神田川 「まる歩き」 しちゃいます!!

ー神田川水系、支流はもちろん、旧水路、廃水路、全部 「まる歩き」ー

左岸の水路2

2017-03-31 07:06:08 | 善福寺川2

 左岸流が廃止された代替として、区画整理時に新設された水路を追っての二回目で、桃井二小を過ぎ、南口仲通り商店街を越えた先からです。300mほどのところにある春日橋で本流に戻りますが、その途中二ヶ所で左手からの合流があります。段丘の際までのワンブロック、数十メートルのごく短いものですが、コンクリート蓋の遺構を見ることができます。段丘下の湧水、雨水の排水路として整備されたものなのでしょう。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1. 仲通りを越えた先の左手で、荻窪高校の西縁に沿うコンクリート蓋が残されています。

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    2. 忍川橋の架かるバス通りを越えた先にもコンクリート蓋がありますが、どちらも通り抜けできません。

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    3. 忍川下橋の架かる通りを越えます。ここで右折し本流に戻る一流もありました。

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    4. 向きを南寄りに変え、本流との間隔を狭めていきます。正面奥に春日橋が見えてきました。

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    5. 春日橋で本流に戻ります。右写真は春日橋下流の左岸方向で、ここに田端堰がありました。 

左岸の水路

2017-03-30 07:04:25 | 善福寺川2

 下荻窪村分水は、環八とすずらん通りが交差する東電荻窪支店前交差点付近で、善福寺川の左岸を並行する田用水に合流、共に左岸段丘に沿って流れていました。区画整理によってこの田用水が廃止されたあとも、新設された道路と並行する水路が設けられ、雨水や生活用水の排水のための機能はなお維持されていましたが、その排水路も拡張された道路の一部となり、地上から姿を消してしまいました。(なお、この水路を含む道路の大半は、下水道善福寺川上幹線のルートと重なっています。)

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1. 右手の道幅が広くなっていますが、区画整理後路線図の描かく水路の起点と一致します。

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    2. 桃井第二小学校が見えてきました。同校の開校は昭和3年(1928年)、区画整理と同時期です。

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    3. 同小創立50周年記念の小冊子、「おぎくぼ いまむかし」掲載の手書きの地図は、この水路をドブ川としています。

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    4. 荻窪駅前からの南口仲通りを越えます。ここで右折し通りの右手を並行する一流もありました。

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    5. 忍川上橋で本流に戻ります。上記手書きの地図では「おし川はし」となっていて、隣にバス通りができるまでこちらが忍川橋でした。 

下荻窪村分水4

2017-03-29 07:27:05 | 善福寺川2

 下荻窪村分水を追っての四回目です。白山神社前で環八通りを越えて右折、その西側を並行して北に向かいます。目指す青梅街道との四面道交差点まで、直線で300mほどです。ただ、区画整理時幅員9mで開通した通りは、昭和40~50年代に現況の25mに拡幅され、水路の部分もその中に含まれてしまったため、この部分の痕跡はありません。なお、今回の水路の先端は環八通りを西に離れ、青梅街道の南側を100mほど並行していますが、その区画が本来の下荻窪村分水の流路だったかどうかは不明です。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1. 上荻二丁目陸橋手前です。右写真は左手からのショットで、環八通りが浅い谷筋にあるのが分ります。

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    2. 四面道交差点の100mほど手前です。右手の直進車線は、トンネルで青梅街道下をくぐります。

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    3. 四面道交差点直前で左に折れ、上荻本町通りを横切って西に向かいます。

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    4. 区画整理後の路線図を見ると、水路の先端はこのあたりですが、この間の水路跡は失われています。

 <四面道南口>  下荻窪村分水の本来の分水口ですが、「星野家文書」中の明治初年の文書は、「字四面道南口」としています。天沼村の字四面道は今日の四面道交差点とはズレ、→ 「明治42年測図」にもあるように、青梅街道と現日大二高通りに挟まれた三角形の部分でした。ここでの千川上水七ヶ村(六ヶ村)分水は青梅街道の北側を並行しており、日大二高通りを越えて字四面道に入ったどこかに分水口があり、そこから青梅街道を越えて下荻窪村に流れ込んでいたと考えられます。なお、「杉並近世絵図」(平成5年 杉並区教育委員会)に収録された文化3年作成の「天沼村絵図」を見ると、下井草村境(現日大二高通り)を越えた直後の青梅街道に石橋が描かれており、あるいは分岐直後の下荻窪村分水に架かるものではないかと推測しています。


