神田川 「まる歩き」 しちゃいます!!

ー神田川水系、支流はもちろん、旧水路、廃水路、全部 「まる歩き」ー

字亀窪2

2018-03-31 06:09:16 | 神田川5

 末広橋前後の旧本流の蛇行跡を追っての二回目で、末広橋下流で左岸に孤を描いた後、今度は右岸に弧を描き、新開橋手前で本流に戻って終了です。ここから先、蛇行を改修したところは多々ありますが、跡の残っているところは当面ありません。なお、タイトルの亀窪は淀橋町大字柏木当時の字で、名前の由来は定かではありませんが、推測は容易です。ここから先の橋名にも万亀橋や亀齢橋があり、亀つながりなのは間違いありません。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1. 左岸に描く孤の頂点のところで、右カーブが連続します。

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    2. 突き当って中断しますが、その先は→ 柏橋下流の遊歩道です。 

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    3. 右岸の遊歩道に面した三角コーナーから再開、奥の路地へと連続します。

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    4. この左カーブが右岸の孤の頂点です。 

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    5. 新開橋手前の遊歩道に突き当たって終了です。ここから先の蛇行の痕跡は失われます。

字亀窪

2018-03-30 06:15:51 | 神田川5

 末広橋前後の神田川本流に戻ります。今は緩やかなカーブを描いているだけですが、かっては左右に細かく蛇行していました。それを現行のように改修したのは昭和に入ってからで、「昭和12年第四回修正」で初めてその様子が反映されています。もっとも、同図には点線で示された淀橋区と中野区の区境が、なお元の流路をなぞっていて、改修直後であることが読み取れます。さらに、蛇行が激しかったことや本格的な区画整理を経ていないこともあるのでしょう、蛇行の様子を留めた路地が今日でも残されています。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    ・ 「陸地測量部発行の1/10000地形図(昭和3年第三回修正) / 中野」  上掲地図と同一場所、同一縮尺です。改修後の「昭和12年第四回修正」は→ こちらでどうぞ。

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    1. 伏見橋と末広橋の間の遊歩道から、右手に入る路地があります。 

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    2. 全体的に左カーブしていて、孤を描いているのだと分かります。 

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    3. 100m弱で遊歩道に戻って中断します。

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    4. 今度は末広橋の下流で、遊歩道から左手に入る路地があります。

新堀4

2018-03-29 06:41:44 | 神田川5

 右岸段丘沿いを北上する、柏木村の田用水(新堀)を追っての四回目です。JR線の手前まではたどることができますが、越えてから小滝橋手前で本流に戻るまでの痕跡は皆無です。昭和の初めに神田川の改修と並行して埋め立てられ、いったん宅地化されましたが、さらに、昭和20年(1945年)5月の空襲で一面焼け野原になり、戦災復興の区画整理を経たため、水路はおろか、道路も元の形をほとんど留めていません。というわけで、流路をたどるのはJR線までとします。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1. 円照寺門前から下る道を越えます。右写真は門前からのショットです。   

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    2. ここで越えるのも、やはり円照寺から下る道です。逆に左折すると万亀橋に出ます。  

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    3. やや右手に折れた後、ほぼ直線で100m強の進みます。  

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    4. JR線手前で途切れ、その先の痕跡は失われます。

 <鎧神社>  右岸段丘上の本村と呼ばれる柏木村の中心には、同村の鎮守の鎧神社やその別当だった円照寺があります。「鎧明神社 村の鎮守なり、平将門滅亡の後其鎧を祭りしと云、或は秀郷着領の鎧を祭りしとも云伝ふ、円照寺持」(「新編武蔵風土記稿」)一方、「鎧明神社縁起」では、日本武尊命東征の際、当地に甲冑を納めて創建、平将門が滅びたのち、公の鎧もまた納められたとなっています。藤原秀郷が将門追討後当地で病となり、そこで将門の鎧を円照寺境内に埋め霊を弔ったところ病が癒えた、との説も併記していますが、これは「江戸名所図会」に、円照寺の創建伝承として収録されているもので、病は右ひじの痛みとなっています。(「江戸名所図会 / 鎧明神社 圓照寺」は→ こちらでどうぞ。)

 


