神田川 「まる歩き」 しちゃいます!!

ー神田川水系、支流はもちろん、旧水路、廃水路、全部 「まる歩き」ー

助水堀樋口

2018-03-16 06:32:33 | 神田川4

 神田上水助水堀をさかのぼって甲州街道を越ると、ワンブロック、50mほどで代々木村地先の樋口です。「上水記」によると樋口の規模は、「水口壱尺三寸四方」とあり、朱書きで「三尺五寸ニ弐尺五寸」と訂正されています。断面積で5倍ほどに拡張されたようで、これだと分水中最大規模の野火止用水の半分ですが、二番目の三田用水にほぼ匹敵、千川用水を上回っています。今回はこの甲州街道から分水口までの、わづかに痕跡の残る区間ですが、玉川上水側からたどります。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)  

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    ・ 「陸地測量部発行の1/10000地形図(明治42年測図) / 中野」  上掲地図と同一場所、同一縮尺です。

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    1. 玉川上水が山手通りを越えた先が分水口です。なお、この区間の玉川上水地下は京王線が利用しています。

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    2. 左手にフェンスで囲まれた区画があり、その中には鉄板を敷いた細長い空間が残されています。 

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    3. 甲州街道を越えます。ここに「字新町石橋」(「甲州道中分間延絵図」)あるいは「代々木橋」(「豊多摩郡誌」)が架かっていました。

 <銀世界>  上掲「明治42年測図」の甲州街道の先に、「銀世界」と記されています。幕末から明治にかけて、城西一と称される梅園が営業しており、銀世界あるいは梅屋敷と呼ばれていました。明治44年(1911年)に東京瓦斯が買収、ガスタンクの用地となりましたが、梅林は芝公園に移され現在に至っています。そのガスタンクも撤去され、跡地にはパークタワーが建っています。その一角に祀られた→ 銀世界稲荷が、当時の唯一の名残となっています。なお、前回UPの→ 「米軍撮影空中写真」には助水堀の傍らにガスタンクが一基写っていますが、その後隣接してもう一基増設されました。

 


淀橋浄水場

2018-03-15 06:31:18 | 神田川4

 淀橋浄水場の建設の第一歩は明治25年(1892年)、「多摩川誌」(昭和61年 多摩川誌編集委員会)の記述によると、まず淀橋事務所の盛土に着手、次いで「新水路余水吐築造工事にとりかかった」とあり、これは助水堀を余水吐きに転用する工事のことかもしれません。翌26年に起工式が行われ、31年にほぼ完成、神田、日本橋方面への給水が開始されます。給水地域は順次拡大され、明治32年(1899年)には落成式が挙行されます。(東京水道歴史館前に展示されている起工式のタイル画は→ こちらでどうぞ。当日は上野駅、新橋駅から特別列車が仕立てられ、来賓は三千人を越えたそうです。) なお、浄水場の給水能力は、当初予定では一日600万立方尺(4立方尺×150万人)、その後、明治末までに、給水人口200万人、一日の給水能力800万立方尺に増加しました。

 

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    ・ 「昭和22年米軍撮影の空中写真」   青梅街道、十二社通り、水道道路、甲州街道の各道路、そして神田川と玉川上水の位置関係は現在と同じです。

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    ・ 淀橋浄水場跡  昭和40年(1965年)、新宿副都心計画の具体化に伴い、淀橋浄水場は廃止され、水の橋下に→ 給水所が残るだけです。なお、淀橋浄水場の機能は東村山浄水場に引き継がれました。

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    ・ 角筈区民センター前交差点  玉川上水新水路跡の道路(水道道路)と十二社通りの交差点です。奥は新宿副都心の高層ビル群、左手は東京都庁舎で、助水堀は50mほど先を横切っていました。 

 <玉川上水新水路>  浄水場建設に当たり当初検討された案では、玉川上水の旧水路をそのまま使い、浄水場もそのルート上にある新宿駅の南西、千駄ヶ谷村に建設する予定でした。それを変更したのは、直線的に送水することで確保される落差(位置エネルギー)を利用し、市中への配水に要する機械力を節約しようとしたためです。結局、現在の和泉給水所付近から玉川上水を分水し、最大で6mほどの築堤上を淀橋浄水場まで、総延長4.3kmのほぼ直線の水路で送ることになりました。これが玉川上水新水路で、幅20尺深さ8尺、毎秒約160立方尺を流すことのできるコンクリート張りの開渠でした。

