神田川 「まる歩き」 しちゃいます!!

ー神田川水系、支流はもちろん、旧水路、廃水路、全部 「まる歩き」ー

中野、上落合村境

2017-01-06 07:43:02 | 桃園川3

 中野村と上落合村の村境(現中野区と新宿区の区境)は、ほとんどが早稲田通りと重なりますが、→ 「東京近傍図」にオレンジで書き込んだように、小滝橋の付近には多少の出入りがあります。これまで追ってきた水路は、早稲田通りを越えて村境を流れ、余水を小滝橋下流の神田川に落としていました。なお、この村境には→ 「妙正寺川5 / 上落合村用水6」で触れたように、北から妙正寺川の右岸流も流れ込んでいて、 二つの水系がまじりあっていました。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1. 前回の続きで右折して左岸段丘を離れたあと、左折して早稲田通りに向かう手前です。

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    2. 早稲田通りに向かう途中で右折、すぐに左折のクランクで若干東にシフトします。ただ、このクランクの個所は重なる道路はありません。

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    3. 早稲田通りを越えます。右写真は神田川方向で、正面奥が小滝橋です。

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    4. 落合中央公園の野球場に突き当たる手前で、右折して神田川に余水を落とします。ただ、右折後の重なる道路はなく、地図上で区境が確認できるだけです。

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    5. 小滝橋から下流方向で、神田川が左カーブしているあたりが中野、上落合村の境(中野、新宿の区境)です。

左岸流8

2017-01-05 07:06:31 | 桃園川3

 小滝台と呼ばれる左岸段丘斜面の中腹に、滝山稲荷が祀られています。ここには昭和30年(1965年)頃まで、小さな滝が流れ落ちていたといいます。「四季を通し水温は変わらず、落差は一メートル程、口径10センチメートル位の鉄管から流れ落ちる様はまさに『小さな滝』でした。落下する下には6畳程、深さ50センチメートル位の池があり鯉や鮒が放流され、また池の際には神楽殿、御輿蔵があるなど、格好の憩いの場所でした。」 「東中野今昔ものがたり」(2006年 岸恒夫)の一節です。小滝台の南側斜面は崖線を形成しており、かってはこのような湧水が随所からわき出て、段丘沿いに流れる水路に注いでいたものと思われます。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1. 中野三中の先、けやき公園前の水路跡の道路です。水路は道路の右手を並行していました。

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    2. マンションで見えなくなっていますが、この付近の左岸段丘は崖状になっていて、ミニ崖線の様相を呈しています。

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    3. 右折、左折のクランクで段丘下から離れます。直進すると30mほどで→ 滝山稲荷です。

 <中山御立場>  小滝台上には江戸時代、将軍の御立場があり、→ 「中野村絵図」にも描かれています。御立場とは将軍家の鷹狩場で、ここは二千百石の旗本、中山主馬の屋敷があったことから、中山御立場と呼ばれました。付近にある解説プレートには、中野村の名主だった堀江家に残された文書を元に、宝暦12年(1830年)3月、10代将軍家治の一日の行程が再現されています。「早朝、半蔵門を出発し、四ツ谷、淀橋を渡り青梅街道から御囲跡御立場に着き、雉狩り。青梅街道にもどり雑司谷道を通り、上落合の泰雲寺で食事を済ませ、中山御立場で再び雉狩り。その後、小滝橋を渡り、高田馬場、神楽坂から田安門へ帰城しています。」 うち御囲跡御立場は例の桃園の御立場のこと、泰雲寺は神田川と妙正寺川の合流地点にあったお寺です。
 なお、中山御立場のあったところは、明治の末頃、華州園と呼ばれる植物園になりました。1万5千坪ほどの敷地の中央には温室も設けられ、四季の草花を栽培、入場客に販売していました。「豊多摩郡誌」によると、ダリヤ栽培が有名だったようです。その華州園は大正4年(1915年)に新井薬師の近くに移転、跡地はやはり華州園の名前で、一区画数百坪から二、三千坪という大規模宅地として分譲されます。椎の古木の並木道の左右に、伯爵や陸軍大将のお屋敷の点在する高級住宅地でしたが、昭和20年(1945年)5月の空爆で焦土と化してしまいました。

