神田川 「まる歩き」 しちゃいます!!

ー神田川水系、支流はもちろん、旧水路、廃水路、全部 「まる歩き」ー

白山前橋、大成橋

2017-05-31 06:31:52 | 善福寺川4

 白山神社の脇を通る道に架かるのが白山前橋です。→ 「成宗村絵図」→ 「東京近傍図」にも、同じ位置に橋が描かれ、おそらく「東京府志料」が成宗村のところで「石橋 長一間四尺幅一間二尺」としているものでしょう。一方、今では白山神社から直近の道路に架かる大成橋ですが、昭和10年代に道が開設されたのに伴い創架され、当時は白山橋と呼ばれました。現在の橋名は境となっている大宮と成田を合成したものです。

 

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    ・ 白山前橋  左岸方向のショットです。左岸流を越え段丘沿いの道路を右折すると白山神社に出ます。なお現在の橋の完成は昭和41年、善福寺川緑地開園の2年後です。 

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    ・ 善福寺川  白山前橋から下流方向で、右カーブの先にチラッと大成橋が見えています。善福寺川緑地は白山前橋までなので、ここからは和田堀公園ということになります。 

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    ・ 大成橋  白山神社前から大成橋を通り右岸に上る道が、杉並区成田東と同大宮の境になっていて、かっての成宗と和田の村境をおおよそ引き継いでいます。 

 <白山神社>  「白山社 除地六畝、東南の方小名白幡にあり、社は二間半に二間南向、社より十二間ほど隔てゝ鳥居をたてり」(「新編武蔵風土記稿」) 字白幡の鎮守の白山神社は、白幡の台地の際にあって、左岸の田用水を眼下に望む斜面上に祀られています。創建の年代については定かではありませんが、「杉並の神社」(昭和55年 杉並区教育委員会)は、大宮八幡縁起から同八幡や尾崎熊野神社と同じ頃としています。→ 写真は段丘斜面に設けられた階段と鳥居で、社殿との位置関係は「風土記稿」当時と変わっていません。

 


成宗左岸3

2017-05-30 06:01:19 | 善福寺川4

 白幡の田圃を灌漑していた左岸流を追っての三回目で、白幡の鎮守だった白山神社前まできました。右折すると白山前橋や大成橋に出るところですが、そのワンブロックには数年前まで→ コンクリート蓋が残され、左岸流のなかでは最も水路の痕跡をとどめているところでした。なお、白山神社を過ぎると、左岸流が左岸成田東、右岸大宮の境となります。元の和田村との村境です。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1. 右手は相変わらず善福寺川緑地ですが、左手の段丘は後退しています。段丘の際にあるのは一つ北側の通りです。

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    2. 右折すると白山前橋に出る道と交差します。右手の善福寺川緑地はここまで、この先は和田堀公園になります。

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    3. この区間が数年前までコンクリート蓋の暗渠が残っていたところです。

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    4. 右折すると大成橋に出ます。右写真は左岸段丘方向で、左手奥が白山神社です。

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    5. 4.以降の左手は引き続き成田東ですが、右手は大宮に変わっています。

成宗左岸2

2017-05-29 06:37:09 | 善福寺川4

 尾崎橋下流で左岸に分岐し、字白幡の田圃を灌漑していた用水路を追っての二回目です。今回は、二番目の堰からの合流を得て以降で、 → 「段彩陰影図」の左岸から突き出した台地をめぐり、向きを南から東へと転じます。善福寺川緑地の北縁に沿って、現行の地図でもそれと分るクネッた道路が続きます。なお、一帯の字白幡を広畑とする地形由来に立てば、左岸の台地を指していることになります。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1. 二番目の堰からの合流地点の先で、水路は左カーブですが、右折すると成田下橋に出ます。

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    2. さらに左カーブが続きます。左手の鉄塔は高井戸線のもので、前回UPの → 「昭和4年測図」にも描かれています。

