神田川 「まる歩き」 しちゃいます!!

ー神田川水系、支流はもちろん、旧水路、廃水路、全部 「まる歩き」ー

将監橋、合流

2014-12-19 07:58:09 | 城西の堀川4

 大門前に戻って、古川との合流地点、将監(しょうげん)橋まで、桜川の最後のウォーク&ウォッチです。「下水 幅弐間 右者町内西境増上寺御溝堀ニ而上之方者愛宕下通大下水俗ニ桜川と唱候末ニ而宇田川横町西境ニ而分水仕芝神明社地後より増上寺表御門前通将監橋際え落入金杉川え相流申候」 「御府内備考」収録の土手跡町の書上で、同町は合流地点に架かる将監橋から一つ下流にある金杉橋まで、金杉川(古川)の左岸に沿う町屋でした。また、同じ土手跡町の書上は、金杉川については「川幅上之方拾壱間下之方拾八間」、将監橋についは「長拾壱間弐尺幅四間高欄高サ三尺」としています。なお、橋名については、→ 「明暦図」当時付近に屋敷を構えていた岡田将監(のちの勘定奉行)が由来で、延宝3年(1675年)の拡幅工事の担当者でもあります。

 

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    ・ 大門前通り  引用文の「増上寺表門前通」です。当時は通りの際まであった増上寺境内との間に、幅2間の大下水(桜川)が流れていました。

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    ・ 大門前通り  将監橋の手前で、高架は古川上に設けられた首都高都心環状線です。合流口は通りの右手にズレたところにあります。

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    ・ 将監橋  現在の橋は昭和43年(1968年)の改架で、その規模は橋長23.4m、幅員17mです。

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    ・ 古川(金杉川)  将監橋から下流方向のショットです。奥に見えるのが、第一京浜(東海道)に架かる金杉橋です。

弁天池、もみじ谷

2014-12-18 07:12:46 | 城西の堀川4

 丸山の舌状台地を回り込むと、ザ・プリンスパークタワー東京の敷地を挟んで、芝公園(17号地)があり、その奥が弁天池です。→ 「1/5000実測図」当時より、池の規模は縮小され、中之島も失われていますが、弁財天は別当だった宝珠院共々健在です。谷頭のもみじ谷は弁天池の先、愛宕通りを越えた芝公園(19号地)内にあります。ところで、このもみじ谷の名前ですが、単に紅葉がきれいといった意味だけではなさそうです。西隣の東京タワーのあるところは、隣接して現存する金地院(こんぢいん)の境内でした。天海と並ぶ家康のブレーン、金地院崇伝ゆかりのお寺です。その金地院が江戸城内から移転した際、城内の紅葉を移植したと伝えられており、こうした経緯が紅葉山、もみじ谷の名前と関わっているのでしょう。

 

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    ・ 「陸地測量部発行の1/10000地形図(明治42年測図) / 三田」  左上隅にある紅葉館に注目です。明治から先の大戦まで存続した、会員制の高級和風倶楽部のことで、地元出身の作家、尾崎紅葉のペンネームも紅葉山に由来し、代表作「金色夜叉」のヒロイン宮のモデルは「紅葉館」の従業員だとか。

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    ・ 弁天池  中之島にあった弁財天(開運出世弁財天)は、池の北側の宝珠院前に移転しています。なお、宝珠院は貞亨2年(1685年)の創建です。 

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    ・ 愛宕通り  通りを挟んで左手がもみじ谷のある芝公園19号地、右手が弁天池のある同17号地で、上掲「地形図」の水路が横切っていたのはこのあたりです。

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    ・ もみじ谷  東京タワーの足元にあります。昭和59年(1984年)に復元した人工の渓谷ですが、弁天池に続く自然の谷筋の先端部にあたります。

増上寺4

2014-12-17 08:10:02 | 城西の堀川4

 増上寺境内の南西角にあって、赤羽方面への出入り口となっていたのが柵(やらい)門です。「山下谷より赤羽へ出る故にまた赤羽門ともよべり」(「江戸名所図会」) 今回追っている水路の水源は、この柵門内にあった蓮池で、その中島には弁財天が祀られていました。「弁財天祠 赤羽門の内蓮池の中島にあり。・・・・宝珠院別当たり。中島を芙蓉州と号(なづ)く。此所門より外は赤羽にして品川への街道なり。」 なお、山下谷は→ 「段彩陰影図」から読み取れる、増上寺南西の谷筋を指すものと思われます。

