神田川 「まる歩き」 しちゃいます!!

ー神田川水系、支流はもちろん、旧水路、廃水路、全部 「まる歩き」ー

上高井戸右岸

2017-10-31 06:37:45 | 神田川2

 久我山村境の紺屋堰で分岐、右岸段丘に沿っていた用水は、錦橋とやなぎ橋の間で本流に戻っていました。→ 「段彩陰影図」からも読み取れるように、右岸段丘が迫ってきて流路を失ったためです。ただ、すぐに段丘が後退し始めるため、100mもたたないところに堰が設けられ、右岸に再分流していました。この分流は途中、本流からの助水を得ながら下高井戸村へと至ります。だいぶ長いものなので、とりあえず村境までを数回に分けて扱う予定です。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。) 

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    ・ 「昭和22年米軍撮影の空中写真」  上掲地図のグレー枠の部分です。同一個所に同一番号を振っています。

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  • 1. やなぎ橋の右岸に半月状のスペースがあります。段丘沿いに蛇行する本流の跡で、そこから右岸に分岐していました。 
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  • 2. この幅広の道路は昭和30年代中ごろ、左手に見える都営アパート造成時に出来たもので、その際水路は埋め立てられました。 
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  • 3. 右カーブで環八通りを越えます。正面奥のビルの隙間へと連続します。 
  •  <山中堰>  この分流をもたらした堰は山中堰と呼ばれていました。「杉並の通称地名」(平成4年 杉並区教育委員会)に収録され、「昭和30年ごろまで呼んだ。神田川の用水堰があって沿岸水田に灌漑用水を引いた取入口である」と書かれています。また、近くに農業用の橋がかかり、山中橋と呼ばれていました。同書には書かれていませんが、山中は「新編武蔵風土記稿」に「村の中程を云」と書かれた小名で、「杉並近世絵図」(平成5年 杉並区教育委員会)に収録された→ 「上高井戸村絵図」でも、上流の字鍛冶屋敷と下流の字築田の間の水田に「字山中」と書き込みがあります。

     


    佃橋

    2017-10-30 06:30:51 | 神田川2

     高井戸駅前を通る環八通りに架かるのが佃橋です。→ 「上高井戸村絵図」→ 「東京近傍図」にも、環八の元となった上高井戸村を南北に縦断する道に橋が架っています。「東京府志料」が「石橋 上高井戸村ニアリ佃橋長一間二尺幅五尺」と書き、「豊多摩郡誌」もまた同じ橋名で、「構造石造延長二間幅員一間」としています。なお「新編武蔵風土記稿」の中に、「村内神田上水に架したる板橋、古より村入用にて普請しける処、貧窮の百姓これが費をいとひ、(内藤)庄右衛門一己にて石橋に造り替えたり」との一文があります。この石橋も佃橋のことと思われます。

     

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      ・ 神田川  高井戸駅前に至るやなぎ橋からあずま橋にかけてのショットです。どちらの橋も昭和30年代中ごろ、都営アパート造成時に架けられた新しい橋です。 

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      ・ 佃橋  昭和の初めに甲州街道荻窪間が整備されバスが運行、橋も鉄筋コンクリート橋となります。その新道をもとに環八通りが完成したのは、昭和4、50年代です。 

     橋名の由来となったのは、「新編武蔵風土記稿」が「築田 村の中程にあり」とする小名で、「上高井戸村絵図」にも橋近くに「字築田」と書き込みがあります。明治に入り高井戸村大字上高井戸の小字として佃の表記が採用されました。なお、「上水記」収録の「玉川上水絵図」に玉川上水に架かる橋として佃橋が登場、「東京府志料」では二つの佃橋が併存しますが、「豊多摩郡誌」では多摩川上水の方は現行と同じ、中の橋になっています。 

     

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      ・ 玉川上水余水  多摩川上流水再生センターから流れてきた水は、暗渠となる→ 浅間橋以降お役御免となり、その余水が佃橋下で放流されています。 

    左岸の用水5

    2017-10-28 06:25:32 | 神田川2

     左岸の田用水を追っての五回目です。高井戸駅の北側で環八通りを越えたあと、杉並清掃工場の敷地を弧を描いて横断しますが、その間の痕跡は失われているため、いつもの青点線は書き込んでいません。再開するのはその反対側にある道路からで、すぐに右カーブで南に向きを転じ、井の頭線に突き当たって中断します。井の頭線の南側に戻ったところで、池袋橋から分岐してきた用水と合流、そこまでで左岸の用水の一区切りとします。

