神田川 「まる歩き」 しちゃいます!!

ー神田川水系、支流はもちろん、旧水路、廃水路、全部 「まる歩き」ー

左岸流6

2016-12-31 07:08:14 | 桃園川3

 第六天神社から東中野駅の東口近くまで、地図からもそれと分る、狭くクネッた水路跡の路地が続きます。西側には区検通りが並行していて、左岸段丘上には区検通り、段丘下には水路跡の路地といった位置関係で、区検通りに突き当たって終了するまで、300mほどのウォーク&ウォッチです。なお、前回の→ 遺構にもある桐ケ谷ですが、豊多摩郡中野町当時の一帯の小字でした。氷川神社のある舌状台地の東側から神田川にかけての、現在の東中野1丁目に当たる区域です。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    ・ 「昭和22年米軍撮影の空中写真」  上掲地図のグレー枠の部分です。同一個所に同一番号を振っています。

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    1. 行く先に結婚式場跡地の再開発で建てられた二つの高層ビルが見えてきました。

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    2. 路地はここで終了、階段を上ると区検通りです。水路としては不自然な終了の仕方ですが、その経緯は項を改めます。

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    3. JR線をガードで越える区検通りで、左手台上には東中野駅があります。かっては段丘下に通りやガードはなく、水路のみが流れていました。

 <柏木駅>  甲武鉄道柏木駅の開業は明治39年(1906年)、すぐに国有化されたため国鉄の駅となります。駅名の柏木は神田川の右岸にあった村の名で、開業当時は豊多摩郡淀橋町の大字ですが、駅自体は隣接しているとはいえ中野町にあり、大正6年(1917年)に東中野駅と改称します。開業、改称当時の駅舎は現在とは異なり、柏木停車場道(のち東中野停車場道)の→ 踏切の東側にありました。それが、関東大震災後の乗降客の急増に対応して昭和2年(1927年)に西側に移転、現行のように踏切ではなくガードで南北を連絡するようになったのは、第二次大戦の中断をはさんで戦後のことです。
 上掲「空中写真」はその途中経過を写したものになっていて、南北の連絡をガードで行えるように、段丘下にバイパス(踏切を閉鎖後は本線)を作っているところです。これまで追ってきた水路の先もその下に埋没しかかっているように見えます。結果、現在確認できるように、区検通りに突き当たって終了する形になったものと思われます。

 

左岸流5

2016-12-30 07:26:37 | 桃園川3

 第六天橋に戻り、左手に分岐した一流を追います。すぐに左カーブで北に向きを転じ、神田川本流と並行して北上します。ここからは神田川の左岸流というべきでしょうが、これまでの流れで、桃園川シリーズで扱います。なお、→ 「東京近傍図」にも描かれているように、神田川本流とこの水路の間は水田になっていました。当時は両者を行き来する灌漑用水路も、網の目のように張り巡らされていたようですが、現在は宅地が密集しその面影はありません。ただ、桃園川流域のような本格的な区画整理を経ておらず、現行の道路で当時の水路や農道と重なるものが多く見られるのが特徴です。

 

Sagan5

    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1. 前回の第六天橋先の分岐点まで戻り、左手の水路を追います。すぐに左カーブで北に向きを転じます。

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    2. 道路の左手を水路が並行していました。奥の茂みが橋の由来となった→ 第六天神社です。

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    3. 第六天神社の先に路地が顔をのぞかせています。

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    4. 付近に遺構が保存されている桐ケ谷橋は、おそらくここに架かっていたのでしょう。

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    5. 水路単独と思われる狭い路地は、区検通りの東側を300mにわたって並行しています。

左岸流4

2016-12-29 07:37:57 | 桃園川3

 区検通りを越えます。柏木駅(現東中野駅)へ至る通りなので、「豊多摩郡誌」では柏木停車場道と書かれていたものです。そこに第六天橋が架かっていました。例によって、当時そう呼ばれていたかは不明ですが、→ 「東京近傍図」にも描かれており、「豊多摩郡誌」では「構造石造 延長1.83間 幅員2.5間」、それが昭和8年(1933年)の「中野町誌」では「橋長6m 幅員26m 橋種鉄筋混凝土」と、だいぶ大きくなっていて、道路の拡張があったものと思われます。なお、左岸流は区検通りを越えてすぐ二手に分かれ、右手のものは小淀橋で本流と連絡していました。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    ・ 「陸地測量部発行の1/10000地形図(昭和3年第三回修正) / 中野」と「同 / 新井」を合成したもので、上掲地図と同一場所、同一縮尺です。

