神田川 「まる歩き」 しちゃいます!!

ー神田川水系、支流はもちろん、旧水路、廃水路、全部 「まる歩き」ー

下板橋宿

2015-09-30 07:40:02 | 千川用水6

 「新編武蔵風土記稿」によると、下板橋宿(一般には板橋宿)は「中山道第一の宿駅にて、人馬各五十を定額とし、日本橋迄二里、蕨宿へ二里十町の継立てをなせり、・・・・始て宿駅を置れし年代詳ならず、宿並の長十三町十五間にて道幅五間」でした。天保14年(1843年)の調べでは、男1053人、女1395人が住み、家数は573軒、旅籠は大小54軒ありました。宿内は一里塚のある入口から平尾宿、中宿(仲宿)、上宿に分れ、本陣は中宿に、脇本陣は各宿に一軒置かれていました。平尾宿と中宿の境は、川越街道が分岐する平尾追分付近で、中宿と上宿の間には石神井川が流れ、そこに板橋宿のシンボル、「長九間幅三間」の板橋が架かっていました。

 

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    ・ 「江戸名所図会 / 板橋駅 乗蓮寺」  乗蓮寺門前の往還が中山道、この前後が中宿の中心で、高田道の起点のある仲宿交差点は左手100m、本陣は逆に右手に300m、石神井川に架かる板橋まではさらに200mです。

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    ・ 旧中山道平尾追分  正面が旧中山道、三角コーナーを挟んで左手が国道17号線(現中山道)で、旧川越街道の起点でもあります。千川用水を利用していた旅籠や料理屋は、この平尾追分の前後に集中していました。

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    ・ 旧中山道仲宿交差点  平尾追分から四百数十メートルのところです。高田道(雑司ヶ谷道)の起点でもあり、左手に折れるとワンブロックで五兵衛橋の架かっていた交差点に出ます。右手は明治になって開削された王子新道です。

 <板橋宿と千川上水>  宝暦4年(1754年)12月、「千川用水堀通吐水之儀」で始まる願書が、下板橋宿(平尾)の名主と千川家の連名で代官所に提出されました。千川用水の吐水が詰まり、うまく流れなくて難儀している、ついては、宿内の在来の下水路に落としたいが、いかがなものかとの内容です。一方、これを新たな分水開設と見なす滝野川村、巣鴨村は、翌年2月の訴状で、同様の事態が延享3年(1746年)にもあり、その際田用水優先が認められた旨、先例を引いて差し留めるよう求めます。
 結局後者の訴えが認められますが、千川の利用はなくなったわけではありません。例えば、慶応2年(1866年)、滝野川大砲製造プロジェクトのための調査の際、下板橋宿の複数の旅籠や料理屋の庭先に、「千川抱込之場所」が発見されます。防火用水や家水に利用していたのですが、この場合も翌年には差し留となっています。これら下板橋宿の千川利用は、田用水のように分水口を設け、宿全体で利用していたのではなく、悪水吐の水を横堰などで各自、家に引き入れていました。その際、毎年金三分を千川家に支払う旨の覚書も残されています。(「千川上水・用水と江戸・武蔵野 / 第13章 千川用水と板橋宿」)


暗渠化(下流域)2

2015-09-29 06:35:39 | 千川用水6

 千川上水に戻ります。すぐに山手通り、そして国道17号(中山道)と交差します。17号との交差点には五兵衛(五平)橋がありました。といっても、昭和8年(1933年)開通の現中山道に架かっていたわけではなく、高田道(雑司ヶ谷道)と呼ばれる、下板橋宿から池袋、雑司ヶ谷を経て高田に至る古道に架かっていたものです。橋名は書かれていませんが、「千川素堀筋普請所積見分」に、洗堰から合計で135間(≒246m)のところに「板橋 渡り弐間横九尺」とあるのがそれで、また、→ 「千川用水3 / 伊勢(殿)橋」のところで紹介した、従来千川家が負担していた七橋の一つとして、大山橋に続いて「下板橋村字浄連寺裏東京高田道ニ架ス 一 板橋 長サ九尺巾六尺五寸」がリストアップされています。

 

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    ・ 「陸地測量部発行の1/10000地形図(昭和4年第三回修正測図) / 王子」  山手通り、国道17号線(中山道)をグレーで重ねました。

