神田川 「まる歩き」 しちゃいます!!

ー神田川水系、支流はもちろん、旧水路、廃水路、全部 「まる歩き」ー

蟹ヶ窪と根津山

2018-10-19 06:13:09 | 弦巻川・水窪川

 池袋村に入ったところにある谷頭は、蟹ヶ窪と呼ばれていました。明治11年(1878年)の「東京府村誌」に、「西山ノ南ヨリ雑司ヶ谷村ニ連ナリ」と書かれた池袋村の字で、のち巣鴨村大字池袋の字に引き継がれましたが、昭和7年(1932年)に豊島区池袋(現東池袋)1丁目となって消滅しました。一方、雑司ヶ谷側には御鷹方組屋敷、そして、三千石の旗本、中西家の屋敷があり、中西の森と通称されていましたが、明治の後半には、東武鉄道の創業者、根津嘉一郎の所有となったことから、根津山と呼ばれることになります。

 

Nezum42

    ・ 「陸地測量部発行の1/10000地形図(明治42年測図) / 早稲田」  池袋駅東口の明治通りや五差路など、主要な道路をグレーで重ねています。

0625a

    ・ 東池袋交差点  上掲地図の右下隅にあたるグリーン大通りの交差点で、右手の高架は首都高池袋線です。このあたりが小高い丘になっていて、根津山の中心でした。

0625b

    ・ 美久仁小路付近  上掲写真正面裏手の一角は飲食店街になっていますが、周囲に比べやや低地になっていて、谷筋にあるのが分かります。

 根津山に開発の手が入ったのは昭和7年(1932年)、「永き懸案であった根津山開発の事は漸く其の緒に就き、池袋駅前の環状線道路の東側より根津山を縦断して、水久保に通ずる道路と同林野の周囲を通ずる道路との築造成り、其の東南端に下水道の製管工場設置せらる」、そう翌年発行の「高田町史」は記述しています。現在はグリーン大通りと呼ばれている改正通りが、根津山を縦断して開通したのは昭和12年、前回UPの→ 「第四回修正」にあるその北側の谷筋沿いの通りも、同時期に開設されました。「高田町史」には根津山の下水道工事の→ 写真が掲載されていますが、あるいはこの谷筋沿いの通りにあって、水窪川の機能を代替しているものかもしれません。


字水久保3

2018-10-18 06:17:41 | 弦巻川・水窪川

 水窪川をさかのぼっての最後で、文化会館前の通りを越え、北西に向かいますが、この区間の水路跡と重なる道路はありません。ただ、日之出町公園前を通るものが谷筋と重なり、昭和の初めに開通しているため、あるいは、暗渠化の結果なのかもしれません。なお、この通りが首都高と交差するあたりが、巣鴨、雑司ヶ谷、池袋三村の境でした。→ 「池袋村絵図」の右下隅の巣鴨、雑司ヶ谷と接するところに、短い水路が描かれており、→ 「巣鴨村絵図」の左端にあって、水窪川の先端が池袋村にかかっている個所と一致します。

 

Mizukubo3

    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)  

Mizukubom42b

    ・ 「陸地測量部発行の1/10000地形図(昭和12年第四回修正) / 早稲田」  同一場所、同一縮尺の→「明治42年測図」と比べてください。

0624a0624b

    1. 文化会館前の通りを越えます。右写真は南側からの撮影で、横断歩道付近を谷筋が横切っています。 

0624c0624d

    2. 日之出町公園前です。明治に入り、御鷹方組屋敷などが雑司ヶ谷旭出町を形成、のち日出町となりました。 

0624e

    3. この通りはおおむね雑司ヶ谷、巣鴨村境と一致し、細長い田圃はこの右手にありました。

0624f 0624g

    4. 首都高5号池袋線の下を通過します。巣鴨、池袋の村絵図で、両村の境となっているあたりです。

字水久保2

2018-10-17 06:12:53 | 弦巻川・水窪川

 水窪川の流域で田圃があったのは谷頭の字水久保のみでした。それも大半は巣鴨村に属しており、前々回UPの→ 「巣鴨村絵図」に描かれている通りです。一方、雑司ヶ谷村に属する田圃は、右岸にはみ出した一部のみで、これは→ 「雑司ヶ谷村絵図」の右上隅の描き方とも一致します。前回はこうした水久保田圃の、主に南縁に沿っていた水路がテーマでしたが、今回は北縁と重なる道路をたどります。こちらに水路があったかは不明なので、いつもの青点線は書き込んでいません。

