神田川 「まる歩き」 しちゃいます!!

ー神田川水系、支流はもちろん、旧水路、廃水路、全部 「まる歩き」ー

長延寺谷

2018-12-29 05:37:53 | 江戸川・紅葉川

 田町一丁目の背後は長延寺谷と呼ばれていました。外堀のところで「南向茶話」の一節、「長円寺谷の内大沼あり候て」を引用しましたが、以下は「御府内備考」にある「江戸図説」の引用です。「左内坂北の谷を長延寺谷といふ此辺古へ大なる池にて其余水船河原といふ地へ落たりといふ、慶長の比迄有しとぞ、いかにも尾陽公御館後より見おろすところ其気色あり」 → 「段彩陰影図」からも読み取れる谷筋ですが、その吐け水路に言及した文献は未見です。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1. 長延寺谷へ至る通りの入口にも石橋が架かっていました。「市ヶ谷長延寺谷町通り大下水に掛有之長サ八尺三寸幅壱丈壱尺」(「御府内備考」)

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    2. 「御府内備考」のいう「長延寺谷町通り」をさかのぼります。水路は通り右手にありました。 

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    3. 左手の坂上に長延寺がありました。文禄3年(1594年)当地に創建、明治末に杉並区和田に移転しています。 

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    4. 右手に大日本印刷(DNP)の敷地、その奥は左岸段丘の崖面です。 

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    5. やや左カーブしながら、DNPの敷地に沿って進みます。長延寺谷町のあったのはこの右手です。 

大下水2

2018-12-28 06:47:23 | 江戸川・紅葉川

 外堀通りと並行していた大下水を追って、神楽坂下から市ヶ谷方面に向かいます。水路の痕跡があるわけではありませんが、台地の際を流れていたため、おおよその流路を想像することはできます。特に牛込台に上る坂との位置関係は、江戸時代から変わらないので、坂下に架かる石橋の場所を特定することは容易で、例えば船河原町のある逢坂下には「長九尺幅弐間」の石橋が架かり、また次の田町(1~3丁目)には都合6ヶ所の石橋がありました。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1. 市谷船河原町のある逢坂下です。上り口には船河原筑土神社が祀られています。 

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    2. 逢坂下から新見附交差点方向の外堀通りです。引き続き「幅壱間」の大下水が右手を並行していました。 

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    3. 新見附交差点で、右写真は新見附橋です。この前後から外堀通りの右手は市谷田町になります。 

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    4. 市谷田町交差点から市ヶ谷方向です。この右手には「長九尺幅壱丈五寸」の石橋が架かっていました。 

 <市谷田町>  船河原町の西隣は市谷田町です。元は布田新田と呼ばれる田地でしたが、寛永年間(1624~45年)の初めに、「佐渡殿原並浄瑠璃坂下逢坂辺の土を右田地え坂落しに仕」、宅地造成して田町1~4丁目を名乗りました。その際、人足ばかりではかどらなかったところ、「曽根源左衛門様御工夫にて大八車と申車出来右之車にて土取のけ地形築立候」と、「御府内備考」は付け加えています。なお、引用文中の佐渡殿原は、田町の背後に位置する砂土原町3丁目あたりの俗称で、幕府草創期の重臣、本多佐渡守正信の別邸があり、そう呼ばれるようになったところです。また、こうした造成を主導したのは草創名主、島田左内ですが、その名は左内坂や市谷左内町の由来となりました。

 


神楽坂

2018-12-27 06:01:13 | 江戸川・紅葉川

 牛込見附から牛込台に上る坂が神楽坂です。名前の由来は、坂の中腹にあった高田八幡神社(穴八幡)の御旅所で神楽を奏したからなど、みな神楽がらみですが、神楽を奏した神社に関しては、穴八幡以外にも市谷八幡、若宮八幡、津久戸明神、赤城明神などあって、近隣の有力神社を網羅しています。その規模は「高凡三丈七尺程北の方壱町斗有之幅上の方六間程下の方四間半程」(「御府内備考」)です。

 