 


熊野神社

2018-03-14 06:29:55 | 神田川4

 神田上水助水堀は熊野神社の東縁を流れ、境内の北東端で滝となって落ちていました。それが、明治25年(1892年)着工の淀橋浄水場建設の際、神社東縁の区画が埋め立てられ、南北に二分されることになります。以下は前回引用の「豊多摩郡誌」の続きです。「現今は浄水場の排水、此の川の南方に入りしを地下に引きて、一は現時の十二社の瀧となり、一は旧玉川上水の廃流に入る、北方の排水は此の助水堀に入りて水車に利用せられ、後神田上水堀に注ぐ。」(→ 「東京近傍図」では描かれている神社脇の水路が、→ 「明治42年測図」で欠落しているのはそのためです。)

 

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    ・ 「江戸名所図会 / 角筈村熊野十二所権現社」  「世人誤て十二そうといふ 多景にして遊観多し」 

 上の溜井から社殿のある東の台上を見ています。左端は上下の溜井を隔てる堤で、中之島のようになって弁天社が祀られていました。そこから坂を上ると社殿前に出ます。社殿奥の松並木が境内の東縁なので、その裏側を助水堀が流れていたことになります。なお、「世人誤て十二そうといふ」ですが、熊野から十二の神々を勧請した際、一社に祀るいわゆる(十二)相殿としたことから、「社」を「そう」と読み、「相・双・層・叢・荘」などの漢字をあてたとの説もあります。

 

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    ・ 熊野神社  写真奥は境内の北東隅にあたり、稲荷神社が祀られている一角です。助水堀はさらにその奥を流れ、大滝となって落ちていました。 

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    ・ 新宿中央公園ビオトープ  熊野神社境内と連続する細長い区画で、助水堀もこのあたりを流れ、上掲写真裏へと向かっていたものと思われます。 

神田上水助水堀2

2018-03-13 06:27:50 | 神田川4

 助水堀の転機は明治25年(1892年)着工の淀橋浄水場建設でした。以下は「豊多摩郡誌」の引用です。「初めは幅四五尺長さ七百二十間あり、西北流して熊野神社(十二社)の東境を限る所にて大瀧となり下流は神田上水渠に入りて助水となりしが、東京市浄水場の設置せらるゝや、大瀧附近は之を埋めたる為め、瀧は其の形を失ひたり。」 (「江戸名所図会 / 熊野瀧」は→ こちらでどうぞ。また、長崎大学附属図書館「幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」には、F・ベアトが明治初年頃撮影した→ 「十二社の滝」が収録されています。)

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1. 十二社通りを越えた先の高層ビル街(新宿アイタウン)です。

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    2. アイタウンを抜けた先には車止めが見えています。

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    3. 水路跡はけやき児童遊園となって150mほど続き、水道局の用地に突き当たって終了します。  

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    4. 水道局の用地の先です。ここには角筈村持ちの三橋の一つ(「豊多摩郡誌」では「二の橋」)が架かっていました。 

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    5. 正面が熊野神社のある台地です。助水堀の水は「巾一丈高さ三丈」と伝えられる滝となって落ちていました。

神田上水助水堀

2018-03-12 06:21:31 | 神田川4

 「助水堀 村の北辺を流る、こは玉川上水の分水にて神田上水の助水なり、淀橋町へ沃けり」(「新編武蔵風土記稿」) 玉川上水の通水から十数年後の寛文7年(1667年)、神田上水への助水のため開削と伝えられています。これは幕末近くに書かれた淀橋水車の起立書によっており、同書によると、助水堀に水車が設けられたのは延宝2年(1674年)ですが、このへんの事情に関して「上水記」は、「古来玉川上水より神田上水え助水之樋口にて、水車起立候儀と(の関係は)相分兼候」としています。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)  

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    ・ 「昭和22年米軍撮影の空中写真」  上掲地図のグレー枠の部分です。同一個所に同一番号を振っています。 

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    1. 淀橋の上流が合流地点です。一方、→ 「角筈村絵図」にも描かれているように、水車用水は青梅街道を越えていました。   

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    2. 東京電力の用地前に路地が見えますが、水路跡は側溝が分かれている右端の方かもしれません。

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    3. 三角形の小公園の脇を抜けます。水車用水は三角形の頂点で分かれ、公園の東側を北上していました。  