 

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    ・ 「江戸名所図会 / 増上寺山内 芙蓉洲弁天社」  → 「1/5000実測図」と同様、丸い池の中に中之島があり、弁天堂も描かれています。 

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    ・ 山下谷  古川に架かる赤羽橋からのショットで、正面の赤羽橋交差点に柵門がありました。右手プリンスパークタワーの建つ丸山、左手東京タワーのある紅葉山に挟まれ、山下谷の谷筋は明らかです。

 <赤羽川>  「赤羽川は新堀川とのみも唱ふ又流末金杉の辺に至ては金杉川とも呼べり渋谷川の下流にて麻布十番のへんより東流し金杉を経て海ニ落る古は川巾も狭かりしに寛文七年延宝三年等後の時広められしといふ事芝浜松町四丁目及び飯倉町五丁目書上に載たれば合せみるべし」(「御府内備考」) 寛文7年(1667年)に開始された工事は、翌年の大火で中断され、延宝3年(1675年)に再開、翌年完成しました。失対事業の性格を有し、工事区域を1番から10番まで10区に細分、今に残る麻布十番の名は、これに由来するといわれています。この時はその麻布十番までの拡幅でしたが、元禄11年(1698年)の麻布白金御殿建設に伴う工事によって、四之橋付近までの通船が可能になりました。「御府内備考」は否定的ですが、「東京府志料」はこれ等の工事の結果、拡幅個所を新堀(新堀川)、上流を古川と呼ぶようになったとしています。

 

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    ・ 赤羽橋  旧橋の親柱越しのショットです。「御府内備考」は「延宝三年新川御浚より新に架せらるといふ」と書いていますが、→ 「明暦図」などには、すでに同じ位置に橋が描かれています。

丸山

2014-12-16 09:22:56 | 城西の堀川4

 → 「段彩陰影図」からも読み取れるように、愛宕山から続く台地の南端は、増上寺境内にも及んでいます。本来の標高は16mほどのところ、先端部分に前方後円墳が設けられ、さらに6~7mかさ上げされていて、その形状から丸山と呼ばれており、「江戸名所図会」の→ 其四にあるように、台徳院供養の五重塔が建っていました。ちなみに同塔の建立は承応年間(1652~54年)、時の老中(のち大老)酒井忠清によってで、文化3年(1806年)に落雷で焼失し、同6年に同じ酒井家によって再建されています。「図会」に描かれているのは再建後のものですが、それも昭和20年(1945年)に空襲で炎上し、その遺構は礎石も含めすべて失われました。

 

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    ・ 丸山  前回UPの→ 「1/5000実測図」のように、丸山の南端を水路は回り込んでいましたが、現在の芝公園内の水路はここが起点になっています。

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    ・ 丸山  南端を都心環状線芝公園出口付近からのショットで、奥はプリンスパークタワーです。なお、ここから古川に向かう流れを描いている切絵図もあります。

 <芝丸山古墳>  芝丸山古墳は、傍らに立つ都教育委員会の解説プレートの数字で、全長106m余、前方部前端幅40m、後円部径64m、くびれ部幅22mほどの、都内最大級の前方後円墳です。標高16mほどの舌状台地の先端にあって、狭く低い前方部を南南西に向けており、その形状などから5世紀ころの築造といわれています。明治31年(1998年)に日本の考古学の草分け、坪井正五郎によって調査された時には、すでに埋葬施設は失われていました。なお、「実測図」のほぼ中央にある円形は、後円部のものですが、江戸時代以降手が加えられたようで、墳頂部はフラットになっています。

 

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    ・ 丸山古墳  その後円部です。なお、左手の鳥居は丸山随身稲荷のもので、なぜ随身かというと、桑名から江戸まで増上寺本尊のお供をしたからだそうです。「図会」も五重塔の前に描いています。

