神田川 「まる歩き」 しちゃいます!!

ー神田川水系、支流はもちろん、旧水路、廃水路、全部 「まる歩き」ー

呉服橋

2019-08-31 06:35:55 | 平川・外堀1

 しばらく日本橋川から離れ、一石橋以南の外堀を追います。外堀は元飯田町堀留を起点に、右回りで追ってみるとちょうど「の」の字を描きますが、今回の対象はその内側の線の下半分に当たるところで、明治以降、外濠川と呼ばれることもあった区間です。開削年代は特定できませんが、 → 「別本慶長江戸図」の右隅に一部記載されており、慶長7年(1602年)までには開削され、日比谷入江埋立ての進捗に応じて、延長、整備されていったものと思われます。なお、外濠川は戦災により発生した瓦礫を処理するため、戦後間もなく埋立てられ、完全に消滅するのは昭和30年代に入ってからです。

 

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    ・ 「東京近傍図 / 麹町区」(参謀本部測量局 明治13年測量)の一部を加工したもので、本来の縮尺は1/20000、パソコン上では1/12000ほどです。オレンジ線は区境で、外濠川を挟んで左が千代田区、右が中央区、また左下隅は汐留川を挟んで港区です。  

 外濠川は途中4つの橋と外郭門を有していました。北から呉服橋、鍛冶橋、数寄屋橋、そして山下橋の各門で、八重洲橋、有楽橋などは明治以降に架橋されたものです。うち最初の呉服橋門は寛永6年(1629年)に奥州の諸大名により築造されました。名前の由来は門外に幕府御用達の呉服商後藤家があったためで、初出の「武州豊島郡江戸庄図」では後藤橋となっています。明治に入り外郭門は取り壊され、その石塁を用いて石橋となり、のち鉄橋となりましたが、戦後外濠川の埋め立てにより呉服橋もなくなりました。

 

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    ・ 外堀通り  永代通りとの呉服橋交差点です。外堀通りの左半分は元々通りだったところで、通りの右半分が外堀の左半分にあたります。

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    ・ 永代通り  上掲写真の右手で、横断歩道のあたりに呉服橋が、その奥に呉服橋門がありました。橋の東西を直線で結ぶ道路ができたのは明治に入ってからです。 

一石橋

2019-08-30 06:53:00 | 平川・外堀1

 常盤橋下流の十字路には、前々回UPの→ 「江戸名所図会」からも見て取れるように、(時計回りに)常盤橋、一石橋、呉服橋、銭瓶橋が架かっていました。うち一石橋の架橋は他の三橋より遅れ、「武州豊島郡江戸庄図」(寛永9年 1632年)で、その名と共に初めて登場します。橋名の由来は江戸ッ子好みの小話風で、近くに後藤を名乗る屋敷が二つあり、後藤(五斗)と後藤(五斗)で十斗、すなわち一石だというのです。ちなみに二つの後藤というのは、常磐橋前の金座(現日本銀行)にあった御金改役の後藤家と呉服橋近くにあった呉服商の後藤家です。

 

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    ・ 一石橋  正面は大正11年(1922年)改架の花崗岩張りアーチ橋の親柱ですが、平成に入り改修された際一基だけ保存されました。

 江戸時代も後半になると、一石橋から東隣の日本橋にかけては盛り場となり、そのため迷子も多かったのでしょう、橋のたもとには迷子を知らせる→ 石柱が立てられました。現在も上掲写真の親柱の隣に保存されていますが、その正面には「まよい子のしるべ」とあり、左側に迷子、尋ね人の特徴を書いた紙を、右側に見かけた旨知らせる紙をはる、といったものでした。同様のものが湯島天神、浅草寺、両国橋といった江戸屈指の繁華街に置かれたそうです。

 

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    ・ 日本橋川  一石橋から下流方向で、左カーブで東に向きを転じた後です。高架は同様に左カーブした都心環状線、奥に呉服橋出入口が見えます。