     

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      ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によって前後をつないでいるところもあります。) 

    Sagans22

      ・ 「昭和22年米軍撮影の空中写真」  上掲地図のグレー枠の部分です。同一個所に同一番号を振っています。

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      1. 清掃工場の東側にあるこの道路から、道路と水路跡が一致します。 

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      2. 右カーブで南に向きを転じます。左手はゴルフ練習場です。 

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      3. 井の頭線に突き当たって中断します。右写真は左手からのもので、段丘の際にあるのが分かります。

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      4. 区立こども発展センターの東南角で再開、すぐに右手からの用水と合流します。

    左岸の用水4

    2017-10-27 06:02:08 | 神田川2

     左岸の田用水を追っての四回目です。高井戸駅の北側で環八通りを越えますが、その先は杉並清掃工場の敷地です。高井戸田圃の一部、およそ4.3ヘクタールが清掃工場の予定地となったのは昭和41年(1966年)、地元の反対やそれまで杉並区のごみ処理を引き受けてきた江東区の引き受け拒否など、紆余曲折を経たのち53年着工、57年完成しました。昭和30年代中ごろには宅地造成され、その大半は都営アパートの敷地となった高井戸田圃の西側に対し、東側が昭和40年代まで手つかずで残ったのは、一帯が戦後制定された特別都市計画法によって、建蔽率一割という緑地地域に指定されていたためです。

     

    Sagan4

      ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によって前後をつないでいるところもあります。) 

    Sagans4

      ・ 「陸地測量部発行の1/10000地形図(昭和4年測図) / 上高井戸」  上掲地図と同一場所、同一縮尺です。(左岸段丘上の針葉樹林にも注目で、高井戸産の杉材は「高井戸丸太」というブランドものでした。)

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      1. 高井戸小前で道路がクランクしています。道路の右側を並行していた水路は、そのまま直進して左側にシフトします。 

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      2. 高井戸駅の北側で環八通りを越えます。その先で杉並清掃工場の敷地にかかるため、水路の痕跡は失われます。 

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      3. 清掃工場と接する区民センターのあたりを、北に向かって孤を描いていました。 

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      4. 清掃工場の北側の道路です。このあたりで孤の頂点にさしかかり、右カーブで再び清掃工場の敷地に戻っていました。 

    左岸の用水3

    2017-10-26 06:59:00 | 神田川2

     上高井戸の田圃を灌漑していた用水のうち、左岸段丘沿いを流れる水路を追っての三回目で、前回の最後に合流のあった高井戸児童館前から再開です。左手からの合流を得た後、右折して向きを東に転じ、児童館の敷地を半周します。その後は車止め、カラーブロックの遊歩道を、正面に杉並清掃工場の煙突を見ながら進みます。途中、高井戸小学校の下では一般の道路の一部となります。

     

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      ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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      1. 左手からの合流を得たのち右折、児童館と隣接する公園に沿って東に向かいます。 

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      2. 公園を離れるあたりから、正面に清掃工場の煙突が見えてきました。

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      3. これまで右手に見ていた高井戸西2アパートの敷地から離れます。 

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      4. 車止め、カラーブロックはなおも続きます。煙突が徐々に大きくなっています。

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      5. 水路単独はここまでです。正面の台上は高井戸小学校で、明治24年(1891年)当地で開校しました。

    左岸の用水2

    2017-10-25 06:14:26 | 神田川2

     高砂橋の左岸で分岐したカラーブロックを追っています。都営高井戸西一アパートの外周を巡り、井の頭線の線路に突き当たって中断します。その先で車止め、カラーブロックは再開するので、踏切まで迂回しなければなりませんが、迷うことはありません。井の頭線を越えた高井戸児童館の先で左手からの合流があります。→ 「段彩陰影図」からも読み取れる、富士見ヶ丘駅北側の谷筋にかかわるものですが、水路自体はワンブロックで終了してしまいます。なお、谷筋の先端にあたる高井戸西2-13付近は、谷戸と呼ばれていたと「杉並の通称地名」(平成4年 杉並区教育委員会)は書いています。