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    ・ 「江戸名所図会 / 牛込神楽坂」  「月毎の寅の日には参詣夥しく、植木等の諸商人市をなして賑はえり」

 坂下には今回テーマの大下水が流れ、そこには石橋が架かっていました。「大下水 幅壱間 右者町内東側家前に有之里俗柳川と相唱艮の方江戸川え落入候」「石橋 長九尺幅四間 右は神楽坂通往還大下水え掛渡候石敷十五枚」 いずれも「御府内備考」の牡丹屋敷の項の記述です。なお、「図会」右下にも石橋が描かれていますが、これは前々回の軽子坂下のもので、その規模は「石橋 長九尺幅壱丈壱尺三寸・・・・石敷七枚」でした。 

 

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    ・ 神楽坂  外堀通りを挟んで向かい合う牛込見附からのショットです。通りは早稲田通りで、神楽坂を上り牛込台の背を縦断、高田馬場方面に向かいます。

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    ・ 善国寺  「図会」の坂上に描かれています。文禄4年(1595年)、徳川家康により創建、その毘沙門天像は江戸三毘沙門として信仰された、と解説プレート。

牛込見附

2018-12-26 06:24:47 | 江戸川・紅葉川

 飯田橋駅西口前に架かるのが牛込橋で、江戸城外郭門の一つ、牛込見附(牛込御門)のあったところです。牛込見附は田安門から牛込台、上州道へと通ずる、江戸城北方面の交通の要所をおさえていました。現在は田安門から神楽坂に向かう早稲田通りが通っています。牛込見附の完成は外堀と同じ寛永13年(1636年)、阿波蜂須賀家によって石垣が造られ、「松平阿波守」と刻まれた石も発見されたと、傍らの千代田区の解説にあります。

 

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    ・ 「参謀本部陸軍部測量局の1/5000実測図(明治16年測量及び同17年測量)」  「紙久図や京極堂 古地図CD-ROM」に収録されている北西部及び北部の一部で、同社の基準(72dpi)で掲載しています。 

 同じ千代田区の解説に、楓が植えられ紅葉が見事だったとありますが、「南向茶話」は 牛込見附を「紅葉御門」、市ヶ谷見附を「桜御門」としています。ただ、「御府内備考」は四谷御門を「紅葉御門」としており、大下水の別名の紅葉川、桜川ともからんで、混乱の元となっています。それはともかく、上掲「実測図」では健在の牛込門の枡形ですが、明治35年(1902年)に石垣の大半が撤去されました。そのため、→ 「明治42年測図」に枡形はありません。

 

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    ・ 牛込橋  現在の橋は平成8年に完成しました。なお、大半は撤去された牛込見附の石垣ですが、橋台など一部が残されました。左手奥の石垣もそうです。 

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    ・ 牛込堀  左手の高層ビルは法政大学ボアソナード・タワーです。フランス出身のボアソナードは、法政大学の前身、東京法学校の礎を築いた人です。

大下水

2018-12-25 05:52:47 | 江戸川・紅葉川

 「大下水は市ヶ谷田町より牛込揚場町を歴て船河原橋脇にて江戸川に合す此下水の成し年代等詳ならされと寛永十八年堀千之助御手伝にて石垣を築きしよし伝ふれば古き下水なる事論なし・・・・下流までを通して紅葉川なぞ書しものありその実は無名の大下水なり」(「御府内備考」) → 「正保年中江戸絵図」(正保元年、1644年ころ)にも、外堀と並行する水路が描かれており、前々回述べた自然河川の代替として、外堀完成時に開削されたものと思われます。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)  

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    ・ 「参謀本部陸軍部測量局の1/5000実測図(明治17年測量)」  「紙久図や京極堂 古地図CD-ROM」収録の北部の一部で、同社の基準(72dpi)で掲載、上掲地図のグレー枠の部分です。

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    1. 大下水は船河原橋の手前、右手から合流していました。左手に開いているのは、水道橋分水路の呑口です。