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    1. 氷川神社の先です。通りの左手を並行、左右に緩やかに蛇行しながら東に向かいます。

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    2. 区検通りを越えます。ここに第六天橋が架かっていました。付近にある第六天神社がその名の由来です。

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    3. 越えてすぐ左右に分かれますが、右折して本流と連絡するほうを追います。

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    4. ここからは通りの右手を並行します。70mほどで大久保通りを越えます。

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    5. 小淀橋で本流と連絡します。小淀橋からのショットは→ こちらでどうぞ。

左岸流3

2016-12-28 07:52:02 | 桃園川3

 山手通りを越えます。山手通りが開通する以前の古道には宮坂橋が架かっていました。「豊多摩郡誌」には本流に架かっていた宮前橋(のち宮下橋)と同様、「水流及び所在地」は「善福寺分流、埼玉道」となっていて、本流と左岸流は同じ扱いでした。それが区画整理後の「中野町誌」では、本流の方はかわらず「善福寺分流」ですが、左岸流は「用水路」となり、さらに中野区役所土木課の橋梁表では本流は「桃園川」、左岸流は「在来下水」とはっきり区分されています。なお、「豊多摩郡誌」では「構造木造」ですが、「中野町誌」では「橋種石橋」にかわっています。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1. 前回最後の左カーブを抜けた先です。変わらず段丘の際にありますが、やや北に向きを転じます。

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    2. 山手通りを越えます。宮坂橋のあったのは通りの西側、左写真のあたりです。

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    3. 氷川神社参道前には参宮橋が架かっていました。「参宮橋 橋長2.35m 幅員8.8m 橋種混凝土 河川名谷戸川」(「中野町誌」) 

 <氷川神社>  山手通りを越えてすぐ、左岸段丘上には中野村鎮守だった→ 氷川神社があります。「氷川社 除地、一町二段八歩、村の中央よりは東南の方によりてあり」(「新編武蔵風土記稿」) 同書は「鎮座の年代詳ならず」としていますが、長元3年(1030年)、源頼信が平忠常討伐の際に武蔵一の宮である大宮氷川神社から勧請、との伝承があります。その後、応永年間(1394~1428年)には社殿を改築、また、この地域の氷川神社の例にもれず、太田道灌が豊島氏との戦を前に戦勝を祈願し、凱旋後に社殿を造営したともいわれています。なお、境内には安永6年(1777年)建立の→ 石橋供養塔があり、その裏面には「氷川山下架石橋」の文字が見て取れます。あるいは、上記の参宮橋にかかわるものでしょうか。

 


左岸流2

2016-12-27 08:24:41 | 桃園川3

 高根橋で中断していた左岸流に戻り、そのウォーク&ウォッチを再開します。区画整理時の付替えによって、谷戸の支流の流末となった左岸流は、氷川神社のある舌状台地を迂回し、現小淀橋で本流に合流する一流を分岐、余水は舌状台地の東側を北上します。この部分は神田川本流の左岸流と呼ぶべきかもしれません。→ 「東京近傍図」やその後の地形図では、現東中野駅の東側で中央線を越えたところまでですが、→ 「中野村絵図」や明治44年(1911年)に逓信協会が発行した詳細図(「郵便地図」)などでは、早稲田通りを越え小滝橋の下流にある中野村と落合村の村境(「東京近傍図」のオレンジで書き込んだ中野区と新宿区の区境)まで達しています。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    ・ 「陸地測量部発行の1/10000地形図(昭和3年第三回修正) / 中野」と「同 / 新井」を合成したもので、上掲地図と同一場所、同一縮尺です。

