神田川 「まる歩き」 しちゃいます!!

ー神田川水系、支流はもちろん、旧水路、廃水路、全部 「まる歩き」ー

愛宕神社

2014-11-29 07:35:42 | 城西の堀川4

 愛宕山の標高は26m、戸山公園内箱根山のような人工の山、多摩に隣接した山とはいえないところは別論、東京23区内では最も高い自然の山です。この愛宕山を境内地に、愛宕神社が創建されたのは慶長8年(1603年)、徳川家康の命により江戸の防火の神様として祀られました。愛宕下には武家地が多く、参勤交代で帰国のおり、分霊を故郷に祀ることがありました。各地の小高い山が愛宕山と呼ばれ、愛宕神社が祀られているのは、京都の愛宕山、愛宕神社を総本社とする愛宕信仰とあいまって、こうした経緯も関係しているようです。

 

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    ・ 「江戸名所図会 / 愛宕社惣門」  愛宕山、愛宕神社を描いた3枚シリーズの其二で、惣門前を流れるのが桜川、通りは愛宕下通です。

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    ・ 愛宕通り  愛宕1丁目交差点から愛宕神社下方向です。右手奥の高層ビルは愛宕グリーンヒルズに建つフォレストタワーとモリタワーです。

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    ・ 愛宕神社  正面の→ 石段は馬で上下した曲垣平九郎のエピソードで有名です。急勾配を目の当たりにすると創作のように思えますが、明治以降も成功した事例はあるそうです。

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    ・ 愛宕神社  昭和20年5月の空襲で焼失した社殿は、同33年に再建されました。なお、社殿左前にある将軍梅は、曲垣平九郎が将軍家光に献上したと伝えられています。

愛宕通り

2014-11-28 07:37:47 | 城西の堀川4

 三斎小路の左手を流れた桜川は、愛宕通り(愛宕下通)に突き当たって右折します。ここに、左手からの合流がありました。→ 「明暦図」ではワンブロックのみですが、江戸末の切絵図には、ツーブロック、現在の外堀通りからの流れを描いているものもあります。大名、旗本屋敷が密集していたところなどで、各々のブロックを囲む下水が整備され、その余水が桜川に落とされていたものと思われます。なお、明治10年代の「1/5000実測図」にこの水路はなく、明治末の「郵便地図」では復活するなど、地図類の描き方に大きな変動のある個所です。

 

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    ・ 「江戸名所図会 / 藪小路」  三斎小路の一つ北側(外堀寄り)の通りで、大名屋敷の一角に小さな竹藪のあったのが由来です。注目は藪小路沿いの二本の小溝で、桜川に合流しているのが分かります。 

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    ・ 愛宕通り  前回最後の写真に写っていた歩道橋から、外堀通り方向のショットで、次の信号を左折すると藪小路、逆に右手に折れると佐久間小路です。

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    ・ 愛宕通り  同じ歩道橋から愛宕下方向です。次の信号を右折すると、「明暦図」に水路の描かれている鎧小路、信号手前を左折で田村小路、奥を左折で秋田小路(薬師小路)です。

 <藪小路ほか>  「藪小路 愛宕の下通り、加藤候の邸の北の通りを云。同書艮(うしとら)の隅裏門の傍に少しばかりの竹叢あり、故にしかいへり。」(「江戸名所図会」) その他の小路に関して、「御府内備考」の記述を要約すると、藪小路から連続する佐久間小路は、慶長の頃佐久間姓の屋敷が5軒並んでいたから、鎧小路の由来は不明、田村小路はその両側に田村右京太夫(陸奥一関藩)の屋敷(上屋敷と中屋敷)があったから、同様に秋田小路は秋田山城守(陸奥三春藩)の上屋敷があったためです。
 なお、これらの小路には愛宕下を冠するのが通例でした。「此辺皆桜田の内なる事は前にも弁せし如くなれど、今は桜田の旧名を失ひ愛宕山の麓といふこゝろにてかく呼べり。下に出す小路小路の名ある辺より烏森わたりまでおしなべて愛宕下某と称す」(「御府内備考」)

 


