神田川 「まる歩き」 しちゃいます!!

ー神田川水系、支流はもちろん、旧水路、廃水路、全部 「まる歩き」ー

溜池3

2014-10-03 06:56:36 | 城西の堀川2

 溜池の終点は現特許庁前に設けられた堰でした。オーバーフロー構造の洗堰で、虎の門へと向かう水の落ちる音から、赤坂のどんどん、溜池のどんどんと通称されました。飯田橋駅前の船河原橋が、どんどん橋と呼ばれたのと同様です。明治に入り、このどんどんが撤去され溜池の干潟化が進行しますが、その詳細は項を改めます。なお、堰の設けられていた左岸には、江戸時代、日向延岡藩内藤家の上屋敷がありましたが、明治6年(1873年)に工学校(同10年工部大学校と改称、東大工学部の前身)が創立されます。その用地確保との関係で堰が撤去されたともいわれています。

 

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    ・ 「陸地測量部発行の1/10000地形図(明治42年測図) / 四谷」と「同 / 三田」の合成で、昨日UPの→ 「1/5000実測図」と同一個所、同一縮尺です。

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    ・ 外堀通り  特許庁前交差点からのショットで、堰のあったのは次の信号の左手です。なお、その先の外堀通りは左カーブしますが、元の外堀は直進した後左折していました。 

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    ・ 外堀通り  堰のあったところを葵坂上から見ています。葵が植えられていたことからそう呼ばれた葵坂は、虎の門外から溜池端への上り坂でしたが、明治に入り削られて坂の面影を失いました。

 <溜池の歴史2>  溜池は赤坂のどんどんによって堰き止められた人造池で、明治初年の「東京府志料」の数字でも、長さ792間(≒1440m)、幅25~107間(45.5~194m)の規模を有していました。それが明治8、9年頃から堰の石垣を2尺ほど取り除いて水を落としたため、昨日UPの「1/5000実測図」のように、干潟を流れる溝川となりました。干潟は宅地造成され、その一部四千坪余が溜池町となったのは明治21年のことです。さらに、東京市区改正事業により、明治末までに溜池の埋立て、造成は完了しました。上掲「明治42年測図」に描かれているのは、この際できた市電の通る現外堀通りと、その東側を並行する水路です。なお、現在の外堀通りの山王下交差点から溜池山王駅までの区画は、埋立てられた水路跡を含んで幅広になっています。