神田川 「まる歩き」 しちゃいます!!

ー神田川水系、支流はもちろん、旧水路、廃水路、全部 「まる歩き」ー

慈眼堂橋

2016-11-30 06:38:45 | 桃園川3

 → 「東京近傍図」を見ると、三味線橋の次に描かれているのは慈眼堂橋で、これも青梅街道から分岐した「薬師みち」に架かっています。宝仙寺横で青梅街道から分岐、左岸に渡ったあと左折、右折で北西に向かい、途中三味線橋からの道と合流します。大正5年発行の「豊多摩郡誌」では「新井道」となっていて、三味線橋経由の「谷戸道」に対し、こちらのほうが本線扱いで、現在の印象とは異なります。なお、同誌の橋梁リストでは「慈眼堂橋 水流及び所在地 善福寺分流、新井道(仲町) 構造石造 延長1.33間 幅員2間」となっています。

 

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    ・ 慈眼堂橋  昭和8年(1933年)の「中野町誌」では、「橋長5.76m 幅員5.45m 橋種木橋」となっていて、区画整理時、石橋から木橋に架け換えられました。

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    ・ 慈眼堂橋  右岸には二つの坂があり、どちらも青梅街道に出ますが、「東京近傍図」の描き方からは、左手のものがメインだったようです。 

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    ・ 慈眼寺  橋名の由来となったお寺で、天文13年(1544年)に橋の西方に創建、現在は鍋屋横丁交差点近くにあります。

 ところで、「豊多摩郡誌」の橋梁リストによると、同じ新井道にもう一つ、「榎戸橋」が架かっています。「水流及び所在地」は「善福寺分流、新井道(谷戸)」となっていて、谷戸は左岸の小字なので、左岸流に架かっている橋と思われます。注目は同じ「善福寺分流」としていることで、これまでの左岸流を「用水路」としていたのと違い、本流と同様の扱いになっていて、その「榎戸橋」付近から左岸流を描く、→ 「明治42年測図」の扱いとも軌を一にしています。

 


もみじ山

2016-11-29 06:34:54 | 桃園川3

 三味線橋に戻り左岸段丘を上ります。昨日の「三味線橋の由来」の解説プレートには、「新井薬師参詣のための『薬師みち』」とありましたが、現在は「もみじ山通り」と通称されています。坂の中腹から坂上にかけて、紅葉山公園や「なかのZERO」の愛称を持つ、もみじ山文化センターがあります。大正時代、紅葉が多く植えられたことから、「もみじ山」と呼ばれたのを今日に受け継いだネーミングです。

 

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    ・ もみじ山通り  次の信号が大久保通りですが、そのあたりを田用水が流れ、「千光橋」が架かっていました。ただ、田用水は区画整理で埋立てられ、昭和8年の「中野町誌」には該当する橋名はありません。 

 ところで、千光橋の千光ですが、豊多摩郡中野町当時の小字、千光前によっています。桃園川左岸、現もみじ山通りの西側一帯がそうで、東側の小字は谷戸、桃園川右岸は昨日書いたように上町でした。「豊多摩郡誌」によると、石神井橋の所在地は、「谷戸道(谷戸、千光前、上町)」なので、これらの小字が接する現三味線橋をこの石神井橋と、また「谷戸道(谷戸、千光前)」とある千光橋を左岸の田用水に架かる橋と推測したわけです。 

 

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    ・ もみじ山通り  左手が紅葉山公園、奥がもみじ山文化センターで、いつもお世話になっている中野区立中央図書館も、文化センターの地下にあります。 

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    ・ もみじ山文化センター  紅葉山公園越しのショットです。同公園の開園は昭和44年(1969年)、一方文化センター本館は平成になってから開館しました。 

三味線橋

2016-11-28 07:47:07 | 桃園川3

 区画整理以前は桃園橋の次の橋は三味線橋でした。青梅街道から新井薬師へと至る古道に架けられた橋で、→ 「中野村絵図」→ 「東京近傍図」でも桃園橋の次に描かれています。中野区の→ 解説プレートには「いつも近くで弾く三味線の音が聞こえてきたから」と、名前の由来が書かれていますが、江戸時代からの名前というわけではありません。大正5年(1916年)発行の「豊多摩郡誌」の橋梁リストに、三味線橋の名前はなく、おそらく、「石神井橋 水流及び所在地 善福寺分流、谷戸道(谷戸、千光前、上町)構造木造 延長3間 幅員1.5間」とあるのがそれです。

