神田川 「まる歩き」 しちゃいます!!

ー神田川水系、支流はもちろん、旧水路、廃水路、全部 「まる歩き」ー

村境の水路7

2017-06-12 06:00:22 | 善福寺川4

 村境の水路を追って五日市街道まできました。→ 「和田村絵図」にあるように、五日市街道が和田、馬橋の村境なので、水路自体は引き続き田端村飛地ですが、右隣りの古道より東は馬橋村ということになります。現在の住所は梅里2丁目です。なお、水路の先端は梅里中央公園の西までですが、「杉並の川と橋」(平成21年 杉並区立郷土博物館)の湧水リストは、その梅里中央公園西をリストアップしています。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1. 五日市街道を越えたところで、歩道の真ん中に車止めがあります。どうやらここで左折、右折のクランクです。

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    2. 車止め付でガードされた路地が続きます。このブロックは右カーブの連続で西側に弧を描いています。

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    3. 路地はいったん途切れ幅広の道路に出ますが、ワンブロック先に車止めが見えます。

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    4. このワンブロックで明かな水路跡は終了します。

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    5. 右手は道一つ挟んで梅里中央公園、左手は湧水リストにある成田東3-36です。

村境の水路6

2017-06-10 06:45:37 | 善福寺川4

 和田村との境の水路を追って都道427号線を越えました。この先五日市街道まで、左カーブの連続で東側に弧を描いて北上します。ところで、これまで水路に沿っていた村境は、途中で右手を並行する古道にシフトします。→ 「成宗村絵図」の右上隅で、二股になっているうちの左側が都道のベースになった道路、右側が阿佐ヶ谷の権現通りに至る古道です。現行の住居表示では、成田東1丁目と松の木2、3丁目の境は、都道を越えるところで古道側にシフトしていますが、本来は五日市街道に向かう途中でした。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1. 都道を越えた先で、現行の住居表示は左右とも成田東1丁目になります。

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    2. 若干の蛇行が交りますが基本は左カーブで、徐々に北に向きを変えます。

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    3. 杉並村と和田堀村当時の境は、このあたりから古道にシフトしていました。

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    4. 五日市街道に近づいたところで、左右に蛇行し始めました。

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    5. 五日市街道を越えます。西側の水路の水源とされる「水流し」からは300mほど離れたところです。

村境の水路5

2017-06-09 06:10:47 | 善福寺川4

 和田村との境となっていた水路をさかのぼっての五回目です。右カーブで東寄りにシフトしたあと、今度は左カーブで再び北上します。この際、右手を同じく北上する都道427号線と並行します。現在は松ノ木八幡通りと通称されていますが、べースとなったのは→ 「和田村絵図」にも描かれた古道で、大宮八幡前に架かる宮下橋を通り、阿佐ヶ谷の権現通りへと向っていました。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1. 前回は右カーブの連続でしたが、ここからは左カーブが続きます。

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    2. この左カーブで北に向きを変え終り、松ノ木八幡通りと並行します。

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    3. 左手には世尊院の別院があります。阿佐ヶ谷にある本院は権現通りに面しており、古道つながりの立地になっています。

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    4. 車止め、段差の典型的な水路跡の路地が続きます。ただ、この前後は直線的で、人工的に開削されたものなのでしょう。

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    5. 右折して都道427号線を越えます。なお、古道はやはり右折して水路と並行するほうです。

村境の水路4

2017-06-08 06:57:10 | 善福寺川4

 天水田圃を灌漑していたうち、東側の水路の続きです。ここまで並行していた西側のものと別れ、右カーブで大きな弧を描きながら東に向かいます。 → 「成宗村絵図」はこの水路を描いていませんが、それでも和田村との半円状の境の様子から、村境と水路が重なっているのが推測できます。なお、半円のほぼ真ん中から、西に向かってもう一本オレンジ線が引かれています。成宗村と田端村(飛地の字関口)の村境なので、ここから先の水路は田端と和田の境ということになります。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    ・ 「陸地測量部発行の1/10000地形図(昭和4年測図) / 上高井戸」  上掲地図と同一場所、同一縮尺です。中央の破線は当時の杉並町、和田堀内町の境です。