 昭和4年(1929年)12月、「板橋町大字土合二七〇四番地先五兵衛橋ヨリ字山中一八五四番地先川越街道ニ至ル千川上水路」の暗渠化が、東京府によって許可されます。先だって板橋町より提出された申請書によると、一年前に許可され、3月には竣工していた五兵衛橋下流域の暗渠化工事を引き継ぐもので、周囲に人家が密集し土手を往来して危険なこと、ゴミの投棄による衛生上の問題など、その理由を列挙しています。こうして、五兵衛橋より下流の中山道との並行部分は昭和3~4年に、五兵衛橋から川越街道に架かる大山橋までは、昭和5~7年に各々暗渠化され、上掲「地形図」はその途中経過を反映したものになっています。

 

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    ・ 千川上水跡  山手通りを越えるところで、高架は首都高5号池袋線です。この区間の山手通りは、第二次大戦の中断を挟んで、戦後開通しました。

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    ・ 千川上水跡  中山道を越え、正面の路地へと連続します。右手奥に横断歩道の見えているのが、高田道の入口なので、交差点のほぼ中央に五兵衛橋が架かっていたことになります。

洗堰3

2015-09-28 06:55:22 | 千川用水6

 洗堰の水路を追っての三回目で、石神井川との合流地点付近まで来ました。昨日UPの→ 「昭和4年第三回測図」で、氷川図書館前から合流地点までの流路は直線的ですが、これは昭和初期に行われた付替えの結果でした。石神井川の改修や周囲の道路の整備も同時期で、下掲「明治42年測図」と見比べると、その辺りの事情がよく分かります。なお同図に一部描かれているのは板橋競馬場です。明治41年(1908年)の一年間営業したのみで、あとは地元で馬券場と通称される原っぱとなっていたところです。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    ・ 「陸地測量部発行の1/10000地形図(明治42年測図) / 王子」  上掲地図と同一場所、同一縮尺です。

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    1. 板橋第九小学校の横を通り過ぎたところです。競馬場の走路と交差しているのはこのあたりです。

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    2. 突き当りを右折して石神井川に合流します。右折するあたりに水車小屋がありました。

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    3. 堰の上橋手前で石神井川に合流します。右写真は同橋から下流方向で、石神井川は大きく左カーブしています。

 <堰ノ上>  橋名は板橋町大字下板橋当時の字に由来しています。「いたばしの地名」によると、氷川神社の北側に堰が設けられており、その上流ということのようです。氷川神社にも「堰の氷川社」の異名があったとか。上掲「明治42年測図」の右上隅に、石神井川右岸に分岐する水路が描かれ、水車が二基設けられていますが、その関係なのでしょう。なお、→ 写真は氷川つり堀公園で、右手奥に社殿の屋根が見えますが、氷川神社の北側の石神井川沿いです。石神井川を直線的に改修した際、取り残された半月状の区画を釣堀として整備したところです。


洗堰2

2015-09-26 06:42:24 | 千川用水6

 乗蓮寺裏にあった洗堰の続きです。この板橋宿手前の吐口は、千川上水開設当初、ないし初期の段階から設けられていたようで、享保7年(1722年)の上水廃止以前の様子と思われる「千川上水給水区域」には、「板橋御林之内二而吐申候」との文言があり、また、「正徳末頃ノ上水図」にも、下板橋手前の左岸に「下板橋御林」、「吐水」の書き込みが見えます。正徳は享保の一つ前の年号で、1711~16年に当たります。なお、「御林」というのは将軍直轄の狩場といった意味で、(三代家光の治世を描いたとされる)「江戸図屏風」にも板橋周辺に鹿の群れが描かれています。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    ・ 「陸地測量部発行の1/10000地形図(昭和4年第三回修正測図) / 王子」  上掲地図と同一場所、同一縮尺です。

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    1. 突き当りを左折、次の突き当りを右折します。上掲地形図では左カーブになっているところです。

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    2. 路地を抜けたところで左折します。左折後の水路は通りの左手を並行していました。

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    3. 氷川図書館前で右折です。ここから先の水路は通りの右手を並行していました。 

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    4. 豊島病院通りを越えます。右手奥は板橋第九小学校です。戦後間もなくの開校なので、昭和4年の地形図にはまだ登場しません。