 

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    ・ 三味線橋  昭和8年(1933年)の「中野町誌」では、「橋長5m 幅員9.5m 橋種混凝土」となっていて、特に幅員が1.5間(≒2.7m)からだいぶ広くなっています。道の拡幅があったのでしょう。 

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    ・ 青梅街道方面  右岸段丘を上ると、500mほどで青梅街道に出ます。豊多摩郡中野町の時代、この坂の周辺の小字が上町でした。青梅街道沿いに発達した下宿、中宿、上宿のうち、上宿の名前を引き継いでいます。 

 <箱堰>  三味線橋の手前150mほどのところに、右カーブ、左カーブのクランクで、南にシフトするところがありますが、クランクの途中に架かる橋が箱堰橋です。橋自体は区画整理時に架けられた、これといって特筆すべきものではありませんが、注目は箱堰という橋名で、堰が設けられ農業用水が分岐していたことが容易に想像でき、現に「東京近傍図」には、三味線橋手前で左岸流の分岐が描かれています。なお、「豊多摩郡誌」の橋梁リストには、「千光橋 水流及び所在地 用水路、谷戸道(谷戸、千光前)構造石造 延長1間 幅員1.5間」があり、当時の小字に当てはめてると、三味線橋と同じ谷戸道にあって、箱堰から分岐した左岸流に架かる橋と思われます。

 

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    ・ 桃園川緑道  右カーブに差し掛かったところで、奥に箱堰橋が架かっています。かってはこのあたりに堰が設けられ、左岸流を分岐していたのでしょう。 

橋場

2016-11-26 07:24:53 | 桃園川3

 桃園橋に戻り、桃園川緑道を先に進みます。すぐに右カーブで再び東に向きを変え、そのまま350mほど直進です。ところで、→ 「東京近傍図」では、この直線区間で本流が途切れ、左岸流が連続して本流のように描かれています。「東京近傍図」のベースとなった「迅速測図」を見ると、丁度二葉の地図のつなぎ目に当たっていて、どうやらつなぎ間違えたようです。上下をずらして右岸流を連続させれば、→ 「中野村絵図」 などの描く本来の流路となります。

 

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    ・ 桃園川緑道  中野通りを越えた先で、桃園川緑道は右カーブで中野総合病院の横に出ますが、そこに架かっている橋が橋場橋です。 

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    ・ 桃園川緑道  右カーブを抜けた先の直線区間で、その間に北畑、上宮、御伊勢橋が架かっていますが、橋場橋と同様、区画整理時の架橋です。

 「中野の地名とその伝承」(昭和56年 中野区教育委員会)によると、桃園橋は将軍御成のたびに、専用の橋板に取り換えたのだそうです。その橋板を保管する場所が橋場と呼ばれ、いつしか地域の呼び名になったとか。そういえば、上野寛永寺前の忍川に架かる三橋は、一般用の橋とは別に御成橋が常設されていましたが、それだけの必要もスペースもない場合の、代替措置のようなものかもしれません。なお、地域名としての橋場は、「新編武蔵風土記稿」に中野村の小名として記載され、昭和42年(1967年)の新住居表示まで、橋場町として存続していました。

 

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    ・ 中野郵便局  左岸段丘が後退していて、広く水田だったところが宅地造成され、昭和11年(1936年)から昭和40年代まで、中野区役所がありました。