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    ・ 外堀通り  一石橋上から呉服橋交差点方向です。通りの右半分から隣のビルまでが、ほぼ埋立てられた外堀の幅に当たります。

銭瓶橋

2019-08-29 07:01:01 | 平川・外堀1

 道三堀が外堀に合流する手前に架かる銭瓶橋は、「慶長見聞集」の「江戸の川橋にいわれ有る事」の中で、五つの橋の最後に登場します。「町には舟町と四ヶ市のあひにちいさき橋只一つ有。是は往ふくの橋也。文禄四年の夏の比、此橋もとにて銭かめをほり出す。永楽、京銭打交りて有りしを四ヶ市のもの共、此銭かめを町の両御代官板倉四郎右衛門殿、彦坂小刑部殿へさゝけ申たり。それより此橋を銭かめ橋と名付たり」 文中の舟町がどこにあるのかは、「江戸の川橋にいわれ有る事」の冒頭、「見しは今、江戸にいにしへよりほそきなかれたゝ一筋有。・・・・此水御城堀のめくりを流て舟町へおつる」から、平川の河口が日比谷入江なのか、それとも江戸湊なのかという、重要な問題と関わっています。

 

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    ・ 「参謀本部陸軍部測量局の1/5000実測図(明治16年測量)」  「紙久図や京極堂 古地図CD-ROM」収録の中部の一部で、同社の基準(72dpi)で掲載しています。 

 四ヶ市(四日市)は、「武州豊島郡江戸庄図」(寛永9年 1632年)によると、日本橋下流の右岸にあり、対岸は大船町(のち本船町)です。この大船町を舟町とすると、銭瓶橋は江戸橋のところにあったことになりますが、同図は現在位置に銭瓶橋を描いています。数十年の間に銭瓶橋を名乗る橋が変わったのか、それとも四日市町や舟町の場所が移動したのか、「東京市史稿市街篇」は、町のほうが移転したのではと推測しています。→ 「別本慶長江戸図」で、道三堀周辺は「町人住居」となっていますが、「武州豊島郡江戸庄図」では大半が武家地です。江戸城の拡張に伴い、押し出される形で移転したのかもしれません。

 

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    ・ 道三堀跡  一石橋から道三堀跡を振り返っての撮影で、奥の建物(日本ビルジング)付近に銭瓶橋が架かっていました。この区画は目下再開発中で立ち入りはできません。 

 <平川付替え論2>  平川付替えをめぐる二説のうち、現在有力なのは平川河口=日比谷入江説ですが、その内部にも付替えの経緯を巡って対立があります。道潅以降付替えの進んでいた平川に、江戸開府時に道三堀を連結したというもの、この場合の道三堀は辰の口・銭瓶橋間を指します。あるいは、江戸開府時にまず道三堀を開削し、それに平川を付替えて繋げたというもの、こちらの道三堀は、一般にいわれているのとは異なり、江戸前島の根元を江戸湊まで開削した、広義のものということになります。いずれにしても確定的な文献はなく、推測の域を出ない問題で、かの鈴木氏自身、初期の著作での道灌による付替え説から、家康入国時の付替え説にシフトしているように見えます。

 


外堀と道三堀

2019-08-28 06:41:27 | 平川・外堀1

 常盤橋の先で日本橋川は、ほとんど左折といっていい角度で左カーブします。もっとも、江戸時代には「江戸名所図会」が描くように、二本の水路がクロスする十字路だったところですが、明治末には道三堀が埋め立てられてT字路になりました。戦後、呉服橋以南の外堀(外濠川)がやはり埋め立てられ外堀通りとなり、その結果、手前の常盤橋から左手の一石橋への流れだけとなり、今日の日本橋川の形となったものです。ところで、十字路となったのはいつ、どのような経過によってなのか。平川の本来の流路とかかわる謎であり、様々な仮説が考えられるところですが、ここでは平川河口=日比谷入江説の立場から、平川の付替えと道三堀の開削によってとしておきます。

 