洗堰

2015-09-25 07:02:17 | 千川用水6

 「千川素堀筋普請所積見分」によると、(橋名はありませんが)大山橋と目される石橋から、合計で377間(≒686m)のところに、「上水ノ吐 洗関巾弐間 吐水門巾三尺高サ五尺」が設けられていました。また、 同じ「小川家文書」の中には「諸入用大概積り」と題する書類もあり、こちらには「明キ内法四尺高サ一丈 下板橋乗蓮寺後口吐水圦樋」と書かれています。「圦樋(いりひ)」とは石積みや土積みの土手に差し込み、土手外の水路に水を導くための樋で、通常は末広がりの形状をしています。費用も書かれているので、新規に作った圦樋を既存の洗堰にセットしようとしたのでしょう。なお、引用文中の乗蓮寺は長く板橋宿にありましたが、首都高や中山道の整備に伴い、昭和43年(1973年)赤塚に移転したお寺です。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1. 板橋税務署前の通りを北に向かいます。"Super Mapple Digital"で距離計算する、大山橋からの距離は700m弱で、「所積見分」の数字と一致します。

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    2. 旧養育院前で離れたばかりの都道420号線を越えます。同都道は右手に100mちょっとで山手通りに突き当たって終了です。

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    3. 幅広の道路は二手に分かれますが、右手が道路、左手が水路です。元は離れていたものを合せて幅広になりました。

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    4. 右写真は右手からのショットで、谷筋にあるのが分かります。→ 「段彩陰影図」からも見て取れるものです。

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    5. 大正5年と同10年の地形図には、この右手に水車記号が描かれています。

板橋税務署前

2015-09-24 07:43:35 | 千川用水6

 都道420号線から分かれた千川上水の続です。板橋区立グリーンホールから間もなく、右手に板橋税務署が見えてきますが、その前後に上水関係の重要施設が二つありました。一つは税務署のワンブロック手前にあった青山水車(秋山水車)、二つ目はその前にあった洗堰です。まず青山水車ですが、場所と名前以外言及した文献はあまりなく、板橋郷土博物館の企画展「水とくらし 千川上水の三百年」が、「この水車はもとは、少し下流の現在の文豪屋敷付近にあった『喜内古屋水車』が明治30年の段階で当地に移転したものである」と書いているくらいです。ただ、下掲「明治42年測図」から大正10年の「第二回修正」まで、両水車は併存しており、その辺の事情はよく分かりません。

 

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    ・ 「陸地測量部発行の1/10000地形図(明治42年測図) / 王子」  中央やや左が青山水車、右端で回し堀と共に描かれているのが喜内古屋水車です。

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    ・ 千川上水跡  グリーンホールから100mほどのところで、この右手付近に青山水車がありました。板橋税務署は次のブロックの同じく右手です。

 もう一つの洗堰は、青山水車の下流に描かれた左岸に向かう水路の分岐点にありました。増水時に溢れた水を排出する、オーバーフロー構造を有するのが洗堰で、何といっても→ 「江戸名所図会 / 目白下大洗堰」にも描かれた、神田上水の関口大洗堰が有名です。「大さ長十間幅七間の内水口八尺余」(「新編武蔵風土記稿」)と、さすがに「大」の付くジャンボサイズです。

 

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    ・ 洗堰跡  右手は板橋税務署の敷地、その前で左手に分岐する道路が「明治42年測図」に描かれた水路と重なりますが、その詳細は次回に続きます。

 もっとも大洗堰と今回のものとでは、サイズだけではなく機能も違っていました。取水のため水位を上げるのが目的の大洗堰と違って、今回の洗堰は「上水の吐」のためのもので、もちろん塵や泥を除く浄化装置でもあるのでしょうが、何といっても、板橋宿という交通の要所を前にして、洪水時の増水を石神井川に落とす、安全装置の意味が大きかったようです。「此樋口平常流水ナシ千川満水ノ時樋口ヲ開キ剰水ヲ此溝ヨリ潟下ス」 明治21年(1888年)に陸軍省が制作した、「板橋火薬製作所」関係の図面(「板橋区史 / 資料編4」)にある書込みで、洗堰の機能を端的に物語っています。

 