三斎小路

2014-11-27 07:29:14 | 城西の堀川4

 桜田通り(西久保通)と桜川がクロスする、虎の門2丁目交差点に戻ります。桜川はここで左折、右折のクランクでやや左手にシフト、江戸時代、三斎小路と通称された通りを東に向かいます。「三斎小路 藪小路より南の小路なり、前に記すごとく加藤氏屋舗は昔細川三斎の屋舗なりしゆへ呼名とせしなるべし」(「御府内備考」) 「加藤氏屋舗」は近江水口藩加藤家上屋敷、「三斎」は豊前小倉藩(のち肥後熊本藩)の藩祖で、利休の門人としても有名な細川忠興の号です。下掲「明暦江戸大絵図」に「細川丹後」とあるのは肥後宇土藩、細川丹後守行孝のことで、原図の傍らには「三斎孫」と付記されています。

 

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    ・ 「明暦江戸大絵図」  明暦3年(1657年)の大火後成立とされる「明暦江戸大絵図」(之潮刊)の該当個所をイラスト化したもので、書き込みの大半は省略しています。なお、グレー(原図ではピンク)には町、薄いブルーには谷の書き込みがあります。

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    ・ 桜田通り  虎の門2丁目交差点に戻り、桜川のウォーク&ウォッチを再開します。江戸時代と変わらず、次の通りはやや左手にズレています。

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    ・ 三斎小路  江戸時代と異なるのは、最近開通した環状2号線(新橋・虎ノ門間)が横切っていることで、右手の虎ノ門ヒルズの地下をトンネルで抜けます。

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    ・ 三斎小路  愛宕通りに突き当たって右折です。新シ橋から愛宕下へ向かう愛宕通りは、江戸時代、愛宕下通と呼ばれていました。

我善坊谷2

2014-11-26 07:37:13 | 城西の堀川4

 西久保の谷頭、我善坊谷の続です。地名由来に関しては、前回触れた龕前堂説に対して、崇源院火葬の場は現六本木交差点付近で離れ過ぎとの批判があり、別途座禅の僧が多くいたとの座禅坊説も主張されています。その当否はともかく、→ 「明暦図」でも既にそうなっていますが、この谷の入口付近は大養寺(「寺」と表記)、八幡社(別当普門院)が占め、奥のほうは(御先手組)大縄地となっていました。「伊藤三十郎」とあるところがそれで、「寛文図」では「イ藤三十郎与力同心」となっており、のちには鉄砲方の井上左太夫の名も見えます。明治に入り入口は西久保八幡町、奥は麻布我善坊町となり、現在は虎ノ門(5丁目)と麻布台(1丁目)です。我善坊谷は西久保の谷頭でありながら、麻布に属していた江戸時代の名残が今に引き継がれています。

 

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    ・ 我善坊谷  左手に折れると前回最後の三年坂で、右折すると仙石山に出る坂(我善坊谷坂)です。この坂下から先、通りの左右に御先手組大縄地がありました。

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    ・ 我善坊谷  上掲写真で右折し、我善坊谷坂を上ったところからのショットです。対岸は前回引用の「御府内備考」に「上杉家の屋布」とあった、出羽米沢藩上杉家中屋敷です。

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    ・ 落合坂  我善坊谷の底を縦断する通りは、落合坂を上って終了です。正面の高架は谷町ジャンクションで分かれた首都高都心環状線です。

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    ・ 行合坂  上掲写真の左手から、落合坂上を見下ろしています。なお、落合、行合の坂名は区の標識によっていますが、江戸時代、同様に使い分けていたかは不明です。

我善坊谷

2014-11-25 17:02:55 | 城西の堀川4

 → 「段彩陰影図」からも明らかなように、西久保の谷筋の谷頭は桜田通りから外れ、西に数百メートルのところにあります。形、大きさはだいぶ異なるとはいえ、→ 「明暦図」が八幡社下に描く谷筋がそれで、同図は単に谷と書いていますが、我善坊谷というユニークな名前が知られています。「龕前坊谷は、同所(麻布)なり、上杉家の屋布の後の方なり、『砂子』云、崇源院殿御葬礼ありし時、龕前堂たちしところなりと。『寛永記』云、三年(1626年)十月十八日大御台所御葬礼増上寺におひて執行せらる、御葬送の場所は麻布野をもって定らる、増上寺より御葬送場所御火屋まで、行程千間ありといへり、則この所なるべし」」(「御府内備考」) 「崇源院殿」は八幡神社のところでも触れた二代秀忠正室お江、「龕前堂(がんぜんどう)」は野辺送りの際の仮の御堂のことで、これが我善坊に転訛したというのです。

