神田川 「まる歩き」 しちゃいます!!

ー神田川水系、支流はもちろん、旧水路、廃水路、全部 「まる歩き」ー

杉並口

2016-09-24 07:55:03 | 桃園川1

 阿佐ヶ谷支流をさかのぼる最後です。水路跡は杉並七小キャンパスの北東角で中断、その南側にある正門前で復活します。起点である青梅街道沿いにある千川用水七ヶ村(六ヶ村)分水杉並口まで、車止めコンクリート蓋が100mほど続きます。なお、千川用水の流末としての杉並口については、→ 「千川用水2 / 杉並口」でどうぞ。あわせて、杉並の地名由来も掲載されています。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1. キャンパス南側にある正門前の道路から再開します。最初道路の右手、途中で左手にシフトします。

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    2. 突き当りに車止め、コンクリート蓋の水路跡が顔をのぞかせています。すぐ左カーブです。

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    3. 数十メートル南下したところで突き当りを右折、西に向きを転じます。

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    4. 西に向うコンクリート蓋の水路跡です。建物一軒分を挟んだ左手に青梅街道が並行しています。

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    5. 徐々に狭くなり先行き不安になりますが、フェンスの先の開渠で終了です。

阿佐ヶ谷支流5

2016-09-23 06:10:36 | 桃園川1

 杉並口からの助水の流れる水路を追っての続きで、前回最後に入った水路単独の路地が、杉並七小キャンパスに突き当たって終了するまでです。100mほどしかありませんが、その中程で左岸(右手)から小水路の合流があります。→ 「段彩陰影図」の阿佐ヶ谷駅と青梅街道の間で、谷筋が北側に膨れているところがあり、その吐け水路の機能を担っていたのでしょう。全体で100mに満たないごく短いものですが、車止め、コンクリート蓋を備えた完璧な水路跡です。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1. 路地に入って数十メートルのところです。右手にあるコンクリート蓋から、水路が合流していたのが分かります。

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    2. 途中住宅の敷地に紛れますが、ワンブロック先からは車止め、コンクリート蓋の路地が健在です。

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    3. 左カーブの先でコンクリート蓋は終了します。

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    4. 本流の路地に戻ります。最初に訪れたときは、この先どうなるのか不安だったものです。

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    5. 杉並七小キャンパスに突き当たって中断します。同小学校は昭和4年(1929年)設立で、当時は校庭の東縁を川が流れていました。

阿佐ヶ谷支流4

2016-09-21 06:41:43 | 桃園川1

 釣堀の南縁沿いに西に向かう通りは、杉並七小キャンパスに突き当たって中断するまで、カラーブロックや、コンクリート蓋、車止めなどの水路の痕跡をとどめて、およそ300m続きます。「杉並の通称地名」(平成4年 杉並区教育委員会)によると、釣堀周辺の田圃は阿佐ヶ谷田圃と呼ばれ、昭和初期まで存続したようです。とすると、→ 「阿佐ヶ谷村絵図」にあるように、このあたりまで二流の並行が予想されますが、描いた地図類は未見で、痕跡も残されていません。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1. 川端通りから入った右手が釣堀です。この日は定休日(毎週金曜日)でした。

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    2. 釣堀の先で、左右に細かく蛇行しながら西に向います。水路は通りの右手を並行していました。

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    3. 車止めの先に道路に沿ってコンクリート蓋が出現、もっとも水路の痕跡を残すところに差し掛かります。

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    4. 鉄板やコンクリート蓋に覆われた水路跡が、道路の右手を100m弱並行します。

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    5. 水路単独と思われる車止め付きの狭い路地の入口が見えます。「この先、行き止り」と書かれていて、先行き不安ではありますが。

阿佐ヶ谷支流3

2016-09-20 07:32:19 | 桃園川1

 阿佐ヶ谷駅の南口から西に向かうと、川端通りと名付けられた商店街の入口があります。杉並口からの水路を挟んで商店街が出来、昭和10年頃には、どぶ川と化したその水路がいち早く暗渠化されたところです。現在は南口のロータリーが拡張されたため、東側の半分ほどはその一部となってしまいました。なお、川端通りといえば、その突き当たりにある釣堀とセットのような関係ですが、釣堀の開業は大正時代で、脇を流れる用水はまだ清流だった頃といいます。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1. しばらく駐輪スペースと並行したのち、車止め付きの路地となります。