旧養育院前

2015-09-19 06:28:45 | 千川用水6

 大山橋から先に向かいます。商店街を抜けると東武東上線の踏切です。踏切を越えると再び幅広の都道420号線の一部となりますが、それも二百数十メートルの間だけで、健康長寿医療センター(旧養育院)の正門前で右手に離れます。南長崎のV字ターン以降、ほぼ並行してきた同都道とのかかわりはここまでです。なお、大正12年(1923年)に当地に移転してきた養育院は、当時上水の南側に事務所、官舎を設けていたため、昭和6年[1931年)前後の暗渠化までの間、病棟との往来に専用の屋根付き橋を利用していたそうです(「いたばしの河川」)。

 

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    ・ 東武東上線踏切  大山橋から百数十メートル、商店街の間を抜けた先です。踏切を越えると、幅広の都道420号線は左手にズレていて、その南側歩道寄りが千川上水跡にあたります。

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    ・ 健康長寿医療センター前  元の養育院前で420号線から、車止め付きの遊歩道のようになって右手に離れます。その右手は昭和22年(1947年)開校の板橋第一中学校です。

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    ・ グリーンホール前  左手の板橋区立グリ-ンホール(旧産文ホール)前で、遊歩道は終了、その先は一般の道路の一部となります。

 <高水道>  以下は「いたばしの地名」(平成7年 板橋区教育委員会)の引用です。「千川上水と旧川越街道が交差するところが大山橋で、そのすぐ下流付近の大山の一番高い箇所(標高三三米)を通るので、そこを高水道といっていました。板で川の両側を補強し樋のように水を通したので高水道といいます。」→ 「段彩陰影図」の大山駅から山手通りにかけて、やや小高くなっているところのことでしょう。上流との傾斜差をつけるため、深く切り通し、その切り通し面を保護するため、板で補強していたと思われます。なお、高水道は通称ですが、板橋町大字下板橋当時、上水の右岸から(旧)川越街道にかけての字は水道向でした。

 


大山橋

2015-09-18 07:15:17 | 千川用水6

 「川越海道 石橋 巾六尺七寸渡七尺」 これは「千川素堀筋普請所積見分」の記述ですが、 千川上水は川越街道と二度クロスしていて、各々に橋が架かっていました。「石橋二 下板橋宿ニアリ一ハ大山橋長一間二尺幅一間半 一ハ平尾橋長一間二尺幅一間五尺」(「東京府志料」) うち今回のテーマは上流に架かっていた大山橋で、千川家が負担する七橋の一つとして、明治18年(1885年)の「私費負担橋梁調書」にもリストアップされています。「同郡下板橋村地内字大山川越往還ニ架ス 一 石橋 長サ八尺巾九尺 但シ文化年中之頃ヨリ村方申出ニ依リ地内村方エ負担引渡ス」

 

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    ・  「東京近傍図 / 板橋駅」(参謀本部測量局 明治14年測量)の一部を加工したもので、本来の縮尺は1/20000、パソコン上では1/12000ほどです。オレンジ線は区境で、主に板橋区ですが江戸時代は左上隅の上板橋村以外は下板橋宿です。

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    ・ 千川上水跡  川越街道を越えて170mほどで、左手にアーケードの屋根の見える旧川越街道と並行するところですが、この先しばらくは重なる道路はありません。

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    ・ 大山橋跡  奥に向かうのが千川上水跡、横切っているのが旧川越街道で、右手に200mで東武東上線大山駅、左手に300mで川越街道、その間はアーケードのハッピーロード大山商店街です。

 <大山の地名由来>  大山の地名由来には、付近にあった小高いところを大山と呼んだ、大山詣の街道筋である大山道に当たっていたなど、さらに橋名が地名に先行したとの説もあり、よくわからないところです。いずれにしても(下)板橋宿の一字ですが、「新編武蔵風土記稿」や「東京府志料」には記載がなく、収録されているのは前回触れた山中でした。それが、現在のように、隣村だった金井窪まで含む形で拡大、普及したのは、昭和6年(1931年)に東武東上線の大山駅が開設されて以降です。特に、戦後間もなく旧川越街道沿いに発展した商店街は、昭和53年(1978年)に全長500mを越えるアーケードが完成、200店舗を有する都内有数の商店街となり、大山の名前を全国区としました。

