神田川 「まる歩き」 しちゃいます!!

ー神田川水系、支流はもちろん、旧水路、廃水路、全部 「まる歩き」ー

神田上水

2019-01-31 06:21:50 | 神田上水

 神田上水の最大の水元は井の頭池で、途中、善福寺川や妙正寺川を合わせた、現在の神田川の上流そのものでした。多少の手は加えられているとしても、基本は自然河川といっていいでしょう。この自然河川を上水として利用したのは、いつ、また誰によってなのか。確定的な文献に乏しく、伝承としては大きく分けて二つあります。一つは天正18年(1690年)の家康入国の際、三河譜代の家臣、大久保藤五郎によってというもの、もう一つは慶長から寛永年間にかけて、神田上水水元役内田家の祖、「武州玉川辺之百姓」六次郎によってというものです。

 

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    ・ 「段彩陰影図 / 神田上水」  関口大洗堰から水道橋懸樋までの神田上水及び(左から)弦巻川、水窪川そして小石川の大下水が神田上水と交差する個所を、明治初期の参謀本部陸軍部測量局の「1/5000実測図」を元に重ねました。  

 最初の大久保藤五郎説ですが、その功により主水(もんど)の名を賜わり、水は濁りを嫌うというので「もんと」と称したとか、あるいは、家康が井の頭池を訪れた際自ら茶を立て、使用した茶臼は井の頭弁財天別当大盛寺に、→ 茶釜は主水に与えたとの伝承もあります。この説に対しては、慶長までは上水はなかったとする「慶長見聞集」(三浦浄心)の記述から、「御府内備考」は入国当時の主水の事跡に関して、「ただ其頃上水の命ありて、水利を考え申させ給ひし」程度としています。あるいは、主水が開発したのは水源や給水範囲などでより小規模な小石川上水、ないしプレ神田上水とする仮説もありますが、いずれにしても、三河の武士だった大久保主水が着任早々、すべてを取り仕切ったとするのには無理があります。

 

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    ・ お茶の水  井の頭池の北端にある湧水です。「その昔、当地方へ狩に来た徳川家康が、この湧き水の良質を愛してよく茶をたてました。以来この水はお茶の水と呼ばれています」(都の解説プレート) 

 そこで、もう一つの伝承がクローズアップされます。のちに神田上水水元役となる内田家の祖、六次郎によって、井の頭池が水源として開発されたというもので、こちらは「上水記」収録の内田茂十郎の書上によっています。「上水記」の中では「無証拠難取用といへとも」と、否定的な扱いではありますが、玉川上水や千川上水などの例からも、水元役を任された以上、何らかの功績は考えられ、あるいは、大久保主水が責任者となり、六次郎が現場で補佐したとか、主水の着手した小規模な上水に、六次郎の井の頭池開発が結びついた、といった何らかの補完関係があったのかもしれません。現在目にすることのできる文献からは、最も合理的な解釈のようにも思えますが、いずれにしても決め手を欠いていて、軽々に決着のつく問題ではありません。

 


田安家下屋敷

2019-01-30 06:26:48 | 江戸川・紅葉川

  昨日UPの→ 「寛文図」当時はまだありませんが、宝暦5年(1756年)に「寛文図」の「クゼ三四郎」「永井ヤ右(衛門)」とあるところに、徳川御三卿の一つ、田安家の下屋敷が置かれました。玉川上水の分水が田安家下屋敷の大泉水に落込み、桜川の水源となっったことは前回触れたところです。田安家分水は桜川の谷筋を利用したもので、その場所は「大木戸より西の方凡弐拾間程先」(「御府内備考」)、「甲州道中分間延絵図」には大木戸の西に、街道を横切る「字上水分水石橋」が描かれています。なお、「上水記」添付の「分水口絵図」によると、「田安御下屋敷水口」の内法は六寸四分(のち七寸に変更)でした。開設の時期に関しては、「分水口御引取之年月不相知」となっています。

 

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    ・ 「参謀本部陸軍部測量局の1/5000実測図(明治17年測量)」  「紙久図や京極堂 古地図CD-ROM」収録の西部の一部で、同社の基準(72dpi)で掲載しています。甲州街道、外苑西通りなどをグレーで重ねています。