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    1. 左岸流と谷戸の支流の合流地点で、高根橋が架かっていました。ここから合流後の左岸流を追います。

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    2. 左岸段丘の際を蛇行しながら東に向かいます。

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    3. 現行の住居表示ではこの道路が、右手中野(1丁目)、左手東中野(2丁目)の境となっています。

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    4. 左カーブで舌状台地の先端を回り込みます。左手の建物は一段高いところにあり、段丘の際であるのがわかります。

末広橋

2016-12-26 08:54:32 | 桃園川3

 桃園川は最後に左カーブで神田川に合流します。その合流地点で、両川を跨いで架かっているのが末広橋です。昭和初期の区画整理では、神田川手前で中断していた大久保通り(当時は宮園通り)ですが、その後の神田川改修に伴い、新宿区(当時は淀橋区)に直行するようになり、その際末広橋が架けられました。名前は当時の形状から付けられたのでしょうが、桃園川が暗渠となった今は、特に末広というわけではありません。

 

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    ・ 「昭和22年米軍撮影の空中写真」  桃園川に跨る部分が広がっていて、確かに末広の扇型になっています。 

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    ・ 桃園川緑道  地下の桃園川はこのまま直進、大久保通りを越えますが、地上の緑道は大久保通り手前で右カーブして終了です。 

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    ・ 桃園川緑道  その終点にある小広場で、正面奥が末広橋、左下は「神田川」の歌碑です。ただ、同歌の神田川のイメージは、高田馬場や早稲田界隈のようですが。

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    ・ 合流地点  末広橋下流から振り返ってのショットです。奥には西新宿の高層ビル群も写っています。

戸井橋・小淀橋

2016-12-24 07:49:43 | 桃園川3

 山手通りを越えて二つ目の橋が戸井橋です。橋名の由来や江戸時代もそう呼ばれていたかはよくわかりませんが、→ 「東京近傍図」にも描かれた古い橋で、現在は「区検通り」と呼ばれる通りに架かっています。大正5年(1916年)の「豊多摩郡誌」では、通りの名前は「柏木停車場道」となっていて、現東中野駅は明治39年(1906年)に柏木駅として開業、東中野駅となったのは大正6年のことです。一方、小淀橋は戸井橋から二つ目の橋ですが、こちらは比較的新しく、区画整理後の昭和12年(1937年)の中野区役所土木課の橋梁表にもありません。

 

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    ・ 戸井橋  区検通りを左手に行くと、東中野駅の東口に出ます。通りは神田川の左岸段丘沿いにあっ て、その左岸流と並行しており、数回後により詳しく扱うことになります。

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    ・ 小淀橋  戸井橋から二つ目の橋です。小淀は江戸時代からの小名で、豊多摩郡中野町の小字、さらには、昭和7年(1932年)成立の中野区の町名に引き継がれました。 

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    ・ 小淀橋  左岸方向のショットです。氷川神社のある舌状台地を廻る左岸流は、ここで本流に戻っていました。ただ、桃園川の流路はやや北寄りにあったので、合流地点も数メートルはズレていました。

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    ・ 桃園川緑道  小淀橋の先で桃園川緑道は左にカーブしながら坂を下ります。坂下で右手からの流れ(神田川の左岸流)と合流していましたが、その詳細は→ 「上流編(神田川4) / 小淀3」でどうぞ。  

中野塔

2016-12-22 07:57:57 | 桃園川3

 「三重塔 当寺(宝仙寺)より二町ほど東の方御朱印地の内にあり、三間半四面、高さ五丈三尺、五智如来の木造を安す」(「新編武蔵風土記稿」) 寛永年間(1624~43年)に民間の寄進によって建立されたもので、塔内には施主、飯塚夫妻の木像が安置されていました。建立後板葺から瓦葺、石盤葺に改められるなど、数度の改修を経て昭和20年(1945年)まで現存していましたが、空襲によって全焼してしまいました。

 

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    ・ 中野塔  左は「迅速測図」の挿絵に描かれた中野塔、右は「江戸名所図会 / 中野塔」です。宝仙寺境内にある平成4年建立の三重塔は→ こちらです。