 

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    ・ 「参謀本部陸軍部測量局の1/5000実測図(明治16年測量及び同17年測量)」  「紙久図や京極堂 古地図CD-ROM」収録の南西部及び南部の一部で、同社の基準(72dpi)で掲載しています。

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    ・ 我善坊谷  谷筋の底の通りは、左手八幡社別当普門院、右手大養寺を分けていました。大養寺に関して「御府内備考」は、慶長16年(1611年)「田地ニ有之候処ヲ築地ニ被成下候」と書いています。

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    ・ 我善坊谷  八幡神社裏手の三年坂からのショットです。三年坂の名は各地にあり、転ぶと3年で死ぬとの俗信とセットになっていることが多いようです。

 <仙石山(番神山)>  上掲写真の三年坂の対岸には、江戸時代、但馬出石藩仙石家の上屋敷があったため、今も仙石山の通称が残っています。「明暦図」で仙石越前(当時は信濃上田藩)を括弧書きしたのは、前後の地図類にはあるのに、事情は不明ですが「明暦図」に書かれていないためです。また、「実測図」当時は仙石町があり、右上隅にそう記されています。一方、「御府内備考」には番神山の名前が収録されています。「番神山 飯倉八幡の北隣仙石越前守の屋舗の内を云、『紫一本』云、太田道灌入道の砦なりと、此城山に道潅塚とてありときく、此城山今は土取場となりてひたと堀崩せり」 なぜ番紳山かというと、「江戸砂子」には「後に小田原北条家の祈願ありて社を建、番紳を勧請す。よって番紳山という」とあります。(三十)番神は主に日蓮宗で信仰された神仏習合の神のことです。

 


西久保八幡

2014-11-22 07:19:52 | 城西の堀川4

 地下鉄神谷町駅の先で、桜田通りは上り坂に差し掛かりります。坂上は外苑東通りとの飯倉交差点で、この西久保の谷筋もこれまでと同様、外苑東通り手前が谷頭です。上り坂に差し掛かる手前の右手に一帯の鎮守、西久保八幡神社が祀られています。→ 「段彩陰影図」で、谷頭を二分するようにつき出している、小さな舌状台地がありますが、その先端が境内地です。社伝によると。寛弘年間(1004~11年)に源頼信が岩清水八幡を勧請して創建、当初は霞が関あたり(榎坂とも)にありましたが、太田道灌の江戸城築城の際、当地に遷りました。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いを前に、二代秀忠の正室崇源院(お江)が戦勝を祈願、下って寛永11年(1634年)、その遺志により社殿が造営されました。

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    ・ 「江戸名所図会 / 西久保八幡宮」  社殿はその後何回か焼失、再建が繰り返され、「図会」に描かれているのは文政元年(1818年)に再建されたものです。なお、江戸時代には境内で大相撲も行われ、大いに賑わったそうです。

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    ・ 桜田通り  神谷町交差点から二百数十メートル、飯倉交差点への上りに差し掛かるところで、下掲写真の西久保八幡神社の鳥居前からの撮影です。

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    ・ 西久保八幡神社  鳥居前に架かっているのが、前回の最後に触れた熊谷橋の遺構ですが、いつ撤去され移されたのかなど、詳細は不明です。

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    ・ 西久保八幡神社  台上にある社殿は昭和20年(1945年)3月に戦災で焼失し、同28年再建されました。なお、境内には縄文時代の遺跡、貝塚の存在が確認されています。

 

 

 


神谷町

2014-11-21 07:18:10 | 城西の堀川4

 西久保の町屋の中心は神谷町です。桜田通り(西久保通)から増上寺方面(芝切通)に抜ける通りが分岐するT字路の前後にありました。現在の地下鉄神谷町駅付近です。家康入国時供をした中間衆の大縄地として与えられ、のち町屋となったところです。当初は西久保町と称していましたが、「本国参州(三河国)八名郡神谷村之古名を以・・・・一円神谷町と相唱申候」と、「御府内備考」は書いています。この神谷町から天徳寺裏門前町へ流れる下水に、熊谷橋が架かっていたことは前回の最後で触れました。

 