 


左岸流7

2017-01-04 07:52:54 | 桃園川3

 ガードをくぐりJR中央線の北側に出ます。豊多摩郡中野町当時の小字小瀧、中野区成立後の小瀧町、現行の住居表示でいうと東中野5丁目がその流域に当たります。段丘沿いに北に向かうクネッた道路に水路も並行、これまでと同様、神田川本流との間を行き来する水路もありましたが、→ 「東京近傍図」やその後の地形図ではその一部しか描かれていません。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    ・ 「陸地測量部発行の1/10000地形図(昭和4年第三回修正) / 新井」  上掲地図と同一場所、同一縮尺です。

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    1. ガードの先は昭和10年(1935年)に都内初の専門結婚式場となった日本閣の跡地で、再開発されユニゾンスクエアと呼ばれる一角になっています。

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    2. ガードの前後の道路は水路と必ずしも一致しませんが、このあたりからほぼ重なります。右写真は神田川に架かる大東橋方向です。

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    3. ここから400mほどは、小滝台と呼ばれる左岸段丘の際を北に向かいます。

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    4. 中野第三中学校前で蛇行しているところです。上掲地図では水路はここまでですが、引き続き北上します。

左岸流6

2016-12-31 07:08:14 | 桃園川3

 第六天神社から東中野駅の東口近くまで、地図からもそれと分る、狭くクネッた水路跡の路地が続きます。西側には区検通りが並行していて、左岸段丘上には区検通り、段丘下には水路跡の路地といった位置関係で、区検通りに突き当たって終了するまで、300mほどのウォーク&ウォッチです。なお、前回の→ 遺構にもある桐ケ谷ですが、豊多摩郡中野町当時の一帯の小字でした。氷川神社のある舌状台地の東側から神田川にかけての、現在の東中野1丁目に当たる区域です。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    ・ 「昭和22年米軍撮影の空中写真」  上掲地図のグレー枠の部分です。同一個所に同一番号を振っています。

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    1. 行く先に結婚式場跡地の再開発で建てられた二つの高層ビルが見えてきました。

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    2. 路地はここで終了、階段を上ると区検通りです。水路としては不自然な終了の仕方ですが、その経緯は項を改めます。

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    3. JR線をガードで越える区検通りで、左手台上には東中野駅があります。かっては段丘下に通りやガードはなく、水路のみが流れていました。

 <柏木駅>  甲武鉄道柏木駅の開業は明治39年(1906年)、すぐに国有化されたため国鉄の駅となります。駅名の柏木は神田川の右岸にあった村の名で、開業当時は豊多摩郡淀橋町の大字ですが、駅自体は隣接しているとはいえ中野町にあり、大正6年(1917年)に東中野駅と改称します。開業、改称当時の駅舎は現在とは異なり、柏木停車場道(のち東中野停車場道)の→ 踏切の東側にありました。それが、関東大震災後の乗降客の急増に対応して昭和2年(1927年)に西側に移転、現行のように踏切ではなくガードで南北を連絡するようになったのは、第二次大戦の中断をはさんで戦後のことです。
 上掲「空中写真」はその途中経過を写したものになっていて、南北の連絡をガードで行えるように、段丘下にバイパス(踏切を閉鎖後は本線)を作っているところです。これまで追ってきた水路の先もその下に埋没しかかっているように見えます。結果、現在確認できるように、区検通りに突き当たって終了する形になったものと思われます。

 

左岸流5

2016-12-30 07:26:37 | 桃園川3

 第六天橋に戻り、左手に分岐した一流を追います。すぐに左カーブで北に向きを転じ、神田川本流と並行して北上します。ここからは神田川の左岸流というべきでしょうが、これまでの流れで、桃園川シリーズで扱います。なお、→ 「東京近傍図」にも描かれているように、神田川本流とこの水路の間は水田になっていました。当時は両者を行き来する灌漑用水路も、網の目のように張り巡らされていたようですが、現在は宅地が密集しその面影はありません。ただ、桃園川流域のような本格的な区画整理を経ておらず、現行の道路で当時の水路や農道と重なるものが多く見られるのが特徴です。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1. 前回の第六天橋先の分岐点まで戻り、左手の水路を追います。すぐに左カーブで北に向きを転じます。