 

Mizukubo2

    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)  

Mizukubom42

    ・ 「陸地測量部発行の1/10000地形図(明治42年測図) / 早稲田」  上掲地図と同一場所、同一縮尺です。なお、中央から左上隅に向かう破線が巣鴨、高田の村境です。

0623a 0623b

    1. 水路跡の右手を並行するこの道路が、田圃の北縁とおおむね重なります。

0623c 0623d

    2. 右カーブの連続で左手に孤を描いています。 

0623e

    3. 左手にあった水路との間は最大でも二十数メートル、細長い田圃でした。

0623f 0623g

    4. 突き当りで右カーブ、文化会館前の通りに出ます。

字水久保

2018-10-16 05:55:47 | 弦巻川・水窪川

 水窪川の水元について「御府内備考」は、「巣鴨村雑司ヶ谷村之内田場際」としていますが、その一帯の字が水久保でした。「新編武蔵風土記稿」によると、雑司ヶ谷村、巣鴨村どちらの小名にも水久保があり、当初は両村にまたがっていたものと思われます。明治に入り、高田村大字雑司ヶ谷の字水久保、水久保新田に引き継がれましたが、巣鴨村大字巣鴨の字からは失われ、かわって巣鴨監獄のある字向原となっています。

 

Mizukubo1

    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

0622b 0622a

    1. 再度右カーブで都電荒川線に接し、しばらくに並行します。

0622c

    2. 突き当りで中断です。なお、この付近の村境は都電の南側を並行する道路にありました。

0622d

    3. 一つ南の道路で再開します。このあたりから村境と重なっていました。  

0622f 0622e

    4. 蛇行しながら都電荒川線を離れ、西に向います。

0622h 0622g

    5. 右折して文化会館前の通りに向かいます。通りと一致するのはここまでです。  

巣鴨村

2018-10-15 05:23:22 | 弦巻川・水窪川

 「巣鴨村は、日本橋より行程一里半、・・・・南は小石川大塚町巣鴨辻町坤は小石川大塚町、西は小石川雑司ヶ谷池袋の三村、・・・・東西凡二十町南北凡十五町、民戸百十三、・・・・村内艮の方に中山道係る幅五六間、又上板橋村に達する道あり、中間辻町より分て西ヶ原村の方に往く路を王子道と云」(「新編武蔵風土記稿」) 中山道沿いは町屋となって巣鴨町を名乗り、また、上板橋道(現春日通り)と王子道の追分に起立したのが巣鴨辻町でした。用水は谷端川(小石川)が主で、「風土記稿」に水窪川に関する記述はありません。

 

Sugamoezu1

    ・ 「巣鴨村絵図」  「豊島区地域地図」第7集(平成21年 豊島区立郷土資料館)に収録された、享和元年(1801年)作成の「巣鴨村絵図」(東京都公文書館蔵)を元にイラスト化しました。 

0621a

    ・ 大塚駅前  谷端川は大塚駅前で都電荒川線と交差、その先の信号が王子道(「村絵図」中では大塚道)で、このあたりが巣鴨村の本村でした。

 雑司ヶ谷村との境に近い巣鴨村字向原の地に、明治28年(1895年)面積6万坪、長方形の敷地を持つ警視庁監獄巣鴨支庁が設置されました。その後巣鴨監獄、巣鴨プリズン、東京拘置所など、名称と管轄を変えながら継続、昭和46年(1971年)に、東京拘置所の小菅移転に伴い建物は解体、撤去されました。跡地にサンシャイン60やサンシャインシティが開業したのは、それから7年後のことです。