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    3. 右手に折れると成園橋に出ます。旧西田町に属する善福寺川緑地に西園橋があり、それと対になった命名なのでしょう。

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    4. 左カーブで東寄りになるのに応じて、逆光だった空の色が青色に変化しています。

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    5. 右手に善福寺川緑地、左手に左岸段丘を見ながら、水路跡の道路はなおも続きます。

成宗左岸

2017-05-27 07:02:51 | 善福寺川4

 尾崎橋下流の堰から相次いで左岸に分岐し、成宗村字白幡の田圃を灌漑していた用水を追います。白幡田圃が造成され、そのまま善福寺川緑地となった際、水路跡は緑地の東縁に沿う道路となりました。右岸の尾崎田圃の場合、水路跡の道路は拡幅、整備されていますが、こちらは車止め付きの狭い道路がそれらしく蛇行し、最近まで一部にコンクリート蓋も残されていました。緑地造成後も、排水路として機能していたのでしょう。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    ・ 「陸地測量部発行の1/10000地形図(昭和4年測図) / 上高井戸」  上掲地図と同一場所、同一縮尺です。

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    1. 前回UPの尾崎橋左岸の→ 緑地の一角です。上掲「地形図」には描かれていませんが、このあたりで用水を分岐し、本流は右手に戻っていたものと思われます。

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    2. 車止めの付いた水路跡の道路です。すぐに成田上橋に向かう道路と交差します。 

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    3. 左岸段丘に沿ってそれらしく蛇行を始めました。 

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    4. 右カーブのあたりで、二番目の堰からの合流がありました。「地形図」では分岐した用水が田圃の縁に出たところです。 

白幡田圃

2017-05-26 06:48:47 | 善福寺川4

 → 「成宗村絵図」にもあるように、広場堰から分岐し成宗田圃を灌漑していた用水路は、五日市街道手前で余水を本流に戻していました。一方、街道を過ぎてすぐ、相次いで二つの堰が設けられていますが、これは白幡田圃を灌漑するためのもので、「新編武蔵風土記稿」が「此流に設たる堰四ヶ所あり、一は西の方字権現下にあり、一は天神下にあり、余二ヶ所は小名尾崎の内にあり」と書いているうちの、最後の二ヶ所に当たります。善福寺川が尾崎と白幡の境となっていたので、正確には「小名尾崎との境にあり」と書くべきでしょう。

 

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    ・ 「昭和22年米軍撮影空中写真」  ブルーで重ねたのは直線化された現行の善福寺川です。 

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    ・ 最初の堰跡  尾崎橋越しに左岸の善福寺川緑地を写しています。正面奥あたりで本流は右カーブし、分岐した用水はそのまま南下していたのでしょう。 

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    ・ 第二の堰跡  緑地造成時架橋の成田上橋と成田下橋の間です。奥の右カーブを抜けるあたりに二番目の堰があり、左岸に用水を分岐していました。   

 <白幡>  「白幡 村の東の方にあり、和田村八幡の縁起に云、往古人王七十代後冷泉院の御宇、奥州の夷賊蜂起しければ、源頼義公勅を蒙り追討せんとて進発し給ひ、此所に向ひ給ふとき、林中より奇雲たなびき、恰も白幡の如く見えけるにぞ、是八幡来降し給ふならんとて、一社を勧請し、遂に賊徒を追伏したまふ、かゝるゆへをもて、此ほとりをすべて白幡と名付しという、さればもと和田村の内なりしが、今は当村に属せり」(「新編武蔵風土記稿」) これに対し「杉並風土記(上)」(昭和52年 森泰樹)は、台地の広い畑の意の「広畑」の転化としています。 → 「段彩陰影図」からも、舌状台地の矢倉や尾崎に比べ、白幡が広がりのある台地上にあるのは明かです。

 


