神田川 「まる歩き」 しちゃいます!!

ー神田川水系、支流はもちろん、旧水路、廃水路、全部 「まる歩き」ー

三角池

2016-03-31 07:06:54 | 妙正寺川3

 「やまと今昔物語」(平成3年 大和地域センター)の中に、「三角池(現在の大和町三-26にあった)から流れる小川」との記述があります。→ 「段彩陰影図」の、早稲田通りの北から発する小谷筋にかかわるもので、「昭和11年測図(1/3000)」(日本地形社)には、先端に池を有する小川が描かれ、途中、蓮華寺からの小支流に連なる右岸流と合流しています。この池は下掲「昭和4年測図」にもおむすびの形で描かれており、三角池の名称と附合します。西隣りの蓮華寺の心字池よりは一回り小さいながら、同じ40m等高線にあることから、地下水脈を同じくする湧水池だったのでしょう。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    ・ 「陸地測量部発行の1/10000地形図(昭和4年測図) / 荻窪」  上掲地図と同一場所、同一縮尺です。

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    1. 前回最後の左折したところを、逆に右折した通りの先です。水路はこの通りからやや右手にズレ、重なる道路はありません。

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    2. 今は舗装に覆われましたが、数年前の→ 写真には、脇にコンクリート蓋が取り残されたように残っていました。 

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    3. 三角池のあったあたりです。右写真は右岸からのショットで、低地にあるのが分かります。

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    4. その先にもむき出しの側溝がありますが、現役とは思われません。 

上沼袋右岸

2016-03-30 08:42:54 | 妙正寺川3

 現蓮華寺境内の池からの流れは、「堀江家文書」中の→ 「沼袋村絵図」→ 「東京近傍図」では、本流に合流するのではなく、東に向い右岸流を形成しているように描かれています。現在確認できる一流もやはり東に向かっていますが、途中右手からの小支流を合わせ、川北橋手前で本流に戻っています。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1. 前回、右折したところに戻り、東に向かう分流を追います。左手に車止めでガードされた歩道があります。

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    2. 大和小学校の門の前で中断します。その先の痕跡の有無は立ち入りできず不明です。 

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    3. 大和小の先、下谷橋を通る道路を越えるところから再開です。この左手を並行していました。

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    4. 右手から小支流の合流があり、共に左折していました。その水源の三角池は次回のテーマです。

 <大場村と大和町>  江戸時代の上沼袋村の枝郷、大場村と現行の大和町(1~4丁目)の範囲はほぼ重なります。大場は「小田原衆所領役帳」に「中野内大場」とある古い地名で、中野区教育委員会「なかのの地名とその伝承」によれば、「広い地域」ないし「台地」の意があります。所沢道(早稲田通り)が中野を出て台上に差し掛かる、その一帯を広く指す地名だったのでしょう。明治に入り、野方村大字上沼袋の一部となり、行政区分からは消えますが、バス停に名の残る大場通りや妙正寺川の地域名、大場川として親しまれてきました。中野区発足間もない昭和9年(1934年)新たに制定され、今日の住居表示にも引き継がれた大和(やまと)町は、住民の大きな和をもって町づくりをしよう、との意を込めた創作ですが、字面や音読みの際の類似なども偶然でないように思えます。

 


蓮華寺池

2016-03-29 07:32:44 | 妙正寺川3

 下鷺宮右岸の用水が本流に戻っていた寿橋ですが、そのやや下流左手に大きな合流口が開いています。→ 「東京近傍図」の右下、区境近くに描かれた池から発する短い支流の合流地点で、「近傍図」とは違って本流に合流するよう、付替えられています。この小支流をさか上りますが、合流地点は大和小学校の敷地となってその痕跡は失われ、一方、水源近くは水路単独の遺構が残されています。なお、水源の池のある→ 泉光山蓮華寺山門は、中野区との区境の通りに面しています。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    ・ 「昭和22年米軍撮影の空中写真」  上掲地図のグレー枠の部分です。同一個所に同一番号を振っています。

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    1. 寿橋から下流方向で、右手奥が合流地点のある大和小学校です。同校は昭和15年(1940年)に開校しています。

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    2. 水路と道路が重なるのはここからで、すぐに右折です。東に向かう分流については次回のテーマです。

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    3. 左手に入る路地があります。細かく蛇行しながら斜面を上ります。 

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    4. 車止めの先はフェンスで遮られます。右写真は右岸からのショットで、狭い谷筋が分かります。

