神田川 「まる歩き」 しちゃいます!!

ー神田川水系、支流はもちろん、旧水路、廃水路、全部 「まる歩き」ー

和泉右岸5

2017-12-30 06:01:09 | 神田川3

 和泉田圃を灌漑していたうち、右岸段丘沿いの用水を追っています。和泉学園キャンパスの先は、日大鶴ヶ丘高校のグラウンドですが、その北東角あたりに右手からの谷筋が合流しています。その存在は → 「段彩陰影図」からも読み取れますが、谷筋の底にあたる日大鶴ヶ丘高校に向かう道路周辺に、水路の痕跡は確認できません。なお、この付近は和田堀村当時、大字和泉小字中山谷でした。「新編武蔵風土記稿」にも「中山谷 村の中程を云へり」と書かれています。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)  

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    ・ 「陸地測量部発行の1/10000地形図(昭和4年測図) / 上高井戸」と「同(第三回修正) / 中野」を合成したもので、上掲地図と同一場所、同一縮尺です。

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    1. 日大鶴ヶ丘高校のグラウンド脇の路地から、いったん幅広の通りに出ます。

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    2. すぐに車止めの路地が再開します。なお、1.から2.の中程が谷筋の合流地点です。  

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    3. 日大鶴ヶ丘高グラウンドを離れますが、車止めの路地はなおも続きます。 

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    4. 左手は和泉二丁目公園で、蛇行する本流の跡を留めています。

和泉右岸4

2017-12-29 07:06:57 | 神田川3

 井の頭通りまで戻り、右岸流のウォーク&ウォッチです。井の頭通りを越えたところで中断していましたが、通りの北側に沿う細長い公園の先、和泉学園キャンパスの東南角から再開します。左岸の場合と同様、段丘沿いを蛇行する道路が続きますが、それほど幅広ではなく、また車止め付きの狭い路地となっているところもあります。江戸時代から道路と並行していた左岸流と違って、水路単独だったところに、後から道路を付け加えたためです。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1. 和泉学園前から再開します。杉並区唯一の小中一貫の公立校で、平成27年開校しました。 

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    2. 前身の和泉小、和泉中の開校は昭和34年(1959年)、敷地は和泉田圃を造成したところです。   

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    3. 宮前橋を通る道を越えます。その先は水路単独の車止め付き路地になります。  

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    4. 日大鶴ヶ丘高校のグラウンドの東縁を細かく蛇行しながら北上します。 

 <狩野川台風>  建築中の和泉小、中学校の校舎は、昭和33年秋、狩野川台風に襲われました。氾濫した神田川の水は床上まで達し、番屋橋に溜った建築資材によって小ダムが形成され、一帯は水没し湖のようになりました。和泉地区を中心に、区内の床上浸水は4000戸を越えました。従来の荒川、江戸川低地にとどまらず、内陸の中小河川である神田川流域に被害が拡大したことは、都市型水害対策の必要を認識させ、1時間あたり50mmの降雨に対応できる河川整備が本格したのは、これ以降といわれています。なお、「杉並風土記(下)」(平成元年 森泰樹)によると、和泉小、中の浸水被害13回に及ぶも、昭和41年が最後となっています。神田川の改修が奏功した結果です。

 


和泉左岸6

2017-12-28 07:50:52 | 神田川3

 ここまで追ってきた左岸の用水は、一本橋と和泉橋の間で本流に戻ります。合流地点は現在、和泉緑地になっていますが、これは蛇行していたところを直線化し、取り残された半月状の断片を公園化したものです。なお、永福寺村の通称「下道」から並行してきた段丘下の通りは、ここで用水と離れ方南通りへと向かいます。下水道井の頭幹線も同じで、さらに方南通りを越え善福寺川の右岸まで出て、善福寺川幹線と合流、神田川幹線と名前を変えています。川の合流に先駆けて、下水道幹線は合流しているわけです。

 

Izumis6

    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)  

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    ・ 「昭和22年米軍撮影の空中写真」  上掲地図のグレー枠の部分です。同一個所に同一番号を振っています。

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    1. 東電和田堀変電所前です。これまで並行していた道路と離れ、右カーブで本流に向かいます。 

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    2. 突き当りに水路単独と思われる狭い路地があります。 

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    3. 路地の奥は和泉緑地です。右写真は本流の側からの和泉緑地で、半月状になっているのが分かります。