     

    Sagan2

      ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。) 

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      1. 井の頭線を越えた先で、高井戸西二アパートの西縁を北上します。 

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      2. 高井戸児童館に突き当たって左折、その敷地を迂回します。 

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      3. 右折の先の左手に、通りを隔てて車止めが顔をのぞかせています。

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      4. カラーブロック、車止めの路地をさかのぼります。

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      5. 100m弱で終了です。なお、この区画が→ 「村絵図」にある上高井戸村の飛地でした。

    左岸の用水

    2017-10-24 06:22:57 | 神田川2

     富士見ヶ丘駅前に架かる月見橋まで戻り、百間堰で分岐していた左岸の田用水を追います。こちらは前回までの右岸の用水と違って、「昭和4年測図」以降に描かれ、車止め、カラーブロック、段差など顕著な痕跡も残しています。そのため、杉並清掃工場の用地となった区画を除き、最後まで迷うことなくたどることができます。ただ、→ 「昭和22年空中写真」に見るように、高砂橋までの直線コースは現在の流路と重なるため、痕跡は高砂橋の左岸から始まり、あたかもそこで分岐しているような印象です。

     

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      ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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      1. 高砂橋左岸の遊歩道からカラーブロックが分岐します。すぐに富士見ヶ丘駅からの左岸流と合流していたはずですが、痕跡はありません。 

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      2. 左カーブで北寄りに向きを変え、都営高井戸西一アパートの外周道路の外側をめぐります。

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      3. 都営アパートの外周から離れ、井の頭線に突き当たって中断します。 

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      4. その延長上にある車止め付きのカラーブロックの路地です。右手も都営アパート(高井戸西二アパート)です。 

     <高砂橋>  → 「上高井戸村絵図」にも村境に描かれており、「東京府志料」では「鍛冶屋敷橋」(「長三間幅四尺」の板橋)、「豊多摩郡誌」も同じ橋名で、「構造木造 延長三間 幅員一間」となっています。鍛冶屋敷は「新編武蔵風土記稿」に「西よりにあり」と書かれた小名で、高井戸村大字上高井戸の小字として、屋敷、屋敷下に引き継がれます。屋敷は村境の丸く囲われた飛地の区画、屋敷下はその南の田圃のところです。また、隣接する大字久我山の小字として、鍛冶屋敷がそのまま使われています。文字通りには鍛冶を業とするものの屋敷があったことになりますが、そのような伝承は不詳です。あるいは、飛地となった理由とかかわるのかもしれません。なお、昭和初期の地図では現行の高砂橋となっています。 

     


    右岸の用水3

    2017-10-23 06:49:38 | 神田川2

     紺屋堰から右岸に分岐していた用水の続きで、浴風会前を離れ、左折して本流に戻ります。→ 「段彩陰影図」を見ると、高井戸駅の南西で神田川は右岸段丘と接し、右岸流の流れる余地がなくなっていますが、この区間で本流に戻っていたわけです。なお、「杉並の川と橋」(平成21年 杉並区郷土博物館)はやや上流にある錦橋について、「都は住宅団地建設に先駆けて浴風園北の台地に、一戸建用の文化住宅地を造成し『錦が丘団地』と名付けた。その団地専用とも言うべき橋が錦橋である」と書いています。昭和30年代の宅地造成によって、高井戸田圃が消滅した当時の話です。

     

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      ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)  

    Ugans22

      ・ 「昭和22年米軍撮影の空中写真」  上掲地図のグレー枠の部分です。同一個所に同一番号を振っています。団地造営後の「昭和38年空中写真」は→ こちらです。

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      1. 本部前を過ぎますが、右手の段丘上は引き続き浴風会の敷地です。 

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      2. 相変わらず段丘の際を左右に蛇行しています。左手奥に清掃工場の煙突が見えてきました。

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      3. 通りは上り坂に差し掛かりますが、その手前で左カーブして本流に向かっていました。ただ、ここからは重なる道路はありません。

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      4. 錦橋から下流方向です。左カーブ付近で右岸段丘と接しており、その辺りで本流に戻っていました。  