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    1. 東側の水路跡に戻ります。左手に分岐しているのは西側との連絡水路です。

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    2. 車止め付きの路地が蛇行しています。ここでも連絡水路が左手に分岐しています。 

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    3. ここまで右カーブの連続で東に向きを変えてきました。左手の茶色のプレートは成田東1丁目で、右手は引き続き松ノ木1丁目です。 

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    4. この先しばらく、こうした段差のある狭い路地が続きます。 

村境の水路3

2017-06-07 06:00:18 | 善福寺川4

 天水田圃にかかわる二本のうち、東側の水路をさかのぼっての三回目で、→ 「段彩陰影図」から読み取れるY字の分岐するところまできました。ここまで並行していた水路は左右に分かれますが、その間に連絡水路が張り巡らされていました。大正13年の「和田堀内村全図(1/3000)」に水路として描かれているものが、そのまま曲がりくねった路地として残されています。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1. 引き続き段丘の際を左右に蛇行しながら北上します。

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    2. 右写真は右手からのショットで、見通せる30mほどの間に3本の水路がありました。

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    3. 三本中の真ん中の水路跡の道路です。ここで左手に折れ、西側の水路に連絡していました。

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    4. 路地は左右に分かれていますが、どちらも水路でした。右写真は右手の路地で、奥は東側の水路です。

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    5. こちらは左手の路地の先です。突き当りを鋭角に右折します。

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    6. 右折した先です。50m弱でやはり東側の水路に突き当たります。
 

村境の水路2

2017-06-06 06:29:59 | 善福寺川4

 天水田圃にかかわるうち、東側を並行していたものの二回目です。現行の住居表示では、この水路が成田東と松ノ木の境となっていますが、江戸時代の成宗村と和田村の村境の名残で、「杉並近世絵図」(平成5年 杉並区教育委員会)収録の→ 「和田村絵図」の一枚には、成宗村との境に沿って水路が描かれています。なお、これは一度触れたことですが、杉並村、和田堀内村当時の地図で見ると、合流地点付近の村境は谷筋の中央を流れる西側の一流にありました。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1. 並行する二本の水路の間にある道路です。連絡水路の跡ですが、見た目は一般の道路と区別できません。

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    2. 左カーブの先に、西側の水路跡の路地が見えています。数回前に通ったところです。

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    3. 段丘際に戻ります。右手に茶色のプレートが見えていますが、松ノ木1丁目のものです。

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    4. 左カーブで段丘の際をめぐったあと、ほぼ直線で北上します。

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    5. 右写真は左岸段丘からのショットで、この数十メートルが谷筋の底に当たります。
 

村境の水路

2017-06-05 06:19:21 | 善福寺川4

 白幡田圃を灌漑していた左岸流に戻り、和田堀公園の北縁を改めて東に向かいます。すぐにもう一流が左手から合流していました。前回までの水路の東側を並行、途中連絡水路で交流しながら、ともに天水田圃を灌漑していました。先端は→ 「段彩陰影図」のY字の右側の谷筋に沿って、五日市街道の北側に達していますが、水田として利用するほどの谷筋の広さは見られません。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1. 最初の合流地点に戻り、次の合流地点に向かいます。途中右手のフェンス越しには→ 釣堀も見えます。

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    2. 最初の合流地点から130mほどで第二の合流地点です。

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    3. 右手が斜面になっていて、段丘の際にあるのが分かります。なお斜面は和田堀公園、台上は松ノ木中学です。

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    4. 右カーブで左岸段丘をめぐったあと、左折して和田堀公園を離れます。

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    5. 最初に交差する通りです。右手に車止めが見えますが、左手からも連絡水路がありました。
 