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    2. ワンブロックで商店街に突き当たって終了、左折して南に向かいます。

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    3. 阿佐ヶ谷駅南口のロータリーに面した川端通りの入口です。 

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    4. 用水路はこの通りの右手を流れていました。

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    5. 突き当立って右手は2.の商店街、突き当りの奥では今でも釣り堀が営業しています。

阿佐ヶ谷支流2

2016-09-17 07:10:05 | 桃園川1

 六ヶ村分水杉並口からの助水を追っての二回目で、阿佐ヶ谷駅まできました。駅周辺で現在確認できる水路跡は、駅の東ガード付近でJR線と交差する一流ですが、その南を並行するもう一流があり、前回横切った馬橋村からの古道付近で合流していました。並行する二流の存在は→ 「阿佐ヶ谷絵図」でも確認できますが、下掲地図に書き込んだのは「杉並町全図」(昭和4年 小林編纂部)などにある南側の水路です。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1. 駐輪スペースの脇を抜け、引き続き西に向います。高架下は目下工事中ですが、以前の写真は→ こちらで、より水路跡らしく見えます。

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    2. 阿佐ヶ谷駅の東側にあるガード手前で、JR中央線の北側から南側にシフトします。

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    3. 南口パール商店街(旧権現道)からのショットで、水路は駅南口を横切り正面の路地に連続します。 

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    4. JR線の高架南側を西に向かう路地を入ると、前回と同様の駐輪スペースが設けられています。

 <阿佐ヶ谷駅>  JR中央線(当時は甲武鉄道)の開通は明治22年(1889年)、同時に中野駅が、二年後に荻窪駅が開業していす。阿佐ヶ谷(阿佐ケ谷)駅の開業は大正11年(1922年)で、お隣の高円寺駅と同時でした。水田を埋めて盛り土をしたところだったため、翌年の大震災でホームが崩れ、一方高円寺駅は台地を削ったところなので無事だったと、「杉並区史探訪」(昭和49年 森泰樹)は古老からの聞き取りを収録しています。また、同じく収録された聞き取りの中には、中央線を複線化した際盛り土用に掘った穴が、駅南口前で100坪ほどの池となったとのエピソードもあります。

 


阿佐ヶ谷支流

2016-09-16 07:38:42 | 桃園川1

 桃園川に合流する最初の本格的な支流は、阿佐ヶ谷駅方面から東に向い、けやき公園付近で本流に合流するもので、ここでは仮に阿佐ヶ谷支流としておきます。 → 「段彩陰影図」では、「迅速測図」及び「東京近傍図」を参考に、明治初期の桃園川の流路を重ねていますが、阿佐ヶ谷支流の先端は青梅街道に達しています。竹下新田で千川分水から分れ、青梅街道沿いに東に流れて来た七ヶ村分水、明治以降は六ヶ村分水の流末がここまで達し、この支流に助水をしているもので、その堀割は相沢堀、分水口は杉並口と通称されていました。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    ・ 「陸地測量部発行の1/10000地形図(昭和4年測図) / 荻窪」  上掲地図と同一場所、同一縮尺です。

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    1. けやき公園北西角の合流地点から西に向います。

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    3. 車止めの様子からすると、駐輪場を迂回する道路が水路跡のようです。 

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    4. 桃園川の水源の一つ、阿佐ヶ谷弁天池は100m弱北にありました。上掲地形図の中央に描かれたもので、昭和50年代に埋立てられました。

