神田川 「まる歩き」 しちゃいます!!

ー神田川水系、支流はもちろん、旧水路、廃水路、全部 「まる歩き」ー

青山御掃除町2

2014-10-23 07:33:45 | 城西の堀川3

 「御掃除町 町内起立之儀・・・・青山大膳亮様上地之内御掃除之者三十人え大縄地二而被下置・・・・右組屋敷続ヲ以青山御掃除町と唱来候哉と奉存候」 「御掃除之者」は江戸城内御殿の掃除を主に担当、他に使い走り的な雑務も行いました。10俵1人扶持の最下層の御家人で、定員は百数十人から二百人ほどあり、これを三組に分けていました。江戸城内の雑事を担当する五役(他は御中間、御小人、御駕籠之者、黒鍬者)の一つです。なお、他にも御掃除町があり、小石川御掃除町は伝通院付の、渋谷御掃除町は芝御霊屋付の掃除役の給付地でした。

 

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    ・ 稲荷坂下先  稲荷坂下からこのあたりまでの右手が御掃除町で、左手には周防徳山藩毛利家の上屋敷がありました。

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    ・ 新坂下  上掲写真の突き当りを左折したところです。右手が新坂上り口、正面は明治に入りできた無名坂で、外苑東通りに上ります。

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    ・ 新坂  → 「明暦江戸大絵図」の左上隅の通りは行き止まりになっていますが、その先から青山通りに抜ける坂として、元禄12年(1699年)に開削されました。

 <青山>  「青山は、天正十九年(1591年)青山常陸介忠成が宅地に賜りし地なり。或云、青山忠成十万石の時は、今の青山の地一円に屋舗なり、その後忠俊幸成兄弟街道を隔て住す」 厚木街道(青山通り)以南に屋敷を構えた幸成の子、幸利が、冒頭の引用文や「明暦図」にある青山大膳(亮)で、この系統がのちに美濃郡上藩を領しました。「御府内備考」は続いて、家康の命により馬で乗り回した範囲を賜ったとの、内藤清成と同様のエピソードを紹介した後、最後にこうまとめています。「後年次第に上り地となりて、青山氏の上ヶ地といふべきを下略して、青山と呼しより、おのづから一ツの地名となり、・・・・今は広き地名と成り、その大略をいはヾ、南の方麻布今井龍土に続き、北は千駄ヶ谷恩田鮫ヶ橋に及び、東は赤坂にて、西は原宿上渋谷なり。」 現在は外苑東通りをもって青山と赤坂を分けており、当地は赤坂7、8丁目となっています。