しばらく日本橋川から離れ、一石橋以南の外堀を追います。外堀は元飯田町堀留を起点に、右回りで追ってみるとちょうど「の」の字を描きますが、今回の対象はその内側の線の下半分に当たるところで、明治以降、外濠川と呼ばれることもあった区間です。開削年代は特定できませんが、 → 「別本慶長江戸図」の右隅に一部記載されており、慶長7年(1602年)までには開削され、日比谷入江埋立ての進捗に応じて、延長、整備されていったものと思われます。なお、外濠川は戦災により発生した瓦礫を処理するため、戦後間もなく埋立てられ、完全に消滅するのは昭和30年代に入ってからです。
- ・ 「東京近傍図 / 麹町区」(参謀本部測量局 明治13年測量)の一部を加工したもので、本来の縮尺は1/20000、パソコン上では1/12000ほどです。オレンジ線は区境で、外濠川を挟んで左が千代田区、右が中央区、また左下隅は汐留川を挟んで港区です。
外濠川は途中4つの橋と外郭門を有していました。北から呉服橋、鍛冶橋、数寄屋橋、そして山下橋の各門で、八重洲橋、有楽橋などは明治以降に架橋されたものです。うち最初の呉服橋門は寛永6年(1629年)に奥州の諸大名により築造されました。名前の由来は門外に幕府御用達の呉服商後藤家があったためで、初出の「武州豊島郡江戸庄図」では後藤橋となっています。明治に入り外郭門は取り壊され、その石塁を用いて石橋となり、のち鉄橋となりましたが、戦後外濠川の埋め立てにより呉服橋もなくなりました。
- ・ 外堀通り 永代通りとの呉服橋交差点です。外堀通りの左半分は元々通りだったところで、通りの右半分が外堀の左半分にあたります。
- ・ 永代通り 上掲写真の右手で、横断歩道のあたりに呉服橋が、その奥に呉服橋門がありました。橋の東西を直線で結ぶ道路ができたのは明治に入ってからです。