神田川 「まる歩き」 しちゃいます!!

ー神田川水系、支流はもちろん、旧水路、廃水路、全部 「まる歩き」ー

合流地点2

2016-08-15 06:42:06 | 妙正寺川5

 昭和30年代以降頻発した都市型水害に対応するため、折から整備されていた新目白通りの下、およそ1.2kmに神田川のバイパスが設けられました。神田川高田馬場分水路です。幅6.65メートル、高さ6.6メートルの二連のボックスで構成され、毎秒330トンの水を流すことができます。妙正寺川はこの高田馬場分水路に合流するように付け替えられ、それに伴い合流地点は100mほど北の、新目白通り沿いに移動しました。高田橋下にある高田馬場分水路吐口に貼られたプレートに、「1978年 神田川吐口部工事」とあり、工事が最終的に完了したのは昭和50年代です。

 

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    ・ 「昭和22年米軍撮影の空中写真」  昨日UPのと同じ→ 「空中写真」に現行の流路をブルーで、新目白通りをグレーで重ねました。

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    ・ 高田馬場分水路呑口  神田川に架かる新堀橋の手前に、大きな→ 呑口が開いています。増水時に段差を越えて水が流れ込む構造のようで、この時点では全く流れ込んでいません。 

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    ・ 妙正寺川  正面に見えるのは妙正寺川の最下流に架かる辰巳橋です。橋下で右手からの分水路に合流、妙正寺川としては終了します。その先で新目白通りの下にもぐり込むのは高田馬場分水路です。 

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    ・ 高田馬場分水路吐口  新目白通りに架かる高田橋下で、神田川本流と合流します。吐口前には水草が繁茂していることから、落合水再生センターの処理水も流れているのでしょう。 

合流地点

2016-08-13 06:53:58 | 妙正寺川5

 妙正寺川と神田川はたがいに蛇行しながら、西橋の下流で合流していました。現在の下落合駅やや南のあたりで、これは江戸時代から明治、大正まで変わっていません。それが、昭和の初めに、両川を直線的に改修する過程で、160mほど東の滝沢橋と落合橋の間に移されます。300mほど高田馬場寄りにあった下落合駅が、昭和5年(1930年)に当地に移転しており、合流地点を遠ざける意図もあったのでしょう。

 

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    ・ 「昭和22年米軍撮影の空中写真」  → 「明治42年測図」の蛇行する旧水路をブルーで重ねました。北に蛇行する神田川の一部を切り取り、妙正寺川に付替えてることで、合流地点を東に移しています。

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    ・ 下落合駅  落合橋よりの踏切からのショットです。駅舎の手前を新井薬師道が通り、その奥の跨線橋付近を横切った妙正寺川が、その右手で神田川と合流していました。

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    ・ 神田川  滝沢橋のやや下流の、昭和の初めに新設された妙正寺川の合流地点です。その後の再改修でこの窪みを残して埋立てられ、一部駐輪スペースなどに転用されています。

 こうしていったんは完了した神田川・妙正寺川改修ですが、周囲のさらなる市街地化により、降った雨の大半は両河川に流れ込むようになります。しかも直線化、コンクリート護岸によって、余水をプールする余裕がないこともあり、水害の頻度、規模が飛躍的に増大します。昭和33年(1958年)、一日に400mm近い雨量を記録した狩野川台風によって、従来の荒川、江戸川低地にとどまらず、内陸の神田川、石神井川流域にまで被害が拡大したことは、都市型水害対策の必要を認識させるきっかけとなりました。さらに、こうした都市の抱える一般的な事情に加え、この地域の特殊な条件である、落合下水処理場(当時)の放水、→ 高田馬場駅下のボトルネックが加わり、この一帯が神田川の水害のメッカのようになってしまい、その対策は愁眉の課題となります。


落合惣図

2016-08-12 06:08:46 | 妙正寺川5

 「江戸名所図会」の中に「落合惣図」と題された、二つの河川の落合う様子を描く鳥瞰図があります。落合は江戸名所の宝庫であり、落合蛍、一枚岩、藤森稲荷社、泰雲寺古事と、絵図入りで紹介されているのが4個所、さらに本文に氷川明神社、七曲坂、落合土橋があり、これら一連の落合ものの総まとめとなっている図で、鳥瞰された落合の風景の随所に、名所、旧跡の名前が書き込まれています。なお、泰雲寺の北に描かれているのが前回テーマの西橋ですが、「図会」本文では「落合土橋」となっていて、「同所坤(ひつじさる)の方、上落合より下落合へ行道に架す」と書かれています。