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    4. 十二社通りを横切ります。欅橋(「豊多摩郡誌」では槻橋)が架かっていたところです。

溜井4

2018-03-10 07:03:04 | 神田川4

 昭和40年代に完全に埋め立てられた上の溜井ですが、その池畔を廻っていた道路はほとんど残っています。特に、先に埋立てられた南半分のほうが残っているので、前回最後の池の半ばから始め、反時計回りで半周します。ところで→ 「明治42年測図」を見ると、上の溜井の南東に入江状の個所があり、浄水場側にも池が描かれています。「豊多摩郡誌」の中に「今は浄水場の排水を地下に引きて僅に小やかなる瀧を設くるのみ」との一文があり、この個所ではないかと推測していますが、他に文献は未読です。なお、今回は池畔の道をたどるだけなので、いつもの青点線は書き込んでいません。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1. 上の溜井のほぼ中央から南下します。右写真は東岸の十二社通りから見通しています。  

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    2. 右カーブ、次いで左カーブでやや西側にシフトします。 

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    3. 突き当たりを左折します。前回の大イチョウから300mほどのところです。 

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    4. 上の溜井の南端です。左カーブで東側の池畔に回り込みます。 

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    5. 「明治42年測図」に入江が描かれていたのはこの先です。  

溜井3

2018-03-09 06:56:37 | 神田川4

 それまで規模を縮小してきた下の溜井が、完全に埋め立てられたのは昭和に入ってからで、角筈の田圃が宅地造成され、田用水としての役割を終えたのと期を一にしています。これに対し、上の溜井は行楽地の中心として、二業地、三業地指定を受けてからは歓楽街の中心として、なお存続しますが、同じころには南半分は埋め立てられ、竜宮殿を名乗る料亭などが建ち、また、昭和10年代に十二社通りが開通した際、東側が切り取られます。結局、同43年に完全に消滅しましたが、その直前には元の五分の一ほどが北西の一角に残るだけで、水質汚染も甚だしかったといいます。

 

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    ・ 「陸地測量部発行の1/10000地形図(昭和12年第四回修正) / 中野」  前回の→ 「明治42年測図」と同一場所、同一縮尺です。十二社通りなどをグレーで、熊野神社を含む新宿中央公園を薄緑で重ねています。

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    ・ 十二社の碑  江戸西郊の景勝地であることを記した記念碑で、嘉永4年(1851年)に建てられました。区指定史跡として、熊野神社境内に保存されています。 

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    ・ 上の溜井跡  最後まで残った北西の一角の池畔沿い道です。左手の建物の間に挟まれた大イチョウは、当時の名残といわれています。 

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    ・ 堤跡  上掲写真の右手坂上からのショットで、奥が十二社通りです。江戸時代は上下の溜井を隔てる堤がこの坂下にあり、弁天社が祀られていました。 

溜井2

2018-03-08 06:08:32 | 神田川4

 田用水の溜池として開削された溜井ですが、江戸時代も後半から明治にかけて、池の周辺には茶店が設けられ、景勝地としてにぎわうようになります。「池畔は皆茶亭にして巨幹に倚り碧水に枕み、・・・・夏季暑を樹下水辺に避くるの客最も多く、少女客を呼んで、茶亭の繁忙此時に限らる、爆泉は三四ヶ所あり、男女遊浴場を分つ、西北崖のもの最も古くして大なり」(「豊多摩郡誌」) この時期、灌漑用の溜池としての機能は低下し、特に下の溜池の縮小は顕著で、→ 「角筈村絵図」と「明治42年測図」の比較からも明らかです。

 

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    ・ 「陸地測量部発行の1/10000地形図(明治42年測図) / 中野」  十二社通りなどをグレーで、熊野神社を含む新宿中央公園を薄緑で重ねています。

 溜井の機能低下と関係しているのでしょう、江戸時代には幡ヶ谷村一村の用水だった幡ヶ谷村分水も、明治に入り角筈村の田圃を灌漑するようになります。明治17年(1884年)の「田用水取調表」によると、その水掛反別は2町7反5畝26歩、ちなみに、溜井を水源とするほうは3町5反1畝18歩です。なお、このように規模を縮小してきた下の溜井が、完全に埋め立てられたのは昭和に入ってからで、角筈の田圃が宅地造成され、田用水としての役割を終えたのと期を一にしています。