 明治4年(1881年)に田安家下屋敷は撤去され、屋敷内に祀られていた→ 田安稲荷以外、痕跡は皆無となっています。撤去後10年ほどたった「実測図」には、谷頭いっぱいを占める大泉水がなお描かれていますが、その後まもなく埋め立てられたのでしょう、以降の地図類からは確認できません。さらに、昭和10年代に外苑西通りが、谷筋を分断して開通したため、往時の地形をたどることは困難になっています。

 

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    ・ 四谷四丁目交差点  新宿御苑を背に四谷方向です。大木戸は交差点の中央にあったので、西寄りの撮影場所付近を田安家分水が横切っていたことになります。 

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    ・ 外苑西通り  四谷4丁目交差点から靖国通り方向です。大泉水のあった谷頭は左手手前、茗荷谷は右手奥という位置関係で、通りと谷筋はクロスしています。

二つの谷頭

2019-01-29 06:36:50 | 江戸川・紅葉川

 大下水(ここでは桜川とも)の谷頭は、→ 「段彩陰影図」からも読み取れるように二つあり、それが源慶寺下で合流していました。そのうち靖国通りの北側のものは前回扱いましたが、南側の甲州街道からのものには、玉川上水の分水がかかわっていました。以下は饅頭谷のところで引用した修行寺門前の「御府内備考」、「川 巾五尺程 右前書饅頭谷東の方石橋左右ヲ桜川と相唱」の続きです。「右水上四ッ谷御上水の分水ニて同所大木戸田安様御下屋舗内御泉水え落込同御屋舗裏武家方構前通右饅頭谷え相流」 

 

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    ・ 「新版江戸外絵図」  寛文12年(1672年)の「新版江戸外絵図」(寛文図第四)をベースに、今回の谷筋にかかわる部分をイラスト化しました。  

 「寛文図」から一世紀近く経った宝暦5年(1756年)、徳川御三卿の一つ田安家下屋敷が甲州街道に面して設けられ、大泉水の水源として玉川上水が利用されました。その余水が桜川の谷頭に落とされたわけです。なお、「御府内備考」にはありませんが、二つの谷頭の合流地点は茗荷谷と呼ばれていました。「江戸砂子」は四谷の地名由来として、「千日谷、茗荷谷、千駄ヶ谷、大上谷の四谷」としていますが、隣接するページで「めうが谷 同じく、まんぢう谷辺」と書いていることからも、(文京区の茗荷谷ではなく)この茗荷谷のことと分かります。ちなみに、饅頭谷については「本多豊前守殿やしき(のち伯耆守殿下やしきに訂正)近所」としています。

 

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    ・ 茗荷谷  右手台上が源慶寺で、その奥を右手に上る坂が茗荷坂です。「寛文図」の「ケンケウ寺」及びその脇の坂の位置関係と同じで、靖国通りは安保坂開削によってこの迂回を解消しました。

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    ・ みょうが坂児童遊園  茗荷坂の向いにある公園です。その脇の道路は右カーブしながら南下しており、「寛文図」の描く谷筋の様子と一致します。なお、道路の先は外苑西通りに吸収されます。

富久町2

2019-01-28 06:26:55 | 江戸川・紅葉川

 → 「東京近傍図」を見ると、富久町の谷頭はY字型で、その一方に本多家下屋敷のものと思われる池が描かれています。あるいは、本多家のさらに北側にあった、三千石の旗本、金田邸の池かもしれませんが、それはともかく、→ 「段彩陰影図」で見る限り、現在の北側はフラットになっていて、谷頭は弧を描くようになっています。これは明治36年(1903年)、東京監獄(のち市谷刑務所)が当地に移転した際、地形が改変されたためと思われます。移転後の「明治42年測図」には、東京監獄の側には池も谷筋もなく、かわって、弧を描く谷筋の先端に池が描かれています。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)  

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    ・ 「陸地測量部発行の1/10000地形図(明治42年測図) / 四谷」  上掲地図と同一場所、同一縮尺です  

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    1. 安保坂下で靖国通りを越えた先です。 

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    2. 「郵便地図」では、この通りの左手にもう一流描いていますが、重なる道路はありません。  

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    3. 禿(かむろ)坂下です。右手は都立総合芸術高校で、本多家下屋敷のあったところです。

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    4. 谷頭です。バブル期以降長く再開発中でしたが、完成し外苑西通りも延長されました。

