向かっています。最終的には右折して、中之橋の先で神田川に合流していたようで、最後のところは「郵便地図」にも描かれています。神田上水を越え次の通りで左折するまでは、重なる道路がないため、今回はその左折したところから始めます。なお、タイトルの(小日向)武島町は、東に向かう水路の右手の、ほとんどが旗本屋敷だったところに、明治に入り成立した町名です。旗本武島某の屋敷があったため、そう呼ばれるようになりました。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1. 巻石通りの一つ南の道路から始めます。すぐ右折して神田川に合流する水路を描いている地図もあります。 

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    2. 巻石通りと並行するこの道路は、江戸時代、御持筒組大縄地の南縁に沿っていたもので、右手の旗本屋敷との境になっていました。 

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    3. 右手はホールや印刷博物館のあるトッパン小石川ビルのある一角です。

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    4. 突き当りを右折します。逆に左折すると、金剛坂下の巻石通り交差点です。 

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    5. 正面は中之橋と白鳥橋の間にかかる新白鳥橋、右手にトッパン小石川ビルが見えます。

茗荷谷4

2019-02-16 06:47:57 | 神田上水

 拓大東門前まで戻り、北側から合流する谷頭を扱います。丸ノ内線茗荷谷駅近くにあり、こちらも茗荷谷と呼ぶことに違和感はありませんが、「御府内備考」の記述からは、清水谷とすべきところのようです。「行方六左衛門抱屋舗林泉寺境通里俗清水谷と相唱」 これは春日通に面した清水谷町からの引用ですが、林泉寺門前のところでも、「戸田淡路守様下屋舗往来之所を清水谷と相唱」とし、最近まで清水が湧出していたが、道普請によって失われた旨付け加えています。なお、戸田淡路守(三河大垣新田藩)下屋敷跡地が現在の拓大キャンパスです。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1. 拓大東門前から茗荷谷駅方向です。右写真は右手台上の深光寺境内から見下ろしています。  

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    2.  → 縛られ地蔵で有名な林泉寺門前で、林泉寺は目下改装中です。なお、左手の坂が小日向と大塚の境になっています。  

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    3. 茗荷谷駅に向かいます。冒頭の引用文中の「行方六左衛門抱屋舗」はこの左手にありました。

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    4. やはり「御府内備考」の記述によると、林泉寺門前から1町(≒109m)ほどのところに「姫ヶ井」という名水もありました。  

 <大塚の由来>  林泉寺前から西に向かう無名坂上に、「”大塚”ゆかりの地」と題する解説プレートがあり、「改選江戸志」の以下の記載を援用しています。「大塚通の南裏、小普請神尾豊後守組森川鉾太郎屋敷内に塚あり、高さ五尺斗、上に大樹の榎の朽木五尺斗残れり、是大塚なりと云、塚の脇に稲荷あり、大塚稲荷といふ」 さらに、塚は昭和の初めに崩され、稲荷も戦災で消滅したこと、塚は古墳だとか、中世の物見やぐら跡だとかいわれていたこと、最近の発掘で、5~6世紀の竪穴式住居跡が確認されたこと、などが付け加えられています。ただ、大塚が大きな塚なのは問題ないとして、その場所や使途、あるいは個数などに関しては、諸説入り乱れていて、当地はそのうちの一つにすぎません。

 


茗荷谷3

2019-02-15 06:27:18 | 神田上水

 丸ノ内線のガードの先は茗荷谷町と称する町屋でした。「町名の儀は昔より一円茗荷谷と相唱以前茗荷畑に而茂御座候哉・・・・下水 幅凡三尺 右下水堀之儀は町内南西之方に有之西之方より東之方え相流申候左水上は五軒町の方より相流悪水に而東方の流末は里俗に唱候切支丹御組屋敷後通より御上水掛樋え相流候」(「御府内備考」) → 「段彩陰影図」を見ると、茗荷谷の谷頭はY字型になっていて、茗荷谷駅近くの短いものと、西側から合流する長いものがありますが、引用文中の「水上は五軒町の方より相流」とあるのは、後者の比較的長いほうです。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1. 拓大東門前を左手に折れると茗荷坂です。その手前の路地が谷筋の底に当たります。 

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    2. 路地はすぐ行き止まりになります。右写真は茗荷坂上からのショットです。 

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    3. これも谷筋の底にありますが、水路との関係は不確かなので、いつもの青点線は書き込んでいません。

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    4. 左手に崖面を見ながら西に向かい、やはり100mほどで行き止まりです。 

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    5. その先の通りを北側から見通しています。左手が旧五軒町なので、この坂下あたりが大下水の起点と思われます。