下荻窪村分水3

2017-03-28 07:14:30 | 善福寺川2

 下荻窪村分水の三回目で、JR中央線を越えた先からの再開です。観音押出しから白山神社、光明院前を経て本村橋へ向かう古道が、中央線の北側を並行しています。その道に面して車止め付の路地が顔をのぞかせています。白山神社の長い→ 参道の西隣にあって、ほとんど並行している路地で、今回のウォーク&ウォッチの中で、唯一明らかに水路跡だと分るところです。ただ、その長さは100mに満たず、すぐに一般の道路や拡張された環八通りに含まれてしまいます。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    ・ 「昭和22年米軍撮影の空中写真」  上掲地図のグレー枠の部分です。同一個所に同一番号を振っています。

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    1. 中央線の先の車止め付の路地です。右写真は光明院前からのショットで、谷筋の底にあるのが分ります。

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    2. 下水道台帳を見ると、右手から合流する路地はワンブロックだけですが、水路敷きとなっています。

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    3. 左折して環八通りを越えます。左折後の道路の左側が幅広になっているのに注目です。 

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    4. 環八通りを越えたところで右折、通りの西側を並行します。 

下荻窪村分水2

2017-03-27 06:22:18 | 善福寺川2

 下荻窪村分水の二回目で、環八通りを北に向かい、左折してすずらん通りに入ります。といっても、本来の分水の流路ではなく、区画整理後の単線、かつ直線的なものですが。途中、JR中央線の築堤が行く手を遮ります。今回の谷筋を越えるために設けられたもので、これは、昨日UPの→ 「明治42年測図」にも描かれており、明治22年(1889年)の甲武鉄道敷設当初からそうだったものと思われます。なお区画整理以前の地図を見ると、下掲地図の④で中央線を越えその南側を並行、⑤で南下する水路が描かれています。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1. 環八通りの東側歩道を北に向かいます。左手奥の通信塔はすずらん通り前にある東電のものです。

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    2. 環八通りから右折、すずらん通りに入ります。次の通りをすぐに左折です。

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    3. 区画整理の時新設された道路を北に向かいます。水路は左手を並行していました。

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    4. JR中央線の築堤に突き当たって中断します。奥に見える茂みは白山神社のものです。

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    5. 区画整理前の流路と重なる路地です。右写真は左岸(右手)からのショットで、浅い谷筋にあるのが分ります。

下荻窪村分水

2017-03-25 07:49:09 | 善福寺川2

 青梅街道と環八通りが交差する四面道交差点付近で、千川上水七ヶ村分水(明治に入り六ヶ村分水)から分岐、下荻窪村の水田を灌漑しながら、余水を善福寺川に落とす支分水がありました。文献上最初に登場するのは寛政6年(1794年)の「星野家文書」で、「下荻久保村八寸廻り竹筒」と書かれているものです。「八寸廻り竹筒」とは周囲8寸の竹筒のことですが、明治10年(1877年)の「星野家文書」でも、樋口の大きさは縦1.56寸横1.554寸しかなく、→ 「段彩陰影図」に見るように、白山神社と光明院に挟まれた、現在は環八通りとなっている狭い谷筋を灌漑するだけの、ごく小規模な支分水でした。明治初年の数字で灌漑面積は、下荻窪村の水田総面積7町7反のうち1町4反なので、下井草村の24町などに比して、その少なさは際立っています。

 

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    ・ 「陸地測量部発行の1/20000地形図(明治42年測図) / 東京西近郊図」  この地域を描く「1/10000地形図」は、区画整理後の「昭和4年測図」が最初なため、今回の支分水にかかわる水田はすでに消滅していて参考になりません。