増上寺の水路2

2014-12-15 07:17:28 | 城西の堀川4

 増上寺境内を流れる水路には、→ 「明暦図」からも読み取れるように、大きく二系統がありました。このうち、6代将軍家宣(文照院)などの霊廟のある区域と住職の居住区域(方丈)を分け、芝神明社地の北西角で桜川に合流していたものについては触れましたが、今回は安国殿(東照宮)参道を横切り、極楽橋の架かる水路へと連絡していたものがテーマです。こちらも「明暦図」以降付替えが行われ、今日確認できる水源は境内西端にある弁天池で、そこから丸山の舌状台地を東照宮前へと回り込んでいます。「江戸名所図会」の→ 其四にも、安国殿の横から前にかけて、一部描かれているものです。

 

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    ・ 「参謀本部陸軍部測量局の1/5000実測図(明治17年測量)   「紙久図や京極堂 古地図CD-ROM」収録の南部の一部で、同社の基準(72dpi)で掲載しています。

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    ・ 芝公園  芝公園は明治6年(1873年)の太政官布達によって、上野、浅草、深川、飛鳥山とともに、日本で最初の公園となりました。 

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    ・ 芝公園  芝公園は区分けされ各々〇号地と名付けられていますが、ここ、東照宮の南側の一角は1号地となっています。

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    ・ 芝公園  江戸時代と同様、水路は右手の丸山を回り込んでいます。旧水路を転用して公園を整備したのかもしれません。

増上寺3

2014-12-13 10:01:05 | 城西の堀川4

 増上寺の南半分は→ 「明暦図」にも「御玉屋」とあるように、家康を祀る安国殿や、二代将軍秀忠の霊廟(台徳殿)のある区域です。昨日UPの→「其三」のほぼ中央に描かれた水路が、本殿のある区域とを分けていますが、そこに架かる橋(極楽橋)に注目です。次の其四に描かれた安国殿や台徳院殿への参詣の際、公家諸侯はこの橋前で下乗し、右折して(源氏雲から屋根だけ見える)惣門をくぐって台徳院殿へ、(こちらは全体が描かれている)鷹門をくぐって安国殿に向かいました。明治6年(1873年)、芝公園地指定に伴い増上寺境内は半減しますが、水路のあったところが境内の南境となり現在に至っています。

 

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    ・ 「江戸名所図会 増上寺」  4枚シリーズの其四です。 安国殿の裏手が丸山、その頂上やや後方には秀忠(台徳院)の供養塔として建立され、先の大戦で焼失した五重塔がそびえています。

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    ・ 日比谷通り  三門前からのショットで、100mほど先に極楽橋が架かっていました。左手の松林は「図会」にも描かれており、また三門前の水路を描く切絵図もあります。

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    ・ 台徳院殿惣門  本来の場所よりは数十メートル手前に移築されています。なお、寛永9年(1632年)造営の台徳院殿は、先の大戦で惣門などを除き焼失してしまいました。

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    ・ 東照宮(旧安国殿)  安国殿は明治の神仏分離により、増上寺から分かれて東照宮となりました。その参道の中程を水路が横切っており、「図会」に石橋が描かれています。

増上寺2

2014-12-12 09:41:32 | 城西の堀川4

 三縁山増上寺は明徳4年(1393年)、貝塚の地に創建されました。現在の麹町から平河町にかけてのあたりです。天正18年(1590年)の家康入国の際、12世源誉存応上人と対面して深く帰依、以来徳川家菩提寺になったと伝えられています。一時日比谷にあったあと、江戸城の拡張に伴い慶長3年(1598年)当地に移転しました。黒本尊と通称される阿弥陀如来像は恵心僧都作と伝えられ、家康が陣中にも奉持して戦勝を祈願していたものです。「多くの星霜を歴(へ)て金泥ことごとく変じて黒色となる故に此称ありとも、或は源九郎義経奉持する所故に九郎本尊といふの意なりとも。」(江戸名所図会」)

 

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    ・ 「江戸名所図会 / 増上寺」  4枚シリーズの其三です。当時は黒本尊堂に黒本尊を安置していましたが、現在は大殿脇の安国殿に祀られています。