天水田圃3

2017-06-03 06:07:34 | 善福寺川4

 天水田圃にかかわる水路をさかのぼる三回目で、相変わらずの狭い路地、コンクリート蓋のまま、左カーブでY字の谷筋の左側に入ります。それに伴い、右カーブする和田村境とは離れますが、かわってこちらの谷筋が成宗と田端(その飛地の字関口、のち杉並区東田)の村境となっていました。現在はともに成田東に属し、かっての意味は失いました。なお、コンクリート蓋は東田小学校の南で終了ですが、→ 「段彩陰影図」から読み取れる谷頭は五日市街道にかかっていて、水路もその辺りまであった可能性があります。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1. 左カーブでこれまで並行していた右手の水路と離れます。送電線の鉄塔は杉並線のものです。

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    2. 路地は先細り状態で、いったんフェイドアウトしますが、右折、左折でやや右手にシフトしていました。

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    3. ワンブロック先に回り込んだところから、コンクリート蓋で再開します。

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    4. コンクリート蓋はこのスロープ手前で終了、その先は都営アパートの敷地です。

 <水流しと検見山>  「杉並の通称地名」(平成4年 杉並区教育委員会)によると、天水田圃の水源は五日市街道の北に当たる成田東3-7(東洋幼稚園園庭)にありました。昭和初期まで「水流し」と呼ばれ、湧水があったそうです。一方、五日市街道の南の現東田小学校付近は、天水田圃を左岸から望む台上にあり、検見山(毛見山)と通称されていました。旱魃時に検見役人が被害状況の調査をしたことから、そう呼ばれるようになったとあります。雨水、湧水に頼る天水田圃は天候に収穫が左右されやすく、出来高を見て年貢を定める検見は特に重要だったのでしょう。


天水田圃2

2017-06-02 06:45:27 | 善福寺川4

 白山神社の東で左岸流に合流していた天水田圃の水路のうち、西側のものを追っての二回目です。現行の地図からもそれと分かるクネッた路地に車止めが付き、迷うことはありません。その上、途中からは懐かしい金太郎車止めやコンクリート蓋も出現します。なお、右手を並行するもう一流は段丘に沿っていたのに対し、こちらは谷筋の中央を流れていました。現行の住居表示は、前者を成田東と松ノ木の境としていますが、それ以前の杉並、和田堀内の村境は、このあたりでは谷筋の中央にありました。おそらく江戸時代の成宗、和田の村境もそうだったのでしょう。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1. かってはこの水路が左手杉並村(大字成宗)と右手和田堀内村(大字和田)の境でした。

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    2. 左折しますが、右手に分岐している道路も水路跡で、並行する流れと連絡していました。

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    3. 突き当たって終了のようですが、やや左手に金太郎車止めがあります。

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    4. 金太郎車止め以降はコンクリート蓋も残されています。

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    5. 右写真は右手方向のショットで、隣の道路も奥の流れとの連絡水路でした。

天水田圃

2017-06-01 06:57:58 | 善福寺川4

 度々登場するする天水田圃ですが、字白幡にもそう呼ばれるところがありました。「杉並の通称地名」(平成4年 杉並区教育委員会)によると、成田東1-23から善福寺川岸にかけてで、昭和初期まで存続したようです。→ 「段彩陰影図」の中央で、左岸から善福寺川に合流する谷筋がY字を形成していますが、その左側の谷頭が上記の住所に当たります。→ 「東京近傍図」では水路は単線ですが、現在確認できる水路跡は二重で、二つの谷頭から発して途中から並行、白山神社の東側で相次いで左岸流に合流しています。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    ・ 「昭和22年米軍撮影の空中写真」  上掲地図のグレー枠の部分です。同一個所に同一番号を振っています。

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    1. 左手の公園も和田堀公園ですが、その縁を回り込むように左岸流に合流しています。

