神田川 「まる歩き」 しちゃいます!!

ー神田川水系、支流はもちろん、旧水路、廃水路、全部 「まる歩き」ー

江古田村分水5

2015-08-03 06:15:30 | 千川用水4

 今日確認できる江古田村分水は、東橋で江古田川に合流していますが、これは区画整理や江古田川の改修後のことです。それ以前は途中で二流に分かれ、うち一流は百数十メートル下流の大橋のところで、水車の用水として利用されていました。「江古田のつれづれ」(昭和48年 堀野良之助)によると、「中新井川の水を下水(したみづ)とし、千川用水の水を上水(うわみづ)として利用し、遠くから土管を埋めて導水して水車を廻した」そうです。上水というのは、水車の上から掛ける水のことと思われます。運動エネルギーと重力エネルギーが合わさり、前者のみの下水よりは効率的でした。なお、江古田水車は明治30年ごろから稼働しており、地形図には「明治42年測図」から「昭和4年第三回修正」まで描かれています。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    ・ 「陸地測量部発行の1/10000地形図(明治42年測図) / 新井」  上掲地図と同一場所、同一縮尺です。現在の江古田川の流路を薄いブルーで重ねました。

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    1. 前回の最後に狭い路地から出た続きで、すぐに右折します。 

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    2. 右手の幅広の歩道が水路跡です。昭和38年の空中写真を見ると、開渠にスリット状の蓋の水路が写っており、暗渠となったのは昭和40年代かと思われます。

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    3. 東橋で江古田川に合流します。右写真は下流方向で、写っているのが本村(ほんむら)橋、その次が大橋です。

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    4. 大橋の親柱には水車小屋のモモザイク絵がはめ込まれ、「江古田分水の流れで水車を回していた」との解説があります。

江古田村分水4

2015-08-01 06:53:43 | 千川用水4

 → 江原公園に差し掛かります。→ 「段彩陰影図」や「明治42年測図」から読み取れるように、このあたりから流路は自然の谷筋に入り、流域には狭いながらも水田が作られていました。それが昭和10年代の区画整理事業によって、宅地造成された際、一定割合を公園地とする規定によって、江原公園となったもので、これまで見てきた中新井公園、北新井公園などと事情は同じです。なお、江原は江古田村の字である原(江古田原)の短縮で、この公園の名前が昭和30年代の新住居表示の実施に当たり、江原(えはら)町となって引き継がれ今日に至っています。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    ・ 「陸地測量部発行の1/10000地形図(明治42年測図) / 新井」  上掲地図と同一場所、同一縮尺です。

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    1. 江原公園の南に車止め付きの路地があります。右写真は左岸からのショットで、狭いながら谷筋の底にあるのが分かります。 

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    2. ワンブロックで幅広の通りに出ます。水路は通りの右手を並行していました。 

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    3. 奥の右手に狭い路地が見えてきました。車止めこそついていませんが周囲から一段低いところにあり、水路跡なのは一目瞭然です。

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    4. 右カーブの先で路地から抜けます。右写真の奥に見える幅広の歩道が水路跡です。

江古田村分水3

2015-07-31 06:48:24 | 千川用水4

 こぐま公園の東には、江古田村分水跡の道路を挟んで江原観音堂があり、その境内には江古田第二土地区画整理事業の記念碑(→ 整地碑)が建てられています。その記述によると、昭和11年(1936年)組合設立、翌年事業着工、3年の歳月と14万6千円の経費を費やし、総面積10万6千坪余の土地整理を完了しました。(当時十三間道路とも呼ばれた)目白通りも、この事業と連動して、昭和12年着工、同15年開通しています。また、江原公園の開設、江古田村分水の改修や橋の整備も、同事業の一環として、昭和15年までに完了しています。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    ・ 「昭和22年米軍撮影の空中写真」  上掲地図のグレー枠の部分です。同一個所に同一番号を振っています。

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    1. 目白通りを越えた先で、すぐに左手に入る狭い路地があります。 

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    2. 右カーブで南に向きを転じ、区画整理事業でできた通りを越えます。

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    3. 道幅が変わったところで、再び左手に入る路地があります。曲線的な流路を直線化した、典型的なカクカクの区間です。