桃園

2016-11-25 07:15:43 | 桃園川3

 「桃園 享保の頃此辺の田畝に悉く桃樹を栽しめ給ひ、其頃台命によりて此地を桃園と呼ばせ給ひしよりといへり。今も弥生の頃紅白色をまじへて一時の奇観たり、此地に大将軍家御遊猟の時の御腰掛の地あり。又岡の前を流るゝ小川に架せる橋を石神橋と唱ふ。」(「江戸名所図会」) 「新編武蔵風土記稿」の記述はより詳細で、それを年表風に要約すると次のようになります。元禄8年(1695年)上地となり御囲設置、宝永6年(1709年)御囲廃止、享保年中(1716~35年)吉宗たびたび遊猟に訪れる、同20年(1735年)御立場設置、紅桃50株に白桃も交えて植樹、元文元年(1736年)松を植樹、麓よりの道開削、同3年(1738年)6万7千余坪に緋桃150株植樹、寛保3年(1743年)御立場の後ろに大名山を築く。このころが最盛期で、茶屋11軒が軒を並べ、庶民の行楽スポットとしてにぎわったそうです。

 

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    ・ 「中野村桃園図」  「新編武蔵風土記稿」に掲載されている挿絵です。→ 「江戸名所図会」のものに比べ、桃園川を望む全体像がよく分かります。

 画面右手に桃園川が流れ、桃園橋(「風土記稿」では石神井橋)も架かっています。青梅街道からの道は橋を越えてすぐ、小高い丘に差し掛かり上り坂になります。その一帯5~6万坪がかっての五之御囲、その後桃園となったところで、現在の中野マルイの裏手に当たります。もう一つの注目は桃園川の左右の水田の様子で、左岸により広がっているのがわかります。→ 「東京近傍図」にもあるように、桃園橋の架かる本流は右岸段丘近くにあり、水田は主に左岸に広がっているのと一致します。

 

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    ・ 桃園通り  中野五差路から入る通りはすぐに上りに差し掛かり、その坂を上りきったところです。なお、明治22年(1889年)に開設された中野駅は、この通りと現中野通りの間にあり、ここが駅前通りでした。 

 桃園のその後ですが、寛延4年(1751年)に吉宗が死去して後、安永(1772~80年)の初めころまではなおにぎわっていました。その頃増補版が刊行された「江戸砂子」(明和9年 1772年 菊岡沾涼)には、「中野のさきより方二、三里の間、田畑畝の間にみな桃を植たり。花のころは見わたし三里がほどは一色にして希有の眺望也。近年ことに江都より見物の遊客おほし」とあります。それが、「新編武蔵風土記稿」によると、同6年(1777年)に鶉の御場となり、一帯の雑木を伐採したため、桃の樹林も次第に衰えたようです。「風土記稿」は天保元年(1830年)の成立ですが、「今はたへだへになれりとぞ」と書いています。

 


桃園橋

2016-11-24 07:10:34 | 桃園川3

 大久保通りの先で左にカーブした桃園川緑道は、すぐに中野通りを越えます。そこには川名の由来ともなった桃園橋が架かっています。現在の橋は親柱に「昭和十一年二月完成」とあるので、同12年の中野区役所土木課の橋梁表の、「種別鋼鉄桁橋 面積100.80㎡ 河川名桃園川」と同一なのでしょう。これに対し、昭和8年発行の「中野町誌」には、「橋長5.5m 幅員4.65m 面積25.58㎡ 木橋」とあり、構造、面積を一変させています。この間に中野通りの拡幅にあわせ、桃園橋の架け換えがあったことになります。

 

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    ・ 桃園橋  中野通りとの間には高低差があり、階段で上り下りする構造になっています。通りの正式名称は都道420号線、この区間は→ 「東京近傍図」にも描かれた青梅街道から桃園へと至る古道と重なります。 

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    ・ 中野五差路  中野通りと大久保通りの交叉に、桃園に上る古道を加えての五差路で、写真左手の古道(現桃園通り)については、八代将軍吉宗の創設した桃園との絡みで次回詳細します。