阿佐ヶ谷右岸7

2016-09-15 07:21:52 | 桃園川1

 中央の二流を合わせた右岸流は、南下してけやき公園の脇を抜け、JR線を越えて桃園川緑道に連続します。けやき公園の開園は昭和56年(1981年)、中央大学所有地の買収と水路敷を利用して整備、公開されました。前回UPの→ 「昭和33年第二回修正」の右下隅にプールが描かれていますが、昭和10年代に出来た中央大学の合宿所のプールだったようです。(現在も規模は縮小されましたが、夏季公開の市民プールがあります。)

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1. 前回から引き続き、河北病院脇を抜け南下する水路跡を含む道路です。

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    2. 微妙な蛇行はありますが、それ以外水路跡を思わせる痕跡はありません。

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    3. けやき公園に差し掛かり、車止め、カラーブロックとなります。ここで右手からの合流がありますが、次回以降のテーマです。

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    4. けやき公園の先でJR中央線を越えます。越えた先から始まる→ 桃園川緑道がチラッと見えています。 

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    5. けやき公園の手前に、ワンブロックだけの車止めがあります。→ 「昭和4年測図」に描かれたものの一部なのでしょう。

阿佐ヶ谷右岸6

2016-09-14 07:02:12 | 桃園川1

 前回の途中で小水路を分岐したところまで戻ります。本流は左カーブで右岸から中央寄りにシフト、中央の二流を合わせてけやき公園へと向かいます。途中河北総合病院の脇を抜けますが、同病院の開業は昭和3年(1928年)、「杉並風土記」(昭和62年 森泰樹)の記述では、同年は阿佐ヶ谷たんぼ最後の田植えがあったともいわれており、桃園川流域が宅地へと転換される画期となった年です。なお、同じ「杉並風土記」の引用する「河北病院五十年のあゆみ」によると、当時の病院周辺は芦の生い茂った低湿地で、夏の夕立ともなると二本の小川は溢れ、道路は早瀬に変わったといいます。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    ・ 「地理調査所発行の1/10000地形図(昭和33年第二回修正) / 荻窪」  上掲地図と同一場所、同一縮尺です。

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    1. コンクリート蓋の路地の入口まで戻り、本流を追って左にカーブします。

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    2. 右折の左手から前回の水路、右折後の左手から前々回の水路が合流します。 

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    3. 阿佐谷北5五差路下の通りを越えます。右折すると神明宮前に出ます。 

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    4. 河北病院の脇を抜け、やはり五差路下の通りを越えますが、今度は右折すると阿佐ヶ谷駅に出ます。 

阿佐ヶ谷右岸5

2016-09-13 06:22:47 | 桃園川1

 中杉通りに戻り、天沼から遊歩道となっている右岸流(本流)を追います。途中で右岸に一流を分岐、すぐに中央の二流を合わせ南下します。現けやき公園前で駅方面からの支流と合流、JR線を越えて桃園川緑道へと連続する、本流と目される流路です。車止め、コンクリート蓋といった顕著な痕跡はありませんが、水路を含んで幅広となった道路が蛇行していて、現在の地図からもそれとわかります。なお、→ 「昭和33年第二回修正」を見ると、この区間の水路は道路と並行しています。それが、「昭和38年空中写真」では現行のような幅広道路となっており、その間に暗渠化されたものと思われます。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1. 中杉通りを越えた先の右岸流跡の路地です。すぐに左折した後幅広の通りに出ます。

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    2. 右カーブが連続し、徐々に南に向きを変えていきます。

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    3. 水路はこの幅広道路の右手を並行していました。 

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    4. 本流は左カーブで前回、前々回の水路の合流地点に向かいますが、正面にコンクリート蓋の路地が見えます。

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    5. コンクリート豚の路地は細かい蛇行を見せながら、住宅街の裏手を南に向かいます。

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    6. 神明宮へ上る坂下に出たところです。この先は河北病院の敷地に紛れます。

阿佐ヶ谷右岸4

2016-09-12 06:05:24 | 桃園川1

 中杉通りを越えた先から開始される水路の二本目です。こちらは日本地形社の「昭和11年測図」(1/3000)にはもちろん、陸地測量部の「昭和12年修正測図」にも記載され、途中右岸流と合流してJR線を越えています。今回はその右岸流(本流)と合流するまでを追いますが、一貫して水路跡単独の路地に車止め、コンクリート蓋が付き、単調ですが迷うことはありません。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    ・ 「陸地測量部発行の1/10000地形図(昭和12年修正) / 荻窪」  上掲地図と同一場所、同一縮尺です。