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    ・  「江戸名所図会 / 八見橋」  八見橋は一石橋の別名です。自身を含め八つの橋を一望出来るという意味ですが、図には左手にある日本橋、江戸橋を欠いています。別途、単独で取り扱っているからでしょう。  

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    ・ 常盤橋  旧常盤橋の親柱(常磐の文字を使用)越しに見た現常盤橋です。関東大震災後の復興橋として、元の位置から100mほど下に架け替えられ、旧常盤橋は歩行者専用となりました。  

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    ・ 日本橋川  現常盤橋からのショットです。左カーブ上に架かるのが一石橋で、外堀通りが通っています。右手のスペースは、合流する道三堀を埋め立てたところで、今は小公園になっています。  

 <平川付替え論>  平川付替えをめぐる諸説は大きく二分され、平川河口=江戸湊説から、現行の日本橋川の流路を自然河川のそれとするもの、平川河口=日比谷入江説から、日本橋川の一ツ橋、神田橋以降を付替えによるとするものです。前者を論じたのは菊池山哉「五百年前の江戸」(昭和31年)で、「今の常盤橋の地底高くとも、最初言うた如に、平川の流れは一ツ橋から東へ向って、末は日本橋川にあったと考えて居る」としています。ただ、今日この説によるものはほとんどなく、これは昭和初期の地下鉄銀座線の敷設に当たって作成された地盤図をもとに、日本橋川の人為的な開削を立証した鈴木理生氏の著作によるところが大きいようです。

 


常盤橋

2019-08-27 05:50:51 | 平川・外堀1

 竜閑川の分岐点から100mほどで、日本橋川は高架のJR線をくぐり、その先すぐに新常盤橋、そして常盤橋門前にある旧常盤橋、現在の常盤橋と連続します。常盤橋は → 「慶長江戸図」の当時、浅草への道筋にあることから浅草口、浅草橋と呼ばれていました。7年のものには「さんやより千じゅへ出、奥州道」と添えられています。それが、「武州豊島郡江戸庄図」(寛永9年 1632年)では大橋となり、12年の「慶長江戸図」で大橋とされた大手門のところは、「もと大橋口」となっていて、江戸城の拡張に伴い、大橋の名称が移動したことがうかがえます。

 

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    ・ 日本橋川  山手線などの走る高架のJR線をくぐります。その先に大正時代に路面電車開通に合わせて架けられた→ 新常盤橋があり、江戸通りが通っています。  

 いずれにしても、日本橋、日本橋通りができる以前の江戸市街は、常盤橋から浅草方面への道筋(本町通り)を中心に形成され、町支配を担った奈良屋など町年寄は本町通りに居を構えていました。なお、現在に至る名称、常盤橋については、三代家光の時代、「金葉集」の一首、「常盤のはしにかゝる藤なみ」から命名したとの伝承が、「御府内備考」に収録されています。(常盤橋、常盤門は先の震災で損傷を受け現在閉鎖して改修中のため、以下の写真はそれ以前のものを使用しています。)

 

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    ・ 日本橋川  新常盤橋から下流方向で、左手奥のレトロな建物が日本銀行です。その前に架かるのが常盤橋、さらに右手には常盤橋門の枡形石垣があります。

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    ・ 常盤橋  奥は常盤橋門の枡形石垣、なお、明治10年(1877年)改架の橋は、桝形の石材を利用した都内髄一の洋式石橋です。

鎌倉河岸

2019-08-26 05:50:22 | 平川・外堀1

 神田橋の次は鎌倉橋です。当地に荷揚げ場、鎌倉河岸があり、隣接する町屋が鎌倉町と呼ばれたのが由来ですが、橋自体は関東大震災後の架橋で、錦橋などと同じいわゆる震災復興橋です。一方、鎌倉河岸、鎌倉町の歴史は古く、江戸城の天下普請の際、当地に建築資材の荷揚げ場ができ、取り仕切ったのが鎌倉の材木商だった、といわれています。江戸城本丸最寄りの荷揚げ場として、江戸期を通して利用されました。なお、鎌倉町にあった酒屋豊島屋は、白酒で有名ですが、酒の肴を提供し居酒屋の先駆けとなりました。