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    2. 上掲「空中写真」当時は、このあたりで右手に折れ、より下流で合流していたようです。

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    3. 和田堀公園を離れます。左カーブで徐々に北寄りに向きを変えています。 

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    4. 最初に横切る道路です。ここから先、道路と交差するごとに車止めが付いています。 

白山前橋、大成橋

2017-05-31 06:31:52 | 善福寺川4

 白山神社の脇を通る道に架かるのが白山前橋です。→ 「成宗村絵図」→ 「東京近傍図」にも、同じ位置に橋が描かれ、おそらく「東京府志料」が成宗村のところで「石橋 長一間四尺幅一間二尺」としているものでしょう。一方、今では白山神社から直近の道路に架かる大成橋ですが、昭和10年代に道が開設されたのに伴い創架され、当時は白山橋と呼ばれました。現在の橋名は境となっている大宮と成田を合成したものです。

 

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    ・ 白山前橋  左岸方向のショットです。左岸流を越え段丘沿いの道路を右折すると白山神社に出ます。なお現在の橋の完成は昭和41年、善福寺川緑地開園の2年後です。 

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    ・ 善福寺川  白山前橋から下流方向で、右カーブの先にチラッと大成橋が見えています。善福寺川緑地は白山前橋までなので、ここからは和田堀公園ということになります。 

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    ・ 大成橋  白山神社前から大成橋を通り右岸に上る道が、杉並区成田東と同大宮の境になっていて、かっての成宗と和田の村境をおおよそ引き継いでいます。 

 <白山神社>  「白山社 除地六畝、東南の方小名白幡にあり、社は二間半に二間南向、社より十二間ほど隔てゝ鳥居をたてり」(「新編武蔵風土記稿」) 字白幡の鎮守の白山神社は、白幡の台地の際にあって、左岸の田用水を眼下に望む斜面上に祀られています。創建の年代については定かではありませんが、「杉並の神社」(昭和55年 杉並区教育委員会)は、大宮八幡縁起から同八幡や尾崎熊野神社と同じ頃としています。→ 写真は段丘斜面に設けられた階段と鳥居で、社殿との位置関係は「風土記稿」当時と変わっていません。

 


成宗左岸3

2017-05-30 06:01:19 | 善福寺川4

 白幡の田圃を灌漑していた左岸流を追っての三回目で、白幡の鎮守だった白山神社前まできました。右折すると白山前橋や大成橋に出るところですが、そのワンブロックには数年前まで→ コンクリート蓋が残され、左岸流のなかでは最も水路の痕跡をとどめているところでした。なお、白山神社を過ぎると、左岸流が左岸成田東、右岸大宮の境となります。元の和田村との村境です。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1. 右手は相変わらず善福寺川緑地ですが、左手の段丘は後退しています。段丘の際にあるのは一つ北側の通りです。

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    2. 右折すると白山前橋に出る道と交差します。右手の善福寺川緑地はここまで、この先は和田堀公園になります。

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    3. この区間が数年前までコンクリート蓋の暗渠が残っていたところです。

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    4. 右折すると大成橋に出ます。右写真は左岸段丘方向で、左手奥が白山神社です。

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    5. 4.以降の左手は引き続き成田東ですが、右手は大宮に変わっています。

成宗左岸2

2017-05-29 06:37:09 | 善福寺川4

 尾崎橋下流で左岸に分岐し、字白幡の田圃を灌漑していた用水路を追っての二回目です。今回は、二番目の堰からの合流を得て以降で、 → 「段彩陰影図」の左岸から突き出した台地をめぐり、向きを南から東へと転じます。善福寺川緑地の北縁に沿って、現行の地図でもそれと分るクネッた道路が続きます。なお、一帯の字白幡を広畑とする地形由来に立てば、左岸の台地を指していることになります。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1. 二番目の堰からの合流地点の先で、水路は左カーブですが、右折すると成田下橋に出ます。