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    2. 道路の左手を水路が並行していました。奥の茂みが橋の由来となった→ 第六天神社です。

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    3. 第六天神社の先に路地が顔をのぞかせています。

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    4. 付近に遺構が保存されている桐ケ谷橋は、おそらくここに架かっていたのでしょう。

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    5. 水路単独と思われる狭い路地は、区検通りの東側を300mにわたって並行しています。

左岸流4

2016-12-29 07:37:57 | 桃園川3

 区検通りを越えます。柏木駅(現東中野駅)へ至る通りなので、「豊多摩郡誌」では柏木停車場道と書かれていたものです。そこに第六天橋が架かっていました。例によって、当時そう呼ばれていたかは不明ですが、→ 「東京近傍図」にも描かれており、「豊多摩郡誌」では「構造石造 延長1.83間 幅員2.5間」、それが昭和8年(1933年)の「中野町誌」では「橋長6m 幅員26m 橋種鉄筋混凝土」と、だいぶ大きくなっていて、道路の拡張があったものと思われます。なお、左岸流は区検通りを越えてすぐ二手に分かれ、右手のものは小淀橋で本流と連絡していました。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    ・ 「陸地測量部発行の1/10000地形図(昭和3年第三回修正) / 中野」と「同 / 新井」を合成したもので、上掲地図と同一場所、同一縮尺です。

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    1. 氷川神社の先です。通りの左手を並行、左右に緩やかに蛇行しながら東に向かいます。

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    2. 区検通りを越えます。ここに第六天橋が架かっていました。付近にある第六天神社がその名の由来です。

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    3. 越えてすぐ左右に分かれますが、右折して本流と連絡するほうを追います。

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    4. ここからは通りの右手を並行します。70mほどで大久保通りを越えます。

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    5. 小淀橋で本流と連絡します。小淀橋からのショットは→ こちらでどうぞ。

左岸流3

2016-12-28 07:52:02 | 桃園川3

 山手通りを越えます。山手通りが開通する以前の古道には宮坂橋が架かっていました。「豊多摩郡誌」には本流に架かっていた宮前橋(のち宮下橋)と同様、「水流及び所在地」は「善福寺分流、埼玉道」となっていて、本流と左岸流は同じ扱いでした。それが区画整理後の「中野町誌」では、本流の方はかわらず「善福寺分流」ですが、左岸流は「用水路」となり、さらに中野区役所土木課の橋梁表では本流は「桃園川」、左岸流は「在来下水」とはっきり区分されています。なお、「豊多摩郡誌」では「構造木造」ですが、「中野町誌」では「橋種石橋」にかわっています。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1. 前回最後の左カーブを抜けた先です。変わらず段丘の際にありますが、やや北に向きを転じます。

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    2. 山手通りを越えます。宮坂橋のあったのは通りの西側、左写真のあたりです。

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    3. 氷川神社参道前には参宮橋が架かっていました。「参宮橋 橋長2.35m 幅員8.8m 橋種混凝土 河川名谷戸川」(「中野町誌」) 

 <氷川神社>  山手通りを越えてすぐ、左岸段丘上には中野村鎮守だった→ 氷川神社があります。「氷川社 除地、一町二段八歩、村の中央よりは東南の方によりてあり」(「新編武蔵風土記稿」) 同書は「鎮座の年代詳ならず」としていますが、長元3年(1030年)、源頼信が平忠常討伐の際に武蔵一の宮である大宮氷川神社から勧請、との伝承があります。その後、応永年間(1394~1428年)には社殿を改築、また、この地域の氷川神社の例にもれず、太田道灌が豊島氏との戦を前に戦勝を祈願し、凱旋後に社殿を造営したともいわれています。なお、境内には安永6年(1777年)建立の→ 石橋供養塔があり、その裏面には「氷川山下架石橋」の文字が見て取れます。あるいは、上記の参宮橋にかかわるものでしょうか。