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    2. 飯田橋駅前の陸橋から、市ヶ谷方向の外堀通りです。大下水は通りの右手を並行していました。 

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    3. 軽子坂下を通り、神楽坂下に向かいます。軽子(軽籠持)は軽籠に荷を入れて運ぶ人足のことです。

 <揚場町>  外堀通りの牛込台寄りは、当初は武家地が占めていましたが、通船が可能になり揚場も設けられると、揚場町と呼ばれる町屋が出来ました。以下はその揚場町に関する「御府内備考」の記述のうち、今回の大下水についての抜粋です。「大下水幅壱間 右は南の方より北の方へ流牛込牡丹屋敷より御武家方前通流来末は江戸川え落入申候両側石垣石橋とも寛永年中堀千之助様御手伝に而」「石橋 長九尺幅壱丈壱尺三寸 右は町内南の方横町御武家方境より軽子坂上り口大下水に掛有之石敷七枚に而橋の字無御座」 なお、最初の引用文中の牡丹屋敷ですが、神楽坂下にある紀州出身の岡本某の屋敷で、将軍献上の牡丹を栽培していたことから、そう呼ばれたものです。

 


外堀2

2018-12-22 06:05:11 | 江戸川・紅葉川

 江戸城外堀が完成したのは寛永13年(1636年)、諸大名を動員したいわゆる天下普請によってでした。当時は軍事施設としての側面が主でしたが、万治年間(1658~61年)に、仙台藩によって拡幅工事が行われ、隅田川から牛込までの通船が可能となります。その際余った土によって、小石川、小日向を築地し、武家地を造成したとの話は、たびたび引用したところです。これ以降、外堀は生活物資の輸送路としても機能し、飯田堀の半ばに荷揚げ場が設けられました。「神田川附きに而山の手諸色運送の揚場に相成候に付町名揚場町と相唱申候」「惣物揚場二ヶ所 河岸南の方 間口九間五尺奥行十弐間 北の方 間口十七間奥行十弐間」(「御府内備考」)

 

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    ・ 「陸地測量部発行の1/10000地形図(明治42年測図) / 早稲田」と「同 / 四谷」の合成で、現在の開渠個所をブルーで重ねています。   

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    ・ 牛込揚場碑  飯田橋駅前のセントラルプラザと外堀通りの間は、小川の流れるスペースになっていますが、その一角に牛込揚場の碑が据えられています。 

 以下は碑文の引用です。「江戸時代には海からここまで船が上ってきた。全国各地から運ばれてきた米、味噌、醤油、酒、材木などがこの岸で荷揚げされたので、この辺は揚場と呼ばれた。昭和47年に都の市街地再開発事業として、ビル建設が決定され飯田濠は埋め立てられることになったが、濠を保存してほしいという都民の強い要望から、ビルの西側に飯田壕の一部を復元すると共に、以前水面があったことにちなんで約230メートルのせせらぎを造った。小濠の水は、このせせらぎの地下水路を通って昔のとおり神田川に注いでいる。」

 

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    ・ 飯田堀  セントラルプラザの西側に一部復元された飯田堀です。堀の水は右手の呑み口から地下水路に導かれ、飯田橋先の神田川に合流しています。

外堀

2018-12-21 06:57:34 | 江戸川・紅葉川

  船河原橋で右折すると、飯田堀、牛込堀と続く外堀です。→ 「段彩陰影図」に見るように、外堀は牛込台と麹町台を分かつ谷筋沿いにあり、かっては自然河川が流れていました。以下は寛延4年(1751年)に酒井忠昌が著した「南向茶話」の一節です。「問曰 寛永年間外廓出来以前にも、市ヶ谷より小石川の方へも川流有之候哉・・・・。答曰 御尋之趣尤もに候。予も市ヶ谷辺久々住居し、人に承り候得ば、御外廓無之以前にも、只今五段長屋下より小流有。長円寺谷の内大沼あり候て、落合ながれ候よし。此水筋にて田地の用水に仕、田町辺は皆々田地なり」 

 