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    5. 蓮華寺境内横の水路跡ですが、立ち入りはできません。その先の水源の写真は→ こちらです。

上沼袋左岸3

2016-03-28 07:48:08 | 妙正寺川3

 美鳩橋下流で分岐した左岸流の三回目で、中野四中キャンパスの北縁をめぐり、宮下橋先で本流に戻るまでです。→ 「沼袋村絵図」を見ると、八幡社脇を通る通りを越えた先で本流に戻っています。これは現在の太陽橋の架かる古道で、川北橋や宮下橋の通りができる昭和の初めまでは、上沼袋(大場村)地域の主要道でした。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    ・ 「昭和22年米軍撮影の空中写真」  上掲地図のグレー枠の部分です。同一個所に同一番号を振っています。

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    1. 中野四中キャンパスの北縁を細かく蛇行しながら東に向かいます。

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    2. 宮下橋に向かう通りを越えます。現在はここが若宮(1~3丁目)と野方(1~5丁目)の境になっています。 

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    3. 大和幼稚園前の幅広道路です。幼稚園を過ぎたところで道幅が狭くなっています。

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    4. 道幅の狭くなったところで右折して、ワンブロックで妙正寺川本流に戻ります。

上沼袋左岸2

2016-03-26 07:12:21 | 妙正寺川3

 美鳩橋下流で左岸に分岐した用水を追っての二回目です。途中下谷橋に向かう通りの前後、左岸流が野方村当時の大字下鷺宮、上沼袋の境となっており、→ 「東京近傍図」にオレンジ細線で書き込んだところです。おそらく、かっての下鷺宮、上沼袋(大場)の村境を反映しているのでしょう。ただ、それも百数十メートルほどで、左右とも上沼袋となります。区制成立時は大和町に引き継がれましたが、現行の大和町は妙正寺川以南に限られ、小学校の名前が由来の若宮という創作地名が振り当てられています。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1. このあたりまでが左手下鷺宮、右手上沼袋の大字境でした。

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    2. 右折すると川北橋に出る通り(大和町中央通り)を越えます。川北も大字上沼袋の字でした。 

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    3. 2.の写真からも推測できますが、右手を並行する水路を含んで幅広になっています。

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    4. 太陽橋に出る通りを越えたところで、再び水路単独の狭い路地になります。

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    5. 中野四中キャンパスの北縁に沿います。同校が当地に開校したのは昭和24年(1949年)です。

上沼袋左岸

2016-03-25 06:37:32 | 妙正寺川3

 美鳩橋まで戻ります。前回のクールの最後は、下鷺宮橋で左岸に分岐し、若宮二丁目アパートの外周をめぐる用水が、本流に戻るところまででした。その際、ここで本流に戻る地勢上の必然性がないこと、すぐに新たな分岐もあり、意図的にそうしたとするなら、鷺宮、沼袋の村境で分けたのではと推測しました。→ 「沼袋村絵図」を見ると、村境を越えたところで左岸流の分岐を描いており、こうした推測の傍証となっています。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1. 美鳩橋下流60mほどのところで、左手に分岐するこの路地から始めます。

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    2. 左手から合流する道路は、下鷺宮橋で分岐した用水の延長上にあるものです。 

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    3. 段丘沿いらしく、細かな蛇行が繰り返されますが、このあたりは緩やかな右カーブです。

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    4. 右手に折れ、本流に向かう路地に車止めが付いています。なお、野方村当時、このあたりから左岸流が鷺宮、沼袋の境となっていました。

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    5. 下谷橋に向かう通りを越えます。下谷は野方村大字上沼袋の字でした。

上下沼袋村用水

2016-03-24 06:41:06 | 妙正寺川3

 「用水 西の方下鷺ノ宮村より来り、村内をふること三十町余にして、流末は東北の方にて片山村にいたる」(「新編武蔵風土記稿」 上沼袋村) 「川 無名の川なり、水元は井草村妙正寺池より出、北の方新井村界を流るゝこと十二町許にして、すえは片山村に達す、川幅二間、これを村内所々の水田に沃き、用水の助となせり」(同 下沼袋村) 前々回UPの→ 「東京近傍図」を見ると、現環七通りの手前で左岸に分岐した用水が、氷川神社のある舌状台地付近まで達して、主要な灌漑用水となっています。これに対して右岸は、上沼袋村からの用水が(薄いグリーンを重ねた)平和の森公園のある舌状台地手前で終了、そこに南から合流する小支流が周辺を灌漑しています。

 