 


左岸流2

2016-12-27 08:24:41 | 桃園川3

 高根橋で中断していた左岸流に戻り、そのウォーク&ウォッチを再開します。区画整理時の付替えによって、谷戸の支流の流末となった左岸流は、氷川神社のある舌状台地を迂回し、現小淀橋で本流に合流する一流を分岐、余水は舌状台地の東側を北上します。この部分は神田川本流の左岸流と呼ぶべきかもしれません。→ 「東京近傍図」やその後の地形図では、現東中野駅の東側で中央線を越えたところまでですが、→ 「中野村絵図」や明治44年(1911年)に逓信協会が発行した詳細図(「郵便地図」)などでは、早稲田通りを越え小滝橋の下流にある中野村と落合村の村境(「東京近傍図」のオレンジで書き込んだ中野区と新宿区の区境)まで達しています。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    ・ 「陸地測量部発行の1/10000地形図(昭和3年第三回修正) / 中野」と「同 / 新井」を合成したもので、上掲地図と同一場所、同一縮尺です。

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    1. 左岸流と谷戸の支流の合流地点で、高根橋が架かっていました。ここから合流後の左岸流を追います。

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    2. 左岸段丘の際を蛇行しながら東に向かいます。

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    3. 現行の住居表示ではこの道路が、右手中野(1丁目)、左手東中野(2丁目)の境となっています。

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    4. 左カーブで舌状台地の先端を回り込みます。左手の建物は一段高いところにあり、段丘の際であるのがわかります。

末広橋

2016-12-26 08:54:32 | 桃園川3

 桃園川は最後に左カーブで神田川に合流します。その合流地点で、両川を跨いで架かっているのが末広橋です。昭和初期の区画整理では、神田川手前で中断していた大久保通り(当時は宮園通り)ですが、その後の神田川改修に伴い、新宿区(当時は淀橋区)に直行するようになり、その際末広橋が架けられました。名前は当時の形状から付けられたのでしょうが、桃園川が暗渠となった今は、特に末広というわけではありません。

 

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    ・ 「昭和22年米軍撮影の空中写真」  桃園川に跨る部分が広がっていて、確かに末広の扇型になっています。 

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    ・ 桃園川緑道  地下の桃園川はこのまま直進、大久保通りを越えますが、地上の緑道は大久保通り手前で右カーブして終了です。 

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    ・ 桃園川緑道  その終点にある小広場で、正面奥が末広橋、左下は「神田川」の歌碑です。ただ、同歌の神田川のイメージは、高田馬場や早稲田界隈のようですが。

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    ・ 合流地点  末広橋下流から振り返ってのショットです。奥には西新宿の高層ビル群も写っています。

戸井橋・小淀橋

2016-12-24 07:49:43 | 桃園川3

 山手通りを越えて二つ目の橋が戸井橋です。橋名の由来や江戸時代もそう呼ばれていたかはよくわかりませんが、→ 「東京近傍図」にも描かれた古い橋で、現在は「区検通り」と呼ばれる通りに架かっています。大正5年(1916年)の「豊多摩郡誌」では、通りの名前は「柏木停車場道」となっていて、現東中野駅は明治39年(1906年)に柏木駅として開業、東中野駅となったのは大正6年のことです。一方、小淀橋は戸井橋から二つ目の橋ですが、こちらは比較的新しく、区画整理後の昭和12年(1937年)の中野区役所土木課の橋梁表にもありません。

 

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    ・ 戸井橋  区検通りを左手に行くと、東中野駅の東口に出ます。通りは神田川の左岸段丘沿いにあっ て、その左岸流と並行しており、数回後により詳しく扱うことになります。

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    ・ 小淀橋  戸井橋から二つ目の橋です。小淀は江戸時代からの小名で、豊多摩郡中野町の小字、さらには、昭和7年(1932年)成立の中野区の町名に引き継がれました。 

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    ・ 小淀橋  左岸方向のショットです。氷川神社のある舌状台地を廻る左岸流は、ここで本流に戻っていました。ただ、桃園川の流路はやや北寄りにあったので、合流地点も数メートルはズレていました。