尾崎の七曲り

2017-05-25 06:48:50 | 善福寺川4

 五日市街道が善福寺川を越える際、高低差を克服するため小刻みな蛇行を繰り返しました。これが尾崎の七曲りと呼ばれ街道の難所の一つでしたが、大正末に路面をかさ上げし高低差を緩和、直線的なコース取りとなりました。それでも旧道のカーブ部分は、新道の左右に切り取られて残っています。これを、現行の五日市街道を重ねた→ 「明治42年測図」で下り方向に見ていくと、右端の半ば切れている右カーブから始まり、左カーブ、右折、左折、右カーブ、左カーブ、そして右カーブの七つです。うち三番目の右折と最後の右カーブは、現在の五日市街道に含まれて痕跡は残されていません。

 

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    ・ 白幡坂  前回UPの→ 「空中写真」にも孤状に写る左カーブです。一帯の字から白幡坂と呼ばれ、坂下で右手からの馬橋道と合流、次の右折に向かいます。 

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    ・ 尾崎橋  右手から出て右折、信号のあたりにあった旧尾崎橋を越え、直線で新道の右手に向かいます。尾崎橋を越えるところまで新道と重なっており、右折の痕跡はありません。 

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    ・ 三年坂下  突き当りで左折し、右手からの右岸流と並行して次の道角橋の右カーブに向かいます。やや右手に三年坂の上り口があり、その手前に三年橋が架かっていました。 

 <五日市街道>  五日市街道は地下鉄新高円寺駅近くで青梅街道から分岐、五日市宿(現あきるの市)に達する街道で、現在の全長およそ52kmは都道(杉並五日市線)に指定されています。江戸時代は市中への炭荷や農作物の運搬に使われ、また、宮前、中高井戸、松庵など、街道沿いの新田開発に寄与しました。当初は伊奈道、その後五日市道、青梅街道脇(裏)道などとも呼ばれ、明治以降五日市街道の名前が定着しました。→ 「成宗村絵図」では「砂川通り」となっています。

 


尾崎橋

2017-05-24 07:57:01 | 善福寺川4

 「馬橋村のなかばより左におれて、山畑のかたへほそき道をゆく。・・・・つづらおりめいたる坂をくだりて田面の畔をゆく。田の中に小河ありて橋をわたる。これを尾崎橋という。」 享和3年(1803年)の「小金井桜花見の記」(辻和篤)の一節で、尾崎橋のたもとの解説プレートに引用されています。この当時から板橋だったものと思われ、「東京府志料」では「板橋 長二間幅六尺」となっています。いわゆる尾崎の七曲りのところが直線化されたのに伴い、大正11年(1922年)に尾崎橋も改修されました。ただ、「杉並の川と橋」(平成21年 杉並区立郷土博物館)によると、この時は木造のままだったようで、昭和33年(1958年)、善福寺川の直線化に伴い鉄筋コンクリート橋になり、位置もやや西寄りになりました。

 

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    ・ 「昭和22年米軍撮影の空中写真」  直線化された現行の善福寺川をブルーで重ねています。  

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    ・ 善福寺川  尾崎橋手前の直線的に改修されたところです。善福寺川緑地造成の際植林され、現在は桜の名所となっています。 

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    ・ 五日市街道  上り方向のショットで、1700mほどで新高円寺駅近くにある青梅街道との分岐点です。なお、元の尾崎橋は奥の信号付近にありました。 

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    ・ 善福寺川  尾崎橋から下流方向で、奥に緑地造成時架橋の成田上橋が見えます。右岸は右岸流のところで触れた盛土上に設けられた運動場です。 

天水田圃

2017-05-23 06:57:00 | 善福寺川4

 → 「成宗村絵図」で、和田村との境の手前に「天水」と書き込みがあります。雨水、湧水を用水とする天水田圃のことです。 → 「段彩陰影図」をみても、崖線状の段丘が迫っているので、その下からの湧水に依存していたのでしょう。「杉並の川と橋」の湧水リストにある「隠居山下の釜(成田西1-8)」、あるいは「尾崎熊野神社誌」(昭和44年 尾崎熊野神社)にある、隠居山の崖下の「釜穴」は、同じものかどうか不明ですが、いずれにしてもこの崖線下の湧水と思われます。