富久町

2019-01-26 06:44:33 | 江戸川・紅葉川

 大下水を追って靖国通りを左カーブで離れた先です。左手は引き続き愛住町ですが、右手は住吉町から富久町に変わります。自証院などの寺町や駿河田中藩四万石、本多家下屋敷をはじめとする武家地を併合、当初は市谷富久町を名乗りますが、のち市谷がとれて現在に至っています。近隣の住吉町や愛住町と同様のコンセプトの、明治に入り創作された地名です。この富久町を流れていた大下水について、「御府内備考」の引用です。「下水 巾三尺程 右水上は本多遠江守様御下屋舗内池より相流源慶寺持添年貢地内下水ニ流自証院門前後ニ通り桜川え落込申候」

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)  

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    1.  右カーブで西に向きを転じます。左手に向かうと湯屋横町に出るので、この付近が「湯屋横町往来下通」なのでしょう。 

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    2. 水路と重なるのはこの通りだけですが、「郵便地図」は靖国通りとの間にもう一本水路を描いています。

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    3. 右カーブで再度靖国通りに向かいます。この先の左手は明治に入り四谷永住町を名乗りました。 

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    4. 源慶寺前で靖国通りを越えます。左写真の正面は昭和に入り開削された安保(あぼ)坂です。 

 <自証院>  饅頭谷の北側も、御先手組屋敷を挟んで寺町ですが、その中心にあるのが鎮護山自証院です。済松寺のところで触れた祖心尼の孫で、親戚にあたる春日局の養女となり、家光の長女千代姫(のち尾張徳川家室)の生母となった、お振りの方(法名自証院殿光山暁桂大姉)を供養するために、寛永17年(1640年)に創建されました。尾張藩の寄進により建立された堂宇は、節目の多い材木を多用したため、ふし寺、あるいは瘤寺との通称もありました。(自証院を描いた「江戸名所図会」は→ こちらです。)

 


舟町と愛住町

2019-01-25 06:45:39 | 江戸川・紅葉川

 新坂下に戻り、大下水を追って西に向かいます。百数十メートルいったところで、靖国通りの南側に沿い、同じくらいいったところで、左カーブで通りから離れます。このうち、最初の百数十メートルの左手が舟町で、後のほうは愛住町です。愛住町は明治に入って創作された地名ですが、舟町は四谷大通(新宿通り)に近い一角が、「往古此横町より大木ヲ伐出其木ヲ以大舟ヲ造」(「御府内備考」)っていたため、舟板横町と呼ばれていたのが由来です。この周辺の杉林は、若木の皮をはいで足場に使う「四谷丸太」を供給、町内にある全勝寺への通りは今でも杉大門と呼ばれています。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1.  右写真は左手段丘上からのショットですが、その背後に紅葉川の由来ともいわれる紅葉山西迎寺があります。 

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    2. 左カーブで靖国通りに沿います。ここが舟町と愛住町の境になっています。

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    3. この区画の靖国通りは明治20年代に右岸段丘を削って開かれました。 

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    4. 暗闇坂下で左カーブ、靖国通りを離れます。坂名は「坂の左右に樹木が茂って暗かったため」です。 

 <饅頭谷>  暗闇坂の向かいに修行寺というお寺がありました。その修行寺門前の「御府内備考」の引用です。「町内里俗南の方武家屋舗ヲ隔四ッ谷湯屋横町往来下通小川二流有之候中ニて当時明地を饅頭谷と相唱申候」 小川二流に囲まれて素性庵という庵室があり、「廻りはかわ中ニあんと申心ニて」饅頭谷と呼ばれました。また、小川に関しては「川 巾五尺程 右前書饅頭谷東の方石橋左右ヲ桜川と相唱」とあり、素性法師の和歌「みわたせば柳桜をこきまぜて都ぞ春の錦なりける」から、桜川(途中楓川、流末は柳川)と呼ばれたとしています。いずれにしても、これまでの大下水でなく川としており、自然河川の面影がなお残っていたのでしょう。

 


河田町2

2019-01-24 06:12:25 | 江戸川・紅葉川

 あけぼの橋通りを底とする谷筋を追って、その谷頭近くまで来ました。→ 「近傍図」を始め、明治末から大正にかけての「地形図」でも、谷頭の底には通路もなく、低湿地と樹木が覆っています。「西側北の方をじく谷と相唱往古木茅生茂り日陰分場所ニて湿地ニ付」と、「御府内備考」が記しているのは、このあたりの様子だったのでしょう。なお、下掲「明治42年測図」に、本荘邸とあるのは宮津藩松平家の後裔、本荘子爵邸、その北側は小笠原伯爵邸で、豊前小倉藩十五万石、小笠原家の下屋敷のあったところです。この一帯が長く「往古」のイメージを残していたのは、明治から大正にかけて、両家がなお健在だったからにほかなりません。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)  