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    ・ 三解脱門(三門)  三つの煩悩(むさぼり、いかり、おろかさ)から解脱できる門の意です。元和8年(1622年)の建立で、国の重要指定文化財となっています。

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    ・ 増上寺大殿  江戸期に数度、明治期に2度、そして先の大戦と、幾多の延焼を経験したのち、昭和49年(1974年)再建されました。

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    ・ 鐘楼堂  鐘楼堂は戦後の再建ですが、大梵鐘は延宝元年(1673年)のもので、高さ1丈(約3m)重さ4千貫(約15t)、7回の鋳造を経て完成したそうです。「今鳴るは 芝か上野か 浅草か」

増上寺

2014-12-11 11:48:31 | 城西の堀川4

 桜川に戻ります。神明宮の南西角で増上寺からの水路を合わせ、左折して神明宮境内の西縁に沿い、増上寺大門前へと至ります。そこには表御門前橋(→ 「実測図」では桜川橋)が架かり、その前後14間の川幅は3間と、それまでの8尺、それ以降の2間に比べ広くなっていました。また、寛政5年(1793年)大門通りと神明社地の境に築かれた土手には、幅1間の下水が沿っていました。神明町、神明門前、浜松町一丁目、七軒町の四ヶ町持であったと、七軒町の書上に記載されています。

 

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    ・ 「江戸名所図会 / 増上寺」  4枚シリーズの其二です。  右下隅が大門、奥の大きなのは三解脱門です。また、大門通りの土手も、右下隅に顔をのぞかせています。

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    ・ 芝大神宮  桜川はこの裏を流れていましたが、その様子は上掲「図会」の右に連続する→ 「其一」に描かれています。

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    ・ 大門前  「実測図」に書き込んだように、桜川の流路はこの通りとはズレていますが、大門前からは通りの右手を並行します。

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増上寺の水路

2014-12-10 07:31:12 | 城西の堀川4

 増上寺境内から流れ、芝神明境内の北西角で桜川に合流していた水路を追います。この水路は6代将軍家宣(文照院)、7代家継(有章院)などの霊廟のある区域と、住職の住む区域(方丈)を分ける通りに沿っていました。→ 「江戸名所図会」で、御成門から入る通りに橋が架かっていますが、この水路にかかわるものです。ところで、江戸初期の地図類のなかでは、「明暦江戸大絵図」が最初にこの水路を描いていますが、そこでは増上寺の南を流れる川(古川)の分流が、→ 「段彩陰影図」からも読み取れる谷筋(もみじ谷)沿いに、境内西縁を回り込みこの水路に連続しています。あるいは、一部切り通して、古川水系と桜川水系を連絡したのかもしれません。

 

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    ・ 「明暦江戸大絵図」  明暦3年(1657年)の大火後成立とされる「明暦江戸大絵図」(之潮刊)の該当個所をイラスト化したもので、書き込みの大半は省略しています。なお、グレー(原図ではピンク)には町、薄いブルーには田の書き込みがあります。  

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    ・ 日比谷通り  日比谷通りとの図書館入口交差点手前です。「江戸名所図会」の橋の架かっていたのは、歩道橋の手前の階段あたりでした。

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    ・ 日比谷通り  日比谷通りを越えます。「明暦図」では左折、右折のクランクですが、その後の切絵図などは右折、左折で、通りの左手を並行します。

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    ・ プリンスホテル入口前  芝公園3丁目交差点で愛宕通りに合流します。左カーブでホテル敷地を回り込んだあたりが、切絵図などの描く水路の先端です。

三島町

2014-12-09 08:03:07 | 城西の堀川4

 宇田川を分岐し、右折して南下する桜川を追います。流路の右手は増上寺境内、左手は三島町でした。その三島町の大下水に関する書上です。「大下水 巾八尺 右者増上寺外構町内西之方地先ニ有之里俗桜川と唱候・・・・持場之儀者宇田川横町境より長サ八拾九間半之間町内持ニ而浚(さらい)並町内南境より折曲り神明社地増上寺表門境迄百六拾間余有之候場所之儀者増上寺神明惣門前神明社地ニ而浚諸入用出銀差出申候」 なお、三島町は寛永18年(1641年)頃、増上寺門前地となりました。町名由来は鍋島信濃守、久留島越後守、鍋島市之丞の屋敷跡だったためといわれ、確かに「武州豊島郡江戸庄図」(寛永9年)には、これら三方の屋敷が描かれています。