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    4. 右カーブで再度南下、江原公園に向かいます。

江古田村分水2

2015-07-30 06:19:32 | 千川用水4

 以下は平成3年に江古田地域センターから出された「懐しい江古田村の生活と自然」の中の、「江古田の川と井戸」という一文からの引用です。「現在の江原公園の中を流れ、江古田1丁目に流れ込んでいた小川がありました。この川の水は千川上水からのもので、稲作に必要な時だけ引いたものでした。当時は低い場所などに湧き水があって、小川に流れ込んでいたところもあります。現在の『こぐま児童公園』の場所も、いつも水がじくじくと湧いていました。この場所は、もともと天王様の境内で、私達は『じくじく天王様』と呼んでいました。洗い場になっていて、野菜や色々な物の洗い場になっていましたが、こんな湧き水も小川に流れ込んでいたのです。」

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1. 千川通りから左手に入った先です。水路はこの道路の右手を並行していました。

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    2. 昭和10年代の区画整理によってできたと思われる幅広の道路を越えます。

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    3. 左手の江原観音堂にある江古田第二土地区画整理事業の記念碑(整地碑)については、次回扱います。

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    4. 冒頭の引用文にあるこぐま公園です。牛頭天王社(現須賀稲荷神社)は目白通りの交通量の増加に伴い、昭和43年(1968年)、200mほど南の江原小学校向いに移転しました。

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    5. 目白通りを越えます。越えた先の歩道橋の下には橋の遺構と思われるコンクリートの塊があります。

江古田村分水

2015-07-29 06:41:07 | 千川用水4

 江古田村分水は当初の「千川上水給水区域」に記載はなく、寛政6年「星野家文書」は「江古田村田養水口四寸四方」、「千川分水口取調絵図」も「江古田村分水口四寸四方長六尺樋」と書いています。それが、明治10年の「星野家文書」では、「上板橋村地内 幅二寸六分高二寸五分九厘」で、同時期の用水利用の水田は、村全体で9.4町歩ほどのところ、3.3町歩余となっています。なお、明治10年の「星野家文書」が分水口を「上板橋村地内」としているのは、上水の流域に開かれた江古田新田が、昨日UPの経緯により、多摩郡江古田村ではなく豊島郡上板橋村に属していたためです。

 

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    ・ 「東京近傍図 / 板橋駅」(参謀本部測量局 明治14年測量)の一部を加工したもので、本来の縮尺は1/20000、パソコン上では1/12000ほどです。なお、「☓」印が江古田村分水口、オレンジ線は区境で、左上から時計回りに練馬、豊島、新宿、中野区です。 

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    ・ 千川通り  江古田二又から450m弱のところから、南長崎のV字ターン方向のショットで、次の信号の先の右手が江古田村分水口です。

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    ・ 江古田村分水口  「☓」印に当たる現旭丘1丁目13番と18番の間の道路は、上掲「近傍図」と同様、やや右手にカーブした後、直線で目白通りに向かいます。

 <分水口の位置>  「千川素堀筋普請所積見分」の記載を元に、江戸時代の江古田村分水の水口の位置を計算してみました。この区間には江古田二又、南長崎のV字ターンという、位置の特定が容易な個所が前後にあります。そこで、両者からの距離を「見分」の記載から算出すると、江古田二又からは235間(≒427m)、南長崎のV字からは175間半(≒319m)となります。それを「近傍図」に円周で表し、二つの円が接する地点を分水口と考えると、現在分水口とされている「☓」印の100mほど上流になります。二又と南長崎間を合計した410間半(≒747m)は、現行のものとは誤差の範囲なので、この100mの差は実際に場所の移動があった結果かと思われますが、他に傍証となる地図、文献の類は未読で、推測の域を出るものではありません。なお、「近傍図」のこの区画は、縮尺、方角とも正確さを欠いていて、江古田川が妙正寺川に合流するところなど、実際とは大きく異なりますが、分水口の位置計算にかかわる個所にズレはありません。

 