新堀3

2018-03-28 06:34:16 | 神田川5

 新堀跡の道路が柏木小キャンパス北側で再開した続きです。それもつかの間、100mほどで大久保通りに突き当たります。大久保通りは、神田川の東側は江戸時代からの道路を整備することによって、西側は大正末から昭和にかけての区画整理事業で、各々成立したものですが、昭和10年代初めに神田川をまたぐ部分が連結され、連続する道路として開通しました。その時には、新堀はすでに埋め立てられており、そこに手が加えられたため、大久保通りと交差する前後は、水路としての連続性を失い、再び復活するのは北新宿公園の北側の道路からです。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1. 柏木小学校の先です。右手が崖面になっており、右岸段丘の際にあるのが分かります。

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    2. 大久保通りに突き当たって中断です。盛土によって傾斜を緩やかにしたのでしょう、通りは一段高くなっています。 

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    3.  北新宿公園です。水路はほぼ中央を縦断していたはずですが、もちろん痕跡は残されていません。

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    4. 4.の正面やや右手にあるこの道路から再開です。なお、この付近から神田川本流にかけては、字亀窪と呼ばれていました。 

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    5. 右岸段丘沿いの道が続きます。正面左手に日本閣跡地に建つツインタワーが見えてきました。

新堀2

2018-03-27 06:38:24 | 神田川5

 新堀に戻り、左カーブで北上するところから再開、すぐに柏木小キャンパスに突き当たります。ところで、明治17年(1884年)の「田用水に関する調査」は、新堀開設のいきさつを以下のように記述しています。「柏木村の義、往古ヨリ田方仕付中例年願済、神田上水村内字姿江草堰設立シ用水江水引上ケ来ル。然ルニ旧麟祥院寺領之節安政五年八月中、旧里正川本紋右衛門発起ニテ村内協議之上、願済ニテ畑三反歩ヲ田成ニ変設シ、従来ノ用水堀ニテハ水掛引不便ニ付願済、旧堀ヲ廃シ字姿ヨリ字小瀧橋江掛ケ新堀ヲ掘、是迄ノ水路ヨリ三尺広ク養水十分行届候様相成、則チ現今之景況ニ有之候事」

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    ・ 「陸地測量部発行の1/10000地形図(大正10年第二回修正) / 中野」  上掲地図と同一場所、同一縮尺です。次の→ 「昭和3年第三回修正」では新堀は道路となっています。

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    1. 左カーブを抜けた先です。右手から合流する道路を歩道化し、やや幅広になっています。 

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    2. 左折すると伏見橋に出る通りを越えます。 

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    3. 柏木小キャンパスに突き当たって中断します。ここまで200mを越える直線コースでした。

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    4. キャンパス北側の道路から再開します。校庭手前で向きを変えたため、やや西よりになっています。

北新宿の水路2

2018-03-26 06:33:32 | 神田川5

 新堀に合流していた右岸の小水路の二回目で、蜀紅坂下から再開します。本線は東に向かう谷筋ですが、左手蜀紅坂沿いの水路を描いている地図もあります。なお、蜀紅山は「新編武蔵風土記稿」にも載る柏木村の小名で、その由来として二説があり、平将門(ないし弟将頼)が、蜀江錦の衣の袖を落としたため、あるいは、三代将軍家光が、一帯の紅葉を蜀江の錦にたとえたため、というものです。蜀江(しょっこう)というのは、三国志でおなじみの蜀の首都、成都を流れる川で、その付近の特産の絹織物が蜀江錦です。紅葉にたとえられるように、緋色がベースのようです。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1. 蜀紅山に向かう蜀紅坂下を横切りますが、まず左折して坂沿いの水路を追います。 

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    2. 蜀紅坂公園前です。坂沿いの水路は左手を並行していました。

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    3. 改めて谷筋沿いに東に向かいます。右手には淀橋中学校がありましたが、平成9年に統合移転しています。

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    4. この区間も道路右手が水路ですが、地図類で確認できるのはこのあたりまでです。

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    5. 谷筋はなおも続いていて、谷頭はさらに200mほどさかのぼることができます。 