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    ・ 桜田通り  神谷町交差点の手前、数十メートルのところで、切絵図はこのあたりに熊谷橋を描いています。(→ 写真は天徳寺の解説プレートに掲載された、嘉永3年の切絵図の一部です。)

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    ・ 桜田通り  切通しへの通りが分岐する神谷町交差点で、地下鉄神谷町駅のあるところです。江戸時代の神谷町はこの四隅を占めていました。

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    ・ 桜田通り  神谷町交差点から増上寺方面に抜ける通りです。「御府内備考」はこの通りを広小路、この付近を広小路入口と書いています。

 <広小路と下水>  「町内中程より東之方芝切通え之往還ヲ往古者里俗拾間道と相唱候処何頃よりか広小路と相唱申候」 この広小路の入口に幅三尺の横切下水が流れていました。「横切下水 巾三尺 右者町内中程東之方芝切通え之往還入口ニ御座候尤南之方より北之方え町並に相流申候」 この下水は東隣にあった同朋町から流れ、右折して北に向きを変えていたようです。「大下水 巾三尺 右者町内家前ニ有之長町並東之方富山町より西之方神谷町え相流申候」(引用はいずれも「御府内備考」) この下水の流末に関しては、前回の天徳寺裏門前町への流れに合流していたのでしょうが、詳細は不明です。

 


天徳寺門前

2014-11-20 07:14:54 | 城西の堀川4

 天徳寺門前は慶長16年(1611年)、天徳寺が当地に移転してきた際、門前町屋となったようで、当初は名主の名前から孫兵衛町と名乗っていました。「御府内備考」当時、表門前町、裏門前町、広小路門前町の三ヶ所に分かれ、うち現桜田通りを挟んで葺手町、神谷町に面していたのが裏門前町です。そこには横切下水があり石橋が架かっていました。「石橋 長四尺幅八尺 右者天徳寺裏門前町中程横切下水ニ懸有之候」 この下水は西隣の神谷町からのものでした。「横切下水 巾五尺 右者町内北之方ニ御座候西之方より東え掛天徳寺裏門前町え流申候」 流末は不明ですが、明治末の「郵便地図」などに唯一描かれた、天徳寺境内の東縁に沿う水路とかかわるのでしょう。(大正10年の地図は→ こちらでどうぞ。港区の旧町名由来板に掲載されているものの一部です。)

 

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    ・ 天徳寺山門前  江戸時代の表門や裏門と場所が変わり、境内の北東角に位置しています。左手の石標には「江戸観音 第二十番 西之窪観音」とあります。

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    ・ 天徳寺山門前  天徳寺とかって寺中(境内の小寺や庵)だった諸院の間のこの道路が、「郵便地図」などの描く水路とほぼ重なります。

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    ・ 旧天徳寺門前(?)  山門前と桜田通りの間の通りで、奥は増上寺へと抜ける、江戸時代広小路と呼ばれていたところです。水路跡を思わせる谷筋が横切っています。

 <熊谷橋>  神谷町の横切下水には熊谷橋が架かっていました。「熊谷橋 長壱丈巾四間 右者町内北之方ニ御座候横切下水に掛有之候尤(もっとも)葺手町境西横町ヲ一円ニ城山と里俗ニ相唱熊谷次郎直実之城跡之由申伝候ニ付前書之通相唱候よし申伝候」(「御府内備考」)  上掲写真の谷筋の右手、桜田通りに架かっていた橋で、その遺構は八幡神社前に保存されています。(→ 写真はこちらです。)

 


西久保2

2014-11-19 07:25:05 | 城西の堀川4

 西久保葺手(ふきで)町の起立の年代は不詳で、町名も屋根葺職人にかかわると思われますが、よく分かりません。ただ、元禄4年(1691年)、幸橋門外の旧地が召上げられ、西久保土取場の一角に移転してきたことが、「御府内備考」に書かれています。土取場というのは公儀御用の土砂採掘場のことで、同書は次のように書いています。「葺手町の裏松平右近将監屋舗の間なり、御砂取場と唱ふ。元禄四年葺手町名主藤吉が先祖小兵衛と云者へ御砂御用を命ぜられしより今も藤吉が掛りにて砂御用を沙汰せり。元は余程広き場所なりしが・・・・今は僅十弐坪余残れりといふ」

 