江古田二又

2015-07-28 07:40:26 | 千川用水4

 千川通りに戻ります。江古田駅前の駅南口交差点は現在は五差路ですが、下練馬分水も交差した正久保通りが分岐しており、江古田二又と通称されています。千川上水はここで右折、左折のクランクで通りを横切り、その南側にシフトしていました。「千川素堀筋普請所積見分」の記載では、「石橋 上板橋下練馬境 午・・・・辰巳」となっているところて、境に架かる石橋のところを南下、すぐに南東に向きを変えたと読めます。なお、「見分」では下練馬村と上板橋村の境となっていますが、現在の住居表示の練馬区栄町と同旭丘の境は、若干ずれて二又手前の路地になっています。一方、右岸のほうは二又から南下する江古田通りが、豊玉と旭丘の境になっていており、二又付近が下練馬、上板橋、中新井三村の境だったことの名残です。

 

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    ・ 江古田二又  通りの左手に沿っていた上水は、二又の手前で通りを横切り、そこに石橋が架かっていたという位置関係です。

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    ・ 千川通り  二又を抜けた千川通りは南寄りに向きを転じます。その後は南長のV字ターンまで、750mほどがほぼ直線です。

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    ・ 千川上水境界石  元は江古田二又付近にあったものですが、現在は200mほど先にある旭丘地域集会所の前、千川通りに面した植込みの中に立っています。

 <江古田>  地名由来としてはえごの木、ないし、えごまの生い茂るところ、あるいは、水の流れ込む土地の意の方言「えご」が元との説もあります。読みは「えこた」「えごだ」「えこだ」「えごた」が併存しています。例えば多摩郡江古田村(現中野区江古田)は、「新編武蔵風土記稿」では「エコタ」とルビをふっていますが、現在では「えごた」と読むのが一般で、目白通りにある都営地下鉄の新江古田駅は「えごた」です。
 その江古田村の新田から発し、後に豊島郡上板橋村の小字となった江古田が、江古田駅や江古田二又の江古田ですが、大正11年(1922年)の武蔵高校の開校に際し、通学駅として開設された駅名が、「えこだ」駅となったことから、話がややこしくなってしまいました。なお、上板橋村小字江古田は、昭和7年(1932年)板橋区江古田町となり、同22年の練馬区の成立に際し同区に編入、昭和35年の新住居表示によって、練馬区旭丘となりました。その際、中野区江古田とゴッチャになるのを避けるため、江古田駅の名前の変更も検討されたといわれていますが、そのまま現在に至っています。

 


下練馬村分水5

2015-07-27 06:53:01 | 千川用水4

 下練馬村分水の最後で、仲羽橋で石神井川に合流するまでです。もっともこうなったのは、昭和10年代と思われる付替えの結果で、→ 「東京近傍図」に描かれているのは、石神井川の流域に入ったところで右折し、その右岸流を形成している様子です。灌漑用水は可能な限り下流に向かい、多くの水田を灌漑しようとしますが、排水路への機能の転換に伴い、このように最短距離で本流に戻るようのが一般で、昭和初期の東京近郊の中小河川の典型的な改修といえます。なお、正久保通り越えてから合流地点まで、水路跡の道路は現在の住居表示で、西側桜台、東側羽沢の境となっていますが、下練馬村当時はどちらも字羽根沢(はねさわ)に属していました。練馬区のホームページ内「練馬の今むかし」では、羽は埴輪の埴(はに)に通じ、粘土質の沢の意だろうとしています。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    ・ 「昭和22年米軍撮影の空中写真」  上掲地図のグレー枠の部分です。同一個所に同一番号を振っています。

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    1. 都営アパートの敷地を出たところで、右折、左折のクランクがあります。 

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    2. 谷筋を抜け、石神井川の流域に入りました。「近傍図」では手前の通りに沿って右折しているところです。

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    3. この直線的な道路が地形図に初めて登場するのは、石神井川の改修と同じ「昭和12年第四回修正」です。

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    4. 仲羽橋で石神井川に合流します。橋名は当時対岸にあった練馬仲町との合成なのでしょう。