 

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    ・ 「参謀本部陸軍部測量局の1/5000実測図(明治17年測量)」  「紙久図や京極堂 古地図CD-ROM」収録の南部の一部で、同社の基準(72dpi)で掲載しています。

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    ・ 桜川跡  宇田川の分岐以降、水路跡と重なる道路は、引用文に「町内南境より折曲り」とある、神明社地との境のここだけです。なお、この先で右手からの流れを合せ、左折して神明宮の西縁に添います。

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    ・ 旧増上寺境内三島谷  その右手からの流れを追います。上掲「実測図」で左折して交差点を越え、日比谷通り方向に向かうところで、尾張屋の切絵図に三島谷と書き込まれています。

 <飯倉神明宮>  引用文中にある神明の正式名称は飯倉神明宮ですが、芝神明と通称されていました。明治に入り芝大神宮と改称され、現在に至っています。「飯倉神明宮 同東の方神明町にあり。江戸名所記等に日比谷神明とあり、今俗間芝神明と称す。其旧地は増上寺境内飯倉天神の社地なりと、或云赤羽の南小山神明宮の地なりとも。」(「江戸名所図会」) 社伝によると創建は寛弘2年(1005年)、伊勢の内外宮を勧請して創建されました。源頼朝をはじめ関東の有力武家の庇護を受け、徳川家康も江戸入府や関ヶ原出陣など、折に触れて参拝しているようです。庶民の間でも「関東のお伊勢様」として信仰され、特に、9月16日の祭礼の前後は、11日間に及びだらだら祭と呼ばれ、生姜市の立つことで有名です。

 


汐留町入堀

2014-12-08 08:10:27 | 城西の堀川4

 宇田川の300mほど北側に、同じく東海道筋を横切る水路があり、そこに源助橋が架かっていました。「源助橋 源助町と露月町の間の入堀に架す、此川桜田桜川下流の残りしなりと云、桜川の条合せみるべし」(「御府内備考」) その桜川のところには、一度引用したように、「此下水・・・・昔は是よりたゞちに田村小路を南へ流れて源助町源助橋下の入川につゞきしならん。」とありました。ここでは単に入堀、入川ですが、明治に入り汐留町入堀の名が付きました。「汐留町入堀 第二大区二小区汐留町一二町目ノ間ニテ浜離宮中ノ門ノ門前ノ堀ヨリ分レテ西ヘ入源助町ヲ横キリ日影町通ノ大下水ニ合セル細流ナリ」(「東京府志料」) 水路を挟んで会津藩松平(保科)家、仙台藩伊達家の屋敷があったことから、会仙川の別名もあります。

 

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    ・ 「参謀本部陸軍部測量局の1/5000実測図(明治17年測量)」  「紙久図や京極堂 古地図CD-ROM」収録の南部の一部で、同社の基準(72dpi)で掲載しています。

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    ・ 第一京浜  源助橋のあったところですが、開通した環状2号線との交差点にあたり、様相が一変してしまいました。正面に写る日比谷稲荷については項を改めます。

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    ・ 汐留町入堀  浜離宮公園の西側、汐留川に架かる中の御門橋からのショットで、汐留川に向かって開口しているのが汐留町入堀の合流口です。

