神田上水の最大の水元は井の頭池で、途中、善福寺川や妙正寺川を合わせた、現在の神田川の上流そのものでした。多少の手は加えられているとしても、基本は自然河川といっていいでしょう。この自然河川を上水として利用したのは、いつ、また誰によってなのか。確定的な文献に乏しく、伝承としては大きく分けて二つあります。一つは天正18年(1690年)の家康入国の際、三河譜代の家臣、大久保藤五郎によってというもの、もう一つは慶長から寛永年間にかけて、神田上水水元役内田家の祖、「武州玉川辺之百姓」六次郎によってというものです。
- ・ 「段彩陰影図 / 神田上水」 関口大洗堰から水道橋懸樋までの神田上水及び(左から)弦巻川、水窪川そして小石川の大下水が神田上水と交差する個所を、明治初期の参謀本部陸軍部測量局の「1/5000実測図」を元に重ねました。
最初の大久保藤五郎説ですが、その功により主水(もんど)の名を賜わり、水は濁りを嫌うというので「もんと」と称したとか、あるいは、家康が井の頭池を訪れた際自ら茶を立て、使用した茶臼は井の頭弁財天別当大盛寺に、→ 茶釜は主水に与えたとの伝承もあります。この説に対しては、慶長までは上水はなかったとする「慶長見聞集」(三浦浄心)の記述から、「御府内備考」は入国当時の主水の事跡に関して、「ただ其頃上水の命ありて、水利を考え申させ給ひし」程度としています。あるいは、主水が開発したのは水源や給水範囲などでより小規模な小石川上水、ないしプレ神田上水とする仮説もありますが、いずれにしても、三河の武士だった大久保主水が着任早々、すべてを取り仕切ったとするのには無理があります。
- ・ お茶の水 井の頭池の北端にある湧水です。「その昔、当地方へ狩に来た徳川家康が、この湧き水の良質を愛してよく茶をたてました。以来この水はお茶の水と呼ばれています」(都の解説プレート)
そこで、もう一つの伝承がクローズアップされます。のちに神田上水水元役となる内田家の祖、六次郎によって、井の頭池が水源として開発されたというもので、こちらは「上水記」収録の内田茂十郎の書上によっています。「上水記」の中では「無証拠難取用といへとも」と、否定的な扱いではありますが、玉川上水や千川上水などの例からも、水元役を任された以上、何らかの功績は考えられ、あるいは、大久保主水が責任者となり、六次郎が現場で補佐したとか、主水の着手した小規模な上水に、六次郎の井の頭池開発が結びついた、といった何らかの補完関係があったのかもしれません。現在目にすることのできる文献からは、最も合理的な解釈のようにも思えますが、いずれにしても決め手を欠いていて、軽々に決着のつく問題ではありません。