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    ・ 「陸地測量部発行の1/10000地形図(明治42年測図) / 四谷」  上掲地図と同一場所、同一縮尺です。

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    1. 直進すると東京女子医大病院のある左岸台上ですが、上掲「地形図」に描かれた流れを追って左折します。  

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    2. 突き当りを右折です。ただ、「地形図」の流れと道路が完全に重なるわけではなく、いつもの青点線は書き込んでいません。 

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    3. 左手の台上から谷頭を見下ろしています。正面奥は対岸の東京女子医大病院です。

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    4. 上り坂に突き当たって終了です。坂上の→ 小笠原伯爵邸は民間に貸与され、レストランとして営業しています。

河田町

2019-01-23 06:03:59 | 江戸川・紅葉川

 あけぼの橋商店街を抜けると、住居表示は住吉町から河田町にかわります。江戸時代には、豊前小倉藩や丹後宮津藩、それに出雲広瀬藩の屋敷や月桂寺境内だったところで、明治に入り市谷河田町となりました。町名は川田窪によるといわれていますが、本来の川田窪は数百メートル離れた、大久保通りと外苑東通りの交差する市谷柳町付近にあり、それが当地の名前となった経緯については不明ですが、→ 「段彩陰影図」からも読み取れるように、隣接する二つの谷筋を混同したのかもしれません。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。) 

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    1. 左手に折れるとが安養寺坂です。「西側中程安養寺坂横町角」に「長弐間巾弐尺」の石橋がありました。

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    2. 商店街のアーケードが終わったところで、右手が河田町になります。

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    3. このあたりから両側とも河田町です。江戸時代は丹後宮津藩七万石、松平伯耆守の屋敷地でした。  

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    4. 右手の階段下には金弁財天が祀られ、湧水と思われる痕跡もあります。 

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    5. しばらく直線が続きますが、正面奥で右折、すぐに左折します。そこから先は旧小倉藩邸です。

市谷谷町

2019-01-22 06:15:48 | 江戸川・紅葉川

 → 「段彩陰影図」からも分かるように、外苑東通りのガードの先で、右手から合流する谷筋があり、 「御府内備考」には「じく谷」との呼び名が載っています。「往古木茅生茂り日陰分場所ニて湿地ニ付湿谷と申心ニてじく谷と申候」 市谷本村の大半が尾張屋敷となった際、そのじく谷が代替地として与えられ、市谷谷町と名付けられました。現行の住居表示では(創作地名の)住吉町です。なお「御府内備考」によると、市谷谷町を縦断する通りには、東西二本の下水(「東側の方ハ巾二尺西側の方ハ巾三尺」)が並行していました。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1. 新坂下に差し掛かります。この右手から水路が合流していました。→ 新坂は明治30年代に切り通して出来ました。

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    2. 靖国通りを越えた先、ワンブロックのところで左折です。

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    3. 右折するとあけぼの橋通りの入口です。フジテレビがお台場に移転する以前は、フジテレビ通りと呼ばれていました。  

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    4. 市谷谷町を縦断するこの通りの左右に、水路が並行していたことになります。 

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    5. 右手が念仏坂です。「東側中程念仏坂横町角」に「長弐間巾弐尺」の石橋が架かっていました。

市谷片町

2019-01-21 06:22:03 | 江戸川・紅葉川

 荒木町の北側、靖国通りの周辺は片町です。元は市谷本村の一部で、片側町屋であったため、本村片町と称していたが、正徳3年(1713年)に町方支配となり、市谷片町と改められました。明治に入り牛込区、のち四谷区に編入され、市谷がとれて片町となりました。以下はその市谷片町に関する「御府内備考」の引用です。「下水 巾弐尺程 右当町上町屋前庇下雨落ニ有之西方より東方え流尾州様地境際より往還横切下水え落小笠原平兵衛様御組屋舗際を流市ヶ谷本村町裏同所田町通船河原橋流末ニ御座候」

 

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    ・ 「参謀本部陸軍部測量局の1/5000実測図(明治17年測量)」  「紙久図や京極堂 古地図CD-ROM」収録の西部の一部で、同社の基準(72dpi)で掲載しています。  