 

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    ・ 「陸地測量部発行の1/10000地形図(昭和4年測図) / 上高井戸」  左上隅で前々回の右岸流が本流に戻っています。右端で善福寺川とクロスしている破線は、当時の杉並町と和田堀町の境で、成宗と和田の村境を引き継いでいます。  
 

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    ・ 右岸段丘  上掲地図の左上に描かれた孤状の崖面です。「尾崎熊野神社誌」添付の地図はこの下あたりに湧水の存在を示しています。 

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    ・ 善福寺川  奥に見えるのが白山前橋で、村絵図にも描かれた白山神社前に架かる橋です。この前後の右岸に天水田圃が広がっていたことになります。 

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    ・ 天水田圃跡  旧和田村との境に架かる大成橋近くの善福寺川緑地です。右岸段丘が善福寺川方向に向かい、ほとんど接するところが成宗、和田の村境でした。 

右岸の小水路

2017-05-22 06:51:22 | 善福寺川4

 尾崎田圃を灌漑していた用水には、右岸台上にある豊多摩高校方面からの小水路が合流していました。 → 「段彩陰影図」でも短い谷筋の合流が見て取れるところです。「杉並の川と橋」(平成21年 杉並区立郷土博物館)所掲の湧水リスト中、「水沼(ダイダラボウの足跡)」とあるのが、成田西2-7とある住所からすると、その水源と思われます。なお、確定的な水路跡は豊多摩高校の手前までですが、同校の創立50周年記念誌に添付の地図(首都圏整備局 昭和36年修正)には、グランド二分する水路が描かれています

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1. 児童交通公園前の合流地点に戻り、正面から合流していた車止め付きの路地を先に進みます。

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    2. 車止め付路地はワンブロックで終了しますが、右手を見ると、一般の道路の先に車止めがあります。

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    3. 鎌倉街道を越えます。右折すると800mほどで天王橋、逆に左折すると1500m弱で神田川に架かる鎌倉橋です。

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    4. 車止めはここまでですが、谷筋はこのまま西に延び豊多摩高校のグランドを横切っています。

 <三村境>  → 「成宗村絵図」の描く田端、成宗の村境は、下高井戸境の道から出て鎌倉街道を北上、五日市街道とクロスしたあと、権現下の堰で善福寺川を越えていますが、前半の直線部分はこの谷筋と重なっていました。昭和30年代までは杉並区西田町(2丁目)と成宗(2丁目)の境として引き継がれましたが、現行の住居表示では共に成田西となって、かっての意味を失いました。一方、豊多摩高校グランドの南縁に沿う下高井戸村との境は、今でも浜田山や高井戸との境として機能しています。なお、この通りを西に向うと、大宮前下水のところで登場した神明通り(新田街道)です。

 


成宗右岸5

2017-05-20 06:05:32 | 善福寺川4

 尾崎田圃を灌漑していた成宗村の右岸流の流末の続きです。現在残されているのは、児童交通公園の南縁をめぐり、その東南角で本流に戻っているものですが、途中右折して段丘沿いに下流に向かっていた一流の可能性もあります。明治末以降の地形図では未確認ですが、→ 「東京近傍図」では、流末は半月状になって本流に戻っており、地図の道路状況からもそれとわかる個所があります。あるいは下水道台帳から、一部公共溝渠の存在も確認できますが、全体のつながりは不明なため、いつもの青点線は書き込んでいません。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1. 前回の合流地点の手前に戻り、右折して段丘沿いに下流方向に向かいます。

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    2. やや上り坂になり、水路跡としては不自然ですが。 

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    3. 正面左手の一段低いところに路地があり、すぐに左折です。この前後に公共溝渠と書かれています。