北新宿の水路

2018-03-24 05:56:15 | 神田川5

 新堀が左カーブで北上するところに、右手から合流していた小水路があります。→ 「段彩陰影図」を見ると、青梅街道から分かれて東に向かう通り(税務署通り)の北側に、短い谷筋が並行しており、この谷筋のはけ水路と思われます。合流地点には水路単独の路地が残っていますが、あとは既存の道路と並行していて、それらしい痕跡は残されていません。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)  

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    1. 新堀跡の道路の右手のこの路地から始めます。すぐに左折し水路単独の路地を抜けます。

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    2. この区間の水路は通りの右手を並行していました。今でも右手のほうが低くなっています。

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    3. 右折します。道路右手の幅が変わっていて、水路のあったことが分かります。  

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    4. 水路単独の路地が60mほど続き中断します。 

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    5. 途中のつながりはよく分かりませんが、向きを東に転じてこの道路から再開します。

新堀

2018-03-23 06:18:11 | 神田川5

 以下は、明治17年(1884年)の「田用水に関する調査」のうち、柏木村関係の「取調表」の抜粋です。「用水の名称神田上水ヨリ分水。水源神奈川県北多摩郡吉祥寺村井ノ頭池。川幅六尺。川延長六百五十間。水掛反別十四町八反弐畝十四歩。配水方法草堰五間。水路管理方毎年五月ヨリ九月迄田方仕付中、田持惣代ヨリ府庁水道掛江願之上神田上水村内字姿江草堰ヲ以テ水引入候事」 この用水堀は江戸末に新たに開削されたことから、新堀と通称されていたものです。なお、引用文中の草堰は、棒杭に草や竹などを絡ませた堰のことで、灌漑時期が終わると撤去され、また洪水時には簡単に壊れる構造になっていました。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)  

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    ・ 「陸地測量部発行の1/10000地形図(明治42年測図) / 中野」  上掲地図と同一場所、同一縮尺です。

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    1. 改修以前の蛇行していた本流から分岐していましたが、その区間の痕跡はありません。 

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    2. (当時はありませんでしたが)栄橋の右岸で、淀橋水車の余水とクロスします。 

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    3. ほぼ直線で北東に向かいます。この水路が淀橋町の字(淀橋)姿と字新堀を分けていました。

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    4. 左カーブで北に向きを転じます。ここで右手から合流していた小水路は次回のテーマです。

淀橋水車2

2018-03-22 06:55:44 | 神田川5

 以下は「御府内備考」に記載された淀橋水車の仕様です。「水車場所之儀者往還より三拾間余引込 此建家間口拾一間奥行五間三尺 水車差渡し一丈六尺巾弐尺八寸 米麦舂臼西之方十東之方十二 石挽臼西之方一ツ東之方一ツ 右弐ツ共やつこふるひ付置申候」 「往還」すなわち青梅街道から「三拾間余」(≒55m)ほどのところに設けられ、水車の直径は4.8m、幅85cmというところでしょうか。

 

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    ・ 「江戸名所図会 / 淀橋水車」(部分)  水車小屋に向かう水路がチラッと見えますが、その延長上の青梅街道に橋は描かれていません。

 

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    ・ 水車堀跡  青梅街道を越えた先です。前回UPの→ 「明治42年測図」には、このあたりの右手に水車マークが描かれていて、「御府内備考」の「三拾間余」と付合します。

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    ・ 水車堀跡  左手からの田用水とクロスしたあと、さらに百数十メートル先で余水を本流に戻していました。左手に見えるのは淀橋の次の栄橋で、神田川を直線化した際の架橋です。
 

 この淀橋水車ですが、幕末の一時期、折からの黒船来襲にあわてた幕府の命により、火薬製造を請け負います。近隣の水車場での爆発が相次ぎ、不安になった住民から立ち退きの請願もなされましたが、何の対策もなく迎えた嘉永7年(1854年)6月11日、淀橋水車も大爆発を起こし、炎上してしまいます。「火薬爆発の跡を検せしに、方十五間位の間深さ一丈二三尺掘れて水湧き、恰も水潴(すいちょ 水溜)の如くになり居たり」(「豊多摩郡誌」) その後再建され、浅田家所有となった淀橋水車は、明治に入り、同一族を中心とした中野の食品加工業、醸造業の隆盛に大いに貢献しますが、昭和11年(1936年)までには営業を止めました。