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    ・ 「沼袋村絵図」  文化3年(1806年)の「沼袋村絵図」(首都大学東京蔵「堀江家文書」)を元にブルーの用水、薄いブルーの水田を中心にイラスト化したものです。オレンジ細線は上下沼袋村の境で、上沼袋の範囲が大場村から孤状に北東に向かい、氷川社に達しているのが分かります。

 やはり、上下沼袋村の境付近で分岐した左岸流がメインで、こちらは氷川神社のある台地をも回り込み、隣村江古田村にまで達しています。右岸流のほうは上沼袋村からのものは村境付近ですぐに終了、下流にはやはり小支流が合流していますが、その先端には溜池と思われる池が描かれ、流域は水田になっています。なお、阿佐ヶ谷村境近くの池を水源とする小支流が、右岸流を形成していますが、この様子は鷺宮のところでUPした→ 「東京近傍図」の右下隅にも描かれています。

 

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    ・  蓮華寺心字池  阿佐谷村境の水源池は泉光山蓮華寺の境内に現存します。同寺は万治元年(1658年)小石川関口に創建され、明治末に当地に移転しました。

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    ・  妙正寺川  環七通りに架かる新昭栄橋の手前です。このあたりに堰があり、左岸に用水を分岐していました。現在は環七地下調節池への取水施設が口をあけています。

上下沼袋村2

2016-03-23 06:46:53 | 妙正寺川3

 上沼袋村には大場村、下沼袋村には新橋村という枝郷がありました。「大場村は、古へ沼袋村の内にて正保の頃も猶村名をあらはさず、元禄の頃のものに始て、上沼袋村枝郷大場村とのせたり、されど大場の唱は古へよりのことにして『北条家人所領役帳』にも中野内大場と見えたれば、其頃は近村中野村の中に属せしや」「新橋村は、古へ沼袋村の内にて正保の頃も猶一村に立す、元禄のころに至り枝郷のことしるせり、その地は本村の南の方にて東は新井村に隣り、南は中野村に接し、西は大場村にて、北は則本村なり」(「新編武蔵風土記稿」)

 

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    ・  八幡神社  長い参道が特徴的で、「新編武蔵風土記稿」は大場村のところで、「拝殿をさること三十間許にして鳥居をたつ、両側に松杉の並木あり」と書いています。

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    ・  新橋  → 「東京近傍図」にも描かれた、早稲田通りから分かれ沼袋村を斜めに横切る古道に架かる橋で、新橋村の地名由来と考えられています。

 <上下沼袋境2>  明治に入り上沼袋村(のち野方村大字上沼袋)は旧大場村の範囲に限られました。明治初年の「東京府志料」は「此村里俗大場村トモ云 新編武蔵風土記ニ大場村ヲ此村ノ枝郷トナスハ誤リナルヘシ」としており、それ以前から上沼袋村=大場村となっていたのかもしれません。飛地も解消されたようで、同書は氷川神社や清谷寺など三寺をすべて、下沼袋村の項で記述しています。ところで、大正14年(1925年)、関東大震災後の宅地開発に対応して、左岸の野方村役場(2年後には野方駅も開業)に直行するため、上下沼袋の境に沿う通りが開設され、大場、新橋から大新横丁と名付けられました。前回、大新横丁が上下沼袋の境だと書きましたが、境のほうが先行していたわけです。

 

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    ・  大新横丁  開設当時、妙正寺川には沼栄橋(昭栄橋)が架けられ、その記念碑が手前に写っています。現在は直後の環七通りに架かる新昭栄橋が代替しています。

上下沼袋村

2016-03-22 07:06:07 | 妙正寺川3

 「上沼袋村は、郡の東北にあり、郷庄の唱を伝へず、当村開け初めし年代古き事なれば詳ならず、文明八年四月十三日太田道潅江戸より打て出、豊島平右衛門が平塚の城を取巻、城外を放火し、夫れより江古田、沼袋に馳向ひ合戦せしこと、『鎌倉大草紙』に見ゆ、されば文明の頃より己に此地名あり、・・・・村の広さ東西十五町南北九町、東は新井村に隣り、西は大場村につゞき、南は新橋村におよび、北は下鷺ノ宮村に接す」 「下沼袋村は、上沼袋村の東の方にあり、江戸日本橋より三里の行程なり、村の広さは東西十町、南北八町、東西より北に至るまで上沼袋村をめぐらし、南は中野村に接す」 

 

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    ・ 「東京近傍図 / 板橋駅」(参謀本部測量局 明治14年測量)の一部を加工したもので、本来の縮尺は1/20000、パソコン上では1/12000ほどです。オレンジ線は区境でほぼ中野区、細線は豊多摩郡村当時の村や大字などの境です。