 

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    ・ 下の溜井跡  十二社通りから一つ裏手にあるこの通りのワンブロック、80mほどが、「竪五十間横七八間より十六間許」(「新編武蔵風土記稿」)の縦に当たります。

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    ・ 下の溜井跡  上掲写真の先を右手から見通したところで、正面奥は十二社通りです。その先の熊野神社下までが下の溜井の最も幅広な個所で、30~40mありました。 

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2018-03-07 06:00:26 | 神田川4

 十二社下の上下の溜池は慶長11年(1606年)(熊野神社境内の解説「ミニ博物館」)ないし慶長17年(「豊多摩郡誌」)、当地を知行していた伊丹播磨守康勝によって開削されたと伝えられています。→ 「段彩陰影図」にあるような、自然の小支流の谷頭に堰を設けて、ダム湖化したものなのでしょう。湧水、雨水を水源とする農業用の溜池で、前回UPの→ 「角筈村絵図」では下の溜井から流れ出た用水が、神田川右岸に広がる田圃を灌漑している様子が描かれています。もっとも、この「十二社溜池水路」(「豊多摩郡誌」)は明治末の「郵便地図」にも描かれておらず、正確にたどることはできないため、いつもの青点線は書き込んでいません。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1. 豊水橋の右岸です。この一帯が角筈村の田圃のあったところです。  

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    2. 昭和10年頃の宅地造成の際、整備された幅広道路から南に向かう路地があります。 

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    3. 路地を抜けた先で、「村絵図」にも描かれた道(「豊多摩郡誌」では「砂利道」)に突き当たり、左折します。 

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    4. 「砂利道」としばらく並行した後すぐに右折、直線で方南通りに向かいます。 

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    5. 下の溜井のあったのは、十二社通りの一つ裏手に当たるこの路地の周辺です。  

角筈村用水

2018-03-06 06:07:08 | 神田川4

 角筈村にかかわる用水について「新編武蔵風土記稿」の引用です。「玉川上水堀 村の南界を流る、幅二三間・・・・神田上水堀 村の西北の境を流る、幅五間或は七八間に至れり・・・・助水堀 村の北辺を流る、こは玉川上水の分水にて神田上水の助水なり、淀橋町へ沃けり、幅四五尺」 これらは角筈村に直接恩恵を与えるものではなく、逆に管理の負担を強いていました。「上水記」によると玉川上水の左岸134間、神田上水の右岸456間が角筈村持場となっています。一方、村独自の田用水に関しては、「十二社権現の傍なる溜井を用ゆ」としています。

 

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    ・ 「角筈村絵図」  「地図で見る新宿区の移り変わり-淀橋・大久保編-」(昭和59年 新宿区教育委員会)に収録された文化3年(1806年)作成の「角筈村絵図」をもとに、イラスト化したものです。 

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    ・ 玉川上水  明治神宮西参道前からのショットで、通りを隔てた正面奥が神田上水助水路の取水口です。高架下の甲州街道が角筈、代々木の村境なので、取水口は代々木村にありました。

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    ・ 十二社池跡  上の溜井(上の池)跡の低地から、淀橋浄水場跡地にそびえる東京都庁舎を見ています。間の茂みは新宿中央公園のもので、かってはここも熊野神社境内でした。

 「十二社権現の傍なる溜井」について、「風土記稿」はより詳細に記述しています。「溜井二 一は村の南熊野社の傍にあり、広さ竪百二十六間、横南方は八間、北に至ては二十六間許、上の溜井と云、此中蛇池と唱ふる所常に冷水湧出し、水色碧に漲れり、こゝを熊野の御手洗と唱ふ、往昔中野長者無量陰悪の報に由て、一子の愛女蛇身に化し、庭中を匍匐委蛇せしか、平地忽ち穿て水漲り淵となれり、因て蛇池と号すと『熊野縁起』に載たり、一は下の溜井と号す、上の溜井の北にて、堤を隔つ、則上の溜井分水なり、広さ竪五十間横七八間より十六間許に至る、世に十二社の池と称する者是なり」

 