下練馬村分水4

2015-07-25 07:02:41 | 千川用水4

 羽沢ふじ公園を過ぎ、百数十メートルで都営アパートの敷地に差し掛かりますが、このあたりまで来ると谷筋もやや広くなり、かっては水田として利用されていたところです。そうはいっても、ここまで見てきた中村や中新井村に比べ、→ 「段彩陰影図」で見るように谷筋の狭さは顕著で、分水に依存する水田はごく限られたものでした。明治初めの用水使用水田面積は3.2町歩(村全体の水田面積44.2町歩 以下同様)となっていて、中村の9.4町歩(10.2町歩)、中新井村の11町歩(17.5町歩)に比べ、面積の少なさ依存の割合の低さは際立っています。なお、数字は用水使用水田が「星野家文書」、全体は「東京府志料」によっています。ちなみに同じ文献を元にした上、下井草村等六ヶ村組合の合計は64.2町歩余(81.8町歩余)です。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    ・ 「陸地測量部発行の1/10000地形図(昭和12年第四回修正測図) / 下練馬」 上掲地図と同一場所、同一縮尺です。

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    1. 羽沢ふじ公園の先です。右手の歩道には車止めが付いていて、水路跡を物語っています。 

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    2.  また水路単独の狭い路地が見えてきました。右写真は左岸からのショットで、変わらず狭い谷筋が続いています。

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    3. 狭い路地を抜けると、右手が都営羽沢2丁目アパートの敷地です。

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    4. 右写真に写る都営アパートの敷地の幅が、ほぼ谷筋の底の幅にあたり、かっては水田だったことになります。

下練馬村分水3

2015-07-24 07:12:57 | 千川用水4

 下練馬村分水の三回目です。分水口から350mほどで正久保通りを越えますが、その先に地図でも読み取れるクネッた路地が、車止め付きで出現します。現在の住居表示で西側桜台、東側羽沢の境でもあるこの路地が、石神井川との合流地点まで続いていて、迷うことはありません。なお、正久保通りは江古田駅前の二又(江古田二又)で清戸道(現千川通り)から分かれ、正久保橋で石神井川を越え埼玉県戸田市方面に北上する→ 「東京近傍図」にも描かれた古道で、「北豊島郡誌」などでは埼玉道となっています。

 

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    ・  昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1. 正久保通りから北に分岐する路地の起点で、すぐに左折します。車止め、クネリ、段差と水路跡の三点セットがそろった区画です。

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    2. 左折、右カーブのあと、狭い路地を抜けます。 

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    3. 道路右手に車止め付きの歩道がありますが、水路も右手を並行していたようです。

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    4. 再び水路単独の路地が見えてきました。右写真は右岸からのショットで、深く狭い谷筋になっているのが分かります。

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    5. 狭い路地を抜けると、右手に羽沢ふじ公園です。崖下には水路も作られています。

下練馬村分水2

2015-07-23 09:39:31 | 千川用水4

 下練馬村分水の続です。→ 「段彩陰影図」で見るように、この分水も自然の谷筋を利用していました。環七通りの西側から発し、石神井川に合流している支谷筋がそれです。ただ、千川上水から谷頭までは300mほどの距離があり、その間は水路を開削したようです。今回歩くのはその人工的な区画で、直線的な道路の右手(東側)を水路が並行していました。「絵図にみる練馬」(平成20年 練馬区教育委員会)に収録された「武蔵国北豊島郡下練馬村全図」(明治30年調整、大正8年修正)などに、そのように描かれています。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    ・ 「陸地測量部発行の1/10000地形図(昭和12年第四回修正測図) / 下練馬」  上掲地図と同一場所、同一縮尺です。

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    1. 西武池袋線による中断のあと、環七通りの西側側道として再開した先で、通りからいったん離れます。 

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    2. 右カーブで環七通りに再度接した後、今度は左カーブで離れるところです。これ以降環七通り近づくことはありません。 

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    3. ワンブロックで右折です。この通りは→ 「東京近傍図」のあと、「明治42年測図」までに直線化しており、その際水路も付替えられたのでしょう。

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    4. 正久保通りに突き当たって左手にシフト、奥に車止め付きの路地が見えています。