 

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    ・ 「江戸名所図会 / 落合惣図」  図中の文字は活字に換えています。うち「富士」は→ 「藤森稲荷社」のことで、現在は東山藤稲荷と呼ばれています。なお、ほぼ同範囲にある「明治42年測図」は→ こちらでどうぞ。

 「図会」のいう「上落合より下落合へ行道」が新井薬師道です。「北豊島郡高田村より山手線隧道を経て、下落合村字本村に至り、折れて上落合を東より西へ斜に貫き、野方村新井薬師に至る。」(「豊多摩郡誌」) 高田馬場駅を出た山手線が、左岸段丘に差し掛かるところにあるガードには、今も「新井薬師道ガード」と書いたプレートが貼られています。ところで、分岐した田用水は西橋の北でこの新井薬師道に接し、そのまま道沿いに東に向かっていました。薬王院前で北上する薬師道といったん分かれますが、氷川神社の先で再び並行しており、これを「落合惣図」に当てはめると、左岸段丘の際沿いに、氷川社から藤森稲荷下へと向かう田用水の流路が想像できます。

 

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    ・ 氷川神社前  → 「下落合村絵図」で、新井薬師道と田用水が再会し、並行して東に向かうところです。写真手前から時計回りに、田用水、新井薬師道、水路プラス新井薬師道、田島橋に向かう道です。

 <一枚岩>  「落合惣図」の神田、妙正寺両川の合流地点に書き込みのある→ 「一枚岩」ですが、「遊歴雑記」(文化文政ころ 十方庵敬順)は「下高田村一枚岩の事実」、「高田村の河中一枚岩の再遊」と、一つ下流の(下)高田村にあった一枚岩について書き、「若葉の梢」(寛政10年 金子直徳)の一枚岩も、その記述から現高戸橋付近と推測できます。こうしたことからコミュニティ「おちあいあれこれ」発行の「神田上水一枚岩の謎」(平成18年)は、落合一枚岩と高田一枚岩の併存を結論付けています。なお、これは落合一枚岩の方ですが、同書の引用する「東京遊行記」(明治39年 大町桂月)当時、水車用水が出来たため水位が変わり、「図会のイメージとはいたく異なれり」という状態でした。

   

 


西ノ橋

2016-08-10 06:15:23 | 妙正寺川5

 「井草川 ・・・・土橋を架す、比丘尼橋と号す長五間余」(「新編武蔵風土記稿」) 「板橋 下落合村ニアリ西橋長六間幅一間半」(「東京府志料」) 神田川との合流地点の手前に架かる橋は、西橋(西ノ橋)とも比丘尼橋とも呼ばれ、→ 「上落合村絵図」には両者が併記されています。西橋は合流地点の(あるいは広く江戸近郊の)西にあるの意でしょうが、比丘尼というのは尼僧のことで、美貌ゆえに出家を断られ、自ら顔を焼いて尼になったと伝えられる、泰雲寺の了然尼とのかかわりがいわれています。

 

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    ・ 妙正寺川  氷川橋から下流方向で、奥は下落合駅前に架かる落合橋、その次が西橋です。氷川神社とは数百メートル離れており、なぜ氷川橋なのかは疑問です。

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    ・ 西橋  前回分岐した左岸流の流れていた、新井薬師道からのショットで、奥が下落合駅です。撮影地点近くにある西橋の遺構は→ こちらでどうぞ。

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    ・ 妙正寺川  西橋から下流方向です。次の橋が千代久保橋、その次が辰巳橋で、神田川(高田馬場分水路)との合流地点まで二百数十メートルです。

 <聖母坂>  落合橋から北側への上り坂が聖母坂です。台上にある聖母病院がその名の由来ですが、その聖母坂を流れ下り西橋の北で左岸流に合流する小川がありました。 → 「段彩陰影図」のほぼ中央にある、逆二等辺三角形の谷筋にかかわるもので、二つ並ぶ谷頭の間に聖母坂通りを通したために、このような形状になってしまいました。元は各々に小川が流れ、坂の入り口で一つになっていました。「豊多摩郡誌」では、(向かって右から)諏訪谷流、西ヶ谷流と呼んでいます。このうち諏訪谷というのは、→ 「下落合村絵図」にもあるように、諏訪明神が祀られていたのが由来です。こうした水路の詳細は→ 「落合・目白崖線 / 聖母坂」以下でどうぞ。