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    4. 正面は善福寺川ですが、右折してさらに下流に向かいます。

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    5. 正面に崖面が見えていますが、孤を描いて善福寺川に向かっており、「近傍図」の流末と酷似しているところです。

成宗右岸4

2017-05-19 07:21:57 | 善福寺川4

 尾崎田圃を灌漑した田用水は、児童交通公園の南縁をめぐり、その東南角で本流に戻っていました。→ 「成宗村絵図」では流末が二重に描かれていますが、そのあり様は地図によってまちまちで、例えば→ 「東京近傍図」では一流のみが、現行のものよりは下流で合流しています。昭和に入って以降の地形図では、現行と変わらぬ合流ですが、より下流にも水田が続いていることから、当時でも下流に向かう一流があった可能性も捨てきれません。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    ・ 「昭和22年米軍撮影の空中写真」  上掲地図のグレー枠の部分です。同一個所に同一番号を振っています。

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    1. 突き当りの路地も合流する水路跡ですが、今回は左折して本流に戻るまでを追います。

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    2. 児童交通公園の南縁をめぐります。右手の崖面が復活しているのに注目で、段丘が再び迫ってきました。

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    3. 左カーブで本流に向かいますが、より下流に向かう水路があるとしたら、ここで右折する段丘沿いのコースのはずです。 

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    4. 本流に戻るところです。右写真は合流地点から下流方向で、奥に見えるのは成園橋です。 

成宗右岸3

2017-05-18 06:33:58 | 善福寺川4

 尾崎田圃を灌漑していた右岸の田用水の続きです。道角橋で五日市街道旧道と別れたあと、引き続き右手に段丘、左手に善福寺川緑地を見ながら南下します。ただ、段丘は後退し以前のような崖面ではなくなり、逆に緑地側が高くなっています。これは → 「段彩陰影図」で分るように、かっての尾崎田圃を盛り土によって造成し、そこにテニスコートや野球場のあるグランド、児童交通公園を開設したためです。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1. 左折して西に向う旧道と別れ、かっては水路単独だった通りを南に向います。

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    2. 成田西幼稚園前を通過します。左手の善福寺川緑地グランドには、テニスコートが3面、野球場が大小1面づつあります。 

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    3. 左カーブの先で細かな蛇行が始まります。左手は大きい方の野球場です。

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    4. 左右への蛇行は相変わらずですが、右手の崖面はなく、段丘が後退しているのが分かります。

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    5. 野球場を離れ、昭和47年(1972年)開園の児童交通公園前に差し掛かります。奥で道が途切れているように見えますが。

道角橋

2017-05-17 06:41:31 | 善福寺川4

 → 「成宗村絵図」を見ると、五日市街道と右岸流が交差するところに橋が描かれています。当時の名前は不明ですが、のちに道角橋と呼ばれたもので、前回の宝昌寺境内にあった石橋供養塔は、この橋の傍らにありました。なお、日本地形社の「昭和11年測図同22年補修(1/3000)」は、五日市街道(新道)と用水路がクロスするところに道角橋と書込んでおり、新道が開削された後、そちらを改めて道角橋とした可能性もあります。

 

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    ・ 道角橋  左手を並行していた旧道は右折し、直進する左岸流とクロスしていました。そこに架かっていたのが道角橋です。 

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    ・ 旧道  右折後上り坂になります。その後新道の北側に出、左カーブで南に戻り、最後に右カーブで七曲りを終えていました。 

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    ・ 道角橋遺構  熊野神社の参道に道角橋の欄干が保存されています。「すぎなみ学倶楽部」によると、橋の撤去後、善福寺緑地に放置されていたものだそうです。 