 <石神井橋>  「その御立場(桃園御立場 → 「中野村絵図」 の左端のもの)のほとりの小流に石神井橋といふあり、長二間幅二間、先年御成の時しばしば渡御ありしゆへ、公より修理を命ぜらるゆへに、わづかなる橋なれどもこゝにのす」(「新編武蔵風土記稿」) 「江戸名所図会」の「桃園」の項では、「岡の前を流るゝ小川に架せる橋を石神橋と唱ふ」としています。この橋名から川自体、「明治の中頃までは、石神井川あるいは石神川と呼ばれ」と、これは桃園川緑道に掲示された中野区の解説プレートで、同区の公式ホームページでは「明治17年 石神井川と呼ばれる」とより具体的です。
 これに対し、現行の桃園橋の名前は、陸地測量部の「明治42年測図」に書き込まれ、大正5年発行の「豊多摩郡誌」では、「桃園橋 構造木造 延長3間 幅員1.5間」となっています。江戸時代の「長二間幅二間」と規模はかわらず、その間、大規模な道の拡幅も、川の改修もなかったのでしょう。なお、「豊多摩郡誌」では、桃園橋が架かる川の名前は善福寺分流とされていて、石神井川でも桃園川でもありません。区画整理後の昭和8年に発行された「中野町誌」でも善福寺分流、昭和12年の中野区役所土木課の橋梁表で、ようやく桃園川の名前が登場します。

 


右岸の水路3

2016-11-22 07:50:34 | 桃園川3

 西田橋手前で桃園川を横切った区境は、青梅街道に向かいます。この区境沿いには西町天神横から発する小支流があり、これまで追ってきた右岸流に合流していました。水源はよくわかりませんが、街道沿いを流れる雨水や生活排水を桃園川に落とす、悪水路として機能していたものと思われます。区画整理によって右岸流の一部が埋立てられた際、この小支流が合流したあとの水路は存続し、宮園橋下流の左カーブのところで、桃園川本流に合流するよう付替えられました。結果、前回は右岸流の一部として扱かった水車坂下の水路跡ですが、今回の小支流の下流部分となったわけです。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1. 水車坂の先です。通り抜けはできませんが、水路跡は断続的に残されています。

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    2. ここから先は水路跡と区境が重なります。右写真は振り返っての撮影で、右カーブで1.に向かう水路跡です。

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    3. コンクリート蓋の路地が青梅街道に向かいますが、途中でフェイドアウトして、通り抜けできません。

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    4. 青梅街道に出て回り込んだところですが、こちらからもこれ以上は戻れません。

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    5. 青梅街道に突き当たって終了します。左手は北野神社(西町天神)の境内です。

右岸の水路2

2016-11-21 06:44:37 | 桃園川3

 宮園橋の先で合流していた右岸流をさかのぼっての二回目で、庚申橋の先に向かいます。途中で向きを南から西に転じますが、その間の痕跡は途絶えます。復活するのは、中央西公園のある右岸段丘に沿ったところで、以後は断続的ながら迷うことなくたどることができます。なお、途中水車坂下を通りますが、明治から大正にかけて、近くに水車小屋があったため名付けられました。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    ・ 「陸地測量部発行の1/10000地形図(大正10年第二回修正) / 中野」 上掲地図と同一場所、同一縮尺です

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    1. 正面からの本流と左手からの右岸流が合流、ワンブロック右手にある庚申橋へと向かっていました。

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    2. 右岸段丘に沿う水路跡です。右写真は崖面上にある中央西公園からのショットです。 

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    3. 中央西公園下から離れます。水車小屋があったのはこの先です。 

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    4. 水車坂下を通ります。名前の由来となった水車については、その名称、規模など詳細は不明です。 

右岸の水路

2016-11-19 07:25:53 | 桃園川3

 昨日UPの最後の写真は大久保通りを越えた桃園川緑道ですが、その右手から合流する道路がありました。→ 「大正10年第二回修正」で、大きく左カーブする本流とその外側で弧を描く右岸流(兼水車の回し堀)があり、合流後しばらく右岸段丘沿いに流れ、桃園橋に向かいますが、この流路と重なる道路です。同測図には描かれていませんが、青梅街道から区境沿いに合流する小支流もあったため、区画整理の際、一部が排水路として存続することとなり、現在、断片的ながらその痕跡をたどることができるのは、この区画整理によって付替えられた後の水路です。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1. 大久保通りを越え左カーブする桃園川緑道ですが、その右手から合流する道路をさかのぼります。

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    2. 右岸段丘沿いに南に向かいます。左手の崖面上にある桃花小学校は、大正11年(1922年)桃園第三尋常小学校として開校しました。

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    3. 桃花小正門前の庚申橋の遺構です。その先には細長い空間が残されていますが、すぐにフェイドアウトします。