 


下落合村用水2

2016-08-09 06:36:19 | 妙正寺川5

 「明治42年測図」を見ると、(坂名はありませんが)見晴坂の上り口のところで、これまで追ってきた中井通り沿いの水路が段丘を離れ、妙正寺川本流に戻っています。また、その下流で左岸に分岐して、再び段丘沿いを東に向かう水路もあります。一方、年代不詳の→ 「下落合村絵図」では、本流から分岐した左岸流に合流しているように見え、明治末の「郵便地図」も同様の描き方です。こうした異同はともかく、寺斉端と西橋の中程で、合流、分岐のあった大枠は、江戸時代以来変わらなかったものと思われます。

 

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    ・ 「陸地測量部発行の1/10000地形図(明治42年測図) / 新井」  現行の妙正寺川をブルーで、西武新宿線、新目白通りをグレーで重ねています。

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    ・ 妙正寺川  新落合橋から下流方向で、奥に見えるのが昭和橋です。別項の不動谷からの水路は、昭和橋付近で合流していました。 

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    ・ 妙正寺川  昭和橋の先からの下流方向で、次の氷川橋がチラッと見えています。「明治42年測図」で新たな分岐のあるのはこのあたりです。 

 <不動谷>  「明治42年測図」の中央やや左で、等高線が北側にへこんでいます。→ 「段彩陰影図」で、前谷戸の東に並行する谷筋にかかわるもので、明治に入り、落合村大字下落合の字ともなった不動谷です。→ 中井出世不動堂に祀られた円空作の不動明王と二童子の像が、かって当地に安置されていたのが名前の由来とか。前谷戸の場合と異なり、この谷筋に水路のあったことは、→ 「東京近傍図」をはじめ、ほとんどの地図で確認でき、また「豊多摩郡誌」(大正5年)も「不動谷流 大字下落合字大原より清泉湧出し、流れて田用水となり、妙正寺川に合す」と書いています。不動谷の詳細は→ 「落合・目白崖線 / 不動谷」以下でどうぞ。

 


中井通り3

2016-08-08 06:39:20 | 妙正寺川5

 中井通りを先に行きます。中井駅前を過ぎた先の、左手に入る通りに注目で、これまでの上り坂から一転、平坦になっています。→ 「段彩陰影図」で、中井駅の北側にあって、山手通りと重なる谷筋がありますが、その底にあたる通りです。昨日UPの→ 「明治42年測図」でも、等高線が北にへこんでいます。一帯は明治に入り、落合村大字下落合字前谷戸と呼ばれました。谷戸(やと)は台地に刻まれた谷筋を指す普通名詞なので、この谷筋に由来しているのでしょう。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1. 右写真がフラットな通りです。谷筋の底にありますが、水路を明記した地図類は未見なので、いつもの青点線は書き込んでいません。

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    2. 引き続き中井通りを東に向かいます。山手通り以降、水路は再び左手の段丘寄りにありました。

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    3. ここで右折して中井通りから離れます。右写真は見晴坂で再び急な上り坂になっています。

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    4. 新落合橋です。往時の妙正寺川は南に蛇行していて、今回の水路の合流地点も西武新宿線寄りにズレていました。

 <「おちあい見聞録」>  「おちあい見聞録」(平成元年 コミュニティ「おちあいあれこれ」)の中に、落合の泉や湧水についての記述があり、以下はそのうち今回の谷筋に関するものの抜粋です。「落合丘陵の端が妙正寺川に落ちる斜面には多くの泉が出ていた。目白学園と御霊下から、富士銀行中井支店へ通じる道路沿いには、小さな泉が方々に見られた。そこには、沢蟹の姿がよく見られた。・・・・山手通りと新目白通りの交差点から、中井駅へ向かって、緩い坂を少し下って来た所(バス停中落合)で交差している道路付近にも、泉が湧いていて、桐林の中を小川となって、妙正寺川に入っていた。」 なお、前谷戸の谷筋の詳細は、→ 「落合・目白崖線 / 前谷戸」で扱っています。