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2019-02-14 06:11:24 | 神田上水

 東側の崖下に沿う道を北に向かい、庚申坂下を過ぎて100mほど来ました。これまで西側の車両基地下にあって、直接たどることのなかった水路ですが、ここから先は道路の西側を並行しており、いつもの青点線が復活します。さらに100mほどで藤寺と通称される伝明寺、そして、その傍らから小石川台に上る藤坂です。藤坂の解説プレートには、「藤坂は箪笥町より茗荷谷に下るの坂なり、藤寺のかたはらなればかくいへり」と「改選江戸志」が引用され、一方、藤寺の由来については、三代将軍家光が鷹狩の折、境内の藤を称賛し、以来藤寺と呼ばれるようになったとの、「東京名所図会」の記事が載っています。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1. 水路と並行するのはこのあたりからで、明治末の「郵便地図」には、道路の西側に水路が描かれています。   

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    2. 伝明寺境内に沿います。右手の塀際には→ 観音水と呼ばれる湧水の名残が見られます。 

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    3. 伝明寺の先にある藤坂下です。左カーブの先には丸ノ内線のガードがあります。 

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    4. ガードをくぐると左手は蛙坂、その先は旧小日向茗荷谷町です。右写真は蛙坂から見下ろしています。 

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    5. 拓大東門前です。同校キャンパスはかっての三河大垣新田藩戸田家下屋敷です。  

庚申坂と切支丹坂

2019-02-13 06:09:00 | 神田上水

 → 「東京近傍図」にも描かれていますが、今回の谷筋の中央を横断する通りがあります。その両側にあるのが庚申坂、切支丹坂です。「切支丹坂は御用屋敷のわき新道の坂をいへり、わつかの坂なり、世に庚申坂をあやまりて切支丹坂と唱ふ」(「改選江戸志」) 本来は左岸の小石川台に上るのが庚申坂、その対岸の切支丹屋敷にちなんだのが切支丹坂ですが、所在に関しては古地図類でもまちまちで、少なからぬ地図が庚申坂と混同しています。なお、「御府内備考」によると、「切支丹屋舗元表門通り」に獄門橋(幽霊橋)が架かっていました。「東京名所図会」が切支丹坂の説明に、「庚申坂の西、小溝に架したる橋を渡りて」としており、今回の大下水にかかわるものなのでしょう。

 

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    ・ 庚申坂下  谷筋の東縁に沿う道路を北上する途中です。右手に折れると小石川台に上る庚申坂、左手のガード上は東京メトロ小石川車両基地で、丸ノ内線の車両が留置されています。  

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    ・ 切支丹坂  明治に入って開削されたもので、江戸時代の切支丹坂そのものではありません。なお、撮影地点の後方、数メートルが最も低くなっており、小溝に橋が架かっていたあたりと思われます。 

 「切支丹屋敷跡は浅利坂の北の方なり、構内およそ表の通四十八間余は北西の方へかけいり、北の方は六十間余、南の方八十間余、西の奥へいりては三十八間余といへり、昔はことに広かりしを、元禄十四年辛巳二月廿五日、北の方そくはくの地を御家人の宅地に賜へり、今七軒屋敷という」(「御府内備考」) 切支丹屋敷の始まりは正保3年(1646年)、初代の宗門改役、井上筑後守政重の下屋敷内にあった座敷牢に、切支丹を収容したのがきっかけで、享保9年(1724年)に火災で焼失するまで、いわゆる「転び伴天連」を収容、情報集めに用いました。

 

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    ・ 切支丹屋敷跡碑  坂を上った右手の住宅街の一角にあり、傍らには「東京都指定旧跡 切支丹屋敷跡」と書かれた、都教育委員会の解説プレートが立っています。  

茗荷谷

2019-02-12 06:57:44 | 神田上水

 寺町の東隣りにある荒木坂を隔てて、第六天神前町がありました。上水の土手上に第六天社があったのが由来です。「御府内備考」はその第六天前町のところで、「幅凡五尺程」の「東之方御組屋舗境大下水」について、「御上水上箱樋に流行申候」と述べています。→ 「段彩陰影図」の中央から上部にかけての、谷頭に茗荷谷の名がある谷筋にかかわるもので、御先手組大縄地がその入口にあたる区画を占め、現在は東京メトロ小石川車両基地となっています。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    ・ 「参謀本部陸軍部測量局の1/5000実測図(明治16年測量)」  「紙久図や京極堂 古地図CD-ROM」収録の北西部の一部で、同社の基準(72dpi)で掲載、上掲地図のグレー枠の部分です。

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    1. 寺町を過ぎ荒木坂下に差し掛かります。坂下には「長四間程幅九尺程」の板橋がありました。 

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    2. 箱樋のあったあたりから荒木坂の一つ先の路地を写しています。坂になっていないのに注目です。 

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    3. 右カーブの先は東京メトロ小石川車両基地に突き当たって中断です。 

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    4. 谷筋の東端に沿う道路から車両基地を写しています。同基地は敷地面積3万平方メートル余、車両留置能力は100両を超えます。