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    ・ 「東京近傍図 / 下谷区」(参謀本部測量局 明治13年測量)及び「同 / 麹町区」を合成、その一部を加工したもので、本来の縮尺は1/20000、パソコン上では1/12000ほどです。オレンジ線は区境で、外堀を挟んで新宿区と千代田区です。 

 「南向茶話」の五段長屋は五段坂ともいい、尾張藩上屋敷(現防衛庁)の西側にありました。五段坂はなくなりましたが、曙橋から外苑東通りを北に上る坂が、新五段坂と呼ばれています。というわけで、「五段長屋下の小流れ」は現在の靖国通り沿いにあった自然河川です。一方、長円寺谷は尾張屋敷の東側、現市谷長延寺町付近の谷筋で、両者は市谷田町で合流して飯田橋方面に向かっていました。外堀はこの谷筋を利用して開削されましたが、もっとももそれは飯田堀、牛込堀のことで、この谷筋からズレる市ヶ谷門以西の市ヶ谷堀、四ッ谷堀(真田堀)は、麹町台地を開削したまったくの人工的な地形です。

 

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    ・ 牛込堀  新見附橋から牛込橋方向のショットで、正面が飯田橋駅前にあるセントラルプラザです。新見附橋は明治中頃の創架なので、「近傍図」にはありません。  

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    ・ 新見附堀  上掲写真とは逆の、新見附橋から市ヶ谷橋方向です。新見附橋によって牛込堀は二分され、その市ヶ谷寄りは新見附堀と呼ばれています。  

船河原橋

2018-12-20 06:55:35 | 江戸川・紅葉川

 神田川本流に戻り、隆慶橋の次は船河原橋です。江戸川の範囲はここまでで、その先は外堀です。「橋 右は町内東北の方御武家屋敷脇小石川辺えの往来江戸川落口に掛有之船河原橋と相唱候訳且里俗どんどん橋と相唱候得共右唱の訳相知不申尤町内持には無御座水戸様御一手持に御座候」 これは揚場町に関する「御府内備考」の記述ですが、その揚場町の一帯の元名が船河原だと「南向茶話」は書いています。船河原橋から数百メートル市谷寄りに市谷船河原町も現存しており、外堀開削以前の低湿地時代、船溜まりになっていたのかもしれません。  

 

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    ・ 船河原橋  神田川は左手から流れ、右端で外堀(飯田堀)と合流、左折して奥に向かいます。真ん中の通りが外堀通り、交差しているのが目白通りで、大久保通りもこの交差点左下隅が起点です。 

 一方、どんどん橋の由来については、「御府内備考」は別の個所で「改選江戸志」を引用しています。「世にどんどん橋ともいへり、是は橋の下にて流れのひくき所へ落ちれはどんどと音するによりかくいひならはせるならん」 なぜ高低差があるかというと、ここに堰を設けて江戸川の水位を上げ、関口からの取水を確保、かつ水質を保つためでした。おかげで上流の江戸川には魚が繁殖、特に鯉は美味だと評判でした。ただ、江戸川は御留川(禁漁)だったため、どんどんから落ちた魚目当てに、連日釣り人でにぎわったそうです。

 

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    ・ 飯田橋  上掲写真右下隅からのショットで、手前が外堀(飯田堀)に架かる飯田橋、その奥は船河原橋の一部です。知名度は全国区の飯田橋ですが、明治に入ってからの創架です。

 飯田橋の飯田は小石川御門内の通称、飯田町が由来です。江戸開府当時家康を案内した功により、名主に指名された飯田喜兵衛にちなみ、町名も家康が指定したと言い伝えられています。ただ、その後開発されて武家地となったため、(武家地に町名はないことから)通称にとどまり、明治に入り1~6丁目に再編されて正式な町名となりました。明治14年(1881年)に外堀に架けられた橋が飯田橋と命名され、さらに昭和3年(1928年)、牛込駅と飯田町駅が統合され飯田橋駅が誕生、同41年の新住居表示で飯田橋(1~4丁目)が採用され、本家の飯田町に取って代わることになります。

 