角筈村

2018-03-05 07:03:03 | 神田川4

 「角筈村は日本橋より二里半、村の地形古へ武家屋敷等置れさる以前、東の方内藤新宿の地差入て矢筈の如くなりし故村名起りしと云、柏木村に伝ふる北条氏より出せし文書に、柏木角筈小代官百姓中と記し、『北条役帳』にも本住坊寺領十二貫文、柏木角筈共と見えたり、古は中野郷の唱ありし由『十二所権現の縁起』に載たり、戸数百八、東西十五町、南北八町許、東は内藤新宿、西は幡ヶ谷村、南は千駄ヶ谷、代々木の二村、北は鳴子町、淀橋町なり、・・・・村の南境には甲州道中かかり、北には青梅街道通せり、又村内多門院、長楽寺の二門前は町並となり、延享三年町奉行支配に属す」(「新編武蔵風土記稿」)

 

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    ・ 「東京近傍図 / 内藤新宿」(参謀本部測量局 明治13年測量)の一部を加工したもので、本来の縮尺は1/20000、パソコン上では1/12000ほどです。オレンジ線は区境、同細線は淀橋町当時の町、大字境、また、中央の薄緑は淀橋浄水場の範囲です。 

 角筈(つのはず)の由来に関しては、諸説が併存しています。その一は上で引用した「新編武蔵風土記稿」にあるように、甲州街道と青梅街道の追分のところが、東隣の内藤新宿に属していたため、村の形が矢筈のようだというものです。矢筈(やはず)は矢の末端部分で、弦に掛けるところに切り込みが入っています。この説に対して「豊多摩郡誌」は、古書には「ツノハツ」とあり、元々「筈」だったかどうか疑問だとした上で、当地の開拓者、渡辺与兵衛の髪の束ね方が異様で、あたかも角のようであったこと、そのため、「角髪」とあだ名されていて、いつしか村名となったとの説を紹介しています。

 

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    ・ 熊野神社  「熊野社 十二所権現を勧請せるを以て此辺の地名を十二所と呼ふ、本地正観音なり、別当は多摩郡本郷村成願寺なり」 「新編武蔵風土記稿」はさらに、中野長者鈴木九郎による創建伝承に触れています。 

 また同じ「豊多摩郡誌」は、その渡辺家に伝わるものとして、「角筈」は優婆塞(うばそく 仏教の在家信者)を指す神官の忌詞(いみことば)で、与兵衛も真言宗の優婆塞であったとの説も併記しています。なお、この説は主人公を中野長者、鈴木九郎に置き換えて、「嘉陵紀行」にも登場します。これ以外にも、玉川上水の水門の楔を角筈といい、それが地名になったとの説もありますが、角筈は玉川上水開削以前からある地名だと、「新宿区町名誌」(昭和51年 新宿区教育委員会)は指摘しています。

 


小淀3

2018-03-03 06:39:49 | 神田川4

 小淀を流れる田用水が桃園川に合流するところです。といっても、例によって水路跡と重なる道路はなく、段丘沿いに目星を付けるしかありません。ところで、「中野町誌」(昭和8年)の巻末に収録された「中野の回顧」には、小淀の用水での雨乞いについての記述があります。「話は變るが雨乞も忘れ得ぬものゝ一つだ。盛夏旱魃となると村の百姓は寶仙寺の什物、蛇骨を白木の箱に入れて、小淀の田用水、今は埋立てられた伏見宮邸下を流れる小川の中に入り、素裸で『さんげ、さんげ、六根清浄』と唱え乍ら、白木の箱に水を注いで雨を祈るのが例になってゐた。」

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    ・ 「陸地測量部発行の1/10000地形図(大正10年第二回修正) / 中野」  上掲地図と同一場所、同一縮尺です。両河川改修後の→ 「昭和12年第四回修正」はこちらでどうぞ。

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    1. 高歩院の北隣にある段丘下のマンション敷地です。段丘沿いの用水はあと建物二つ分、50mほどで桃園川と合流します。

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    2. 桃園川緑道で、右手からの用水と合流するところです。右写真は合流地点を振り返っての撮影です。

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    3. 桃園川緑道の終点です。末広橋がチラッと見えますが、実際の合流地点はそのやや先です。  

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    4. 桃園川の左岸流との連絡水路です。大久保通りを越えた先で連絡していました。