 <和田堀変電所>  左岸台上にある和田堀変電所の歴史は古く、1912年(明治45年)に完成した八ツ沢線(山梨県大月市の八ツ沢発電所・淀橋間)を中継、うち和田堀・淀橋間は善福寺川、神田川流域を経由して淀橋に至るルートでした。なお、左岸台上にあると書きましたが、→ 「段彩陰影図」を見ると、そこには「つ」の字を描く谷筋があり、その根元の整地されているのが変電所の敷地です。この谷筋には、少なくともはけ水路はあったのでしょうが、地図や文献でその存在に触れたものは未見で、また、現地調査でも水路跡を発見できませんでした。


和泉右岸5

2017-12-27 06:54:31 | 神田川3

 和泉村左岸の田用水を追っての五回目で、貴船神社前を過ぎた後も引き続き北上します。左手に段丘、右手にかっての田圃と云うロケーションは変わりませんが、段丘は徐々に後退し、崖面ではなくなります。なお、貴船神社の先で番屋橋の通りと合流します。この通りは→ 「和泉村絵図」にもあるように、和泉村の中央を横断し、甲州街道と大宮八幡を結ぶ古道でした。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1. 右手から番屋橋の通りが合流します。大宮八幡へいくのには、しばらく水路とともに北上します。

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    2. 右手のフェンスは大妻中野杉並グラウンドで、中にはテニスコートがあります。 

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    3. 同グランドを過ぎますが、その北縁に本流への連絡水路を描く地図もあります。

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    4. 大宮八幡への順路は右写真で左折し、「いの坂」(「杉並の通称地名」)を上ります。 

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    5. 左手の段丘は後退していて、崖面はなくなっています。 

和泉左岸4

2017-12-26 06:01:35 | 神田川3

 貴船神社の御手洗い池の水は、小川となって流れ出ていました。「杉並風土記(下)」(平成元年 森泰樹)には「昭和四〇年頃までは清水がこんこんと湧き出て、池から前の小川に流れ出ていました」と書かれています。昭和30年代の「空中写真」を見ると、宅地造成の過程で神社前の田圃が姿を消しつつありますが、番屋橋手前で本流に注ぐ小川は健在のようです。ただ、その後の神田川の改修と周囲の宅地化によって、御手洗い池の湧水自体が枯渇、この小川もコンクリート蓋を残しているだけです。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)  

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    ・ 「昭和38年国土地理院撮影の空中写真」  上掲地図のグレー枠の部分です。同一個所に同一番号を振っています。

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    1. 左折すると尻割(けつはり)坂で、「杉並の通称地名」(平成4年杉並区教育委員会)にも収録されています。 

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    2. 貴船神社前の道路右手に、車止めが顔をのぞかせています。

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    3. コンクリート蓋の水路跡はすぐに狭くなり、この先不安なので4.に回り込みます。

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    4. 本流への合流地点で正面が番屋橋、右写真は番屋橋から下流方向です。 

和泉左岸3

2017-12-25 06:48:39 | 神田川3

 左岸の田用水を追って泉湧山龍光寺、次いで熊野神社の前に差し掛かります。「熊野社 除地、三百坪、村の北の方にあり、上屋二間四方、本社も五尺四方、拝殿二間半に二間、社前に木の鳥居を立、例祭は年々九月廿九日、村内龍光寺持」(「新編武蔵風土記稿」) 文永4年(1267年)に紀州熊野三社を勧請して創建と伝えられ、これは堀之内村の熊野神社も同様です。また、大永4年(1524年)に北条氏綱が上杉氏を破って江戸城を攻略した際、戦勝を祝って両社を改修したとの社伝もあります。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1. 細かく蛇行しながら北に向かいます。水路は引き続き道路の左手を並行していました。

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    2. 泉湧山龍光寺前です。この寺下の低湿地は菖蒲園となっていた時期もあります。 

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    3. 熊野神社前に差し掛かります。右手に折れると宮前橋(「東京府志料」では中の橋)です。

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    4. 鳥居の前に神橋の欄干が見えますが、今回の用水に架かっていたものなのでしょうか。 

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    5. 引き続き段丘の際を蛇行しながら北上します。段丘上はかって和泉山と呼ばれる雑木林でした。 

井ノ頭通り

2017-12-22 06:29:09 | 神田川3

 和泉村で本流に架かる最初の橋は蔵下橋(「東京府志料」では上の橋)でした。甲州街道から分かれ、人見街道、五日市街道へと至る道にありますが、井の頭線が神田川を越える際、この道と並行しているため、鉄橋と蔵下橋は重なるように架かっています。蔵下橋の次は井ノ頭通りに架かる神泉橋です。井ノ頭通りは境浄水場から和田堀給水場まで、送水管を敷設するための道路で、水道道路とも呼ばれています。大正13年(1924年)に完成しましたが、当時は車馬の通行は不可で、橋も小規模なものだったと思われます。昭和12年(1937年)に車馬通行可となった際、鉄筋コンクリート橋に架け替えられました。(500mほどの右岸段丘上にある和泉給水所のタンクは→ こちらです。)