隆慶橋右岸4

2018-12-19 06:24:26 | 江戸川・紅葉川

 筑土八幡前を流れる小支流を追っての最後で、神楽坂上から先の大久保通りです。明治末の「郵便地図」によると、大久保通りの南側を500mほど並行しており、その先端は現牛込中央通りとの牛込北町交差点にありました。→ 「段彩陰影図」を見ると、この区間の大久保通りは、今回の谷筋にピッタリ納まっているのがわかります。なお、先端付近は御具足奉行組同心、御弓矢鑓奉行組同心の拝領町屋敷だったため、武器一般を御箪笥と称したことから、(牛込)御箪笥町と呼ばれました。以下はその下水に関する「御府内備考」の引用です。「下水 巾弐尺五寸程長百弐十間程 右町内南側ニ有之江戸川え流落申候」

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1. 神楽坂上交差点先の大久保通りです。奥でやや右カーブです。 

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    2. 右カーブの後はほぼ直線です。明治に入り拡幅された際、水路も左手に並行するよう整備されたのでしょう。 

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    3. 左手奥の南蔵院にあった弁天堂が由来の弁天坂です。右写真は左岸の袖摺坂からのショットです。 

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    4. この右手には牛込区役所があり、昭和22年(1947年)成立時の新宿区役所が置かれたところでもあります。 

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    5. 牛込北町交差点に差し掛かります。右写真は同交差点南側からのショットです。 

隆慶橋右岸3

2018-12-18 06:28:03 | 江戸川・紅葉川

 隆慶橋下流で合流していた水路を追っています。筑土八幡神社前を過ぎ、大久保通りの南側のややズレたところを並行した後、しばらく通りを離れ、白銀町に差し掛かります。「下水 巾三尺余 右当町(牛込白銀町)裏通ニ有之候」(「御府内備考」) もっとも、この付近の流路は明治の前、後半で違っていて、30年代前後に行われた大久保通りの拡幅、整備に伴い、付替えられたものと思われますが、ここでは明治末の「郵便地図」に描かれたコースをさかのぼります。なお、白銀(しろがね)町の由来ですが、「御府内備考」は「書留焼失仕相分り不申候」としています。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)  

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    1. 左カーブの大久保通りから離れ、直進する道に入ります。道の左右が白銀町です。 

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    2. 「郵便地図」ではこの通りの左手を水路が並行していました。 

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    3. 左カーブ右手の坂は、途中がくびれていることから瓢箪坂と呼ばれています。

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    4. 左カーブが連続し、南に向きを転じます。

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    5. 再び大久保通りに合流します。その先は早稲田通りとの神楽坂上交差点です。

筑土八幡

2018-12-17 06:05:24 | 江戸川・紅葉川

 筑土八幡神社境内の解説によると、創建は1200年ほど前の嵯峨天皇の時代、松の木に細長い旗のような瑞雲がかかり、白鳩が枝にとまったことから、しめ縄を松の木に結い八幡神を祀ったのが最初です。さらに、伝教大師が筑紫の宇佐八幡の土を盛って基礎とし、筑土八幡神社と名付けたとか、文明年間(1469~86年)に上杉朝興が産土神として信仰した、などが書かれています。最後の上杉朝興云々は「江戸名所図会」にもありますが、彼が後北条氏と江戸城をめぐって争ったのは、文明年間より後の16世紀前半のことです。

 

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    ・ 「江戸名所図会 / 筑土八幡宮 同明神社」  タイトルと同様、参道や社殿が二つ並んでいて、向って右が筑土八幡、左が津久戸(筑土)明神。明神のほうは昭和20年に戦災で全焼後、九段下に移転、現在は→ 築土神社となっています。

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    ・ 筑土八幡  大久保通りから階段で上る参道で、中腹の鳥居といい「図会」と同じ構造です。なお、左手には筑土明神参道の名残の坂があります。

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    ・ 筑土八幡  境内は牛込台の東北端にあります。後背地は御殿山と呼ばれ、中世の土塁跡とも、将軍鷹狩りの際の休息所ともいわれています。 