 


山中の悪水吐2

2015-09-17 06:44:48 | 千川用水6

 川越街道を越えた直後の、悪水吐と推測される水路を追っての二回目で、福地蔵尊通りを北上して東武東上線をミニガードで潜り、新西原橋で石神井川に合流するまでです。なお、タイトルの山中は、「新編武蔵風土記稿」や「東京府志料」に収録された下板橋宿の字で、江戸の初めに板橋宿が設けられた際、当地の農家の次男、三男以下が動員されたといわれています。昭和7年(1932年)の板橋区の成立に伴い、行政上の地名ではなくなりましたが、現行の仲町は山中を元に創作されたとの説があります。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    ・ 「陸地測量部発行の1/10000地形図(昭和4年第三回修正測図) / 練馬」と「同 / 王子」の合成で、上掲地図と同一場所、同一縮尺です。

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    1. 「第三回修正」で初めて登場する通りの左手には、水路が描かれています。なお、右写真は左岸段丘にある轡(くつわ)神社です。

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    2. 東武東上線前の福地蔵尊通りです。通りの右半分は町会の防災倉庫に遮られ、左半分のみ下り坂になります。 

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    3. 東武東上線下を山中トンネルで潜ると、その先は再び直線的な道路です。ここからの水路は道路右手にシフトしています。

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    4. 石神井川との合流地点の新西原橋です。この橋名は対岸の字が由来ですが、一つ上流にはこちら側の字の山中橋が架かっています。 

山中の悪水吐

2015-09-16 06:02:58 | 千川用水6

 明治44年の「郵便地図」を見ると、(当時は未開通ですが)川越街道を越えてすぐ、左手に向かう水路が描かれています。途中左折して旧川越街道に沿ったあと、福地蔵尊通りを北に向かい、800mほどで石神井川に合流します。→ 「段彩陰影図」の左側、川越街道近くから北上する、自然の谷筋を利用してはいますが、全体として直線的で、人工的な開削を思わせます。この水路を扱った文献は未読で、田用水か悪水吐かも不明ですが、石神井川との合流地点を除き、流域に水田が乏しいことから、後者なのではと推測しています。

 

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    ・  昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1. 前回の最後の写真の再掲です。川越街道を越えてすぐですが、左手に重なる道路はないので、上掲地図にも青点線は入れていません。

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    2. 旧川越街道に出来た長いアーケードで有名な大山商店街です。川越街道方向のショットですが、反対方向に200mほどで、次回テーマの大山橋です。

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    3. 商店街が川越街道に突き当たり、終了する手前で右折です。なお、旧街道はこの先しばらく、新街道と重なります。

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    4. すぐに左折ですが、左折後のワンブロックは車止めでガードされていて、いかにも水路跡を思わせます。

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    5. 文化文政ころの地元で慕われた女行者を偲んで建立された、福地蔵尊前で右折します。その前の歩道の幅が右手のみ広く、水路のあったことが推測されます。

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    6. 福地蔵尊通りを北上します。右手からのショットでも谷筋にあるのは明らかです。

川越街道

2015-09-15 06:28:19 | 千川用水6

 都道420号線から右カーブで離れた後、千川上水は川越街道を越えます。といっても、本来の川越街道ではなく、昭和一ケタに開設された新しいもの(国道254号)で、池袋六又陸橋交差点で春日通りから連続、川越を目指します。一方、旧川越街道のほうは、日本橋を起点に、板橋宿平尾追分で中山道から分岐、川越城下に至る街道で、両者は一部重なりつつ並行しています。下掲「昭和12年第四回修正」で、右側からいったん合流しているのが旧街道で、右上隅で千川上水と交差しているところに、次々回テーマの大山橋が架かっていました。

 

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    ・ 「陸地測量部発行の1/10000地形図(昭和12年第四回修正測図) / 練馬」と「同 / 王子」の合成です。この時期は大山橋を挟んで、暗渠と開渠が併存していたのが分かります。

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    ・ 千川上水跡跡  田崎病院と川越街道の間です。フェンスで囲まれた一角には、都第四建設事務所の「千川管理地」の看板が立っています。

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    ・ 川越街道  武蔵高校生徒が訪れた昭和15年当時、この前後も暗渠化され、コンクリート橋の欄干のみが残っていました。