 <庚申橋>  庚申橋は「大正10年第二回修正」で、本流と右岸流(兼水車の回し堀)が合流した後、右岸段丘から離れる途中に架けられていた橋です。親柱に「大正十三年一月二十六日成」とあり、とすると区画整理事業着工前なので、桃園川本流に架けられたことになります。「中野町誌」(昭和8年 1933年)に、「橋長4m、幅員3.9m、橋種混凝土、河川名宮園川」とあるのに対し、昭和12年の中野区役所土木課の橋梁表では、「在来下水」に架かるとされているのは、改修後下水として付替えられた事情を反映しているものと思われます。
 なお、その名前から付近に庚申塔のあったことが推測できますが、以下は慈眼寺(中央3-33)境内の解説プレートの引用です。「 ここには、元禄三年(一九六〇)から寛保ニ年(一七四二)までのものが六基あります、このうち四基は、上宿(中央ニ丁目付近)、新町(本町六丁目)、西町(中央五丁目)の青梅街道の沿道にありましたが、道路拡張のため、桃園第三小学校の大ケヤキの根元に移設され、さらに、昭和三十年(一九五五)に当寺院の境内に安置されたものです。」

 


宮園橋

2016-11-18 07:23:56 | 桃園川3

 区境から300mほどのところで、桃園川緑道は大久保通りとクロスします。そこに架かっているのが宮園橋です。現存する橋の親柱には「昭和7年5月完成」とあり、「中野町誌」(昭和8年 1933年)の橋梁リストに、「橋長6.8m、幅員10.9m、橋種混凝土、河川名宮園川」と記載された橋が、80年を越える年月を経た今も健在なのだと分ります。ちなみに、橋名や川名となった宮園ですが、昭和6年の町名再編の際、区画整理後の大久保通り周辺が宮園通り(1~5丁目)となり、翌年の中野区の町名へと引き継がれたもので、通りの東端の旧字が宮前、西端が桃園であったことから、その合成地名として成立しました。なお、橋梁リストの河川名に採用された宮園川は、この時点でも旧来の善福寺分流と混在しており、昭和12年の中野区役所土木課の橋梁リストでは桃園川で統一されていて、使用されたのはごく短時間だったようです。

 

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    ・ 宮園橋  大久保通りを越えます。おそらく成立当時はこの通り自体も宮園通りだったのでしょう。宮園橋の親柱は→ こちらです。

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    ・ 大久保通り  ここで桃園川緑道の左岸にシフトした通りは、神田川との合流地点まで一貫して左岸を並行します。写真奥は中野五叉路で、宮園橋の先150mほどのところにあります。

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    ・ 桃園川緑道  宮園橋を越えてすぐ、左カーブするところです。ここで直行する送電線と離れます。なお、右手から合流する道路に注目で、次回以降のテーマです。 

 <大久保通り>  新宿区飯田橋交差点を起点に、新宿区、中野区を経由して杉並区高円寺で環七通りに接続するまで、延長8600mほどの都道の通称です。うち神楽坂上交差点から終点までは都道433号線に当たります。中野区内は区画整理事業によって新規に成立した道路で、杉並区内もその後の延長ですが、新宿区内の大部分は江戸時代、牛込、大久保等の武家屋敷を横切っていた道を明治以降、順次拡張整備していったものです。古道部分にはそれらしい蛇行が残され、交通のネックとなってところもあります。このように、成立過程をまったく異にする二つの道路が、昭和10年代始めには連結され、現在の大久保通りの形ができあがりました。

 


区画整理

2016-11-17 07:03:25 | 桃園川3

 中野地区の区画整理事業のうち、桃園川流域にかかわる中野町第一土地区画整理組合は大正14年(1925年)に設立されました。翌15年には着工し、昭和6年(1931年)までに換地登記を終了しています。昭和8年発行の「中野町誌」によると、「總經費金四拾壱萬圓を以て、本町北部なる善福寺支流に沿う、畑地及び田粗地十萬七千百五十坪の開拓を計畫、・・・・東は淀橋町、西は杉並町を境界として、幅員六間道路一千三百七間五分、外に幅員最小一間半乃至六間の路線、五百六十四間を完成し、之れに沿ふて宅地八萬四百七十一坪を開拓」とあります。ここで「善福寺支流」とあるのは桃園川のことで、新堀用水によって善福寺川の助水を得ていたためそう呼ばれ、大正5年の「豊多摩郡誌」では「善福寺分流」となっています。