 

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    ・ 「陸地測量部発行の1/10000地形図(昭和4年測図) / 上高井戸」  車馬通行不可当時のもので、昭和8年(1933年)開通の井の頭線も描かれていません。

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    ・ 神田川  奥に見えるのが井の頭線鉄橋、その下が蔵下橋です。井の頭線はここでのクロスを最後に神田川流域を離れ、南下して明大前駅に向かいます。 

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    ・ 神田川  蔵下橋からのショットで、神泉橋下には水道管が並行しています。水道管は橋下の下流側にも、また橋から離れた下流にも、より大規模のものがあります。

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    ・ 神田川 神泉橋から下流方向のショットで、もう一本の水道管が見えています。なお、左手から正面にかけての茂みは、左岸段丘にある龍光寺や熊野神社のものです。 

和泉左岸2

2017-12-21 06:55:56 | 神田川3

 和泉村の左岸流を追っての二回目です。村境から蔵下橋にかけての左岸流域は、日照寺田圃と呼ばれていました。「杉並の通称地名」(平成4年 杉並区教育委員会)には「日照寺跡から南の田圃をいう。旧神田川の谷で昭和8年ころ埋立てられ宅地化した」と書かれています。→ 「和泉村絵図」に描かれ、「新編武蔵風土記稿」には「除地、一町、村の西境にあり」と書かれた日照寺が名前の由来ですが、明治8年(1875年)に廃寺となり、数百メートル離れた龍光寺に併合されました。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1. 日照寺はこの左手の台上にありました。ちなみに前回最後の法印坂も日照寺とかかわる名前です。  

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    2. 井の頭線を越えます。ガード手前で右折、すぐに左折のクランクでしたが、その痕跡は残っていません。

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    3. 井の頭線を越えた先です。水路は左カーブしますが、線路沿いに右手に行くと本流に架かる蔵下橋です。 

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    4. 井ノ頭通りをガードで越えます。左右がフェンスで囲まれているのは水道局の用地です。

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    5. 右手に車止めがあります。本流との連絡水路が幾つもありましたが、そのひとつかもしれません。

和泉左岸

2017-12-20 06:54:57 | 神田川3

 神田川本流は永高橋から明風橋にかけて、左カーブ、右カーブのクランクで北側にシフトします。永福寺村の左岸流は→ 「永福寺村絵図」に描かれているように、そこで本流と接するように左カーブ、和泉村の用水となって村境を北上していました。この水路跡は段丘の際を蛇行する通りの一部となっていて、井の頭線や井ノ頭通りを越え、環七手前の和田村(字方南)境までたどることができます。(永高橋下流のクランクは→ こちらでどうぞ。)

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    ・ 「地理調査所発行の1/10000地形図(昭和33年第二回修正) / 上高井戸」  上掲地図と同一場所、同一縮尺です。

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    1. 永高橋と明風橋の間で本流から離れる路地から始めます。「永福寺村絵図」で村境となっているものです。 

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    2. 右カーブの連続で西から北寄りに向きを変えます。  

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    3. 蛇行しながら段丘沿いに北上します。なお水路は段丘寄りにありました。

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    4. ここまで流路に沿っていた村境は、左折して法印坂と通称される坂を上っていました。

和泉右岸3

2017-12-19 07:07:56 | 神田川3

 和泉村の右岸を灌漑する用水の三回目です。明大グランドから離れた後、京王井の頭線、井ノ頭通り(水道道路)を相次いで越えます。その前後は幅広の道路になっていて、蛇行以外水路を思わせるものはありません。ただ、井の頭線から井ノ頭通りまでの70mほどは、水路単独を転用したと思われる狭い路地となっています。なお、右岸流を追うのは井ノ頭通りを越えたところまでとし、本流や左岸流をここまで扱ったあとで再開する予定です。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1. 明大グランドの先で井の頭線に突き当たって中断します。

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    2. 井の頭線を越えたところです。1.の正面に水路単独を思わせる路地があります。 

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    3. 狭い路地はワンブロック、70mほどで井ノ頭通りに突き当たって終了します。

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    4. 井ノ頭通りの先です。通りの下に公園があり、その先の道路が水路跡を含んでいます。

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    5. 和泉学園の東縁を北上します。水路は道路の右手を並行していました。