 

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    ・ 日本橋川  鎌倉橋から下流方向で、この先右カーブで常磐橋を目指します。なお、右岸の石垣および右カーブのところの水門に注目です。  

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    ・ 鎌倉河岸遺構(?)  鎌倉橋の下流の左岸を覗き込んでいます。石組みがここだけ切れ込みテラス状になっていて、荷揚げ場の遺構と思われます。

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    ・ 龍閑川跡  左手の水門は江戸時代の神田堀、明治に入り龍閑川と呼ばれた水路のもので、現在は埋め立てられ下水道馬喰町幹線に転用されています。 

 <龍閑川>  龍閑川は江戸時代、神田堀、神田八丁堀、白銀堀等と呼ばれました。「神田堀 鎌倉河岸龍閑橋の辺より御堀の枝流となり、東の方馬喰町に達し、それより南に折れ、浜町にかゝりて大川に合す。近き年馬喰町辺にて船入りを止めしゆへ、今の二流の入堀のごとくなれり。馬喰町辺より浜町辺迄を浜町堀といふ」(「御府内備考」) 八丁堀は8丁(900m弱)ほどの長さがあったための、白銀堀は右岸の本銀(ほんしろがね)町に由来する名前です。一方、龍閑川の名前は、分岐地点に架けられていた龍閑橋によっていて、付近に井上竜閑という幕府坊主の屋敷があり、そう名付けられたといいます。

 


錦橋、神田橋

2019-08-24 05:41:47 | 平川・外堀1

 内堀にシフトする直前の一ツ橋まで戻って、日本橋川(外堀)のウォーク&ウォッチの再開です。ここまでほぼ南下していた日本橋川ですが、雉子橋のところで左折、右折のクランク、一ツ橋のところで左折と、徐々に東向きにシフトし、次の錦橋から神田橋にかけて→ 「段彩陰影図」から読み取れるように、江戸前島の微高地に差し掛かります。人工的に開削したといわれている区間です。なお、錦橋は江戸時代にはなく、昭和の初めに架けられたいわゆる震災復興橋です。左岸の錦小路がその名の由来で、最寄りの武家地に一色家の屋敷二軒があり、一色が二つで二色(錦)小路と呼ばれたともいわれています。

 

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    ・ 日本橋川  錦橋から下流方向で、ここは右カーブ、左カーブの蛇行が見られ、次の神田橋は見通せません。ほぼ直線の首都高とズレのあるのはこの蛇行のためです。

 次の神田橋は神田橋門のあったところで、 → 「別本慶長江戸図」には「芝崎口」と記されています。橋の南側に土井大炊頭利勝の屋敷があり、「武州豊島郡江戸庄図」(寛永9年 1632年)では、「大炊殿はし」となっています。土井大炊頭の屋敷は、神田明神旧地を賜ったもので、それに伴い同明神は駿河台に遷ったといわれています。現在地の外神田に改めて遷座したのは、元和2年(1616年)のことです。なお、神田橋を通る道筋(現本郷通り)は、上野寛永寺や日光東照宮参拝のための将軍御成道でした。

 

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    ・ 日本橋川  正面に見えるのが神田橋です。神田橋門は、ここまで見てきた雉子橋門、一ツ橋門など、多くの日本橋川筋にある門と同様、寛永6年(1629年)の天下普請によって修築されました。

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    ・ 神田橋  明治以降市電開通や震災復興などで度々改架されましたが、現在のものは昭和55年(1980年)の架け替えです。なお、右手奥あたりが神田明神の旧地といわれています。