 <日影町通大下水>  冒頭の引用文にある日影(日陰)町通は、東海道の一本西側の通りの通称です。東海道沿いの町屋(芝口二、三丁目、源助町、露月町、柴井町)の裏通りにあたり、そこを流れる大下水は左右から汐留町入堀に合流していました。以下はこの大下水に関する源助町の書上です。「大下水 巾六尺 右者町内西之方新道武家方御屋敷境ニ有之・・・・水吐口之儀者芝口弐丁目同三丁目露月町柴井町より之落合ニ而町内横切下水え水落申候」 最後の「町内横切下水」に関しては、「大下水 巾弐間 右者町内往還横切下水ニ而町内新道之分より浜御殿脇え流落候」となっていて、汐留町入堀のことだと分かります。
 なお、「武州豊島郡江戸庄図」や→ 「明歴江戸大絵図」など、初期の江戸図では宇田川との連絡水路が描かれており、それが寛文4年(1664年)に新道(日影通)が開通した際、通り沿いの大下水に付替えられたものと思われます。それともう一つ、→ 「江戸名所図会」に描かれた日比谷稲荷は、当時芝口三丁目の日影通に面したところにありました。したがって、通りの反対側を流れるのが大下水ということになります。それが、環状2号線の工事に伴い第一京浜(東海道)に面する現在地に移転しました。最初の写真の正面に写るのがそれです。

 


宇田川3

2014-12-06 07:23:47 | 城西の堀川4

 江戸時代の宇田川は浜御殿(現浜離宮庭園)の南西角で、汐留川河口にあたる江戸湊に注いでいました。ただ、当初からそうだったわけではなく、宇田川が最初に登場する「武州豊島郡江戸庄図」(寛永9年 1632年)では、東海道沿い並ぶ宇田川町などの町屋の南は、一面の葦原(御鷹場)になっていて、「ウタ川はし」先で葦原に流れ込む川が描かれているに過ぎません。「寛永江戸全図」(寛永19年ころ)になって、町屋の先に新銭座や保科家下屋敷ができ、宇田川もその分伸長、さらに明暦3年(1657年)ころの→ 「明歴江戸大絵図」では、保科家下屋敷の南に、のちの浜御殿となる造成地が出来、河口はその後とほぼ同じ場所に移動しています。

 

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    ・ 「参謀本部陸軍部測量局の1/5000実測図(明治17年測量)」  「紙久図や京極堂 古地図CD-ROM」収録の南部の一部で、同社の基準(72dpi)で掲載しています。

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    ・ 新銭座ガード  正面にJR東海道線のガード、さらに高架のゆりかもめが見えます。なお、この左手が保科家下屋敷ですが、上掲「実測図」当時は「東京馬車鉄道会社」の敷地でした。

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    ・ 宇田川河口  JR線やゆりかもめの先はイタリア公園、その先の高架は首都高都心環状線で、浜離宮庭園の南西角をめぐる汐留川も見えています。

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    ・ 宇田川河口  汐留川越しに振り返っての撮影です。昭和になって浜離宮の対岸が造成され、汐留川は浜離宮の一辺分、三百数十メートル伸長されました。

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2014-12-05 07:27:02 | 城西の堀川4

 「宇田川 第二大区第三小区芝宇田川町ニテ桜川ヨリ分レ埋樋ヲ通シ新銭座町を流レテ海ニ入小溝ナリ昔上杉朝興ノ臣宇田川某ノ子孫宇田川喜兵衛ト云者此ノ辺ノ名主ナリシヨリ町ノ名ニモ川ノ名ニモナレルナリ」(「東京府志料」) 宇田川の地名由来については、「江戸砂子」はさらに詳しく、上杉朝興(ともおき 扇谷上杉家)が北条氏綱に敗れた際、北条に下った宇田川和泉守の子孫が、のち北条氏滅亡に際して当地に土着、代々の名主となったとしています。この伝承が事実ならば、人名が地名、川名に先行するレアケースということになります。(ちなみに、渋谷川の上流である宇田川が宇田川姓の元で、その一族が上杉や後北条に仕え、江戸湊周辺に勢力を拡大した、との説もあるようです。)

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1. 第一京浜(東海道)を越えます。ここに宇田川橋(「長壱丈弐尺巾九間」)が架かっていました。「江戸名所図会」に「上に土を覆ふ故に橋の形を失す」とあります。 

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    2. 江戸時代、宇田川町と新銭座町の境のこの通りにも、土橋(「長壱丈弐尺巾九間」)が架かっていました。 

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    3. 旧新銭座町を抜けます。正面の高架はJR、さらに高いところはゆりかもめです。