 

0621b

    ・ 造幣局東京支局、 右手奥のサンシャインシティ、サンシャイン60と共に、跡地の南半分を占めています。手前の道路は坂下通りで、富士見坂下と巣鴨監獄の正門を結んでいました。

巣鴨村境

2018-10-13 05:52:03 | 弦巻川・水窪川

 文京区から豊島区に入ります。今では同じ豊島区ですが、江戸時代は流域を境に北側が巣鴨村、南側が雑司ヶ谷村でした。明治に入り巣鴨村、高田村の村境となった後、町制がしかれた大正時代には、西巣鴨町と高田町の町境に引き継がれます。昭和7年(1932年)の大東京市の成立に伴い、合併して豊島区となった際も、行政区分上の境界は、西巣鴨(1丁目)と日出町(1~3丁目)として維持されましたが、現行の住居表示では共に東池袋に属し、境界とは無縁になってしまいました。水窪川自体が地上から消滅した以上、やむを得ない流れではあります。

 

Murasakai1

    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

0620a

0620c 0620b

    2. ここも地図からそれとわかる細かな蛇行やクランクが目立ちます。

0620d

    3. フェンスに囲まれた都電荒川線を越えます。地下に明治通りのバイパスを通すための工事中です。 

0620f 0620e

    4. 越えた先で左折し荒川線と並行した後、右カーブで離れます。

0620g

    5. 正面の台上は造幣局の裏にあたります。角にあるのは巣鴨監獄時代の排水溝の→ 遺構でしょうか。

三村境

2018-10-12 06:22:28 | 弦巻川・水窪川

 坂下通りの西側にシフトした水窪川は、再々度水路単独の狭い路地となって、細かく蛇行しながら右岸段丘沿いを進みます。間もなく文京区と豊島区の区境にかかり、ほんの数十メートルですが、路地自体が区境を形成します。文京区は旧小石川村、豊島区は巣鴨村と雑司ヶ谷村で、後者の方は水窪川が両村を分けていました。なお、小石川村といっても、小石川流域(千川通り)の本村からは離れ、「新編武蔵風土記稿」が、「其余大塚上町を隔て護国寺の北に若干の新田地あり」と書いている、小石川村字新田(小石川新田)だったところです。

 

Sanmura1

    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

0619b 0619a

    1. 坂下通りの先で右岸段丘に沿い、大塚坂下町公園下に差し掛かります。

10619c

    2. 段丘沿いの狭い路地が続き、単調ですが迷うことはありません。

0619e 0619d

    3. 地図からも読み取れる細かな蛇行やクランクが連続、徐々に北西から西寄りに向きを変えます。  

0619f

    4. 文京、豊島の区境に差し掛かります。右手文京区(大塚6丁目)、左手豊島区(東池袋5丁目)です。 

0619h 0619g

    5. 区境はここまでですが、ここから先は流域が右手巣鴨、左手雑司ヶ谷の村境になっていました。

坂下通り3

2018-10-11 06:35:49 | 弦巻川・水窪川

 坂下通りの左右を蛇行する水窪川を追っての三回目です。開運坂下で坂下通りに接したあと、いったん離れ、100mほど行って通りの西側にシフトします。なお、開運坂は護国寺、豊島岡墓地の裏門に至る坂で、明治時代に開かれました。おそらく、巣鴨監獄に至る坂下通りの開通と同時期でしょう。(巣鴨監獄ができたのは明治28年です。) 名前の由来について解説プレートは、「よくわからないが、運を開く吉兆を意味するめでたい名をつけたものであろう」と述べています。

 