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    ・ 桃園川緑道  塔山小学校前を過ぎたところです。左手に「江戸名所図会 / 中野塔」の挿絵の上半分を描いた絵タイルが展示されています。 

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    ・ 三重塔記念碑  山手通りから道一つ東側にある中野十中キャンパスの一角です。かっては三重塔が建ち、その周辺は公園として整備されていました。

 <中野七塔>  以下は「江戸名所図会」の引用です。「中野七塔 今其所在をしるべからず、或人云う、三所ばかりはしれてありとぞ、里諺に、中野長者昌蓮仏に供養の為、高田より大窪迄の間に、百八員の塚を築くと云伝ふ。こゝに七塔といへるも其類のものならん歟。又中野の通りの右側叢林の中に三層の塔あり、七塔の一ならんか。伝へ云。中野長者鈴木九郎正蓮が建る所にして、・・・・中に長者鈴木氏夫婦の肖像と称するものを安ぜり。」 最後は当時の伝承からの誤解で、冒頭で触れたように施主は飯塚氏、安置されていたのは飯塚夫妻の木像です。

 


山手通り

2016-12-21 08:41:00 | 桃園川3

 塔の下橋から60mほどで山手通りです。山手通り(環状6号線)は昭和2年(1927年)、東京市による「大東京道路網計画」の一環として企画され、昭和10年代には一部完成していますが、第二次大戦の中断を挟んだため、開通するのは戦後になってからです。この付近は→ 「東京近傍図」にも描かれた古道と重なっていて、山手通り開通前から橋も架かっていました。「豊多摩郡誌」(大正5年 1916年)のいう「宮前橋 構造石造 延長2間 幅員1.32間」がそれで、「中野町誌」(昭和8年 1933年)では「宮下橋 橋長7m 幅員6.4m 橋種木製」となっています。宮前にしろ宮下にしろ、左岸段丘にある氷川神社にちなんだネーミングです。

 

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    ・ 塔の下橋  「桃園川幹線水位状況」の→ 掲示板があり、「数字は、緑道の舗装面から測って、どのくらいのところに水面があるかを示しています」と書かれています。

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    ・ 宮下橋  左手は大久保通りとの宮下交差点で、大久保通りと桃園川緑道が、宮園橋でクロスしているところを除くと、最も接近しているところです。 

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    ・ 山手通り  中野坂上を背にしてのショットです。S字カーブで桃園川を越えており、これは元となった古道のコース取りをそのままなぞっています。

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    ・ 桃園川緑道  山手通りを越えた先で、桃園川緑道は再開します。右手は旧地名を冠する塔山小学校で、その塔山(塔の山)については次回のテーマとします。  

宝仙寺

2016-12-20 07:42:27 | 桃園川3

 「宝仙寺 境内一万五千五十二坪、往還の内小名中宿下宿の境にあり、明王山聖不動院と号す、・・・・伝へ云昔堀河院の御宇寛治年中鎮守府将軍源義家奥州の夷賊を征伐し、御利運ありしかば凱旋の後、当寺を建立し給ふと云、されど往古の事なれば其詳なる事をしらず」 「新編武蔵風土記稿」はさらに、同寺の縁起(「武州多磨郡中野明王山聖無動院宝仙寺縁起」)を引用しています。それによると、父頼義ゆかりの「阿左谷」に、不動明王安置のための一寺を建立したのが最初だそうです。当地に移転したのは永享元年(1429年)、「杉並風土記(中)」(森泰樹 昭和62年)によると、その際阿佐ヶ谷には世尊院が末寺として残されたとの伝承もあります。

 

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    ・ 「江戸名所図会 / 中野宝仙寺」  「当寺に享保十四年交趾国(こうちこく ベトナム)より貢献するところの馴象の枯骨あり」

 この象は享保13年(1728年)に中国商人が将軍吉宗に献上するため、長崎に連れて来たものです。翌年長崎を出発、二ヶ月半かけて江戸に到着しました。途中、京都では参内して従四位下を与えられたそうです。将軍に謁見後は浜御殿で飼われていましたが、寛保元年(1741年)に払い下げられ、本郷村成願寺裏手(現中野区本町2丁目)の象小屋で飼育中死亡しました。「風土記稿」には宝仙寺に保存されていた頭骨と二本の牙の図が掲載されています。