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    ・ 千川上水跡  上掲写真の信金前の道路へと連続します。明治末の「郵便地図」には、ここから左手に向かい石神井川に落ちる水路が描かれています。

千川出張所と千川水神

2015-09-14 05:50:22 | 千川用水6

 千川上水が右カーブで都道420号線と再び接するところに、千川上水出張所がありました。武蔵高等学校報国団民族文化部門編「千川上水」は、前回引用した田留水車の記述に続けて、「府の千川上水出張所が直ぐこれに接してゐる。構内で千川が開渠となり、人夫が晝夜塵芥を揚げてゐる。一坪半程の小屋に一日で塵芥が半分は溜るとか。」と書いています。出張所こそ廃止されましたが、鉄板で覆った開口部が最近まであり、都第四建設事務所が管理していました。

 

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    ・ 千川上水跡  都道420号線の拡幅、整備に伴い、その右手に接していた上水跡は、幅広な歩道の一部のようになっています。

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    ・ 千川上水開口部  数年前の写真で、上掲写真とは反対方向からの撮影です。この当時開口部は大きな鉄板二枚で覆われていました。

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    ・ 千川上水跡  千川上水出張所跡地の先でさらに右カーブ、都道420号線を離れ、右手奥にある田崎病院の敷地に向かいます。

 <千川上水水神>  上二枚の写真に写っているのが、千川上水水神です。前回の「千川上水」の引用文中に、「道路に沿うて埋立てた後を少しゆくと小さな辨天があり」とあったもので、当時は上水の右岸の傍らに祀られていましたが、反対側の出張所跡地に移転しました。「千川上水と水神様」の解説プレートには、昭和初期に周囲に建物が増え、水難事故が相次いだことから、直径6尺のコンクリート管で暗渠化、その際、事故供養と上水の安全を祈り祀られた旨、その由来が書かれています。周囲の宅地化に伴う水質汚染とともに、水難事故の多発も深刻だったようで、毎年数名が犠牲になったといわれ、武蔵高校の「千川上水」も「(暗渠化の)最も主要な原因」としているほどです。

 


都道420号の拡幅

2015-09-12 06:55:39 | 千川用水6

 板橋交通公園から百数十メートルで、千川上水跡の道路は都道420号線に突き当たります。現在の道路は突き当たって終了ですが、本来は下掲「昭和12年第四回修正」にあるように、右カーブで接するように孤を描き、川越街道に向かっていました。それが、その後の都道の拡張、整備に伴い、孤の部分の前半は幅広の歩道のようになり、後半は隣接する建物の敷地の一部になっています。

 

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    ・ 「陸地測量部発行の1/10000地形図(昭和4年第三回修正測図) / 練馬」  都道420号線、川越街道、板橋交通公園などを重ねています。

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    ・ 千川上水跡  都道420号線に突き当たる手前で、右手の建物の裾を巡るように右カーブします。なお、正面左手のカラーコーンで守られているのが → こちらです。

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    ・ 千川上水跡  右カーブしながら都道420号線に再び接し、その幅広の歩道の一部となるところです。最近までこの個所は都道とは別個の道路となって残っていました。

 <田留水車>  「千川上水路図」や→ 「東京近傍図」の右上隅に描かれた田留水車は、上掲写真の右手奥の建物付近にありました。明治38年(1905年)の「千川水路水車取調書」に「高三尺 搗臼二拾七個 挽臼弐個 北豊島郡下板橋村字大山千弐百拾壱番地 株主田口又五郎」とあるもので、地形図には「昭和4年第三回修正」まで載っています。昭和15年の武蔵高校生徒の調査時には撤去され、水車用の池跡と暗渠を残すのみとなっていました。「道路に沿うて埋立てた後を少しゆくと小さな辨天があり、その背後の池跡に入ると、昔水車に水を取るために掘った暗渠が残ってゐる。昭和七年版の地圖によればここに水車のあったことが解る。」 なお、ここまで紹介した千川上水関係の水車の通称と、「千川水路水車取調書」にある所有者名はすべて一致していますが、この水車はそうなっておらず、疑問の残るところではあります。

 


暗渠化(下流域)