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    ・ 桃園川緑道  小淀橋の先で桃園川緑道は左にカーブしながら坂を下ります。坂下で右手からの流れ(神田川の左岸流)と合流していましたが、その詳細は→ 「上流編(神田川4) / 小淀3」でどうぞ。  

中野塔

2016-12-22 07:57:57 | 桃園川3

 「三重塔 当寺(宝仙寺)より二町ほど東の方御朱印地の内にあり、三間半四面、高さ五丈三尺、五智如来の木造を安す」(「新編武蔵風土記稿」) 寛永年間(1624~43年)に民間の寄進によって建立されたもので、塔内には施主、飯塚夫妻の木像が安置されていました。建立後板葺から瓦葺、石盤葺に改められるなど、数度の改修を経て昭和20年(1945年)まで現存していましたが、空襲によって全焼してしまいました。

 

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    ・ 中野塔  左は「迅速測図」の挿絵に描かれた中野塔、右は「江戸名所図会 / 中野塔」です。宝仙寺境内にある平成4年建立の三重塔は→ こちらです。

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    ・ 桃園川緑道  塔山小学校前を過ぎたところです。左手に「江戸名所図会 / 中野塔」の挿絵の上半分を描いた絵タイルが展示されています。 

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    ・ 三重塔記念碑  山手通りから道一つ東側にある中野十中キャンパスの一角です。かっては三重塔が建ち、その周辺は公園として整備されていました。

 <中野七塔>  以下は「江戸名所図会」の引用です。「中野七塔 今其所在をしるべからず、或人云う、三所ばかりはしれてありとぞ、里諺に、中野長者昌蓮仏に供養の為、高田より大窪迄の間に、百八員の塚を築くと云伝ふ。こゝに七塔といへるも其類のものならん歟。又中野の通りの右側叢林の中に三層の塔あり、七塔の一ならんか。伝へ云。中野長者鈴木九郎正蓮が建る所にして、・・・・中に長者鈴木氏夫婦の肖像と称するものを安ぜり。」 最後は当時の伝承からの誤解で、冒頭で触れたように施主は飯塚氏、安置されていたのは飯塚夫妻の木像です。

 


山手通り

2016-12-21 08:41:00 | 桃園川3

 塔の下橋から60mほどで山手通りです。山手通り(環状6号線)は昭和2年(1927年)、東京市による「大東京道路網計画」の一環として企画され、昭和10年代には一部完成していますが、第二次大戦の中断を挟んだため、開通するのは戦後になってからです。この付近は→ 「東京近傍図」にも描かれた古道と重なっていて、山手通り開通前から橋も架かっていました。「豊多摩郡誌」(大正5年 1916年)のいう「宮前橋 構造石造 延長2間 幅員1.32間」がそれで、「中野町誌」(昭和8年 1933年)では「宮下橋 橋長7m 幅員6.4m 橋種木製」となっています。宮前にしろ宮下にしろ、左岸段丘にある氷川神社にちなんだネーミングです。

 

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    ・ 塔の下橋  「桃園川幹線水位状況」の→ 掲示板があり、「数字は、緑道の舗装面から測って、どのくらいのところに水面があるかを示しています」と書かれています。

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    ・ 宮下橋  左手は大久保通りとの宮下交差点で、大久保通りと桃園川緑道が、宮園橋でクロスしているところを除くと、最も接近しているところです。 

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    ・ 山手通り  中野坂上を背にしてのショットです。S字カーブで桃園川を越えており、これは元となった古道のコース取りをそのままなぞっています。

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    ・ 桃園川緑道  山手通りを越えた先で、桃園川緑道は再開します。右手は旧地名を冠する塔山小学校で、その塔山(塔の山)については次回のテーマとします。  