 

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    ・ 宝仙寺境内  本堂は昭和20年(1945年)空襲によって焼失したため、戦後再建されました。手前の三重塔は、焼失した寛永13年(1636年)建立の三重塔を模して、平成4年に建てられました。

 <中野町役場跡>  上掲写真の左端に写っているのは「中野町役場跡碑」です。明治22年(1889年)に中野、本郷、本郷新田、雑色の各村が合併、東多摩郡中野村が成立、のち豊多摩郡中野村、さらに中野町と改称しますが、成立当時の役場業務は個人宅で行われていたようです。その後、業務の拡張に伴い宝仙寺境内に役場が設けられ、昭和11年(1936年)に、中野区役所が五叉路近くの中野郵便局のところに新築、移転するまで、当地が中野町(昭和7年に野方村と合併して中野区)の行政の中心となっていました。

 


宮前の水路2

2016-12-19 07:32:17 | 桃園川3

 塔の下橋付近で右岸から合流していた小支流を追っての二回目です。明治44年(1911年)に逓信協会が発行した詳細図(「郵便地図」)には、青梅街道から発し宝仙寺の東側を流れる水路が描かれています。合流地点は付替えられましたが、台地を流れ下る前半部分は現行の道路とも一致していて、青梅街道まで迷うことなくたどることが出来ます。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1. 段丘斜面を階段で上った先です。「郵便地図」では、水路は道路右手を並行しています。

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    2. ここから先は水路単独の路地となります。

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    3. 同じく「郵便地図」を見ると、この右手一帯は牧場でした。宝仙学園中・高キャンパスのあるところです。

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    4. 左折して南に向きを転じます。

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    5. 青梅街道に突き当たって終了です。街道沿いのはけ水路の機能を持っていたのでしょう。

宮前の水路

2016-12-17 07:33:44 | 桃園川3

 昨日扱った区画整理前の旧水路が、右岸にいったん膨れた後左カーブする付近で、小水路の合流がありました。→ 「東京近傍図」には描かれていませんが、等高線の凹凸から谷筋の合流があるのはわかります。明治末の「郵便地図」には描かれていますが、区画整理後のものを描いた地図は未確認なため、どこで本流に合流するよう付替えられたのか、よくわからないところです。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    ・ 「昭和22年米軍撮影の空中写真」  上掲地図のグレー枠の部分です。同一個所に同一番号を振っています。

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    1. 塔の下橋から南に100m弱のところです。改修以前はこのあたりで合流していました。

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    2. 正面に右岸段丘の崖面が見えます。突き当たって左折です。

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    3. 段丘に沿って東に向かいます。段丘斜面の茂みは塔の山公園のものです。

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    4. 右折して段丘斜面を上ります。

宮前2

2016-12-16 07:59:14 | 桃園川3

 中野地区の区画整理事業では、桃園川の流路を大きく変えることはありませんでした。ただ、二か所の例外があり、うち高円寺との境から桃園橋にかけては、先行する高円寺の改修に合わせ、送電線沿いに直線化したためでした。もう一つは、→ 「東京近傍図」で氷川神社のある舌状台地を迂回するため、右岸寄りに蛇行していたところです。高円寺境の取り残された部分は排水路として整備されましたが、こちらはすべて埋立てられたためその痕跡をたどることはできません。

 

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    ・ 「陸地測量部発行の1/10000地形図(昭和3年第三回修正) / 中野」  区画整理直前の「大正10年第二回修正」は→ こちらです。 

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    ・ 宝仙橋  元々はこのまま右手に膨らんでいたものを、左カーブするよう改修したところです。なお、宝仙橋は改修時の架橋で、右岸台上にある宝仙寺からのネーミングです。 

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    ・ 旧水路  上掲写真のワンブロック奥で、改修以前の水路のあったあたりです。本来の宮前はここから下流の字でした。  