 


淀橋水車

2018-03-20 06:48:15 | 神田川5

 神田上水助水堀は青梅街道手前で二流に分かれ、すぐに神田川に向かうものと、青梅街道を越えるものとがありました。後者は青梅街道を暗渠で越え、淀橋水車の用水となっていました。「上水記」添付の「神田上水絵図」は、青梅街道を越えるところに「埋樋」、越えた先に「水車持 久兵衛」と書き込みをしています。また、「江戸名所図会」の→ 「淀橋水車」には、水車に向かって用水堀と思われる溝が描かれていますが、その延長上の青梅街道に橋はなく、「上水記」の記述と一致します。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    ・ 「陸地測量部発行の1/10000地形図(明治42年測図) / 中野」  上掲地図と同一場所、同一縮尺です。

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    1. よどばし児童遊園から始めます。分岐の跡を留める三角形の小公園で、左手は助水堀です。 
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    2. 水路の痕跡があるわけではなく、「地形図」から見てこのあたりかな程度なので、いつもの青点線は書き込んでいません。 

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    3. 淀橋近くまで回り込んだ後、青梅街道を越えます。

 <水車の成立年代>  「淀橋水車 古来玉川上水より神田上水え助水之樋口にて、水車起立候儀と(の関係は)相分兼候得共、享保年中より御小休に相成候由に付、其節より分水請候由」(「上水記」) これに対し、「御府内備考」の「丁亥書上」(文政10年 1827年)では、寛文年間に助水堀開削、その後水車稼働、享保17年(1732年)以降歴代将軍御成、さらに、「水車起立書」(嘉永5年 1852年)は、寛文7年(1667年)助水堀開削、延宝2年(1674年)水車稼働、享保17年以降歴代将軍御成と、文献の年代が下るに従い記述が具体的になっていて、逆にその信憑性には疑問符が付きますが、いずれにしても寛文以降享保以前ということです。

 


柏木村用水

2018-03-19 06:18:03 | 神田川5

 柏木村にかかわる用水は二本で、一つは代々木村地先で玉川上水から分かれ、淀橋水車を回した後、神田上水の助水となっていたもの、もう一つは淀橋の北で神田上水から分岐し、柏木村の田用水となっていたものです。前者に関し「上水記」は、「豊島郡柏木村淀橋水車 樋口代々木村地先より角筈村え 水口壱尺三寸四方(朱書きで三尺五寸ニ弐尺五寸) 淀橋町水車久兵衛方迄樋口より七百六拾間余 夫より神田上水助水ニ相成候」、と書いています。一方、前回引用した「新編武蔵風土記稿」の記述「用水は神田上水を引沃く」は、後者の田用水に関してのものです。

 

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    ・ 「柏木村絵図」  「地図で見る新宿区の移り変わり-淀橋・大久保編-」(昭和59年 新宿区教育委員会)に収録された成立年代不詳の「柏木村同成子町同淀橋町絵図」をもとに、イラスト化したものです。例によって田用水を強調しています。 

 水車用水の余水と田用水の関係については、→ 「東京近傍図」の左下で、両者はクロスしているように見えます。明治42年以降の「地形図」も同様で、余水路が下、分水路が上の立体交差になっています。こうした細部の異同を除けば、大枠はすべて一致していて、特に田用水が淀橋北で分岐してから小滝橋の南で本流に戻るまで、その流路はすべての地図類に共通です。なお、柏木村の水田は「東京府志料」の数字で11町5反22歩、そのすべてがこの田用水に依存していました。

 

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    ・ 淀橋  淀橋水車があったのはこの右岸で、建物一つ、ないし二つ分奥あたりと思われます。また、正面に見える橋は栄橋ですが、その手前から田用水が分岐していました。 

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    ・ 小滝橋  上流方向を振り返っての撮影です。右岸(左手)に建つマンションあたりが、「村絵図」に描かれた田用水の合流地点とおもわれます。 