 明治、大正期までの下荻窪村分水は、東電荻窪支店の北側を流れる左岸流に余水を落とし、共に左岸段丘沿いを数百メートル流れて、春日橋付近で本流に合流するコース取りでした。それが、区画整理による左岸流の廃止に伴い、東電荻窪支店前交差点で環八通りに沿い、荻窪橋で善福寺川本流に合流するルートに付替えられます。出来るだけ下流に水を廻らしたい田用水の流路設計に対し、排水路の場合は最短距離で本流に合流させようとする、これまでもたびたび見てきたパターンの付替えです。

 

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    ・ 荻窪橋  井荻町の区画整理後路線図を見ると、水路は環八通りの東側に沿い、桃井第二小学校前で善福寺川に合流していました。左手奥がその桃二小です。

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    ・ 環八通り  荻窪橋上の陸橋から四面道方向です。一つ先の信号がすずらん通りと交差する東電荻窪支店前交差点、その奥でJR線の下をくぐった先が四面道です。

松庵2

2017-03-24 06:24:14 | 善福寺川2

 大宮前下水の谷頭付近の流路に関しては、詳細する地図、文献の類は皆無に近く、わずかに、「杉並郷土史会史報」(平成6年 第127号)中の「觀音川と松庵川」が、「西荻窪駅の西南(松庵三丁目四〇番)付近からはじまり」とし、同第131号(平成7年)の「仮称松庵川について」が、「はけ水路で、武蔵野市吉祥寺東町四丁目より流れ出て、区境で中央線の下を土管で流れ線路沿いに走り、曲折して流れ下りました。現在武蔵野市に於いては吉祥寺東町4-18-9にポンプ場を設けて処理しています」としているくらいです。なお、武蔵野市の排水に関しては、昭和31年(1956年)からポンプで神田川に圧送していましたが、その後女子大通りの下水道幹線の完成に伴い、自然流下で善福寺川に送られるようになりました。

 

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    ・ 西荻窪駅前  西方向の谷筋を見通しています。前回最後の→ 写真は同じところから南方向なので、谷筋がどちらに向っているかが分かります。 

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    ・ 杉並区、武蔵野市境  上掲写真の通りの先はT字になっていて、その横棒に当たる道が杉並区と武蔵野市(旧吉祥寺村)の境界となっています。「区境で中央線の下を土管で流れ」とは、この右手のガード下付近のことと思われます。 

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    ・ 本多東公園  ポンプ場の跡地を地下は大雨の際の貯溜施設、地上は公園として整備しました。上掲写真とはJR中央線を挟んで向かい合い、手前の道路を隔てて武蔵野市に属しています。

 <松庵窪>  → 「段彩陰影図」で西荻窪駅の西側に見られる谷頭は、井の頭池や善福寺池周辺と同様、50m等高線の前後に位置していて、かっては湧水池があり自然河川が流れ出していたのでは、との想像も可能な地形ではあります。ただ、今回の大宮前下水が直接関係しているのは、こうした自然の谷頭ではなく、人為的に出来た窪地でした。明治22年(1889年)に中央線の前身である甲武鉄道が開通した際、その用土を採取したため大きな窪地が出来、以来、昭和の初めころまで松庵窪と通称されました。それが、大正12年(1923年)の西荻窪駅開設に伴い、駅周辺の宅地造成が図られる過程で、埋立てられ、大宮前下水も整備されましたが、それでも昭和2、30年代ころまでは、大雨が降るとボートが浮くほどの水が出るところもあったとか。

 


松庵

2017-03-23 06:11:56 | 善福寺川2

 大宮前下水をさかのぼって西荻駅前まできました。ここから先は確定的な水路跡は不明なので、谷筋に沿って北西に向かいます。駅南口に通じる西荻南中央通りを越え、その一つ西側の通りに面した路地が、谷筋の底に当たっています。なおこの一つ西側の通りというのが、西荻南(2丁目)と松庵(3丁目)の境になっていますが、これは江戸時代の大宮前新田と中高井戸村、松庵村との境を引き継いだものです。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1. 元の村境の通りに面した水路跡らしい路地です。右写真は左手からのショットで、奥が西荻駅前です。

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    2. 右折、左折のクランクで右手にシフトします。

