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氷川神社

2014-10-18 06:33:16 | 城西の堀川3

 「氷川明神社 赤坂今井にあり。・・・・祭神当国一宮に相同じ。赤坂の総鎮守にして、祭礼は隔年六月十五日、永田馬場山王権現と隔年に修行す。江戸名勝志、惣鹿子等の草紙に、当社元一木村にありしを、享保十五己酉(1730年)、今の地に遷座、社を御造営ありしと云々。按に、当社を古呂故宮とし、又享保中一木より今の地にうつし奉るよし、諸書に見ゆれども、詳(つまびらか)ならず。寛文江戸図に、古呂故宮と称するものは、今の一木に記(しる)して、氷川明神は同絵図に今の地に記しあり、しかるときは各々別の社なるべし。」(「江戸名所図会」) 神社西側にある本氷川坂(元氷川坂)の標識に、「坂途中の東側に本氷川明神があって坂の名になった。社は明治十六年四月、氷川神社に合祀された。」とあります。「寛文図」の「ヒカワ明神」は、この本氷川明神のことと思われます。

 

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    ・ 「江戸名所図会 / 赤坂氷川社」  社殿裏手が今回の谷筋で、正面も低地になっていますが、こちらは現六本木通りを底とする南側の谷筋にかかわるものです。

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    ・ 氷川神社  氷川坂を上ると右手に参道があり、その先に「図会」の右下に描かれた階段が見えます。

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    ・ 氷川神社  社殿は「図会」にもある享保15年造営のもので、都の有形文化財に指定されています。 

 <一木と今井>  共に中世から江戸初期にかけての村名で、「小田原衆所領役帳」にその名が見えます。うち、一木(ひとつぎ)は「東は赤坂門御堀溜池、南西は今井青山、北は四谷に接し」(「新編武蔵風土記稿」)、紀州屋敷を隔てて上は鮫河橋、下は赤坂に二分されました。奥州街道の中継地で人継(ひとつぎ)、それが(氷川明神ほか諸説の)大木によって一木に転訛、との言い伝えがあります。「風土記稿」は「鎮守氷川神木一株の銀杏大樹」としていますが、これは冒頭の古呂故宮(「寛文図」では「コロクノ宮」)のことでしょう。赤坂見附の一ツ木通り入口にあり、のち氷川明神旅所が置かれました。
 一方、今井の範囲は「東は虎門外、南は西久保、飯倉、龍土、西は青山、北は赤坂溜池」で、現在の赤坂の南西部から六本木の北部にかけての地名でした。地名由来としては、今井古城跡の伝承があります。「氷川明神の西北の方、松平芸州候の中屋しきの地をいへり。今井四郎兼平が城址なりといふ。紫の一本といへる草紙には、斎藤別当実盛の城とし、或は田子先生義賢の出城なりともいひ伝ふれども、共に詳ならず。」(「江戸名所図会」) 今井の地名と古城伝承が結びつき、今井兼平の名前が出てきたのでしょう。