下練馬村分水

2015-07-22 07:32:51 | 千川用水4

 下練馬村分水は「千川上水給水区域」に記載はなく、寛政6年「星野家文書」には「下練馬村四寸四方也」と書かれています。もっとも、幕末期の「千川分水口取調絵図」に、「下練馬村樋古来分水口三寸四方当時四寸四方長六尺樋」とあり、3寸四方の樋口を有する時期もあったようです。分水口は現在の環七通りとの立体交差付近にありました。「千川素堀筋普請所積見分」は三枚橋より275.5間(≒501m)のところに、「練馬村分水口有 北へ」と書いていて、昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で距離計算した、桜台駅前交差点から立体交差下までの距離に該当します。

 

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    ・ 「東京近傍図 / 板橋駅」(参謀本部測量局 明治14年測量)の一部に加工したもので、本来の縮尺は1/20000、パソコン上では1/12000ほどです。オレンジ線は練馬と板橋の区境で、ほとんどが練馬区(旧下練馬村)です。

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    ・ 千川通り  環七通りの桜台陸橋下です。陸橋をくぐると直ぐ右手が、中新井分水(北新井)の水口があった武蔵大学キャンパスです。

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    ・ 下練馬村分水跡  上掲写真の左手です。「ねりまの文化財(千川上水特集号)」は、「環七桜台陸橋下の西側の側道が、下練馬村分水跡です。」としています。

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    ・ 下練馬村分水跡  環七通りの西側の側道は西武池袋線でいったん中断、その先ですぐに再開した後環七通りから離れます。

北新井3

2015-07-21 07:39:18 | 千川用水4

 中新井村分水の三本目、明治10年の「星野家文書」に字北新井と書かれている分水の三回目です。→ 「昭和12年第四回修正」にあるように、目白通りを越える際、やや右手にシフトした後も、狭い路地となって南下、二百数十メートルで江古田川に余水を落とします。合流地点は北江古田橋の下で、下新街口からの分水が合流するほんの40mほど下流です。なお、北新井も一帯の字ですが、上、下新街と違って、「新編武蔵風土記稿」に「北荒井」の表記で収録されており、明治に入っても引き継がれました。中新井村の北部に位置するの意なのでしょう。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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  •  「昭和22年米軍撮影の空中写真」  上掲地図のグレー枠の部分です。同一個所に同一番号を振っています。 

     

     

     

     

     

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    1. 水路単独の路地からいったん抜け、都営アパートの建っている一角に出ます。

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    2. 再度路地に入り、ワンブロックで左に折れます。 

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    3. 最後のワンブロックです。正面に水色に塗られた北江古田橋が見えてきました。  

 <中新井村の字>  「新編武蔵風土記稿」に収録されているのは、本村、徳田、神明ヶ谷戸、原、北荒井、中通です。うち最初に開拓されたと目される本村は、中新井川中ほどの左岸にある氷川神社や正覚院の周辺、徳田は「得田」で、検地帳に記載されなかったため、年貢を免れ得をした田んぼの意で、江古田村にも同様の字があり、川を挟んで両村にまたがっていたのでしょう。徳殿公園や下徳田橋にその名を残しています。神明ヶ谷戸は中新井池から流れ出た川が、左カーブで東に向きを変えるあたりとされ、谷戸は台地に刻まれた谷筋を現わす普通名詞です。北荒井は村の北から東にかけて江古田村に接し、中通は本村と北荒井に挟まれた区域です。一方、千川上水の流れる台上は広く原と呼ばれ、明治に入り、上、下新街などに分かれました。

 


北新井2

2015-07-18 06:31:51 | 千川用水4

 中新井村にかかわる三分水の最後、字北新井口からの分水の二回目です。武蔵大学キャンパス内にあった分水は、武蔵中、高東門からキャンパスの外に出て、その向かいにある北新井公園で南に向きを変え、そのまま直線で四百数十メートル南下します。一度触れましたが、北新井公園には土地区画整理事業記念碑があり、それによると、この一帯の区画整理は昭和10年(1935年)に認可され、5年の歳月と15万円の資金を費やし、北新井公園を含め16万坪余の宅地造成を完了しています。→ 「昭和12年第四回修正」に、直線的な水路以外なにも記されていないのは、その途中経過に当たっているためです。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1. 武蔵中、高東門前から北新井公園に向けたショットです。横から見ると浅い谷筋が分かります。