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    3. クランクを抜け、直線で北西に向かいます。

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    4. 路地は道路に突き当たって終了です。右写真は西荻窪駅側からで、谷筋は明らかです。

 <中高井戸村、松庵村>  西荻窪駅南口に通じる西荻南中央通りの一つ西側の通りが、大宮前新田の西の境を画していました。その先は中高井戸村、さらに数ブロックで松庵村ですが、現在は合わせて松庵(1~3丁目)で杉並区の西端に位置しています。どちらも大宮前新田と同様、江戸初期に開拓された村で、うち承応年間(1652~55年)の玉川上水の開削に伴い、その水路に当たった高井戸村の住民が移住してきたのが中高井戸村、松庵村については「新編武蔵風土記稿」が、「開発の年代は伝へざれど万治年中のことなるにや、松菴と云医師新に開きしにより、村の名とせり」としています。

 


そよ風通り3

2017-03-22 07:22:57 | 善福寺川2

 大宮前下水をさかのぼってそよ風通りを西に向い、高井戸第四小学校前を過ぎました。その先の西荻駅に向かうバス通りの手前で、右折して通りを離れ北に向かいます。そよ風通りとは600mほど並行していたことになります。なお、→ 「段彩陰影図」に書き込んだように、地図で確認できる水路は北に向かうところまでですが、谷筋はさらに北西にたどることができます。痕跡も断片的に残されていますが、流路を特定できないため、ここから先はいつもの青点線は書き込んでいません。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1. そよ風通りの右手にシフトした幅広歩道ですが、ここでも奥が行き止まりのように見えています。

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    2. バス通り手前です。幅広の歩道は中断し、右手にフェンスで覆われた狭い空間があります。

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    3. フェンスの先は開渠の溝になっていますが、通り抜け出来ない狭さです。

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    4. 確定的なのはここまでです。道幅の変化からすると左折ですが、直進方向にも気になる空間があります。

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    5. 駐車場の片隅にある溝が、西から北に向きを転じています。(数年前の写真で、今はマンションが建っています。)

そよ風通り2

2017-03-21 06:55:05 | 善福寺川2

 そよ風通りを西に向い、その中程にある高井戸第四小学校前まで来ました。同校の開校は昭和14年(1939年)ですが、その当時から大宮前下水の改修は急務で、「杉並の川と橋」(平成21年 杉並区郷土博物館)によると、「大宮前下水の汚水停滞、汚染甚だしく・・・・新設の学校が被害を受ける事があってはいけない」旨の陳情が出されたそうです。その後、昭和26年のバイパス開設を経て、同46年にようやく暗渠工事が完成しました。その際余ったコンクリート管を使用した→ 丸池が今も校庭の一角にあります。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1. 植え込み、車止め付きの幅広歩道を引き続き西に向います。高井戸四小のフェンスが見えてきました。

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    2. 高井戸四小前を過ぎます。丸池のあるのは校庭の北西角にあたります。

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    3. 右手先に水路跡には定番の銭湯が見えます。ところで、正面奥が行き止まりのように見えますが。

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    4. 行き止まりのように見えた水路跡の幅広歩道は、通りの右手にシフトして続きます。

 <「わたしたちの高四小」2>  「わたしたちの高四小」の続きです。「道路がほそうされてからも、天狗湯の前に下水に水がはいっていく穴があって、長ぐつではもぐってしまい、学校の帰りに穴に落ちて、むねまでつかった人もいました。橋がどこかわからないところを通るのでとても心配でした。昭和四十六年やっと、三億円かけて今のような道路の下をとおす下水道工事が完成し、やっとみんなの心配がなくなりました。学校のとり小屋の前に丸池がありますが、そよ風通りの植えこみの下には、あの大きさのコンクリートかんが道の下にうめてあるのです。・・・・昭和五十一年に、ドブ川の上に植えこみが作られ、高四のみんなで名前を考え『そよ風通り』にきまりました。」