小淀2

2018-03-02 06:33:51 | 神田川4

 栄橋の次は伏見橋です。かって、小淀山(天狗山とも)一帯、一万千七百余坪が伏見宮邸だったことが由来です。伏見宮邸といえば紀尾井町の井伊家屋敷跡(現在のホテルニューオータニ)があり、こちらは別邸だったようです。伏見宮邸以前には山岡鉄舟の屋敷があり、さらに江戸時代にまでさかのぼると、麹町の豪商加太(かぶと)家の別荘で、成趣(じょうしゅ)園と称されていました。「空中写真」に写る池はこの庭園に由来するようです。成趣園の由来や風景を詠んだ天保11年(1840年)制作の碑文は、中野区の登録有形文化財に指定されていて、その中に「其南引渠水以為池、・・・・池畔置天妃祠」との一節がみられます。

 

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    ・ 「昭和22年米軍撮影空中写真」  池の東側が田用水、さらにその東が小淀東通りです。この付近の左岸流はまだ埋め残されているようにも見えます。 

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    ・ 神田川  伏見橋から下流方向です。左カーブの先は見通せませんが二百数十メートルで末広橋が架かり、桃園川と合流しています。 

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    ・ 池畔の道路  先の大戦末期、米軍の空襲で池だけが残されました。その池も昭和20年代末には埋め立てられ、今ではこのくねった道路があるだけです。 

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    ・ 池畔の道路  奥は鉄舟会禅道場の看板を掲げる高歩(こうほ)院です。高歩は山岡鉄舟の本名で、明治天皇の侍従当時、当地に居を構えていました。

小淀

2018-03-01 06:17:57 | 神田川4

 淀橋から桃園川が合流する末広橋まで、神田川左岸は小淀と呼ばれ、左岸台上は小淀山でした。前回の小淀橋がその由来です。この区間のうち末広橋までの桃園川流域は、大正15年(1926年)に着工された中野町第一土地区画整理事業によって、昭和の初めにはいち早く河川の改修、宅地化が完了しました。一方、神田川の改修は中野区内では最も遅く、昭和10年代まで待たなければなりませんでした。それでも、本流と左岸流の間にあって大正末には開通した道路(現小淀東通り)の周辺は、すでになし崩し的に宅地化されており、結局、土地区画整理事業とはなりませんでした。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    ・ 「陸地測量部発行の1/10000地形図(昭和12年第四回修正) / 中野」  上掲地図と同一場所、同一縮尺です。

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    1. 淀橋と栄橋の間の左岸で蛇行する道路は、直線化に際し取り残された本流の名残です。

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    2. フェンスで通り抜けできませんが、細長い空間が続いています。

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    3. 迂回した先です。振り返って撮影したのは→ こちらで、2.と連続しているようです。 

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    4. 右カーブのあと右折して終了しますが、すぐ先は直線化された本流です。

小淀橋

2018-02-28 06:19:16 | 神田川4

 本郷村地内で分岐した用水に架かっていたのが小淀橋です。→ 「中野村絵図」で淀橋と並んで描かれている橋で、江戸時代からそう呼ばれており、「武蔵名勝図会」は「淀橋より往来十八間をへだて、小溝に架す」と書いています。「江戸名所図会」に「淀はしハ成子と中野との間にわたせり、大橋小橋ありて・・・・」とあるように、淀橋とワンセットの小さい方の橋の意でした。その規模は「豊多摩郡誌」(大正5年)では「構造石造 延長三間幅員三・五間」となっていますが、「中野町誌」(昭和8年)の橋梁リストには登場しません。かわって名所旧跡の項に、「近年道路改修の際埋められて全く形を失えり」とあります。

 

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    ・ 「江戸名所図会 / 淀橋水車」 「淀はしハ成子と中野との間にわたせり、大橋小橋ありて橋より此方に水車回転る、故に山城の淀川に準へて淀橋と名付へき旨台命ありしより名とすといへり、大橋の下を流るるは神田の上水堀なり」 

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    ・ 小淀橋跡  かっての青梅街道は、淀橋を渡ったあとやや北側にふくれていました。そのため、小淀橋は正面ビルの左手前付近に架かっていたものと思われます。 

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    ・ 青梅街道  淀橋から中野坂上に向かってのショットです。次の信号のあたりを小淀橋の架かる用水が流れていました。淀橋と小淀橋の間は「中野町誌」では20間です。 

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    ・  小淀橋の親柱(?)  親柱と同じデザインのものが中野坂の中腹角にあります。淀橋のものに比べだいぶ小ぶりなだけに、小淀橋の遺構かもしれません。