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    ・ 塔の下橋  山手通りの一つ手前に架かるこの橋付近から、改修前後の流路は再び重なります。この橋も改修時の架橋で、塔の山の下にある橋の意ですが、塔の山については数回後のテーマとします。 

宮前

2016-12-15 07:19:07 | 桃園川3

 慈眼堂橋まで戻り、桃園川緑道を東に向かいます。間もなく宮前公園の前を通過しますが、宮前は豊多摩郡中野町の小字で、氷川神社の前の意でした。ただ、昭和の初めに新しい住居表示となった時に、元の宮前は塔ノ山町となり、その西隣りが宮前町となったために、氷川神社前という本来の意味が失われてしまいました。宮前公園も氷川神社からはだいぶ離れています。いずれにしても、この宮前と杉並区境の桃園から、「宮園」という合成地名ができたことは、宮園橋や宮園通りの項で触れたところです。

 

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    ・ 「東京近傍図 / 板橋駅」(参謀本部測量局 明治14年測量)及び「同 / 内藤新宿」(明治13年測量)を合成、その一部を加工したもので、本来の縮尺は1/20000、パソコン上では1/12000ほどです。 

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    ・ 桃園川緑道  堀越学園前で蛇行する桃園川緑道です。馬橋や高円寺の区画整理と異なり、中野地区の桃園川の改修は旧水路の流路を大きく変えることはありませんでした。 

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    ・ 桃園川緑道  右手は宮前公園です。同公園は右岸段丘の起伏を利用して、石組で池や小流れを作り、桃園川緑道と一体になるよう整備されています。 

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    ・ 桃園川緑道  金剛橋から宝仙橋にかけての100mほどの直線コースです。奥に見えるフェンスは実践学園中・高キャンパスです。

中野駅

2016-12-14 07:16:43 | 桃園川3

 明治22年(1889年)、甲武鉄道(現JR中央線)の新宿・立川間が開通しますが、当時の駅は新宿、中野、境(現武蔵境)、国分寺、立川の5駅のみでした。開業当時の中野駅は現在地よりも100mほど高円寺寄りにあり、出口も桃園通りに面した南口だけでした。それが関東大震災後の急激な都市化によって、乗降客も急増したため、昭和4年(1929年)、現在地に駅舎を移転して北口を設け、それに伴い高架下を南北に貫く中野通りも開設されました。

 

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    ・ 「昭和4年第三回修正 / 新井」  → 「明治42年測図」と比べると、中野通りの開通など駅周辺の整備は進んでいますが、駅の移転は完了していません。

 → 「段彩陰影図」を見ると、中野通りは谷筋にあるように見えます。これは踏切を避けるため切り通した結果で、中野区のホームページから入る「なかのにぎわいWEB」内「中野の歴史」に書かれたデータによると、南口は東西130m、南北150m、深さ4mほどが掘り下げられました。「昭和4年第三回修正」には、その切通しの跡が南口広場と中野通りを囲む崖面として描かれています。

 

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    ・ 中野駅南口  南口ロータリー越しの中野駅です。左手の建物の前が中野通りなので、昭和初めに移転して以来、駅舎は中野通りの東側にあります。 

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    ・ 中野駅北口  北口広場越しのサンプラザです。サンプラザの手前がサンモール商店街で、前回の水路の先端にあたり、現在もやや低くなっているのが分かります。 

 <「荻窪風土記」>  「荻窪風土記」(昭和62年 井伏鱒二)の中に、関東大震災直後、中央線沿いに立川まで歩く途中、中野駅近くで一泊する様子が描かれています。「中野駅まで行くと、駅のすぐ先の線路がブリッジになって、鉄橋だから這って渡るかどうかしなくては難しいように見えた。相当の高さのガードである。この場所は以前には踏切になっていたが、ちょっと前の道路工事で線路の下に広い道を通したので、踏切がガードに変じたわけだ。」 その後、「現在の中野駅附近の図面で言うと、丸井百貨店の正面入口から七、八メートルばかり西に寄ったところ」で野宿をしようとします。「震災直後の頃は、道を拡げるため傾斜のある薯畑の裾が削られて、六尺ぐらいの高さで赤土の崖になっていた。」