柏木村

2018-03-17 06:59:27 | 神田川5

 「柏木村は、村内円照寺境内桜は長元年中(1028~37年)柏木右衛門佐頼季と云者植し由方々この村名を負へりなと土人の伝へり、円照寺桜樹の條見るへし、『小田原役帳』に本住坊寺領十二貫文、柏木、角筈共と載せ、村民杢衛門か蔵せる北條氏より出せし文書にも柏木角筈と記たり・・・・昔は二村を合て一村の如く処せしと見ゆ、東は百人組同心組屋敷、西北は神田上水堀を隔て多摩郡中野村、南は当郡角筈村にて、東西四町、南北十町余、用水は神田上水を引沃く、村の南に青梅道かゝれり、幅五間、・・・・又村内町並となりし地段別六町六段五畝、延享二年、町奉行支配に属し、成子町淀橋町と唱ふ」(「新編武蔵風土記稿」)

 

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    ・ 「東京近傍図 / 板橋駅」(参謀本部測量局 明治14年測量)及び「同 / 内藤新宿」を合成、その一部を加工したもので、本来の縮尺は1/20000、パソコン上では1/12000ほどです。オレンジ線は区境、同細線は淀橋町当時の町、大字境です。

 明治22年(1889年)、柏木村は角筈村とともに南豊島郡(のち豊多摩郡)淀橋町を形成、その大字となりました。昭和7年(1932年)には東京市の拡大に伴い、淀橋、大久保、戸塚、落合の四町が合併、淀橋区となった際には柏木1~5丁目となり、同22年の新宿区の発足以降もそのままでしたが、新住居表示によって西新宿7、8丁目、北新宿1~4丁目となり、行政区画から柏木の名前は失われてしまいました。なお、明治39年(1906年)開業のJR東中野駅は、当時は柏木駅と名乗っていました。それが、隣接しているとはいえ中野町にあったため、大正6年(1917年)に東中野駅に改称、現在に至っています。

 

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    ・ 鎧神社  「鎧明神社 村の鎮守なり、平将門滅亡の後其鎧を祭りしと云、或は秀郷着領の鎧を祭りしとも云伝ふ、円照寺持」(「新編武蔵風土記稿」)

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    ・ 円照寺  「新義真言宗、田端村与楽寺末、医光山瑠璃光院と号す、・・・・開山開基等すへて古きことを伝へす、春日局施主となりて再建すと云ふ」(「新編武蔵風土記稿」) 

助水堀樋口

2018-03-16 06:32:33 | 神田川4

 神田上水助水堀をさかのぼって甲州街道を越ると、ワンブロック、50mほどで代々木村地先の樋口です。「上水記」によると樋口の規模は、「水口壱尺三寸四方」とあり、朱書きで「三尺五寸ニ弐尺五寸」と訂正されています。断面積で5倍ほどに拡張されたようで、これだと分水中最大規模の野火止用水の半分ですが、二番目の三田用水にほぼ匹敵、千川用水を上回っています。今回はこの甲州街道から分水口までの、わづかに痕跡の残る区間ですが、玉川上水側からたどります。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)  

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    ・ 「陸地測量部発行の1/10000地形図(明治42年測図) / 中野」  上掲地図と同一場所、同一縮尺です。

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    1. 玉川上水が山手通りを越えた先が分水口です。なお、この区間の玉川上水地下は京王線が利用しています。

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    2. 左手にフェンスで囲まれた区画があり、その中には鉄板を敷いた細長い空間が残されています。 

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    3. 甲州街道を越えます。ここに「字新町石橋」(「甲州道中分間延絵図」)あるいは「代々木橋」(「豊多摩郡誌」)が架かっていました。

 <銀世界>  上掲「明治42年測図」の甲州街道の先に、「銀世界」と記されています。幕末から明治にかけて、城西一と称される梅園が営業しており、銀世界あるいは梅屋敷と呼ばれていました。明治44年(1911年)に東京瓦斯が買収、ガスタンクの用地となりましたが、梅林は芝公園に移され現在に至っています。そのガスタンクも撤去され、跡地にはパークタワーが建っています。その一角に祀られた→ 銀世界稲荷が、当時の唯一の名残となっています。なお、前回UPの→ 「米軍撮影空中写真」には助水堀の傍らにガスタンクが一基写っていますが、その後隣接してもう一基増設されました。

 