道三堀

2019-08-23 06:36:38 | 平川・外堀1

 和田倉堀が右折する通称辰の口から、道三堀跡を追って外堀、一石橋へと向かいます。といっても、道三堀のあったのは、丸の内、大手町という日本屈指のオフィス街です。明治42年(1909年)という早い段階で、市区改正計画の一環として埋め立てられてしまいました。流路と重なる道路も残されていないため、起点と終点以外は地図上でたどるしかありません。なお、名前の由来ですが、代々典薬寮の医官を勤めた今大路道三の屋敷が、堀の南側にあったため、道三堀、道三河岸と通称されるようになりました。もっとも、今大路家の元となった二代目、曲直瀬(まなせ)道三が、秀忠に招かれ京から下ったのは、慶長年間も中ごろのことなので、開設当時の名前は道三堀ではなかったことになります。

 

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    ・ 「陸地測量部発行の1/10000地形図(明治42年測図) /  日本橋」  道三堀は埋め立て中で、辰の口から永代通りまで流路がそのまま道路になっています。  

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    ・ 辰の口跡  和田倉堀と道三堀の接続する、通称辰の口のあったところです。「形ち龍の水を吐出すが如くなれば、龍の口と唱へしより、近き辺をもその名を襲ふと云」(「御府内備考」)

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    ・ 永代通り  大手町駅前交差点の北東角を写しています。正面に写る大手町野村ビルの裏側に、千代田区教育員会の→ 「道三橋跡」の解説プレートが立っています。

 道三堀には三本の橋が架かっていました。辰の口のところに一つ、一石橋手前の合流地点に一つ、そして中間にあった道三橋です。「昔此橋の南に、典薬寮の御医官今大路家の第宅ありしとなり。・・・・俗間伝云、ある時大将軍家道三をめさる、少し遅々したりければ御咎ありし時、御堀をめぐる故にその道遠と申上ければ、其後此橋をかけしめ給ふとなり」(「江戸名所図会」)  → 「慶長江戸図」にはなく、「武州豊島郡江戸庄図」(寛永9年 1632年)で初めて、南側の「道三」の書き込みと共に描かれており、年代的にはこのエピソードと附合しています。(合流地点にあった銭瓶橋については、該当個所で詳細します。)

 


和田倉堀

2019-08-22 06:45:38 | 平川・外堀1

 パレスホテル南で桔梗堀から分かれ、東に向かいすぐに右折して南下する和田倉堀がテーマです。 → 「慶長十三年江戸図」にも登場する和田倉(和田蔵)の名前は、家康入国以前からのものとの説もあるようですが、いずれにしても和田は海を表す古語「ワタ」、倉(蔵)は文字通りのもので、海(日比谷入江)に面した物資の集積場の意と思われます。特に、家康のお国入り直後は、江戸城に直結した荷揚げ場として、大いに賑わったであろうことは、「慶長七年江戸図」の日比谷入江に面した個所に、「蔵の御門」「一の蔵地」とあることからも、容易に想像できるところです。

 

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    ・ 和田倉堀  内堀通り越しのショットで、元は桔梗堀と連続していましたが、現在は内堀通りによって隔てられています。→ 正面奥が、道三堀と和田倉堀の接続する、通称辰の口のあったところです。  

 ただ、道灌時代ならともかく、江戸城と江戸市街の拡張期、日比谷入江だけでは手狭だったのでしょう。それに江戸城防衛、居住地造成の要請から、すでに日比谷入江埋立てが視野に入っていたのかもしれません。江戸前島東岸(江戸湊)経由での物資輸送の比重が高まり、江戸湊と和田倉をショートカットする運河、道三堀が開設されることになります。道三堀は江戸前島の根元を開削、その東岸の江戸湊(日比谷入江まで含めて広く江戸湊とする考えもあり)と西岸の日比谷入江をショートカットするもので、さらに隅田川東岸の小名木川に連続、旧利根川河口、房総方面の物資(行徳の塩など)を江戸城和田倉に集積する運河の機能を担いました。

 

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    ・ 和田倉堀  日比谷通りに面した辰の口跡から、和田倉門方向のショットです。なお、和田倉堀は和田倉門橋までで、それより先は→  馬場先堀となり、さらに日比谷堀へと向かいます。