和泉右岸2

2017-12-18 07:00:39 | 神田川3

 永福橋下流で右岸に分岐した用水を追っての二回目で、永福学園の敷地を離れ明大グランド前に向かいます。ところで、現在は永福1丁目に属する右岸流域ですが、明治22年(1889年)に和田堀内村が成立した際、大字和泉の小字として御蔵下が採用されました。段丘上にあった幕府の焔硝蔵にちなんだネーミングです。その跡地は昭和5年(1930年)に払い下げになり、東半分は明大和泉校舎、西半分は築地本願寺和田堀廟所となりました。その当時大半が田圃だった御蔵下も造成され、現在は都立永福学園のキャンパスや明治大学のグランドとなっています。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)  

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    1. 永福学園前の車止め付きの通りを東に向かいます。左手の茂みは永高橋右岸にあるどんぐり緑地です。

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    2. 突き当りを左手に折れます。ここから先は元の流路と重なるので、青点線を書き込みました。 

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    3. 明大グランドを右手に見ながら蛇行します。なお、水路は通りの左手にありました。

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    4. 百数十メートルで明大グランドを離れます。その先の右手はNTTの社宅のある一角です。

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    5. 引き続き蛇行しながら北寄りに進みます。

和泉右岸

2017-12-16 06:41:17 | 神田川3

 永福橋下流で右岸に分岐し、和泉村の田圃を灌漑していた用水を追います。これには旧東電グランドの縁を流れてきた、前クール最後の右岸流の余水も合流していたようですが、合流地点前後が高校や小学校の敷地となり、正確にたどることができなくなりました。その際付替えられたと思われるそれらしい道路についても、確証がないのでいつもの青点線は書き込んでいません。なお、和泉村に属していた神田川右岸ですが、現行の住居表示は永福(1丁目)なので、固有名詞には明大和泉校舎、永福学園など両者が混在し、分かりにくくなっています。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)  

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    ・ 「昭和22年米軍撮影の空中写真」  上掲地図のグレー枠の部分です。同一個所に同一番号を振っています。

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    1. 永福通りを越えた先にあるひまわり公園前の道路です。上掲「空中写真」では分かりずらいですが、永福寺村からの右岸流の流路と重なります。 

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    2. 永福南小跡地に突き当たって左折、本流に戻ります。本来はそのまま東に向かっていたのを付替えたのでしょう。 

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    3. ひまわり橋から永福学園方向のショットです。このあたりから右岸への分岐がありました。 

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    4. 永福学園前です。「空中写真」の水路は敷地内に入っていますが、今ではその北縁に沿う道路が車止め付です。

和泉村用水

2017-12-15 06:56:42 | 神田川3

 「新編武蔵風土記稿」は和泉村の水利に関して、「多摩川上水 下高井戸村ヨリ入、村内十四町程を流て、荏原郡代田村に通ず、堀幅三間許、井ノ頭上水 永福寺村界より入、和田村へ通ず、是も村内を流るゝこと十八町許、堀幅三間、用水には此上水を引分けて水田に沃けり」と書いています。これまでの流域各村と同様、左右に並行する用水の間に、細長い水田が形成されており、その幅は100~150m前後で推移していました。面積は「東京府志料」の数字で13町1反3畝余、ちなみに畑は63町9反7畝余でした。

 

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    ・ 「和泉村絵図」  「杉並近世絵図」(平成5年 杉並区教育委員会)に収録された「和泉村絵図」を元に田用水を強調しています。なお、「村絵図」の神田川は東に流れていますが、実際はいったん北に向かってからです。

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    ・ 神田川  永福橋から下流方向で、現在は両岸とも永福ですが、かっては左岸永福寺村、右岸和泉村でした。奥のひまわり橋先で左カーブするあたりで、右岸に和泉村の用水を分岐していました。 

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    ・ 神田川  永高橋先のこのあたりから両岸とも和泉村になります。永福寺村の左岸流は、→ 「永福寺村絵図」の右端にあるように、ここで本流をかすめるように左カーブ、和泉村に入っていました。 

 <和泉村の橋> 江戸時代、村内を流れる神田川本流には、三本の橋が架かっていました。「東京府志料」によると、三本とも板橋で、上流から上の橋、中の橋、下の橋、「各長凡三間幅一間」の大きさでした。上掲「村絵図」では、代田橋の東側で甲州街道から分岐した道(長新田道)が、すぐに二本、さらに三本に分かれて神田川を越え、そこに各々橋が架かっていて、この構造は→ 「東京近傍図」の描くのとまったく同じです。これら三橋を現在のものに当てはめると、上流から蔵下橋、宮前橋、番屋橋となります。蔵下は和田堀内村大字和泉の小字御蔵下から、宮前は熊野神社前に架かる橋ですが、最後の番屋の由来は不明です。