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    2. 北新井公園の南側に、道を隔てて車止め付きの路地が顔をのぞかせています。

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    3. 目白通りまで直線で150mほど、道路と交差するごとに車止めの付いた路地が続きます。 

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    4. 目白通りを越えるところです。正面のビルの右手に、これまでと同様の路地が顔を見せています。

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    5. 目白通りの先にも路地が連続しますが、こちらは車止めは付いていません。

北新井

2015-07-17 07:04:52 | 千川用水4

 「一 五十弐間メ 練馬村分水口有 北へ 一 十七間メ 中荒井分水口竹 南へ」 「千川素堀筋普請所積見分」の記載です。下練馬村分水口から17間(≒30.9m)、明治時代の字北新井口(樋口2寸四方)とほぼ同じ場所に、安永9年(1780年)当時には竹樋が設けられていたわけです。なお、この分水口のところには大正11年(1922年)に日本最初の七年制高校、かつ日本最初の私立高校でもある旧制武蔵高校が、2万5千坪の敷地面積をもって開校しました。分水口はキャンパスの北西角、現在の大講堂の付近にあり、大学と中、高校の建物の間から、高校東門に抜けていました。

 

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    ・ 千川通り  環七通りの下をくぐった直後の千川通りです。右手は武蔵大学キャンパスで、北新井の分水口のあったあたりです。

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    ・ 武蔵大学構内  武蔵大学の学園祭「白雉祭」のとき、キャンパスは一般公開されます。この写真も7、8年前の「白雉祭」を訪れ撮影したものです。

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    ・ 武蔵大学構内  上掲写真の流末です。200mほど流れて大学と高校の建物の間で暗渠となります。なお、この水門は分水当時のものだそうです。

 <濯(すすき)川>  「昭和初期には小さい幅一尺位の細い溝川が流れておりました。そして現在の中の島あたりに野菜の洗場があったり、川沿には田圃があったようです。」 武蔵高校開校から間もない頃の、キャンパスを流れる分水の様子で、武蔵学園記念室編のホームページ「濯川 歴史と景観」からの引用です。間もなく溝川は拡幅、整備され、濯川と命名されますが、名前の由来については、「滄浪之水清兮 可以濯吾纓 滄浪之水濁兮 可以濯吾足」との、屈原作と伝えられるの「漁父」が引用されています。「滄浪(揚子江の支流)の水が清い時は纓(えい 冠のひも)を、濁った時は足を濯(すす)ぐ」、つまり世の清濁に応じて身を処すの意だそうです。昭和20年代後半からの千川上水の暗渠化後、30年代中頃には上水からの給水は断たれました。現在は水を循環させ流れを保っているようです。

 


下新街2

2015-07-16 07:12:49 | 千川用水4

 中新井村に関係する三分水の内の二番目、下新街口からの分水の二回目です。環七、豊玉2中、目白通りの区画の痕跡は失われていますが、目白通りから先の後半、三百数十メートルの区画は、そのまま道路の一部となっています。なお、下新街は上新街と同様、清戸道沿いに新たに出来た町並みで、明治に入り中新井村の字となったものです。その下新街に分水口があったことから、中新井分水(下新街)と呼ばれますが、他に出発点が桜台駅近くなので桜台分水、あるいは弁天分水とも呼ばれました。なぜ弁天分水かというと、前々回UPの→ 「第四回修正」にも描かれた市杵島神社(同図では弁天祠)の弁天池と通じていたからです。 

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1. 弁天歩道橋の西で目白通りを越えます。左手奥の茂みが市杵島神社です。歩道橋の下にあるコンクリート塊は橋の遺構でしょうか。 

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    2. 市杵島神社です。右写真の二枚の石板は弁天池に架かっていた橋の遺構で、往時の場所に残されています。 

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    3. 弁天池から先は江古田川への合流地点まで、ほぼ直線の道路の左手を並行していました。

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    4. 左手の路地に向かいます。ここからの最後のワンブロックは、水路単独でした。

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    5. 合流地点です。左端にチラッと見える青色の北江古田橋前で、隣の北新井口からの分水が合流しています。