2015-09-11 06:42:08 | 千川用水6

 昭和の初めに下流域からさかのぼり始めた千川上水の暗渠化は、昭和10年代には川越街道を越え、同15年までに大谷口五差路を目指していました。「二六〇〇年度(昭和十五年)の計畫では、この橋の所まで暗渠化される筈で、・・・・七月末に於いては、ここから三百米下流の、同形式の橋から下が暗渠工事中で、千川を一旦堰止め、第三圖の如く傍に臨時の小水路を設け、本水路にはコンクリート管が敷設されてゐる。」(武蔵高等学校報国団民族文化部門編「千川上水」) 添付された図では、下流から東武東上線の前後は昭和一ケタに完了、次回テーマの新旧川越街道間は暗渠化されたばかりで、未だ橋跡などの痕跡をとどめています。そして、現板橋交通公園前から大谷口五差路までが目下工事中で、並行する臨時のバイパスによって通水していました。

 

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    ・ 千川上水跡  右手は板橋区立交通公園です。大谷口五差路から300mほどのところで、引用文の「同形式の橋」の架かっていたところと思われます。

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    ・ 板橋区立交通公園  昭和43年(1968年)開園、横断歩道や信号などを備えた交通安全教育のための施設で、荒川線を走っていた都電や都バスも展示されています。

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    ・ 千川上水境界石  交通公園の30mほど先の左手、民家のコンクリート塀の基礎部分に、半分以上埋没しており、丸に千のマークがわずかに顔をのぞかせています。

 ところで、昭和15年中に五差路まで暗渠化、というのが当初の計画でしたが、実際にそうなったかは疑問で、練馬教育委員会「練馬の水系」添付の「年度別埋管工事施工状況図」を見ると、第二次大戦で中断されたのでしょう、五差路前後の工事年度は昭和28、9年となっています。その後順次上流へと暗渠化が及び、昭和34年までに南長崎のV字ターンのところに到達しています。そこより上流も昭和26年に暗渠化が開始されて上流へと向い、昭和30年代で大半が完了、最後に残された西武新宿線・青梅街道間は、昭和40年代前半に暗渠化されました。

 


大谷口石橋

2015-09-10 06:48:27 | 千川用水6

 「千川素堀筋普請所積見分」(安永9年 1780年)によれば、千川上水が長崎村、上板橋村境沿いを273間(≒491m)流れたところに、上板橋村字大谷口の石橋(「巾石四枚五尺六寸渡七尺」)が架かっていました。それから160年後の昭和15年(1940年)、武蔵高校の生徒が千川上水を調査した時にも、やはり同じような石橋がありました。「谷端川(長崎)分水口から六百米川に沿って下ると板橋町四丁目入口に至る。・・・・ここに架してある橋は、この附近によく見られる一枚石を四五枚川を跨いで並べたもので・・・・」 (武蔵高等学校報国団民族文化部門編「千川上水」) なお、「見分」当時はこの石橋から15間下流が上板橋村と下板橋宿の境でしたが、明治に入り石橋のところにシフト、結局、ここまでは左岸上板橋村、右岸長崎村、ここからは両岸とも板橋町となりました。

 

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    ・ 大谷口五差路  右手に向かう広い通りは、昭和初期の区画整理時にできた新道です。旧道は正面右手の狭い道ですぐに右折しますが、明治時代は長崎村と板橋町の境、現在は豊島区と板橋区の境です。

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    ・ 大谷口五差路  上掲写真の正面左手の通りが千川上水跡です。昭和15年当時、下流からの暗渠化工事がこのあたりまで及んでいたと、「千川上水」は冒頭の引用個所に続けて報告しています。
 <字境久保>  「新編武蔵風土記稿」では長崎村の字として収録されており、明治に入ると隣接する長崎村、板橋町双方にまたがる字となります。文字通り境にある窪地の意ですが、→ 「東京近傍図」の右上で、区境近くから発する水路が、この窪地にかかわるものでした。中丸村を流れる谷端川の支流で、地元では中丸川と通称されていたものについては、→ 「谷端川・小石川2 / 金井窪村境」以下で扱っています。

 

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    ・ 中丸川跡  その先端は大谷口五差路から百数十メートルのところにあり、これまでの例からしても、千川上水の助水、ないし漏水が水源となっていた可能性が考えられますが、確証はありません。