そよ風通り

2017-03-18 07:45:13 | 善福寺川2

 神明通りを離れた後、右折して車止めの路地に入りましたが、その続きです。すぐに左折、右折で幅広な歩道を持つ通りを西に向います。そよ風通りと通称されていますが、そう命名したのは沿道にある高井戸第四小学校の生徒達です。昭和46年(1971年)、同校前の大宮前下水の暗渠工事が完成し、同51年には今日のような植込みが設けられました。大雨のたびに溢れていたのが解消し、安心して登下校できることを祝っての命名です。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1. 前回の車止め付きの路地の続きです。ワンブロックで左折すると、通りの左手が水路跡です。

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    2. そよ風通りに突き当たって右折します。すぐに通りの右手にあった水路跡は左手にシフトします。

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    3. ほぼ直線で西に向います。歴史的な経緯を知らなければ、単なる幅広な歩道のように見えますが。

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    4. ただ、横切る通りごとに立てられた車止めが、水路跡を物語っています。

 <「わたしたちの高四小」>  以下は高井戸四小の創立40周年記念誌「わたしたちの高四小」(昭和54年 1979年)の引用です。「学校の前のドブ川は、六十年ぐらい前は”悪水堀”とよばれていました。はじめは畑の間のくぼ地で、ただの溝でした。両側には、クワの木が並木のように植えられていました。そこに雨が降ると、両側からどろ水が流れこんで急に出水し、東の方へ川になって流れたものです。」「学校が建てられたころは、幅二メートルぐらいのドブ川でした。ふだんは水がすんでいて、ドジョウやオタマジャクシ、ザリガニなどが泳いでいました。・・・・ところが、強い雨が二時間もふると、泥水があふれて、ひざがかくれるくらいの水が出ました。」 前者は大正中頃にまだ自然のハケ水路だった当時の様子、後者は改修され大宮前下水となったものの様子です。

 


宮前5

2017-03-17 07:37:20 | 善福寺川2

 大宮前下水を追って神明通りを西に向い、途中左折して通りを離れます。この区間は当初の流路と現在確認できるもので違っています。→ 「段彩陰影図」に書き込んだ流路は三段のクランクで、これは日本地形社の「昭和11年測図同22年補修」でもそうなっていますが、「1/10000地形図(昭和33年第二回修正)」では二段のクランクになっています。その間開業した電電公社の工場用地を迂回するよう、付替えられたものと思われます。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    ・ 「地理調査所発行の1/10000地形図(昭和33年第二回修正) / 上高井戸」  上掲地図と同一場所、同一縮尺です。

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    1. 元の流路を追うとしたらこのあたりで左折ですが、その痕跡はありません。

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    2. 左手が「電電公社工作場」跡地で、のちNTT社宅となっていました。10年ほど前、反対側から撮った→ 写真には、社宅前の水路跡も写っています。

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    3. 宮前3交差点で左折します。元は奥を横切っている谷筋に沿っていたことになります。 

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    4. 上掲写真で横切る谷筋の右手です。車止めの先の路地は波打っていて、下はコンクリート蓋なのでしょう。 

宮前4

2017-03-16 06:21:56 | 善福寺川2

 慈宏寺西を北上したあと、神明通りに戻ったところで左折します。そこは、→ 「善福寺川1 / 三本の水路」で扱った、善福寺川に直行するバイパスの分岐点でもありますが、その開設時期について資料が確認できたので引用しておきます。「近く完成を見るであろう大宮前六丁目の大下水の暗渠からの排水で、これに直面する護岸の補強とその流量の倍加による溢水に対する防備に付ての施策施工を至急講じて戴きたい。」 昭和26年(1951年)に杉並区議会で採択された「善福寺川河川改修に関する件について」の一部です。大宮前6丁目は現在の西荻南1、2丁目で、大宮前下水の先端にあたる地域です。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1. 前回左折しましたが、そのあとすぐに右折し北に向かいます。

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    2. 神明通りに突き当たって左折です。ここで北上するバイパスを分岐していたとされます。

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    3. バイパスはこの直線道路を暗渠で北上、800mほどで善福寺川です。合流地点手前の写真は→ こちらでどうぞ。

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    4. 左折後の神明通りです。左手が水路跡によって幅広になっています。