淀橋浄水場

2018-03-15 06:31:18 | 神田川4

 淀橋浄水場の建設の第一歩は明治25年(1892年)、「多摩川誌」(昭和61年 多摩川誌編集委員会)の記述によると、まず淀橋事務所の盛土に着手、次いで「新水路余水吐築造工事にとりかかった」とあり、これは助水堀を余水吐きに転用する工事のことかもしれません。翌26年に起工式が行われ、31年にほぼ完成、神田、日本橋方面への給水が開始されます。給水地域は順次拡大され、明治32年(1899年)には落成式が挙行されます。(東京水道歴史館前に展示されている起工式のタイル画は→ こちらでどうぞ。当日は上野駅、新橋駅から特別列車が仕立てられ、来賓は三千人を越えたそうです。) なお、浄水場の給水能力は、当初予定では一日600万立方尺(4立方尺×150万人)、その後、明治末までに、給水人口200万人、一日の給水能力800万立方尺に増加しました。

 

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    ・ 「昭和22年米軍撮影の空中写真」   青梅街道、十二社通り、水道道路、甲州街道の各道路、そして神田川と玉川上水の位置関係は現在と同じです。

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    ・ 淀橋浄水場跡  昭和40年(1965年)、新宿副都心計画の具体化に伴い、淀橋浄水場は廃止され、水の橋下に→ 給水所が残るだけです。なお、淀橋浄水場の機能は東村山浄水場に引き継がれました。

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    ・ 角筈区民センター前交差点  玉川上水新水路跡の道路(水道道路)と十二社通りの交差点です。奥は新宿副都心の高層ビル群、左手は東京都庁舎で、助水堀は50mほど先を横切っていました。 

 <玉川上水新水路>  浄水場建設に当たり当初検討された案では、玉川上水の旧水路をそのまま使い、浄水場もそのルート上にある新宿駅の南西、千駄ヶ谷村に建設する予定でした。それを変更したのは、直線的に送水することで確保される落差(位置エネルギー)を利用し、市中への配水に要する機械力を節約しようとしたためです。結局、現在の和泉給水所付近から玉川上水を分水し、最大で6mほどの築堤上を淀橋浄水場まで、総延長4.3kmのほぼ直線の水路で送ることになりました。これが玉川上水新水路で、幅20尺深さ8尺、毎秒約160立方尺を流すことのできるコンクリート張りの開渠でした。

 


熊野神社

2018-03-14 06:29:55 | 神田川4

 神田上水助水堀は熊野神社の東縁を流れ、境内の北東端で滝となって落ちていました。それが、明治25年(1892年)着工の淀橋浄水場建設の際、神社東縁の区画が埋め立てられ、南北に二分されることになります。以下は前回引用の「豊多摩郡誌」の続きです。「現今は浄水場の排水、此の川の南方に入りしを地下に引きて、一は現時の十二社の瀧となり、一は旧玉川上水の廃流に入る、北方の排水は此の助水堀に入りて水車に利用せられ、後神田上水堀に注ぐ。」(→ 「東京近傍図」では描かれている神社脇の水路が、→ 「明治42年測図」で欠落しているのはそのためです。)

 

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    ・ 「江戸名所図会 / 角筈村熊野十二所権現社」  「世人誤て十二そうといふ 多景にして遊観多し」 

 上の溜井から社殿のある東の台上を見ています。左端は上下の溜井を隔てる堤で、中之島のようになって弁天社が祀られていました。そこから坂を上ると社殿前に出ます。社殿奥の松並木が境内の東縁なので、その裏側を助水堀が流れていたことになります。なお、「世人誤て十二そうといふ」ですが、熊野から十二の神々を勧請した際、一社に祀るいわゆる(十二)相殿としたことから、「社」を「そう」と読み、「相・双・層・叢・荘」などの漢字をあてたとの説もあります。

 

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    ・ 熊野神社  写真奥は境内の北東隅にあたり、稲荷神社が祀られている一角です。助水堀はさらにその奥を流れ、大滝となって落ちていました。 

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    ・ 新宿中央公園ビオトープ  熊野神社境内と連続する細長い区画で、助水堀もこのあたりを流れ、上掲写真裏へと向かっていたものと思われます。