 <道角>  明治22年(1889年)の町村制施行により杉並村が成立した際、大字成宗に幾つかの小字が誕生しましたが、道角(どうかく)もその一つです。五日市街道の屈曲(いわゆる尾崎の七曲り)のうち、前回UPの→ 「明治42年測図」に見られるように、三年橋・道角橋前後は直角に近い屈曲ですが、それが一帯の字や橋名の由来となりました。字が先か橋名が先かはよく分かりません。なお、この屈曲は桝形とも呼ばれ、城門などのものと同様、外敵の侵入を妨害するためともいわれていますが、真偽のほどは定かではありません。

 


五日市街道

2017-05-16 06:25:58 | 善福寺川4

 尾崎の舌状台地の東縁を南下する右岸流は、宝昌寺門前で五日市街道を越えます。といっても、単純にクロスしているのは新道で、改修以前の旧道には、「尾崎の七曲り」と通称される屈曲があったため、右岸流と百数十メートル並行していました。なお、白龍山宝昌寺は熊野神社などの別当で、「新編武蔵風土記稿」は「境内年貢地、千坪、村の中央より少しく西に寄りてあり、白龍山と号す、禅宗曹洞派にて郡中野方領本郷村成願寺末」と書いています。

 

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    ・ 「陸地測量部発行の1/20000地形図(明治42年測図) / 東京西近郊図」  直線化された現行の五日市街道をグレーで重ねています。  
 

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    ・ 三年橋  右手に上るのが三年坂で、坂下に三年橋が架かっていました。その先で、左折して奥へ向かう五日市街道(旧道)と並行します。 

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    ・ 五日市街道  右手にある宝昌寺門前で五日市街道(新道)を越え、右手奥にある旧道へと連続します。なお、新道の完成は大正14年(1925年)です。 

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    ・ 宝昌寺門前  大きな石碑の傍らに文久4年(1864年)建立の→ 石橋供養塔があり、正面に「石橋供養 十方村々」、側面に「東江戸道」などと刻まれています。 

成宗右岸2

2017-05-15 06:38:18 | 善福寺川4

 権現堰からの用水を得た右岸流を追っての二回目です。熊野神社のある舌状台地を迂回し、その先端にある天王橋でUターンしたあと、南下して五日市街道を目指します。右手に右岸段丘の崖面、左手は善福寺川緑地の木立ちという風景は、これまでと全く変わりません。なお、途中杉並第二小学校前を通りますが、同小の創立は明治17年(1884年)、当時の学区が成宗と田端にまたがっていたことから、成田(せいでん)小学校と命名されました。この合成地名は今日の住居表示で採用された成田(なりた)東、同西に引き継がれています。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1. Uターン後舌状台地の東縁に沿って、南に向かう水路跡を含む道路です。水路は一貫して段丘よりを流れていました。

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    2. 左折すると相生橋に至る通りを越えます。逆に右折すると上り坂になり、台上で天王寺橋からの鎌倉街道と合流します。 

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    3. 段丘の際を左右に蛇行しながら引き続き南下します。段丘上に杉並第二小学校が見えてきました。

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    4. 「杉並の川と橋」(平成21年 杉並区立郷土博物館)の湧水リストにある「かま穴」龍神は、「杉二小東」とあり、このあたりなのでしょうか。

 <尾崎と白幡>  → 「成宗村絵図」にあるように、善福寺川の右岸一帯の字は尾崎で、権現社(熊野神社)はその鎮守でした。「尾崎 南の方にあり、これは前に云奇雲の瑞兆ありしとき、彼幡の尾のさしたる所ゆえ名づけしといふ、これも付会の説に似たり」(「新編武蔵風土記稿」) 尾崎の由来については、→ 「段彩陰影図」の左上に描かれた、熊野神社のある舌状台地の先端(小崎)とするのが一般で、「風土記稿」の引用する大宮八幡宮縁起にある伝承は、既存の地名から想を得て付会したものなのでしょう。なお、「杉並風土記(上)」(昭和52年 森泰樹)は、左岸の白幡(白畑)に関しても台地上にある広い畑(広畑)の転化と、やはり地形由来が元としています。