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    ・  氷川神社  「小名大下前にあり、(下沼袋)村の鎮守なり」(「新編武蔵風土記稿」) 大きく蛇行する妙正寺川を左岸から望む段丘上にあり、創建は14世紀、南北朝時代と伝えられています。

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    ・  清谷寺  「新編武蔵風土記稿」は、下沼袋村の鎮守氷川神社、大場村の鎮守八幡神社とも、「上沼袋村清谷寺の持ちなり」としています。

 <上下沼袋境>  環七通りの左右を蛇行している通り(大新横丁)のラインが、左右に出入りはありますが、大雑把にいって上下沼袋の村境でした。もっとも、元々同じ沼袋村が二分されたものですから、上下鷺宮村の場合と同様(むしろそれ以上に)、飛び地が複雑に入り組んでいました。首都大学東京蔵の「堀江家文書」中、文化3年(1806年)の日付のある→ 「沼袋村絵図」を見ると、特に本村だった氷川神社や禅定院、実相院、清谷寺のある一帯(現沼袋駅周辺)はそうで、禅定院や清谷寺は上沼袋村、実相院は下沼袋村に属していました。「新編武蔵風土記稿」も禅定院、清谷寺は上沼袋村、実相院は下沼袋村の項で記述しています。なお、氷川神社に関しては「村絵図」が上沼袋村、「風土記稿」は下沼袋村と対応が割れています。

 


下鷺宮左岸3

2016-03-19 07:42:41 | 妙正寺川3

 下鷺橋下流から分岐し、若宮二丁目アパートの外周をめぐる用水の続きで、美鳩橋で本流に戻るまでです。ところで、→ 「段彩陰影図」を見ると、左岸の流域にはなお余地があり、ここで本流に戻る地勢上の必然性が感じられません。美鳩橋下流で新たな分岐もあり、意図的にそうしたのだとすると、一つ考えられるのは200mほど下流にあった、上下沼袋村との村境です。対岸の用水も村境で本流に戻っていることは、→ 「下鷺宮右岸4」ですでに扱いました。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    ・ 「昭和22年米軍撮影の空中写真」  上掲地図のグレー枠の部分です。同一個所に同一番号を振っています。

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    1. 鷺盛橋に向かう通りを越えたところです。この区間の右手はスーパーの敷地になっています。

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    2. 左右への細かい蛇行を繰り返しながら、おおむね東に向かいます。 

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    3. 右折して美鳩橋に向かいます。このまま直進し、次の用水と連絡する分流も考えられますが、はっきりしたことは分かりません。

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    4. 美鳩橋です。右写真は下流方向で、50mほど下流の左岸に、新たな用水の分岐があります。

下鷺宮左岸2

2016-03-18 07:09:07 | 妙正寺川3

 下鷺橋下流で左岸に分岐する用水をたどります。前半は都営住宅(若宮二丁目アパート)敷地の外周をめぐる幅広道路の一部になっていて、右カーブで孤を描きながら東に向かいます。途中、鷺盛橋で本流に戻っているように描く地図もあり、そのような分流の可能性も考えられますが、目下確認できる終点はさらに百数十メートル下流の美鳩橋です。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1. 下鷺橋下流の左岸の路地から始めます。すぐに突き当りを右折です。

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    2. 右折、左折のクランクで、若宮二丁目アパートの外周をめぐる幅広道路に出ます。 

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    3. 右カーブで大きく孤を描き、東に向きを変えます。

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    4. 4.から5.にかけての右手には、社会人野球でおなじみの鷺宮製作所があります。

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    5. 右写真は鷺盛橋方向のショットで、ここで本流に戻る分流もありました。

下鷺宮左岸

2016-03-17 08:00:58 | 妙正寺川3

 → 「下鷺宮村絵図」には、大きく右カーブして現若宮小北で本流に戻る左岸流以降、左岸には水路は描かれていません。この事情は→ 「東京近傍図」でも同じですが、一部の地図の記載や米軍撮影の「空中写真」などから、その存在は確認できます。ただ、「段彩陰影図」からも明らかなように、段丘が迫っているため規模は小さく、痕跡も遊歩道、車止め、コンクリート蓋などは一切なく、段丘沿いに蛇行する道路の一部として残されているにすぎません。

 