宝仙寺

2016-12-20 07:42:27 | 桃園川3

 「宝仙寺 境内一万五千五十二坪、往還の内小名中宿下宿の境にあり、明王山聖不動院と号す、・・・・伝へ云昔堀河院の御宇寛治年中鎮守府将軍源義家奥州の夷賊を征伐し、御利運ありしかば凱旋の後、当寺を建立し給ふと云、されど往古の事なれば其詳なる事をしらず」 「新編武蔵風土記稿」はさらに、同寺の縁起(「武州多磨郡中野明王山聖無動院宝仙寺縁起」)を引用しています。それによると、父頼義ゆかりの「阿左谷」に、不動明王安置のための一寺を建立したのが最初だそうです。当地に移転したのは永享元年(1429年)、「杉並風土記(中)」(森泰樹 昭和62年)によると、その際阿佐ヶ谷には世尊院が末寺として残されたとの伝承もあります。

 

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    ・ 「江戸名所図会 / 中野宝仙寺」  「当寺に享保十四年交趾国(こうちこく ベトナム)より貢献するところの馴象の枯骨あり」

 この象は享保13年(1728年)に中国商人が将軍吉宗に献上するため、長崎に連れて来たものです。翌年長崎を出発、二ヶ月半かけて江戸に到着しました。途中、京都では参内して従四位下を与えられたそうです。将軍に謁見後は浜御殿で飼われていましたが、寛保元年(1741年)に払い下げられ、本郷村成願寺裏手(現中野区本町2丁目)の象小屋で飼育中死亡しました。「風土記稿」には宝仙寺に保存されていた頭骨と二本の牙の図が掲載されています。

 

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    ・ 宝仙寺境内  本堂は昭和20年(1945年)空襲によって焼失したため、戦後再建されました。手前の三重塔は、焼失した寛永13年(1636年)建立の三重塔を模して、平成4年に建てられました。

 <中野町役場跡>  上掲写真の左端に写っているのは「中野町役場跡碑」です。明治22年(1889年)に中野、本郷、本郷新田、雑色の各村が合併、東多摩郡中野村が成立、のち豊多摩郡中野村、さらに中野町と改称しますが、成立当時の役場業務は個人宅で行われていたようです。その後、業務の拡張に伴い宝仙寺境内に役場が設けられ、昭和11年(1936年)に、中野区役所が五叉路近くの中野郵便局のところに新築、移転するまで、当地が中野町(昭和7年に野方村と合併して中野区)の行政の中心となっていました。

 


宮前の水路2

2016-12-19 07:32:17 | 桃園川3

 塔の下橋付近で右岸から合流していた小支流を追っての二回目です。明治44年(1911年)に逓信協会が発行した詳細図(「郵便地図」)には、青梅街道から発し宝仙寺の東側を流れる水路が描かれています。合流地点は付替えられましたが、台地を流れ下る前半部分は現行の道路とも一致していて、青梅街道まで迷うことなくたどることが出来ます。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1. 段丘斜面を階段で上った先です。「郵便地図」では、水路は道路右手を並行しています。

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    2. ここから先は水路単独の路地となります。

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    3. 同じく「郵便地図」を見ると、この右手一帯は牧場でした。宝仙学園中・高キャンパスのあるところです。

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    4. 左折して南に向きを転じます。

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    5. 青梅街道に突き当たって終了です。街道沿いのはけ水路の機能を持っていたのでしょう。

宮前の水路

2016-12-17 07:33:44 | 桃園川3

 昨日扱った区画整理前の旧水路が、右岸にいったん膨れた後左カーブする付近で、小水路の合流がありました。→ 「東京近傍図」には描かれていませんが、等高線の凹凸から谷筋の合流があるのはわかります。明治末の「郵便地図」には描かれていますが、区画整理後のものを描いた地図は未確認なため、どこで本流に合流するよう付替えられたのか、よくわからないところです。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    ・ 「昭和22年米軍撮影の空中写真」  上掲地図のグレー枠の部分です。同一個所に同一番号を振っています。

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    1. 塔の下橋から南に100m弱のところです。改修以前はこのあたりで合流していました。

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    2. 正面に右岸段丘の崖面が見えます。突き当たって左折です。

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    3. 段丘に沿って東に向かいます。段丘斜面の茂みは塔の山公園のものです。

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    4. 右折して段丘斜面を上ります。