    右岸の用水2

    2017-10-21 06:38:04 | 神田川2

     久我山村との境に設けられた紺屋堰から分岐し、右岸の水田を灌漑していた用水を追っています。月見橋に向かう通りを越え、高砂橋を通る道路から左折で離れると、浴風会前の幅広の通りに出ます。この通りの北側まで水田が広がり、その際を用水が流れていたはずですが、昭和30年代中ごろの宅地造成の際、水田もろとも失われてしましました。なお、老人福祉施設のはしりともいえる浴風会は、関東大震災の下賜金、義捐金を原資に昭和2年(1927年)に開設、当時は内務大臣が会長を務める財団法人でした。民間の社会福祉法人となったのは戦後のことで、のち医療部門が独立して浴風会病院となっています。

     

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      ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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      1. 月見橋を通る道路を越えた先です。右手は引き続き右岸段丘の崖面になっています。 

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      2. 段丘の際を左右に蛇行しながら東から南寄りに向きを変えます。

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      3. 高砂橋を通る道路と合流していったんは南下、すぐに左折して幅広の道路に出ます。 

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      4. 「杉並の通称地名」によると、この付近の右手は清水山と呼ばれていました。段丘下に湧水があったようです。 

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      5. 浴風会本部前です。東大安田講堂と似たような雰囲気ですが、同じ設計者の手になるものです。 

    右岸の用水

    2017-10-20 06:19:49 | 神田川2

     高井戸田圃の灌漑も久我山の場合と同様、神田川本流の随所に堰を設け、左右の段丘沿いに用水を振り分けるというものでした。そのうち、久我山村との境にあった紺屋堰で右岸に分岐、浴風園前を東に向かっていた用水から扱います。なお、タウン誌「くがやま」(復刊4号 昭和56年)掲載の「戦前の久我山」(秦暢三)には、「井之頭線富士見が丘車庫南には紺屋堰があり、此の附近一帯の崖下は夏になると、山百合、リンドウ、ホタル草、カンゾウ、カタクリの花等が咲き乱れ、あたかも原生花園の様でした」との一文があり、堰の名前の由来は付近に染物屋があったためのようです。

     

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      ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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      1. 富士見ヶ丘検車区前の神田川です。右岸段丘が迫るこのあたりに紺屋堰はあったものと思われます。 

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      2. 富士見ヶ丘検車区から出た道路が無名橋を越えるあたりから、道路と水路跡が一致します。

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      3. 左折して東寄りに向きを転じ、右岸段丘に沿います。 

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      4. 右手の段丘上には都営富士見ヶ丘アパートや、富士見ヶ丘児童遊園があります。 

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      5. 月見橋を通る道路を越えます。現行の住居表示では、この道路が久我山と高井戸を分けています。 

    富士見ヶ丘駅前

    2017-10-19 06:28:32 | 神田川2

     富士見ヶ丘駅前に架かるのが月見橋です。→ 「東京近傍図」などにはなく、昭和初期の地図に通りともども初めて登場しますが、富士見ヶ駅ができる以前なので、駅の開設に合わせて橋を架けたという事情ではないようです。それはともかく、この橋の右岸から始まり次に架かる高砂橋まで、駐輪場となっているクネッたスペースがあります。百間堰で左岸流を分岐した後の本流の流路だったものが、昭和40年代から50年代にかけての改修によって切り取られたところです。

     

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      ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)  

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      ・ 「昭和22年米軍撮影の空中写真」  上掲地図のグレー枠の部分です。同一個所に同一番号を振っています。

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      1. 富士見が駅前に架かる月見橋の南詰から、車止め付きの路地が分岐しています。 

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      2. 駅前の水路跡にありがちですが、今は駐輪場として利用されています。

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      3. かっての流路そのままに蛇行しており、ここは右カーブ、次いで左カーブと連続します。

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      4. 駐輪場は高砂橋の南までですが、その先→ むつみ橋緑地も元の流路を利用しています。 

    上高井戸村用水

    2017-10-18 06:58:30 | 神田川2

     「井ノ頭上水 西北の方久ヶ山村より入、下高井戸宿に達す、水路堀幅多摩川上水に同じ」(「新編武蔵風土記稿」) 多摩川上水に関しては「村内を流るゝこと廿一町許、堀幅三間」となっています。下掲「村絵図」に見るように、上高井戸村の田圃は神田川流域に限られていました。久我山村と同様、本流(大川)の左右に用水(小川)が並行し、その幅は100~200m、延長は「風土記稿」に「廿一町許」とありますが、おおよそ2km、面積は「東京府志料」の数字で二十一町七反余でした。ちなみに畑は百七十八町以上なので、久我山村と同様「陸田多くて水田少し」です。