 この道三堀が開削されたのは、家康のお国入り直後の最初の堀川開削工事によってとされ、「東京市史稿 市街篇」は天正18年(1590年)8月18日の「天正日記」、「御城下はしぶしんはじまる。ふないりぼりふしんはじまる」を引用、この船入堀を道三堀のこととしています。「唯今日本橋筋より道三河岸通りの竪堀のほられ候が初りにて候。夫より段々と竪堀横堀共ニ出来」 こちらはよく引用される「落穂集追加」の一節です。なお、竪横は江戸城に対してのもので、道三堀は江戸城に向かっており竪堀となります。

 


大名小路

2019-08-21 06:31:14 | 平川・外堀1

 大手門の先は桔梗堀、内桜田門(桔梗門)です。内桜田門は大手門と並び、下乗門経由で本丸に至る諸大名の登城ルートでした。太田道潅の桔梗紋が屋根瓦にあったことが、別名の由来ともいわれていますが、 → 「別本慶長江戸図」には吉祥門とあります。ところで、桔梗堀の途中で、左手に分かれるのが和田倉堀で、すぐに右折して馬場先堀、日比谷堀へと連続します。一方、桔梗堀のほうは右折、左折のクランクで西側にシフトしながら、蛤堀、二重橋堀をへて、やはり日比谷堀に合流します。こうして、左右に分かれた内堀に囲まれる区画は、東隣りの外堀との間の区画と合わせ大名小路と呼ばれ、幕府要職にある譜代大名の上屋敷が並んでいました。

 

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    ・ 「東京近傍図 / 麹町区」(参謀本部測量局 明治13年測量)の一部を加工したもので、本来の縮尺は1/20000、パソコン上では1/12000ほどです。  

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    ・ 桔梗堀  桜田巽櫓のところで右折する桔梗堀です。正面奥の大名小路のうち、桔梗堀に近い一角には、幕末に京都守護職を勤めた会津藩の上屋敷がありました。

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    ・ 内桜田門  桔梗堀はここで終了します。奥は蛤堀で、天神堀と連続して、二の丸と三の丸を隔てていましたが、今はここから坂下門までの堀となっています。

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    ・ 大名小路跡  坂下門前から日比谷方向の内堀通りです。俗に西丸下と呼ばれる大名小路の中心で、幕閣の要職にある譜代大名は、任期中ここに屋敷を拝領しました。

本丸、天守台

2019-08-20 06:25:57 | 平川・外堀1

 大手門から本丸をめざして中の門まで来ました。その先を左手に進むと、石垣を見ながら上る坂があり、右カーブで上りきったところが本丸正門となる中雀門(ちゅうじゃくもん)です。大手三の門(下乗門)、中の門を駕籠で通過した御三家もここで駕籠から下りました。その先は視界が一気に開け、20ヘクタール近くある本丸跡です。一方、中の門を右手に折れると、二の丸のエリアに当たり、二の丸大奥や庭園がありました。左手には本丸を隔てる石垣に沿って白鳥堀があり、その先の→ 汐見坂を上るとやはり本丸に至ります。

 

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    ・ 中雀門  真鍮の化粧金具の鍮石(ちゅうじゃく)から、あるいは南面を守護する朱雀(すざく)の転訛といわれています。御書院番の番所があったことから書院門とも呼ばれました。

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    ・ 本丸跡  中雀門の先の芝生に覆われたフラットな空間ですが、かっては手前から表御殿、中奥、大奥の三つの区画に分かれていました。正面奥にチラッと見えるのが、本丸跡を唯一物語る天守台です。  

 20ヘクタール近い本丸の最深部に天守台が残されています。明暦の大火(1657年)によって全焼した天守を再建すべく築造されましたが、復興優先の政策変更により再建計画は取りやめになり、天守台だけが残されました。以後、富士見櫓が実質的な天守の機能を引き継ぎました。なお、江戸城天守は慶長、元和、寛永の各期に三度建てられました。寛永15年(1638年)、三代家光時代に完成した最後の天守は、幕府の権威を象徴する国内最大のもので、外観5層、内部6階、地上からの高さは58メートルありました。