 <御殿山>  「同じく東の方、中山家の藩邸の地其旧地なりとも、或云、万昌院の辺なりとも相伝ふ。太田道灌の別館ありし旧跡なりとぞ。寛永の頃、大将軍家放鷹の時の御設として仮に建置給ひし御殿の地なりといへり」(「江戸名所図会」) 万昌院は筑土八幡の西に、中山家藩邸はさらに西の白銀公園付近にありました。この御殿山を崩して崖下の低湿地を造成したことは、筑土の地名由来とも絡めて、「南向茶話」(寛延4年 1751年 酒井忠昌)などに記載されています。「小日向辺其頃迄は田畑にて候所、安藤対馬守奉行被致、此処山を崩築立候故、今に築土と号す」

 


隆慶橋右岸2

2018-12-15 05:48:12 | 江戸川・紅葉川

 隆慶橋右岸に合流していた小支流を追っての二回目で、津久戸町、筑土八幡町の境になっている路地に入ります。どちらも津久戸(筑土)明神や筑土八幡とかかわる町名ですが、以下は津久戸明神別当だった成就院の門前町に関する「御府内備考」の一節です。「下水 巾参尺より四尺迄 右町内東境ニ有之同寺構外より町内え掛り夫より東え流小日向冷水番所通大下水え流行江戸川え落入申候」 冷水番所というのは隆慶橋の西を指す地名で、名水、冷水の井の傍らに番所があったことから、そう呼ばれるようになったものです。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)  

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    2. 左折して水路単独の狭い路地に入ります。左手津久戸町、右手筑土八幡町の境です。 

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    3. 右手にあった津久戸明神別当、成就院は、明治初年の廃仏毀釈で廃絶しています。

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    5. 筑土八幡町交差点の西側で、大久保通りの右手から左手にシフトしていました。

隆慶橋右岸

2018-12-14 06:59:11 | 江戸川・紅葉川

 白鳥橋の次が隆慶橋です。秀忠、家光の祐筆、大橋隆慶にちなんだ名前で、→ 「正保図」(1644年頃)には、同じ場所に橋が描かれ、「龍慶町」の書き込みもあります。また、大曲・船河原橋間に三本あった橋のうち、→ 「明暦図」(1658年頃)以降、唯一残った橋で、 → 「寛文図」(1672年)にははやくも、「りゅうけいばし」の書き込みが見られます。その隆慶橋やや下流の右岸に、小支流が合流しています。→ 「段彩陰影図」で大久保通りに沿う谷筋にかかわるもので、これから数回に分けてさかのぼります。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)  

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    ・ 「陸地測量部発行の1/10000地形図(明治42年測図) / 早稲田」と「同 / 四谷」を合成したもので、上掲地図と同一場所、同一縮尺です。

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    1. 新隆慶橋の次が人道専門の隆慶橋で、右写真は隆慶橋から下流方向です。 

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    2. 隆慶橋から70mほど下流の右岸です。ここで合流していた小支流をさかのぼります。

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    3. 風車のように道路が交差する三叉路を左折します。この三叉路は「正保図」にも描かれています。

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    4. すぐに右折したあと、最近新設され上掲「地図」には未記入の通りを越えます。

大曲

2018-12-13 06:49:58 | 江戸川・紅葉川

 中之橋を過ぎると、すぐに自動車専用の新白鳥橋です。そして、次の白鳥橋との間で神田川は大きく右カーブ、南に向きを変えます。いわゆる大曲です。「江戸川は神田上水の枝流なり、関口水道町の西にて分流し、大抵東流して中ノ橋、龍慶橋の中ほど、小名大曲りといふ処よりやゝ南流と成、船河原橋(俗にどんと橋といふ)を過て御堀に落入れり」(「御府内備考」) なお、白鳥橋の架橋は明治時代の後半で、その名前は付近にあったといわれる伝説の白鳥池によっています。 

 

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    ・ 神田川  小桜橋から下流方向で、次が中之橋、その奥が新白鳥橋です。中之橋は→ 「明暦図」にもある通り、隆慶橋と石切橋の間に位置することからの名前です。