 片町から左岸段丘に上る坂が合羽坂です。「此坂の東に蓮池と称する大池有て雨天の夜など獺しばしば出たりしを里人誤りて河童と思いしより坂の呼名とも成しが後転じて合羽の字を書来りしといふ」(「御府内備考」) その蓮池に関する「御府内備考」の記述によると、市谷片町の東方、尾張屋敷長屋下にあって、寛永11年(1634)までは「市ヶ谷本村同所田町辺の用水溜」として利用され、当時は「蓮生候ニ付蓮池」と呼ばれていました。その頃、水鳥が住み着いていたため、三代将軍家光が鷹狩にたびたび訪れたことは、一度触れたところです。

 

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    ・ 靖国通り  正面奥が立体交差の外苑東通りに架かる曙橋、右手に上るのが合羽坂です。外苑東通りの大半は昭和10年代に完成していましたが、曙橋ができたのは第二次大戦後です。 

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    ・ 新五段坂  曙橋上から北側方向のショットで、手前を横切っているのが合羽坂、奥に向かうのが新五段坂です。明和年間(1764~71年)に尾張屋敷の西縁沿いに出来た坂です。

摂津守屋敷

2019-01-19 06:39:34 | 江戸川・紅葉川

 尾張徳川の分家である美濃高須藩松平摂津守が、現荒木町に屋敷地を拝領したのは天和3年(1683年)、以後幕末まで同家の上屋敷が置かれました。元々、紅葉川に注ぐ支谷筋にあたり、その起伏を利用して大名庭園が造られましたが、その際、谷筋の根元を堰堤で遮断し、谷頭をすり鉢状にして池にするという、特異な工法を採用しました。→ 「段彩陰影図」の中央やや下に、堰堤もすり鉢状の窪地もくっきりその跡をとどめています。

 

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    ・ 「迅速測図 / 東京府牛込区及近傍市街村落」(参謀本部測量課 明治13年測量)の一部を加工したものです。 新宿通り、靖国通り、外苑東通りをグレーで重ねています。

 この池の西側崖面には高さ4mほどの滝もかかっていて、明治に入り、荒木町となってからは、都会には珍しい滝があるということで、周辺に茶屋、料理屋ができ、やがて三業地、花街として栄えることになります。ただ、その頃までには池の規模は縮小し、滝の水も枯れてしまいました。なお、落合水再生センターの一角に、荒木町の下水道工事中に発見された、江戸時代の→ 石組み暗渠が再現されています。地下10mの深さに延長50.4mにわたって埋設されていたもので、摂津守邸の池の排水用に設置され、明治以降は地域の下水道に転用されました。

 

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    ・ すり鉢地形  摂津守屋敷跡のすり鉢地形を、北側の堰堤上から俯瞰しています。同様の階段が四方に設けられていて、すり鉢の底に下る構造です。  

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    ・ 津の守弁財天  徳川家康が鷹狩りのおり、むちを洗ったとの伝承のある策(むち)の池の傍らに祀られています。奥の崖面から滝が落ちていたのでしょう。

津の守坂

2019-01-18 06:32:01 | 江戸川・紅葉川

 紅葉川とも通称される大下水をたどって、津の守坂下まできました。美濃高須藩三万石、松平摂津守の上屋敷が坂の西にあたる、現荒木町にあったことから、摂津守坂、のち略して津の守坂と呼ばたものです。坂の中腹にある新宿区の解説によると、小栗坂という別名もあったようですが、その由来については触れていません。津の守坂を過ぎると、左手荒木町、右手(市谷)片町の境を西に向い、外苑東通りを曙橋下のガードで越えるところまでです。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1. 津の守坂下を過ぎます。右写真の横断歩道のところが流路で、奥の靖国通りより低くなっています。  

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    3. 150mほどで、外苑東通り下のガードが見えてきました。

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    4. ガードを越えたところでやや左カーブです。この先の水路は四谷、牛込の区境となっていました。

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    5. 現在は右手住吉町と左手荒木町の境ですが、ともに新宿区に属しています。

四谷坂町2

2019-01-17 06:35:14 | 江戸川・紅葉川

 四谷坂町の由来となった坂町坂下に戻り、再び大下水を追います。間もなく元和年間(1615~24年)に創建と伝えられる桝箕(ますみ)稲荷を左折、右折のクランクで回り込、その後は道なりで西に向います。一帯の流路沿いは御先手組など大縄地が占め、(町屋の記述に限定される)「御府内備考」からは、その様子をうかがうことはできません。ただ、大正時代に道路化され、そのまま現在に至っているので、迷うことなくたどることができます。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1. 桝箕稲荷神社に差し掛かります。前々回UPの→ 「実測図」の左端で、池の描かれているところです。 