     

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      ・ 「上高井戸村絵図」  「杉並近世絵図」(平成5年 杉並区教育委員会)に収録された「上高井戸村絵図」を元にしています。なお、元図は現人見街道以北が一部欠落しています。

     「村絵図」には描かれていませんが、上高井戸村にもいくつかの堰が設けられ、左右に田用水を分岐していました。現在確認できるのは、上流から紺屋堰、百閒堰、山中堰、弥左衛門堰(池袋堰)の四つです。うち、久我山村境の現高砂橋手前にあった百間堰は、→ 「久我山村絵図」の右端に描かれています。「途中、富士見ヶ丘駅の百メートル程、南の月見橋のところに百間堰(しゃくけんぜき)があった。川の中に杭を打ち土俵を積んで本流の流れを一部せき止めて、両側の田圃へ分水するためのもので実際には八メートル位の堰だったが、堰上は天然のプールで当時の子供達の水遊び場であった。」(「高井戸の今昔と東京ゴミ戦争」 平成17年 内藤祐作)

     

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      ・ 神田川  富士見ヶ丘駅前に架かる月見橋から下流方向で、奥に高砂橋がチラッと見えています。昭和に入ってからの架橋の月見橋ですが、百閒堰が設けられていたのはその手前です。

     「高井戸の今昔と東京ゴミ戦争」には、昭和初期と思われる高井戸の田圃の記述もあります。「この神田川を挟んで幅の広いところでは、200メートル程の田圃が上流の三鷹から下高井戸方面へと続いていた。・・・・高井戸田圃は米作地帯のような水田ではなく、田圃の土は黒色で浅い所で三十センチ、深い所で五十センチ以上もあって、その作業は大変な重労働であった。専業農家の一戸当たり平均して一反歩足らず、しかも反収五、六俵であった。」 高井戸田圃は第二次大戦後も耕作されていましたが、生活排水による用水の汚染や、昭和27年(1952年)の台風被害もあり、同35年に完成した750世帯入居の都営アパートや、41年計画発表、57年完成の清掃工場の用地となるなどしてその役目を終えました。

     


    上高井戸村

    2017-10-17 06:44:58 | 神田川2

     「上高井戸宿は、郡の東寄りにあり、下高井戸宿の西に隣れり、・・・・村の広さ東西へは十八町余、南北十四町半に過す、民家二百軒、北の方に散在す、当村平地にして北の方へ広く、陸田多くて水田少し、土性は野土なり、江戸日本橋まで行程四里、・・・・『北条分限帳』に大橋廿貫文無連高井堂とあり、無連は今云無礼村にして高井堂は当村のことなるべし、・・・・上下高井戸宿は甲州道中の宿駅にして、毎月上の十五日は下高井戸宿に継立るなり、其行程内藤新宿へ二里、・・・・下の十五日は上高井戸宿に継立るなり、其行程は内藤新宿へ二里十三町、・・・・」(「新編武蔵風土記稿」)

     

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      ・ 「東京近傍図 / 布田驛」(参謀本部測量局 明治13年測量)及び「同 / 内藤新宿」を合成、その一部を加工したもので、本来の縮尺は1/20000、パソコン上では1/12000ほどです。オレンジ線は区境、同細線は高井戸村当時の村、大字境です。 

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      ・ 第六天神社  上高井戸村の鎮守で、(中央自動車道下の)玉川上水に面しています。「第六天社 除地、一段ニ畝廿二歩、村の北の方にあり、・・・・」(「新編武蔵風土記稿」) 

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      ・ 鎌倉橋  上下高井戸村の境に架かる橋で、「近傍図」の右下隅に描かれています。下に引用する「武蔵名勝図会」にもあるように、江戸時代からそう呼ばれていました。 