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    ・ 「段彩陰影図 / 妙正寺川3」(1/18000)  側流及び左右から合流する小支流は、実地に確認できるものをベースに、昭和初期から30年代までの地図や空中写真を参考にしました。オレンジ線は区境で上から練馬、中野、杉並区です。

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    ・ 妙正寺川  オリーブ橋から下流方向で、若宮小学校のある左岸段丘を右カーブで迂回するところです。この区間には左岸流の余地は全くありません。

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    ・ 妙正寺川  丸山橋から下流方向です。左岸段丘が徐々に低くなっています。なお丸山はその左岸段丘を指すのでしょうが、確かなところは不明です。

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    ・ 妙正寺川  下鷺橋から下流方向で、左カーブで東に向きを変えます。左岸段丘は後退し、ここで用水を分岐していました。なお、右手は白鷺一丁目第3アパート前の貯水池です。

下鷺宮右岸4

2016-03-16 06:49:45 | 妙正寺川3

 白鷺一丁目第3アパートの敷地を抜けると、住居表示が同じ中野区ながら大和町になります。大和(やまと)町は中野区発足間もない昭和9年(1934年)、住民の大きな和をもって町づくりをしよう、との意を込めた新作町名ですが、江戸時代の上沼袋村の枝郷、大場(だいば)と地域も字面もダブります。なお、野方村当時の大字下鷺宮と上沼袋の境は、現行とはややズレ、右岸流が本流に戻るところにありました。→ 「東京近傍図」にオレンジ点線で書き込んでいます。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1. 最寄りの橋名(美鳩橋)と同じ名前の、みはと公園の脇を抜ける水路跡の路地です。

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    2. このあたりから合流地点まで、右岸流が左手下鷺宮、右手上沼袋の大字境になっていました。 

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    3. 都営大和四丁目アパートを左手に見ながら東に向かいます。

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    4. 都営アパートの脇を抜け、西大和公園の横に来たところで左折します。

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    5. 寿橋手前で本流に戻ります。現在残されているのはここだけですが、本流に戻る分流はこの前後に多数あったようです。

下鷺宮右岸3

2016-03-15 06:32:49 | 妙正寺川3

 下鷺宮の右岸をめぐる用水の四回目です。都営白鷺一丁目第3アパート敷地の南縁に沿い、東に向かうところからです。同アパートの建て替えの際、幅広の道路の一部となって痕跡の大半は失われましたが、それでも敷地を抜ける直前に、かっての流路を想像できる一角が残されています。前回のと同様、昭和30年代の都営住宅建設の際、その敷地を迂回するよう付替えられた個所が、幅広道路から取り残されたところです。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1. 今は造成されましたが、かっての右岸段丘斜面は雑木林で、かなりワイルドな空間でした。→ 写真は10年ほど前のものです。

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    2. 幅広道路の右手に、今となっては意味不明な空間がありますが、昭和30年代に付替えられた水路跡です。 

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    3. 左折して幅広道路を越え、右折してその北側歩道に沿います。

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    4. 都営アパートの敷地を抜けると、車止め付きの路地が復活します。右写真は左手方向のショットで、奥に鷺盛橋が見えます。

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    5. 鷺盛橋です。ここまで追って来た水路をここで本流に戻している地図もあり、そのような分流もあったのでしょう。

白鷺一丁目第3アパート

2016-03-14 07:01:37 | 妙正寺川3

 下鷺宮の右岸を廻る灌漑用水の三回目で、都営住宅(白鷺一丁目第3アパート)の敷地まできました。高度経済成長のただ中、昭和34年(1959年)から39年にかけて建設され、平成19年から建て替え工事が行われた同アパートですが、最高階12階の中高層アパートへの建て替えによって、居住世帯数は600世帯と倍増するとともに、妙正寺川沿いに1haの→ 貯水池を確保することが出来ました。ただ、それに伴い敷地の南縁に沿っていた水路の痕跡が失われたのは残念です。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    ・ 「昭和38年国土地理院撮影の空中写真」  上掲地図のグレー枠の部分です。同一個所に同一番号を振っています。同一場所、同一縮尺の「昭和22年米軍撮影空中写真」は→ こちらです。

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    1. この通りは北から南に向かう直線ですが、水路は右手の公園から左手のアパート敷地に、斜めに横切っていました。

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    2. 昭和30年代のアパート建設時、その敷地を迂回するため、段丘沿いに付替えたところです。 

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    3. 左折、左折、最後に右折で段丘の裾をめぐり、東に向きを転じます。

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    4. 平成19年の建て替え直前の→ 写真では、この区画の水路跡はそのまま狭い通路になっています。