 


和泉村

2017-12-14 06:14:21 | 神田川3

 「和泉村は、郡の東よりにあり、江戸日本橋へは行程三里にあまれり、村の四境、東より北へかゝりては和田村に隣り、西は永福寺村下高井戸宿に接し、南は荏原郡代田、赤堤、松原の三村に及べり、広狭は東西へ十三里程、南北七里に過ず、民家八十軒、村内高低ありて土性は野土なり、陸田多して水田少し、村内一條の街道あり、これを甲州往還と云、和田村より入下高井戸宿へ通す、村内を経ること十三里許、・・・・」(「新編武蔵風土記稿」)

 

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    ・ 「東京近傍図 / 内藤新宿」(参謀本部測量局 明治13年測量)の一部を加工したもので、本来の縮尺は1/20000、パソコン上では1/12000ほどです。オレンジ線は区境、同細線は和田堀内村当時の村、大字境です。

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    ・ 熊野神社  「除地、三百坪、村の北の方にあり、上屋二間四方、本社も五尺四方、拝殿二間半に二間、社前に木の鳥居を立つ、例祭は年々九月廿九日、村内龍光寺持ち」(「新編武蔵風土記稿」)

 村名が登場するのは宝徳3年(1451年)の「上杉家文書」に「武蔵国中野郷内・・・・泉村」とあるのが最初で、永禄2年(1559年)の「小田原衆所領役帳」でも「泉村」となっています。和泉の地名は各地に分布し、泉の湧き出る地の雅語とされるのが一般ですが、当地の場合もそうで、「豊多摩郡誌」(大正5年)は「貴船神社境内に御手洗井あり、古き泉にて水質頗る清冽なり、舊来如何なるか旱天にも枯渇せしことなしと傳ふ、和泉の名これより起れりと、村民間に傳へらる」と書いています。

 

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    ・ 貴船神社  境内の御手洗井跡です。かっては清酒が湧きだしていたとの伝承もある名水でしたが、神田川の改修と周囲の宅地化によって、昭和40年(1965年)ごろには枯渇しました。

永福橋

2017-12-13 07:08:52 | 神田川3

 → 「永福寺村絵図」で、神田川の北側では永福寺村を南北に貫き、南側では和泉村との境となっているのが現在の永福通り、そこに架かるのが永福橋ですが、かっては二子橋、あるいは大橋とも呼ばれていました。「二子橋 同所(永福寺村)にあり。井の頭上水の板橋なり。この道は北の方大宮辺より玉川へ出て、二子の渡しを越えて行く道なるゆえ、相州道と号し、また二子橋と名付く。当所より下高井戸へ出て行くなり。」(「武蔵名勝図会」 文政6年 1823年) 最後の「下高井戸に出て行くなり」は、右岸段丘から玉川上水、甲州街道にかけて、下高井戸村に属していたためです。

 

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    ・ 「昭和22年米軍撮影の空中写真」  ブルーで重ねたのは現行の流路で、昭和40年代までに直線的に改修されました。

 江戸時代の規模は不明ですが、明治初年の「東京府志料」では「板橋 永福寺村ニアリ長三間半幅三間」となっていて、前後の鎌倉橋(「長四間幅一間」)や和泉村に架かる三つの板橋(「各長凡三間幅一間)に比して、幅がずいぶん広くなっています。神田上水関係で最も大きな淀橋でも「長七間幅三間三寸」なので、(数字の間違いでないとすれば)この界隈では目立って大きな橋だったことになり、その意味では大橋の名も納得できます。

 

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    ・ 永福橋  かっては永福寺橋から下流の神田川が永福寺、和泉両村の境を形成していました。現行の住居表示では井の頭線まで両岸とも杉並区永福(1丁目)に属しています。 

 ところで、「永福寺村絵図」では永福橋手前の神田川は大きく蛇行しています。現在はショートカットされていますが、この改修はだいぶ以前に行われたようで、→ 「東京近傍図」にも蛇行はありません。もっとも、「近傍図」はこと流路に関してはだいぶ大雑把で、永福通りを越えているところなど、実際よりも右岸寄りに描かれており、あまりあてにはなりません。間違いないところとしては、明治42年の「地形図(1/20000)」や大正期の「和田堀内村全図(1/3000)」があり、どちらもショートカットされています。とくに後者は蛇行の痕跡を地番割に残していますが、これは上掲「空中写真」の水田の並びからも見て取れます。