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    1. こちらも幅広の道路が狭くなった右手にコンクリート蓋という、例のカクカクから始まります。 

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    2. すぐに左折して東に向かいます。なお、コンクリート蓋は合流地点まで250mほど連続します。

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    3. 右カーブの連続で、南に向きを転じるところです。 

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    4. 河北病院の施設の脇を抜けます。葦クリニックの名は、葦の生い茂っていた往時を意識したのでしょう。 

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    5. 右手からの右岸流(本流)と合流、そのまま直進します。ほんの数メートル先の左手には、前回最後の車止めが顔をのぞかせています

阿佐ヶ谷右岸3

2016-09-10 07:36:53 | 桃園川1

 中杉通りを越えるのは左右の二流ですが、通りの先では両者に挟まれたかたちで、さらに二本の水路跡が残されています。うち左岸寄りのものは阿佐ヶ谷中央公園の西縁に沿い、200m弱で本流(右岸流)に合流するごく短いもので、日本地形社の「昭和11年測図」(1/3000)のような詳細な地図にも載っていません。公園周辺はかっては低湿地だったので、その排水溝として機能していたのでしょう。正確な起点は不明ですが、最終的に右岸流と合流するため、右岸流の一部として扱います。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1. 幅広の道路が狭くなる右手に、車止め、コンクリート蓋の路地が出現します。典型的なカクカクです。 

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    2. 阿佐ヶ谷中央公園を左手に見ながら進みます。前回の左岸流はこの公園の反対側を並行しています。

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    3. 中央公園を離れます。ここから先、コンクリート蓋はなくなり、住宅街の裏の普通の路地になります。

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    4. 突き当りを右折、すぐに車止めがありますが、終点はその先です。

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    5. 本流(右岸流)跡の道路と合流して終了です。全体で200m弱の小水路でした。

阿佐ヶ谷左岸6

2016-09-09 07:37:15 | 桃園川1

 阿佐ヶ谷村を流れていた左岸流を追っての六回目で、前回の最後に旧馬橋村との村境に差し掛かりました。→ 「東京近傍図」にオレンジ細線で書き込んだように、左岸流は村境とすぐ離れ、馬橋村に入ります。というわけで、タイトルは「馬橋左岸」になるはずですが、JR線を越えて間もなく桃園川緑道に合流、終了するので、とりあえず「阿佐ヶ谷左岸」でひとくくりにし、阿佐ヶ谷関係の流路を網羅した後で、クールを改めて馬橋村、高円寺村を扱おうと思っています。なお、現行の住居表示では、合流するまで阿佐ヶ谷に属しており、その意味では的外れなタイトルではありません。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1. JR中央線のガード下を右折、左折のクランクで越えます。

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    2. この幅広道路の左手を並行していました。なお、右手にあるのはゴルフ部で知られる杉並学院中・高で、大正末の創業時は女学校でした。 

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    3. 杉並学院キャンパスの脇を抜けた先で幅広道路が途切れ、正面に路地の入口が見えます。

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    4. 馬橋の架かっていた通り(馬橋通り)を越えたところから、水路単独の狭い路地になります。

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    5. 遠慮がちに車止めの付いた路地ですが、右カーブで南に向きを転じます。

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    6. 一般の道路に出て左折、すぐに右折します。ワンブロックで桃園川緑道ですが、通り抜けはできません。

阿佐ヶ谷左岸5

2016-09-08 06:04:45 | 桃園川1

 阿佐ヶ谷の左岸流を追っての五回目です。前回は北五丁目の五差路下を過ぎたところまででしたが、引き続いて字小山の台地を左岸に見ながら進みます。狭くクネッた路地、車止め、コンクリート蓋と、水路跡の特徴を色濃く残した区間で、単調ですが迷うことはありません。なお、小山は「新編武蔵風土記稿」に「東の村界ひなり」とあるように、馬橋村との境にある小名でした。下の地図中色違いになっているところが元の村境で、現在は阿佐ヶ谷と高円寺の境となっています。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1. 前回から引き続き南下します。正面の車止めの位置から、次の幅広道路の右手が水路だと分かります。