 

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    ・ 「陸地測量部発行の1/10000地形図(昭和3年第三回修正) / 中野」  区画整理直前の「大正10年第二回修正」は→ こちらで、同一場所、同一縮尺です。

 西隣りの高円寺地区の区画整理が先行したため、上流に合わせたのでしょう、境界付近の流路は送電線沿いに改修しています。これに対し、桃園橋の手前からは送電線と離れ、旧水路と似たコース取りにしているのが分ります。その際、取り残された右岸沿いを大きく蛇行する旧水路は、一部右岸流として残されることになりますが、その詳細は項を改めてのこととします。それともう一つ、桃園川と並行する道路が新設されていて、「中野町誌」のいう「幅員六間道路」のことと思われます。のち、東西に伸長され、現在は大久保通りと呼ばれています。

 

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    ・ 西田橋  この橋の前後で桃園川緑道のデザインは一変、杉並区の石組を中心とした和風なデザインに対し、→ カラーブロックの洋風な感じになります。

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    ・ 桃園川緑道  遠近法の見本のようなショットで、この区間が区画整理時の開設なのが分かります。直線は大久保通りに架かる宮園橋まで続きます。

中野村用水

2016-11-16 06:02:39 | 桃園川3

 「用水には神田上水を用ゆ、是は田方十一町の所にかぎれり、残り二十丁余は所々の清水を用ゆ、旱損の時は上水も減し、自ら所々の清水涸るゝゆへ患少なからず」(「新編武蔵風土記稿」)引用文中に「所々の清水」とありますが、善福寺川からの助水を得る以前の桃園川、及び中野駅北側からのその支流が主要なものでした。なお、現在の中野のイメージからすると、神田川により多く依存していてもよさそうですが、旧中野村は青梅街道までなので、神田川といっても淀橋・小滝橋間に限られていました。以南の本郷、雑色村と合併、旧中野町が成立したのは明治30年(1897年)のことです。

 

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    ・ 「中野村絵図」  成立年代不詳の「中野村絵図」(首都大学東京蔵「堀江家文書」)を元に、ブルーの用水、薄いブルーの水田を中心にイラスト化したものです。

 「風土記稿」の完成から10年後の天保11年(1840年)、天保新堀用水が完成し、善福寺川の助水が桃園川を満たします。当時の水田面積は中野村全体で31町6反余、新堀用水関係が11町2反ほどで、面積自体は前後で変化していません。これは用水開削の目的が新田開発ではなく、既存の田圃の用水確保にあったためです。それでも、天保7、8年の旱魃時の収穫の落ち込みは回復しており、当初の目的は達しているといえます。

 

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    ・ 桃園川緑道  中野通りを越えるところです。この区間の中野通りは→ 「東京近傍図」にも描かれた青梅街道から桃園へと至る古道と重なり、桃園橋が架かっていました。

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    ・ 谷戸川  左岸から桃園川に合流する支流は、大正、昭和期には谷戸川とも呼ばれました。写真は中野駅北口裏に残るその水路跡の道路で、奥に中野サンプラザが見えます。

中野村

2016-11-15 06:00:56 | 桃園川3

 新クール、「支流編(桃園川3)」の開始と同時に、桃園川の流域は高円寺村から中野村に入ります。「中野村は、郡の東にあり、郷庄の唱をうしなふ、江戸日本橋より行程二里半、村名の起詳ならされど、此辺すべて武蔵野なればその中の村の意なるか、已に古くは上野・中野・下野共にありしが其後上下の名は失ひて中野のみ残りしなりと云」(「新編武蔵風土記稿」) 「小田原衆所領役帳」に「中野郷」「中野内阿佐ヶ谷」「中野内大場」など、一村を越えた広域地名だっとことをうかがわせる記述も見えます。

 