中井通り2

2016-08-06 06:02:47 | 妙正寺川5

 中井通りは中井駅の北で山手通りの下をくぐり、駅前の商店街に出ます。 山手通り(環状6号線)は昭和2年(1927年)、東京市による「大東京道路網計画」の一環として企画され、昭和10年代には目白通り付近まで完成しますが、第二次大戦によって中断したため、中井駅、妙正寺川を越えるこの区間の完成は戦後になってからです。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    ・ 「陸地測量部発行の1/10000地形図(明治42年測図) / 新井」  上掲地図と同一場所、同一縮尺です。

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    1. 三の坂下を通ります。右手に折れると栄橋です。

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    2. 「明治42年測図」を見ると、これまで段丘寄りにあった水路は、このあたりで右手にシフトしていました。

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    3. 山手通りの下をくぐります。右写真で左カーブしているのが二の坂、→ 一の坂は右手に回り込んでから上ります。

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    4. 山手通りを越えた先です。右折すると中井駅前から寺斉橋に向かう通りです。

 


中井通り

2016-08-05 06:41:03 | 妙正寺川5

 葛ヶ谷村分水は現落合公園で二流にわかれます。→ 「明治42年測図」には、水車の用水となって余水を本流に落とすものと、東に向かって灌漑用水となるものが描かれています。今回からしばらく、そのうち東に向かう水路を追いますが、分岐点は落合公園内で不明なため、公園を離れてすぐ、西武新宿線の北側にシフトするところからです。左岸段丘下を蛇行する中井通りに沿い、御霊下の水田を灌漑しながら中井方面に向かいます。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1. 西武新宿線を北に越えたところからです。右写真は六の坂です。

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    2. 段丘際の道路にありがちな、左右への細かい蛇行が続きます。水路は左手の段丘側を並行していました。

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    3. 五の坂下を過ぎます。右手に折れると美仲橋に出ます。

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    4. このあたりまでの段丘下が字御霊下で、明治に入り落合村大字葛ヶ谷に属していました。

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    5. 四の坂下です。林芙美子の晩年の住居が記念館となっています。

下落合村用水

2016-08-04 06:32:14 | 妙正寺川5

 「神田上水堀 村の南を流る幅五間余、土橋を架す長さ六間田島橋と号す」「井草川 南の方を流れ中程にて上水堀に合ス、幅四間余、土橋を架す比丘尼橋と号す長五間余」(「新編武蔵風土記稿」)「用水は前村に同じ」とあり、上落合村と同様、もっぱら妙正寺川(同書では「井草川」)の水を利用していました。なお、明治初年の「東京府志料」の数字で、田面積は18町5畝20歩となっていて、上落合村の9町弱の倍以上となっています。

 

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    ・ 「下落合村絵図」  江戸時代末期のものとされる「下落合村絵図」( 首都大学東京蔵「堀江家文書」)を元にブルーの用水、薄いブルーの水田を中心にイラスト化したものです。

 村絵図に描かれた下落合村の用水は、葛ヶ谷村境で左岸に分岐していますが、これは→ 「葛ヶ谷村絵図」にも描かれ、また水車道のところでも引用した、「ふるさとは西落合」(平成15年 西落合まちづくりの会)の次の一文にかかわるものです。「中井御霊神社の崖下、バッケの所には堰があって、そのすぐ下に『淀み』があり、四村橋の上流から流れる妙正寺川の用水を引き込んで合流していて、・・・・妙正寺川の用水の七、八割が稲葉の水車を廻すために遣われて、残りは下流の中居方面に流れて、途中の田んぼに引き込まれていました。」

 

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    ・ 御霊橋  正面の崖上が御霊神社なので、このあたりに堰があったのでしょう。「ふるさとは西落合」の別のところには、「御霊橋の処に堰があり」との一文も収録されています。

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    ・ 妙正寺川  新落合橋から昭和橋にかけてです。往時とは川の場所がズレていますが、村絵図で田用水が本流に戻り、再度分岐しているのはこの前後です。

上落合村用水6

2016-08-03 06:52:44 | 妙正寺川5

 上落合村用水の最後です。右カーブで南に向きを転じ、妙正寺川との合流直前の神田川との間の、→ 「上落合村絵図」に「前田」と書き込みのある田圃(明治以降も字前田)を灌漑します。ただ、昭和初期の神田川の改修を伴う宅地化、その後の落合水再生センター建設によって、水路の痕跡は失われました。なお、「豊多摩郡誌」(大正5年 1916年)が「大字上落合字八幡耕地の村道。妙正寺川筋田用水に架す」と書いている八幡橋や、「同上暗渠に架す」とする戻り橋、また「泰雲寺跡の前方、田用水に架す」とする泰雲寺橋は、今回の用水にかかわるものと思われます。