 <新田街道> 神明通りは新田街道とも呼ばれ、大宮前新田の北の境を画していました。大宮前新田は当時道幅8間だった五日市街道の左右に、間口20間、奥行き250間の短冊形の区画(のぼり)が、合計で60区画(60のぼり)並ぶ構造でした。各区画は街道に面して宅地、奥が畑地、最も奥が薪山と区分され、その薪山の先に出来た道が新田街道だったわけです。「武州多摩郡上荻久保村風景変遷誌」(昭和15年 梅田芳明)には、「往時此街道は両側雑木林にはさまれた畑の中を通る、人通りのない幅九尺余の淋しい街道」とありますが、両側の雑木林というのが薪山だったことになります。

 


宮前3

2017-03-15 07:23:02 | 善福寺川2

 微高地を迂回するU字の左(西)半分で、慈宏寺から神明通りまでです。慈宏寺付近は現在も農地ですが、その流路は失われています。一方、神明通りに近い宅地の間はコンクリート蓋の路地となって健在です。右(東)半分よりも宅地化が早く、昭和の前半だったことが関係しているのでしょう。東京近郊の宅地化のピークは二つあり、昭和10年代までの水路は排水溝となって残るのに対し、3~40年代には地下の下水道管に取って代わられるのが一般です。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1. 慈宏寺境内を抜けた先で、水路跡の路地が復活します。その間100m弱の痕跡はありません。

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    2. 右写真は宮前公園前からのショットで、谷筋が横切っているのが分ります。

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    3. 2.から通り抜けできないので、反対側から回り込みました。同様の路地が続いています。

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    4. 次のブロックです。路地は徐々に狭くなり、通り抜け出来るか不安になりますが。

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    5. 狭い路地を抜けた先で左折、すぐに通りを越えます。再開してから200m強の直線コースでした。

宮前2

2017-03-14 06:21:11 | 善福寺川2

 大宮前下水が迂回のため描くU字の底のところまで来ました。その右(東)半分の水路はまったく失われています。おそらく宅地造成のためでしょう、舌状台地の高さに合わせて、谷筋自体が埋立てられたためで、→ 「段彩陰影図」の細長い帶状の部分がそれです。逆に左(西)半分は宮前中学の敷地整備のために掘り下げられ、その意味では谷筋は失われましたが、水路はお隣の大宮前体育館との間に残されました。ただ、大宮前体育館の移転に伴う再開発によって、この区画の痕跡も失われそうで、あとは西隣の井口山慈宏寺境内に残るだけです。

 

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    ・ 水路跡のスペース  宮前中学と大宮前体育館の間に残された細長いスペースを、慈宏寺前から振り返って撮影した数年前のものです。現在は体育館の移転に伴う工事中で、このスペースは失われました。  

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    ・ 慈宏寺境内  本堂裏手の道にはコンクリート蓋が埋め込まれています。「慈宏寺の裏側の当りは、低地で荒れ地であり、一部は沼地になっておりました」(「杉並郷土史会史報」 平成10年 第152号) 

 <大宮前新田>  「大宮前新田は、郡の東北にあり、・・・・豊島郡関村の土民八郎左衛門と云もの開きしと云時は、万治年中のことなるべし」(「新編武蔵風土記稿」) 慈宏寺の山号にもその名を残す開拓者の井口氏ですが、その一族は井草村や関村など一帯の名主として知られ、大宮前のほか関前、連雀前、無礼前の各新田を同時期に開発しています。なお 大宮前の名前の由来ですが、「杉並風土記(下)」(平成元年 森泰樹)は、(京から見て)大宮八幡宮の手前にあるからとしていますが、村の鎮守、春日神社の前との説も有力です。

 

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    ・ 春日神社  慈宏寺の東隣にあり、共に五日市街道に面して建つ春日神社は、大宮前新田の鎮守で、その開村と同じ万治年間(1658~60年)の創建と伝えられています。

 大宮前新田は明治に入り、隣接する上・下高井戸、中高井戸、松庵、久ヶ山とともに高井戸村(のち高井戸町)となり、昭和7年(1932年)の杉並区の成立に伴い、杉並区大宮前(1~6丁目)を名乗りました。現行の住居表示は表題ともなっている宮前(1~5丁目)です。上掲写真にも写る「大宮前鎮守」の石碑は、住居表示の実施によって失われる大宮前の地名を残すため立てられたそうです。