 

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    ・ 天守台  花崗岩製で高さ11m、東西約41m、南北約45mあります。なお、寛永の天守台はやや高く13mほどあり、材質も伊豆石だったそうです。

大手門内

2019-08-19 06:18:20 | 平川・外堀1

 大手門から本丸までの寄り道です。右折、左折で大手門の枡形を抜けると大手三の門、御三家を除く大名諸侯がここで駕籠から降りたことから別名下乗門です。現在は埋め立てられましたが、大手堀の内側に天神堀から連続する堀があったところで、 → 「慶長十三年江戸図」には「大手土橋」と書き込みがあります。当時はここが大手門の機能をにない、その一つ外側の堀に「大橋」が架かっていたことになります。下乗門の枡形を抜けると二の丸のエリアですが、左手には鉄砲百人組が交代で詰める百人番所、右手は本丸に通じる中門です。

 

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    ・ 大手門(渡櫓門)  前回写真の高麗門に対し、内側の右手にある門は渡櫓門と呼ばれ、直角に配置されています。二つの門の間の、石垣で囲まれた四角い空間が枡形です。

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    ・ 大手三の門(下乗門)  大手門(渡櫓門)を出て左折した先にあります。かっては門の手前に下乗橋が架かり、右手天神堀、左手蛤堀を分けていました。  

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    ・ 百人番屋  下乗門の枡形を左折で抜けた先です。左手の百人番所には与力20人、同心100人からなる根来組、伊賀組など4組が交代で詰めていました。

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    ・ 中の門  百人番所の右手にあるのが中の門です。中の門の先を右手に折れると二の丸や白鳥堀、左手の坂を上ると中雀門を経て本丸に至ります。

大手堀、大手門

2019-08-17 06:34:38 | 平川・外堀1

 一ツ橋からの平川の推定流路上にある、大手堀が右カーブしているところに戻ります。そこから南に向きを転じ、400mほどで大手門です。 → 「慶長江戸図」のうち慶長7年のものには「御城入口門」、同13年のほうには「大橋」とあるところで、「慶長見聞集」の「御城の大手の堀に橋ひとつかゝりたり。よの橋より大きなれはとて是をは大橋と名付たり」も、やはり現在の大手門前に架かる橋のことと思われます。なお、「御府内備考」は「慶長見聞集」の別の個所を引用し、小熊、渡辺なる兵法者が、大橋の上で武芸を競いあったところ、「上聞に達し、家康様、将軍様御見物なされ候」とのエピソードを紹介、「此大橋といへるもの当所(大手門)なるべし」としています。

 

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    ・ 大手堀  右カーブで南下するところです。正面左手は大手町一丁目のオフィスビル群ですが、 → 「段彩陰影図」からも見て取れるように、江戸前島の付け根部分と目されています。

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    ・ 大手堀  平川の河口付近です。一度引用した「江亭記」の「城之東畔有河 其流曲折而南入海」に続き、高橋の名前が出てきますが、このあたりに架かっていたものと思われます。(常盤橋説、江戸橋説などもあります。)  

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    ・ 大手門(高麗門)  本丸のあった皇居東御苑は、月金を除き無料で公開され、ここ大手門をはじめ、平川門、北桔橋門から入退場することができます。

 <将門塚>  大手町一丁目のオフィス街の一角、夏の風物詩のカルガモ池のある三井物産ビルの裏手に、→ 将門塚と伝えられる旧跡があります。(塚は古墳といわれていますが、関東大震災で崩壊し現存しません。) 当地は天平2年(730年)創建と伝えられる神田明神の旧地でもあり、また天慶3年(940年)、平将門公を祀って津久戸明神(現築土神社)も創建されています。江戸の宗教的権威と政治、軍事拠点(江戸城)が、平川が日比谷入江に注ぐ河口をはさんで向き合っていたわけです。