 

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    ・ 「陸地測量部発行の1/10000地形図(明治42年測図) / 新井」  薄いグリーンは落合水再生センター、及びその屋上に設けられた落合中央公園です。同一場所、同一縮尺の「昭和12年第四回修正」は→ こちらでどうぞ。

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    ・ 旧前田田圃  月岡八幡神社の→ 旧地前に架かる歩道橋から、神田川と妙正寺川の合流地点方向を見通しています。ほぼ全体が落合水再生センター、かさ上げされたところが落合中央公園で、照明は野球場のものです。 

 <落合水再生センター>  昭和39年(1964年)3月、東京オリンピック開催に先立ち、落合下水処理場として操業を開始しました。敷地面積は84280平方メートル、処理能力は一日あたり45万立方メートル。中野区とその周辺(3506ha)から生じる雨水、生活排水を処理しています。処理水の大部分は神田川に放流していますが、一部は西新宿や中野坂上の高層ビルで使用、また城南三河川(渋谷川、目黒川、呑川)の清流復活事業にも一役買っています。なお、「江戸名所図会」にも絵入りで紹介されている名刹で、将軍家の御膳所であった黄龍山泰雲寺は、この付近にあったはずですが、明治末には廃寺となり現存しません。(山門は下目黒の海福寺に移築され、区指定文化財になっているそうです。)

 

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    ・ 落合水再生センター  上掲写真の左端に小さく写る建物前の噴水です。水路は左手の建物から出て噴水池を横切り、右隣りにあった泰雲寺前に向かう、といった位置関係でした。

上落合村用水5

2016-08-02 06:51:09 | 妙正寺川5

 寺斉橋上流で右岸に分岐した用水の続です。昨日UPの→ 「明治42年測図」の右上隅にあるように右岸段丘の崖面に沿い、右カーブで徐々に本流から離れます。その先で大きく右カーブして、南に向きを転じるまでです。なお、「昭和4年第三回修正」をみると、それまでの水路は消え、同じ位置に今回の道路が出現しています。同時代の詳細図にはその右手(段丘側)に側溝が描かれており、田用水から排水溝への転換があったものと思われます。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1. 引き続き東に向かいます。「明治42年測図」で、本流との間に稲荷社があるあたりです。

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    2. 右カーブ、次いで左カーブで右岸段丘の崖面に沿います。

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    3. 右カーブで妙正寺川本流から徐々に離れます。右写真を左手に折れると昭和橋です。

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    5. 右カーブで南に向きを転じますが、正面の建物で中断、その先に重なる道路はありません。

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    6. 落合水再生センター前の横断歩道付近を横切っていました。右写真はせせらぎの里越の落合水再生センターです。

上落合村用水4

2016-08-01 06:38:09 | 妙正寺川5

 → 「上落合村絵図」に描かれた寺斉橋上流で分岐した「用水堀」は、妙正寺川本流としばらく並行したのち、大きく右カーブして神田川の左岸へと回り込んでいます。その後、泰雲寺門前から八幡社下を流れ、現早稲田通りに架かる小滝橋(「御滝橋」)手前までの、「前田」と表記された水田地帯の灌漑用水となっていました。このように、上落合村の用水は神田川ではなく、妙正寺川からの分岐でまかなわれていましたが、これは「新編武蔵風土記稿」の「用水は井草川より引用ゆ」との記述と一致します。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    ・ 「陸地測量部発行の1/10000地形図(明治42年測図) / 新井」  上掲地図と同一場所、同一縮尺です。

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    1. 寺斉橋の一つ手前を左手に入る通りです。分岐してからここまでは、落合五小の敷地内にあって痕跡はありません。

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    2. 妙正寺川の南10mほどのところを並行、東に向かいます。

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    3. 上落合公園の脇です。明治末の「郵便地図」には、ここから妙正寺川に向かう小水路が描かれています。

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    4. 大正橋に向かう通りを越えます。右写真の奥には西武新宿線の鉄橋が写っています。
 