Sakasita3

    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

0618b 0618a

    1. 開運坂下で坂下通りにいったん接し、右カーブですぐに離れます。

0618d 0618c

    2. 40mほどで左岸段丘にぶつかり、今度は左折します。 

0618e

    3. 突き当りを左カーブです。このあたりの水路は通りの左手にありました。

0618g 0618f

    4. 坂下通りを再び越えます。ここから先は通りと交わることはありません。 

0618h

    5. 坂下通りを越えた先です。右カーブで今度は右岸段丘に沿います。

坂下通り2

2018-10-10 06:10:29 | 弦巻川・水窪川

 吹上稲荷の鳥居前で、坂下通りを越え、しばらく並行した後、右手に離れた続きです。ここからしばらくは、江戸時代からあった通りの右手を並行します。暗渠後通りの一部となったために、ここまで(及びここ以降)の水路単独の路地に比べ、幅広になっています。なお、水窪川の暗渠化の時期ですが、明治42年以降の「地形図」を追ってみると、「昭和12年第四回修正」で初めて水路がなくなっており、弦巻川と同様、昭和10年前後と思われます。

 

Sakasita2

    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

0617b 0617a

    1. 坂下通りから離れ、蛇行しながら北に向かいます。水路はこの右手を並行していました。

0617c

    2. 右手奥の建物は春日通りに面していますが、その春日通り沿いには、大塚上町と呼ばれる町屋がありました。 

0617d

    3. このあたりの右手は巣鴨村に属し、のち春日通り沿いは巣鴨辻町となりました。明治に入り、小石川区に編入されて大塚辻町となったところです。 

0617f 0617e

    4. 並行していた道路と離れ、再び水路単独となってすぐに左折です。 

0617g

    5. こうした蛇行が残るのは、早い段階で周囲が宅地化し、直線的な改修ができなかったケースがほとんどです。

坂下通り

2018-10-09 05:36:39 | 弦巻川・水窪川

 豊島岡墓地沿いの路地に戻ります。地図でもそれとわかるクネッた路地が200m近く続き、一般の道路に突き当たって中断します。富士見坂下を起点とする通称坂下通りです。その後は、坂下通りの左右を蛇行しながら進みます。なお、一帯は江戸時代、小石川村のうち小名大塚に属していました。元禄10年(1697年)に護国寺領となったのち、富士見坂下に町屋ができ、小石川大塚坂下町を名乗ります。明治に入り、護国寺および近隣の武家地を併せ、小石川区大塚坂下町となりました。現在の文京区大塚5丁目、6丁目です。

 

Sakasita1

    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

0616b 0616a

    1. 豊島岡墓地の塀沿いの路地から再開、突き当りを右折、次の突き当りを左折です。

0616c

    2. 左折後、水路単独と思われる狭い路地を北上します。

0616e 0616d

    3. 吹上稲荷の参道に突き当たって右折、鳥居の先は坂下通りです。 

0616g 0616f

    4. 坂下通りを越えたところで左折、40mほど並行したのち右カーブで通りから離れます。

 <小石川大塚村>  「小石川大塚村は小石川庄と称す、大塚は元小石川村の小名なりしが、元禄十年巣鴨、雑司ヶ谷、小石川三村の内を裂き護国寺領に附せられし時、特に一村となし大塚の地多きを以て其名を負せしと云、すべて大塚と称する地域はいと広くして、今町分及武家屋敷等に属する処多し、其町分の地は大塚町・大塚窪町・同上町・同仲町・同下町等の唱ありて、正徳三年町方支配に属し、御府内の町並に加へらる、・・・・川 村西雑司ヶ谷の方より流れ来り、村内にて南に折れ、青柳町の間に達す、川幅九尺」(「新編武蔵風土記稿」) 地名由来については、大きな塚があったためといわれていますが、その場所については諸説あって特定されていません。

 


護持院

2018-10-06 05:38:14 | 弦巻川・水窪川

 筑波山護持院は5代綱吉の時代、大僧正隆光によって隆盛を極めた将軍家祈祷所で、当時は神田橋外に大伽藍をようしていましたが、享保2年(1717年)、火災により焼失してしまいます。その後、幕命により同じ将軍家祈祷所の護国寺と併合、護国寺境内は東西に二分され、台上の観音堂は護国寺、台下の本坊は護持院に割り振られます。護持院の住職が護国寺住職を兼ねることとなり、この関係は明治維新後、護持院が廃寺となるまで続きました。享保2年といえば、8代吉宗の改革のスタート時ですから、その一環として綱吉の施政の後始末の意味もあったのでしょう。