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    2. 桝箕神社裏で左折、すぐに右カーブのクランクです。  

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    3. 右カーブ後ほぼ直線で西に向います。  

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    4. 江戸時代、水路の両側には御先手組大縄地があり、例の短冊状の区割りがされていました。  

 <御先手組大縄地>  江戸初期の当地の様子を、「御府内備考」の坂町の記述からうかがうことができます。二代将軍秀忠の時代、関東の検地御用加藤喜左衛門の配下50人は、多摩郡江古田村、荻窪村に住んでいましたが、江戸城近くへの移転を望んで、当地に屋敷地を拝領しました。その頃は、隣接する「字蓮池と唱候沼堀」に水鳥が住みついていて、次の将軍家光はよく鷹狩に訪れました。その道筋にあたる当所は、「地低の場所ニて所々の水落合道甚悪敷」で、通行できないことも度々でしたが、俸禄の少ない武士たちでは自力で道を作り、垣根を修理することは困難でした。そこで、彼らの願い出によって、寛永11年(1634年)に町屋(四谷坂町)が起立されました。

 


四谷坂町

2019-01-16 06:03:08 | 江戸川・紅葉川

 市ヶ谷本村町の隣が四谷坂町です。「御府内備考」によると、同町には二本の下水が流れていました。うち、「巾五尺余 右町内坂下町屋中程往還ニ有之尤横切大下水ニて桜川と唱」は、目下さかのぼっている大下水のことで、桜川の名称については該当個所で詳細します。もう一本は町の東境を流れ、この大下水に合流しているものです。「下水 巾三尺程 右町内東側地境稲垣対馬守様御屋舗ニ有之水上は市ヶ谷七軒町通横切下水より右下水え流込夫より裏通地境ヲ通町内坂下桜川え流落申候」 市ヶ谷七軒町は明治に入り四谷七軒町と改称、また、稲垣対馬守は志摩鳥羽藩三万石稲垣家で、現在はどちらも本塩町の一部です。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)  

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    1. 合流地点の水路は失われており、この路地から始めます。突き当りを右折です。 

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    2. 坂町と本塩町の境を南に向かいます。左手台上には「稲垣対馬守様御屋舗」がありました。  

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    3. 引き続き崖面下のクネッた路地を南に向かいます。

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    4. 坂を上った突き当りで終了のようですが、やや右手の狭い路地に連続します。

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    5. 路地は通り抜けできませんが、元はワンブロック先が起点でした。なお、この左手が元の市ヶ谷七軒町です。  

市谷本村町

2019-01-15 05:43:06 | 江戸川・紅葉川

 靖国通りに沿う大下水の流路周辺は宅地造成され、ほとんどが御先手組大縄地でしたが、一部に町屋も点在していました。市谷本村町もその一つで、尾張屋敷前の一角を占めていました。明治に入り、靖国通りを境に市谷、四谷が分かれた関係で、以北は尾張屋敷跡も含め市谷本村町、以南の西半分は四谷本村町(現本塩町)になりました。以下はその市谷本村町にかかわる「御府内備考」の引用です。「下水 巾四尺 右町内裏通相流市ヶ谷田町通船河原橋流末ニ御座候」 「石橋 長六尺巾五尺 右比丘尼坂横町入口ニ有之候」 なお、坂名の比丘尼は尼僧のことで、尾張屋敷に剃髪の老女が住んでいたため、といわれています。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)  

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    ・ 「参謀本部陸軍部測量局の1/5000実測図(明治17年測量)」  「紙久図や京極堂 古地図CD-ROM」収録の西部の一部で、同社の基準(72dpi)で掲載、上掲地図のグレー枠の部分です。

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    1.  防衛省前の靖国通りです。水路は左手を並行していました。  

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    2. 「比丘尼坂横町入口」で通りを離れます。正面奥の階段左手が→ 比丘尼坂です。  

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    3. 途中重なる道路は断片的です。なお、「実測図」にも描かれた合流がありますが、次回のテーマです。  

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    4. 坂町の由来となった坂(坂町坂)下で復活します。「長七尺巾一丈四尺余」の石橋が架かっていました。