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    ・ 桜田通り  愛宕トンネルに分岐するT字の交差点からのショットで、この通りが右手葺手町、左手天徳寺の境となっていました。

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    ・ 旧葺手町  右手台上の葺城稲荷は、葺手町が当地に移転してきた時すでにあり、以来鎮守として祀られています。

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    ・ 旧葺手町  上掲写真の右手です。このあたりが葺手町と石見浜田藩松平家上屋敷の境なので、土取場のあった付近と思われます。

 <城山>  「土取場上より江戸見坂辺までを云。『江戸砂子』に熊谷次郎直実が城蹟なるよしと云。『江戸志』云、次郎直実には有べからず、北条家の旗下の士江戸に多きゆへ直実が子孫の北条に属せし人の城蹟なるべしと」(「御府内備考」) 「西ノ窪、土岐丹後守殿御やしきの下。熊谷次郎直実城跡のよしいひつたふ」(「江戸砂子」) 上野沼田藩土岐家上屋敷は、浜田藩邸の上にありました。なお、熊谷次郎のほか、太田道潅の城跡との説もありますが、いずれにしても伝承以外、遺構や文献上の裏付けがあるわけではありません。明治に入り西久保城山町が成立、新住居表示実施まで続きますが、江戸時代の城山より西にずれており、現在城山を冠する建物の多くもそうなっています。 

 


西久保

2014-11-18 07:12:23 | 城西の堀川4

 桜田通りは→ 「段彩陰影図」に見られるように、麻布台と愛宕山に挟まれた谷筋にあります。この谷筋に由来する広域地名が西久保で、「御府内備考」は「愛宕山よりの西久保と云義にや」と、その地名由来を推測しています。谷筋自体は明々白々で、かっては桜川に注ぐ自然河川もあったのでしょうが、その存在を示す地図類や文献は今ところ見ていません。ただ、「町内(新下谷町)西側表巾三尺之大下水」、「町内(車坂町)西側表通り巾三尺大下水」といった「御府内備考」の記述から、大下水化してからの流路の断片を拾い集めることができるだけです。なお、新下谷、車坂の両町は、共に下谷にありましたが、元禄11年(1698年)の大火後、御用地として召上げられ、当地に移転してきたものです。

 

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    ・ 桜田通り  江戸時代は西久保通と称されました。桜川が交差する虎の門2丁目交差点の次の、虎の門3丁目交差点から神谷町方面で、→ 「明暦図」では左折する水路が描かれています。

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    ・ 西側表通り(?)  桜田通りの一つ西側の通りで、引用文にあった両町は、二つの通りの間にありました。「巾三尺大下水」はこちらに沿っていたものと思われます。 

 <天徳寺>  西久保の町屋の多くは、桜田通りの西側にありますが、逆の東側は寺町が占めていました。うち最大の寺院が愛宕山の西麓に位置する光明山天徳寺で、天文2年(1533年)に紅葉山に創建、天正13年(1585年)いったん霞が関に移転したあと、江戸城拡張に伴い慶長16年(1611年)に当地に移転と伝えられています。結城秀康(家康の二男)から始まる越前松平家の菩提寺の一つで、徳川将軍家ともかかわりの深いお寺です。

 

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    ・ 天徳寺  「江戸名所図会」に「支院十七宇あり」とあるように、多くの寺中を擁していましたが、明治以降自立したため、広大な境内地は失われました。

汐見坂下

2014-11-17 07:08:41 | 城西の堀川4

 榎坂を暗渠で越え、汐見坂を下った大下水(桜川)の続です。坂下で左折、すぐに右折して愛宕通り方面に向かいます。昨日UPの→ 「1/5000実測図」当時、坂の左手は工部省の敷地でしたが、その池の水も坂下で合流していました。また、「実測図」からは切れますが、右手の内務省用地内の池からも同様で、これらは備前佐賀藩鍋島家や武蔵川越藩松平家の屋敷のあった江戸時代からそうだったのでしょう。なお、前者は東伏見邸となったあと、現在は虎の門病院や国立印刷局が建ち、大倉喜八郎が入手した後者はホテルオークラの敷地となっています。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1. 汐見坂下で左折します。直進すると次の信号が江戸見坂下です。

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    2. 90mほどで右折したところです。江戸時代には数千石クラスの旗本屋敷が並んでいました。