 

Gojizue1

0615a

    ・ 護国寺惣門  方丈(住職の住居)に向かう門で、寺院と住居の門を兼ねていました。文京区の解説プレートによると、五万石以上クラスの大名屋敷の表門の形式を備えているそうです。

 上掲「図会」の惣門を入ると橋が架かり、その左手に池が描かれていますが、以下はこの池に関する本文の記述です。「蟹が池 庭前の池をいへり。当寺建立なきまへは此地の名を、せりせりとも又せれせれとも唱へしと」 なお、左上の護摩堂裏にも池端が見えていますが、こちらは「其二 護国寺」右上隅の、より大きな池の一部です。これらは水路で結ばれ、昨日UPした最後の写真のところで水窪川に合流していました。こうした池の名残は前回UPの→ 「昭和12年第四回修正」にも描かれ、特に谷頭のものは今も豊島岡墓地の林の中で水をたたえています。

 

0615b

    ・ 護国寺境内  惣門を入ったあと、橋の位置から左折方向のショットで、右手は本坊、左手は音羽幼稚園です。惣門左手の池はこのあたりにありました。

芋洗橋

2018-10-05 06:26:49 | 弦巻川・水窪川

 富士見坂下で不忍通りを越えます。そこには芋洗橋(地震橋)が架かっていました。「石橋 長九尺程幅弐間半 右は前出之川に懸有之地震橋と唱候得共何故相唱候哉相分不申候・・・・里俗は芋洗橋と唱候由に御座候」(「御府内備考」) 「若葉の梢」(金子直徳 寛政10年 1797年)には、「青柳町芋洗橋は船板橋なりとも」との一節があります。また、青柳橋と書き込んだ昭和初期の地図もありますが、間もなく水路は暗渠となり、橋はなくなりました。

 

Imoarai1

    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)  

Imoarais12

    ・ 「陸地測量部発行の1/10000地形図(昭和12年第四回修正) / 早稲田」  上掲地図と同一場所、同一縮尺です。前回UPの→ 「大正10年第二回修正」と見比べてください。

0614a0614b

    1. 不忍通りのワンブロック手前で再開します。右写真は右手から谷筋を写しています。

0614c0614d

    2. 不忍通りを越えます。今度の右写真は左手(護国寺惣門前)から富士見坂方向のショットです。

0614e

    3. 護国寺境内の東南角に沿います。このあたりで境内からの合流がありました。

 <富士見坂>  護国寺前から左岸台上(春日通り)に至る坂は富士見坂と通称されています。「坂 長四拾間程、巾四間程、右は里俗富士見坂と相唱申候」(「御府内備考」) 長さは70m、幅は7mほどと、どちらも現在の三分の一程度です。現在のように幅広かつ緩やかになったのは、大正13年(1924年)、市電の開通の際だと解説があります。同じ解説プレートによると、坂上の春日通りの標高28.9mは、都内幹線道路の最高地点だそうです。(→ 写真は春日通りとの大塚3丁目交差点から、護国寺方向のショットですが、高層ビルに阻まれて富士山を捕らえることはできませんでした。)

 


鼠ヶ谷下水6

2018-10-04 06:57:52 | 弦巻川・水窪川

 水窪川の続です。お茶大のキャンパス下で、段丘沿いに右カーブし、いったん東に向きを変えます。その後、今度は左折で再び北上し、不忍通りの富士見坂下に出ます。この間、百数十メートルにわたって道路から外れ、立ち入ることができません。地図からは池の存在が確認でき、また、コンクリート蓋も有りそうな雰囲気ですが、確かめられないのは残念です。なお、カーブから不忍通りにかけて、旧東青柳町にあたります。「御府内備考」はその四隣のうち、「南之方護国寺領之田場」と書いていますが、明治に入りこの田圃も東青柳町の一部となりました。「東京府志料」の数字で4反8畝11歩あり、「地形図」を見ると大正末まで耕作されていました。