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    ・ 大曲  新白鳥橋から白鳥橋にかけて、神田川はほぼ直角に折れ曲がります。なお、白鳥橋の左手には、神田川に四本ある分水路の一つ、水道橋分水路の呑口があります。

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    ・ 白鳥橋  左岸方向のショットです。奥の上りに差し掛かる手前を神田上水が横切り、さらにその奥を左折すると、春日通や伝通院に至る安藤坂です。

 <白鳥池>  「中の橋の下曲江の処はむかし大なる池にて、白鳥池と号す、後は次第にうつもれてそのなごり、池の南は久永氏の宅地にのこれりと」(「南向茶話」)「今も久永氏の庭の池はよほど広して常に水鳥などかひ、夏の頃は小舟に棹さして涼みとるにいと興あり」(「改選江戸志」) いずれも「御府内備考」からの引用です。三千二百石の旗本、久永氏の屋敷は中之橋と大曲の間の右岸にあり、明治になって同じ場所にあった川田男爵邸の庭にも池が描かれています。ちなみに、川田男爵は北海道の農業振興に貢献、かの男爵イモにその名を残している人物です。 

 


江戸川2

2018-12-12 06:47:49 | 江戸川・紅葉川

 「江戸川 神田上水の分流なり、この水路、往古牛込関口の辺にては今より南に寄りて流れしが、承応の頃水路を今の如く改め」(「新編武蔵風土記稿」)「右往古田畑之要水に而古川と唱候処万治年中より江戸川と唱候由」(「御府内備考」) これらの記述や、前回UPの「正保年中江戸絵図」と、その後の「明暦江戸大絵図」、「寛文図」などとの比較から、寛永年間(1624~44年)末頃より、船河原橋(通称どんどん橋)から上流に向かって、順次改修されてきた江戸川が、承応(1652~55年)から万治(1658~60年)にかけて、現在見られるような姿になったと考えられます。

 

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    ・ 「明暦江戸大絵図」  明暦3年(1657年)の大火直後のものとされる「明暦江戸大絵図」の該当個所をイラスト化しました。分譲が完了した個所を薄い茶でカバー、ただ、水田の書き込みがないので、薄いブルーの色分けはありません。

 → 「正保図」では未着工だった江戸川上流ですが、「明暦図」では大曲より上流に及んでいます。橋も大曲・船河原橋間には龍慶橋のみとなり、かわって関口・大曲間に多くの橋が出現、赤城坂下の石切橋の場所にも橋は描かれています。その様子は、江戸川改修の完成形といわれる→ 「寛文図」とほとんど同じですが、ただ、宅地造成は途上にあったようで、赤城明神下の道路や下水は整備されていますが、周辺は分譲はされていない状態です。(なお、石切橋のところで引用した解説プレートの、「寛文年間(1661~73年)に架けられたといわれ」は、こうした事情を勘案すると、承応ないし明暦頃と前倒ししたほうがよさそうです。)

 

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    ・ 神田川  西江戸川橋から下流方向で、ピンクの橋が小桜橋、その先のグリーンが中之橋、さらにその先、一段高い新白鳥橋まで見通せます。左岸の半円柱状のビルは大手印刷会社のもので、大曲の直前にあります。  

 ところで、「正保図」や「明暦図」になく、「寛文図」に初出しているものの一つが小日向馬場です。明神下に間隔の狭い平行な通りとして描かれています。「おそらくは承応、万治のころ此地を新築ありし時、この馬場もなりしなるべし、小石川の馬場と同時のことならんか」(「御府内備考」) なお、馬場の周辺には、低湿地を造成した名残なのでしょう、「泉の井」(「小日向馬場東、大森氏屋しきの内にあり、元生野氏屋しきなり」)、「黄金水」(「小日向馬場の通り、今は森末五郎殿屋敷内なり」)、それに、やや離れて「冷泉の井」(「立慶橋をわたりて西の方なり」)といった名水がありました。