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    3. 桜田通りを左折、右折のクランクで越えます。地図には反映されていませんが、右写真で横切っているのは環状2号線です。

 <江戸見坂>  「江戸見坂は、霊南坂の上より東の方西の久保へ下る坂なり、此坂の上より江戸の地を眼下にみて、すこぶる景地なり、故にかく名付くといふ、此坂及塩見坂は、麻布と西の窪との接地なれば、何れに属すべしとも定めがたけれど霊南坂につゝきたればこゝに載ぬ。」(「御府内備考」) 汐見坂を上り左折して霊南坂を上り、左折して江戸見坂を下ると元の汐見坂下という関係で、扇形の弧にあたる江戸見坂が最も急坂でした。

 

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    ・ 江戸見坂  中腹からのショットで、左手が元の川越藩上屋敷、現在はホテルオークラです。

 

 

 

 


榎坂、汐見坂

2014-11-15 07:07:51 | 城西の堀川4

 赤坂川の余水を合わせた桜川を追って、榎坂を越えるところから始めます。桜川は榎坂から汐見坂への尾根筋を暗渠で越えていました。以下は共に「御府内備考」の別の個所の引用です。「『江戸砂子』に赤坂川は鮫河橋の方より来りて、流末桜川に落ると書しは、此大下水の事なり、榎坂の辺より分派して、地中を堀通し、霊南坂の脇より桜川の方へ達せり」「此大下水今も榎坂辺より石の埋樋にて塩見坂脇を通し愛宕下藪小路加藤越中守屋舗辺に至れり」 この様子を最初にうかがうことのできる地図類は、明暦3年(1657年)頃の「明暦江戸大絵図」(→ 「明暦図」)です。榎坂の際まで溜池は広がり、ひょうたん堀もありませんが、溜池右岸際の大下水が榎坂手前で途切、坂上で復活して汐見坂を下っているさまが描かれています。

 

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    ・ 「参謀本部陸軍部測量局の1/5000実測図(明治16年測量及び同17年測量)」  「紙久図や京極堂 古地図CD-ROM」収録の南西部及び南部の一部で、同社の基準(72dpi)で掲載しています。

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    ・ 榎坂  坂の左手にあった大下水は、ここで右手にシフトしてから坂を越えます。そこに架かっていた石橋は、→ 「江戸名所図会」の左下に描かれています。

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    ・ 霊南坂  榎坂上で右手に折れる上り坂です。「江戸志云、慶長の頃芝東禅寺の霊南和尚住居ありしゆへ名とすと」(「御府内備考」)

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    ・ 汐見坂  「海の近くみゆればかく名付けしなるべし」(「御府内備考」) ここで地上に出た大下水は、坂の左手を下り、坂下で左折していました。

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2014-11-14 06:49:46 | 城西の堀川4

 以下の記述は、明治中頃までの桜川に関するもので、昭和40年代に区教育員会等から刊行された「港区の文化財」の孫引きです。「桜川は清い流れで、鰻がよく捕れ、小溝があって小さい石橋が架っている所などは、両方から攻めて、一方に笊(ざる)をあてがい、一方から竹竿で追出すと、鮒や小魚がいくつも飛込んだものであった。」 「当時桜川という川が流れていて、私達はそこで魚(ダボハゼ)を捕ったり泳いだりした。赤坂の溜池から水道の余りが流れて来て綺麗な水だった。」 この清流も明治末から大正にかけ、生活排水の流れ込む下水溝となり、関東大震災後に暗渠化されました。「地形図」を追ってみると、昭和3年の「第三回修正」から描かれなくなっています。

 

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    ・ 「東京近傍図 / 麹町区」(参謀本部測量局 明治13年測量)の一部を加工したもので、本来の縮尺は1/20000、パソコン上では1/12000ほどです。オレンジ線は区境で、元の外堀を挟んで左が千代田区、右が港区ですが、「近傍図」当時は麹町区と芝区です。

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    ・ 愛宕通り  愛宕神社下の愛宕通りです。この右手を桜川が流れ、橋が並んで架かっていました。その様子は → 「江戸名所図会」に描かれています。

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    ・ 増上寺大門前  大門前の桜川も→ 「江戸名所図会」に描かれています。表御門前橋(桜川橋とも)前後の桜川の幅は3間と、特に広くなっていました。