 

Nezumiga6

    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)  

Nezumit10

    ・ 「陸地測量部発行の1/10000地形図(大正10年第二回修正) / 早稲田」  上掲地図と同一場所、同一縮尺です。

0613a

    1. 崖下のクネッた路地はなおも続きます。台上の大半はお茶大キャンパスが占めています。

0613b0613c

    2. ここに橋が架かり、音羽三丁目と二丁目の境になっていました。

0613d0613e

    3. 右カーブが始まります。田圃だったのはこの左手です。

0613f

    4. 右カーブの先、お茶大の門の前で中断します。倉庫の奥にはフェンスで囲われた細長い→ 空間が続いています。  

鼠ヶ谷下水5

2018-10-03 06:01:32 | 弦巻川・水窪川

 鼠坂下を過ぎ、左手は江戸時代の音羽町五~四丁目にかけてです。一方、右手から小日向台の崖面が再び迫ってきますが、台上には磐城平藩安藤家の下屋敷がありました。安政4年(1857年)の尾張屋の切絵図には、安藤長門守と記載されています。のち老中となり公武合体を推進、坂下門外の変で失脚した安藤信正です。屋敷地は明治に入り接収され、陸軍の兵器庫となりましたが、現在は大塚1丁目、2丁目の、筑波大付属やお茶大などのある文教地区です。

 

Nezumiga5

    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

0612a

    1. 鼠坂の先です。ここから先の右手台上が安藤家の屋敷地にあたります。

0612b

    2. 崖面から水がしみ出しています。台上が文教地区ということもあり、地下水脈が保たれているのかもしれません。 

0612d 0612c

    3. 崖面下の路地が、細かく蛇行しながら続きます。

0612f 0612e

    4. 無名坂下です。音羽谷から小日向台に唯一車で上れる戦後開通の坂で、対岸は江戸時代からの三丁目坂です。 

 <小日向台>  音羽谷の左岸(東側)台地は、小日向台と呼ばれています。小日向(こひなた、こびなた)は「小田原衆所領役帳」にも「恒岡弾正忠十六貫五百七十文小日向之内、太田弥三郎二十二貫八百四十文、小日向弾正屋敷」と記載されていますが、その地名由来としては、「江戸砂子」の「往古此所は鶴高日向(つるたかひゅうが)と云人の領地なり。断絶の後古日向の址といふを、いつの比か小日向といひ来れり」がよく引用されます。もっとも、この一節を引用している「新編武蔵風土記稿」は、「其拠を知らず」と否定的な扱いです。なお、現行の住居表示では、「こひなた」と読みを統一しています。

 


鼠ヶ谷下水4

2018-10-02 06:46:01 | 弦巻川・水窪川

 鼠ヶ谷下水の鼠ヶ谷ですが、音羽町が町屋となる以前、「鼠ヶ谷と申字に而御座候」と、「御府内備考」の音羽町二丁目の項にあります。名前の由来は特に書かれていませんが、別のところで鼠坂について、「至てほそき坂なれば鼠穴などいふ地名の類にてかくいふなるべし」とする、「改選江戸志」の記事を引用しています。文字通り鼠の多い谷か、あるいは鼠しか通れないような狭い谷か、その辺の意と思われます。なお、このあたりの台上の区割りに注目です。毎度おなじみの細長い短冊状の区割りで、江戸時代、御賄方組屋敷だったところです。

 

Nezumiga4

    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

0611b0611a

    1. 今宮神社前です。石板が埋め込まれていますが、橋の遺構と思われます。 

0611c

    2. 水路単独と思われるせまい路地に入り、通り抜けられるか不安になります。

0611e0611d

    3. 鳩山会館の敷地手前で中断します。右写真は音羽通りに面した開館正門です。 

0611f

    4. 100mほどの中断を挟んで再開します。

0611h 0611g

    5. 鼠坂下を過ぎます。「御府内備考」に「幅壹間程長凡五拾間程」とある長い坂です。