     <高井戸の地名由来>  文政6年(1823年)完成の「武蔵名勝図会」は、文字通りの「高い所の井戸」と解する伝承を載せています。「村内小名堂の下というところにあり。古この辺に辻堂あり。鎌倉街道ゆえ、鎌倉橋という辺へ出る。ここは僅かなる丘地にして、辻堂の傍に清泉ありければ、盛暑のころ旅人必ずこの水を汲みて呑みしより、小高き地の冷泉なるを以て、衆人呼びて高井戸と称せし起こりなりと云。・・・・『廻国雑記』の『堀兼の井、見にまかりて』という詞書のすえに『今は高井戸といふ』と書き給いしは何ゆえにや。考うるところなり」 最後の「廻国雑記」(道興准后 文明19年 1487年頃)については、「新編武蔵風土記稿」も引用していますが、「此高井戸を云へることともおもはれねど、同じ名にしあれば因にこゝに出せり」と、否定的な但し書き付きです。(他の説については、下高井戸村のところで扱います。)

     


    上高井戸村境

    2017-10-16 06:58:43 | 神田川1

     → 「久我山村絵図」を見ると、二番目に架かる現久我山橋の先で右岸流が本流に戻りますが、そこから三番目の現高砂橋まで、神田川本流が久我山、上高井戸村の境となっていました。下掲「段彩陰影図」に見るように、この区間の本流は右岸段丘に沿っているので、神田川流域の田圃は久我山、段丘上の雑木林は上高井戸に属していたことになります。現在は各々京王線の検車区、企業のグランド等となっているところです。この事情は明治に入り、同じ高井戸村の二つの大字の境にも引き継がれましたが、現在は富士見ヶ丘駅前に架かる月見橋までが久我山(1~5丁目)、それ以降が高井戸西(1~3丁目)と、分かりやすく二分されました。

     

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      ・ 「段彩陰影図 / 神田川2」(1/18000)  オレンジ線は杉並区と世田谷区の区境です。なお、これまで右岸の尾根筋を並行してきた玉川上水は、暗渠となって中央自動車道の下にもぐります。

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      ・ 神田川  久我山橋の次に架かる清水橋から下流方向です。右岸の崖面が接近しスペースがないため、遊歩道も途切れます。

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      ・ 富士見ヶ丘検車区  左岸には昭和30年代まで田圃が広がっていましたが、昭和41年(1966年)、京王線富士見ヶ丘検車区が設けられました。 

     <タウン誌「くがやま」>  昭和40年代と50年代に各々数号発行された久我山のタウン誌があります。その「くがやま」の復刊第4号(昭和56年)の中に、「戦前の久我山」(秦暢三)という、この付近の情景を活写した文章が掲載されています。「只今の駅前通りは新道と申しまして、神田川の清流を利用して農家が共同野菜洗場を作り、大八車や牛車等で遠く神田、京橋等の青物市場へ出荷する大根を洗い、村人達は仕事の合間に世間話をする憩いの場所でした。今の寿湯の所は葦の自生地で、南側は高い雑木林、崖下には清水が湧き、たくさんの沢蟹が棲息して居り、悪童達の良い遊び場でした。ここより少し東寄りの所に清水堰があり、その附近一帯の水田は泥沼で田植えが不能の為、肥料の中へ稲種を混合して摘田作業を行ひました。其のため秋の取り入れの際は、自製の大きな板下駄をはき、刈り取った稲束を牛にのせて運びました。」

     


    久我山左岸8

    2017-10-14 06:54:41 | 神田川1

     久我山村の田用水のうち、左岸を流れていたものを追っての最後で、富士見ヶ丘駅前で二流に分かれたうち、さらに下流に向かうほうです。→ 「久我山村絵図」の左岸流は、上高井戸村境を越えており、こちらが本線だと思われます。ただ、富士見ヶ丘駅から上高井戸との境にかけて、宅地造成がいち早く行われたためでしょう、最後のところは痕跡が失われていますが、高砂橋付近で新たに分岐した用水と合流していたものと思われます。

     

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      ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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      ・ 「昭和22年米軍撮影の空中写真」  上掲地図のグレー枠の部分です。同一個所に同一番号を振っています。

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      1. しばらくプラットホームと並行しますが、現在は駐輪場になっています。

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      2. 駐輪場の先で駅の南側にシフト、富士見ヶ丘駅前で月見橋の通りを越えます。

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      3. 2.の右写真の延長上にある黒いシートに覆われた細長い空間です。

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      4. 数十メートル先で行き止まります。なお、周囲は私有地なので、立ち入るのには許可が不可欠です。