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    2. 水路単独の狭い路地となり、すぐに左折、右折のクランクで左手にシフトします。 

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    3. このワンブロックはコンクリート蓋も復活します。

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    4. 細かいクランクの先で、けやき公園に向う道を越えます。

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    5. 馬橋村との境だった道に出ます。出たところで道沿いに右折、すぐに左折です。

阿佐ヶ谷左岸4

2016-09-07 06:21:37 | 桃園川1

 阿佐ヶ谷地区の左岸流を追っての四回目で、阿佐ヶ谷中央公園の東縁を抜けた先で、神明宮前で権現道と分岐して左岸台上に至る道と交差します。→ 「東京近傍図」を見ると、左岸流はこの道の前後で合流、分岐を繰り返していますが、昭和初期以降の地図にこうしたやり取りはなく、また現行の跡から確認できるものも、本流と合流するまで一貫して独立した流路を取っていて、→ 「阿佐ヶ谷村絵図」の描くものと同様です。なお、同絵図にも書き込みましたが、左岸台上一帯の小名は小山で、「新編武蔵風土記稿」に「東の村界ひなり」と記されています。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1. 阿佐ヶ谷中央公園の東縁を抜け、引き続き南下します。

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    2. 神明宮前に向かう道を越えます。右写真は左岸にある五差路からのショットです。 

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    3. 五差路下の阿佐谷駅に向かう道を越えます。やや右手にシフトし、水路跡に付きものの銭湯の横を通ります。

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    4. 細かく蛇行していますが、元の水路は通りの左手から右手にシフトしていました。

  <猿田彦社旧地>  北五丁目の五差路角は猿田彦神社の旧地でした。明治7年(1874年)に天祖神社(神明宮)に合祀されたのち、合祀を記念する石碑と楕円形の川石が永く旧地に祀られていました。今は神明宮境内にある→ 猿田彦神社の傍らに移されています。角柱の石碑が合祀記念碑ですが、その裏面には「水鶏(くいな)鳴く 葦生う里のしるべ石 行く来を守る道祖大神」と刻まれています。旧地から望む桃園川流域には葦が生い茂り、水鶏が棲んでいた時代もあったのでしょう。阿佐ヶ谷は葦ヶ谷だったとの地名由来もあるほど、葦の茂る土地柄だったようです。なお、記念碑の前に据えられた川石は、「杉並風土記」(昭和62年 森泰樹)の聞き取りによると、かって桃園川の流れの中にあったものです。野菜を洗うときなど足で踏むとたたりがあり、それで川から上げて神社に納めた、と伝えられています。

 


阿佐ヶ谷左岸3

2016-09-06 06:34:05 | 桃園川1

 阿佐ヶ谷地区の左岸流を追っての三回目です。中杉通りを過ぎて百数十メートルで、大きく右にカーブし東に向きを転じます。→ 「段彩陰影図」にある右岸台地を回り込むためで、この台地上には村の鎮守の神明宮や、その別当だった世尊院があり、「新編武蔵風土記稿」に「中央より少しく西によれり」と記された、阿佐ヶ谷村の本村だったところでした。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1. 幅広道路の一部となって左カーブ、その先で再びコンクリート蓋の路地が復活します。

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    2. 右カーブの連続で南に向きを変えます。桃園川の全流域中、もっとも北寄りのところです。 

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    3. 阿佐ヶ谷中央公園の東縁に沿って南下します。同公園の開園は昭和45年(1970年)です。

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    4. 公園の先の右手は東京朝鮮第九初級学校です。戦後間もなく当地で開校しました。

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    5. 引き続き南下します。中央公園以降、車止めやカラーブロックなど、遊歩道風な整備がなされています。