桜川

2014-11-13 07:01:03 | 城西の堀川4

 新しいクール「城西の堀川4」で、榎坂下でひょうたん堀に余水を落として以降の、一般に桜川と呼ばれている区間を扱います。「桜川 同所愛宕の麓を東南へ流るゝ溝川をしか名く。新著聞集に、昔虎の門の辺より愛宕の辺迄悉く田畑にて、畔に桜樹幾株ともなくありし、其中を流るゝ故桜川といひしとなり。下流は宇田川橋の方へ流れ、また三縁山に傍ふて金杉の川へも落合へり」(「江戸名所図会」) 二分された下流のうち、宇田川橋を経由、汐留川河口に向かうのが宇田川。一方、三縁山とは増上寺、金杉の川は古川のことなので、こちらは南下して増上寺前を流れ、将監橋付近で古川に合流する本流です。この一帯の水路が最初に登場する地図は、「武州豊島郡江戸庄図」(寛永9年 1632年)ですが、(図から切れる古川合流地点を除き)同様の流路が描かれており、日比谷入江埋立て、江戸町形成の早い段階で、こうした付替えがなされたものと思われます。

 

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    ・ 「段彩陰影図 / 桜川」   「1/5000実測図」や江戸末の切絵図を参考に、江戸時代の堀川や海岸線を薄いブルーで重ねて描いています。(薄いグレイで重ねたのは現在の芝公園です。)

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    ・ 愛宕通り  桜川は右手から流れ、歩道橋下で右折、愛宕神社下に向かいます。右手の高層ビルは虎ノ門ヒルズ、その正面の左手に向かう通りが、下の引用文にある田村小路です。

 <桜川の原型>  桜川の元の形に関して、「江戸砂子」は「愛宕の麓、青松寺前の流、宇田川につゞく」として、(愛宕神社南隣の)青松寺前から宇田川に至る流れをイメージしています。これに愛宕下を経由して赤坂川の流末を連結、今日見られるような桜川の流路となったと考えたのでしょう。一方、「御府内備考」はこの意見に批判的で、「武蔵考に今の虎の門より愛宕の辺まで田地にて畔には桜の木千万本もありし田の流れを桜川といひし今の源助橋その時のしるしとて残りたると、是桜川の本流なるべし」と書いています。
 源助橋は「段彩陰影図」にも書き込んだ会仙川(汐留町入堀)に架かる橋です。「御府内備考」は赤坂川流末は直進して桜川となり、そのまま日比谷入江に注いでいたいたが、のち宇田川のほうに付替えられたと考えているようです。「此下水(赤坂川流末)・・・・昔は是よりたゞちに田村小路を南へ流れて源助町源助橋下の入川につゞきしならん。然るに今は田村小路の方への流は絶て越中守屋舗を南流し芝増上寺の北境に添てその末宇田川に合せる」

 


丹波谷

2014-11-12 06:50:40 | 城西の堀川3

 「御府内備考」のいう水源は湖雲寺境内池ですが、谷頭はその南西200mほどの、六本木通りを越えた先にありました。丹波谷と呼ばれるものです。「町方北を丹波谷と相唱候儀者当時御書院番松平飛騨守様御組屋敷ニ而慶安元子年(1648年)始而岡部丹波守御組屋敷ニ相成候より前書之通相唱来候」 これは谷頭の南にあった不動院門前の書上げです。ただ、手元にある地図類では、延宝8年(1680年)の「江戸方角安見図」に、初めて「岡部丹波やしき」の書き込みが見られ、その後の切絵図などでは組屋敷(大番組屋敷)となっています。

 

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    ・ 「参謀本部陸軍部測量局の1/5000実測図(明治16年測量)」  「紙久図や京極堂 古地図CD-ROM」収録の南西部の一部で、同社の基準(72dpi)で掲載しています。

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    ・ 丹波谷入口  六本木通りの先の丹波谷に入る道路です。左手の寄席坂や六本木通りの上りに比べフラットで、谷筋になっているのが分かります。

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    ・ 丹波谷坂下  左折すると丹波谷坂です。→ 坂上の解説標識には、「明治初期この坂を開き、谷の名から坂の名称とした」とあります。

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    ・ 不動院  麹町平河付近にあり万治元年(1658年)当地に移転してきました。当初は境内地が狭かったため、附近の沼地を開拓したと伝えられています。