 


清水門、牛ヶ淵

2019-08-16 06:17:21 | 平川・外堀1

  → 「別本慶長江戸図」で、竹橋(御内方通行橋)の上流に描かれているのは、堀というよりは、田安門下から発する自然河川のように見えます。その後拡張され清水堀となったところですが、清水堀、清水門の名前の由来、「往古、此辺より清水湧出しけるより御門の名とするよし、古老のいひ伝へなりと云」(「御府内備考」)を考え合わせると、この清水を水源とする小流れの可能性が考えられます。あるいは、竹橋下流の幅広の堀は、湧水を集めた溜池だったのかもしれません。

 

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    ・ 清水門橋  清水門に至る土橋です。手前は竹橋から続く清水堀、奥は田安門に至る牛ヶ淵です。なお、清水の名前は江戸城以前にあった清水寺に由来するとの説もあります。  

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    ・ 清水門  北の丸に入る門で、寛永元年(1624年)に安芸藩浅野家によって建造されました。現在のものは万治元年(1658年)の再建で、国の重要文化財です。 

 清水門に至る土塁でせき止められているのが牛ヶ淵です。「御府内備考」の引用する「江戸名所志」は、その名前の由来を次のように述べています。「牛ヶ淵 九段坂脇の御堀をいう。昔此処へ銭を積たる牛車落て、その牛死せしよりの名といふ」 なお、「江戸・東京の川と水辺の辞典」(2003年 鈴木理生)は、牛ヶ淵を江戸開府当初、飲料水用に設けられたダム湖としており、現在でも日に600トンの湧水が認められるそうです。

 

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    ・ 牛ヶ淵  清水門側からのショットで、正面の台上にあるのは日本武道館です。左折して田安門に至る区間の写真は、→ こちらでどうぞ。

竹橋

2019-08-15 06:47:50 | 平川・外堀1

 前々回引用した「慶長見聞集」の「江戸の河橋にいわれ有事」は、雉子橋、一ツ橋から大手橋へと向かう平川の推定流路を補強するはずですが、一つ大きな問題があります。同書は雉子橋、一ツ橋と大手橋の間に竹橋を挟んでいて、一本の流れを前提とすると相当不自然な蛇行を考えなければなりません。そこで、ここでは牛ヶ淵、清水堀を経て平川本流へと注ぐ小支流を仮定、竹橋はその流れに架かっていたものとしておきます。

 

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    ・ 竹橋  内堀通り竹橋交差点から、竹橋、紀伊国坂方向のショットです。左手は大手堀、本丸、右手は清水堀、北の丸にあたり、右手のエリアには東京国立近代美術館、国立公文書館、科学技術館などが建ち並んでいます。  

 なお竹橋の名前の由来については、「竹をあみて渡したる橋有。これをはすのこ橋、竹橋とも名付けたり」(「慶長見聞集」)とする説が一般ですが、「御府内備考」は「又一説に、竹橋は昔在竹橋といへり」と、異説を併記しています。後北条家の家臣、在竹某が近くに居を構えており、在竹橋と呼ばれていたが、のち竹橋と略されるようになったというものです。なお、 → 「別本慶長江戸図」では、田安門下から発する自然河川様の流れが、本丸を囲む堀に合流しており、その根元に橋が架かっています。これが竹橋と思われ、傍らには「御内方通行橋」と記されています。

 

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    ・ 平川堀  紀伊国坂を上って左手のショットで、正面は北桔橋(きたはねばし)門、その奥が本丸です。竹橋、北桔橋のラインが本丸への最短距離にあたり、帯曲輪、深い堀、桔橋と、防御上の工夫が随所に見られます。  

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    ・ 清水堀  竹橋から上流方向です。正面の高架は都心環状線、その先は左カーブで清水橋は見えません。なお、左手の石垣の上は北の丸で、右手奥200mほどのところには日本橋川に架かる雉子橋があります。