上落合村用水3

2016-07-30 06:42:38 | 妙正寺川5

 → 「上落合村絵図」に描かれた上落合村用水のあり様は、大正時代まで保たれていましたが、大正末から昭和にかけて大きく変化します。大正14年(1925年)落合第二小学校設立、昭和2年(1927年)西武新宿線の中井駅や下落合駅の開設などにより、田圃から宅地への転換が進み、昨日UPした「上高田村分水氷川流」の流末を本流に戻した部分を除いて、御用済みとなった田用水は埋立てられました。というわけで、今回の水路は道路として残されてはいません。

 

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    ・ 「陸地測量部発行の1/10000地形図(昭和4年第三回修正) / 新井」  昨日UPの「明治42年測図」は→ こちらです。

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    ・ 落合第五小学校  校庭の南縁が段丘に沿っており、田用水の流路となっていました。なお同校は昭和29年(1954年)、移転した第二小学校の跡地で開校しました。 

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    ・ 中井駅前  奥にチラッと見えるのが寺斉橋、その奥が西武新宿線中井駅です。水路は通りの左手を並行し、寺斉橋前で右岸に分岐した用水に余水を落としていました。 

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    ・ 妙正寺川  寺斉橋から下流方向です。なお、寺斉橋は「豊多摩郡誌」によると、→ 最勝寺の僧が斉米(ときまい)を受けるため、丸太を架けたのが始まりだとか。 

上落合村用水2

2016-07-29 06:45:18 | 妙正寺川5

 前回UPの→ 「上落合村絵図」に描かれた二流のうち、「上高田村分水氷川流」と書き込みがあるものの流末を追います。上高田、上落合村境(現中野、新宿区境)を画する水路と、桜ヶ池からの流れが合流、右岸段丘沿いを東に向かい、中井駅近くに架かる寺斉橋辺りまでの田圃、同絵図では「栗原下田」を灌漑していたものです。なお、栗原は最勝寺周辺の字で、「新編武蔵風土記稿」では「栗ノ原」となっています。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    ・ 「陸地測量部発行の1/10000地形図(明治42年測図) / 新井」  上掲地図と同一場所、同一縮尺です。

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    1. 右岸段丘沿いを蛇行する道路です。地図上でもそれと分る水路跡が200mほど続きます。

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    2. 水路単独と思われる狭い路地の入口がみえます。正面左手にあることから、ここまでも水路は左手にあったと推測できます。

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    3. すぐ左折します。「明治42年測図」には、このまま直進する水路も描かれています。

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    4. 本流に戻ります。右写真はやや上流の美仲橋からのショットで、改修以前の妙正寺川は大きく蛇行、水車も設けられていました。
 

上落合村用水

2016-07-28 06:05:38 | 妙正寺川5

 「神田上水堀 村の東を流る幅四間程」「井草川 村の北を流る川幅三間許」(「新編武蔵風土記稿」) 落合の村名は両川の落合うところの意とされますが、田用水として利用したのは、同書に「用水は井草川を引用ゆ」とあるように、もっぱら妙正寺川の方でした。その灌漑した田面積は、明治初年の「東京府志料」の数字で、8町9反2畝12歩です。

 

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    ・ 「上落合村絵図」  「上落合村絵図」( 首都大学東京蔵「堀江家文書」)を元にブルーの用水、薄いブルーの水田を中心にイラスト化したものです。

 江戸時代末期のものとされる村絵図ですが、そこには大きく二流の田用水が描かれています。うち一つは「上高田村分水氷川流」と書き込みがある、前クールの最後で扱った水路の流末で、上高田村との境で桜ヶ池からの流れと合流、右岸段丘沿いに東に向かいます。もう一流は寺斉橋と思われる橋の上流に設けられた「揚水堰」で分岐する「用水堀」です。こちらは神田川左岸へと回り込み、「御滝橋」手前までの水田を灌漑しています。

 

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    ・ 水路跡の道路  上高田と桜ヶ池の二つの水路が合流後、東に向かう水路跡の道路で、→ 合流地点からワンブロックのところです。右手が上りになっていて、段丘の際にあることが分かります。

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    ・ 妙正寺川  栄橋から下流方向です。右手は落合第5小学校、正面奥の高架は山手通りで、そのさらに奥に寺斉橋が架かっています。このあたりに堰が設けられ、右岸に用水を分岐していました。