 <新銭座>  「新銭座は宇田川町の東海手の方松平肥後守屋舗のわきなり。寛永日記云十三年初て寛永の新銭を鋳(いる)と、この所も此時より建しなるべし」(「御府内備考」) 寛永13年(1636年)、寛永通宝を鋳造するために設けられたのが新銭座です。もっとも、同書に収録された新銭座町の書上では、設立を寛永15年としています。「先年常州水戸ニ住居仕罷在候郷士ニ而鳴海兵庫と申者御当地え罷出寛永十五寅年月日不相知右新銭座町古代より網代場ニ有之候処新銭吹座ニ拝領仕候哉寛永通用銭吹立差上候跡町並屋敷ニ相成り候ニ付新銭座町と唱候由・・・・」 なお、これに続けて、新銭座町の起立を貞享年中(1684~88年)としていますが、「寛永江戸全図」では「新銭座」とある保科肥後守下屋敷の西隣が、「明暦江戸大絵図」では無名ながら「町」となっており、明暦(1655~58年)頃までさかのぼる可能性もあります。 

 


宇田川

2014-12-04 11:06:09 | 城西の堀川4

 桜川は御成門先の旧宇田川横町で一派(宇田川)を分け、本流は右折して南下していました。以下は宇田川横町の大下水に関する書上です。「大下水 弐カ所 右壱ヶ所者町内北裏通有馬左兵衛佐様御屋舗境ニ有之宇田川町ニ而申上候大下水水上ニ而幅壱丈長四拾六間五尺八寸末ハ宇田川町え相流申候壱ヶ所者往還向増上寺付ニ有之幅壱丈長拾壹間同所箕島町え相流申候右弐ヶ所何れ茂浚(さらい)之儀者町内ニ而引請相浚申候」(「御府内備考」) 前者が宇田川で、東隣の宇田川町の書上では「桜川又ハ宇田川共相唱申候」となっています。「大下水 幅壱丈長五拾壱間壱尺  右者愛宕下より増上寺裏門前通宇田川横町裏手之方え懸町内往還を横切同所新銭座町海手え流落里俗桜川又ハ宇田川共相唱申候」

 

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    ・ 「参謀本部陸軍部測量局の1/5000実測図(明治17年測量)」  「紙久図や京極堂 古地図CD-ROM」収録の南部の一部で、同社の基準(72dpi)で掲載しています。

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    ・ 御成門前通り  御成門交差点で日比谷通りを越えたところです。ここからから次の交差点まで、桜川は通りの右手を並行していました。

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    ・ 御成門前通り  次の(愛宕)警察前交差点です。ここから先、明治の中ごろ新設された通りは、桜川の流路と離れ、やや左カーブします。

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    ・ 日本赤十字社本社  上掲写真の右手です。江戸時代はここまでが増上寺境内で、その北西角で桜川と宇田川は分かれていました。

御成門

2014-12-03 08:09:52 | 城西の堀川4

 「御成門 北の方馬場に相対す、此所にも下馬札あり。」(「江戸名所図会」) 御成門は増上寺境内の北に位置する裏門ですが、将軍が参詣する際に用いられたため、そう呼ばれるようになりました。本来は昨日UPの→ 「実測図」にもあるように、現御成門交差点の南西角に位置していましたが、明治中頃の東京市区改正計画で、日比谷通りが境内を二分することになったため、百数十メートル離れた現在地に移築されました。なお、門前の桜川に架かる→ 石橋も、その際撤去され、現在は日比谷公園内に保存されています。

 

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    ・ 「江戸名所図会 / 三縁山増上寺」  4枚シリーズの其一と其二を合成したものの一部です。青松寺前を流れる桜川が、左折して増上寺境内脇に沿います。右隅の長方形のスペースは愛宕下馬場、その向かいの石橋に続く門が御成門です。

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    ・ 御成門交差点  正面の茂みは芝公園ですが、交差点の南西角、芝公園との境のあたりに御成門はありました。

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    ・ 日比谷通り  御成門交差点から外堀方向です。将軍参詣の折は、やや右手にズレる幸橋門(御成門)で外堀を越えていました。

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    ・ 御成門  御成門交差点から南西に百数十メートル離れた、東京プリンスホテルの駐車場前に移築、保存されています。