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    ・ 「東京近傍図 / 板橋駅」(参謀本部測量局 明治14年測量)及び「同 / 内藤新宿」(明治13年測量)を合成、その一部を加工したもので、本来の縮尺は1/20000、パソコン上では1/12000ほどです。オレンジ線は杉並、中野の区境です。 

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    ・ 氷川神社  桃園川を左岸から望む舌状台地の先端にあり、「新編武蔵風土記稿」に「東の方にあり、村の鎮守なり」と記載されています。

 <中野御囲>  上掲「近傍図」の左上隅には、長方形の区画が均等に並んでいます。「生類憐みの令」によって、10万頭ともいわれる野犬を収容した中野御囲(中野御用屋敷)の名残の区割りです。元禄8年(1695年)に16万坪で完成、その後拡張され、同10年作成の平面図によると、5万坪前後の5つのブロック(御囲)の合計が28万坪余、他の関連施設を合わせると30万坪近い敷地を有していました。あと、長方形の区画にはなっていませんが、中野駅の東南に当たる桃園川左岸段丘が「壱之御囲」、南西にあたる桃園川左岸段丘は「五之御囲」、また地図からは切れる西隣りの高円寺村まで「四之御囲」が設けられました

 

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    ・ 中野駅北口  サンプラザや区役所は「弐之御囲」、再開発なった西隣の警察学校跡地は「参之御囲」です。区役所前の記念碑は→ こちらです。

高円寺、中野村境

2016-11-14 07:00:28 | 桃園川2

 昨日UPの稲荷橋の次に桃園川に架かるのは東山谷橋です。西山谷、中山谷と続いた杉並村大字高円寺の小字のうち、東寄りにあるので東山谷ですが、その次の橋は一転して西田橋となり、事情を知らないと面喰います。間に高円寺と中野の村境(現在は杉並と中野の区境)があるため、中野から見て西にあるという意味で、一帯の旧字は江戸時代の中野村から明治に入って中野町大字中野になって以降も、一貫して西町でした。「西町 西の方高円寺村界を云」(「新編武蔵風土記稿」)

 

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    ・ 「陸地測量部発行の1/10000地形図(大正10年第二回修正) / 中野」 ほぼ中央を縦断している「━ ・ ━ 」線が当時の杉並村、中野町の境で、現在の区境と一致します。 

 中央を横切る送電線で分るので、改修後の桃園川の流路は特に加えていません。前回の堀之内新道や田中稲荷も描かれていますが、注目は杉並村と中野町の境で、一部桃園川の流路と重なっています。水路が書いてないところも、田圃の端と一致している下半分などは、右岸流があったことが予想され、現に明治44年に逓信協会が発行した、いわゆる「郵便地図」などではそうなっています。

 

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    ・ 桃園川緑道  区境は西田橋前で桃園川緑道を横切っていますが、右手の方は区境と道路が一致せず、建物の間を縫うように引かれています。 

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    ・ 区境の道路  上掲写真の左手から合流してくる道路です。細かく蛇行しながら弧を描いており、水路の面影を留めています。 

稲荷橋

2016-11-12 07:10:55 | 桃園川2

 天祖神社前から→ 「高円寺村絵図」に描かれた道づたいに、桃園川緑道に戻ります。現在は谷中下橋が架かっていますが、当時の橋名は不明です。次の稲荷橋は右岸にある田中稲荷がその名の由来で、同稲荷に関しては「新編武蔵風土記稿」が「村の東の方田の畔にあり、田中稲荷と称す」と書いていて、文字通り田の中に祀られた稲荷の意と解されています。

 

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    ・ 谷中下橋  谷中橋の次の橋です。谷中は前々回の谷筋にかかわる、杉並村(のち杉並町)大字高円寺当時の左岸の字でした。 

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    ・ 稲荷橋  中野駅から堀之内妙法寺に参詣するため、明治29年(1896年)に開設された、「堀之内新道」に架かっています。 

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    ・ 堀之内新道  妙法寺檀家総代をしていた一個人が私財を投じ、農道やあぜ道を整備、幅4間、延長2kmの新道として開通しました。 

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    ・ 田中稲荷  天祖神社の境外末社ですが、創建など詳細は分っていません。毎年初午の日には赤飯でおむすびを作り、豊作を祈願していたそうです。