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    2. さらに左カーブが続きます。左手の鉄塔は高井戸線のもので、前回UPの → 「昭和4年測図」にも描かれています。

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    3. 右手に折れると成園橋に出ます。旧西田町に属する善福寺川緑地に西園橋があり、それと対になった命名なのでしょう。

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    4. 左カーブで東寄りになるのに応じて、逆光だった空の色が青色に変化しています。

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    5. 右手に善福寺川緑地、左手に左岸段丘を見ながら、水路跡の道路はなおも続きます。

成宗左岸

2017-05-27 07:02:51 | 善福寺川4

 尾崎橋下流の堰から相次いで左岸に分岐し、成宗村字白幡の田圃を灌漑していた用水を追います。白幡田圃が造成され、そのまま善福寺川緑地となった際、水路跡は緑地の東縁に沿う道路となりました。右岸の尾崎田圃の場合、水路跡の道路は拡幅、整備されていますが、こちらは車止め付きの狭い道路がそれらしく蛇行し、最近まで一部にコンクリート蓋も残されていました。緑地造成後も、排水路として機能していたのでしょう。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    ・ 「陸地測量部発行の1/10000地形図(昭和4年測図) / 上高井戸」  上掲地図と同一場所、同一縮尺です。

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    1. 前回UPの尾崎橋左岸の→ 緑地の一角です。上掲「地形図」には描かれていませんが、このあたりで用水を分岐し、本流は右手に戻っていたものと思われます。

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    2. 車止めの付いた水路跡の道路です。すぐに成田上橋に向かう道路と交差します。 

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    3. 左岸段丘に沿ってそれらしく蛇行を始めました。 

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    4. 右カーブのあたりで、二番目の堰からの合流がありました。「地形図」では分岐した用水が田圃の縁に出たところです。 

白幡田圃

2017-05-26 06:48:47 | 善福寺川4

 → 「成宗村絵図」にもあるように、広場堰から分岐し成宗田圃を灌漑していた用水路は、五日市街道手前で余水を本流に戻していました。一方、街道を過ぎてすぐ、相次いで二つの堰が設けられていますが、これは白幡田圃を灌漑するためのもので、「新編武蔵風土記稿」が「此流に設たる堰四ヶ所あり、一は西の方字権現下にあり、一は天神下にあり、余二ヶ所は小名尾崎の内にあり」と書いているうちの、最後の二ヶ所に当たります。善福寺川が尾崎と白幡の境となっていたので、正確には「小名尾崎との境にあり」と書くべきでしょう。

 

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    ・ 「昭和22年米軍撮影空中写真」  ブルーで重ねたのは直線化された現行の善福寺川です。 

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    ・ 最初の堰跡  尾崎橋越しに左岸の善福寺川緑地を写しています。正面奥あたりで本流は右カーブし、分岐した用水はそのまま南下していたのでしょう。 

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    ・ 第二の堰跡  緑地造成時架橋の成田上橋と成田下橋の間です。奥の右カーブを抜けるあたりに二番目の堰があり、左岸に用水を分岐していました。   

 <白幡>  「白幡 村の東の方にあり、和田村八幡の縁起に云、往古人王七十代後冷泉院の御宇、奥州の夷賊蜂起しければ、源頼義公勅を蒙り追討せんとて進発し給ひ、此所に向ひ給ふとき、林中より奇雲たなびき、恰も白幡の如く見えけるにぞ、是八幡来降し給ふならんとて、一社を勧請し、遂に賊徒を追伏したまふ、かゝるゆへをもて、此ほとりをすべて白幡と名付しという、さればもと和田村の内なりしが、今は当村に属せり」(「新編武蔵風土記稿」) これに対し「杉並風土記(上)」(昭和52年 森泰樹)は、台地の広い畑の意の「広畑」の転化としています。 → 「段彩陰影図」からも、舌状台地の矢倉や尾崎に比べ、白幡が広がりのある台地上にあるのは明かです。